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【読書履歴制とは、政府が全国の小中高校生を対象に今年から導入した制度で、政府が直接管理する「読書教育総合支援システム」と呼ばれるサイトを通じて管理されている。政府は子どもたちが小中高校の12年間に読んだ本の記録を集めることによって「読書ポートフォリオ」を立ち上げ、これを進路指導に活用したり、大学入試の際に入学査定官(大学に属さない立場で入試業務を請け負う専門家)に提出することで、学生選抜にも活用したいとしている。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝鮮日報:2011年4月30日) 記事は、受験競争の加熱が日本より深刻だと言われる韓国のことだが、それにしても国がこどもたちの読書の内容まで管理をしなければならない理由が、私には見えてこない。 しかも、次に引用する同上記事の別の個所を見ると、さらにその意味さえ分からなくなる。【子どもたちは、本当に本を読んで記録することもあるが、多くの場合、キムさんがネットで推薦図書のあらすじを調べ、それを子どもたちに話して聞かせ、子どもたちはそれをサイトに書き込んでいる。テストや塾のため子どもたちに時間がないときは、キムさんが入力することもあるという。単に頁をめくっただけの本や、ほとんど読んでもいない本でも、実際に読んだかのように入力するだけで、たくさんの本を読んだと認められるわけだ。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝鮮日報:2011年4月30日) 記事中の「キムさん」とは、小学1年生と4年生の子どもを持つ一人の親なのだが、ようするに「読書履歴」を書き込むのは、本人のみならず誰でも良いことになり、それが結果として入試に影響するのだから、私には全く理解できない制度だ。 ともかく、こどもたちを確実には読書好きにさせるわけでもなく、実際には受験競争をさらに激化させ、短くなったと思われる読書時間さえ失いかねない、とんでもない制度ではないだろうか。なお、当然ながら韓国内でも、この制度を批判する声は少なくない。 このブログでたびたび指摘しているように、日本では、こどもたちのあそび時間が短くなり、その結果として「小1プロブレム」「学級崩壊」、「理科離れ」「学力低下」、さらには「体力・運動能力の低下」など、こどもたちの知育・徳育・体育の全てに問題が起こっていることを考えると、韓国のこどもたちの現状や未来が心配になる。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.30
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【「モトス」は自機を操作して「おはじき」の要領で敵機を画面下の宇宙空間に落としたり、弾き飛ばしたりすることで全滅させるのが目的のゲームです。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日刊テラフォー:2011年4月19日) 【20日、甲子園で行われた巨人×阪神の一戦で、7回にブラゼルの飛球を脇谷亮太がお手玉をして落球するも、判定はアウト。信じられない誤審に、真弓監督も抗議を続けたが、判定が覆ることはなく、加点のチャンスを潰された阪神は5-4で敗戦を喫した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/サーチナニュース:2011年4月21日) 物事をわかりやすく伝えるために使われるのが「喩え(比喩)」なのだが、それは情報を伝える側と受け取る側に、喩えられた物事に対して共通の認識があるから、「比喩」が可能となる。 上記の二つの記事にある、「おはじき」と「お手玉」、今は少なくともおとなの間では、それらが「比喩」している光景を想像できる。しかし、こどもたちの間ではどうだろうか。 反対に、記事のような表現とその現象を、テレビなどで見たり聞いたりしすることで、「おはじき」や「お手玉」が、どのようなものかを知るのかも知れない。 現物は見たことが無いこどもたちも、急速に増えつつあるからだ。ましてや、「おはじき」や「お手玉」で、昔のようなあそび方であそんだことのあるこどもたちは、さらに少なくなる。 「将棋倒し」が「ドミノ倒し」に変わったように、「おはじき」や「お手玉」を使った比喩は、どんな言葉に置き換えられていくのだろうか。やはり、私は置き換えられなくてもいいように、昔ながらのあそびが無くならないことを望むのだが・・・・・「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.29
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【徳島県教委は27日、県内の子どもが全国最低レベルにとどまっている体力をアップするために今年度設けた「子どもの体力向上企画員室」の初会合を開いた。元体育教師ら企画員が経験を基に、「運動の楽しさを知らない」「マラソン大会がなくなった」などと、課題が多い県内の小中学生の現状を報告。継続的に取り組む必要があることを確認し合った。(中略)文科省調査の分析結果として、「運動する子、しない子がどちらも増え、二極化が進んでいる」「中2女子の運動をしない子は、1987年に比べて17%も増えている」などと報告された。 さらに、「睡眠時間が6時間未満の子の割合が小5で5%以上、中2で10%以上いる」――などと生活面での問題点を挙げ、「子どもの遊びや生活の変化に合わせた総合的な対応が必要だ」と確認し合った。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2011年4月26日) 「睡眠時間が6時間未満」と言うことは、仮に朝6時に起きるとしても、就寝時刻は午前0時過ぎとなる。そんな小学5年生が5%もいるのだ。これは、徳島県だけの問題ではなく、大都市部ではもっと事態は深刻だと考えていい。 確かに、「子どもの遊びや生活の変化に合わせた総合的な対応が必要」だとは思うが、文部科学省や教育委員会は、「遊びや生活の変化」に対応するよりも、その変化そのものを改める、根本的な改革が望まれるのだ。 「ゆとり教育」や「ゆとり教育の見直し」、さらには「小学校での英語必修化」など、教育の制度・政策を、思い付き的にあれこれいじるのではなく、こどもたちが昔のような「遊びや生活」を取り戻せることを可能にする、教育体系の抜本的な改革こそが重要なのだ。 ようするに、記事のこどもたちの嘆くべき現状は、「体力の問題」ではなく、幼児から大学生までの制度的教育、さらには塾・予備校や各種習い事などの教育産業を含めた「教育の問題」なのだ。そして、それは「こどもたちの問題」でもなく「おとなたちの問題」なのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.28
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【津波で校舎が倒壊したり断水が続くなどし、始業式が5月10日にずれ込む宮城県南三陸町の児童・生徒らの精神的ケアのため、NPO法人「ワールド・ビジョン」(東京都新宿区)が、町民の避難所などに遊び場を提供している。阪神大震災の際も、遊びが子供の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の緩和に役立ったという報告があり、メンバーは画用紙やクレヨンなどを用意し、友達と触れあう機会を提供している。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2011年4月26日) 大地震や大津波などで被災したこどもたちにとって、あそびが極めて重要であることは、このブログでもたびたび指摘してきたが、今回の東日本大震災における、そうした取り組みは、上記記事の取り組みをはじめとして、増加・充実してきているのは、大いに喜ばしいことだ。 そんな取り組みのもう一つの例を次に紹介しておく。【日本グッド・トイ委員会は、東日本大震災で被災した子どもたちのために「あそび支援隊」を結成した。(中略)あそび支援隊は、おもちゃと遊びで被災した子どもたちの心のケアを行う目的で結成された。岩手県社会福祉協議会と連携し、盛岡市・気仙沼市・福島市に拠点をつくり、おもちゃ100セットを、避難所や児童館、保育園などに直接届ける活動を展開する。セットの内容は、優良なおもちゃの証「グッド・トイ」に選定された玩具メーカーからの寄贈によるおもちゃ約1万点の他、おもちゃがなくても楽しめる遊び方を収録したDVD「遊びのレシピ」、ひろば専用床材などで、耐久性に優れたプラスチック製の段ボールケースに収納して届けられる。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/マイコミジャーナル:2011年4月26日) ここで注目したいのは、≪おもちゃがなくても楽しめる遊び方を収録したDVD「遊びのレシピ」≫が、届けられることだ。同趣旨の取り組みは、他団体や大手教育出版社なども行っており、極めて意義のあることだ。 できれば、他のこどもたちと一緒になってできるあそびもたくさん加えてほしい。人と人とが、時には身体をふれあってあそぶあそびは、最もこどもたちを癒し勇気付けるあそびの一つだ。被災地で、こどもたちのあそびのために奮闘されておられる団体・組織の皆さん方の、さらなるご活躍をお祈りする。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.27
