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『草の花』福永武彦(新潮文庫) えー、筆者の福永武彦という人は、文学史的に言いますと、「第2次戦後派」にあたる作家ですかね。大岡昇平なんかと同じですか。 野間宏や椎名麟三・埴谷雄高なんかの第1次戦後派の次ですかね。世代的には一緒でしょうが、「戦争」に対するとらえ方がさらに広がり「人間」そのものへのアプローチになり、第1次の人達に比べて、遙かに屈折的・重層的になっている方々ですね。 そんな中で、福永武彦は極めて理知的な小説展開をする人のようです。 「人のようです」と書くのは、実はこの筆者の小説を読んだのは、後述していますのと合わせて、二冊目であります。 そもそもこの「戦後派」の作家達というのは、私の「近代日本文学史読書体験」の中では、エアポケットに当たる方々で、ここ数年、毎年のように読書計画の目玉の一つに考えながら、なかなかいっこうに進まない方々であります。 (ついでの話ですが、私のその外の読書計画の「目玉」は後ふたつありまして、一つは自然主義小説、もう一つは、鴎外の「史伝」とまー、考えておるんですがー、前者は亀の歩みながら、ぼちぼち進んでいますが、鴎外の史伝については、現在ちょっと目途が立っていません。うーん。) さて、かつて一冊読んだ小説というのは、これです。 『風土』(新潮文庫) わりと長い小説です。新潮文庫で420ページほどあります。 とてもおもしろかったです。なんか、久々に読んだ本格的小説という感じがしましたね。 この福永氏のご子息が、これまた小説家の池澤夏樹氏でありますが、この人もディレッタントな感じの小説を書く人ですが、親父だけあって(?)、さらに「知的」な小説になっていますね。 上述しましたように、人間存在へのアプローチが屈折的・重層的で、そしてきわめて知的な小説。芸術と恋愛。感覚的には、なにかトーマス・マンの『ベニスに死す』みたいですが、あれほどストレートに「芸術」は出ていません。それよりもお話作りの構造的な骨格に感心しました。 第2次戦後派といえば、ちょうど三島由紀夫がそれに当たるのですが、そういえば『金閣寺』のような、とてもしっかりした構造です。 (『金閣寺』については、もうかなり昔に読んだきりなので、詳しくは覚えていませんが、でもこの『風土』よりも、もう少しできがよかったような記憶があります。) ただ終盤が少し尻すぼみになったような気がしましたね。 この作品は、作者にとっては若い頃の作品で、こう言った難点は、若書きの作品によくある物だといえばそんな風にも思います。 とにかくとてもおもしろかったです。 そして、この度、冒頭の小説を読んだのですが、まずストーリーの大枠を紹介がてら、例によって、新潮文庫の裏表紙にある一文です。こんな具合です。 研ぎ澄まされた理知ゆえに、青春の途上でめぐりあった藤木忍との純粋な愛に破れ、藤木の妹千枝子との恋にも挫折した汐見茂思。(略)まだ熟れきらぬ孤独な魂の愛と死を、透明な時間の中に昇華させた、青春の鎮魂歌である。 なるほど、恋愛小説なんだな、と。 姉妹二人に恋愛をしたのだな、と。 平安時代の女流歌人・和泉式部、為尊親王と弟の敦道親王の、二人の皇子とスキャンダラスな恋をした和泉式部の、逆パターンかな、と。 そう思って読み始めたんですね。 しかし、なかなかヒロインが登場してこないんですね。 あれー、と思って、私はもう一度、上記の新潮文庫裏表紙の一文を見直しました。 そして、思わず「あっ!」と、声を上げてしまいました。 この小説は、「姉妹」に恋愛するのではなく、「兄妹」に恋愛する小説なんだ! えー、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.28
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『和解』志賀直哉(新潮文庫) 上記小説報告の後半であります。 前回は、主人公(=ほぼ筆者)の、堂に入った「不愉快ぶり」を鑑賞していました。 それはなかなか見事なものであり、とにかく、徹底しています。例えばこんな部分。 主人公は妻と、親の家に行きます。 (なぜ、そんなに何度も喧嘩している父親の元に行くかというと、そこにおばあちゃんが居るからなんですね。高齢のおばあちゃん。実は、志賀直哉はほとんどおばあちゃんに育てられた「おばあちゃん子」なんですね。図らずも、三島由紀夫と同じですね。) そこで、母親から、ちょっと父親に「お詫び」をしてこいと言われます。そして、父の部屋に行きます。 父は机の前に机を背にして坐っていた。父は、「貴様がこの家へ出入りすることは少しも差支えない。それは俺は喜んで許す。然しきまりをつけねばならん事は明瞭つけたいが、どうだ」と云った。「京都の事はお気の毒な事をしたとは思っています。あの頃とはお父さんに対する感情も余程変っています。然しあの時私がああした事は今でも少しも悪いとは思っていません」こう答えた。「そうか。それなら貴様はこの家へ出入りする事はよして貰おう」「そうですか」自分はお辞儀をして起って来た。自分はもうカッとしていた。 どうですか。なんか、もう笑ってしまいそうな展開ですね。 特に「京都の事はお気の毒な事をしたとは思っています。あの頃とはお父さんに対する感情も余程変っています。然しあの時私がああした事は今でも少しも悪いとは思っていません」という理論。 この理論で行くと、世の中に「反省」なんて無くなってしまいそうな気がするんですが、そんな事ありませんかね。 そして、今僕が書いたような事を考える者がいるかもしれないという事に対して、またこんな風に書いています。 上記の場面の直後、主人公は腹を立てて両親の家から出て行きます。 そしてその時、後ろから付いてくる妻に対して言うセリフです。「若しお前が俺のする事に少しでも非難するような気持ちを持てば、お前も他人だぞ」自分は突然こんな事を云った。妻は黙っていた。「若し俺がお父さんの云う事をはいはい諾く人間だったらお前とは結婚してやしなかったぞ」自分は嚇すように又こんな事を云った。 えー、しかし、「難儀なオッサン」ですなー。 自分も大概辛いやろうにねー。 しかし、これが、志賀直哉のポリシーなんですねー。志賀直哉の「近代的自我」なんですねー。そして、多くの文学者は、これに対して「絶賛」を贈ったんですねー。 上げたり下げたりですみませんが、もちろんそんな「難儀なオッサン」だけではありません。 本作品で、後半、父との和解が成立するにあたっての大きな出来事として、主人公の長女の死(まだ一歳に満たない赤ん坊です)と、次女の出産があります。 