2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全31件 (31件中 1-31件目)
1

こどもたちは、あそびにおいて、様々な数と量を、実践的に使いこなしており、本来なら、算数嫌いや数学嫌いには、ならないと思われるのだが、実際にはそうではない。 また、ある種のパズルを解くあそびの時には、楽しそうに時間の経つのも忘れて熱中するが、似た問題が算数の授業で出題されると、途端に嫌になってしまうことも多々ある。 あそびに限らず、この世の中は、ある意味で数学的に記述できると考えていい。それが完全に無理であっても、少なくとも数学的に記述をしようと試みられている。その意味では、そんなにも大事な数学が、嫌いな子が増えるのは、より良い社会発展にとっても不幸なことだ。 さて、あるパズルにおいて、数と言うものを勘違いさせられていることがある。それは「数独」あるいは「ナンバープレイス」と呼ばれるパズルだ。認知症予防などの触れこみで、高齢者の方にも愛好されているパズルだ。 このパズル、「数(すう)」あるいは「数(かず)」を対象にしているパズルだと思っている方が多い。それは、そのパズルの名称からの影響が大きい。尤も、「ナンバー」を数字と解せば、まだその誤解は少なくなる。 このパズル、マス目に入れる「もの」は、「数字」でなくてもいいのだ。9種類の文字でもいいし、9つの違った色でもいい。ようするに、このパズル、少なくとも表面上は、「数」を扱ってはいないのだ。 ここで表面上と言ったのは、あらゆる場合の組み合わせから、正解となる組み合わせを導き出すと言う点で、数学的であるからだ。また、少なくとも超難問の問題を解くことで培う論理的な思考は、数学的センスを鍛える。 そして、このパズルにおける、最大の醍醐味は、解法を全く知らずに、その解法を自らの力で導き出すことだ。幸い、私は解法を知らずに始めたので、その点で、このパズルを最も楽しんだ一人と言える。 もし、まだ「数独」あるいは「ナンプレ」を始めていない人は、ぜひパズルの解き方を見ずに、始めてほしい。こどもたちにも、そうさせてほしい。もちろん、このブログでくどいほど指摘しているように、あそびは強制して始めるものではない。自発的に始めるから、楽しいのであって、だからこそ自分で解法が見つけられるのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.31
コメント(0)

図が必要なあそびや、図を描くことを目的としたあそびは多い。「石けり」や「ケンパ」、「ビー玉あそび」や「釘刺し」、簡単な「ボールあそび」や「三角ベース野球」、こどもたちは、あそびの度に多くの図を描いてきた。 しかし、最近では、この「あそぶために図を描く」ことが少なくなっているようだ。そして、その描く図も、昔に比べ格段に種類が少なくなっている。これは、そうした図を地面に描いて楽しむあそびが激減しているからに他ならない。 さらに、昔に比べて、筆記具・絵具・用紙などは、豊富になり、こどもたちにも手に入り易い環境になったにも拘らず、それに見合って、図や絵を描いてあそぶことは増えてはいない。それどころか、率直な感想では、減っているようにも思える。 こうした、あそびの変化が影響した結果なのだろうか、「図画工作」いわゆる「図工」が嫌いな子が増えているようなのだ。昔のこどもたちの、学校の授業で大好きな時間が「図工」と「体育」だったのとは大違いだ。 そのせいか、昔も苦手な子が多かったが、図形や幾何の問題が苦手な子が、何度も教育改革が行われても、一向に減る傾向が見られない。塾での勉強時間を加味すれば、極めて非効率な幾何教育となっている。 こうした状況は、幾何に限らず、物理や化学などの自然科学の分野に広がっている。これは、このブログでも指摘している、学力や知識の土台となる生活体験の不足、なかでも、こども期(幼児から小学生)のあそびの決定的な、質の悪さと量の不足に、起因しているのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.30
コメント(0)

こどものあそびには、「親」が登場することは、珍しいことではない。ここで言う「親」は、こどもの本物の親ではない。あそびにおいて、特別の役割や機能を持った対象に「親」が使用されることを意味している。 たとえば、チーム対戦型のゴム跳びなどで、チームの一員(「子」と呼んだりする。)が失敗してアウトになった時に、「親」が代わりに成功すれば、復活する。その他のチーム対戦型のあそびにも、特別の能力の持った「親」が登場する。 人間が「親」の対象となるあそびは、チーム対戦型のあそびだけに限らない。「親」の真似をするあそびがその一つで、「親」の真似が出来なければアウトになる。鬼役の馬を跳び越えながらあそぶ「エビ跳び」と呼ばれた、大阪の昔のあそびもそうだ。 「親」の対象となるのは人間だけではない。お手玉やビー玉などでは、「親玉」が登場する。その玉は、他の玉とは違った役割が付加される。たとえば、ビー玉では、親玉に当てると、残りの全ての玉をもらえるルールのあるあそびがある。 このように、こどもたちは、あそびの中で、特別の能力を持った対象を「親」に例えるのは、親という存在に対して、そうした特徴を感じ取っていたり、あそびを通じて親と言うイメージを培っているのかも知れない。 昔は、他人を肉体的にも精神的にも傷付けたり、社会的道義などに反することを除いて、親は子のあそびに、ほとんど口出し、もちろん手出しもしなかった。今や、「知育遊び」と称して、無理やりやらせたり、ゲームは1時間までとか、あそび時間を制限したりする、親たちが増えている。 今の、こどもたちのあそびでは、イメージとしての「親」より、正真正銘の親が登場することの方が多くなった感がある。おそらく、こどもたちにとっても、この社会にとっても、好ましい状況ではないことは、間違いがないだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.29
コメント(0)

時代の流れとともに、新しい遊びが生み出されてきた。また、同じ遊びをとっても、さらに多くの新しい遊び方や呼称が生み出されてきた。それは、遊びが極めて自由な活動であったことの証でもある。もちろん、消え去る、遊びや遊び方、そして呼称がある。 しかし、近年においては、新しい遊びが生み出される速度は落ちて来ている。新しい遊び方や呼称においては、ひょっとすれば、消失する方が勝っているかも知れない。 例えば、いわゆる「じゃんけん」だが、今では「チョキ」を親指と人差し指で行う人は、ほとんどいなくなった。また、その呼称は、昔の大阪では「いんじゃん」がほとんどだったが、今では「じゃんけん」に統一しつつある。 その「じゃんけん」の掛け声のかけ方に至っては、地域ごとに違うくらいな状況だったが、それも極端に減ってしまった。おそらく、新しい掛け声は、ほとんど生まれていないと言っていい。 このような状況になったのは、あそびの伝承と伝播の仕方が、大きく変わったからで、さらに、その原因は、あそびのあり方が変わってしまったからだ。前記のようなあそびにおける「新」の状況は、こどもたちがあそびの中で、自らが創り出してきたからに他ならない。 今や、あそびが始まったり、流行したりするきっかけは、こどもたち自身と言うよりも、おとな、それも玩具メーカーや、マスコミに携わるおとなたちによって、もたらされているのだ。もちろん、こどもたちの保護者などの身近なおとなが、買い与えたり奨めたりすることもある。 だから、全国津々浦々まで、こどもたちが全く同じ遊びを、全く同じ遊び方で行っているという、昔では考えられなかった、その意味で異常な状況が、ごく普通に見られるようになっているのだ。 男の子で言えばメンコやビー玉、女の子で言えば、おはじきやお手玉など、これまでのあそびの歴史の中で、新しく生み出されてきた、あそびやあそび方は、今、急速に消えつつあるが、「新」の付く紙である「新聞紙」を使った折り紙やあそびも、その多くが、こどもたちのあそびから姿を消した。 新聞はもちろんのこと、それに入っていたチラシ、さらに雑誌や本までもが、デジタル化されるようになった現代では、新聞紙すら手に入り難くなっていく。新聞紙ほどの大きな紙を使ったあそびは、そのために、わざわざそれ用の紙を、買わなければならなくなってしまうだろう。 新しいあそびを考え出し作っていく活動は、こどもたちが簡単に行うことのできるクリエイティブな活動だ。その意味では、あそびは、新しい発想を育み、やがて偉大な発明・発見につながる可能性を秘めている。それが、失われつつあるのは、残念なことだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.28
コメント(0)