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【菅直人首相は25日の参院予算委員会で、公明党の浜田昌良議員が福島第1原発事故対応に不手際があったとして辞任を求めたのに対し「責任を放棄するのは取るべき道ではない」と否定した。(中略)民主党内でも首相の責任を問う声が噴き出しており、党内外で退陣圧力が強まるのは避けられない。(中略)東日本大震災への取り組みについて「私がこういう立場にいたのは一つの運命だ。これまでやってきたことは国民から相当評価されている」と主張。「権力にしがみつくのではなく、やらなければならないことはきちんと責任を持ってやる」と政権継続に意欲を示した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/47NEWS:2011年4月25日) 上記記事には、「責任」という言葉が3ヵ所に見られるが、それらの「責任」には微妙な違いがある。まず最初の「責任を放棄する」の「責任」は、職務や役割などと不可分の、その時点で進行しつつある「現在の責任」だ。 次の「首相の責任を問う」の「責任」は、その時点までに起きた状況や事態に対して問われている「過去の責任」で、最後の「責任を持ってやる」は、現時点以降に対して負うことになる「未来の責任」だと考えていい。 これらの「責任」の違いを踏まえて、今回の大震災とそれに続く原発大人災に関わる「首相の責任」について私見をつづる。まず、震災・人災から一月半たった現時点までの、「首相の過去の責任」を見ていく。 この間の世論調査や一斉地方選挙の結果を見れば、国民は政府の災害対応に対して、極めて否定的な評価をもっていることがわかる。事実、震災対応の遅れや原発被害の拡大など、復旧・復興や事態の終息は、先が見えてこないのが現状で、「首相の過去の責任」は極めて甚大だと言える。 次に、「首相の現在の責任」を考える時、当然ながらそれまでの「過去の責任」を考慮しなければならない。「過去の責任」が上記のような、惨憺たる状況なので、現在の菅直人首相の「責任能力」は、国のリーダーとして全くふさわしくないレベルだと言っていい。 ここまで見てくれば、「首相の未来の責任」は、自明のこととなる。すなわち、菅首相には「責任を持って」やれるだけの能力も無いし、やってもらっては国民がさらに困るのだ。それでも、やると固執するならば、それは「権力にしがみつく」哀れな姿そのものとなるだろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.26
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【福島市や郡山市などの5つの公園では、国が原発事故を受けて定めた、学校の校庭などでの活動を制限する放射線量の目安を、僅かに上回るか、同じ値になったため、福島県がこれらの公園の利用を一日1時間以内に制限しました。このうち、福島市の新浜公園では、25日朝、市の担当者が利用制限を呼びかける看板を設置したほか、砂ぼこりがたたないように砂場にシートをかけるなどしました。福島県は利用を制限するとともに、公園を利用したあとは手や顔を洗ってうがいをすることや、土や砂を口に入れないよう呼びかけています。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/NHK:2011年4月25日) 政府や東京電力が、福島原発事故がいかにも終息に向かいつつあるかのように力説する一方で、ついに公園の利用制限が行われるまで、地元のこどもたちの生活は深刻な状況へと進みつつある。 学校の校庭の活用制限や今回の公園利用制限、それぞれの指示の一つ一つは理解できないほど難しくはない。しかし、よく考えれば、もし校庭制限の学校に在籍する子が、制限のある公園を利用するときは、どう考えるのか。 普通に考えれば、校庭と公園の利用時間の総計が、一日1時間以内に制限されなければならないと思われるが、はたしてそうなのだろうか。また、学校・公園以外の屋外での活動も、同様に制限されるのが、素直な見方だろう。 それなら、個々の場所による制限ではなく、地域全体でこどもたちの一日の屋外活動の制限時間を設定するのが、分りやすいのではないだろうか。当然、砂場だけでなく土の地面が露出している場所も、記事のような「砂ぼこり」対策も必要なのではないだろうか。 さらに、砂ぼこりに関していえば、乳幼児など身長の低いこどもたちほど、地面と口との距離が短いので、制限時間が一律でいいのだろうか。国や自治体のきめ細やかな指示を期待したい。ただ、その指示の前に、こどもたちに誠意ある謝罪があって然るべきだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.25
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【粘土遊びも得意で、図鑑を見ながら立体的な魚や恐竜を作ります。芸術的なセンスも抜群だね。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2011年4月24日) 「粘土あそび」は、こどもたちの好きなあそびの一つだ。粘土をこねる、あの感触も心地よいし、その結果として造形を楽しむこともできる。さらに、学校などでの粘土細工とは違って、あそびにおいては壊す楽しみさえある。 さて、記事の子がこねているのは、おそらく紙粘土や小麦粉粘土に代表されるような安全な粘土か、「本物の土の粘土(おかいな表現だが)」だとしても、市販の工作用粘土だろう。身近なところの地面などを掘って見つけた粘土であそぶ子は、ほとんどいないかも知れない。 特に、大都市部では、あそべる土の地面が極端に少なくなってしまった。また、そんな地面があっても、掘ってはいけない場所が多い。だから、土の地面を掘って粘土を見つけると、昔のこどもたちより新鮮な感動を受けるかも知れない。 ただ、そんな自由な外あそびができないような生活環境や教育条件が、今のこどもたちには大きくのしかかっているので、地面を掘ることさえできないのかも知れない。粘土そのものや、粘土のある地面は、現代人が忘れてしまった自然でもある。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.24
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【鳥取市の童謡・唱歌とおもちゃのミュージアム「わらべ館」のリニューアル工事が完了した。目玉は3階に新設された「ゆうやけ広場」。昭和レトロの街並みの中で昔遊びが体験でき、子供からお年寄りまでが楽しめる。(中略)広場入口には駄菓子屋もある。数十種類の駄菓子が並び、昭和の雰囲気を醸している。めんこ▽こま▽ビー玉▽けん玉といった10種類ほどのおもちゃも置いた。昔遊びを知らない子供たちのために説明書もある。紙芝居の実演なども企画していく。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2011年4月21日) 記事のような、昭和のあそびやおもちゃを、体験できる施設が増えてきている。一面では喜ばしいことだが、今のこどもたちが昭和の時代と同じようなあそびをしていれば、このような施設は要らないことを考えれば、喜んでばかりはいられない。 また、記事では「昔遊びを知らない子供たちのために説明書もある」ということだが、それだけでは面白さを伝えきれないあそびもある。例えば、「めんこ」や「ビー玉」は、お互いに賭けあって勝負する面白さを、記事のような施設では、再現するのは難しい。また、「ビー玉」は土の地面に穴を掘ってするあそびに代表されるように、「ビー玉あそび」は、基本的に外あそびだったのだ。 このような事情はあるものの、まだ記事のような施設がある間は、昭和のあそびの再興も可能だが、なつかしんで訪れるおとなが減り、こどもたちも見向きもしないようになれば、こうした施設は残り得るだろうか。そうさせないためにも、昭和のあそびができる環境を、町や村に早く取り戻したいものだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.23
