全22件 (22件中 1-22件目)
1
近所のスーパーで須賀川産の蜂屋柿が段ボール箱に入れられて売られていました。約60個で千円でした。1個@20円弱です。今年はいつになく安価です。検索してみますと追熟とか陰干しののちに日なた干しなど美味しい干し柿をつくる方法を知ることができます。今年は干し柿をつくるべきかやめるべきか悩ましい方が多かったのではないかと思われます。、、、お米も郡山地域・須賀川地域は安全宣言が出されています。蜂屋柿をスーパーで購入してきて皮をむいて軒下に吊るしました。約1ヶ月間、太陽光にさらしておくと干し柿ができあがる予定です。食べ方は、やはり天ぷらにして食べるのが一番でしょうか。気のせいか今年は例年に比べて干し柿を家の軒下に吊るす家が少ないように感じます。 ※昨年の干し柿づくり・もの干しの竿に釣られた蜂屋柿 軒端の下でひなたぼっこよ・たのしみは軒端に並ぶ干し柿を 楽譜のように眺め見るとき
2011/11/30
コメント(2)
1枚の落ち葉にも、よく見ると実に味わい深い色合いがあります。この葉はクヌギの葉だろうか。クヌギは「国の木」この国は、古来、クヌギの木が多く自生していたのだろう。この木が多かったからクヌギと呼ばれたのかもしれません。広葉樹は黄葉から紅葉になるものまであります。黄葉したのちに落ち葉となって微生物の分解によって腐葉土になります。クヌギ(国の木)の葉が土になるわけだから国土と云うのか。1枚の葉からこの国の国土の命名まで考察されるとは、、、私が古事記を書き起こすと黄葉したクヌギの葉から始まる物語が生まれるかもしれません。古事記を書き起こしたときには既に国土はあったわけですから、物語を書きしるしたわけです。ならばこの時代に書き記す古事記物語があってもよいのかもしれませんね。ニュートンが1個のりんごの実が木から落ちるの見て「地球には引力がある」とのヒラメキを得たと云う。私は1枚のクヌギの落葉からこの国の古事記物語のヒラメキを得る。天から降る雨によって土は流されて田畑の土となる。田から採れたものをわが国では「たから」と呼んで、その年に収穫した一番りっぱな稲穂を神に奉納した。そのりっぱな稲穂は次の年の種となって品種改良されてきた。
2011/11/29
コメント(0)
27日(日)会津若松にて氣功講座開催です。自分で云うのもなんですが面白い講座になると思いますよ。講演のあと、具体的に実演をします。見えない氣をどんなものか確認する方法を知ることができます。よろしかったら、この機会に足を運んでみたらいかがでしょうか。会場は、古民家レストラン独鈷 会津若松市門田町御山村中372 TEL0242-27-8059
2011/11/26
コメント(2)
古事記は来年、編纂されて1300年ということです。ですから編纂されたのは712年(奈良時代)ということです。そこで古事記のことを調べてみました。古事記とは現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼(ひえだのあれ)が天武天皇の勅で誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上されました。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。712年(和銅5)とは、奈良時代、元明天皇が唐の長安(今のシーアン)にならって、現在の奈良市の西に平城京をつくる(710年)。「あをによし 奈良の都は さく花の にほふがごとく 今さかりなり」(万葉集)郡山市の歴史では天湯津彦命の10世孫であられる比止禰命(安積国造神社初代)は、第13代・成務天皇5年(135年)、勅命により安積(あさか)国造に任ぜられ、安芸国から当地、郡山にへ赴かれました。成務天皇5年(135年)9月、諸国に令して、行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まる。『日本書紀』によれば610年に朝鮮の僧曇徴が中国の製紙術を日本に伝えたと言われ、現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。万葉集 日本最古の歌集。全二十巻,四千五百十六首の歌が収録されている。成立の過程は不明。七世紀に柿本人麻呂らが集めた歌集を底本に,八世紀に大伴家持が個人的な歌集も加えて取り纏めたことは間違いないと思われるが,最終的にいつ,誰の手によって成立したものかはわからないままである。日本書紀 日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は奈良時代に成立した日本最初の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。