「遊び心」と言う言葉は、本来の遊びに使われるよりも、遊び以外の活動において使われる事が多い。しかし、おそらく、その遊び心は、遊びにおいて研ぎ澄まされれると考えていい。そして、その遊びは、こどもの頃に最も旺盛に展開される。 小学生くらいまでのこどもの頃の遊び心は、いたずらに発揮されれたとしても、他愛もないものがほとんどだ。しかし、その年齢が上がると、遊び心は時として、重大な犯罪に直結することは、多くの事例が示している。 ふと、おとなになるまでに、必用な遊びの時間の量は、みな同じかもしれないと思うことがある。もしそうなら、年齢の高い頃の許されない犯罪としてのいたずらは、幼い時期のあそびが貧弱なのかも知れない。 あそびは、優れた遊び心だけでなく、こどもたちに様々な「心」を育てる。他人や生命を思いやる心、自然の神秘と偉大さを感じ取る心、その他、好奇心、探究心など、書き切れないほどの、多様な心を育てる。そして、そうした心は、この社会にとってかけがえのない、個性となる。 そうならば、当然ながら、そうした心を育てるあそびがある。もし今の時代に起きている、不登校、引きこもり、いじめ、虐待、自死など、数多くの憂うべき出来事は、不幸にも歪まされてしまった心に起因するかも知れない。 このことに、多くのおとなたちが気付いて、こどもたちの心を育むあそびを見直し、こどもたちのあそびの環境を改善するように、出来る限り努力することは、この社会のより良い未来を切り拓くだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.27
コメント(0)

あそびにまつわる「食」を語るには、省けないものとして、「駄菓子」と「食玩」がある。この二つの内、食玩は、形を変えながら、ますます発展しつつあるが、駄菓子は、その様相を大きく変えつつある。 駄菓子の大きな変化は、まずそれを販売する、昔ながらの町の駄菓子屋さんが、ほとんど姿を消したことにあらわれている。もはや駄菓子は、こどもたちの日常のお菓子ではなくなってしまったのだ。今では、こどもたちよりもおとなが郷愁を求めて買っているようなありさまだ。 もちろん、駄菓子そのものが、こどもたちに人気が無いわけではない。駄菓子あるいは同じような低価格の菓子類は、コンビニやスーパーでも、最近では100円ショップでも買えるし、こどもたちも結構買っている。 駄菓子屋さんが減ったのは、駄菓子に理由を求めるよりも、駄菓子屋さんのもう一つの人気商品である駄玩具の衰退に求めていい。駄玩具を使ってあそばなくなったのだ。そのまた原因は、このブログで指摘のあそびの変化による。 駄菓子はこのように衰退の一途をたどるが、駄菓子の衰退に反比例するように、食玩は増えてきた。それはブームとなり、菓子と玩具の立場が逆転し、お菓子がおまけの玩具と言うべき代物が主流となった。 ただ、最近の不景気のせいか、そうした行き過ぎた、食玩ブームは、やや下火になりつつあるが、基本的にはその方向で推移するだろう。そして、こどもたちは、そうした食玩よりも、メーカーにより作られてレアものを求めて、カードやキャラクター玩具に振り回されている現状がある。 駄菓子と食玩の、こうした変化は、当然ながら、こどもたちが望んだことではない。おとなたちの都合により、作りだされたあそびの変化、その必然的な結果として、駄菓子の衰退、食玩の変化がある。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.26
コメント(0)

この世に光があり、その結果として色があることを、私たちは感謝しなければならないだろう。色があることで、こどもたちのあそびは、さらに楽しくなり、時には美しさも感じることとなる。 さて、その色にまつわるあそびの話だが、今では「折り紙」として販売されている、正方形の様々な色の着いた紙、私がこどもの頃は、「色紙(いろがみ)」と呼んでいたし、その商品名でも販売されていた。 また、折り紙も、昔は色の着いた紙で折ることは、そんなに多くは無かっただろう。自然には色が満ちあふれているが、それを紙に再現するのは難しく、色の着いた紙は、元々の紙自体が高価であったことを考えると、おそらくかなり高価な紙となっていただろう。 だからこそ、市販のいわゆる「折り紙」は、「色紙」だったのだ。色そのものに値打ちがあったと言える。色の着いた紙のありがたさを、当時は、こどもながらに、気付かぬ内に自覚していたのかも知れない。 このように、色自体の存在もありがたいが、色が着いた玩具やあそびのアイテムを手軽に楽しめる様になったのも、ありがたいことだ。そんなありがたい色そのものを楽しむあそびは色々ある。 色水あそびは、草花の色であそんだ時代から、絵具や染料であそぶ時代となった。塗り絵もクレヨンやクレパスから、20色以上もある色鉛筆、さらにデジタル画面に一瞬で完璧に塗り潰せるようになった。 どちらが、こどもたちに良いかは、意見が分かれるかも知れないが、少なくとも色のありがたさや神秘性が実感できるのは、自然の色であり、アナログなアイテムによる塗り絵であることは、誰もが賛同できるだろう。 「色鬼」と言うあそびがある。携帯やスマフォが当たり前の時代、手に持ったデジタル機器は、鬼の指定した色を直ちに画面に表示する。しかし、それを禁止するルールにしなくてもいい。おそらく、そうしたあそび方は、こどもたちはしないだろう。なぜなら、そんなあそび方は、つまらないからだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.25
コメント(0)

人間を含めた動物の一生を、段階に分けると、概ね次のようになる。誕生・成長・生殖・終焉の四段階が、ほぼ全ての動物に共通している。その中で、生殖の後に「子育て」が入る一部の動物がある。人間はその「子育て」の段階を持つ動物の一つだ。そして、人間は、この子育ての後に「余生」の段階を獲得した、数少ない動物でもある。 遊びは、この動物のライフステージの「成長」の段階に主として行われる。そして、その遊びは、新たに生み出した「子育て」と言う段階で、親が子に対して、一方的に保障する活動となっている。また、近年、「余生」の期間が飛躍的に長くなることにより、この段階での「遊び」も大きな意味を持って来ている。 このことを、遊びから見ると、こども期の遊び、このブログで言う「あそび」は、こどもにとっては、大切な成長の「場」であることが、簡単に理解できる。そして、「余生」の段階における「遊び」は、より良い終焉への準備の「場」として、位置付けることができる。 もちろん、誕生と終焉の、それぞれある意味で瞬間のステージを除けば、状況によっては、動物は何時でも遊ぶことは可能で、実際にも遊びは行われている。しかし。こども期の親などの子育てに保障されたあそびや、労働から解放された余生期の遊びは、本来なら、それだけに専念できる状態にある。 しかし、現状、特に資本主義的経済の発展した国々に、典型的に見られるように、こども期のあそびは、ともすれば軽視される傾向にある。これは、成長の大切な「場」を破壊することにもなり、実際に憂うべき、こどもたちの成長の実態が、グローバル的に進行しつつある。 余生期の遊びについては、別の機会に考察することにするが、その現状を一点だけ記しておく。歴史的には、余生期は長くなる傾向にあったが、最近では、その期間において、生活習慣病あるいは認知症など、遊びを大きく阻害する要因が肥大化し、実質上の遊びの時間が、余生期の長さに比例しない傾向がある。 これは、終焉への準備活動の「場」が、失われることと、身体的能力の維持や脳の活性化に大きく寄与してきた、主体的・能動的・積極的な活動である遊びが、貧弱になることで、終焉の時期あるいは実質的な終焉の時期を、早めることとなり、残念なことだ。 このように、とてつも長い動物の歴史の中で、人間が勝ちとってきた、遊びと言う、健やかな成長の「場」と、安らかな終焉準備の「場」、その二つの「場」の大切さを考えた時、今の時代のあり方を、私たちが深く反省することは、未来の人類への責務なのではないだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.24
コメント(0)

