全20件 (20件中 1-20件目)
1
昨日に引き続き、書籍『高校野球が危ない』(小林信也著、草思社)より引用。東京都では、春と秋の大会は、ブロック予選を勝ち抜いたチームが都大会を戦う。その上位ベスト8に勝ち進むと、晴れて神宮第二球場に舞台を移す。だが移った途端、投手たちは一様に「特別なストライクゾーン」の洗礼を受けることになる。投手が「どうだ、間違いなくストライクだろ!」と思う球が、ことごとく「ボール」と判定される。「ボール」「ボール」と判定が続くと、投手にとってはいったいどこに投げれば良いのか、次第にわからなくなくなる。四球のランナーを溜めた後、困った末にど真ん中に投げた球がガツン!と長打を浴びる・・・これが神宮外苑の洗礼だ。「ストライクゾーンが狭いことが、レベルの高さを証明するのだと思っているのですよ」東京都の若い審判員は、組織の上層部のことを、そう断言している。一方の甲子園。こちらは「ストライクゾーンが広い」ことで有名。ストライクゾーンが「狭い神宮」「広い甲子園」。よほど、その違いに慣れている常連高じゃないと、両球場での対応に困りますよと、現場の監督たちが顔をしかめる。------------------------------------------------------高校野球の審判員。ハッキリ言って高いスキルをもった人ばかりではない。明らかに誤審ではないかと思える判定が頻繁に起きている。フィジカルチェック、視覚検査、ジャッジの検査を毎年行う必要があるのでは? との声もあるが、まだできてはいない。その理由のひとつは、中高年層の審判員が多いことにある。そのような検査を本当にやったら、いったいどれだけの審判員が合格できるのか疑わしいという、笑えない現状がある。ならばと---、著者は、新しい審判員の活用を提案する。それは、夏の大会でベンチに入れなかった三年生たちを、審判員として育成しようというもの。あらかじめ審判を募って夏の大会が近くなったら簡単な研修を行い、主審は無理としても塁審をどんどんやってもらう。大会の最後には、動きがよくジャッジが的確な三年生審判員を監督たちから評価してもらい、MVPを決めてもいい。この新しい審判員プラン、ボクは大賛成だ。例えベンチ入りできなくとも、選手たちが大会に参加できる道が拓けることになる。これをきっかけにアマチュア野球の審判を目指す学生が増えることにつながれば、こんないいことはない。-----------------------------------------------------------ここまで書いて、先日このブログに書いた平林岳氏のことを思い出した。高校三年の夏、野球部の選手だったもののベンチ入りはできなかった。本人の希望は選手ではなく審判だったため、大会終了後に、すぐさま地元の草野球連盟の審判員に申込み、大学時代は授業を受けることさえ忘れてしまうほどに、アマチュア審判業にのめり込んだ。以降、プロ野球パ・リーグの審判員を9年間務め、現在はメジャーの審判員に挑戦中の人である。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.28
コメント(8)
ショッキングなタイトルをつけたので、いささか戸惑いがあるのだけど、面白い書籍を見つけた。『高校野球が危ない!』(小林信也著、草思社刊)がそれ。先日、友人から借りて読んだところ、これが実に面白い。「高校野球」本の場合、ただ単純に礼賛する書籍も多いけど、この書籍は、高校野球に潜む問題の本質を、真正面から捕らえようと試み、その解決法を見出そうと必死にもがいている様子が見える。最初の章で紹介されるのが、昨夏の甲子園で大人気を博した早稲田実のこと。昨年9月、ハンカチフィーバーが冷めやらぬ頃、早実と戦った相手校の監督や関係者たちを著者は訪ね、取材をした。すると、彼らからは意外な答えが返ってきたという。「あんなチーム(早実)が高校野球のお手本みたいに言われたら、高校野球は終わりですよ」と。その発言の根拠には、こんな例があったという。(1)昨夏、甲子園出場を決めた西東京大会・決勝戦。対日大三高戦で、長打を放った早実の打者が強引に二塁ベースを蹴って、三塁を目指して駆けていく。タイミングは完全にアウトで、三塁手は外野手からの返球をグラブに収め、余裕をもって走者にタッチを試みた。するとその走者は滑り込むでなく、身体ごと三塁手に向かって体当たりを喰らわせた。アウトの判定にも何食わぬ顔をしてベンチに戻って行く。慌てて塁審が走者を呼び止めて注意するものの、走者の選手に反省する素振りはない。この長打が貴重な同点打となったこともあり、ベンチに戻ってからは選手たちと歓喜のハイタッチを繰り返し、早実・和泉実監督は選手に謝罪を促すことも、自ら詫びることもなかった。(2)打者が一塁ゴロを打つ。当然、早実の投手が一塁ベースにカバーに走るのだが、相手チームの打者と競り合う場面で「素知らぬ顔で肘打ちを喰らわされた」こともあるという。----------------------------------------------------------別に、この書籍は早実批判や暴露を目的としているわけではない。悲願の優勝を目指し、何よりも勝つことを目的としたチームは、(極論すれば)何をしてもいいから「ともかく勝てばよい」という意識がチームを支配する。そういったチームが高校野球のあるべき姿か? と著者は疑問を投げかけている。高校野球のお手本のように思われている早実を例にとって、具体的に紹介していることだけでも、十分に驚嘆に値する。それだけでもスゴイ!「勝てばよい」が蔓延する高校野球の現状を明らかにして、その上でどのようなVISIONをもてばよいか、新たな提案をしている。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.27
コメント(7)
