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『菜の花の沖』全六巻・司馬遼太郎(文春文庫) さて、司馬遼太郎氏であります。 お亡くなりになられてから、もうすでに、十年以上が過ぎていますよね。 しかし、人気はいっこうに衰えないようですね。 去年、東大阪市にある「司馬遼太郎記念館」に行って来ました。 お洒落な建物で、なかなか面白かったです。 しかし、以前にも少し触れましたが、若かった頃の私は、今以上に偏見に満ちた考え方をしていまして、愚かにも歴史小説作家に対する、全く謂われのない偏見を抱いておりましたもので、失礼ながら、司馬遼太郎氏の作品について、さほど高い評価を致していませんでした。 だから、絶頂期の司馬氏は存じ上げません。 ぎりぎり『項羽と劉邦』がベストセラーになって、さすがにちょっと興味を持ちつつも、すぐに読むのはなんだか腹立たしいから、半年ほどしてから、たぶん古本屋で買って読んだと思います。 さすがに面白かったという記憶があります。 そもそも司馬遼太郎氏は、「司馬史観」といわれたりして、なんだか日本人の「先生」みたいな扱われ方をしているようですが、私の感じ方は少し違うんですね。 少し前に、こんな本を読みました。 『微光のなかの宇宙』司馬遼太郎(中公文庫) 司馬氏には珍しい美術評論です(といっても司馬氏は日本美術にはとても造詣が深いですし、美術全般についても確たる独自の考えをお持ちでした)。 この中に「ゴッホの天才性」という評論がありますが、僕はこれがとても面白かったです。 例えばこんな個所です。 ゴッホは中学を出ると、ハーグに出て勤め始めます。この時期のゴッホを作者は「外見上は無能の店員であったにすぎない」としつつ、この様に書きます。 「この時期のゴッホは自分の中に巨大な色彩の魔神が眠っていることに気づかず、そのことのすばらしさに私はうたれる。私は歴史上の人物に会いたいと思う何人かのなかに、この時期のゴッホに会ってみたい気持ちがあり、ハーグの街の風景を思い浮かべつつ、自分が何者であるかに気づいていないこの年少のみすぼらしい定員をあれこれ想像するのである。」 司馬遼太郎の小説や文章がとても好まれる理由の一つが、こんな個所に現れる、作者の「詩性」のゆえであると、僕は思います。 このポエジィは「通俗性」と紙一重のものを持ちながら、それ故に多くの読者をつかんでやみません。 とってもうまいですね。 さて、冒頭の『菜の花の沖』です。 数年前に、兵庫県の淡路島にある「高田屋嘉兵衛資料館」に行ってきました。 なかなか興味深い資料がたくさんありました。 そして過日、司馬氏のエッセイで、高田屋嘉兵衛は、江戸時代の日本人の中で、自分が最も好きな人物であるという趣旨の文章を読みました。 だから私は、ある意味大いに期待をしながら、このまた長ーーい小説を読み始めたのでありました。 ところが、読み始めて、うーん、何か違う、と私は思い始めたのでありました。 以下、次回。/font>にほんブログ村
2009.07.31
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『モオツァルト』小林秀雄(角川文庫) 音楽関係(というより音楽を巡るエッセイ)の本が好きで、ブックオフなどで見つけると、つい買ってしまいます(但し高価でなければ)。 今回の読書報告のこの本も、僕としてはその一環ですが、本ブログとしては、初めて正面から取り上げる芸術評論です。 芸術評論は、時に思わず唸ってしまうような素晴らしい本に出会うこともありますが、実際はそんな本はあまりありません。(お前の読書生活が貧弱なだけだというご意見もありそうですがー、えー、まー、その通りでございますうー。) でも、わりと好きで読み続けるのは、読み手と書き手の、一冊の本を挟んで共有する前提条件のフィールドが、極めて広いからですね。 簡単に言えば、モーツァルトの音楽の嫌いな人はモーツァルト論を書かないし、読者についても同様だということです。 さらに読者の立場で言えば、そうでなくても好きなモーツァルトの音楽について、本を通しても楽しめるという、昔あったコマーシャル・コピーの「一粒で二度おいしい」状態であります。 えー、お分かりいただけますでしょうかー。 というわけで、小林秀雄です。 この人くらいになりますと、小説家でなくても、取り上げるに充分ですよね。 さて、この本そのものは、やはり昔から持っていたのですが、たぶん僕は初めて読むと思います。小林秀雄の美術関係の本は、かなり昔から読んでいたのに、音楽関係の本は初めてというのは、その頃の私の嗜好のもたらした結果でしょうね。 今回、この角川の本の中に、「バッハ」というエッセイかな、そんなのが入っていることに気が付きました。で、実は、問題はこの「バッハ」なんですがー。 小林秀雄は冒頭、アンナ・マグダレーナ・バッハ著『バッハの思い出』を取り上げて、すごく誉めあげているのです。ほとんど絶賛に近く。 でもこの『バッハの思い出』という本は、バッハの二人目の妻、アンナ・マグダレーナ・バッハの名を騙った十九世紀のイギリスの女流作家が書いたのだろうと言うことが、現在ではほぼ定説となっています。 しかし小林がこの文章を書いた頃はそれは「定説」というものではなかったらしく、小林は以下のようにそのことに触れています。 「これは比類のない名著である。出典につき、疑わしい点があるという説もあるそうだが、そんなことはどうでもいいように思われる。僕にはそう考えるより他はなかった。バッハの子供を十三人も生んでみなければ、決してわからぬあるもの、そういうものが、この本にあるのが、僕にははっきり感じられたからである。」 うーん、何というか、少しとまどってしまいます。 芸術作品の真贋を見分けるというのが極めて難しいということは、かつてオランダの画家・フェルメールについて書かれた本を読んだときにも十分に感じたのですが、この度、「あの小林秀雄でもそうか」と考えてしまうと、決してレッテルに弱いつもりはなくても、少しとまどってしまいますね。 だって、小林秀雄の独特な文章の展開と論理の飛躍は、その根本に真贋を厳しく見分ける彼の審美眼というものを置かないとすれば、全体が砂上の楼閣の如くこなごなに崩れてしまうような気がしませんかね。 なかなか怖いものですな。 しかし、こんなことって、きっと結構いっぱいあるんですよね。それがなぜ小林秀雄の場合だけ、とまどってしまうかというと、それはやはりこの人の意匠のせいでしょうね。 例えば坂口安吾が同様のことを書いていたとしても、おそらく僕らはそんなに驚かない。いかにも「安吾的誤謬」であると、かえって安心して、そして、ますます(おっちょこちょいな)安吾が好きになってしまうような気がします。 そういえば、小林秀雄は、今でも読まれているんでしょうかねぇ。 僕が寡聞にして知らないだけなのかも知れませんが。いやぁ、生きている小説家も大変だとは思いますが、死んだ表現者もなかなか大変ですね。 ということで、本の中にあった「モオツァルト」という評論については、ところどころさすがに感心する部分はありましたが、先に「バッハ」を読んだもので、ちょっと鼻白むところもあり、全体として大きな感動・感心がなかったのは、出会いの妙と言いますか、残念至極でありました。 うーん、重ねて、残念。では。/font>にほんブログ村