日本最初の歴史書。日本紀とも。原名は「日本紀」説と「日本書」説が共に有る。古事記と比べれば日本書紀の文字と条理性が遥かに上で歴史書の性格が強い。解釈書に『釈日本紀』がある古今和歌集 『古今和歌集』は巻頭に仮名で書かれた仮名序と、巻末に真名序の二つの序文を持つが仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に選ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、 延喜5年(905年)4月18日に奏上された。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られる。撰者は紀貫之、紀友則(編纂途上で没)、壬生忠岑、凡河内躬恒の4人である。新古今和歌集 鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の勅命によって編まれた勅撰和歌集。古今和歌集以後の8勅撰和歌集、いわゆる「八代集」の最後を飾る。『古今集』を範として七代集を集大成する目的で編まれ、新興文学である連歌・今様に侵蝕されつつあった短歌の世界を典雅な空間に復帰させようとした歌集。古今以来の伝統を引き継ぎ、かつ独自の美世界を現出した。「万葉」「古今」と並んで三大歌風の一である「新古今調」を作り、和歌のみならず後世の連歌・俳諧・謡曲に大きな影響を残した。源氏物語 平安時代中期に成立した日本の京都を舞台とした長編物語、小説である。文献初出は長保3年(1001年)で、このころには相当な部分までが成立していたと思われる。紫式部の著した、通常54帖よりなるとされる。写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節[9]400字詰め原稿用紙で約2400枚[10]に及ぶおよそ500名余りの人物が登場し70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」[11][12]と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。枕草子 平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、鎌倉時代に書写されたと見られる現存最古の写本・前田本の蒔絵の箱には『清少納言枕草子』とある。古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称した。方丈記 鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた鎌倉時代の文学作品である。日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後に執筆された 吉田兼好の『徒然草』、清少納言の『枕草子』とあわせて日本三大随筆とも呼ばれる。鴨長明が晩年、日野山に方丈(一丈四方)の庵を結んだことから「方丈記」と名づけた。末尾に「干時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」とあることから、1212年(建暦2年)に記されたとされる。徒然草 吉田兼好(兼好法師)が書いたとされる随筆。清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとする説が主流であるが、数多くの説があり定説はない。中年期の兼好が著したことになるが、若い時代に書いた文章も含まれているという説もある。 兼好が書いたとする明確な証拠は何一つない。序段を含めて244段から成る。文体は和漢混淆文と、仮名文字が中心の和文が混在している。序段には「つれづれなるままに」書いたと述べ、その後の各段では、兼好の思索や雑感、逸話を長短様々、順不同に語り、隠者文学の一に位置づけられる。兼好が歌人、古典学者、能書家などであったことを反映し、内容は多岐にわたり、また、兼好が仁和寺がある双が丘(ならびがおか)に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。おくのほそ道 元禄時代に活動した俳人松尾芭蕉による紀行文集。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして…」という序文により始まる。作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。読み易い文庫判は、岩波文庫、角川ソフィア文庫、講談社学術文庫がある。
2011/11/25