たしか20年ほど前のことだったと思う。ボクは後楽園球場で日本ハム-近鉄戦を観戦後、高円寺のアパートに帰るため、JR水道橋駅のホームにいた。同じホームには、一般人の格好とは思えない異様な出で立ちの中年男性が立っていた。パンチパーマにサングラス、鮮やかな青色のジャケットに真っ白なスラックス、そしてスラックスと同じ真っ白なデッキシューズ。一見してカタギじゃない、いや売れない演歌歌手がやっと紅白歌合戦に出たときの晴れ姿とでも言おうか・・・(失礼!)よーく見て、それが誰かわかった。その人とは当時、日本ハムの投手コーチだった高橋良昌氏(高知商高-中央大)。------------------------------------------------------高橋良昌氏。来春から、母校の中央大学野球部監督に就任が決まったらしい。名門ながら、最近では東都大学リーグの1部に低迷したまま。高橋氏の手腕に託す中大の思いは相当なものだろう。はてさて中央大のブレイクはあるか?来春以降の戦国東都、けだし見ものではある。-------------------------------------------------------高橋良昌氏のプロ野球選手時代。1966年に東映フライヤーズ(日本ハムの前身)に入団。ルーキーイヤーの翌年、いきなり15勝を挙げて新人賞を獲得した。後に読売に移籍してからは、主に中継ぎとして登板した姿をテレビでよく見かけた(77年引退)。<プロ通算成績>384試合、1324回2/3、60勝81敗7セーブ、防御率3.34そして大学生時代。遡って中央大時代を調べると、東都大学リーグの多くの快記録の保持者でもある。■連勝記録「8連勝」、歴代3位。■シーズン最多勝利「9勝」、歴代1位。■最多勝利「35勝(15敗)」、歴代4位。※この勝利数はスゴイ。大学は4年間で最大8シーズンしかない。35勝ということは1シーズンあたり、コンスタントに4勝強していた計算になる。先のドラフトでホークスに1巡指名された東洋大・大場翔太(八千代松陰高)が「33勝(11敗)」だったことを見えても、その成績の偉大さがわかる。----------------------------------------------------------中央大OBというと、思いだすのは現・読売の阿部慎之助(安田学園高)。中大が2部リーグに低迷しているときに大学に入学し、在学中に1部に上昇させた功労者である。もちろん、プロに進む際は各球団から引っ張りダコだった。その中で読売を逆指名した理由は、現・読売スカウト部シニアアドバイザー、末次利光氏(鎮西高-中央大)の存在があったからだとする噂もある。なぜなら、末次氏の義父は中央大野球部の総監督・宮井勝成氏なのだから。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.26
コメント(2)
慶應義塾大、ヤクルトに入団を決めた加藤幹典(4年、川和高)から寄贈された打撃マシン(通称:加藤くん)を打ち込んで、いま練習をしている。(日刊スポーツ)打撃練習でターゲットにするのは早稲田大・斎藤佑樹(1年、早稲田実)。今年の慶應、リーグ戦優勝まであともう一歩だったが、わずかに届かなかった理由は斎藤佑樹を打てなかったことと考えている。だから、2つの具体的な対策を立てた。(1)低めの変化球を見極め、打つこと。(2)そして、外角の直球を打てるようになること。とりわけ、外角の直球を打つ練習が変わっている。打撃投手はマウンドから投げるのではなく、打者から見て左側45度の角度(三遊間の方向)に立ち、そこから投球する。まさに背中から球がくる感覚で、それを打者はセンターに打ち返すことを心掛ける。面白い練習があるものだ・・・---------------------------------------------そういえば、別のちょっと変った練習法を思い出した。それは評論家の高橋良昌氏が、読売の投手コーチだった頃のことを書いたコラム。当時、指導している選手の中に、キレのある速球とカーブを持っている若手の左腕投手がいた。だが、どうにも制球がよくない。とくに右打者の内角をえぐるような速球を投げられない弱点があった。高橋コーチは一計を案じ、こんな練習法を思いついた。ブルペンで通常の位置に捕手を座らせる。そしてその捕手の、投手から見て右側(右打者側)にもう一人捕手を座らせ、その捕手を狙って投げる投球を繰り返したという。結局、その練習法は効果があったか否かは、そのコラムには書かれていなかったが、面白い練習があるものだと感心したことを覚えている。ちなみに投手の名前は、東北高出身の中条善伸という。とても懐かしい名前だ。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.23
コメント(2)
桑田真澄(PL学園高)、近日中にもパイレーツと契約することが決定的らしい。そう夕刊フジが報じている。10月に手術した右足首が順調に回復し、来年も今年同様マイナー契約からのスタートとなるそうだ。記事には、来春高校に進学し野球部に入部する予定の長男・真樹クンのことも触れている。ただ、息子への高校野球での期待を聞かれた桑田は、こう言って笑った。「ボクと比較しちゃ、息子がかわいそうだよ」-------------------------------------------------------たしかに、そうだ。桑田真澄、高校時代から実績はハンパじゃなかった。高校1年夏から3年夏まで、強豪ひしめく大阪大会をすべて勝ちぬき、5回連続で甲子園に出場。内、4回も決勝に進出し2回の優勝を経験している。<高校時代の甲子園通算成績>20勝3敗、投球回数197回2/3、被安打141、奪三振150、与四死球28、自責点34、防御率1.55。戦後の甲子園で20勝投手は桑田ただ一人。ついでに打撃の通算成績。104打数37安打、打点28、本塁打6、打率.356投手なのに(?)本塁打を6本打っている。これは歴代2位の記録だという。-------------------------------------------------------当時のPL学園高、メンバー表を見ていたら懐かしい名前に出会った。加藤正樹と内匠政博の2人、元・近鉄の選手たちだ。加藤正樹(早稲田大-近鉄)。PL学園3年の時、桑田の2学年上だったがチームメイトとして一緒に1983年夏の甲子園優勝を経験している。当時、加藤がつけていた背番号は「8」。そして、プロに入団した1年目(1988年)のこと。加藤は「伝説の10.19」の第一試合に出場していた。スコア1-3のビハインドで迎えた8回表、一塁に故・鈴木貴久(旭川大高)を置いて代打で登場。