2009.07.30
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『女坂』円地文子(新潮文庫) さて、前回は、同じ円地氏の『なまみこ物語』を読みました。 贅沢な感じのする、とっても面白い「おいしい」お話でした。 それで今回も、同作者の作品を追っかけて読んでみました。 うーん、これも、気合いの入ったいい小説ですよねー。 だから、「女流」は恐いんですよねー。全く侮れません。 特に本作は、前回の『なまみこ物語』の時に感じた後半の失速感はありませんでした。序盤から前半あたりにかけて彫心鏤骨作り上げた舞台装置(冒頭の、江戸時代そのままの料理屋の風情など、絶品ですね)は、最後まで充分に生かし切られている感じがしました。 ただ、少し気になったことが二つあります。 その報告の前に、新潮文庫裏表紙にある、例の紹介文を引用して簡単にストーリー紹介をします。こんなお話です。 明治初期、世に時めく地方官吏白川行友の妻倫(とも)は、良人に妾を探すために上京した。妻妾を同居させ、小間使や長男の嫁にまで手を出す行友に、ひとことも文句を言わずじっと耐える倫。彼女はさらに息子や孫の不行跡の後始末に駆けまわらねばならなかった。すべてを犠牲にして、「家」という倫理に殉じ、真実の「愛」を知ることのなかった女の一生の悲劇と怨念を描く長編。 えー、こんなお話なんですがー、気になったことのひとつ目。 第二章で、はやくも行友は官界を去り、在任中思うがままに手に入れた巨額の「賄賂」を元に巨大な屋敷を建築し、そこに閉じこもって自分本位な生活を送り始めます。 このことは、作品世界から社会性を失わせてしまいました。例えば第一章において、行友は「自由党員」に襲われ負傷しますが、この場面は唯一といっていい行友の男性的な魅力の描かれたシーンです。 巨大な妖怪屋敷のような家中に閉じこもった彼は、以降、そんな魅力的な場面を見せる機会を失ってしまったことになります。 これは、是か非か。どうなんでしょう。 僕は、作品世界が少し重苦しくなって、やや広がりを失ったかと思いましたが、でもその事も含めて、作者の意図だったのかも知れません。 ただそのおかげで、作品中盤、ちょっと造型に欠ける、どう見ても「小物」の「書生」なんかが中途半端に絡んできたんじゃないか、と邪推する私でもあります。 さて気になったことの二つ目。 それは、以前にも少し触れたことがありますが、小説の終わり方についての疑問です。 この作品に即して具体的に言えば、はたして行友が倫よりも先に死ぬという設定はなかったか、ということであります。 でもそれは多分ないでしょうね。 たぶん倫は行友に対して「必敗者」でなくてはならず(少なくとも表面的には)、そうだとすると、この設定は成立しないでしょう。 しかし、ならばせめてラストシーンは、アイロニカルに「華やかな」葬式で終わらせるという手はなかったか。 うーん、しつこい? などと、読み終えてもさらに幾つものシーンを考えました。 それは、作品世界が、リアリティと充分な重み・豊かさを持ち得ているということだと思います。 さて、逃げるのをやめて取り組んだ「女流」文学がいきなりこれほど面白いと、今度はこれからしばらく逃げられなくなりそうで、うーん、ちょっと、困ったような、そうでもないような。……また、考えてみます。 以上、今回はこんなところで。/font>にほんブログ村
2009.07.29
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『なまみこ物語』円地文子(新潮文庫) 以前にも少し、ため息を漏らすように触れましたが、今更ながら僕は、いろいろな思いこみや偏見に満ちた生き方をしています。 もっとも、生きるということ自体が、ある意味偏った思いこみを持つことであり、そして、私が思うのはもう一つ、生きるということは「依存」することでありましょう。 「依存」につきましては、なんか、突拍子のない話題のような気もしますが、数年前に禁酒禁煙をした時の「悪戦苦闘」の経験から、生きることは何かに依存することだと僕は学びました。 そして、どうせ依存をするのなら、「しがいのある依存」(ちょっと変な言い方ですが)を目指そうと、いろいろ失敗しながら今日に至っております。はい。 (ついでながら、数年前に始めた禁酒禁煙ですが、まず開始時の状況は、一日に煙草30本程度、飲酒はほぼ毎日、日本酒換算で4合ほどを飲んでいました。現在は、禁煙は継続中、飲酒は週末に一日、缶ビール500ミリリットル3本であります。まー、生きることは依存をすることですからー、ということでー。) えー、なんでこんな話になったかといいますと、「思いこみ」の話でした。 冒頭の小説の読書報告ですが、私にはなぜか、「女流」(この言い方にすでに問題があるとも聞きますが、とりあえずそれはお許しいただいて)は恐い、という「思いこみ」があるんですね。 ただ、この思いこみは、決して「女流」を貶めるものではなく、「女流」は侮れないという高評価ゆえであります。 ちょっとしつこいですが、なぜ女流が侮れないと思うかについて、考えてみますね。 まずここで私が述べている「女流」の対象ですが、私の中では、それは、昭和時代までに活躍をなさった女性作家を指します。 現代の女性作家を含めないのは、一つには、僕がその方々の作品をよく知らないことと、もうひとつは、僕の考える「女流」を取り巻く社会的状況が、その方々とは異なるだろうと思うからです。 では、その社会的状況が「女流」にもたらすもの、それは、「女性作家として生きていくことの強烈なストレス」です。 少し前に、尾崎翠(あの名作『第七官界彷徨』の作者ですね)の伝記を読んでいたのですが、あれだけの才能の女性が、結局その才能を十分開花できずに亡くならざるを得なかった、彼女を取り巻く当時の社会的状況について触れられていました。 「女性作家として生きていくことの強烈なストレス」は今も残っているとお叱りを受けるかもしれませんが、どうなんでしょう? 寡聞にしてよく存じませんが、質・量とも、例えば与謝野晶子が十三人の子供を育てながら文学活動を行っていた頃、例えば林芙美子が赤貧の中で日記を綴っていた時、そして、尾崎翠が臨終時に、小説に専一に取り組めなかった自らの人生を慟哭したという時代と、やはり同じとはいえますまい。 