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【東日本大震災の被災者支援のため、大阪市が市民から集めた救援物資の多くが、被災地に届けられないまま大量に保管されている。 震災直後に被災地から要請された物資は、発送する時点では、すでに必要とされていなかったのが理由だ。(中略)4月7日までに毛布3593枚、タオル10万177枚、ウエットティッシュ2万7621個、紙おむつ19万9073枚、水(ペットボトル入り)8566本が集まった。 市は岩手、宮城、福島県に必要な品目と数を問い合わせたが、要望は少なかった。3月31日から5回に分けて発送を始めたものの、結局、毛布約2800枚、タオル9万8000枚、ウエットティッシュ1万5000個、紙おむつ17万1000枚――と寄せられた物資のほとんどが余り、水は全てが残った。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日放送:2011年4月18日) 大震災後の支援活動のミスマッチは、個人レベルでは起こり得ることかも知れないが、行政のそれは問題も大きい。その典型が、上記記事の大阪市の例だ。多くの市民の皆さんの善意が無駄になるばかりではなく、その物資の保管と管理にも市の経費がかかり、今後の市民サービスの低下にもつながる恐れもある。 ところで、大阪市の支援活動のミスマッチは、これだけではない。1億5000万円を投じて設置された、人工透析患者向けの一時避難所も空振りとなっている。大阪市の情報収集能力と計画立案能力の稚拙さには、腹立たしい限りだ。 もちろん、これは単に大阪市だけの責任ではない。本来なら、必要支援物資や透析患者などの、正確な情報を一元的に管理するべき、政府の震災対策本部の、機能不全にも重大な原因がある。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.22
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【福島第1原発の事故を受けて、文部科学省が福島県内の計13の小中学校と保育所、幼稚園に対し、屋外活動の制限を求めた。対象となるのは1時間あたりの放射線量が3・8マイクロシーベルト以上ある地域。子どもが1日のうち屋外で8時間過ごした場合、年間の積算が20ミリシーベルトに達する。 具体的には、校庭での活動を1日1時間程度に抑え、砂場の利用を控えることなどを求めている。 注文に無理がないか。体育の授業や部活動が大きく制約される。野外体験の機会も奪われる。外遊びができなければ子どもはストレスがたまる。文科省は現場の意見を丁寧に聴く必要がある。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/信濃毎日新聞:2011年4月16日) 「屋外活動の制限」が数日か長くて数週間なら、こどもたちは我慢してくれるかも知れない。しかし、その制限がいつ終わるかもハッキリしない。放射能の危険性が理解できる年齢のこどもたちならまだしも、それが理解できない幼いこどもたちにとってはと、考えただけでも悲しくなる。 さらに、残念ながら放射能は幼ければ幼いほど、与える影響は大きくなる。「屋外活動の制限」が、保育所・幼稚園から小中学校までと、こんな大ざっぱな区切りでいいのだろうか。保育所には、ヨチヨチ歩きの幼児もいるのに。 こどもたちに、こんなひどい仕打ちを、引き起こしてしまったのはおとなたちだ。そんな愚かなおとなの一員として、本当に申し訳ない。こどもたちへのお詫びは、このような悲しい事態を再び許さない決意で、応えたいと思う。それも、復興の一つのあり方だと思う。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.21
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【「14~15メートルという、今回の津波の大きさは想定できなかった。想定は甘かったと言わざるを得ない」(東京電力 清水正孝社長) 「想定なり、予測の甘さがあり、政府も十分に事前にチェックできなかったことは、おわび申し上げたい」(菅首相)】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日放送:2011年4月18日) 福島原発事故を巡っての、参院予算委員会の集中審議での答弁だが、今回の大震災以後、何度も聞かされたのが「想定」と「予測」だ。そして、それらの言葉の多くが、震災が引き金となって、新たに引き起こされた人災に、責任を負うべきところから発せられている。 上記記事も、確実に人災と言える福島原発事故と、その人災を招いた当事者、さらに拡大させたと思われる当事者たちからの「想定」と「予測」だ。東京電力の清水正孝社長は、「想定できなかった」とうそぶくが、「想定しなかった」が、自らの責任を謝罪する本当の言い方だ。 「想定できていたが」企業利益を考えて想定しなかったのだ。現に、過去に今回の事態を想定した結果、政府や企業は対策を指摘されていた事実もある。それを、政府(現政権ではないが)と企業が意図的に無視したのだ。 同様に、菅首相の「想定なり、予測の甘さがあり」も、「想定なり、予測を誤った」が妥当で、「おわび申し上げたい」でもなく「おわびし辞任いたします」が、正しい責任のとり方だ。政権誕生からの期間は、想定・予測の誤りを正すには十分に長いのだ。 今、事態が進行中だから、首相や社長の交代は、もっての外との考えもあるが、すでに国民や社員(部下)からの信頼が地に落ちているのだから、全国民と事故現場で作業されておられる方の全員が、心を一つに奮闘するためには、新たなトップが望まれるのだ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.20
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【東日本大震災をテーマにした参院予算委員会の集中審議が18日開かれた。東京電力の清水正孝社長が政府参考人として初めて出席。福島第一原発の事故について「放射性物質を外部に放出させる重大な事故で、大変なご迷惑とご心配をおかけしていることを改めて心からおわびしたい」と陳謝した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2011年4月18日) 重大な事故・事件を引き起こした企業・団体・組織の幹部の謝罪会見で、常套句のように使用される言い回しが、上記記事の「東京電力の清水正孝社長」にも典型的な形で使われている。 それは、「ご迷惑とご心配をおかけしている」にある、「ご迷惑とご心配」だ。実際に重大な被害を与えておいて、「ご迷惑」や「ご心配」で済まされる道理はない。あくまでも自らの責任を軽くしようとする意図を、隠すための使用する常套句と言ってもいい。 そして、一般的にも多い言葉使いではあるが、「おわびしたい」や「おわびしたいと思います」だ。これも、願望や思いではなく、きっぱりと「おわびいたします」と明言しなければならないのだ。 記事のライターは、「東京電力の清水正孝社長」の陳謝と表現しているが、確かに陳謝の一つのあり方かも知れないが、自らの責任を少しでも軽くしようとする常套句を使った言動は、「と陳謝した」ではなく「と語った」くらいの表現を、マスコミ関係者には求めたい。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.19