死球を選んでチャンスを拡げ、次打者・村上隆行(大牟田高)の同点となる2点適時打を呼び込んだ。93年に現役を引退した後は、近鉄球団広報を経て梨田昌孝、佐々木修、村上隆行氏らをマネジメントする会社の代表取締役を務めているらしい。-------------------------------------------------------もうひとり、内匠政博(近畿大-近鉄)。桑田と同学年だったが、ベンチ入りしたのは3年生の時、1987年の春と夏だけ。背番号は高校の先輩・加藤正樹と同じ「8」をつけ、トップバッターとして夏の甲子園優勝に貢献した。日本生命を経て近鉄にドラフト3位で入団。日本生命の同僚大島公一(法政二高-法政大)も一緒にドラフト5位で近鉄に入団している。内匠、2002年に現役を引退後、現在はオリックスの二軍・サーパスの外野守備・走塁コーチを務めている。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.20
コメント(4)
埼玉・浦和学院高の先輩、後輩である2人のプロ野球選手が今季、明暗を分けた。まずヤクルト・坂元弥太郎。ファームでこそ18セーブを挙げて、イースタン記録を樹立したものの、一軍では2試合出場に止まったため、年俸ダウンで渋い表情。そして、坂元の一年後輩の広島・大竹寛。今季は9勝7敗、防御率3.77と、過去5年間の中では顕著な成績を残し、年俸が大幅にアップした。「(黒田が移籍し)来季はエースとして初の開幕投手を狙いたい。そしてノルマは最低2ケタ勝利と170イニング登板を達成したい」と、鼻息が荒かった。----------------------------------------------2000年、坂元(当時3年)と大竹(当時2年)は浦和学院高・エースの座を激しく競った。森士(もり・おさむ)監督は、5~6月の大事な時期に乱調の続く坂元に見切りをつけ、夏の大会のエースを大竹と考えていた。だが、その監督の微妙な気配を敏感に感じ取った坂元、落ち込まずに開き直ったことで道が開けた。「結果を求めるだけでは空回りする。野球を楽しもう」見事にエースナンバーを獲得した坂元、埼玉県予選を勝ち抜いて甲子園出場を果たした。埼玉県決勝の相手は春日部共栄高。当時「関東No.1投手」の呼び声が高かった中里篤史(現・中日)に延長10回を投げ勝っての甲子園切符だった。甲子園では坂元がひとりで投げ切り、大竹が甲子園のマウンドを踏むことはなかった。戦績は、1回戦で八幡商高にスコア2-1で勝利したものの、2回戦では柳川高に1-5で敗退した。柳川のエースは現・オリックスの香月良太だった。2回戦で敗退したものの、この甲子園は坂元を一気にプレイクさせた。八幡商相手に19奪三振、敗れたとはいえ柳川からは16三振を奪い、2試合連続の毎回奪三振を記録した。また、高校入学前に亡くなったお母さんの写真を身につけての力投は、プレーと同様、話題になった。※「2試合連続毎回奪三振」記録。これは板東英二氏(現・タレント、徳島商高)以来、史上4人目の記録となっている。---------------------------------------------------翌年の2001年夏、今度こそと大竹が浦和学院のエースとして埼玉県予選を戦ったが、惜しくもベスト8で敗退し、甲子園出場は叶わなかった。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.19
コメント(2)
横浜・古木克明(豊田大谷高)とオリックス・大西宏明(PL学園高-近畿大)の交換トレードが成立した。守備に難がある古木にとっては、パ・リーグ行きは好都合なんだろう。ただ、大西や横浜にとってはどうだったんだろうか?さて---。この2人は同じく1980年生まれ。古木は豊田大谷高、大西はPL学園高。お互いに強豪校どうしということもあり、甲子園での対決があったかを調べてみた。まず、古木。2年と3年の時、97年夏と98年の夏に3番打者として甲子園に出場している。一方の大西、3年生だった98年春と夏、クリーンアップとして甲子園に出場していた。とすれば、98年夏の甲子園で出会っているはず・・・。----------------------------------------------------調べてみた・・・残念ながら、もう一歩のところで2人の対戦は実現していない。98年夏の甲子園といえば、松坂大輔を擁する横浜高が決勝戦で京都成章高を破って春夏連覇を達成。「松坂=怪物」の印象を決定づけた大会だ。古木の豊田大谷高は、優勝した横浜高とは別の、もう一方のブロックを勝ち抜きコマを進めた。1回戦では田中賢介(2年、現・日本ハム)のいる東福岡を。そして、準々決勝では和田毅(現・ホークス、早稲田大)を擁する浜田高を破って準決勝に進出したが、京都成章高にスコア1-6で完敗。その試合、古木自身も4打席4三振と散々な成績で最後の甲子園を終えた。一方、横浜高と同じブロックにいた大西のPL学園高。1回戦で多田野数人(日本ハムからドラフト指名、立教大)がいる八千代松陰高を破って勝ち進んだが、準々決勝で横浜高にスコア7-9で敗退した。この準々決勝・横浜高vsPL学園高戦。延長17回の死闘は、後に語り継がれる名勝負となっている。PL学園のエースは上重聡(現・NTVアナ、立教大)。-----------------------------------------------------ちなみに。この大会、ボクの地元・埼玉栄高が初戦で沖縄水産高をスコア5-4で破っている。埼玉栄・大島裕行(現・西武)が沖縄水産・新垣渚(現・ホークス)からバックスクリーンに特大本塁打を放ったシーンは忘れられない。当時、埼玉栄の監督は松本吉啓氏(桜美林高-明治大)。早稲田大の松本啓二朗(千葉経大付高)や、先ごろ同じく早稲田大に合格を決めた松本歩己(千葉経大付高)の父親であり、現在ではすっかり強豪になった千葉経大付高の監督さんでもある。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.18
コメント(6)