この場面を、筆者は一種異常なリアリティーで、実に克明に書いていきます。 特に感動的なのが、出産のシーンです。 こんな「オッサン」ですから、もともと妻の出産の場に臨むつもりなどさらさらなかったのですが、医師の到着が間に合わなかった事で、産婆に出産の手助けをさせられます。 あたふたしながら、何とかその役を終えた後、主人公はこう思います。 生れたばかりの赤児に対しては別に親らしい感情も起らなかった。自分は其所に泣いて暴れている赤児を近寄って見たいとも思わなかった。それが男か女かを早く知りたいとも思わなかった。只自分にはその児の出生によって起った快いそして涙ぐましい亢奮が胸の中で後までその尾を曳いている事が感じられた。 出産、それには醜いものは一つもなかった。一つは最も自然な出産だったからでもあろう。妻の顔にも姿勢にも醜いものは毛程も現われなかった。総ては美しかった。 やっと「快い」「自然」が出てきましたね。 結局、主人公の心理の中心にあるのは、とにかく自らの感情に忠実であること。 感情が指し示す「好悪」をこの上なく重視して、それに対して無理をせず、「自然に」「自然に」振る舞う、という行動規範であります。 好きは好き、反省は反省、とにかく自らの感情に対して全面的に「自然に」、なんですね。だからその分、「快い」は、きっと本当に「快い」んでしょうね。 しかし、こういうのを「近代的自我」って呼ぶんでしょうか。 「白樺派」ですものね。「白樺派」の総領の武者小路実篤に比べると、これでもまだ「控えめ」みたいなものですもんねー。 (でも、だから「白樺派」はダメになっちゃったといえそうな気もするんですがー。) ともあれ、子供の死と生は、主人公の感情の変化を支える大きな事件であり、そしてそれを描く筆者の筆力には、やはり読者に有無をいわせぬ感動を与える「強さ」があります。 しつこいようですが、こんな「素直な生」や「自然」に、本当に価値はあるんでしょうかね。近所迷惑な事、ないですかね。 これを近所迷惑だと感じたのが、たぶん太宰治でしょうね。 が、私はやはり、この「自然」には価値があると思います。 ただ、ひょっとしたらそれは、ごく少数の「選ばれた者」にのみの、特権的なものであるような気も、同時にするのではありますが。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.26
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『和解』志賀直哉(新潮文庫) 「自分の気持ちに素直」とか、「自然に生きる」とか言う価値は、やはり、すばらしいんですよねー。 変なことを言い出したのは、例えば、こんな部分です。 主人公は、外出先で「不快」な事があって、それを引きずって帰宅します。そこでの妻とのやりとり。「少し具合が悪い、身体が大儀で仕方がない」「お腰を揉みましょうか」 妻の気持ちが少しもピッタリしていない。自分は黙って便所へ起って行った。少し下痢だった。出て来ると妻は同じ所に坐ったまま、ボカンとしていた。自分は其所から故と少し離れた所に妻の方を背にして又ごろりと横になった。妻は赤児を傍に寝かして寄って来た。そして自分の腰を揉もうとした。自分は黙ってその手を払いのけた。「何故?」と情けない声をした。「ともかく、触らないでくれ」「何を怒っていらっしゃるの?」と云う。「こう云う時お前のような奴と一緒にいるのは、独り身の時より余程不愉快だ」 暫くすると妻が泣き出した。 この一文は『和解』の、始め近くのあたりです。 とにかく主人公は、しょっちゅう「不快」「不愉快」がっています。 もう一度、上記の場面を考えてみますね。 私たちでも、何か不愉快な事があった時、ストレートに誰かに話を聞いてもらったり慰めてもらいたいと思う時と、とにかく誰にも構ってもらいたくないと思う時と、2パターンあることは、経験上よく分かりますよね。そして、この主人公の言ったセリフくらいのことを、心の中では思うかも知れません。 でも実際に、ここまで女房に言うかー? (もしもこれがわたくしの家なら、即「血の海」、そして全身打撲です、もちろん、わたくしが。) 明治の男はこんなんだったんでしょうかね。 そうかも知れませんね。 以前読んだ尾崎紅葉の小説にも、感覚としてこれに近いと思えるシーンがあったように思います。 私の言いたいのは、この主人公がけしからんということではなくて(いえ、少しはそんな感じもありますが)、この場面にリアリティがあるかどうかということなんですが、いかがでしょうか。 リアリティ、あるんでしょうね、たぶん。 ただ、こんな場面一つを取り上げただけで、太宰治が志賀直哉を嫌った理由は明らかですよねー。 それは、太宰に、こんな感覚が理解できないのではなくて、小説のプロセスの一部とはいえ、こんな感覚描写の必要な作品の存在自体が、我慢できなかったんでしょうねー、きっと。 繰り返しますが、主人公は、特に前半、不愉快がってばかりいます。 それはもちろん、後半部の、父との「和解」の意味を強める効果としての「段取り」なんでしょうが、そんな役割をさっ引いたとしても、やはり、たぶん、本当に、志賀直哉自身がそんな状況にいたんでしょうね。 年譜によると、筆者の長子が亡くなり、次子が産まれ、父と和解したのは33歳から34歳の間となっています。 なんだ、まだ「若造」ではありませんか、現代の感覚なら。 この堂に入った「不愉快」ぶりは、まるで老人のようですねー。 しかし、そんな「不愉快おやじ」が主人公です(そしてたぶんかなり筆者とかぶっています。「私小説」ですから)、と書きますと、これは決して正確ではないんですね。 この「不愉快おやじ」は、自分と父との確執の説明について、同時にこうも書く人なんですね。 丁度十一年前父が「これからはどんな事があっても決して彼奴の為めには涙は溢れない」と人に云ったと云う。そして父がそう云い出した前に自分が父に対して現わした或る態度を思うと自分は毎時ぞッとした。父として子からこんな態度をとられた人間がこれまで何人あろう。自分が父として子にそんな態度を取られた場合を想像しても堪えられない気がした。父がそう云ったと聞いた時に父の云う事は無理でないと思った。そして自分も孤独を感じた。 どうですか。 この主人公(=ほぼ筆者)の感じ方の幅、わりと面白いので、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.24