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【主婦の友社は、変形サイコロが5個ついた書籍「暗算・算数に遊びながら強くなる びっくりサイコロ学習法」を4月20日に発売する。 同書は、「百ます計算」「インド式計算」に次ぐ新しい算数学習メソッド「サイコロン」の解説書。発案者で同書の著者でもある松永暢史氏によれば、算数ができる生徒とそうでない生徒の差は、暗算ができるかできないかの違いだという。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュースリセマム:2011年4月18日) これまた、「知育玩具」や「脳トレ」ブームにのった動きの一つと考えてよい。もちろん、上記の「百ます計算」「インド式計算」のみならず、「ソロバン」などの既存のメソッドと同様に、それなりの計算力はつくので、活用するのもいい。 ただ、記事のように「算数ができる生徒とそうでない生徒の差は、暗算ができるかできないかの違いだ」とは断言できない。あるレベルの段階、すなわち計算力の習得を主とする段階までは、「暗算ができる」ことは傾向として優位だとは言える。 しかし、今の日本の少なくないこどもたちが抱える、応用問題ができないと言う現状は、上記の何れのメソッドだけでは解決できないのだ。それは、大ざっぱに言い換えれば、算数はできても数学はできないと言うこととなる。 数学は、1と1を足すと、何故2になるか、3かける3が、何故9になるのかを理解することだ。だから、単なる計算の繰り替えしや積み重ねだけでは、数学を習得することは難しい。 さまざまな算数学習メソッドの中で、少なくとも上記に列記した、新旧のメソッドを活用するには、前記の点を留意して取り組むことが大切だ。そして、どのメソッドも無理強いすれば、算数嫌いになる可能性も少なくない。そうなれば、前途多難になるのも可能性大だ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.18
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【3姉妹は、「放射能があるから外に出ちゃだめなんだよ」と、家の中で絵を描いたり、かくれんぼをして遊んでいる。学校も始まらず、友達とも会えない。快晴の空を見て「外で遊びたいな」と寂しそうな顔をする。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2011年4月17日) 上記記事引用部は、福島第1原発事故で計画的避難区域に指定される福島県飯舘村に住む、三姉妹のこどもたちの様子を語っているが、こうした事態を招いた者たちよ、あなた方はこのこどもたちにどう応えるのか。 原発事故は、こどもたちにとって、太陽の光が優しく降りそそぎ、爽やかな風が頬をなでる「外」と言う、最も大事なあそび場を奪ってしまった。やがて、このこどもたちは、何時戻れるかも明らかにされないまま、まもなく故郷からも離れなければならない。 理不尽という語さえ、物足りないくらいに、こどもたちを突然襲ったこの現実、それを引き起こした愚かな者たちと、同じおとなとして、心から謝りたい。そして、再びこのような事態を繰り返させないように頑張る決意を、約束としてここに記しておく。指切りげんまん!「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.17
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【東日本大震災や原発事故による電力不足を背景に、人生ゲームや6面立体パズルのルービックキューブといったアナログ的なゲームの人気が急上昇している。電気で駆動するテレビゲームや携帯ゲーム機などが計画停電や電池の品薄状態で使えない事態も起きたため、電気不要の使い勝手の良さが再評価されたようだ。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/SankeiBiz:2011年4月16日) 上記記事には、その他に「アナログおもちゃ」として、「オセロゲーム」「どんじゃら」「ブロックゲーム」「立体ピンボールゲーム」などが挙げられている。テレビゲームや携帯ゲーム機などに比べて、「一人あそび」でないものも含まれているのは歓迎すべきことだが、それでも「室内あそび」ばかりだ。 それは、ある意味で当然のことかも知れない。大きなおもちゃメーカーが個人向けに生産・販売するのは、室内であそぶものがほとんどなのだ。せっかくの、電気や電池から離れる機会ができたのだから、こどもたちをもっと屋外へ連れ出すおもちゃやあそびが増えてほしいものだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.16
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(前回からの続き) もちろん、今回の原発事故の進展にあたり、新たに考案された言葉だとは思うが、この造語はいわゆるお役所言葉の典型だと言える。それらの意味について、首相官邸のサイトにある説明を以下に引用しておく。【1.「計画的避難区域」の設定(中略)事故発生から1年の期間内に積算線量が20ミリシーベルトに達するおそれのある区域を「計画的避難区域」とする必要があります。(中略)「計画的避難区域」の住民等の方には大変なご苦労をおかけすることになりますが、別の場所に計画的に避難してもらうことが求められます。(中略)2.「緊急時避難準備区域」の設定(中略)同発電所の事故の状況がまだ安定せず緊急に対応することが求められる可能性があり得ることや屋内退避の現況を踏まえ、現在の「屋内退避区域」で上記1.の「計画的避難区域」に該当する区域以外の区域を「緊急時避難準備区域」とする必要があります。(中略)「緊急時避難準備区域」においては、引き続き自主的避難をすることが求められます。特に、子供、妊婦、要介護者、入院患者の方などは、この区域に入らないようにすることが引き続き求められます。(中略)勤務等のやむを得ない用務等を果たすために同区域内に入ることは妨げられませんが、その場合も常に緊急的に屋内退避や自力での避難ができるようにすることが求められます。】(【】内は首相官邸のサイトにある≪「計画的避難区域」と「緊急時避難準備区域」の設定について≫から一部引用、2011年4月14日現在) この文章も、「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」の語句同様に意味不明に近い。例えば、「緊急時避難準備区域」は「計画的避難区域」以外となっているが、「計画的避難区域」は「緊急に対応することが求められる可能性」が無いのだろうか。 また、「緊急時避難準備区域」においては、すでに「引き続き自主的避難をすることが求められ」ているにも拘わらず、あらためて「避難準備」をしなければならない。このように、それ以前の指示との整合性もあいまいだ。 そして、何よりも上記引用の文章には、際立った文章上の特徴がある。それは、「必要があります」とか「求められます」のオンパレードとなっている。これは、これまでの原発事故に関わる住民の対応行動に対して、「自主的な行動」しか指示していないことと同様に、行動する判断の全てを住民任せにしているのだ。 原発事故の現状や放射能汚染の状況が正確・迅速に、住民に知らされておればまだしも、それらの情報が、ベールを被せたように、住民にはわかりづらく提供されていたのでは、その判断さえできないのだ。それは、地元の該当自治体でも同じことで、自治体として住民に的確な指示も出せない。 このように、提起される行動の指示があいまいでは、結局住民は指示を受けていない、無指示状態におかれているのと変わらない。これは、住民には不幸なことだが、指示を出した?政府には、「再三再四指示した」と言うアリバイとなる。政府のわかりづらい説文も、そうしたアリバイのひとつかも知れない。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.15
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【枝野幸男官房長官は14日午前の記者会見で、福島第1原子力発電所事故や周辺住民の避難指示に関して「対応が遅れたということはない」と述べた。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日本経済新聞:2011年4月14日:2011年4月8日) 国民の大多数は、政府の「対応が遅れたということはない」とは思ってはいないが、仮に枝野幸男官房長官の言う通りだとしても、その指示があいまいだと、結局、指示を理解して、実際に避難するのは遅れることとなる。そればかりか、避難しない住民も多数出たのが実際の姿だ。 ところで、「災害対策基本法」には、そのレベルによって「避難勧告」「避難指示」「警戒区域」を別けている。ただ、これらを見たり聞いただけでは、どれが深刻であったり、緊急性や強制力のあるものかは、少なくとも一般国民には分りづらい。 実は、罰則を含めて最も強制力のあるのが、「警戒区域」なのだ。だから、原発事故による放射能被害を未然に防止するには、「警戒区域」を、一律に原発との距離で設定するのではなく、できる限り詳細に区域わけして、設定をする必要がある。しかし、地元自治体からの、要望があるにも拘らず、いまだに「警戒区域」は設定されていないのが現状だ。 それどころか、途中で「屋内退避区域」の設定、さらにその後「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」が設定された。「屋内退避区域」はともかく、後者の二つは、その違いや緊急性など、一般国民にとっては、にわかに理解できない概念となっている。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.14