中日の福留孝介(PL学園高)、ついに移籍先が決まったようだ。FAでの移籍先はシカゴカブス。4年契約で総額4800万ドル(約54億円)。平均年俸は1200万ドル(約13億5000万円)で、メジャーに挑戦する1年目の日本人選手としては最高額となるらしい。 年俸がいくらだろうと、ボクは他人の財布の中身に興味はない。あるのは、なぜメジャーの球団は一選手にこんな大金を払うのかということ。先日、スポーツ新聞(たしか日刊スポーツ)を読んで知ったのだけれど、メジャーの球団をもつ企業のオーナーは、自球団を高く売り抜くことを目標としているという。そして、そのためにはいわゆる「良い選手」をかき集めて、自球団の商品価値を高めたいという思惑がある。とりわけ福留を射止めたシカゴカブスは、そのへんの意図が明確だ。オーナーはトリビューン・コーポレーションという有名な新聞社。そして来年のシーズン終了後には球団を売却することを決めている。だから、球団を高く売るためのパーツとして選手をかき集め、球団の付加価値を高めることに必至なのだ。そういった現象、いずれ日本でも当たり前になるのかもしれないが、野球の面白さよりも資本の論理が優先するのは、どぉ~にも楽しくない。やはりプロ野球てぇのは、資本の論理にとらわれない、昔ながらにオーナーの道楽でやっているのが、観るほうには楽しいでさぁ1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.17
コメント(2)
長期にわたって星野仙一氏の参謀を務めていた島野育夫氏(作新学院高)が今朝、胃がんのため帰らぬ人となった。「鬼軍曹」と呼ばれていたものの、選手たちからの人望は厚かった。選手のグチなどにも真剣に耳を傾け、実質的にチームの現場をまとめていたのは島野さんだったという証言もある。そして申し訳ないけれど、島野さんと聞いて思い出すのは、1982年の阪神コーチ時代。判定を巡って岡田功主審に柴田猛コーチ(向陽高)とともに暴行を働いた事件。(このことにより、無期限出場停止の処分を受ける。翌年解除)当時、スポーツニュースで再三、そのシーンを放送していたので、それを思い出すムキも多いと思う。でも、調べてみると、それはほんの一面であり、自分を律することに優れた人のようだ。wikipediaによると、星野の妻からの信頼も厚く、中日時代に交わした「主人を日本一にしてあげてください」という約束を守るために星野に追随して阪神に移籍したともいう。星野の妻が病死した際は葬儀にも納骨まで出席し、晩年まで墓参りを欠かさなかったという。-------------------------------------------------作新学院高時代、一学年下には、先ごろヤクルトの二軍コーチに就任した八木沢荘六(早稲田大)がいた。そして明電舎を経て1963年に中日に入団。以降、南海、阪神を経て80年に現役を引退した。<通算成績>打率.241、盗塁251、ゴールデングラブ賞を3回獲得している。ご冥福をお祈りいたします。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.16
コメント(4)
遅まきながら、甲子園や埼玉高校野球で活躍した選手たちの進学先。今日は明治大を中心に---.【明治大】投手・難波剛太(春日部共栄高)05年夏の甲子園に1年生ながら先発で登板した。初戦の相手は辻内崇伸(現・読売)、平田良介(現・中日)、中田翔(日本ハム入団予定)などを擁し、その大会で最も注目を集めた大阪桐蔭高。共栄、最後の追い上げ空しくスコア7-9で敗退した。この時の共栄、チームメイトには斎藤彰吾(西武入団予定)らがいた。尚、これまで春日部共栄出身で明治大に進学した選手は結構いる。先のドラフトで読売から指名を受けた古川祐樹もそう。ほかに山口将司らがいる。投手・野村祐輔(広陵高)今年夏の甲子園で活躍した準優勝投手。とりわけ決勝の佐賀北高戦、野村が投げた球の判定を巡り、広陵・中井哲之監督の審判批判事件を引き起こした。野村、ストライクと思ったのに審判が「ボール」と判定。その瞬間、ふだんキリッとしていたはずの表情を引きつらせていたのを、YOU TUBEで何度も見た。外野手・中原大地(浦和学院高)今年夏の埼玉県大会。背番号「20」を背負った中原がいきなりブレイク。甲子園出場の際は「7」をもらい、背中が軽くなっていた。弟の北斗クンは現在、横浜高の1年生。来春のセンバツではスタメンで出場する(ハズ)。【東洋大】例年どおり、浦和学院高の選手たちが多い。主に4番打者を務めた鮫島勇人、甲子園でエースナンバーをつけた鎌田優、そして控え投手だった内山拓哉が揃って東洋大に進学。また今年、常に浦和学院に戦いを挑んだメガネの投手、富士見高・太田弾も同じ東洋大に進学する。【立正大】埼玉栄高のエースだった天城翔が進学する。身長168cmの小柄な右腕。ボクは「小さな大投手」と呼んでいた。【早稲田大】広陵高でチームメイトだった三塁手・土生翔平が進学する。また、甲子園の決勝で相対した佐賀北の捕手・市丸大介や松本啓二朗の弟・松本歩己(千葉経大付高)も早稲田大に進学を決めている。(参考:『ドラフト会議情報局2008』)1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.15
コメント(6)
12月15日は、元近鉄監督・仰木彬さん(東築高)の三回忌だったことを、ミスチルファンさんの日記を読んで思い出した。仰木さんにまつわる映像が詳しく紹介されているので、そちらもご覧ください。------------------------------------------------これまでも、仰木さんのことは何度も書いてきた。ただ三回忌と聞いて、あらためて思いだしたことが2つある。(1)まず、最近雑誌で読んだこと。元・近鉄の某選手が言っていた仰木さんのベンチ内でのエピソード。投手と打者との相性データを重視する仰木さん。いつもベンチでは、そのデータが記されたメモ帳とにらめっこをしていた。でも、そのメモ帳に熱中するあまり、カンジンの試合を見ていないことも「たまに」あった。自チームの打者が安打で出塁したのを気づかず、「おっ、なんで一塁にランナーがおるんや?」(2)いまだにボクがわからないこと。それは1988年、伝説の10・19の第一試合。9回、梨田昌孝(現・日本ハム監督、浜田高)が代打で登場し中前打を放って勝ち越すのだけど、「代打・梨田」と仰木さんが主審にコールするまで、実はしばらく間があった。