ということで、やはり女流は侮れない。 「男流」作家には迫ってこない厳しい社会的状況の中で、女流作家として生き抜いてきた強烈な「芯」のようなものがあります。 で、それらのことを何となく怖がっていた私は、そこにはきっと豊穣な文学的結実があるのではないかとは思いつつ、「女流」を敬して遠ざけていたわけですが、少し前に、「そんなことでは、いかーん」と思い直しまして、冒頭の小説を読んでみました。 うーん、やはり、というか何というか、とっても面白かったです。 まるで谷崎張りの小説でありましたねー。 実際読んでいて僕は、谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』との親和性を何度も強く感じました。 作者は、冒頭から澄ました顔で「嘘」を付きます。(小説ですからもちろん嘘をついていいわけです。)絶品の嘘です。 実在しない「古物語」を挙げてきて、その内容を紹介しつつ作品世界へと入っていきます。 時代は平安時代、藤原道長、中宮定子、一条天皇などの住む王朝世界であります。 僕は、「偽書」の連想からなのか谷崎潤一郎を彷彿としましたが(そのほかにも、王朝世界とか『源氏物語』口語訳とか、円地氏から谷崎への連想のきっかけはいっぱいありますね)、「偽書」を作り出すという導入は、例えば『春琴抄』等にも見られる、中期以降の「日本回帰」の谷崎が得意とした「技」でありました。 しかし、この手法による虚構世界への導入は、実はなかなかハンパにできるものではなくて、書き手にかなりの「創作的力量」が要求される「荒技」であります。 そう言えば、村上春樹がデビュー作『風の歌を聴け』で、「デレック・ハートフィールド」という架空の小説家(「後書き」に、その墓に行ったという記述までつける念の入れよう)を書いていました。 なるほど村上氏は、現在日本作家唯一のノーベル文学賞の期待のかかる「巨匠」でありますものね。 さてタイトルの「なまみこ」とは、古文の「なま女房」なんかの「なま」やそうですね。「偽物の巫女」のことです。 しかしこうして、改めてタイトルに注目しますと、これだけですでに「浪漫主義」的でありますねー。 面白いお話がぎっしり一杯、詰まっていそうですねー。 うーん、「女流」、恐るべし。 そんなわけでこの作品は、以降、濃密な文学空間の中を展開していきます。 しかしなぜか、僕は読んでいて、中盤あたりから急にお話の推進力が衰えるような感じがしました。 前半にあれだけ綿密に作り上げた舞台装置が、最後まで十分生かし切れていないような気がしました。 はて、それは何であったのか。 僕のつまらない気のせい、勘違いなのかも知れません。 そんなことを言っても、芳醇な香りのような、いかにも物語らしい物語でしたので、僕は、もう少しこの作者を追っかけてみようかなという気に、久しぶりになったのでありました。 えー、今回はここまで。/font>にほんブログ村
2009.07.28
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『出家とその弟子』倉田百三(岩波文庫) えー、今、私の手元に、上記の文庫本が二冊あります。同じ本です。……うーむ。 はは、はははは。 でも、こういう事ってよくあることですよねー。 読書好きのお方なら、必ずや、そんな体験、私にもあるあると、おっしゃってくださると思いますがー、そんなことってないですか? 私の場合、「本」はまだましな方です。同じ本を買ってしまうケースが少なからずあるとしても、買った本の総量に対するパーセンテージで考えれば、(きっと)少ないです。(かな。) 同種の誤謬で、最近、私にとって看過できなくなりつつあるのが、CDであります。 これも、まー、安くなりましたからねー、昔のレコードに比べますと。 CD一枚が安くなったことは、しかし、あまりよくない影響を生み出しました。 一枚のCDを、真剣に聴かなくなっちゃったことですね。(だから同じCDを二枚も買ったりしてしまうんですね。) 昔は、レコードを一枚買ったら、一ヶ月くらい、日がな一日、そればっかり聴いていましたもんねー。しまいの方は、しゃりしゃりノイズが鳴っていましたよ。 うーん、古き良き時代ですよねー。もう、戻ってきませんねー。 えー、話題を、少しだけ元に戻します(放っておけば、戻りませんから)。 『出家とその弟子』が手元に二冊あるということです。 しかし、この本のケースは、わたくし、思いますに、「微罪」だな、と。 「なにが微罪やねん!」と、お怒りの方もいらっしゃろうかとは思いますが、この本の場合は、本棚を探して、無いことを確認して新たに買ったのに、後で思わぬ場所から以前買った本が出てきてしまったというケースですから、罪は軽いですよね。 ほとんど「正当防衛」と紙一重であります。(なんのこっちゃ。) というわけで、倉田百三です。 私が最初にこの文庫本を買ったのは、おそらく高校時代だったと思います。(そして、読んでいなかったんですね。) さっきから僕は、この本を誰から(何から)教わったのかと、思い出しているんですが、同時期に買ったり探したりしていた記憶のある、一連の書籍が思い出されます。こんなのです。『三太郎の日記』阿部次郎『人生論ノート』三木清『愛と認識との出発』倉田百三 えー、これは、よーするに、「旧制高校的教養主義」の本ですね。 旧制高校世代ではない私が誰に教わったのか。 つらつら思い返してみるに、……ひょっとしたら、北杜夫? 北杜夫『どくとるマンボウ青春期』ですかね。うーん、当たりのような気がしますねー。 「最後の旧制高校生」のような北杜夫氏の青春に、一時期憧れましたものねー。 同様の感情をお持ちになった方もきっと多くいらっしゃると思います。 えー、というわけで、同じ本が二冊ある謎が解けたところで(どこに謎が解けたんやー)、この本の読書報告です。 上記にも触れましたが、私が高校3年生くらいの時に、きっと初めてこの本を知ったんだと思い出します。だからその前後か、遅くとも大学時代には、この文庫本も買ったと思います。しかし、ずっと僕は読んできませんでした。 二冊目の本は、ここ一年ほどの間に(おそらくブックオフで)買ったものです。 この度読んでみて、改めて、 「やー、いい本だなー。」と、思いましたね。難しいところの全然ない、とても遠くまで見通しの効く、本当に良い本だなーと思いました。 そして、なぜ私は今までこの本を読んでこなかったのだろうかと考え、さらに、もしもっと若い時にこの本を読んでいたら(まさに高校時代に)、どうであったろうと思いました。 なぜなら、この本には、恋愛と性欲について、極めて繊細に、誠実に触れられてあるからです。 このテーマは、さすがに現在の「人生の黄昏時」に読むと、少し「他人事」になってしまいます。 でももしも、せめて僕が二十歳の時に読んでいたら、きっと別の感じ方をしただろうなと考えると、何というか、少し残念なような、そうでもないような、そんな少し切ない感じがします。 もちろん本書は、優れた古典的作品として、定まった評価を持つ本ですから、今更私がびっくりしたように褒めたところで、どうということもないんですが、とても「爽やかな」、まさに「良書」という言葉に相応しい本でありました。 いやー、読書って、本当におもしろいですねー。 というわけで今回の読書報告、以上です。/font>にほんブログ村