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『天の夕顔』中河与一(新潮文庫) 上記の小説は、昭和十三年に発表され、以来、第二次世界大戦後までにわたって、45万部が売れたそうであります。 その時代としては、破格のベストセラーでしょうね。 でも、どうなんでしょうか。この作品は、現在でも読書に堪えるものでしょうか。 そんな気もするし、しないような気もするし、ちょっと、その辺を考えてみたいと思います。 恋愛小説なんですが、冒頭しばらく、すでにもう主人公の大学生は、人妻に惚れられています。不倫の恋の話なんですね。 これって、ちょっと「失礼な」比較になるかも知れませんが、少年漫画の「ラブ・コメ」によく見られるパターンですよね。まず、女性に惚れられる。(考えれば、私は長く少年漫画を読んでいないんですが、「ラブ・コメ」って、今でも言うんですかね。) で、その後、今読むと、ちょっと「アブナイ」感じの女性のアプローチ、男性の対応が続きます。 それは例えば、貸してくれた本の中に、これ見よがしな恋愛の短歌が挟み込んであったり、突然、二人の間のわだかまりを解きたいという手紙が来たり、会えばいきなり「これ以上会うのは苦しい」と告白されたり、家まで行って、相手の目の前で、相手が何度も読み直したと言っている自分の手紙を、凶暴に全部引き裂いてしまったり、二人の関係は恋愛ではないと確認しあった後でキスをしたり抱き合ったり、うーん、なんかもう、よく分かんないな。 そして会ったり会わなかったりがずるずると30年近く続くんですね。 (またこの、時間の立ち方が「歪」なんですねー。「それから二年」とか、「すると二年目の六月」とか、会っていない間の年月は、昨日と今日の間のように「光速」で過ぎていきます。) その間、まぁ、上記のような状態の、間歇的ずるずる繰り返しです。 そして、性的な関係だけは持たない。 えー、ちょっと、偏向した書きぶりになっていますでしょうかね、なっていそうだな。 とにかく、なんか、ちょっと、「変」。 読んでいて少し、イライラとしてきます。このイライラは何処かで経験したぞと考えたら、思い出しました。 武者小路氏の一連の「ナルシズム」小説であります。 あれも大概イライラさせられましたね。 でも先日、武者小路氏と同時代人、芥川龍之介の友人である小島政二郎の文章を読んでいますと、氏は、武者小路氏のあっけらかんとした「ナルシズム」に、とても「憧れ」を感じていらっしゃいました。ふーむ、あの時代にはそんな読み方があったのかと思いましたね。 この作品の「変」なところは(もちろん、現在の立場で見ると「変」な気がするということですが)、上記以外にも、おそらく枚挙にいとまがないほど出てきます。 でも、なぜこの小説は現在も、とりあえず私でも手にはいるという形で残っているんでしょうね。 いや、もうすぐ、時代から消えていこうとしているという気もしないではないですが、とりあえず残っている事の理由について、僕はこういう事ではないかと、実は読みながらちょっとメモしました。 「リアリズムの拒否と、ストイックということ」 以前、幸田露伴の『五重塔』を読んだ時、僕は、この主人公では実際は五重塔は建たないだろうと思いましたが、作者は、その事に気が付いていないわけではないんですね、おそらく。 それが「浪漫主義」あるいは「理想主義」ということなんでしょうね、たぶん。 この小説は「ストイック=禁欲的」というキーワードを作品化した「恋愛の理想主義小説」なのではないだろうか、と。 そう考えれば、この作品に対して高い評価がある事についても理解できます。 例えば、作中の人妻の存在に対して、何か、「崇高」なものを投影する事も、確かにできそうな気もします。 しかし、そこまでするかどうかは、もう「好みの問題」ではないでしょうか。 残念ながら僕はちょっと、そこまではできませんでした。 昔の人はこんな時、上手におっしゃいましたね。 「ご縁がなかったんですね」って。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.21
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『津軽』太宰治(新潮文庫) さて、上記小説報告の後編であります。 前回は、ほとんど本文の引用で終わっていましたが、読んでいて気持ちのいい文章というのは、書き写していても、やはりとても気持ちのいいものですね。 書き写しながら、思い出していたんですが、そういえば太宰の文はこんな文だったな、と。 というのは、かつて昔(多分大学時代)、まー、今考えると「ヒマに任せて」、何人かの小説家の文章の一部を書き写していた事がありました。三島とか漱石とか、谷崎とか、そして、太宰とか。 太宰の文は、センテンスがとても短いんですね。読点も多いです。『走れメロス』なんて、そんな典型的な文でした。(中期の谷崎の文章と、何と違う事!) それとあと、思いの外、平仮名が多い事です。漢字で書いたっていいんじゃないのと思うような部分が、平仮名で書いてあります。あの狙いは、今でもよく分からないですね。 さて、冒頭の作品報告に戻ります。 『津軽』は古来、名作の誉れ高い作品で、少なくない読者が、太宰作品の最高峰と押しているものです。 ところが、僕にはその理由がよく分からなかったんですね。 で、今回、再読しまして、いい作品だなとは思いましたが、しかしこれがなぜ太宰作品のベスト1なのか、やはりよく分かりませんでした。 僕が考える太宰作品のベストは、えー、改めてこういうのを考えてみると、迷うものですね。 えーっと、『お伽草子』です、かね。 もちろんこの作品も評価が高いですね。太宰作品の一等賞にあげていた評論家もいたように思います。 この連作短篇の中でも、「浦島さん」は、太宰作品中の、僕の偏愛の対象であります。 この作品の中には、小説によって描かれた、最も美しい想像力の極北があると、僕は思っています。 そう、「想像力」なんですね。 何がって、太宰の小説の魅力の一番か二番目にランクされるものについてです。 ところが、振り返って、この『津軽』における想像力の「立場」はどうなっているのでありましょうか。 それが良くない事だとは思いませんが、この作品中の描写は、基本的に全て事実なんでしょうか。 前回の報告において取り上げました『津軽』の末尾に、「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。」とありました。 しかし、太宰の魅力の少なからぬ部分は、実は「読者を騙す力」ではないでしょうか。