その直前、こんなことが起きていた。鈴木貴久(故人・旭川大高)が安打を放ったが、代走で出場していた佐藤純一(現・パリーグ審判員、大曲高)の中途半端な走塁で憤死。近鉄のチャンスは潰えて、優勝が消えたと誰しもが思っていた。「あぁ~」、スタンドの大半を占める近鉄ファンの溜め息が聞こえていた、そんなとき。仰木さんはベンチを出て、両手を後ろに組んでジッと立っていた。主審に声をかけるでもなく。その時のことを振り返って、梨田は後日こう語っている。「チャンスなんだから、代打は自分(梨田)しかいないだろう。なんで仰木さんは代打・梨田と告げないんだ?」と。事実、梨田もベンチを飛び出して素振りを繰り返していた。その梨田の疑問に対し、これも後日、仰木さんがその時の心境を吐露している。「えぇ、梨田くんを代打に送ることは決めていました。ただ、今年で現役を引退する梨田くんのこれまでのことを回想している内、時間が経ってしまいました・・・」そんな仰木さんの話を聞いて、ボクは少し疑問に思っていた。優勝をかけた崖っぷちの瞬間、そんなことを考えていたのだろうか。本当はどうだったんだろ?些細なことだけど、ちょいと聞いてみたい気がする。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.15
コメント(4)
日本漢字能力検定協会が発表した、恒例の「その年を象徴する漢字」。今年は「偽」だった。朝日の天声人語では、「偽」という字は「人」の「為(な)」すことは偽りが多いという説がある、と紹介している。今年の野球界ではどうだったんだろう?ボクがすぐに思い浮かぶのは2つある。ひとつは「西武球団の裏金問題」。そしてもうひとつは「審判の判定は間違っている!」と、アマチュア野球の監督があからさまな審判批判をしていたこと。これまで、審判の判定が間違っている(偽りだ)と正面から批判することなど、あまりにタブーなことだった。-----------------------------------------------------(1)西武球団の裏金問題。プロの球団スタッフが(当時の)高校球児に接触して金品を渡していた過去の事実が3月、発覚した。ルールを守らない「偽り」の行為が明らかになった事件だった。(2)そしてアマチュア球界での、監督によるあからさまな審判批判。夏の甲子園では広陵高・中井哲之監督が決勝で敗退後に、こんな発言をして物議を醸した。「審判の判定がおかし過ぎた。ほんとはストライクなのに、ボールと判定された球が何球かあった」監督と審判、いったいどちらが正しいのかボクはわからないが、あり得ないことが起きた。-----------------------------------------------------------この2つの事柄、両方に登場する人物がいる。早稲田大・應武篤良監督がその人。西武球団の裏金問題では、自チームの選手が事件の巻き添えにされ、退部を余儀なくされた。その時のコメントがすごい。「西武のクソバカたれ、球団をもつ資格はない!」と言い放った。そして秋季リーグの早慶戦では、主審の判定に「へたくそだ」と怒ってみせた。口は災いのもと---。この2つの発言は、多くの関係者の怒りを誘った。「クソバカたれ」と言われた西武は大激怒。これまで西武と早稲田大は長らく良好な関係を保っていたように思うが、この一言で「早稲田野球部OBは、今後一切採用しない」と宣言したとか。また審判批判では、東京六大学関係者・審判団や早大野球部OBたちから大顰蹙を買った。「長い間審判をしてきて、こんな発言は聞いたことがない」謝罪文を要求され、應武さんは嫌々ながら提出していた。今日の日刊ゲンダイでは「早大・應武監督が辞任」と見出しを打っていた。その内容は、早稲田大OBや大学野球関係者の多くを敵にまわして四面楚歌の應武さん、謝罪文を東京六大学野球連盟に提出した直後に川口浩・早大野球部部長に辞表を提出していた、と。その真偽はわからない。日刊ゲンダイから直撃取材を受けた應武さん。その情報を否定したとも追記していたが、果たして真実は何処に?1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.13
コメント(0)
先ごろ行われたドラフト。西武から外れ(×2)1巡目で指名を受けた平野将光(浦和実業高-平成国際大-JR東日本東北)。身長186cm、MAX147kmのストレートが武器の速球派右腕だが、高校・大学時代は特に注目される選手ではなかった。芽が出たのは社会人になってからで、指導法がよかったのかもしれない。浦和実業高時代。調べたが、よくわからなかった。わかったことは甲子園には出場していないこと。そして埼玉県下の強豪・浦和学院高には現・広島の大竹寛がいたこと。ただ平野が高校3年の夏(2001年)、埼玉県大会で優勝したのは浦和学院高ではなく花咲徳栄高。その花咲徳栄、甲子園では一回戦で宇部商高に12-0と圧勝したものの、二回戦ではこの大会で優勝する日大三高に4-11で大敗。日大三高のエースは現・オリックスの近藤一樹だった。西武から指名を受けた直後の平野のコメント。「巨人の上原さんが目標。まずは開幕一軍を目指し、一年を通して一軍で成績を残せる投手になりたい」------------------------------------------------------西武、来季からは埼玉西武ライオンズに改称する。そのためにも地元・埼玉出身の平野が必要だったのかな?まっ、経緯はどうであれ、プロは「勝てば官軍」の世界ゆえ実績を残せばよい・・・。ちなみに、ドラフトで最初に1巡目で指名したのは、結局、楽天に決まった長谷部康平(杜若高-愛知工大)。外れて、次に1巡目指名したのが服部泰卓(立川島高-駒澤大)だったが、これも外れて平野を指名することとなった。あっ、そうそう。慶應義塾大の佐藤翔(秋田高)と青池悠五(静岡高)の進路はJR東日本東北らしい1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.11
コメント(0)