昔と今のあそびの変化をもたらせた、主要な原因として。あそび時間の減少をあげたが、最近では、少子化があそび仲間を減少させることに、大きく寄与して、さらにあそびの変化を悪化させている。その現状は、少子化と言う言葉から想像できる状態を、はるかに超えるものとなりつつある。 私が住んでいるところは、大阪市内の住宅地にあり、いわゆる戸建住宅が、生活道路から入り込んだ路地に、10軒ほど並んでいる。私が住み始めた35年ほど前は、私の娘たちと同じ年頃のこどもたちが、10人以上も住んでいたが、今では高齢者ばかりになってしまった。こどものいない場所となっているのだ。 ただ、それぞれの家庭の、お孫さんたちが時折、訪れることもあるので、町にこどもたちが、まだいることは実感できるが、その孫たちも成長すればと考えると、少子化の厳しい現実に、ただ驚くばかりだ。 時間がない上に、あそび仲間の元となるこどもたちの人数が少なくなれば、集団あそびは極めて当然のこととして、少人数でのあそびも、ともすれば二人あそびすら難しくなってしまう。この状態を放置して、今のこどもたちの「一人あそび」の多さを指摘する文部科学省が、掲げるこども政策に説得力は無い。 そして、仲間とあそぶことが、好きで好きでたまらないのが、こどもたちの本姓であることを考えると、ますますこどもたちにとって、生活し辛くなる。そうなれば、こどもたちの顔から笑顔が消え、そんなこどもたちの顔を見ると、こどもを生み育てる思いも萎えさせる。さらなる少子化が進む。 このように、今のこどもたちのあそびの状況を放置すれば、少子化には歯止めがかからないことは明白だ。まだ、町にはこどもたちがいる。そして、こどもたちは、「あそびをせんとや生まれけむ」だ。仲間たちとあそべる、あそび時間さえ確保できれば、町でこどもたちの笑顔に出会う機会も増える。そのことは、きっとこどもを生み育てたいと言う、人間本来の思いが、昔のように強くしてくれるのは間違いがない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.23
コメント(0)

「書く」を文字を書くに限定すれば、文字を書くことが決定的な要素となっているあそびは、そんなには多くはない。クロスワードパズルや数独(ナンバープレイス)などの文字や数字を埋めるパズルも、デジタルゲーム化されたものもあり、「書く」はあそび成立の決定的要素ではない。 参加した者全員が、「いつ、どこで、誰が、何をした」の四つの文言を作って、それをバラバラにしてから、再合成して出来上がった文章を楽しむあそびも、デジタル化が可能で、これまた「書く」が、あそびの決定的要素とはなっていない。 こう考えてくると、ますます「書く」が決定的要素となるあそびは少なくなってしまう。その残されたわずかなあそびに、前にも紹介した、黒板や紙に、同じ部首の字を書くあそびは、漢字を知っていても書けなくては、正解とならないあそびだ。 さらに、相手の背中に指で文字を書いて、それが何であるかを当てるあそび、お尻を使って書く「尻文字」も、数少ない文字を書くことが決定要素となっているあそびだ。 このように、文字を書くことが、そのあそびを成立させる決定的な要素となるあそびは少ないが、パソコン、タブレット端末、携帯電話、スマフォなどでの文字は、基本的には書かずに打って入力する今の時代においては、前記のあそびは貴重なあそびとなるだろう。 できれば、「いつ、どこで、誰が、何をした」の四つの文言を作るあそびはくらいは、紙に鉛筆で書いてあそんでほしい。さらに、どうせ書くなら縦書きにしてあそぶ方がいい。横書き、正確には、打って文字を出すので、横並び文章ばかりが氾濫する時代だからこそ、手書きかつ縦書きの文章の値打ちが光り輝くのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.22
コメント(0)

実りが秋なら、芽生えは春だ。そんな芽生えを、こどもたちはあそびとして楽しむ、野の花タンポポをはじめとして、草花を使ったあそびは数多い。小動物たちもこどもたちのあそび相手となる。 今の都会では難しくなったが、春の時期は、トカゲ捕りには最高の時期かも知れない。動きがまだ、俊敏でないように思えるし、邪魔な草も夏ほどは茂ってはいない。一所懸命にトカゲを追いかけても、あまり暑くはならない。 トカゲ捕りもさることながら、ザリガニ釣りも、春は良好なコンディションとなる。ザリガニがエサを捕まえるまで、根気よく待つ必要があっても、まだ日差しは厳しくない。 春の時期は、こうした動植物と戯れるだけでなく、秋の時期と同様に、屋外でのあそびにも適した時期だ。そんなこともあって、私が学童保育所の保育師(指導員)をしていた頃は、こどもたちと屋外であそんで、夏が来る前に日焼けをしていたものだ。 さて、そんな芽生えの春だが、こどもたちの性意識の芽生えも、必ずやって来る。そんな時期のこどもたちに、卑猥な話や替え歌が、こっそりとあそびの中に入ってくるものだ。そんな密かなあそびの一つに「春歌」があった。主に、おとなたちが酒の席で歌うのだろうが、こどもたちも知っているとは、自分では公言しないが、知っていたのが「春歌」だ。 もちろん、おとなが幼いこどもに教えることはほとんどなく。おとなとの交流のある青年が少年に教え、その少年がこどもたちに教えるのだ。それは、年長者のおとなへのあこがれもあるのだろう。ともかく、昔はけっこう幼いこどもたちも「春歌」を知っていた。 昔の時代の、こうした、おおらかで、ある意味では他愛もない、秘密のあそびがこどもたちにひろがるのは、今のように、インターネットで、即物的な性描写の画像や映像が、ともすればこどもたちにも、確実に手に届く時代では、なかったからではないだろうか。 また、地域の人と人のつながりが、幼いこどもたちもをも、巻き込んで、熟成されていたからだ。もちろん、そうした地域の世代を越えたつながりは、「春歌」だけでなく、あそびを世代を越えて伝承し続けることを可能にした土壌でもある。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.21
コメント(0)

団塊の世代のこどもの頃と、今のこどもたちでは、一週間のあり様が大きく変化した。それは、半ドンと言う言葉が意味を成さなくなったように、土曜が学校の休日となり、その影響を受け、日々の放課後の時間が大きく削られてしまった。そればかりではない、その短い放課後の時間帯に、熟や習い事が進出する。 こうした激変とも言える、一週間の変化は、当然ながらこどもたちのあそびを大きく変えてきた。特に、あそび仲間と技術を競い合うようなあそびを、ことごとく駆逐して行った。コマ回しやお手玉など、熟練の要するあそびはもちろんのこと、メンコやおはじきなど、比較的簡単にできるものさえ、大きく姿を消した。 そうなったのには、二つの理由がある。まず、技術系のあそびは、一定期間、集中的かつ継続的にあそんでこそ、技術の取得も熟練も可能だ。週のほとんどの日々に、そのための時間が確保できないのでは、それは不可能だ。 次に、こうした技術系のあそびは、一人でも、技術の習得は可能と思われるが、実は、他の仲間との競争や勝負があるからこそ、技術習得にも身が入るし、成果もあげる。また、高い技術を持った仲間は、技術の良い手本となる。 さて、昔と今の「週」にまつわるあそびの変化に、漫画雑誌がある。団塊の世代のこどもの頃(1950年代)は、「ぼくら」「少年画報」などの月刊誌が多かったが、後に「少年サンデー」や「少年マガジン」などの週刊誌に移行した。しかし、その読者層が青年層に拡がり、むしろこどもたちは、それから離れる傾向にある。 この変化の評価は難しいが、団塊の世代のこどもの頃は、貸本屋さんが全盛で、月刊誌と貸本を合わせた読書量は、かなりの量であったことを考えると、今のこどもたちの読書量は、漫画だけをとっても減っているかも知れない。これも、こどもたちの一週間が忙しくなったことと無関係ではないと考えていいだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.20
コメント(0)

実りの秋は、こどもたちのあそびにおいても絶好の時期で、本来ならば屋外で思い切り身体を使ってあそぶことのできる時期でもある。もちろん、自然との触れ合いも十分に楽しめる。ドングリや松毬(まつかさ)などの木の実はもちろんのこと、時には草花たちも、こどもたちを歓迎してくれる。 草むらであそんでいると、こどもたちのズボンなどに、オナモミの実が、ひっついていることもある。この草の実、オナモミの名を知ったのはおとなになってからだ。こどもの頃は、「くっつき虫」と呼んでいた。なお、一般的には「ひっつき虫」だそうだ。 こどもたちを喜ばせるのは、オナモミだけではない、ジュズダマなども、たくさん採っては楽しんだ。もちろん、数珠を作ったわけではない、ネックレスやブレスレットにして楽しんだり、お手玉の中味として活用した。 その他、私はこどもの頃には知らなかったが、漢字で「秋桜」と書く、コスモスの花、花弁が八枚あるが、一つおきに花弁を間引いて、プロペラ状にして、上から落とすとクルクル回って落ちる。こうしたあそびができるのも、野の花の魅力だ。 さらに、ススキや猫じゃらしなど、秋は植物と戯れる絶好の時期だ。しかし、都市部では、そんな木の実や草の実たちを見つけることは、かなり困難だ。もしも、それらが豊富にあれば、忙し過ぎる今のこどもたちも、きっとあそんでくれるに違いが無い。そう思いたい、秋の楽しい思い出をもつ、団塊人の私がいる。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.19
コメント(0)