2009.07.27
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『其面影』二葉亭四迷(岩波文庫) その四回目であります。いくら何でも今回でおしまいにしようと思っています。 こんな話でした。 中年の大学教師・小野哲也は、妻と義母から冷たい扱いを受ける生活を営んでいますが、妻の腹違いの出戻りの妹・小夜子に道ならぬ恋心を抱きます。 そして小野哲也は、実にあっさりと、小夜子と肉体関係を持ってしまいます。 さらにあれよあれよという展開は、あろう事か、哲也が小夜子を「妾」のようにしてしまうところまで進んでしまいます。 哲也が小夜子を妾のようにして住まわせた部屋に行って、夕食に出かけようという、こんな場面があります。 「御飯ですか?」 「そう。」 「無駄ではなくって?」 「ま、好い好い。今からそう所帯染んでも好い」、と辛と本当に機嫌が直って、愉快そうに高笑をする。 小夜子も華やかに嫣然して、「じゃ、私お伴してよ」、と言葉遣いまでが急に違って来る。 「さあ、行こう」、と哲也は今は無性に愉快になって来て、躍り上と、「小夜さん!」と振反って、「今日はね、お互いに学生時代に若返って、一つ大に愉快に遊ぼうじゃないか?」 小夜子は絹フラシの肩掛の襟を蝶々で留めていたが、嫣然して、「ええ、好いわ。その代り私お転婆してよ。」 「お転婆?」と哲也はクワッと気負って、「面白い!」と絶叫して、「貴女がお転婆すりゃ、僕あ……僕あ……」と対句に窮って、「乱暴するッ!」 どうですかね。 僕はここを読んだ瞬間あっけにとられて、そしてこの作品は一気に筒井康隆まで飛んでいったと思ってしまいました。 少なくとも、漱石の我が身を削るようにして書いていた作品群の『道草』あたりまでを、飛び越えていった気がしました。 なぜ『道草』まで飛び越えたと思ったかを言いますと、この場面以降の主人公・小野哲也に近い人物を漱石作品から探すならば、絶筆『明暗』の主人公、軽薄な知識人「津田」が、何とか「掠っている」かと思えたからです。 この一気の飛躍は、一体なんでしょうかねー。 考えられるのは、前々回の本ブログでも触れましたが、四迷の、徹底的な知識人嫌悪でしょうか。 何度も比較していますが、漱石は、知識人のねじれと苦悩を描きつつも、おそらく「代助」に「先生」に、そして「一郎」に自らの姿の投影を見ていると思われます。 それはあたかも、フランスの作家フローベルが、自作小説の主人公、不倫のあげくに自殺をしたボヴァリー夫人を、「私である」と言ったのと同じ意味で。 ところが、二葉亭は違っています。 知識人主人公に、激しい嫌悪を表します。徹底的な突っ放しが見られます。 そこにはまるで自己投影など感じられません。 (その後小野は、小夜子との恋に破れ、中国大陸へ渡った後、職を失いますが、その失職の切っ掛けは、勤め先の学校の教頭を殴ったということで、思わぬ『坊っちゃん』との相似が、何か因縁めいたものを感じさせますね。) いったい、そんな嫌悪の対象であるような人物を主人公にして、作家は小説を書けるものなんでしょうか。 世の中には「悪漢小説」という一連の犯罪者(「悪人」)を主人公にする小説群はありますが、その「悪人」の多くは、極めて魅力的であります。 上記の『明暗』の「津田」にしても、主人公とは書きましたが、どうも本当の主人公は別人であるようですし(『明暗』は未完ですね)。うーん。 ということで、ここでも僕は、この作品に混乱しているんですが、もちろん多くの謎を孕んでいるというのは、きわめて高い評価の結果であります。 結局のところ、二葉亭四迷という近代日本文学黎明期の巨人は、その巨大な文学的才能が、あたかも核物質のように強烈な混乱を作品に撒き散らし続け、そして何より本人の生き方そのものに大きな影響を与えたのだと思います。 うーん、二葉亭、すごい!/font>にほんブログ村
2009.07.26
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えー、二葉亭四迷をテーマに考えている三回目であります。 そもそも取り上げていた小説はこれでした。 『其面影』二葉亭四迷(岩波文庫) これを読んで、僕はかなり感心する一方、沢山の疑問にぶつかり、あげくに混乱してしまいました。 その原因の一つは、作者に対するもので、前回はそれを中心にあれこれ考えてみました。 今回は、『其面影』そのものの持つ「混乱」について考えてみたいと思います。 (2)作品の混乱 この作品、途中までは、一般的評価にもあるそうですが、『浮雲』の「二番煎じ」のように進みます。 中年の大学教師・小野哲也は、妻と義母から冷たい扱いを受ける生活を営んでいますが、妻の腹違いの出戻りの妹・小夜子に道ならぬ恋心を抱きます。 ここまでなら、『浮雲』の二番煎じといわれても仕方ないと思いますし(二番煎じでも僕としては結構面白いんですがね)、こんな展開は、例えば漱石の『それから』なんかとも、なんとなく似ていると思います。 しかし、この後、あっと驚く展開が起こります。 それは、小野哲也があっさりと小夜子と肉体関係を持ってしまうんですねー。 さらにあろう事か、小夜子を「妾」のようにしてしまうんですねー。 これには僕は驚きましたねー。 これは漱石なら絶対に書かなかった展開です。 また少し脱線しますが、漱石のこんな所を嫌った作家が、坂口安吾なんですね。 安吾は、漱石には「肉の臭い」がしないと批判しています。 もっともこの「肉の臭い」という表現は、『それから』中のものですが、それを取り上げて漱石自身の「偽善」と批判した安吾も、いかにも安吾らしいですね。 確かに漱石作品には一貫して「肉の臭い」はせず、これはまた鴎外なんかとは違うところであります。 でも『それから』にも、もちろん代助と三千代が肉体関係を持ったとは書かれていませんが、三千代と会った夜に代助は赤坂の待合いで一泊し、女と遊んだことがきっちりと書かれてあります。 さてここで、またまた僕の連想は飛んでいくんですが、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』はとても爽やかな小説です(そうでもない、という研究が近年あるそうですが)。 この作品の良さの一つは、一人も人が死なないことと、セックス・シーンのないことです。 と書いたら、ご存じの方はすぐに、それは『風の歌を聴け』の中に出てくる、「鼠」の小説に対する「僕」の評だと気がつくと思いますが、これがそのまま『風の歌を聴け』の評になっていると書いた文章を読んだことがあります。 でもその後、村上春樹は、例えば『ノルウェイの森』で山ほどのセックスを描くし、例えば『ねじまき鳥クロニクル』でうんざりするほどの殺人を描きます。 どこが違うんでしょうね。漱石と村上氏。 資質でしょうかね、時代でしょうかね。 では、話題を戻して、次回に続きます。/font>にほんブログ村