一昨日、楽天で新人選手たちの入団発表が行われた。最も注目を浴びたのは、1巡目指名だった長谷部康平(杜若高-愛知工大)。スポニチに長谷部のお父さんの面白いコメントが出ていた。楽天のホーム球場の命名権が、来季は「フルキャスト」から「日本製紙」に変更になるという報道があり、「ギョッ!」としたそうだ。なぜならお父さん、日本製紙のライバル企業・大王製紙の社員だという。「息子が活躍するたびに、日本製紙のPRに一役買うってことか?」と。それを気遣ったのか、息子は「大丈夫。なんとかボクがエリエール(大王製紙のブランド)をPRするから」と語ったとか。ちなみに日本製紙はクリネックス。まっ、どっちがどっちかキッチリわかっている人は少ないよ、きっと。だから、ど~でもいいんじゃない? と、ボクは思う。--------------------------------------------------------長谷部康平。杜若高時代。※ボクは何と読むのかわからなかったが、「とじゃく」と読むらしい。長谷部と同じく先ごろ行われたドラフトで、中日から指名された山内壮馬(名城大)とチームメイト。ライバルの争いは激しかった。2年生春、先に長谷部投手が背番号1をもらったが、秋に左ひじを痛めたこともあって、3年生春までは山内投手がエースに。しかし、その夏には発奮した長谷部投手が取り戻した。そして、高校最後の夏の愛知大会では長谷部投手が延長15回を投げ抜くと、山内投手がノーヒットノーランを達成するなど、チームの両輪となってベスト4入りを果たした。(読売新聞)ちなみに2人が高校3年だった2003年夏の愛知県大会、優勝したのは愛工大名電高。堂上剛裕(兄のほう、現・中日)がいた。--------------------------------------------------------身長173cmと小柄な左腕。先の北京五輪・アジア予選にアマチュア野球界からただ一人日本代表に選ばれた逸材だ。MAX152kmの直球と切れのあるスライダー、チェンジアップが武器。野村克也監督、報道陣に「長谷部は先発の柱になりますか?」と会見後に聞かれ、「それより(期待するのは)一場靖弘(桐生一高-明治大)と岩隈久志(堀越高)だろ」と答えたという。至極まともな答えではあった。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.10
コメント(2)
昨日の日経新聞、豊田泰光さんのコラムを久しぶりに読んだ。先ごろ、都内で開かれた鹿児島県人会に、ゲストとして豊田さんが招待された。同じゲストで出席していたのは、鹿児島出身の読売・木佐貫洋(川内高-亜細亜大)。すかさず木佐貫、豊田さんに声をかけた。「私は新しい球種をマスターしたいと思っています。こんどカーブを覚えたいのです」「投手に大切なのは球種の数ではないよ。自分にとって切り札になる球種がひとつでもあることが重要。あの稲尾和久(故人)でさえ、球種は少なくカーブに至ってはあまりに凡庸だった」、そう答える豊田さん。そんな話を聞いて「木佐貫は納得顔だった」と、得意になって豊田さんは書いていた。---------------------------------------------------木佐貫、マジメな男だけに内心では納得していなくとも、そういう表情をして見せたのかもしれない。まっ、来季木佐貫をカーブを投げているかどうかで、本当のことはわかる木佐貫洋。高校は鹿児島にある公立の進学校、川内高。全国的に見ると、高校野球の世界ではほぼ無名の学校だ。そもそも中学を卒業する時は名門・鹿児島実高に進学することが決まりかけていたが、川内高野球部コーチの熱心な誘いを受けて進路を変更した。もし予定どおり鹿児島実に進学していたら、杉内俊哉(現・ホークス、鹿児島実高)とチームメイトとなって、エースナンバーを競っていたはずだった。そしてこの2人、何の巡り合わせか、高校3年夏の県大会決勝でお互いにエースとして対戦している。結局3-1のスコアで鹿児島実高が勝利し、甲子園出場を決めたのだが、後日木佐貫がこう振り返っている。「僕にとって甲子園は行きたかった所。でも杉内君にとっては行かなければいけない所であって、その差が決勝の勝敗を分けました」それは、杉内の家庭は貧しく、プロに行って早く家計を助けなければいけない義務感をもって、高校時代からマウンドに立っていた事情が背景にある。そして高校を卒業後、木佐貫は亜細亜大へ進学する。これも高校進学の時と同様に、亜大野球部コーチの熱心な誘いが決心をさせた。いや、それだけではない。実はもうひとつ、横浜高で松坂大輔とバッテリーを組み、春夏連覇した同い年の小山良男(現・中日、横浜高-亜細亜大)の存在が大きく影響している。その小山、高校3年の夏に甲子園優勝を決めた後に亜細亜大進学を決めていた。ある日、木佐貫を歓誘した亜大のコーチが小山に囁いた。「鹿児島にすげぇピッチャーがいるんだ。こいつは松坂以上かもしれんぞ。そんなヤツの球を受けてみたいと思わないか?」小山、面識がまるでないのに、さっそく木佐貫の自宅に電話をする。「オレ、亜細亜に決めているからさ。一緒に頑張ろうぜ」木佐貫は大感激する。甲子園で優勝した捕手・小山から直々の誘いであり、翌日には学校で、友人たちにそのことを自慢して回ったものだった。だが入学後、同級生の永川勝浩(現・広島、新庄高-亜細亜大)が活躍する中、木佐貫は周囲の期待とは違い、大学3年までケガなどもあり、パッとしなかった。ド派手な活躍ができたのは、4年になってから。春秋のシーズンをそれぞれ5勝し、2季連続でMVPを獲得。東都リーグで最多奪三振「19」の記録をもっている(延長11回だったため参考記録として)。そして全日本大学選手権。準決勝では九州共立大の新垣渚(現・ホークス、沖縄水産高)、決勝では早稲田大の和田毅(現・ホークス、浜田高)に投げ勝ち、日本一を決めた。再び小山。「松坂のキャッチャー」と呼ばれることを嫌った小山。だが、「木佐貫のキャッチャー」と呼ばれることには、誇りを感じている。たぶん、松坂だけで終わらなかったことが小山のプライドになっている。※『松坂世代』(矢崎良一著、河出書房新社刊)より引用。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.07
コメント(5)