日本の伝統的な、カードゲームに「百人一首」がある。しかし、この「百人一首」でカルタ取りをしてあそぶ子は多くは無い。団塊の世代の私も、ハッキリとは覚えていないが、おそらく中学生になってからではないだろうか。もちろん、「百人一首」の札を使った「坊主めくり」は、小学生の頃に楽しんだ。 このように、伝統的なあそびでありながら、あまりあそばれないのは、「百人一首」の札が常備している家庭が、そんなには多くないからだ。今では、かなりお安いセットが販売されているが、昔は普及版のセットでも安くはなかった。だから、あえて買ってまで常備するには至らなかったのだ。 「首」と言えば、これも中学生以上の子のあそびとして、同じ「部首」の漢字を書く競争があった。小学校高学年でも、十分に楽しめるあそびだ。携帯やパソコンの、辞書機能や部首変換機能がある現代だからこそ、面白いあそびかも知れない。 本物の首を使ったあそびは、危険が伴うので、元々こどものあそびにはふさわしくないが、私が小学生の頃(1950年代)に、手首を使ったユニークなあそびがあった。どちらの手首でも良いので、手のひらを上に向けて、手首の上に、おはじき大の小石を置く。 次に、開いた指を親指から順番に折り曲げていきながら、最終的に手首を水平に内側に曲げると、手首のある部分の筋肉が跳ね上がる。当然、その上にあった小石が跳ね上がるのだ。上手に行えば、小石が高く上がる。これが出来たからとて、どうでもいいことだが、こどもの他愛もないあそびとしては、成立する。なお、やり過ぎには注意が必要だ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.18
コメント(0)

一般的には、弱者が負けるのは必至と言われている。だが、あそびにおいては、必ずしもそうではない。それどころか、その弱者を救済するようなルールや、弱者でも勝てるようなルールが、採用されやすい傾向もあるくらいだ。 あそびの面白さを追求していくと、結果として、一方的な弱者とのあそびは、淘汰されていく。その理由の一つは、勝ってばかりのあそびは、最初の内は良いが、あそび込むと楽しくなくなるからだ。 例えば、対戦型のあそびには、弱者救済ルールとして、「ごまめ」ルールが往々にして採用される。これは、弱者を思いやってのこともあるが、それよりも対戦する前から勝負が見えている対戦は、つまらないからだ。 あそびにおいて、弱者にハンディを与えるルールが採用される、もう一つの理由として、初めから勝負が見えている対戦は、弱者にとっても面白くない。そうすると、弱者があそびに加わらなくなったり、ともすれば、強者は弱者から敬遠されたりもする。それではあそびが始まらないから、弱者ハンディが、採用されるのだ。 また、あそびにおいては、弱者と強者が対戦しても、全くの互角のルールが、最初から採用されているものもある。ジャンケンやクジ運、あるいは偶然性が、対戦を大きく左右するあそびがそれだ。 このように、あそびにおいては、必ずしも強者が勝利し、弱者が敗退することは、むしろ稀で、そのことにより、強者が敗者、すなわち弱者の立場を体験し、弱者も強者の立場を体験することになる。 これは、人間関係の中でいろんな立場の人が存在し、それぞれがお互いの立場を理解し合う経験となる。そして、そのことが、時には、強者が本当に弱者のために行動する、感動的な光景さえ生み出すのだ。 このあそびにおける弱者への自然な配慮は、実際の戦闘やスポーツなどでは、確実に起こり得ない特徴でもある。これは、同じ遊びから発展した、スポーツとあそび(こどもの遊び)の、大きな違いの一つになっている。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.17
コメント(0)

駄菓子屋さんは、こどもたちの社交場と言われているが、その全盛時期のような駄菓子屋さんは、今や絶滅が危惧される状態にある。また、現在残っている駄菓子屋さんが、こどもたちの社交場となっているかと思えば、少なくとも昔のような状況にはない。 そうなってしまったのには、幾つかの理由もあるが、このブログで指摘の、あそび変化が、最大の理由となっている。前世期の駄菓子屋さんには、駄菓子だけでなく、日々のお小遣いで買える駄玩具も売られていたのだ。メンコ・ビー玉・おはじきなど、あそびに直結した駄玩具が売られていたからこそ、社交場として駄菓子屋さんが機能していたのだ。 今では、日々のお小遣い程度で買える駄玩具で、あそぶことのできる、いや正確には、あそぼうとしないこどもたちの現状があるからだ。そんな駄玩具を使ったあそびを知らないからだ。駄玩具を使ったあそびは、教えてあげれば、誰でもできるあそびではあるが、一定の人数ができる様にならないと、毎日のあそびとしての成立が難しいのだ。 お菓子を買って食べれば、それでお仕舞というような、今の駄菓子屋さんのような状態では、こどもたちは駄菓子屋さんの近くであそばずに、直ぐに家に帰ってしまう。これでは社交が成立するわけがない。 今では、コンビニの前の駐輪スペースに座り込んで、コンビニで買い求めたトレカを見せ合っているこどもたちを、たまに見かけるくらいだ。そこには、確かに社交と呼べる状態はあるが、見知らぬ他の子が、声かけをすることはまれだ。 それに反して、昔の駄菓子屋さんで買い求めたメンコを使って、直ぐに初めて会った子と、勝負をし始めることも、昔は日常のありふれた光景だった。駄菓子屋さんの店先などには、あそべるような床几や台などが置かれていることが多かったし、公園などの傍にも駄菓子屋さんが多かったのだ。 社交は、こどもたちに社会性を育てることに通じる。そして、その社交は、こどもたちにおいては、ほとんどがあそびにおいて行われるのが、本当の姿なのだ。こどもたちのもう一つの社交場である公園では、ベンチでそれぞれが手にしたゲーム機であそぶ、こどもたちの一団があるが、そこでの社交は、薄っぺらなものとなっている。 社交から見えてくる、こどもたちのあそびの現状は、今の社会を良くする変化ではないだろう。こどもたちに社交を促すようなあそびと、それが可能となる環境づくりこそ、より良い社会を作る大事な事業となるだろう。そう、事業と言わなければならないほど、それは簡単ではないのが、今の社会なのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.16
コメント(0)

屋外での身体を使ったあそびが減り、室内あそびが多くなっていることや、室内あそび一般については、このブログでも度々綴って来ているので、本シリーズでは、代表的な室内あそびのカードゲームについて、綴っていく。 昔は、カードゲームと言えば、トランプがまず思い付いたが、最近ではトレーディングカード、いわゆるトレカを使ったゲームが、その代表格となっている。そして、この二つのカードゲームには、極めて大きな違いがある。 その違いの一つを象徴するキーワードは、汎用性だ。また、その裏返しのキーワードとして専用がある。前記の二つのカードゲームの内、トランプは汎用性のあるカードとなり、トレカは専用カードとなる。 トランプで楽しむことのできるゲームは、数えきれないほどのジャンルがあり、同じジャンルのゲームにも様々なバリエーションがある。ようするに、トランプが一つあれば、極めて多彩なあそびが可能となっている。 その反対に、トレカによるカードゲームは、多くの場合、ゲームごとに違った専用カードが必要となる。さらに、カードそのものも、トランプで必要な枚数をはるかに超える、違った特徴を持ったカード数を必要とする。 この両者を、カードメーカー側から見れば、後者のトレカの方が、多くの枚数のカードを、こどもたちをはじめとしてプレーヤに販売することが可能になる。また、個性のあるカードには、意図的にレアなカードも作成できるので、その結果としても大量のカードの販売を可能にしている。 資本主義経済化では、当然ながら、トレカの製造販売に、時には過度な競争が起こる。その結果として、莫大な利益を上げているトレカさえ、珍しくない状況を生み出している。 企業が、トレカで莫大な利益を稼ぐ一方で、レアカードをめぐって、恐喝・窃盗・詐欺などの犯罪行為が、おとなだけでなく、こどもたちを大きく巻きこむ、憂うべき状態をも生み出している。 トランプとトレカの大きな違いの、もう一つの特徴は。トランプが、一人あそびから、二人対戦のゲームさらには、集団あそびと言ってもいいような、ゲームさえ可能とするのとは違って、トレカの多くは二人対戦がほとんどで、時には対戦してあそぶよりも、レアカードをコレクションして楽しむような状態をも作りだしている。 今のこどもたちのあそびの現状は、ともすればゲーム機などでの一人あそびに流れがちになっているが、トレカは、そうした傾向を、改善しないばかりか、すくなくとも三人以上でのあそびを、さらに減少させてしまいかねない弱点を持っている。 さらに、トレカによるゲームは、少し前までは、主に男の子たちの、それも比較的に年齢の高いこどもたちのあそびとなっていたが、最近では、女の子たちや、より年齢の低い幼いこどもをターゲットとしたゲームが増えつつある。 こうした状況は、こどもたちの成長や発達を考えた時、けっして良いとは言えない。しかも、こどもたちは、そうした状況に、自らの力では、抗えない。もし、こうした状況を良しとしないのなら、毅然としたおとなの対応が必須であることは間違いがない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.15
コメント(0)