(ただし、この末尾のような一文を入れるところもまた、太宰の大きな魅力はありますよね、確かに。) そういえば、これも前回の僕の報告の始めの方に、この作品をこのように紹介しました。 「いわば、この作品は、ノンフィクションの、旅行記であります。」 うーん、この作品は、小説じゃなかったんですねー。えええーー? じゃ、この作品が太宰作品のベスト1だと主張する方々は、小説家としての太宰作品は買わないって事ですか? それって、例えば漱石の作品の中で、最も優れているのは『硝子戸の中』ですって言っているのと同じですか? (確かに『硝子戸の中』も、漱石作品中高評価の随筆ではありますが。) 或いは、漱石の作品の中で最も優れているのは『近代日本の開花』という講演です、っていう類? やはり変ですよね。 例えばこの『津軽』中、もっと僕が面白いと思った個所の一つに、作者を迎えてくれた「蟹田のSさん」の熱狂的な饗応ぶりの場面がありますが、ここは「極端な誇張」つまり、ほぼフィクションでしょう。 こんな個所を描く太宰の筆には、『お伽草子』に直接繋がるような縦横無尽な「冴え」が感じられます。 この太宰の、一番の「得意技」を、あえてほとんど「封じて」描いた「佳作」が、『津軽』なのではないでしょうか。 この作品(小説に非ず)は、読後、ほんのりと心の温まるような、実によい旅行記であります。 しかし、太宰の小説には、これ以上の、太宰の「専門科目」の「愛」が、とても素晴らしい面白さを伴って描かれています。 太宰が、歴史を越えて読み継がれる「真骨頂」であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.19
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『津軽』太宰治(新潮文庫) 昔より、名作の誉れ高い本作であります。 ところが、これが、僕にはよく分からなかったんですねー。 えー、太宰治については、全集が家にありまして、一応全て読んでいます。 太宰治は、かなり好きだと言って間違いないと思います。 ところが、繰り返しますが、『津軽』について、もちろん嫌いな作品とは思いませんが、さほど凄いとも思いませんでした。 と言っても、この作品も読んだのは多分大学時代でしょうから、圧倒的に昔であります。 この度、再読致しました。 いい作品ですね。本当にそう思います。 でも、これが、太宰のベストとは、やはり思えませんでした。 今回はそのへんをちょっと考えてみたいと思います。 昭和十九年、太宰は、書店から「新風土記叢書」の一冊として「津軽」を書くことを依頼され、五月から六月にかけて津軽地方を旅行します。 いわば、この作品は、ノンフィクションの、旅行記であります。 「序編」と題された、文庫本で20ページほどの部分から始まります。 それなりの落ち着きのある、大家のごとき文章であります。この年、太宰は35歳であります。この見事な文章は、やはり天稟のものでありましょうね。 ところがこの後の「本編」の「一」の冒頭が、これまたいかにも「太宰節」であります。 有名な箇所ですが、ちょっと書いてみますね。 「ね、なぜ旅に出るの?」 「苦しいからさ」 「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」 「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斉藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七」 「それは、何の事なの?」 「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」 「そうして、苦しい時なの?」 うーん、こうして書き写していますと、ちょっと恥ずかしくなるくらいに「太宰節」ですね。 ところが、この文は、その後何処へ行ってしまうかというと、これを受けたような個所が、まるでないんですね。(うーん、ないこと、ない、とも、言えますが。) あえて探すとすれば、末尾でしょうか。この作品の最後です。 ここも有名な個所ですが、こんな風に終わっています。 さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。 うーん、また我が恥を晒すようですが、この部分の終わりの個所を、若き日の私は、何人の手紙に書いたことでしょうか。 全く、汗顔の至りであります。 えー、我が恥は置いておいて、一つ前の「本編」冒頭の引用部ですが、上述したように、ここを受けた部分はほぼ見あたらないように思われるのですが、この文が出てきたであろう繋がりの部分は、あります。 直ぐ手前、「序編」の最後であります。 今回のブログの内容は、もうすでに、ほとんど「太宰節」の見本帳のごときものになっておりますので、ついでにもう一個所、引用してみますね。こんなのです。 私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、所詮は、一夜勉強の恥ずかしい軽薄の鍍金である。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ、世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追究した。どの部門から追求しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。 うーん、唸ってばかりで申し訳ありませんが、しかし、唸るしかない誠にかっこいい「太宰節」ですよねー。 一度私も真面目に、本当に真剣に、「私の専門科目は愛です」と、誰かに言ってみたいものですが、笑われるか殴られるか、どちらかになりそうなのが、なんだかとても(特にこんな太宰の文章を読んだ後は)悲しいものであります。 というわけで、今回は「太宰節」の見本帳でした。 次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.17