コメント(0)
24日早朝、地震の揺れによって目を覚ましました。目が覚める揺れは、私の場合は決まって震度3以上ですね。ねぼけまなこですがずいぶん長い揺れが続くな~と思いながらもそれ以上の大きく揺れることなく収束してくれました。震源地は震度4、私の住む郡山では震度3でした。(午前4時24分)大きな地震があると複数回、大きな余震がおこったのだが今回は夕方、北海道・浦河で震度5の揺れがありました。アバウトですが大きな地震が起きるスパンは約1ヶ月位あるようだ。ということは次はクリスマス前後と云う事になる。千年に一度級の大きな地震が起こると、その地殻変動の余波は1~3年位に及ぶと云われています。あの地震を引き金となって関東、東南海地震へと地殻のひずみが及ぶかもしれない。また火山活動も活発化するとも云われている。福島県ではここしばらく一切経山の噴気孔から煙が立ち上っています。貞観地震の時は数年後には富士山が爆発したといわれています。いずれにしましても転変地異をふくめた天災が起こる確率が高いと云うわけです。
2011/11/25
コメント(0)
会津若松市にて古民家レストランを経営する独鈷さんのところで「言の葉展」を開催することになりました。最初にお会いしたのは武蔵嵐山師帥塾でした。そのときも「言の葉のポスター」を配布しておりましたから、縁があったのでしょうね。初めてお会いしてから約10年になるでしょうか。会津の里に雪の降る前に開催できそうです。会場は、古民家レストラン独鈷 会津若松市門田町御山村中372 言葉には古来ことだまが宿ると云われています。言葉の使い方一つで人は励まされたり、落ち込んだりもします。どんな言葉を心根に持つと人は朗らかに強く生きられるでしょうか。そんな言葉さんとの出会いを探しにお出かけになりませんか。
2011/11/24
コメント(0)
秋の夕日はつるべ落としのようだといいますが、あっというまに夕暮れがやってきます。その夕陽が柿の木に真横から当たり柿の実が燦然と光り輝いて見えました。太陽光線の角度によっていつもみる景色が違って見えた瞬間でした。郡山市郊外の景色です。太陽光線の角度によって景色ががぜん違って見えることがあります。この写真も視線を下に置き見上げるように見ると空の藍が濃いコントラストになります。facebookに載せてみましたら共感された方が大勢いたのでこれまたビックリでした。実物は景色がいつもと違って見えたのです。これをデジカメでどれだけ再現できるのかの実験撮影でした。 童謡「里の秋」から昭和16年(今から70年前)太平洋戦争開始直後に書かれたこの詩には戦地におもむいた父を思う子の気持ちがうたわれていたことを知りました。国中が戦争一色に染まる中、童謡が書けず悩んでいた作詞者斎藤信?夫がふと思いついたのが、この慰問文の形をとる詩だったとのこと。おしなべて童謡の歌詞は美しい日本語でつづられております。戦争一色ともなると童謡詩人はどんな言葉を紡んだらよいのか迷ったであろうことが推察されます。 秋の夕陽の照る山紅葉 ♪ 「 紅葉 」の歌詞 作詞:高野辰之1.秋の夕日に照る山紅葉、(もみじ ) 濃いも薄いも數(かず)ある中に、 松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は、 山のふもとの裾模樣(すそもよう)。2.溪(たに)の流に散り浮く紅葉、(もみじ ) 波にゆられて離(はな)れて寄つて、 赤や黄色(きいろ)の色さまざまに、 水の上にも織る錦(にしき)。明治44年(1911年) 信越本線・碓氷(うすい)峠の熊ノ平駅から眺めた紅葉の美しさをきっかけにこの詞を作った「 ふけゆく秋の夜 旅の空の~ 」郷愁を呼ぶ懐かしの歌を思い出します。「 旅愁 」の歌詞 1.更け行く秋の夜(よ) 旅の空の わびしき思いに 一人悩む こいしや故郷(ふるさと) 懐かし父母(ちちはは) 夢路にたどるは 故郷(さと)の家路 更け行く秋の夜 旅の空の わびしき思いに 一人悩む 2.窓うつ嵐に 夢も破れ 遥(はる)けき彼方に こころ迷う こいしや故郷 懐かし父母 思いに浮かぶは 杜(もり)の梢(こずえ) 窓うつ嵐に 夢も破れ 遥けき彼方に こころ迷う あらためて歌詞を読み返してみますとメロディに比べて歌詞が暗いですね。こんなに暗い歌詞でつづられていたことは、、、この歌はメロディが頭の中に残っていたようです。今から104年前の明治40年(1907年)8月に発表された翻訳唱歌『旅愁』 この歌はてっきり日本の曲だとばかり思っておりましたが検索で今回初めてアメリカ音楽だと知りました。なお著作権の保護期間は、原則として著作者の死後50年までです(著作権法第51条)。保護期間の計算方法は、著作者の死亡した翌年の1月1日から50年目の12月31日までと計算します。保護期間の終了した作品は公有(Public Domain=PD)とされ、許諾を得なくとも自由に利用することができます。なお、「団体名義の作品」は公表後50年間、「共同名義の作品」は最後に亡くなった著作者の死後50年間保護されます(著作権が消滅しているかどうかは、JASRACのホームページで公開している作品データベース検索「J-WID」で確認することができます)。