このブログでは、昨日紹介したように、あそびの成立を規定する三つの「間」として、あそび時間、あそぶ空間(場所)あそび仲間を挙げたが、その中でも最も根源的に、あそびを規定しているのは「あそび時間」だ。 これは、少し考えれば明らかなことで、あそび時間が無ければ、あそべないのは極めて当然のことだ。あそびの成立を規定する、他の二つの「間」は、極論を言えば、全く無くても、時間さえあればあそぶことは可能だ。 仲間が無くてもあそべるのは、解りやすいが、あそび場が無くてもあそべるは、解り辛いかも知れないが、自分が存在できる場所があれば、たとえ身動きが出来ないほど狭い場所でも、それなりのあそびが可能だ。たとえば、一人で楽しむ、しりとりは、時間さえあれば可能だ。 あそび時間の重要性は、あそび時間が有れば、他の二つの「間」をも、豊かにできるのだ。時間さえあれば、あそび場やあそび仲間は探せばいい。あそび場は地球が存在する限り、必ず見つかるし、あそび仲間も自分以外の他者が存在する限り見つけることは可能だ。 このあそび時間の重要性を考慮すると、この間のこどもたちのあそびの変化をもたらせたのは、主としてあそび時間の変化であることも、当然の帰結となる。このブログでは、度々指摘しているように、あそび時間の量的かつ質的な変化は、こどもたちのあそびの様相を決定的に変化させた。もちろん、その変化は、良い変化でないことも、表面上は周知のこととなっている。 一人あそびが多くなり、集団で身体を使ってあそぶことも少なくなったことは、誰しもが感じとってはいるし、そのこともけっして良くはないと誰もが認識している。しかし、それにも拘らず、それが改善されないのは、こどもたちのあそびに価値を十分に見出せないこともあるが、それよりも、実生活において、あそばなくても生活できるし、それなりに成長もするし、勉強もできると言う、紛れもない事実があるからだ。 そして、生活・成長・勉強の内容がたとえ、悪い状態になっても、それを世の中の変化のせいにするならまだしも、こどもたち自身の責任に、平気で転嫁してしまう、おとなの、ある意味での身勝手さがある。おとな自身は誰もが、そうは思ってはいないが、現実には、そうした考えは、はびこっているのだ。 こうした現状を改善するために、このブログは始められたのだが、もう一度、こどもたちの成長におけるあそびの重要性を簡単に記しておく。あそびは極めて長い生命史の中で、ごく限られた動物に、成体、人間で言えば大人、になるための、実践的な学習の場として、あそびという活動を生み出し発展し続けてきた。 それは、おとなの労働により、こどもたちの生活全般を守ることにより、結果として、こどもたちにあそびのための時間を保障してきたから、可能になったのだ。言い方をかえれば、おとなは、わざわざこどもたちのあそび時間を生み出すためにも、労働してきたことになる。 それが、いつの頃からか、おとなたちの生活をより良いものにするために、こどもたちから、あそび時間を奪いはじめた。これは、とてつも長い生命史の流れに、全く逆行した状態なのだ。 こども期のあそび時間の増大が、進化と考えれば、まさに、この間のこどもたちのあそびの現状は、あそび時間の減少と言う意味で、「退化」と断言しても過言ではないだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.14
コメント(0)

このブログでは、かなり以前から「あそびの三間(さんま)」として、あそびを成立を規定する、あそび時間、あそび空間(場所)、あそび仲間の三つの「間」を取り上げてきた。今回は、「あそびの五自(ごじ)」を取り上げる。 「あそびの五自」とは、あそびの重要な特徴である、「自由」「自発」「自主」「自律」「自立」の五つの「自」を指す。まずあそびの自由だが、もちろん、地球に住んでいるので、完全な環境からの自由はないし、社会の構成員でもあるので、社会的な関係からの完全な自由はないが、少なくとも、あそびをするしない、あそびを止める止めないは、基本的に自由なのだ。これをこのブログでは「動機の自由」あるいは「動機フリー」として論じている。 次に、あそびの自発だが、これは自由と混同されがちなのだは、少しニュアンスが違う。それでも、あそびの自由が保障されていなければ、自発は大きく形を変えることは間違いがない。この自発は、あそび手の「あそびたい」や「あそぼう」と言う思いや意志の形成により、あそびが始まる事を意味し、外からの働きかけがあっても、「自分からすすんですること」を意味している。 このあそびの自発があるから、次のあそびの自主が成り立つ。ここで言う自主とは、あそび手があそびのなかで、基本的に独立が保障されて入る状態を指し、もちろん、当然ながら他者からの干渉などがあるが、それをも自分の意志で受け入れているなら「自主的」でもある。あそびの自由が保障されている限り、それが嫌なら、そのあそびを止めればいいのだ。 次の、あそびの自律だが、自主的に活動するためには、自分を制御できることが必須となり、その制御ができなければ、他者の干渉や、時には攻撃に負けずにあそべないし、自分勝手な行動ばかりとっていれば、あそびにも加えてもらえなくなる。あそびを継続させている限り、何らかの形で自律的に行動していることとなる。 最後の、あそびの自立だが、これは正確に表現すると、あそびにより自立していくとなる。すなわち、あそびにおける自立とは、あそびの活動を通して、自由な環境の下で、自分の意志によって始め、自律的に活動を継続することにより、自立するための基本的な諸能力を実践的に獲得することを意味している。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.13
コメント(0)

私自身は、お寺の境内で遊んだ経験は、多くは無い。何故なら、町なかは他にも魅力的なあそび場で、満ち溢れていたからだ。それに、都市部のお寺は、境内そのものが狭い所も多く、あそびが制限されたからだ。また、寺の門自体が開放されていないこともある。 そんな大都市大阪だが、中には門を開けて自由に出入りできる寺もある。私が学童保育の保育師(指導員)をしていた頃、その施設の近くに、我孫子観音があった。そこへは、こどもたちとよく出かけてあそんだものだ。 と言っても、ゴザなどの敷物を持って行っての、比較的おとなしいあそびだった。特に、夏の暑い時期は、境内にある大きな木の陰が、ベストのあそび場だったので、そうしたあそびに適していた。 今のように、こどもたちのあそび場が少ない状況では、お寺や神社の境内は、あそび場としても貴重だ。積極的に、境内を開放している所もあるが、まだまだ少ない、ぜひ、こどもたちのためにも開放していただきたい。 さて、私のこどもの頃(1950年代)には無かったが、お寺の和尚さんが登場する手あそびがある。ズバリ、「お寺の和尚さん」がそれだ、ただ、歌詞全体の意味からしても、何故和尚さんなのかはわからないが、案外、そんな和尚さんだから、こどもたちに魅力があるのかも知れない。 童謡「夕焼け小焼け」の歌詞に、「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お手々つないでみな帰ろう からすといっしょに かえりましょ」とあるが、そんな光景よりも、「小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星」のまさにその時に、熟から帰宅する幼い子が、多くなってしまったのは残念だ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.12
コメント(0)