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『浅草紅団・浅草祭』川端康成(講談社文芸文庫) 川端康成は好きでした。 「好きでした」と過去形で書いてしまったのは、僕の感覚としては、川端康成は今でも好きな作家の中に入っているとは思うものの、では断続的にでも、「川端氏の小説を今でも読んでいるのか」と尋ねられれば、それは、ほぼ、皆無であるからです。 一連の川端作品は、大学時代に、その頃新潮文庫で手に入るものは(たぶん「昔は良かった」式の懐古感覚だとは思いつつ、あの頃の新潮文庫って、川端・谷崎・三島・大江・公房・倉橋・等々、本当に近現代の綺羅星のような「純文学」作品が、一杯出ていたと思うんですが、今でも、基本的にそうなっているんですかねー)、ほぼ読みましたが、今考えてみると、僕は本当に分かっていたんでしょうかねー。 本当に面白かったんでしょうか。 うーん、よく分かりません。 当時、僕が一番好きだった川端作品は、『山の音』だったように覚えています。 しかし『山の音』って、老年期に入ろうとしている主人公の男が、息子の嫁に、微かな「恋心」を抱くっていう作品じゃなかったでしょうか。 そんな老境の微妙な心理が、大学生に分かるのでしょうかね。 でも若者の頭って、わりと柔軟な上に、社会生活に対する基本的な「無責任」さが、良い意味で「アバウトなキャパシティーの広さ」みたいなものに繋がる時もある気がするんですが、こんな分析って、間違っているでしょうか。 さて、冒頭の川端作品であります。 久しぶりの川端康成であります。どれくらい久しぶりかと考えようにも、すでに記憶にないくらいですから、まー、これもアバウトに、二十年ぶり、としておきましょう。 読みながら、類似小説を思い出していたんですが、同作者なら『掌の小説』、他の作者でよいなら稲垣足穂『一千一秒物語』ですかね。 特に足穂作との類似を、非常に感じました。足穂は、同時代人ですからね。 例えば、こんな文章です。 例えば子供役者の歌三郎と歩いていると、弓子はその脣の綺麗過ぎる少年よりも、ずっと男に見える。美しい娘が男の見えた時には、鋭い、そしてこぼれ易い刃物のような憂鬱を、諸君は彼女のうちに感じはしないか。 「和洋ジャズ合奏レヴュウ」という乱調子な見世物が、一九二九年型の浅草だとすると、東京にただ一つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗挙げしたカジノ・フォウリイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、一九三〇年型の浅草かもしれない。 エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足と――。 文中に「一九三〇年型の浅草」とありますが、昭和初年の東京であります。 初出がまさに昭和五年(=一九三〇年)の「東京朝日新聞」ですから、リアル・タイムな浅草のルポルタージュ的作品ともなっています。 昭和初年の日本といえば、「百花繚乱」というか「百鬼夜行」というか、近代日本歴史の転換点でした。 あの司馬遼太郎が嫌った昭和初年(司馬氏が『この国のかたち』の中で嫌ったこの期間は、厳密に言うと明治三十八年(1905年)から昭和二十年(1925年)の「四十年間」で、日本歴史上の「異胎」という言葉で、司馬氏は自らの興奮も隠さず、徹底的に嫌っています)であります。 東京の2/3が灰燼に帰し、江戸文化に最後の引導を渡したと言われる大正十二年の関東大震災の後の時代。 破壊はすでに終われども、再生の未だならぬこの時代。 「女工哀史」などに見られる世界恐慌の影響・プロレタリア文学の興隆と、大衆小説の黎明ならびに都市文化の発達、そして中国大陸への泥沼の侵略がじわりじわりと閉塞感を生み出し始める狂い咲きのような「エロ・グロ・ナンセンス」の時代であります。 そしてそこに颯爽と、後に横光利一と組んで『文芸時代』を創刊し、「新感覚派」としてアジテートし始める直前の、まさに才気溢れた若き川端康成の登場です。 実験小説的色合いの濃い文体は、時代を先取りするような「切れ」と「疾走感」に加えて、『掌の小説』などにも見られる「詩性」も充分に感じられ、オーバー・ドライブするリズム感が小気味の良い小説にはなっています。 ただ、そんなショットやカットの羅列に、ストーリーが有機的に絡んできません。 そんな小説も、もちろん「あり」ではありましょうが、ストーリーが大きく前面で動き出さない小説は、やはり片肺飛行の弱さを呈せざるを得ないと、僕は思います。 結局、実験小説の枠内の作品なのでしょうか。 目先が変わり一種の新鮮さが味わえることと、そんな作品の積み重ねの後に大きな結実が来るかも知れぬと言う期待はあっても(そしてその期待は、川端氏に於いては見事に叶えられますが)、その作品単独では小説の本道とはならないんじゃないかと、僕は感じてしまいました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.14
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『ひかりごけ』武田泰淳(新潮文庫) 小説家でいて僧侶であるという方は、結構いそうに思うんですが、はて、どんな方がいらっしゃいましたでしょうか。 かつて、今東光という方がいらっしゃいましたね。あ、寂聴さんがそうですか、瀬戸内寂聴さん。 あと、少し前に芥川賞を取られた方も、いらっしゃったように思います。 しかし、小説家で僧侶という方は、たとえば、遠藤周作のようなキリスト教作家に比べると、何か「存在感」が薄いと感じてしまうのは、私の偏見でしょうか。 もっとも、キリスト教作家は、小説家でいて牧師であるというのではありませんから、比較の仕方が悪いのかも知れませんね。 さて、今回の作家・武田泰淳氏は僧侶でいらっしゃいます。(すでにお亡くなりの方ですが。) 第一次・二次戦後派というところにおそらく分類される方で、小説家としては、かなり高い評価をお受けの方と側聞しますが、僧侶としては如何だったんでしょうか。寡聞にして存じ上げません。 しかし本書において、まさしく僧侶=宗教家としても非常に質の高い、「文学的=宗教的・哲学的結実」を見せていらっしゃると感じました。 (もとより私の宗教的な知識は、ほぼ皆無であります。素人判断しかできていないものではありますが、しかし「宗教的結実」は十分あると思います。) 本書は四つの作品による短篇集ですが、その作品には幾つかの共通項があります。 まず、閉鎖された空間内での人間関係を描いていると言うこと。 『異形の者』という作品に於いては、人間関係だけではなく、人間と「絶対者」の関係にまで及ぼうとしていますが、そんな関係が、ことごとく、実に粘り気のある、イメージの分厚い、そして内臓のような存在感と暴力性を持った描写でなされているのも、共通項の一つであります。 各作品に十分読み所はあるのですが、やはり圧巻は、総題にもなっている『ひかりごけ』でしょうか。 