2009.07.25
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さて、前回の続きです。話題にしていた本はこれです。 『其面影』二葉亭四迷(岩波文庫) この本を読んで、私は大いに感心をしたのですが、同時に大いに混乱もしました。 それは、ひとことでいうと、こんな強烈な才能がなぜ、超一流の文人を作らなかったのかという混乱です。前回はこんな話でした。 まず、作者・二葉亭四迷について考えてみたいと思います。 (1)作者の混乱 これも前回、紹介した本、 『二葉亭四迷の明治四十一年』関川夏央(文春文庫)の導きのもとに進めたいと思います。 関川氏は、二葉亭の人格をいくつか書いていますが、その中から私が特に重要だと思ったのは以下の項目です。(これは『其面影』からも強く感じられました。) (1)実学(経済)への指向 (2)知識人への嫌悪 (3)文学嫌悪 まず(1)ですが、これは早くも『其面影』冒頭の主人公の思いの中に出てきます。 実は近代日本文学に、主人公が経済活動への積極的志向を述べる作品というのは、極めて少ないです。 (現代の経済小説などを除いて、です。あ、『金色夜叉』というのがありましたが、あの主人公は積極的に経済活動を志向するのではなくて、女性に振られた「やけクソ」ですね。ついでに、古典に行きますと、例の「西鶴」がどーんと控えていますね。) 簡単に言うと、「金よりも正義・倫理・愛情」というのが、まー、ふやけたような「日本文学」世界にふさわしいのでありましょうかね。漱石の諸作品なども、尽くこのとらえ方から外れるものではありません。 でも明治時代を遡って点検すれば、その初期においては若者の経済活動への志向は多数派であったはずです。 それはある意味当たり前で、「末は博士か大臣か」の立身出世の世界ですよね。 以前触れた『学問のすすめ』なんてのがその啓蒙書の典型ですね。 しかしいつからか、「文学」にのめり込み始める一群の若者が現れます。 島崎藤村の『桜の実の熟する時』なんかにも、そんな風潮が描かれていますね。 でも、そもそもそんな若者を作り出すきっかけになった作品こそが、四迷の『浮雲』ではなかったか。 ふーむ、だとすれば、四迷は、「司令官の敵前逃亡」ですかね。 (2)の知識人への嫌悪と、(3)の文学嫌悪も、同根といえば同根ですね。 知識人=文学者が、現実の経済生活に恵まれないゆえに経済活動に対して批判的な言動をする。しかしそれは、本当に食うや食わずの生活を送ってはいないからであります。 四迷は、人生の早い時期に、いわゆる「都会的貧民」にかなり接近しております。おそらくはそこで学んだ事が、経済活動の重要さであったのでしょうか。 それに比べると、漱石の生活などにも、「武士は喰わねど高楊枝」的なお気楽さが見られますね。彼は本当の「餓え」を知ることはありませんでした。(もちろん彼だけではありませんが。) では、四迷がその後、一直線に経済活動に専念するかと言えば、それはちっともしないわけですね。それどころか、嫌々ながらも頼まれた小説原稿は、一字一句ゆるがせにせず、そして結果として極めて優れた作品を残しました。 でも、不思議ですねー。 関川氏の作品には、四迷は印刷された自作を読んで、あまりの下手さ加減に絶望したとか、小説執筆を迫られた時、泣きながら抵抗したとか書かれてあります。 結局これは一種の「完全主義者」の悲劇でしょうかね。 そう捉えると、幾つかの混乱の霧が晴れてくるような気がします。 では次に、「作品の混乱」について考えてみたいと思いますが、以下、次回に。/font>にほんブログ村
2009.07.24
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『其面影』二葉亭四迷(岩波文庫) 翻訳小説ではなく、二葉亭四迷が自分で書いた小説は(全集にのみ収録されているような短いのとか、習作めいたものを除いて考えますと)、たぶん三作じゃないかなと思うんですが、この度上記本を読んで、三つ全部読みました。 で、読書直後の印象としては、うーん、混乱しています、私が。 強烈な才能の存在を感じる(恐ろしいような、時代への「先見性」であります)一方、なぜこの強烈な才能が、超一流の文人を作り上げなかったのかという「混乱」です。 最初に『浮雲』を読んだ時は(もう昔なので、たぶん細かいことを忘れてしまっているのだとは思いますが)、かなり面白い、面白いと思いながら読んで、あー面白かったと感心したと思います(ちょっと怪しいですね。だってあの作品は中絶ですから)。とにかく、好印象が残っています。 次に『平凡』を読んだ時は、これはかなりびっくりしました。 これは分量は少ないですが(『坊ちゃん』くらいの長さの本ですね)、本当に驚くばかりの斬新さを感じました。 読みながら、いろんな作品や作者名がちらちらとしましたね。 例えば、漱石は『坊ちゃん』や『こころ』、太宰治なら『道化の華』、そのほかにも筒井康隆なんかが得意としている「メタ・フィクション」系の小説も。 特に漱石への影響関係は、これは定説として、何かきっちりした研究があることと思いますが、少しそういうのも知りたいですね。 漱石が二葉亭について高い評価をしていたことは、何かで読んだような気がします。(鴎外もかなり褒めています。もっとも、あの時代に『浮雲』なんて「怪作」を書いたら、褒めないわけにはいきませんよねー。) しかし、漱石の諸作品については、それ以上の深い影響関係を感じます。 とにかく、全然古びた感じがしません。特に文体。 ただ、内容的には、作者自身が充分自覚しているように、途中で「うっちゃった」ようなところがあって、深みには欠けるものの(でもこの「ほっぽり出し方」こそが、二葉亭らしさではあるんですが)、文体だけで充分読ませるものがあると思いました。 しかし、『平凡』の読後感は、今回『其面影』を読み終えた時のような混乱したものではありませんでした。 あんまり混乱したもので、確か1.2年前くらいに読んだ下記の本を手にとって、思わず再読してしまいました。