2011/11/23
コメント(0)
大判焼きの機械を自分で持っているとのこと、普段は某ホテルの厨房で料理を担当しているとのことです。
2011/11/22
コメント(2)
最近、うなぎがだいぶ値上がりしたようです。「うなぎのかば焼き」なかなか値段が高くなりました。スーパーを覗きましたら、総菜コーナーに「さんまのかば焼き」がありました。なにげにサンマも脂がのっていればけっこう美味しいかもと購入してみました。2枚で300円位です。なかなかいけてる味でした。「鰻屋さんが焼いた」と表示シールが貼ってありました。ほんとうだろうか。「当店のうなぎのかば焼きと同じ焼き方で焼いた秋刀魚のかば焼きです」としたほうが正しいのではないだろうか。などと考えてしまいました。缶詰では「さんまのかば焼き」はだいぶ前から出回っておりますものね。総菜コーナーで秋刀魚のかば焼きが出てきたとしても違和感はありません。
2011/11/21
コメント(2)
伝説の蕎麦打ち名人、片倉康雄氏の流れをくむ「二郎蕎麦」と呼ばれる鈴木二郎さんの蕎麦を食べる会に参加しました。11月17日(木)モーニングセミナーで講師をされました川崎葉子氏を囲む会をモーニングセミナー講演の前の晩に歓迎会として川崎さんの推薦があった大熊町から同じく避難生活している蕎麦打ち名人の鈴木二郎さん宅で美味しい蕎麦を食べる会を開催いたしました。1.日 時 11月16日(水) 18:30より 2.場 所 そば打ち名人・鈴木二郎宅 (震災で避難している方のお宅で、看板などは出ていません)たまのや安積メモリアルホール(郡山市安積町日出山3-31-1)の西へ約300m ※たまのや駐車場から滝本会長の携帯にお電話いただけますと迎えに行きますという集合方法でした。「ぶりしゃぶ」から始まって、蕎麦が運ばれてきました。大盛りの蕎麦をみんなで分け合って食べました。二郎蕎麦と呼ばれているそうです。蕎麦粉は喜多方の契約農家からだそうです。100%つなぎなしの蕎麦です。美味いの声続出の絶品の蕎麦でした。御歳78歳の蕎麦打ち名人です。昔はなんでもなかった蕎麦打ちが最近は打ち終えると疲れるという、やはり歳はいなめないものですねと翌日の早朝、モーニングセミナー参加のお迎えの道中聞いた話です。毎朝4時には起床する生活習慣だそうです。検索で鈴木二郎さんを調べましたら、蕎麦打ち名人としてその道では知られたお方だとわかりましたので期待して参加しました。鈴木さんからお話を伺いましたら、郡山市内で人気の蕎麦屋さんを経営している「あなざわ」さんの蕎麦打ち師匠であることがわかりました。穴澤さんが出張蕎麦打ちをしていたころの蕎麦の味によく似ていたのです。つゆの味なども同じでした。また鈴木二郎さんの師匠は片倉康雄氏の最後のころの弟子の方だったとも聞かせてもらいました。今広島で達磨を経営している高橋邦弘さんも片倉さんの弟子だったということですから、同じく足利市の一茶庵の片倉康雄さんの流れをくむ蕎麦打ちであることがわかりました。おしなべて蕎麦打ち名人は、蕎麦打ち名人を師匠に持っているということになります。※興味ある方は検索を 「 蕎麦打ち名人 鈴木二郎 」看板を出して蕎麦屋さんを営業しているわけではありませんが、電話予約のみで受け付けているそうです。ぜひ食べてみたいと思われる方は電話で問い合わせてみたらよいでしょう。鈴木二郎さん TEL:0249-42-1560郡山市安積町日出山3-8(注意:この ↑ 住所をgoogleで検索するとなぜかだいぶ離れた場所が表示されてしまいますので「郡山市安積町日出山3-7」で検索して表示された北側の家となります)
2011/11/20
コメント(0)