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昨日の夕刻、巨大地震の余震により延期されていた、東日本大震災から1ヶ月の節目の、首相会見が行われた。地震・津波の傷跡は、まだまだ癒えず、原発事故の被害は未だ拡大中で、国民はまだ先の見えない不安の真っ只中にある。そんな最中の首相会見、国民を思いやった感動的な会見ならまだしも、冒頭から首相自身や政府の活躍ぶりが延々と語られる。 国民が、その活躍ぶりを実感していたなら、感動もあった。しかし、なぜか国難が進行中に実施された一斉地方選挙の結果が示すように、国民は首相や政府の対策を厳しく評価しているのだ。だから、首相が、我が成果?を語れば語るほど、私が感じたように、多くの国民は怒りをこみ上げるのだ。 空々しい首相会見の無感動さに、激しい国民の怒りの感情、この二つの距離こそ、政府の思惑と国民の願いの乖離を如実に示している。一般には、このような国難の最中に、首相を代えるのは好ましくない。だからと言って、それに代わる選択肢も見当たらない。 後は、国民の総力をもって、政府のごまかしに惑わされないように、それぞれの持ち場で奮闘する他は無いだろう。そして、耐え忍ぶのも一つの生き方だが、怒りを素直に為政者にぶつけるのも国民の一つの責務だ。声にして、文字にして、絵にして、音楽にして、そうすれば愚かな為政者は気付くかも知れない。 愚かな首相に捧げる一句:菅会見 無感動に 民カンカン!エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.13
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(その1からの続き、引用記事は再掲)【幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方に関する調査研究協力者会議(第8回) 議事要旨】(【】内は記事の見出しからの引用、Google ニュース/文部科学省:2011年4月8日) また、「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方について(報告)」(「接続のあり方について」と略記)の別の箇所には、昨今大きな問題ともなっている「小1プロブレム」などと「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続」とを関連させた次に引用する説明もある。【近年の子どもの育ちについては、基本的な生活習慣が身に付いていない、他者とのかかわりが苦手である、自制心や耐性、規範意識が十分に育っていないなどの課題が指摘されている。また、小学校1年生などの教室において、学習に集中できない、教員の話が聞けずに授業が成立しないなど学級がうまく機能しない状況(いわゆる「小1プロブレム」)にある学校が見られる。加えて、多くの情報に囲まれた環境にいるため、世の中についての知識は増えているものの、それらは断片的で受け身的なものが多く、学習に対する意欲や関心が低いとの指摘がある。 これらはまさに幼児期から児童期にかけての学びの基礎力の育成の在り方に関わる問題、すなわち「学びの自立」、「生活上の自立」、「精神的な自立」を培うことや「基礎的な知識・技能」、「課題解決のために必要な思考力、判断力、表現力等」、「主体的に学習に取り組む態度」といった生涯にわたる学習基盤の形成の在り方に関わる問題である。】(【】内は文部科学省のサイトから一部引用、2011年4月11日現在) 上記の問題は、今の教育が抱える重大問題ではあるのだが、それを克服するための方策として「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続」は、一定程度理解できるし、それなりの意義もあるかも知れないが、その「円滑な接続」は、下手をすれば小学校教育の幼児期へのなし崩し的拡大、すなわち公的教育の低年齢化となりはしないだろうか。 幼稚園などの公的幼児教育や、塾・習い事などの私的幼児教育などで、幼児期のこどもたちが教育される時間や期間は、今ほど長かった時代はない。そして、この異常なまでの教育の低年齢化、言い換えれば、こどもたちの勉強し過ぎこそ、上記の文部科学省が指摘する、今のこどもたちが抱える問題の背景なのだ。 それは、さらに言い換えると、あそびの量的・質的不十分さこそ、改善しなければならないのだ。その点で、文部科学省の提起する「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続」が、小学校教育の幼児期へのなし崩し的拡大につながれば、ますますこどもたちの抱える問題を深刻化させるのだ。 文部科学省は、「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続」よりも、幼児期から小学校期(本部ログでは「あそび期」と定義している。)の、あそびの量と質を、少なくとも高度経済成長期以前の状況に戻すことを考えるべきで、そのためには「幼児教育と小学校教育」の抜本的な見直しが必要なのだ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.12
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ネットニュース検索をしていると、次のような長い見出しの記事がヒットした。【幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方に関する調査研究協力者会議(第8回) 議事要旨】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/文部科学省:2011年4月8日) この「調査研究協力者会議」が、どのようなものかを知るために、早速、文部科学省のサイトをのぞいて見た。この会議の目的と考えられる部分を、「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方について(報告)」(「接続のあり方について」と略記)にある、「第1章幼小接続の現状と課題」の「1.幼小接続の重要性」を以下に引用しておく。【幼児期の教育(幼稚園、保育所、認定こども園における教育。以下同じ。)と児童期の教育(小学校における教育。以下同じ。)は、それぞれの段階における役割と責任を果たすとともに、子どもの発達や学びの連続性を保障するため、両者の教育が円滑に接続し、教育の連続性・一貫性を確保し、子どもに対して体系的な教育が組織的に行われるようにすることは極めて重要である。(なお、本報告書における「幼小接続」については、幼稚園と小学校という学校同士の接続はもとより、保育所、認定こども園といった幼児期の教育を担う施設で行われる教育と小学校教育との接続も考慮した上で用いている。)】(【】内は文部科学省のサイトから一部引用、2011年4月11日現在) 文部科学省のどなたが、上記の文章を起草されたかは定かではないが、わかったようでわかりにくい文章となっている。例えば、「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続」が「子どもの発達や学びの連続性を保障するため」に重要だと言うことだが、では何故「子どもの発達や学びの連続性」が大切なのかが、この部分だけでは理解できない。 同上の「接続のあり方について」を、さらにざっと見てみると、「教育基本法」に「幼児期の教育と児童期の教育の連続性・一貫性」の重要性が指摘されているとか、「幼稚園教育要領」、「保育所保育指針」、「小学校学習指導要領」に明記されているとか、上記と同じ疑問が起こるような文章が続いている。ようするに、文部科学省が「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続」を求めているにも拘わらず、依然としてその進展がほとんど見られないと言うことのようだ。 では、文部科学省や「教育基本法」が提起する、「幼児期の教育と児童期の教育の連続性・一貫性」が無かった時代や、意図的な「幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続」が行われていなかった時代の、こどもたちの成長・発達や学力などに、大きな問題があったのだろうか。 また、幼稚園、保育所、認定こども園などに通っている子は、昔に比べて格段に多くなったとは言え、全く通っていないこどもたちは今でも少なくはない。それらのこどもたちは、制度的には「教育の接続」は有り得ないが、そのままで問題は無いのか。まさか、文部科学省は、このこどもたちを失念していたわけではないだろう。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.11