紙が発明されて、2000年余り、日本に伝来して1400年くらいと、その歴史は長いが、ほとんどのこどもたちがあそびに活用できるようになってからは、まだ数百年程度、さらに日常的に潤沢に利用できるようになったのは、そんなに古くはないだろう。 そして、私の印象では、こどもたちが最も紙をあそびに使っていたのは、戦後から高度経済成長期までの期間と思われる。ちょうど私が生まれておとなになるまでの時期で、その最盛期が、まさに団塊の世代がこどもの頃の1950年代と考えていい。 当時は、駄菓子屋さんの全盛期で、それに紙物駄玩具の全盛期と重なっていたのだ。その後、日本が高度経済成長期をむかえる様になり、この駄菓子屋さんと紙物駄玩具が、歩調をそろえて衰退の一途をたどっていく。 そして、新聞や書籍などの出版物の電子化が始まり、急速に発達する中で、さらに紙とあそぶ機会は、その減少に拍車がかかっていく様相を示している。教科書の隅に描いてパラパラ漫画を楽しんでいたが、教科書さえ電子化されては、それも消え去る運命だ。 紙製の力士であそぶ「トントン相撲」、あるいはメンコあそびも、紙で楽しむから面白いのであって、それを電子ゲーム化して、あそべたとしても、それはもはや、それらのあそびとは、全くの別物であることは明らかだ。 紙は脆いようで、保存状態が良ければ、100年前のメンコが、今でもそれであそべるくらいに丈夫なのものだ。デジタルデータ化されたあそびは、複製が簡単で、長持ちしそうだが、その記録を読み取るハードも保存しなければならない。 こんなとりとめもないことを綴ってみたくなるほど、今のこどもたちのあそびと紙との関係は、微妙な時期に入っている。手の働きが人間を造ったことを考えると、人間らしいあそびは、これからも紙が、重要なアイテムとなるあそびではないだろうか。 消え去った、多くの紙物駄玩具たちよ、こどもたちの未来のために、もう一度、元気な姿を見せてくれ。紙物駄玩具とともに育った世代の一人としてのお願いだ。願うだけでは、叶わないことも、解ってはいるのだが・・・「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.11
コメント(0)

勉強に比べて、あそびは「思考」とは縁遠い活動と思われる一方で、「思考力を鍛える言葉遊び」「対戦型思考ゲーム」などの言葉が氾濫する。そうなるには、それなりの理由があるが、最も大きく関係するのが、何を思考するかの問題、言い換えれば、思考の対象の違いだ。 思考の対象は、それこそ人間の活動の種類ごとに違ってくると言っても過言ではない。極論を言えば、大脳新皮質が機能を果たしている限り、人間は思考し続けると言ってもいいくらいだ。だから、当然のこと、あそびにおいて、こどもたちは様々な思考を行っているのだ。 そして、その思考は、瞬時に行われるものと、一定の時間をかけて行われるものに大別できる。一般的に、思考と言うと後者の場合を指すことが多い。あそびにおける思考を綴るにあたって、まず後者の時間をかけた思考からみていく。 この時間をかけた思考で、誰もが最初に思いつくのが、パズル、クイズ、なぞなそだ。これらの中には、学校での授業で教わることと似たようなものもあるが、こどもたちは確実に、あそびの方の思考が好きだ。誰に指図されることもなく、率先して行う。 思考型のゲームに限らず、対戦型のゲーム、対戦型のあそびなどにおいては、戦術や戦略を、それなりに時間をかけて思考する。時には、おとなも考え付かないような突飛な戦術を、思考の末に生み出すこともある。「かくれんぼ」や「缶けり」において、互いの帽子や服を交換することが、その例だ。 次に、あそびにおける瞬時の思考の例だが、例えばドッジボールあそびなどで、相手が投げたボールを捕球するか、身体をかわして逃げるかの判断、けん玉などの技を行う時、玉の落ちてくるスピードや玉の向きなどの判断などが、その例だ。 これらは、思考と言うよりも運動神経あるいは運動能力の問題と考えられるが、それだけではダメなのだ。それらの運動を制御するには、状況の判断が必須で、それはその判断と言う思考を繰り返すことで、判断そのもののスピードが速まるのだ。疑似的に例えれば、おそらく、そうした思考回路が太くなると考えていい。 そして、ただあそびの最中だけでなく、あそび終った後の反省や、明日のあそびを何にするか、あそびの前後でも、こどもたちは思考する。その結果、新しいあそびを創り出したりもする。 このように、あそびは楽しく思考する上では最高の活動で、こどもたちのあそびを豊かにすることは、こどもたちの思考の場を多彩にすることでもある。そして、おとなになった時に、懐かしい思い出として、思い出すのは、このあそびのことが多いのも、誰しもが自分のこととして、思い描けるのではないだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.10
コメント(0)

私は、こどもでは一番上の長男だったので、姉と言う存在を実感したことが無い。そんな私でも、「姉」と言う語にまつわるあそびは、幾つか知っている。その一つが、日本の伝統的な女の子のあそび、「姉様人形」あるいは略して「姉様」だ。 実は、姉はいないが妹はいたので、その関係で、母から「姉様人形」作りを教わった。この人形は、ほぼ紙だけで作るのだが、最も特徴的なのは、菜箸などの、細くて丸い木の棒に、和紙などを巻いて、紙を棒に沿って縮めると、蛇腹のようなホース状の物ができる。これを人形の髷に使うのだ。 「姉様人形」は、基本的に、このようにして髷も含めて手作りするのだが、昔は髷の付いた頭(かしら)だけ売っていたそうだ。それに千代紙などで着物を作ってあそんだりもしたそうだ。出来上がった「姉様人形」は、飾るだけでなく、「ごっこあそび」にも使用した。 「お母さんごっこ」においては、「姉様人形」ではなく、「姉さんかぶり」が登場もした。手拭いでつくる簡単なかぶりものだ。昔のお掃除や炊事の時に、母や祖母がかぶっていた。もちろん、私も見よう見まねで「姉さんかぶり」をしたりもした。 「姉」にまつわるあそびの最後に、簡単な指あそびを紹介しておく。まず両手の指を、手のひらを着けることなく、同じ指先同志をピッタリと着けて構える。最初は、この着けた指を、残りの指を着けたまま、1本ずつ指先を順番に離していく。これは、誰でもできる。 次に、ピッタリ着けた5本ずつの中で、中指だけを第二関節で折り曲げたままピッタリと着ける。この構えで、前回と同じように、親指、人さし指と、指先を離していくと、「お姉さん指」にあたる「薬指」だけが、どうしても指先を離せないのだ。 もっと簡単なのは、どちらの手でも良いが、5本全ての指を伸ばしたままにして、人差し指から1本ずつ、その指だけを第二関節で指が直角になるように折り曲げる。「お姉さん指」を曲げると、「お兄さん指」まで曲がってしまうのだ。 なお、このあそび、訓練すれば、「お姉さん指」だけでも、曲げることができるようになるので、そうなれば、他の子に自慢できるあそびとなる。人間の指の機能の面白さを、そこに発見できる。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.09
コメント(0)

今では、飛び道具系の玩具は、こどもたちのあそびからは、影を潜めているように思えるが、その中でも「矢」を使ったあそびは、その傾向が著しい。投げ矢の一種の「ダーツ」は、かろうじて見かけるが、前にも記した弓矢は、もちろんのこと、吹き矢で、あそんでいる子は、ほとんど見かけなくなった。 弓矢については前にも紹介したので、吹き矢について、こどもの頃の思い出を紹介する。吹き矢は、昔でも、駄菓子屋さんでは売っておらず、祭りや縁日などの露店で売られていた。おそらく、完全手作り玩具なので、価格が高めにならざるを得なかったとは思うが、安いものでも日々のお小遣い(1950年代当時で10円くらい)を、何日か分貯めないと買えなかった。 紙製の筒で、紙製の矢を吹き飛ばすのだが、それでも目に当たると危険なので、矢の先に小さな吸盤が付いていた。値段が高いのも、その事が一因と思われる。的は、表面がツルツルに加工された厚紙で出来ており、基本的にその的を使ってあそんだ。家では、マッチ箱などを的にしてもあそんだ。 「矢」と言えば、矢印が思い付くが、この矢印は、方向を示す記号となっているのは、「矢」そのものが方向性を持つからだ。矢尻と矢先の両端が非対称で、その形状も大きく異なり、しかも矢尻方向に必ず飛んでいくので、「矢」は方向を示すのに適している。 この「矢尻」と言う表現が面白い。弾頭と言う語があるように、飛び道具の飛んでいく方が頭と考えたくなるが、弓矢はそうではない。飛んでいく方が「尻(しり)」なのだ。なお、英語では「アローヘッド」と言って頭なのだ。 さて、行く先を示す「→(矢印)」、こどもたちは道路や塀に描いて、いたずらをすることも多い。次から次へと、矢印の示す方向に、進んで行くと、「アホ!」と書いてあったりもする。 こんな、たわいもない、ロー石やチョークで描く「落書き」は、直ぐに消え去るのだが、それさえ認められない、あるいは寛容されない風潮がある一方で、スプレー塗料で落書きする犯罪が多発する。 落書きするこどもが減り、落書きするおとなが増えたのか、それとも落書きするから、まだこどもなのか、ともかく、矢鱈と他人の所有物に落書きするのは、おとなげない行動であることは、間違いがない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.08
コメント(0)