卵細胞は受精すると1個の細胞から細胞分裂が始まり、骨、内臓、筋肉、皮膚などあらゆる細胞になります。iPS細胞は身体の皮膚などごく一部の細胞に、4つの遺伝子を組み込んで数週間培養することによって、様々な組織・臓器の細胞になる多能性幹細胞に変化するのだそうです。名付け親は、2006年にマウスの、2007年に人間の皮膚細胞からiPS細胞の樹立に世界で初めて成功した京都大学の山中伸弥教授(日本で今一番ノーベル賞に近いと云われているそうです)です。名前の由来はiphoneやipadなどアップル製品の名前の付け方にヒントを得てつけたとのことです。再生医療の切り札として期待されています。また新薬開発にiPS細胞が試されることになるようです。そういう意味で、今、もっとも期待されている医療だそうです。問題点としては、iPS細胞がガンになる可能性がまだ高いということだそうです。安全な細胞として利用できるようになるのが課題のようです。一方、ES細胞は卵細胞からとりだしたものを培養するので生命倫理に抵触する可能性があるそうですが、iPS細胞なら、生命倫理に抵触する可能性がないということです。とかげの尻尾が切れてもまた再生するように、身体の機能が不全になったら、組織再生が将来は可能になるとしたら、やがては永遠の命も可能なのかもしれません。となると個体の「生命」はどこまでが寿命と呼ぶのか。延命はどこまで細胞再生が許されるのか。そんな時代がやってくるかもしれません。※京都大学 iPS細胞研究所 CiRA(サイラ)※高校生を相手に講演する山中伸弥教授 「人間万事塞翁が馬」 (約80分) たまたま見つけた講演録ですが、時間のあるときにでもどうぞここさえ見ていれば再生医療のトピックスが分かるようなデータベースになることを目指しているBLOGを見つけました。5日前の14日付け書き込みにアンチエイジング践略を書きましたが、「 BLOG : 再生医療が描く未来 -iPS細胞とES細胞-」の中に「iPS細胞は若返り効果も抜群」とあります。不老長寿がお金で買える時代になるのかもしれません。
2011/11/19
コメント(0)
youtubuが15分以上の録画を載せられるということなので約35分撮影した動画ONを初めて試してみたいと思います。Ustream(ユーストリーム)など2時間の講演動画がweb上にONできる時代ですから、youtubuも容量アップしているのでしょうね。それにしてもスゴイ進歩ですね。ジャパネットタカタが自社で撮影スタジオをつくったと聞いたのがついこの間ですが、いまや個人で撮影スタジオどころか生中継だって可能な時代になったのです。それも数万円の投資だけで可能になってしまうわけですから驚きです。動画は38分42秒あるはずですが、9分36秒しかONできていません。どうしたんでしょう。うまくいきませんね。とりあえずのせておきます。 ---------------------------------------------------郡 山 中 央 倫 理 法 人 会第375回 経営者モーニングセミナー 平成 23年11月17日( 木 ) モーニングセミナー 午前 6:00 ~ 7:00 ※ 会場 かに徳本店 郡山市亀田2-18-16 東日本大震災でとりとりあえず一時避難だと思ったことが、その後の原発事故で自宅に帰れることが叶わなくなり、着の身、着のままの避難となってしまった。3月12日の晩は郡山市の安積行政センターに泊ることになったが携帯もつながらず、それでもたまに遠方の方からのコールがつながった。そんな縁ある人を頼って行ったら福井県に避難することになったということです。 そして現在は、避難県民でありながら避難県民の支援や絆づくりと風評被害支援などの活動を精力的にこなしているとのことです。 川崎葉子法人レクチャラーの講話(動画はこちら)講 師: 社団法人倫理研究所 法人レクチャラ― 川崎葉子氏 テーマ:「 今までそしてこれから 3/11~11/16 」◇ 講師紹介 ◇ 現在 法人局 法人レクチャラ― 福井県倫理法人会 朝礼委員長
2011/11/17
コメント(0)
郡山市東部の標高350mの里山に、くるみ餅を美味しく食べることができるのは三春町の「たむら屋」さんです。くるみ餅を食べてちょっぴり蕎麦も食べたい人向きのメニューですね。「 三春そば遊膳 たむら屋 」 さんでは写真入りでメニューを選ぶことができます。紅葉が始まりました。もみじの葉はすべてこのように鮮やかに色づくかといえば、場所によって年によって染まり具合は異なります。このように鮮やかな枝になる紅葉を採ってくるお店の方の心意気に共感しますね。蕎麦を食べたあとは「下の湯」で湯ったりとあたたまります。風呂をあがると汗が噴き出してくるのがわかります。ここ下の湯では汗がひいたのを確かめてからでないと下着を身につけることができませんのでご注意を。右腕にふきだす汗です。たのしみはくるみ餅食べ腹満たし よくあったまる湯につかるとき
2011/11/14
コメント(0)