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(その1からの続き、引用記事は再掲)【小学校入学直後の児童が教諭の話を聞かなかったり、授業中に立ち歩いたりし、学校生活に適応できない「小1プロブレム(問題)」を防ごうと、加西市教委が就学前の園児に取り組ませたトレーニングが効果を見せ始めている。兵庫教育大大学院の松村京子教授が編み出した手法で、子どもたちは自らの感情を調整し、集中力を高める練習を続けてきた。(中略)約30人の園児がそれぞれ絵本を読んでいるところへ、ぬいぐるみを持った教諭が「遊ぼうよ」と声を掛けて回る。園児が“妨害”に気を取られず集中して読み続けると、教諭はご褒美として、紙の上にハートマークを描いた。 続いて教諭は、園児同士で好きな遊びをするよう指示。子どもたちは楽しんでいる最中でも、教諭に「先生の方を向いて」と呼び掛けられると、すぐに手を止めた。教諭は「よくできました」とまたハートを描いた。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/神戸新聞:2011年4月6日) 上記記事のような、就学前のごく普通の生活には無い「トレーニング」が、行われていなかった昔の頃の方が、今より「小1プロブレム」は少なかったのだ。反対に、昔のようなごく普通の生活を、今の就学前のこどもたちに取り戻すことこそ、「小1プロブレム」を防ぐ本道となると考えていい。 その「昔のようなごく普通の生活」とは、昔のように就学前のあそびの、量と質が確保されることだ。それほど、今のこどもたちは就学の前後を通して、あそびの時間は少なくなり、あそびの質は大きく変質しているのだ。そして、このあそびの変化こそ、「小1プロブレム」の最大の土壌となっているのだ。 あそびの中でも、他のこどもたちとの仲間あそびや集団あそびにより、様々な個性を持ったこどもたちとの人間関係を築き、集団生活に慣れるだけでなく、その中でコミュニケーション能力を育むのだ。もちろん、そんなあそびの中には我慢をする場面も多くあり、自己を律する力(自己制御力)も自然と培われる。この自己制御力こそ「“妨害”に気を取られず集中して読み続ける」ことを可能にする素地であり、「教師や親などの呼び掛け」にも素直に従える力の根源ともなる。 今のこどもたちのあそびは、就学前後を問わず、他のこどもたちとのあそびが貧弱になっている。それは、あそびの絶対量の少なさだけでなく、その少なさの上にあそびが「一人あそび」に偏っているのだ。このことを改善することこそ、「小1プロブレム」を防ぐ、最もこどもらしい道なのだ。上記のような「トレーニング」は、その道さえ奪うことにはならないのだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.10
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【小学校入学直後の児童が教諭の話を聞かなかったり、授業中に立ち歩いたりし、学校生活に適応できない「小1プロブレム(問題)」を防ごうと、加西市教委が就学前の園児に取り組ませたトレーニングが効果を見せ始めている。兵庫教育大大学院の松村京子教授が編み出した手法で、子どもたちは自らの感情を調整し、集中力を高める練習を続けてきた。(中略)約30人の園児がそれぞれ絵本を読んでいるところへ、ぬいぐるみを持った教諭が「遊ぼうよ」と声を掛けて回る。園児が“妨害”に気を取られず集中して読み続けると、教諭はご褒美として、紙の上にハートマークを描いた。 続いて教諭は、園児同士で好きな遊びをするよう指示。子どもたちは楽しんでいる最中でも、教諭に「先生の方を向いて」と呼び掛けられると、すぐに手を止めた。教諭は「よくできました」とまたハートを描いた。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/神戸新聞:2011年4月6日) 「小1プロブレム」を防ぐさまざまな取り組みが、全国各地で行われているが、上記記事もその一つだ。ただ、上記記事の方法は、一時的には「効果」が上がったように見えるかも知れないが、はたして就学前のこどもたちの成長や発達にとって、このような方法が適切かどうかは、少なからず疑問をおぼえる。 少なくとも団塊の世代がこどもの頃(1950年代)には、上記のようなトレーニング(仮に「ご褒美トレーニング」としておく)を全く受けずに過ごしたこどもたちばかりではあったが、「小1プロブレム」は、今ほど多くも深刻でもなかった。このことの検証を抜きにして、「小1プロブレム」の解明や「ご褒美トレーニング」の導入は、妥当なのだろうか。 また、就学前のこどもたちに、「“妨害”に気を取られず集中して読み続ける」と言う、ある意味不自然な状況を繰り返させることの、こどもたちへの影響を検証する必要がある。反対に、「ご褒美」も全く無いのに、「“妨害”に気を取られず集中して読み続ける」ことも、昔のこどもたちの生活では、就学の前後を通して、珍しいことでもなかった。 さらに、「好きな遊び」をしていて、教師や親などの「呼び掛け」を、たびたび無視をしていた、就学前のこどもたちの全てが、就学後に「小1プロブレム」に陥るわけでもない。一般的に、嫌々でも時には、教師や親などの「呼び掛け」に従ったりすることで、就学前のこどもたちは徐々に、自分を律する力を育んでいくのだ。(続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.09
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次に、責任転嫁を許さないような体制について、私見を綴ってみる。指揮と情報の系統を整理するには、政府の「原子力災害現地対策本部」に、事故対策の直接の指揮と事故情報の発信を、一元化するのが最も現実的な道だろう。なぜなら、「原子力災害現地対策本部」は、国が責任を持てる最も事故現場の近くにある機関なのだ。しかも、ここには、国、自治体、東京電力の三者がそろっているし、「原子力安全・保安院」や「原子力安全委員会」の担当者もいるのだ。 もちろん、「原子力災害現地対策本部」が、あらゆる事態に対処して、的確な対策を実行するには、相当の権限を委ねる必要がある。その上で、昨日列記した各機関は、「原子力災害現地対策本部」の後方支援的役割を果たすべきだろう。もちろん、首相は全面信頼できる適任者を、「現地対策本部」の実質上の責任者に任命し、必要なら事後に任命責任をとればよい。そのような、部下を信頼して任命できないようなら、首相職を即刻辞すべきだろう。 なお、事故の初期段階における「ベント」を巡って、内閣は東京電力に再三「指示」していたと言うが、原発事故は、本来なら「指示」のような生易しいものではなく、断固とした「命令」を下す事態なのだ。当然ながら、「命令」には重大な責任が伴う、だから「指示」の連発は、相手任せにする責任転化の方便に過ぎないのだ。だから、「命令」を下さなかった、政府の「原子力災害対策本部」の本部長としての首相の責任は、原発事故を拡大させた一因と考えられるくらいに、極めて重大なのだ。 尤も、原子力災害対策特別措置法には、原子力事業者(ここでは東京電力)に対しての「命令」規定は無いようだが、同法の下記の条文を考慮すれば、「指示」に従わないような原子力事業者に対しては、十分に行政命令が可能だと思うのだが。もし、行政命令も出来ないような法律ならば、原子力災害対策特別措置法は、重大な欠陥があると考えていい。【(原子力事業者の責務) 第三条 原子力事業者は、この法律又は関係法律の規定に基づき、原子力災害の発生の防止に関し万全の措置を講ずるとともに、原子力災害(原子力災害が生ずる蓋然性を含む。)の拡大の防止及び原子力災害の復旧に関し、誠意をもって必要な措置を講ずる責務を有する。】(【】内はページ「原子力災害対策特別措置法」から一部引用、2011年4月8日現在)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.08