60ページほどの短篇でありながら、人間存在の苦悩について、小説的物語性と象徴性の共に高い、極めて優れた作品となっています。 それは、一言で言うと「人肉食」の話です。 第二次世界大戦末期、北海道の端・羅臼で難破した軍用船が、人跡の絶えた漂流地に辿り着き、二ヶ月間、極寒期の食料皆無の中で実際に起こった惨劇を、モデルとしたものであります。 筆者は、この状況を実に巧妙に描いています。 紀行文のようにその地の風土から描き始め、そして村の校長と共に見に行った、洞窟内に生える珍しい「ひかりごけ」の話、さらに彼から聞いた話として、「人肉食」の話題に入っていきます。 この時点で、「私」は「人肉食」について「殺人」と絡めながら様々な考察をします。 例えばこんな具合です。 殺人の利器は堂々とその大量生産の実情を、ニュース映画にまで公開して文明の威力を誇ります。人肉料理の道具の方は、デパートの食器部にも、博物館の特別室にももはや見かけられない。二種の犯罪用具の片方だけは、うまうまと大衆化して日進月歩していますが、片方は想い出すさえゾッとする秘器として忘れ去られようとしている。この二つの犯罪行為に対する人気投票が、前者は依然として上昇ぎみであるのに、後者がガタ落ちしているのは、要するに、前者の選挙ポスター、宣伝カー、政治綱領がすみずみまで行きわたっているのに、後者の候補者の方は、選挙以前から検束されてしまっているがためにすぎないのです。 どうですか。このグロテスクなユーモアを伴った、殺人と人肉食の比較検討は。 そして、このグロテスクなユーモアは、後半の戯曲形式に於いて、俄然効果を発揮していきます。 いよいよ最後、戯曲第二幕の、人肉食をした「船長」の裁判の場面において、「私は我慢しているが不幸ではない」と言い張る「船長」が、人肉を食べたものの首の後ろは「ひかりごけ」のようにうっすらと光るが、それは人肉を食べていないものにしか見えない、と発言した後の場面は圧巻です。 舞台の照明を落とした中、首の後ろが光っている者は、いつの間にか登場人物全員であり、互いにそんなひかりごけなどは見えないと話し合っている。 「そんなはずはない。私をもっと真剣に、もっとよく見てください」と叫ぶ「船長」の姿、そして彼を取り囲む者達の姿が、闇の中、しだいにゴルゴダの丘のキリストと見物人達に重なっていく……。 見事なものですね。 ここを読んだだけでも、筆者が、終盤を戯曲形式にした狙いがはっきりと読み取れます。 武田泰淳が骨太な作家として高い評価を受けているわけが、この一作からでも分かるようですね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.12
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『砂の上の植物群』吉行淳之介(新潮文庫) 「精神的不安定が生み出す、間歇的に訪れる肉体上の異変」 うーん、この一文はちゃんとした文になっているんでしょうかねー。 これは、今回の報告する小説にしばしば出てくるシチュエーションを、まとめたつもりの一文なんですがー。 本文においては、こんな具合で出てきます。 そのとき、にわかに伊木一郎は躯に異変を覚えた。立暗みに似た気分だが、ふしぎに病的な感じではない。 彼は部屋の隅の椅子に腰をおろした。異変はつづいており、躯の奥底でかすかな海鳴りに似た音がひびき、それがしだいに大きくなり、広い幅をもった濃密な気分が轟々と音を発して彼の躯の中を縦に通り過ぎた。膨らみ切ったたくさんの細胞が、一斉に弾け散ったような音がそれに伴った。 えー、今となっては誠に恥ずかしい事をここで告白しますが、この様な状況に、昔、わたくし、ひじょーーに憧れましたねー。 しかし現実には、我が肉体にこの様な繊細な「文学的」な反応は起こるはずもなく、ひたすら健康的にいつも腹が減っていた事を思い出すばかりであります。 さて今回、この小説を多分33年ぶりに読みまして、私事ながら、実にいろんな「若気の至り」を思い出しましたねー。 ついでですから、少し細部に拘っておきますが、上記の引用部の中の「躯」は、原文では「身」の右に「區」と書く旧字体です。これも上記引用部に出ている「細胞」という単語と並んで、吉行淳之介の自家薬籠中の表記と表現であります。 えー、実に懐かしいんですが、改めて落ち着いて考えますと、この小説はまさに「青春小説」という感じが致します。それは、私にとってそうだという意味ではなくて、書かれている内容がまさにそうだという意味でです。 主人公は、妻子のある40歳前の化粧品のセールスマンですが、彼の体に起こる上記のような状況とか、全編を貫く父との確執とか、どう考えても、これは「青春小説」としか思えません。 だから多分、かつての私は、上記のような状況にひどく「憧れた」んだと思います、今になって考えてみますと。 もう少し順を追って考えてみますね。 この小説には、大きな要素として、変態的な性関係がいくつか出てきます。代表的な物は、痴漢行為とマゾヒズムでしょうか。 私も、若かりし頃の読書においては、かなり興奮した記憶があります。 (あのー、どうでもいい、ついでの話なんですがー、小説中の痴漢行為が書かれている個所を読んでいました時、たまたま私は阪急電車京都線の二人がけのロマンスシートに乗っておりまして、なぜか偶然隣に座っていたのが妙齢の女性だったもので、思わず自分が痴漢行為をしてしまいそうな際どい感覚になった事を、今に至るまで覚えておりますから、まったく私って、どうしようもない馬鹿ですねー。) しかし、これらの性的な表現について、もはや衝撃性がかなり薄れてしまった現在、それらを取り払って落ち着いて読んでみると、上記にもありますように、この小説は、実に一本道に歩む「教養小説=ビルドゥングス・ロマン」である事が分かります。 それらの性的出来事は、青年期特有の「不健康さ」ではあっても、「頽廃=性的頽廃」ですらありません。 主人公は女性との性関係を通じて、実に真摯に「自分探し」をしています。 そして、その「自分探し」にめどが付き、これ以上の性関係が「性的頽廃」にずり落ちそうになる時、小説は終末を迎えるという構造になっています。 うーん、この小説は今でも大いに読まれているんでしょうか。 永遠の青春小説として、いつまでも読み継がれる事を、私は願ってやみません。 ところで、それはそれとして、私はまた昔の恥ずかしい事を思い出してしまいました。 それは、かつて私が殴り書いていた「小説」が、思いの外にこの小説の影響下(これはもう「剽窃」?)にある事が、この度改めて分かったことでありまして、うーん、これは「若気の至り」ではすまされんなーと、慚愧に堪えない思いであります。 私は謹んで今日一日、反省いたす所存であります。はい。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.10