単に飾ったりするのではなく、「着せ替えあそび」や「ごっこあそび」の相手となる、日本の伝統的な人形の一つに、「市松人形」がある。歌舞伎役者あるいは、当時流行ったこどもの名前から、名付けられたとも言われるが、「市松模様」の着物を着ていたとの説もある。 その「市松模様」を利用したゲームに、チェスやチェッカーがあるが、日本での愛好者は、まだ少ないと言える。当然ながら、こどもの頃にあそんだ経験のある人も少ない。 そんな「市松模様」だが、日本の伝統的なボードゲームには採用されなかった。将棋や碁の盤には、ただマス目があるだけだ。その流れからかも知れないが、日本生まれのボードゲーム「オセロ」の盤も「市松模様」ではない。 さて、「市」と言えば、市場となるが、市場は商店街よりも先にいち早く消え去ってしまった地域も多い。市場は、基本的にはこどものあそびとは関係がないが、昔の市場は、こどもたちの好奇心や遊び心をくすぐる要素で一杯だった。 味噌屋の、樽からはみ出すように盛り上げられた、様々な色合いの味噌を、おじさんがしゃもじですくった後に、「パン!」と、味噌の山にしゃもじを投げ刺す、カッコ良さにあこがれたものだ。魚屋さんで、魚をさばく技に、しばし見とれたりもした。反物屋さんの、反物を巻く手さばきなどにも感心した。 もちろん、その市場での見聞は、こどもたちの「ごっこあそび」にも、生かされた。「可愛い可愛い魚屋さん」で始まる歌は、今でも歌われたりもするが、今のごっこあそびには、魚屋さんは登場しない。味噌屋さんなどは、想像だにできない存在になってしまった。 大都市大阪にも、子守唄があった。「天満の子守唄」あるいは「大阪の子守唄」とも呼ばれる歌だ。そこに、「ねんねころいち 天満の市で 大根そろえて 舟に積む」と、「天満の市」が出てくる。 ちょうどその天満の市あたりの公園に、歌碑と少女像が建てられているが、商家に奉公に出された、女の子が赤子をおんぶして、この子守唄をうたっているのだろう。今では、その歌声は、その周りにある家庭からも、聞こえては来ないのではないだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.07
コメント(0)

こどもたちのあそびには、動作や歩行を、途中で「止める(とめる)」ものが幾つかある。その中で、おそらく、最もポピュラーなあそびは、「だるまさんがころんだ」、大阪近辺では「ぼうさんがへをこいた」、地域により「始めの第一歩」あるいは「最初の第一歩」などとよばれるあそびだ。 これは、鬼が動いている子を見つければアウトなのだが、動いているか止まっているかの判定や、本当に見つけたかどうかの判定が難しいが、あそびが成り立っているのは、そのあそびの集団での、何らかの一致点があるのだろう。それを各自が守る点では、フェアなあそびと言える。 同様に、高い屋根の上にボールを投げ上げてあそぶ「しけい」あるいは「番号当て」と言うあそびも、ボールを受け損なって鬼になった子の「ストップ(止まれ)」で他の子は逃げるのを止める。 鬼は、その止まっている子の誰かに、ボールを当てるのだが、その時、フェイントをかけてもよく、そのフェイントに引っ掛かって、動いてしまった子を見つければ、その子がアウトとなる。 このような、止まっていればセーフと言うのとは違って、アウトになると止まるあそびが、「氷鬼」あるいは、その派生系の「バナナ鬼」だ。鬼にタッチされればアウトになり、その場に止まって動けないが、他の子の誰かにタッチして助けてもらえる。ただ、人数と場所の広さで、成立が難しくなるようだ。 さて、「止める」を「やめる」と読めば、こどもたちのあそびで、おとなが度々てこずるのが、ゲーム機での遊び過ぎや、好ましくない遊びを、止めさせることだ。その多くの場合が、実質的に止めさせるのに成功していないケースが少なくないのだ。 唯一、確実に止めさせることが、かなり期待できる方法は、その止めさせたい遊びよりも、面白いあそびに誘うことだ。そのことを別の角度から見れば、その遊びに厭きれば、他のあそびが相対的に面白くなるので、止めさせることができるということになる。 それは、私が保育師(指導員)をしていた学童(学童保育所)での経験が証明している。当時(1990年代)は、ゲームボーイなどが全盛で、学童では禁止されている所が多かったが、私の施設では、自由にしていた。 だからと言って、こどもたちはけっしてゲーム機ばかりであそんでいたわけではない、むしろそれ以外のあそびの方が多かったくらいだ。こどもたちは、本当は一人であそぶのは好きではないのだ。だから、周りの子が他のあそびをしていれば、そのあそびをしたくなるのだ。そして、あそんでみて、より面白く感じたから、少なくとも学童では、ゲーム機を止められたのだ。 だからこそ、各自がゲーム機を持って、公園のベンチで集団でゲーム機遊びをするこどもたちを見かけるのだ。たとえゲーム機であっても、本当は独りであそぶのは、つまらないのだ。 そして、せっかくあそび仲間がいるのに、本当の集団あそびに移行しないのは、高価なゲーム機を、ベンチなどに置いたり、ポケットに入れてあそぶこどは、難しいのと、集団あそびのレパートリーが少なすぎるから、なかなか面白いあそびに行きつかないからだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.06
コメント(0)

熟や家庭学習での勉強時間が増えているにも拘らず、残念ながら、こどもたちの学力は、それに比例しては、向上していないばかりか、深刻な学力不足や勉強嫌いになるケースが増大している。中でも、算数や数学が苦手なこどもたち(当然そのままおとなになれば、おとなも)は、多い。 しかし、あそびには、その算数や数学とは意外と関係が深いのだ。たとえば、多くの対戦型のあそびでは、数や量の大きさで勝敗が決まるものが多い。ビー玉やおはじきなどは、その個数を数える時に、2個ずつ数えることにより、偶数と言う言葉を知らなくても、偶数そのものの例は熟知している。 ゴム高跳び(ゴム段跳び)やメンコ飛ばしなどでは、高さや長さなどの実態を把握するし、何歩あるかを計ることにより、長さの単位の概念の理解を助けたりもする。 さらに、トランプにおいては、「戦争」においては、数の大小、一人あそびの「ピラミッド」では、「足して13になる数」を、知らず知らずの内に、その判定や計算を、繰り返し行っている。 さらに、様々なパズルに至っては、四則演算などが頻繁に登場する。たとえば、車の4ケタのナンバーの数字を使って「10」にするパズルは、今でも人気がある。「虫食い算」や「覆面算」などは、もっと高度な計算力や数学的知識が必要となる。 サイコロに親しめば、立方体の知識獲得を助ける。紙と鉛筆であそぶ「三角取り」は、三角形とは何かを理解しやすくする。折り紙は、幾何学的センスを磨く。 学力の基礎は、読み書き計算だと言われるが、その大事な基礎の一つ、計算は、もちろん、学校で計画的に習う必要があるが、その学校での学習を効果的にするには、知らず知らずのうちに楽しく算数や数学を駆使する、あそびを豊かにする必要がある。 ただ、「知育」玩具や「知育」遊びに典型的に見られるように、勉強を前提とした遊びは、無理強いすると、それはあそびではなくなり、勉強と同然のものに成り果ててしまい、当然ながら効果も期待薄となる。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.05
コメント(0)