この本です。 『二葉亭四迷の明治四十一年』関川夏央(文春文庫) この本は、かつてこのブログで報告した、同作者の『白樺たちの大正』に比べるとややボリュームに欠けます。ブルドーザーで強引に道を切り開いていくような「力業」は、あまり感じられません。 それに、この本の「作り」として、二葉亭四迷は主人公ではありますが、章によっては「狂言回し」的にしか扱われていないところもあったりします。 関川氏は、文芸評論ではないつもりでこの書を書かれたのだと思いますが、はしなくも、文学とのこの距離のはかり方は、影響を受けてか否か、二葉亭にとてもよく似ていますね。 二葉亭も、関川氏も、ともに文学に対して、嫌いとは言い過ぎにしても、一線を引いています。(関川氏は株の話がお好きだそうです。) さて今回も、関川氏の優れた導きをいただきながら、あれこれ考えてみたいと思いますが、キーワードは、「混乱」です。 何がキーワードは「混乱」なのかとお思いかもしれませんが、そこがそれ、大いに混乱している由縁ですね。はは。 でも、ちょっとずつまとめていってみます。まず、 (1)作者の混乱 (2)作品の混乱 ということで、以下、次回に。/font>にほんブログ村
2009.07.23
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『死の棘』島尾敏雄(新潮文庫) これも、分かっていながら読んだとはいえ、600ページの長ーい小説であります。 内容が、「病妻物」。 ところがこれが、また暗ーい話かと言えば、暗くなりきっていないんですねー。 いえ、もちろん、書かれてある内容は充分暗くはあるんです。 病妻といっても、妻が精神を病む話。 そして展開が、まるで傷口に塩を擦り込むような話であります。 「賽の河原」ってのがありますが、作品中にも出てきた言葉ですが、まさにそんな地獄のような夫婦関係の話です。 妻の神経が、突然異常をきたします。 原因は、主人公である夫の「女」関係です。 で、狂気に憑かれた妻は、主人公の「女」について、細かい細かい細かいことまですべて話せと、夫に迫るわけです。 この迫り方が、実に「傷口に塩」であります。 妻が迫って迫って、夫が時に居直り、時に暴力沙汰になり、そして、時に涙、時に自傷、時に自殺未遂と……。 こうして書くと、ウンザリしそうな話なんですが、そして事実、何度もウンザリしそうになるんですが、ところがそれが不思議なことに、ウンザリしきらない。 例えば、発作中の妻とのやり取りが、こんなふうに描かれています。 「おまえ、ほんとうにどうしても死ぬつもり?」 「おまえ、などと言ってもらいたくない。だれかとまちがえないでください」 「そんなら名前をよびますか」 「あなたはどこまで恥知らずなのでしょう。あたしの名前が平気でよべるの、あなたさま、と言いなさい」 「あなたさま、どうしても死ぬつもりか」 こういうのって、実際の状況としては、とても大変な状況であるのは分かりつつも、どこかユーモラスじゃないですか? 思わず吹き出しそうになりませんか? どこかにユーモラスなところが見えますよねー。 セリフの言い回しですかね。 つげ義春という漫画家がいますね。 知る人ぞ知る、マイナー漫画のメジャー=大家ですが、そのつげ氏の作品のような、「真っ暗な中に」そこはかとないユーモアが漂っている、そんなふうに感じます。 (ちょっと話は変わりますが、つげ義春の漫画って、とっても井伏鱒二・安岡章太郎的であります。おそらく影響関係があるんでしょうが、その味わいは何とも「ダル」で素晴らしいです。但し、僕の知っているのは初期のつげ氏であり、影響関係の感じられる井伏・安岡両氏についても、初期の作品でありますが。) さて、話題を戻します。 この夫婦には、子供がふたり、男の子と女の子がいるんですね。 両親がこんな満身創痍のような暮らしぶりだから、当然全く構われることもなく、ハラハラするような育ち方なんですが、この二人の存在がまた、実に作品に一種「救い」をもたらしております。 途切れ途切れにしか出てきませんが、とても存在感が大きいです。 この、子供による「救い」というのは、なんとなく同種の例を持つ小説を多く思い浮かべることができそうですが、この作品においてもとても貴重なものとなっています。 ということで、600ページの「病妻」もの、何とか読めました。 しかし、本当に、いろんな作家が、いろんな事を、書いてはるものでありますな。 つくづくそう思いました。 以上。今回はこんなところで。/font>にほんブログ村
2009.07.22
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『「吾輩は猫である」殺人事件』奥泉光(新潮文庫) 前回に引き続きまして、今回も、私の本ブログの基本的コンセプト(あくまで「基本的」であります)違反の作品を取り上げてみました。 参考までに、こんなコンセプトでした。 「作品選定の基準は、高校の『近代日本文学史』の教科書に準拠する。」 (『近代日本文学史』の教科書は、ブックオフで105円で買ってくる。) うーん、いずれ守れないコンセプトなら、いっそ変えてしまった方がマシかなー。 でも、(私としては)興味深い「文学のありようとは」について、考えさせられたものですからー。 その前にいつもながらの枕話。 少し前に、職場の読書好きの方と、読書を巡るこんな話をしていたんですね。 ここんところずっと、小説を始めとしてちょっと頑張って本を読んでいるんですが、その甲斐あってか、錯覚かなぁとも思うんですが、例えば毎日運動をしているとめきめきと筋肉がついてくるように、例えばダイエットがうまくいって体が目に見えてすっきりしてくるように、とはいかないまでも、何とはなしに小説の読み方が少しずつ分かってきたような気がするんですが、と。 しかし、……やっぱり錯覚でしたね。 やっぱり小説なんてちっとも分かりません。 特に今回、この本を読んで強く思いました。 この奥泉光という作家は、良く知らないのですが、中堅どころとでもいう年齢の、芥川賞や野間文芸新人賞なども、かつて受賞した方です。 推理小説についても造詣が深く(それは今回取り上げた作品のタイトルでもわかりますよね)、SF小説も書いて一定の評価がある(日本SF大賞の候補にもなったそうです)、要するに、はやりのクロスオーバージャンルの作家です。偉いものですねー。 でさらに、この文庫の元本は、例の「新潮社純文学書き下ろし特別作品」シリーズです。 そうですね。 大江健三郎の『洪水は我が魂に及び』や安部公房の『砂の女』『箱男』、遠藤周作の『沈黙』など、現代日本文学の最高峰の作品群が、綺羅星のごとく眩しくずらりと並ぶ、あの、あのシリーズであります。 (ところで、あのシリーズってまだあったんですかー。最近の作品はちっとも知らないもので、申し訳ございません。) 思うよねぇ、やっぱり。 つまり、好き嫌いや若干の出来不出来はあるとしても、要するに、この作品は現代文学の到達点の一つに違いないって。 ところがこれがわからない。って言うより面白くない。その上むちゃ長い。 新潮文庫で600ページを超えてしまっています。 私といたしましても、読書報告をネガティブな形にまとめるのは、何とも本意ではありません。誠に忸怩たるものがあります。 などと、政治家の言うようなことを書いてお茶を濁すのは、「誠に忸怩たるもの」がありますがー。 えー、そもそも、考えたら私は基本的なことがよく分からないのですが、推理小説にSF小説を加えるのはありなんでしょうかぁ? 例えば、密室殺人事件。 推理小説の華ですね。 作者ががっちりと仕掛けた密室・不可能犯罪を、我々読者は、ああでもないこうでもないと考えながら読んでいきます。 で最終章、おきまりの種明かしの段です。 で、ここで、もし探偵が真面目な顔をして、犯人はタイムマシンに乗って未来からやって来て殺人を犯しましたと言ったら、おい、どうする。君なら許すか。 こんなんありなんでしょうか。 でも、これに準じるような展開がこの本にあります。 いや、たぶん違うのでしょう。 作者の書きたかったのは、きっとこんなことではないのだと思います。推理小説仕立ては、結構を仮に借りただけなのでしょう。作者の狙いじゃありません。 作者の書きたかったこと、それは例えば「猫」の文体模写。 そして「猫」のディレッタンティズム。 要するに「猫」の持つトータルな雰囲気。 読者はきっと、これを読むべきなのだと思います。 ただ、仮にそうだとしても、漱石の「猫」の持つ海鼠(ナマコ)のような展開を模写するに当たって、推理小説の枠を持ち込むことは本当に正しい選択だったのでしょうか。 例えば、イギリスの本家本元コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの諸作品の語りにも見られる、いかにも推理小説独特の読者を焦らせるような持って回った言い回しは、推理小説にとっては必要悪とも言える文体なのかも知れませんが、それをそのまま「猫」の文体模写に持ち込むのは、あるいは、しつこいだけのうんざりする冗漫さとなりはしないでしょうか。 私の読解力不足による誤解でありましょうか。 特にとても長いということもあって、うーん、やっぱり小説なんてちっとも分かりませんね。 では、今回はこんなこって。/font>にほんブログ村
2009.07.21
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『インストール』綿矢りさ(河出文庫) もうこの小説の発表も、10年ほども前になるんですよねー。はやいもんですねー。 その後この作者は、別の作品で芥川賞取りはりましたもんねー。 その本の方は僕は読んでませんがー。 本ブログの基本的コンセプトは(あくまで「基本的」であります)、 「作品選定の基準は、高校の『近代日本文学史』の教科書に準拠する。」 (『近代日本文学史』の教科書は、ブックオフで105円で買ってくる。)ってのがありましてー(私がそう作った)、うーん、ちょっと困ったなーと思いながら今回は書いております。(どうでもええことようなこと書いてすみません。) さて、『インストール』です。 うーん、なんて言うか、どうってことないお話なんですよねー。 別に非難するような箇所といってありはしませんが、かといって、どこが良いのかもよく分からない。実際、どこがどう、良いんでしょうか。 ところで、この文庫の解説文を高橋源一郎が書いているんですね。 高橋源一郎氏といえば、新しい文学に極めて好意的な、なかなかの理論派の小説家です。 (僕もとても好きですが、その作品には少々当たりはずれがあるような気がします。) その彼が、この作品を絶賛しているんですね。 まー解説文ですから、半分「仲人口」で読まねばならないとは思っております。 でも、私には、そんなに言うほど本当にこの本はすごいものなのかと、なんか、よくわかんなくなってくるんですね、文学の評価というものが。 ちょっと別の例を挙げてみますね。 例えば村上春樹は、『華麗なるギャツビー』をいろんな文章で、ほとんど絶賛していますね。実は、やはりあれについても、僕はよくわからないんですね。 主人公のギャツビーに、僕はほとんど魅力を感じないんですが、そんなのって「えーっ、サイテー」って事なんでしょうか。 「このヒト、文学のこと何にも分かってないヒトじゃないのー」って事なんでしょうかね。 そう言えば少し前に、ある新聞紙面で、川上弘美が吉行淳之介のある短編集について偏愛告白をしていたのを思い出しました。 吉行淳之介という作家は、生き方が作品より高評価を得ている感じがして、私も何作か読みましたが、残念ながらどうも「偏愛告白」をされるようなお方とは、少し読めませんでした。 (きっとこれも私の不徳の致す所だとは思っておりますが。) えーしかし、こうして三つ並べてみると、分からないと言いながら、実はちょっとは分かってくるんですね。 要するに「文章力」なんですね。 文章の美しさというか、素晴らしさというか、「言葉の力」ですよね。 これに小説家達は反応しているんですね。 これは、まー、考えれば当たり前といえば当たり前で、例えば音楽家は流れ来る「音の力」に感動し、画家はキャンバスの「色の力」にやはり感動しますよね。 かつて三島由紀夫は、死ぬ間際まで書いていた『小説とは何か』という随筆で、動物園の檻の中の昼寝をするアザラシの姿に、一つの小説の典型を見ていました。 小説はやはり「思想」ではないんですね。存在そのものが「思想」を表すことはあっても、少なくとも、そこに盛られた「思想」が小説なのではない。 僕が、その高評価についてよく分からないながらも、読んでいて、結局すとんと腑に落ちるのはこの辺なんですね。 と、思うと、この『インストール』ですが、なんというか、上品な明晰さを感じさせる文章ではありましたですね、確かに。 というわけで、今回はこんなところで。はい。/font>にほんブログ村
2009.07.20