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『吉野葛・蘆刈』谷崎潤一郎(岩波文庫) 上記作品報告の後編であります。 前回は、40歳を超えた谷崎潤一郎が、後に結婚する松子夫人に出会い、インスパイアーされて、一作一作、珠玉のような作品を書き始める、というところまで考えてみました。 そして、それらの珠玉作の根底にあった谷崎の女性観が、「母でもあり妻でもある女性」というものであると、考えかけたところまで報告いたしました。 「母でもあり妻でもある女性」 しかしよく考えれば、この「女性像」は、一種「男の永遠の理想的女性像」ではないかと考えるのですが、もし、それはお前が単に「マザ・コン」なだけだ、とお感じになる方は残念ながら、フロイトを頑張ってお読み下さい。 (とはいえ、実は僕もフロイトなんてほとんど読んでいません。孫引きの知識しかないんですがー。) さて谷崎は上記の「謎」をどのように解いたかの過程が、『吉野葛』に書いてあります。 言われてみれば「コロンブスの卵」なのかも知れませんが、要するに、「父の恋」を書けばいいわけですね。 なんだ、つまらぬ、とお感じになった方もいらっしゃるかと思いますが、それは私が身も蓋もなく、話の「芯」だけをこうして語ったからでありまして、この貧弱な「芯」を谷崎は天才的筆力でぐいぐいと語っていきます。 もう少し、細かく具体的に書いてみますと、こういう事です。 まず母が早くに亡くなります。言うまでもなく、息子である主人公が母を恋い焦がれ、慕うためであります。そしてやもめになった父に、若き頃の、「妻=母」への恋を語らせれば、それを聞く「私=息子=主人公」にとっては、母でもあり、恋人でもある女性の話を聞く事になるわけです。 冒頭の二作品において、谷崎は見事にそれを描ききりますが、しかし、やはりその女性像にはどこか、(グロテスクな)「歪さ」が残ります。 それを補ったのが、『吉野葛』の後の、『蘆刈』の絶品の文体であります。 それは、例えばこんな文体です。 おれはその日、最初にひとめ見たときから好もしい人だと思ったと父はよくそう申しましたがいったいその時分は男でも女でも婚期が早うござりましたのに父が総領でありながら二十八にもなって独身でおりましたのはえりこのみがはげしゅうござりまして降るようにあった縁談をみんなことわってしまったからなのでござりました。 この漢字と平仮名の絶妙な配分が作り出す効果たるや、読み進むほどに恐ろしいものがあります。 (この平仮名の「乱用」については、前年の『盲目物語』において、平仮名に漢字の振り仮名を当てるというアクロバティックな「芸」を、谷崎は見せています。) さて『蘆刈』であります。 本作の、『吉野葛』以上に巧妙な設定は、「父」の恋人を「母」にせず、「母の姉=義姉=私の叔母」に持っていったことであります。 そして、ここからが谷崎の真骨頂であるのですがそれは、さらにここに、『卍』の男女関係、そして晩年に描く事になる『鍵』の男女関係を持ってきた事であります。 つまり、「父」と「母」が一緒になって「母の姉」に拝跪しお仕えするという形にしたわけです。 この関係は、まさに、死ぬも地獄、生きるも地獄の愛欲を描いた『卍』と、全く相似形であります。 (そういう意味では、本作を『卍』のパロディと捉える事も可能であります。) ここにおいて、 (1)「母恋い」 (2)拝跪対象たる高貴な女性という二系列の女性像の合体は、最初の完成型を見せる事になります。 (次の完成形は、もちろん天才作『春琴抄』における形です。) うーん、しかし、「濃いぃ」ですねー。 一体どこからこんな事を考えつくんでしょうねー。 「濃くて」そして、やはりかなり「歪(いびつ)」ですよねー。 これはやはり、一種の「禁断の恋」なんでしょうね。 三島由紀夫も『春の雪』で描きましたが、禁断の恋こそが最も燃え上がる恋であると。 『春琴抄』において佐助が、春琴が死ぬまで主従関係を崩さなかったのは、間違いなく佐助の側の狙いでありましょう。 現実における谷崎も松子夫人に対して、結婚後もこれに近い関係を最後までとり続けたと言います。もちろん谷崎の強固な意志によって。 にもかかわらず、松子との結婚をもって、結果的に谷崎の「傑作の森」が終わる形になるのは、なんと男と女の関係の複雑怪奇なところでありましょうか。 以降谷崎は、「円熟」等という形容で語られる作品は確かに少なからず残しましたが、この時期の、天才的な=何かに取り憑かれたような作品は、二度と描かれる事はありませんでした。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.07
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『吉野葛・蘆刈』谷崎潤一郎(岩波文庫) いえ、素人なもので、いい加減な知識しかないんですがね、クラシック音楽が結構好きなもので、そんな本なんかも時々読みます。 そんな中に書いてあった事ですが、19世紀の初め、ベートーヴェンは、後に小説家のロマン・ロランが「傑作の森」といった、中期の充実した一連の作品群を発表し始めます。それは、今見ても目を見張るような、まさに「傑作の森」であります。 主だった作品を挙げてみると、こんな具合です。 1806年 (36歳) ピアノ協奏曲第4番 弦楽四重奏曲第7番『ラズモフスキー第1番』 弦楽四重奏曲第8番『ラズモフスキー第2番』 弦楽四重奏曲第9番『ラズモフスキー第3番』 交響曲第4番 ヴァイオリン協奏曲 1808年 (38歳) 交響曲第5番『運命』 交響曲第6番『田園』 1809年 (39歳) ピアノ協奏曲第5番『皇帝』 弦楽四重奏曲第10番『ハープ』 1806年の充実ぶりにも驚かされますが、08年の交響曲第5番第6番のほぼ同時完成にも圧倒されてしまいますよねー。 うーん、天才っちゅうのは、全く、何をしでかすか分からないものですなー。 なぜこんな話から書き始めたと申しますと、実は、谷崎潤一郎が冒頭の作品を書いていたその前後の時期こそが、まさに谷崎にとっての「傑作の森」の時期じゃないかと、今回この作品を読みながら僕がふと連想したと言う事なんです。 いえ、この年譜を見ていただければ、僕の連想があながち荒唐無稽なものでない事が、充分におわかりいただけると思います。こんな具合です。 