実は今日のネタは「大学野球2部リーグからプロ野球に行った選手たち」に決めていた。いつもどおり帰りの電車の中で、そう思いついていた。読売・阿部慎之助(安田学園高-中央大)、阪神・上園啓史(東福岡高-武蔵大)らの大学時代を調べながら書きたかったのだけど、それは明日以降にしたい。今日はどうにも疲れていて、眠気に勝てそうにない。調べる時間がなさそうで・・・。そしてそれ以上に、関東学院大ラグビー部の監督・春口廣氏が入院中の病院で記者会見を開いたというニュースをテレビで知り、野球ネタどころではなくなった。----------------------------------------------------「ぼくは最もラグビーが好きです。そのラグビーを裏切ったことは間違いのないことです。ですから辞めます」「今後は一ラグビーファンとして彼らを応援するしかない」そう言って、春口さんは辞意を公表した。それにしても、今朝の新聞各紙の記事は凄かった。とりわけ朝日新聞。見出しは「傑出のワンマン 退場」。これは署名記事で、書いたのは美土路昭一記者。ラグビーファンなら誰でも知っている著名な記者さんだ。「傑出のワンマン 退場」という見出しはインパクトが強すぎだ。直訳すると、こうだろうか。「ずば抜けるほどに、他人の意見や批判に耳を貸さない独裁的な人が、ラグビー界から去った(もしくは、去らざるを得ない処分を受けた)」と。記事の内容は、「部員160人を春口氏がひとりで見る限界を超えている。さらに良くも悪くもワンマン態勢のクラブに真の後継者と呼べる人材は育っていない。現時点で後任は未定。復活の道のりは極めて厳しい」とあり、他紙と似たり寄ったりで、見出しほどの過激さはないように思えたが。------------------------------------------------------こういった不祥事が起きたことで、監督が責任を取るのは当然かもしれない。言い逃れなどできるはずもない。そして春口さん、これまでも公然とレフェリーを批判するなど行き過ぎた部分があったこと、それもボクは承知している。ただ、ボク自身が腑に落ちないのは、各紙が一斉に春口さんの批判を始めたこと。弱っている人間を、ここまで落としめようとするのか? と。いや、マスコミとはそういうものだ、ということかもしれない。もしくは、マスコミはこれまでの春口さんの対応を苦々しく思っていたため、その怒りが爆発したということかもしれない。本当のところはわからない。ただ、美土路さんが早稲田大ラグビー部のOBということも、ひっかかる理由のひとつではある。まっ、それは、いくらなんでもボクの考えすぎなんだろうけど・・・。で、ボクは寝ます!1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.05
コメント(5)
関東学院大の大麻事件、2名の逮捕者を出したもののボクはこのまま終息すると思っていた。でも、事態はとんでもない広がりを見せている。読売新聞によると、他のラグビー部員12人が、寮や合宿所での大麻吸引を認めたことにより、部自体を解散する「廃部」処分の可能性について、本田副学長は「今後の調査結果を見て判断する」と語った。あわせて、春口監督から、『世間をお騒がせして申し訳ない』との理由で辞任の申し出があり受理した」と説明した。なんだかメチャクチャなことになってきた・・・。--------------------------------------------------春口廣さん。静岡県出身の団塊世代。身長は156cm。愛知高校時代は兄がやっていた野球を志すが、「その身長ではムリ」と言われ挫折。「小さい奴でも大男を倒せる」と言われラグビー部へ入部したのが、ラグビーを始めたきっかけ。大学は日本体育大。ポジションはスクラム・ハーフ。厳しい練習に耐え、最後にレギュラーの座をつかむ。(別のサイトには、結局レギュラーにはなれなかったとの記述もあるが)大学卒業後、神奈川・向の岡工業高校勤務(ラグビー部顧問)を経て、1974年に関東学院大学ラグビー部監督に就任する。これは、日体大の恩師・綿井永寿氏からの要請によるものだった。そして、初めて関東学院大学のラグビー部に顔を出す。8人の選手が小さなグランドの片隅に集合し、「残りの部員はどこかで練習しているのか」と聞いたところ、「これで全員です」という選手の声に、思わず帰りたくなったという。グラウンドにはゴールポストどころかボールさえもなかった。最初の仕事は、三部の最下位ラグビーチームの部員集め。「四年間、これだけはやったというものを作ろう」と、手当たり次第、学生に声をかけて歩いた。まさに春口さんが手塩にかけたチーム作りが始まった。三部で初優勝後、82年に二部優勝、そして一部での初優勝は90年。ただこの頃、部員数が増える中でチームには問題が噴出しはじめた。練習をさぼる生徒を厳しく指導し、何人かを退部させた。春口さんのこれまでの自信が、いつしか選手達から「ワンマン」「傲慢」とうけとめられていたことに気がつかなかった。そして、多くの人間を指導するために大切なこととは何かを知ったという。-----------------------------------------------------------今年1月13日。早稲田大を3季ぶりに破り、大学日本一に返り咲いて、春口さんは選手たちに胴上げされた。その時、ある選手が春口さんの頭をナデナデするシーンがテレビに映っていた。そのシーンに、春口さんと選手たちの一体感を、ボクは当時感じることができた。NHKテレビ。「人生の歩き方 春口廣 『雑草が掴んだ日本一』」を見たとき。インタビュアーが「33年もの間、よくずっと続けてこられましたね」と春口さんに語りかけた。そして春口さんが答えた言葉を、ボクはよく憶えている。「わたしには、ラグビーしかないのです、ラグビーしか」間もなく60歳を迎える人が「自分にはこれしかない」と言える人って幸せだな、とそう思った。たぶん春口さん、このまま転んだままではないだろう。再起を期待したいと思っている。(※参考 「NHK 知るを楽しむ」ほか)1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.04
コメント(2)