「作」とあそびで、断言できるのが、残念ながら、昔に比べて、こどもたちのあそびにおいて、「作る」という活動が、極めて少なくなったと言うことだ。あそびで使う様々な玩具や道具を作ることはもちろんのこと、「石けり」などのように、あそぶためのコートを地面に描いて作ること、さらには新しいあそびを創作すること、あらゆる「作る」が激減してしまった。 こうなってしまったのには、それなりの理由がある。まず第一に、「作る」には、単にあそぶだけでなく、そのための別な時間が、それも短くない時間が必須であるが、この時間が、今のこどもたちには確保できないのだ。 次に、昔と比べて、あそぶための玩具や道具などが、あまりにも満ち溢れ過ぎていることだ。何も無ければ、チラシで紙飛行機を作ったり、遊具の無い空き地では「ケンパ」用のマス目を描かなければならない。今では、そう言ったことをしなくても済む。 あそぶための物や施設がふんだんにあれば、「作る」時間の余裕のないこどもたちにとっては、きわめて好都合なのだ。だから、「作る」が必要なあそびがどんどん衰退するのは必至となる。 あそびにおける「作る」は、創造活動であり、想像活動でもある。そんな素晴らしい活動を可能にするには、あそび時間は有れば有るほど良いが、あそび道具や施設は有り過ぎない方が良い。 こうした、こどもたちにとって好ましくない状況は、ますます深刻なレベルに移行しつつある。これを少なくとも高度経済成長期以前の状況に戻すには、おとなたちによる綿密な作戦を立てた改善策が必要で、それなくしては、こどもたちの成長発達に必用な、素晴らしいあそびの環境は、再び作り出せないだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.04
コメント(0)

こどもたちの中には、細い場所が好きな子も多い。かくれんぼや鬼ごっこなどで、家と家の間の細い隙間に逃げ込んだりもする。また、平均台の様になった、自分の背丈よりもはるかに高い、柵や塀の上を歩いたりもする。 かつて、町なかの細い路地も、絶好のあそび場となっていて、こどもたちの楽しそうな歓声が響いていた。しかし、今ではほとんど見かけなくなった。路地でのあそびそのものが、途絶えてしまったからだ。 そんな路地に、ゴザを敷いて、お手玉やおはじきを楽しんでいたのが、昔の女の子たちだ。このうち、おはじきは、はるか昔のあそび、小型の巻貝である細螺(きさご)を使ったあそびにルーツをたどれる。 一方で、男の子たちは竹で竹トンボなどを作ってあそんだ。竹は、こどもたちの細工物の重要な材料だったのだ。今では、細工と言えば、粘土細工くらいが関の山で、わら細工、きびがら細工、紙細工、モール細工など、昔のあそびの中には「細工」が根付いていた。 こどもたち自身が細工するだけでなく、駄菓子屋や露店には、細工物の駄玩具もたくさんあった。針金細工のゴム鉄砲や知恵の輪は、その典型だ。伝統工芸のような本格ものではなく、こどもたちのお小遣いで買える細工物でも、商いが成り立っていた。 ここまで文章は、ほとんどが過去形だが、考えれば、あそびと「細」の関係が豊かだったのは昔のことだからだ。その「昔」は、まだそんな昔ではないのだが、そのことがこどもたちのあそびの変化の速さを物語っている。 そして、こうした変化をもたらせたのは、こどもたちのあそび時間が「細切れ」あるいは「細分化」されてしまったからで、「細」が「細」を駆逐した形となり、皮肉なものだ。 しかし、おとなたちの、こどもたちの発達に対しての細かな思いやり、こどもたちのあそびに対しての細心の注意さえあれば、それは未然に防げたし、まだこれからも十分に改善できるのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.03
コメント(0)

昔から、こどもは「あそびの天才」と言われるが、単によくあそぶと言うだけの意味ではなく、あそびにおいて、おとなが考えのつかないことを、考え出し実際に行う、こどもたちの素晴らしい才能を意味している。 それは、こどもたちのあそびが変化したと言われる現在でも通じる。たとえば、最近のこどもたちのあそんでいる所に、驚かされる。このブログでも紹介したように、近くの区民センターの談話スペースで、黙々とカードゲームをするこどもたちに出会う。 そうした場所は、空調設備が完備しており、夏は暑くなく、冬は寒くないばかりか、雨の日でもあそべる優れたあそび場なのだ。もちろん、家であそべば、同じことなのだが、社会風潮や家庭の事情で、こどもたちは他人の家では、あそび辛くなっているのだ。 区民センターの談話スペースだから、激しくてうるさいあそびには向いてはいないが、カードゲーム等の静かなあそびであれば、問題は無い。ただ、ごく最近では、役所から禁止されてしまったようだ。 こどもたちの変わったあそび場として、これまた以前にも紹介したが、マンションなどの大きな民間集合住宅のエントランススペースがある。床にベッタリと座り込んで、これまたカードゲームや携帯ゲーム機であそぶ、こどもたちの一団があった。 特に暑い夏場は、ヒンヤリとした床に座ってあそぶのは、合理的なのかも知れない。こうした場所の床は、メンテナンスと清掃が行き届いており、綺麗であることも都合が良い。それは、コンビニの前のスペースでも同じだ。 こうした、こどもたちのあそびにおける才覚の発揮の仕方には、感心させられるが、昔のこどもたちのあそびにおける才覚と違って、どことなく違和感を覚える。 それは、今のこどもたちの才覚は、あそびそのものの中での才覚と言うよりも、あそび時間やあそび場を求めての才覚なのだ。このことをとっても、今のこどもたちのあそび事情の悪さが理解できる。 「才」には、こんな四字熟語がある。「才気煥発(さいきかんぱつ)」、「四字熟語辞典オンライン」には、【優れた才能が輝くように自然と溢れ出ること。】とある。あそびの素晴らしさの一つは、こどもたちに「才気煥発」を促す、最も楽しい活動であることにある。 その素晴らしさは、今のこどもたちにおいては、ただあそび時間やあそび場を探すことだけに限定されていて、良いはずはない。あそびの真っ最中においてこそ、「才気煥発」して欲しいし、それだからこそ、こどもは「あそびの天才」と言えるのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.02
コメント(0)

「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと ・・・」は童謡の「汽車」の歌い出しだが、そんな汽車も今は、ごく限られたところでしか運転されていない。今は電車がほとんどだ。そんな電車が走る山手線そのものがあそびの名になった「山手線ゲーム」がある。 この「山手線ゲーム」、別の呼び名が「古今東西」だ。おそらく「古今東西」が先で、出される「お題」を山手線の駅名に限定したのが「山手線ゲーム」の始まりだろう、その後「お題」を山手線に限定しないものも「山手線ゲーム」となったのではないだろうか。その「古今東西」は、ズバリ「古今東西」と言った後に「お題」を出して始まる。 「山手線ゲーム」や「古今東西」など、同じジャンルの言葉を続けていくあそびには、記憶ゲームを加味した、八百屋さんに並んだ野菜を、一つずつ増やして記憶して、言い続ける「八百屋さん」などもある。当然、ジャンルを変えた「魚屋さん」もありだ。 私のこどもの頃(1950年代)のあそびに、「今、何時?」と聞くあそびがあった。「エビ跳び」と言う馬跳びあそびの一種で、親が課題を出して、子がその課題をこなすのだ。その課題の中に、「時計」があり、それに「今、何時?」が出てくる。 親や子が、馬になった鬼役の子を、馬跳びで跳び越え、鬼の両耳を引っ張ると、「リリリリーン」など、目覚まし時計の音真似をし、馬の背中に、両指で数字を作って触れる。その数字を馬の鬼役の子が当てるのだが、その時に「今、何時?」と訊いたのだ。 ところで、今様と言う歌謡を集め、平安時代に編まれた「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」の一節がある。 しかし、今のこどもたちは、そうではなく、「学びをせんとや生まれけむ、習いごとせんとや生まれけむ、学ぶこどもの声きけば、我が心さえこそ動がるれ。」と言い換える必要がありそうだ。勉強させられ過ぎるこどもたちからは、ただ悲痛な叫びだけが、私には聞こえるのだが。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.03.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1