1924年(T13) (39歳) 『痴人の愛』 --------------------------------- 1928年(S3) (43歳) 『卍』『蓼喰ふ虫』 1930年(S5) (45歳) 『乱菊物語』 (千代譲渡) 1931年(S6) (46歳) 『吉野葛』『盲目物語』 (丁未子と結婚) 1932年(S7) (47歳) 『蘆刈』 1933年(S8) (48歳) 『春琴抄』 (丁未子と別居) 1934年(S9) (49歳) (松子と同棲・丁未子と離婚) 1935年(S10) (50歳) 『聞書抄』 (松子と結婚) どうです。この年譜だって、ベートーヴェンに決して劣らない充実ぶりでしょう。 そして、この充実を産み出した原因が、右端に書いておいた、谷崎の女性問題の混乱の果ての「ミューズ=松子夫人の獲得」であった事は、私がことさら述べるまでもありません。 さて今回の読書報告は、天才作『春琴抄』に一歩ずつ近づいていく谷崎の、実にどっしりとした、自信に溢れた二作品であります。 まずは『吉野葛』について、少し考えてみたいと思います。 半世紀以上に亘って、死ぬまで女性への憧憬を描いてきた谷崎には、その全生涯を通じて二系列の女性への憧憬があるといわれています。 (1)「母恋い」 (2)拝跪対象たる高貴な女性 のふたつですね。 主に(2)のほうが谷崎作品としては有名ですが、(1)系列の作品にも、初期からなかなか優れた作品があります。 40歳を越えて、まさに脂の乗りかけてきた谷崎は、千載一遇の奇蹟のような「ミューズ」に出会う事から、この二系列の女性像を一つにしてみようと企てたんですね。 うーん、天才っちゅうのは、全く、何をしでかすか分からないものですなー。 この項、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.05
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『終りなき祝祭』辻井喬(新潮文庫) 本作を読む前にこんな小説を読みました。 『四季』中村真一郎(新潮文庫) 筆者は「戦後派」作家のお一人ですね。 「戦後派」の人々は、今まで敬遠してきたという罪悪感もあって、僕は、これからは積極的に読んでいきたいと思っているんですが、いかんせん、時々こんな本にぶつかりますからねー。 というのは、この本、とっても面白くないんです。 うーん、この言い方は語弊がありますが、よーするに、「難しい」んですね。 難しい。誠実に丁寧にそして、文学的野心を持って書き込んでいますから、この「戦後派」って方々は。 で、結果として、とっても難しい話になってしまいます。 この話は、初老の男二人が、青春時代を思い出して、かつて青春を謳歌した地、軽井沢に2泊3日で行くというだけの話ですが、なんともなんとも、なんとーーーも、とっても難しいんです。 読みながら、何度も、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうになりました。 描写に真っ当なのが、あまりありません。明らかに、ジョイスとかプルーストの影響が見えそうです。 文体がまた、なんというか、彫心鏤骨というべきか、うーん、難しいです。 というわけで、とても辛い読書でした。350ページほどもある本です。仕事が結構閑な時でなかったら、とっても読みきれる本ではありませんでした。 「戦後派」には時々こんな「魔物」のような作品がありますから、油断ができません。 そんな本でした。 で、次に、今回の報告で取り上げる冒頭の小説を読んだんですね。 この作家は、ご存じですか、詩集なんかも出してはる人です。現代詩壇の重鎮です。 本名が、堤清二。 この方面のことは僕は何も知らないんですが、この人は西武・セゾングループの元社長(え? 違うの? 本当にこの方面の事、わたくし何も知らないんですけどー。)ですね。 ただ、実は私、この人については、まー、ちょっと前から何となく興味はありました。敏腕の経済人がどんな小説を書くのか、という興味ですね。 かつて、実学を続けつつ作家としても名を成すという人は、もちろんいないことはありません。それを実学というかどうかは判断しかねますが、軍人である森鴎外なんかはそんな典型でしょうか。 政治家で文学者という方々もいますよね。西洋では何と言ってもゲーテですか。 でも東京都知事の石原慎太郎氏は、個人的にもう一つ私の好みではないので、僕の中ではこの中に入りません。 (先日石原氏の本を読んだら、やはりとても上手な事に気が付きました。いずれ、本ブログでも報告するかも知れません。) はて、商人アンド冒険家、そして詩人のランボーはこの範疇にはいるのかしら。 まー、そんな大物はとりあえず置くと、実業家でかつ文学活動をしていた人として、例えば大正から昭和の初め頃に活動期を持つ水上滝太郎という人がいます。この人は明治生命の会社員であると同時に小説家・劇作家です。 こういうのって、なんか、かっこいいですよね。 そんな興味で、辻井喬氏の小説を初めて読みました。 で、報告ですが、うーん、なんというか、「手堅い」という印象ですかねー。 この手堅さが、経済人故であるからかどうかはわかりませんが、きっちりまとめている、という感じです。結構長い小説です。470ページもあります。 内容は、モデル小説ですかね。解説によりますと、陶芸家・富本健吉と、その妻で婦人解放運動家の一枝、そしてその息子で映画監督の富本壮吉の三人の生涯を描いた本です。それらを通して、大正から昭和の日本を描くという形ですね。 この本の前に、冒頭で紹介した中村真一郎の小説を読んでいたからでしょうか、なんかこの本全体が、すごく「地味」なんですよね。 あるいはひょっとしたらこの「地味」さこそが、「二足のわらじ」である作者の特徴なのかも知れません。 中村真一郎などはストーリー、文体、共に、自信たっぷりにあれこれ実験・冒険をしています。こういうのは「プロのわざ」です。 一方この作品は、手堅くきっちりと一歩一歩進んでいくようにして書かれた小説ではありました。決して面白くないと言うわけではありません。 でも同時に、何かもの足りないような感じがするのも事実です。 いえ、もう少し別の作品を読まねば、そうは言い切れませんね。 いずれまた、同作家の別の作品を読んでみることにします。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村/font>
2009.11.03
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