北京五輪をかけたアジア予選、テレビ朝日の中継で解説をしていたのは栗山英樹氏。国立大出身のプロ野球選手ということもあり、その解説が的確である、という評価もある。さて、この栗山英樹氏。創価高、東京学芸大(東京新大学リーグ)を経て、83年にドラフト外でヤクルトに入団したのだが・・・※同じ年のドラフト選手は、1位 高野光(東海大浦安高-東海大)2位 池山隆寛(市尼崎高)3位 橋上秀樹(安田学園高)初めて知って驚いたのは、大学時代の素晴らしい実績。--------------------------------------------------------■大学2年の時、1981年。【春季】投手として最多勝(6勝)、最優秀投手、ベスト9入り、そしてMVPを獲得した。【秋季】投手として最多勝(4勝)■大学3年の時、82年。【春季】最多本塁打、最多打点、外野手としてベスト9。それでいて、なんと投手として4勝を挙げている。【秋季】最多盗塁、外野手としてベスト9入り。■大学4年の時、83年。【春季】外野手としてベスト9。秋季シーズンこそ獲得した冠はなかったが、◇投手として、通算最多勝利(25勝)◇野手として、通算最多打率(0.389)と、2つの連盟記録を塗り替えるなど、八面六臂の活躍を見せていた。-------------------------------------------------大学生時代の投手兼野手といえば、元・楽天監督の田尾安志氏(泉尾高-同志社大)も、たしか同じだった。大学時代は投手で4番。wikipediaによると、登板しない日は野手として試合出場することが多かったらしい。それでも大学2年から3年連続で日米大学野球の日本代表に選出された。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.03
コメント(6)
出る打者出る打者、ことごとく安打を連ねることを野球では「フリーバッティングのようだ」という。ではボールを持てば、ことごとくトライにつながるラグビーの試合のことを何と言うんだろう?■早稲田大 71-7 明治大■ 今日の早明戦、久方ぶりにFWがパワーアップしたと聞く明治大に、多少の期待をもってテレビ観戦した。でも、明治大がイキイキとプレーしていたのは、試合開始から6分まで。早稲田ゴール近くでFWがモールをつくり、最後はバックスに展開してトライを奪う。このシーンが明治、最初で最後のトライになるとは、その時まるで予想できなかった。-------------------------------------------------以降、明治もボールをもつものの攻め手がない。前半最後のワンプレーも、それがわかっていながら、攻め手がなく自分からボールを蹴ってタッチをわるという悲惨な状態に。後半になると完全に早稲田のペース。ボールをもてば、右に左に大きく展開して明治のディフェンスを揺さぶり、特別な戦術を用いるまでもなく一次攻撃、二次攻撃であっさり穴をついてトライを重ねた。次から次へと選手がわき出てくる早稲田、プロップやロックの選手までがどんどん絡んできてはトライを奪う・・・、完璧なまでのワンサイドゲーム!71-7というスコア。長い歴史の早明戦において、史上最大の得点差だった。関東学院大が出場辞退した今、早稲田を倒せるチームはまるで見当たらない。といっても早稲田、数年前よりは戦力が落ちているように見えるのだけど。------------------------------------------------------今日の早明戦、出場した選手の出身校に、啓光学園高と大阪工大高の名前があった。この両高、経営統合を行って来春には校名を変更する。どちらも入学者数が激減する事態に陥り、大阪工大高などを運営する大阪工大摂南大学が、啓光学園を実質的に吸収合併することになった。経営統合に伴い、来春から大阪工大高は「常翔学園高」、啓光学園は「常翔啓光学園」に校名を改める。 (日刊ゲンダイ)1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.02
コメント(4)
元広島の監督・古葉竹識氏(済々黌高-専修大)が来春から、いよいよ東京新大学リーグに加盟する東京国際大の監督に就任するそうだ。いよいよ、と書いたのには理由がある。本来であれば、今春から就任に予定する予定だったが、昨年までマスターズリーグに参加していたため、その期間もプロ在籍期間とみなされ就任が遅れていた。暫定的に、今年1年は古葉氏の三男・隆明氏(広島城北高-慶應義塾大)が指揮をとり、この秋季リーグはチームを3位に導いた。-------------------------------------------------古葉さん、就任するにあたりサプライズを用意していた。それは、先日このブログで紹介した元広島で炎のストッパーと呼ばれた津田恒実さんの長男・大毅さん(19)が投手としてプレーすることが発表されたこと。今春、九州学院高を卒業し九州の私立大で投手兼外野手としてプレーしていた大毅さん。ぜひ「古葉さんの指導を受けたい」と編入試験を受験し合格した。-----------------------------------------------------古葉竹識さん。ボクが思いだすのは1979年の日本シリーズ・広島-近鉄戦。中でも、印象が強いのは江夏の21球(山際淳司氏)に登場する古葉さんの姿だ。双方3勝3敗のタイで迎えた第7戦。スコア3-4で1点差を追う近鉄、9回裏の攻撃。安打や相手のミスなどで、無死満塁の願ってもないチャンスをつかむ。広島のマウンドに立つのは、当時の守護神・江夏豊。この時、江夏は苛立っていた。無死満塁のピンチにではない、守護神・江夏が投げているのに、ブルペンで次の投手の準備を始めたベンチに対して。「俺はベンチから信頼されていない・・・」と。結局この試合、江夏が奇跡の投球を見せてチームを優勝に導くのだが、試合終了後の古葉さんのコメントは、「江夏はもちろん信頼していた。ただ同点になった場合は延長戦になる。江夏に打順が回ったときは、当然代打を出さなければいけない。だから、守護伸・江夏の次の投手の用意をしていた・・・」古葉さん、極めて事務的なことを考えていた。男気はないが沈着冷静な監督だった。1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.12.01
コメント(6)
全20件 (20件中 1-20件目)
1
![]()
![]()