散歩も毎日、そしてよく噛んで食事をしましょう。日々健康に過ごせることは幸せです。これが病院暮らしでは切ないものがあります。また食事会などで食事の後に、薬を出して飲まなければならない人がいます。薬が生活習慣になってしまった人です。クスリは逆から読むとリスクですね。クスリのお世話にならない生活を維持してまいりましょう。現在の日本社会は、生活習慣病製造工場化しているとの指摘がありますが、個人個人の健康管理は自己責任です。どんなものを口して、どんな心がけで運動をしているかすべて自己管理です。身体をつくっているのは口に入れる食べ物・飲み物からです。何を、どんな食べ方をしているかです。太っている方は、太るように食べているからです。一般的に夫婦の体型も似ていますね。なぜなら同じような食べ方をしているからです。よく噛むこと、唾液消化酵素を使うことです。またよく噛むことによって満腹中枢が刺激されるとそんなに太りすぎるほど食べられないものです。よく観察すると太る人は、よく噛まずに早喰いの人が多いですね。毎日よく身体を動かすこと。人間も動物です。動物とはよく動く物であるわけです。人間の身体で一番大きい筋肉は両足の筋肉です。歩くことによって全身運動になるのです。1日1万歩の歩行と云われていますが、歩くとことによって血液の循環もよくなり、呼吸系も身体全体を使うわけです。毎朝の散歩は、生活のリズムをつくります。私の場合は、朝の散歩が日課です。病気の原因を考えてみましょう。その昔は栄養失調で食べられないことがあげられましたが現在は、食べすぎが多いのではないでしょうか。癌の文字を見ると「品物の山」とあります。よく噛んで食べれば、量はそんなに食べられないものです。また病気とは、「気を病む」と書きます。気持ちの持ち方です。明るく朗らかな明朗でよく笑うこと。笑うと免疫力が上がることが最近ではわかりました。笑顔になると人相もよくなりますね。よく身体を動かすことです。血液の循環がよくなります。そして身体をやわらかく保つ柔軟性です。身体の硬化は老化の始まりです。そうだ、突然ですが思い出して真向法の体操をまた始めるとしましょうか。ヨーガをとりいれて自分流の真向法体操を1年続ければ、そうとう柔軟になるはずです。畳の上に坐り両足を開脚して上半身を前に倒してお腹から胸部・顔まで全部ついていたころがあったわけですから。そのころは腕立て伏せも100回連続が可能だった。私にはマラソン42.195kmを走り込むよりも、こちらのほうがよい。健康柔軟プログラムをつくり今日から始めてみることにしよう。 1日1ミリ365日で365ミリ柔らかくなると開脚して身体がぺたっと畳にまたつく日を思い描いてやります。コツは毎日の日課にすることです。身体が柔軟になり身体のすみずみまで血液が循環すると身体ってすごく気持ちの良いものです。今日は柔軟な身体づくり宣言をしてしまった。身体が柔軟になれば、もっと頭も柔軟になるだろう ^^/これを称して還暦前にしての私のアンチエイジング践略です。私の理想のアンチエイジング践略身体柔軟:ヨーガを取り入れた真向法体操良く笑う:笑いヨガ血液循環:散歩&温泉よい睡眠:早寝早起&腹7分目
2011/11/14
コメント(2)
人はいずれ必ず皆、あの世とやらにまいりますが、天寿を全うすることが叶わずに病気等で途中でダウンしてしまう人があります。しばらくお会いしてなかった方ですが8月に亡くなっていたことを知りました。google検索でブログを書いていたことがわかりました。蝸牛庵日乗 http://blog.canpan.info/katatsumuri/ブログを読んでいましたら講演録をwebで見ることができることがわかりました。講演動画がustreamで見ることができるのです。第200回花ホテル講演会タイトル:「こんなときあなたが、必要とされている!」 - 会津や奥会津を愛する人たちへ - 講 師:加藤 哲夫 氏(特定非営利活動法人 せんだい・みやぎNPOセンター 代表理事) 日 時:平成22年4月16日(金)19:00~20:30 http://www.ustream.tv/recorded/6218521 ↑ ↑ ↑ 1年4ヶ月前はとても元気な声で講演です。よく辞世の句を亡くなる前に詠み残すことが知られていますが、普段から句を詠んでいればこそ、めったに句など詠まぬ人は、この時代はblogやfacebookなど日常的に書き込んでいるwebの記録なのでしょうね。
2011/11/13
コメント(0)