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昨日、汚染水の放出の事前連絡をめぐって、次のような記事が配信されていた。【経産省の原子力安全・保安院は、「東京電力」に対し、放射性物質を含んだ汚染水などを放出する場合は、事前に関係する自治体に通報するよう指示した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日テレNEWS24:2011年4月6日) 福島原発事故をめぐって、各組織・各機関からの指示・注意・苦言が出されているが、それらの多くは、基本的には責任転嫁と考えてよい。そのことを、上記記事のものも含めて、幾つかの記事の見出し(およその一部分)を紹介して、私見として綴っていく。【原子力保安院と連携指示 首相、原子力安全委員長に】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日本経済新聞:2011年3月24日)【保安院、東電に再発防止へ改善指示 福島原発の作業員被ばく】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日本経済新聞:2011年3月25日)【1号機の排気「再三指示」 枝野官房長官】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2011年3月28日)【保安院、東電を注意 作業員の線量計不足で】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2011年4月1日)【保安院、東電の放射性数値に「誤りの可能性」「大変遺憾」】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2011年4月1日)【「保安院から報告遅い」 安全委が苦言】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2011年4月1日)【保安院 東京電力に事前通報するよう指示】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日テレNEWS24:2011年4月6日) このように、様々な指示や注意が飛び交っているが、それらはそれらで大事なことかも知れないが、「指示した」「注意した」と言ったことでもって、指示・注意した者は責任を逃れることは出来ないのだ。そのことを考察する上で、そもそもの原発事故対策の組織や機関が、どうなっていたのかを、福島原発事故に関わる、既存・新設の組織・機関を、以下に列挙しておく。政府の「原子力災害対策本部」(本部長:菅直人首相)政府・東電の「福島原発事故対策統合連絡本部」(本部長:菅直人首相)政府の「原子力災害現地対策本部」(本部長:松下忠洋経済産業副大臣)「内閣府原子力安全委員会」(委員長:班目春樹)経済産業省の「原子力安全・保安院」(院長:寺坂信昭)内閣官房(菅直人首相、枝野幸男官房長官、原子力関係の参与)東京電力(勝俣恒久会長、清水正孝社長) これらを見てわかるのは、事故対策にあたる国レベルの組織・機関の多さだ。ようするに、それぞれの組織・機関が、上記記事のように勝手気ままと受け止められても致し方ないような、独自会見をすること自体、大きな問題をもっているのだ。 また、指揮・命令する組織・機関が多いことは、ある意味で責任を転嫁できる相手が多くあることを意味するし、実際にも、他の組織・機関に「指示をした」「注意をした」で、責任を転嫁しているのだ。さらに、指揮系統も複数になったり混乱したりする、構造的条件ともなっている。これでは、指揮・命令が混乱しない方が難しいかもしれない。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.07
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【東日本大震災で、大阪市が国際見本市施設「インテックス大阪」(大阪市住之江区)内に開設した人工透析患者向けの一時避難所について、市は5日、自宅が損壊した被災者らの利用も受け付けると発表した。日本透析医会の要請で先月28日に開設したが、患者の利用がなかったため。 市によると、一時避難所は約1億5000万円を投じ、屋内展示場に生活スペースやシャワーなどを設備。当初は、福島県いわき市周辺の透析患者を最大400人受け入れることを見込んでいた。しかし、現地にある医療機関の機能回復が早かったため、今後に利用する患者は多くても数十人程度という。(中略)世の中で「理系離れ」と言われるが、「こんなに楽しいのになぜだろう」と不思議がり、「答えが一つであいまいじゃない数学はすっきりする」と言い切る。将来は国立大医学部に進み、内科医になって多くの人を助けたいという。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2011年4月6日) 震災後半月以上もたって設置し、さらに1週間過ぎて、この有様だ。大阪市が正確な情報がつかめていないまま、必要量や見通しなどを詳細に検討せず、民間団体の要請をそのまま受け入れる。これならこの支援策の空振りは、当然の帰結と言えよう。今後、膨大な復興費が予想されることを考えると、約1億5000万円は、大きな損失だ。 この事態は、国と自治体相互の情報伝達の不十分さが招いたと考えてもいい。これは、内閣府や現地にある、それぞれの対策本部における、国のイニシアティブが、十分には機能していないことを意味している。また、それは、原発事故に関わる一連の対策が、後手後手となっている一因でもある。 また、仮に国の指導力が不足していても、大阪市がもっと積極的に情報を収集、例えば国の尻をたたいて透析患者情報を集めさせるなどして、必要な情報を集めて、透析患者の長距離移送が妥当かも含めて、支援策を十分検討していれば、こんな馬鹿げた事態にはならなかったのだ。 大震災で一般国民が混乱して慌てるのは理解できるが、国や自治体がこのように、結果として慌てふためいたと同然の対応では、どうしようもない。尤も、国や自治体の長が無能でも、現場を預かる官僚がしっかりすることで、このような事態は防げる。国や自治体の官僚のみなさんは、すでに大奮闘中だとは思うが、ここで、もうひと頑張りする時だと思うのだが。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.06
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【遊びはやっぱりお外が一番! 津波で壊滅した陸前高田市で4日、「青空保育園」が開かれた。児童らは時折雪が舞う寒さをものともせず、元気いっぱい駆け回っていた。 青空保育園は、避難所などで満足に遊べない子供らを励ます一方、子供に付きっきりになっている親の負担を軽減させるために市が企画したもので、開催は震災後初となる。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2011年4月5日) まずは、大震災後の厳しい状況下で、このような素晴らしい企画を実施された、陸前高田市に心からの敬意を表しておく。また、多くのボランティア団体により、同様の取り組みが行われている。こうした皆さん方にも、こどもたちに代わって、大きな感謝をここに付記しておく。 あそび盛りの小学生たちはもちろんのこと、幼児から高校生までのこどもたちにとって、狭い避難所での生活が長期間続くと、震災による心身の一次的な疲れや痛みだけでなく、その後の様変わりした窮屈な生活が及ぼす二次的な影響も大きい。 そうした時に、スキンシップとともに、あそびが極めて大きな意義をもつ。衣食住がある程度満たされた状況下では、身体を思い切り使ったあそび(スポーツ)が、さらに大切になる。適度な運動は、心地よい睡眠を誘ってもくれる。ぐっすり眠ることは、あの震災の忌まわしい記憶も、適度に軽減してくれるだろう。 避難所によっては、まだその水準には達していないかも知れないが、そうしたところでも、自主的に出来る範囲で、こどもたちに思い切り身体を使ったあそびの環境を作っていただきたい。身体を動かすことが可能なおとなのみなさんも、こどもたちと一緒にあそべば、こどもほどではないが、良い効果も期待できるだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.05