松明あかしのメイン会場である五老山公園への道路は焼きそばやクレープなど露店が並びます。道路は車を進入禁止にして歩行者天国です。人の波はお正月の初詣並ですね。焼きそばを焼いていた親子と思しき人達がおりました。ここ松明あかしの露店商は比較的若い人も多いのですが、一般的に最近の露店商は高齢化しています。悠々自適の年金暮しをしていてもよさそうな年齢の方が焼きそばを焼いているのです。自由業で生きてきたので年金支給を受けていないのだろうか。あるいは祭りの雰囲気が身体に馴染んでいるので働くのが好きなのだろうか。真剣な顔をして焼きそばを焼いている営業中に聞くわけもいかず、あれこれと考えてしまいました。娘さんは愛嬌のある美形です。見た目おばあさんは80才近いのではないだろうか、あのおばあさんも若いころは娘さんのような美形だったのだろうことが推察されます。それが証拠にお客さんが声をかけたらニコッと笑顔を見せたのが娘さんの顔によく似ていた。30~40年たつと顔も姿も変化してゆくものです。最近はアンチエイジングと称しての老化防止をビジネス化にしているところもありますが、気持ちのあり方が顔に刻まれるようです。女性はしわを嫌うようですが、よこ皺は増えても、たて皺はつくらぬようにと云われます。心がストレスを感じることや過剰緊張気味が多いとみけんが縦じわになりやすいもの、おだやかな心ですごせればたて皺にはなりにくいものです。日常の心の持ちよう(魂のありかた)で人相は変化するのです。それが証拠に亡くなり魂がぬけると人の顔はとてもおだやかな顔になるものです。また最近は70歳をこえているようなおばあちゃんがロングレンズのカメラで撮影している姿を見かけます。カメラを構える姿もさまになっているのです。すごいですね。私はもっぱらデジカメ撮影です。
2011/11/13
コメント(1)
今朝は霧の朝でした。郡山市内、内環状線、総合体育館手前の信号待ちに撮影。視界は約100m位でしょう。「霧の朝は天候がよくなるぞ」と学習しましたので今日は天候に恵まれることでしょう。来週の日曜日20日は収穫祭を開催すると森農園から携帯に連絡が入りました。夜は「須賀川の松明あかし」です。昨年は強風の中でおこなわれましたが今年の火祭りは天候が安定した中でおこなわれるでしょう。今年も動画撮影してきます。須賀川松明あかしは、日本3大火祭りの一つと云われています。今年は松明の材料が原発事故で放射能汚染された可能性があると、燃やしてまき散らすことになるので県外から孟宗竹やカヤなどの材料の協力があり、開催されます。復興のシンボルに祭りを止めるわけにはいかないと、昨夜は打ち上げ花火1500発で復興を願う前夜祭が開催されたと云うことです。須賀川市の公用車のボディーに貼られていた告知広告です。今年は東日本大震災の鎮魂イベントでしょうか、ろうそくのあかりを松明にみたてて「ロウソクあかし」と名づけたコーナーがありました。(動画はこちら)安土桃山時代(1573→1603)織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代のことでした。須賀川・松明あかしは、伊達正宗に攻められて天正17年10月26日(1589年12月3日)最後は火攻めにあい落城した二階堂家・須賀川城の悲劇を弔い、戦場に散った両軍の戦死者の御霊に祈りを捧げる鎮魂の祭りとして続いてきました。会場内のアナウンス放送で今年は須賀川城落城から422年目にあたることを知りました。松明には地元の中学・高校の名前が見えます。そうなんです。この松明あかしは企業だけでなく、中学生・高校生も大人に交じって祭りに参加しているのです。そろいの法被を着こんで太鼓を打ち鳴らして燃える松明に向かって声援と云いましょうか。太鼓のに合わせて仲間の名前を呼んだりしておりました。観客の中には燃える松明に合掌しながら眺めておられる方もおります。今年は例年になく暖かく感じた松明あかしでした。2011/11/12 19:07(動画はこちら)松明あかしのメーン会場の五老山公園のふもとには太鼓用のステージがありました。身体全体に響く勇壮な太鼓です。松明太鼓は松明あかし400周年記念に創られたということです。(動画はこちら)玉こんにゃく@100円が美味しかった。 2011/11/12 19:58※詳しくは松明あかしのwebサイト
2011/11/12
コメント(0)
父母(ちちはは)も、その父母も、我が身なり、われを愛せよ、われを敬せよ... 二宮尊徳翁最大の先祖供養は、自分自身を大事にすることなのですね。それを忘れて何かに振り回されて、右往左往する事のないように気をつけたいものです。(沖縄・名城正幸さんよりシェアです)
2011/11/12
コメント(0)
誰でもが「懐かしい味」というものがあります。それは子供のころに味わったものが多いですね。郷愁の味です。久しく口にしていない懐かしの味ですね。「焼きまんじゅう」夏プールからあがって食べたものです。2個串で30円くらいだったでしょうか。自転車でとなり町である大泉町のプールに行き、プールの脇で売られていた。「焼きまんじゅう」、今では太田市の呑竜様の入口にある山田屋さんですね。ばあちゃんの味では、鉄鍋で煮込んだ「タニシの味噌煮込み」今では幻の味となってしまいましたが数年前、郡山市の朝市(郡山市総合体育館西の駐車場)でタニシが売られていたのを発見して、思い出しながら自分でつくって味わいましたが、ばあちゃんの味には及ばなかった。何日も煮込んだ味だったもんな。おふくろの味としては、わがやでつくる蒸かし饅頭があった。饅頭をわが家で蒸かしてつくるのです。かまどで火焚きを担当していっしょにつくったものです。蒸かしあがりの饅頭はうまかった。小学生のころでした。手打ちの大根そばも美味しかった。「ナマズの天ぷら」これは父がわが家で働いていた職人を連れだって多々良沼への用水路をせきとめて、ディーゼル発電のポンプでかい掘りしてオオナマズを取り、わがやでナマズの天ぷらで宴会でした。50年前に味わって以来ご無沙汰です。先日、板倉町の雷電神社の表参道にナマズの天ぷらを食べさせてくれる店があることがわかりましたので来月、50年ぶりのナマズの天ぷらを味わう予定です。「ナマズの天ぷら」とりわけて特別にうまいというわけではありません。白身魚の淡泊な味です。てんぷら揚げたてを食べたので、ふんわりした口当たりだったような記憶があります。 (10月10日雷電神社に訪問したおり撮影)なまず天ぷら 小林屋(こばやしや) 群馬県邑楽郡板倉町大字板倉2335 たのしみは 記憶おぼろの なつかしき 鯰天ぷら 口にするとき
2011/11/08
コメント(0)
三春ダムから放流された水が流れる大滝根川沿いに「斉藤の湯」があります。その斎藤の湯「下の湯」の手前に、大滝根川に橋がかかっております。その橋のとなりに水かさが増すと川の中に沈む「くぐり橋」があります。完成は明治31年=西暦1898年ですから、今をさかのびること113年前です。花崗岩を切り出して3年の月日を費やしてつくりあげたとのことです。千年に一度の東日本大震災にあっても壊れずにありました。腕の確かな人達がつくりあげたことが証明されました。「下の湯」が発見されたのは、この橋が完成してから3年後ということですから今年は開湯110年ということになります。風呂あがり石橋渡る滝根川 往時を偲ぶくぐり橋かなこの橋のすぐ近くに斎藤の湯(下の湯)があります。斎藤の湯(下の湯)は良くあたたまる湯治温泉としてよく知られています。下の湯で湯にひたってあたたまると湯あがりに汗が噴き出してきます。
2011/11/06
コメント(0)
民間伝承の薬草『野ぶどう』(別名:馬ぶどう)の焼酎漬け民間伝承の薬草『野ぶどう』(別名:馬ぶどう)の焼酎漬け(25度)を仕込みました。この馬ぶどうは猛毒の薬草なのだとか。それが焼酎に漬けると薬酒になるのだから不思議ですね。何年か前に、この野ぶどうらしきものを摘んでいる人を見たことがありました。そのときは野生のぶどうなのかなと思いましたが、なんと猛毒であることをfacebookの書き込みで知りました。焼酎漬けにすると肝臓にいい薬酒になるとweb検索で知りました。散歩コースに3ヶ所ほど自生しているのを発見したので、摘みとって25度の焼酎に漬け込みました。3ヶ月ほどすると飲めるようになるとのことですが、半年は熟成保存させる予定です。なお、焼酎仕込みの他に酢漬けにてつくる方法があるとのことです。
2011/11/02
コメント(2)
「かぼす」は私見では、「ゆず」と「みかん」の中間に位置するように思われます。見た目は「みかん」によく似ているが種をみると「ゆず」の種のほうに似ていると思われます。広島県福山市から贈られてきたものですが、温暖化と云われている昨今ですので南東北の地で種を植え、無事育つかどうかを実験してみたいと考えました。さっそく食べたあとは、せっせと種を地面に埋めて芽がでるのを待つことにします。かぼすジュースなど使い道はいっぱいあるようです。自宅の庭で獲りたての完熟「かぼす」を自由に使えるのを夢見て。たのしみは 美味しく食べた そのあとは 種植えてみて 芽吹き待つときカボスの果汁は、酸味に富むとともに独特の香りを有しており、刺身や焼き魚等の薬味として、あるいは鍋料理のポン酢や、酢の物等の調理に用いられる他、大分県では、味噌汁、麺類、焼酎などにも少し果汁を垂らして風味を付けることもある。果汁を手で絞る時には、縦に4つに切って、切り口を上に向けて両方からじわじわとつまむと、種を落とさず、皮の香りも加えることができる。また、果汁や果肉を用いた調味料、ジュース、清涼飲料水、氷菓、スナック菓子、和菓子、洋菓子、酒類等の加工品も販売されている。「かぼす」の使い方はいろいろと考えられますね。ちょっとした味付けに「かぼす」があると便利だなは、あれこれ使ってみるとよくわかります。そのためにも種を植えて、実がなるか育ててみることにしよう。楽しみがひとつ増えました。「桃栗3年、柿8年。柚子の大馬鹿13年」という言葉がありますが、かぼすの種が柚子に似ているとはいえ18年もかかっては77歳になってしまいます。5年位でなんとかならないかな。
2011/11/01
コメント(0)
全22件 (22件中 1-22件目)
1