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「戸車ボード」、実際にはこんな名前のものはない。ここだけの仮の名前だ。私が小学校の高学年(1960年代前半)くらいの時に流行ったあそびで、昔版のスケートボードのようなものだ。戸車と言う、引き戸などの底に付いている小さな車輪状の部品を、適当な木の板に打ち付けて作る、手作りのスケートボードだ。尤も、スケートボードのように立って乗るのではなく、ソリのように乗って、もっぱら坂道を滑ってあそんだ。 あまり長い坂だと、スピードが出すぎるし、坂の終わりの前面に壁や塀などの障害物の無い場所が安全で、そうした場所は地域に多くは無い。だから、人気のある場所は、手製の「戸車ボード」を持ったこどもたちが多く集まっていた。そんな自作ボードの中には、方向転換装置の付いたもの、ブレーキもどきの付いたもの、座る台座の付いたものなど、様々に工夫されたものもあった。 当時は、大阪市内ではコンクリート舗装された道路も整備されており、そんな道路の中に、「戸車ボード」に最適な場所が、私の町内にもあったので、自前のボードを作ってよくあそんだ。道路と言っても、自動車がめったに通らなかった、のどかな時代ならではの思い出のひとつだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.04
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相手をミスリードしてごまかす、言葉あそび(クイズあそび)の一つで、大学生の時に友人に教えてもらったのが「メンソレータム」と言うあそびだ。「メンソレータム」とは、もちろんあの有名な塗り薬だが、それを使ってあそぶのでない。「メンソレータム」と言う言葉だけを使ってあそぶのだ。 このあそびは、設問者が、ある一連の文章を言い、それが正解か間違いかを当てるあそびだ。説明するより、実際にブログ上でやってみる。「メンソレータム、メンソレータム、タン、タン。これは間違いの例で。」「メンソレータム、タン、タン、タン、メンソレータム、はいこれは正解の例だ。」この両者の違いを見極めて「間違い」「正解」を言い当てるのだ。 では、さらに続けてみる。「メンソレータム、タン、タタタン、メンソレータム。これはどうだろうか?」間違いなのだ。(以下同様に)続いて、「メンソレータム、タンタタ、タン、タン。これは?」間違い。さらに、「メンソレータム、メンソレータム、タ、タ、タ、タ、タン。はいこれは?」正解。 このように、文字で書いたものを見れば、ほとんどの方はすでにお分かりだと思う。ようするに、「メンソレータム以下カタカナで書いた部分は関係なく、最後のほうに「これは」だけになっているのが間違いで、「はいこれは」と「はい」が入っているのが正解なのだ。 こんな単純なものだが、実際に言葉で聞けば、なかなかわかり辛く。「メンソレータム」や「タン」をイントネーションやリズムを変えて言うと、さらに相手をごまかせる。そして、本当は、「メンソレータム」などを唱えながら、指を使った動作が加わる(その説明は省く)と、ほとんどのものがミスリードされるのだ。 後に学童保育師(学童保育指導員)になって、こどもたちを何度も引っ掛けて、こどもたちを喜ばせたのは言うまでも無い。あそび道具など何も無い、屋内などの狭い場所で、あそぶにはこのような言葉あそびを活用するのも一案だ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.03
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【被災地でいち早く具体的な支援を始めたのが、福島県会津若松市の寺子屋方丈舎の江川和弥さん。(中略)また、「社会や周囲の大人の不安を感じながらでも、子どもは遊び、そのなかで学び成長する」という思いから、避難所で遊び場を創設。毎日朝10時から子どもたちの遊びを支えている。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/Fonte:2011年4月2日) 上記記事のように、東日本大震災後の各避難所でのこどもたちのあそびの様子を伝える記事は多い。あそびはこどもたちの心の傷を癒すばかりか、その笑顔と歓声が、そのまわりにいる被災者の皆さんを励まし、未来への確かな希望を与えてくれる。 人は自らの未来を託すこどもたちの、生き生きした姿があるから、生きる力も湧いてくる。愚かな首相のパフォーマンスにすぎない、シナリオ通りの淡々とした会見より、こどもたちのあそびは、、復興への国民の確かなエネルギーとなるだろう。 このブログのテーマ「あそびはこどもの仕事やで!」を借りれば、日本の復興をその屈託の無い笑みで励ます仕事も、こどもたちのあそびは成し遂げるのだ。ただ、その仕事を被災地のこどもたちが果たすためには、今は多くのおとなの援助が必要だ。 そのために被災地で、すでに奮闘中の皆さん方のご努力に感謝しつつ、今後も復興の活力となる、こどもたちのあそびを、震災前よりも豊かにするための、ご支援を願うものだ。できれば、こどもたちにとっては、少しだけお兄ちゃん・お姉ちゃんである、若者の皆さん方の決起を、心から希望するものだ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.02
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(3月10日付けで、震災により中断していたブログ記事を、前半部分を再掲して、続きを掲載する。)【佐賀大文化教育学部付属小5年生の山口颯仁(はやと)君(11)が、数学検定(数検)2級=高校2年生レベル=に合格した。(中略)世の中で「理系離れ」と言われるが、「こんなに楽しいのになぜだろう」と不思議がり、「答えが一つであいまいじゃない数学はすっきりする」と言い切る。将来は国立大医学部に進み、内科医になって多くの人を助けたいという。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2011年3月8日) 実は、私も算数(数学)が好きな小学生だった。成績は、記事の「はやと君」のように優秀ではなかったが、その後の中学・高校・大学での数学にも、嫌いになることなく付き合えた。 普通は算数が苦手だったり嫌いなこどもたちも少なくないのだが、はたして「はやと君」のようなこどもは、特別なこどもなのだろうか。私は、そうではないと思っているし、それは確信と言い換えてもいいくらいだ。こどもたちは、算数が嫌いになるのではなく、嫌いにさせられているのだ。 もちろん、その第一の責任は学校の教育にあるし、親をはじめとした保護者の責任も小さくはない。このブログでも幾度か指摘したが、「なぞなぞあそび」や「クイズ」は、ほとんどのこどもたちが、大好きなあそびのひとつとなっている。 もちろん、あそびと勉強の違いはあるが、その魅力の根源には、知らなかったことを知る喜びがあるのだ。だから、算数に限らず勉強することにより、新しいことを知ることは、本来こどもたちにとって楽しいはずなのだ。そして、このあそびと勉強の違いが、同じ「知ること」を好きと嫌いに分けているのだ。(ここまでが再掲部分) では、あそびと勉強とのどんな違いが、「知ること」の好き嫌いを分けるのだろうか。それは、こどもたちが自主的であるかどうかに大きく関係し、自主的であればあるほど勉強における「知ること」も好きになるのだ。 もちろん、完全に自主的にこどもたちが勉強に取り組むのを待てば、一向に勉強しないと言うことも起こりうる。そこで、こどもたちを勉強をさせるには、何らかの働きかけが必要となり、その強制度に比例して、勉強における「知ること」が嫌いになる傾向がある。 ただ、その働きかけも、こどもたちの自主性を引き出すような試みであれば、当然勉強嫌いになる度合いを低くする。さらに、勉強した結果を肯定的に評価することも大切で、その反対に、思わしくない成績結果であっても、極力こどもたちを否定的に評価しないように心がけるのも、勉強嫌いにさせない一つの方法となるだろう。 なお、算数や数学は、論理的に物事を考えると言う、各教科に共通した大事な素地を育むので、他教科に比べても、嫌いにさせない接し方が望まれる。また、こどもの自主性を促すような学習指導は、簡単ではなく時間もかかるが、好きになった後は、学習の速度と内容が大幅に改善され、結果として学力の向上に大きく寄与することを付記しておく。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓
2011.04.01
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