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『生まざりしならば・入江のほとり』正宗白鳥(新潮文庫) さて「正宗白鳥」であります。 なかなか、かっこいい名前ですよねー。 以前このブログでちょっとだけ触れましたが、筑摩書房『現代日本文学大系』全97巻においては、極めて高い評価を得ているお方であります。 しかしそんな高評価のお方ではありますが、そもそも、この人の名前の「知れ渡り度」って、どんなもんなんでしょーねー。 もちろん、日本文学の大学の先生なんかは「知れ渡り度」100%でしょーなー。 大学の文学部出身者ならびに在学生で、さて、30%くらい? 多すぎる? 中学校・高校の国語の先生で、うーん、やはり70%くらいは要りますよねー、だって、商売道具でしょ、日本文学史の知識って。 一般のサラリーマン並びに主婦。これは明かです。0%。一般人は極めて健康的であります。そんな細かいことにはこだわりません。 さらに、文学史上の名前は知っているとしても、実際に読んだことがある人となると、その数字は、おそらく「つるべ落とし」のように、くるくると回りながら落ちていくと思われます。 そう考えますと、今回のこの本の読書なんか、まさに限られた・選ばれた人にだけ許される禁断の果実の様なものですね。 うーん、思わず背筋が伸びます。 「選ばれてあることの恍惚と不安と我にあり」っちゅうフレーズは、確か太宰の小説で読んだ覚えのある引用句ですが、さらなる出典は忘れてしまいました。毎度毎度ええかげんな事ですみません。 さて、正宗白鳥氏の小説ですが、もちろん私は、今回初めて読みました。 えー、こんな感じでぼそぼそと「文学史上の相対的マイナー作家・作品」を読むということをしていますと、マイナーな作家の中でも、実は2種類の作家に分かれるということが分かってきます。こんな具合です。 その1。 読んでいて、やはり微妙にメジャーじゃないよねーという感じはしつつも、でも、もっと読まれててもいいよねー、と思える作家群。 その2。 その時代においては何らかの斬新さなど持っていたのだろうけどねー、今となってはねー、と、やはり様々な点で「歴史的な存在」となっている作家群。 さて、この正宗氏は、僕は、(少々残念ながら)後者の気がするんですねー。 この人の持ち味は、残酷なまでのニヒリズムに裏打ちされた、無思想・無解決そして客観描写なんですね。 でも今読むとこのニヒリズムは、その時代の社会状況や文化状況、あるいは時代の風習に乗っかかった(或いは一般常識故に反抗した)「気ままさ」でしかない感じが非常にします。 例えば、作者の思考とかなり重なると思われる登場人物の表すニヒリズムの形は、結局は、その時代の男女差別や障害児を巡る社会的環境などの限界を前提としての情動に過ぎない、という気がします。 だから、今読んでいると、その辺がとても辛いんですね。 力としては明らかに弱い、と思われます。 たとえば、漱石なんかにも、確かにそういった差別・偏見という「ねじれ」は作品中に見られるのですが、漱石の場合はそれらを瑕疵としない、もっと力強い、根元的な問題意識があるように僕は感じます(やや贔屓目がありそうですね)。 ただ、文学の歴史的発展段階の一つとして、例えばこの正宗氏の高度な(クールな)客観描写が、今日の文学表現の様々な揺籃であることも、やはり間違いないと思います。 そう考えると、やはりこの人も、とてもエライ人であるわけですね。 ちょっと読みにくかったですけどー。 ということで、今回は以上。/font>にほんブログ村
2009.07.19
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先日、クラシックの音楽会に行って来ました。 仕事につき始めて、別に意志したわけではありませんが次第に遠ざかっていた音楽鑑賞を、数年前からほぼ20年ぶりに再開しました。 たまたま時を同じくして、手近な所にクラシック音楽を中心とするホールができたこともあって、コンサートには年に20回ほど、CDについては、1000枚を越えると売りに行く(置くところがない)ということを繰り返しています。 さてこの度聴いた曲は、ブラームスの「交響曲第4番」でした。 この曲を聴きながら、私は、いつになくいろんなことを考えてしまいました。(ということは、やはりとてもよい演奏だったのだと思います。) この曲は、ブラームスが52才の時に作られた曲であります。(以下、ブラームスについてのいくつかの書籍を参照しながらの文です)。 このブラームスという男が、「クソ真面目な」男であります。 いえ、惚れっぽい臆病者であったという説もないわけではないですが、少々思いこみある見方ですが、そんな愚直な真面目一本の男が今52歳になっていると考えてみます。 それなりの有名人ではありますが(かなりの有名人?)、今まで充分に満たされた人生を過ごしてきたわけではありません。誹謗中傷をするようなライバルも多いし、例えば女性関係一つを取っても、なかなか意のままの半生をとても送れていません。結局、ブラームスは生涯独身でありました。 数々の私生活上の、また芸術上の重みをひたすら背負い続けてきた、孤独で寡黙な男がいよいよ迎えた人生の晩秋の季節。 木々の葉はすでに色付き、あるいは朽ちてしまっている。 そんな中をうつむきかげんでぼそぼそと歩く一人の男。 この交響曲第4番には、そんな哀愁のイメージがそのまま現れています。 そしてこのブラームスの姿に年齢が重なりつつある私は、いつになくひどく感情移入して、この曲を聴いてしまったわけです。 各楽章ごとに、感情が過多に流れ込んでいくような聴き方をしてしまいました。 最後には「私の人生とは、いったい何だったのだろうか」などと思ってしまうような。 で、結局、いろいろ考えてしまい、実は少々、疲れてしまいました。 さてその後、ブラームスは思いの外に長く余韻を私の中に残し、今回の報告内容にも影響を与えているのですが、僕の中ではもはやブラームスと下記の小説は、切り離せない関係性を持ってしまったのであります。 『ひとびとの跫音・上下』司馬遼太郎(中公文庫) 読み始めて上巻の半ばあたりまでは、変だ、不思議だと、交互に何度もつぶやくように読んできました。 何とも不思議だが、なぜか懐かしい感じのする、しかし、作者に対しては「厚かましい」小説であると、感じ続けていました。 この感情は一言で言うと、こういう事です。 本来、小説とはとても自由度の大きいジャンルのもので、何をどんな書き方をしても許される類のものだとは承知しながらも、しかし、ものには限度があるだろう。(もちろん限度のないのが小説なのかも知れません。であるならば、僕の内部の個人的な指標としてです。) 本当にこんな技巧のない随筆のような文章が小説といえるのかと、感じながら読んでいました。しかし下巻に入って、これは違うなと思い直しました。 この作風は、司馬遼太郎の小説の本道であります。 そもそも司馬氏が、例えば『坂の上の雲』で、この自作ははたして小説と呼べるものかと複数回自問していましたが、対象への接近の仕方は、本作も『坂の上…』も同じではないかと思います。(この作品は『坂の上の雲』の「サイド・ストーリー」です。) そしてこれこそが司馬氏の司馬氏らしい個性ではないか、それは小説というジャンルの懐の深さかなとも思うし、司馬氏の見つけた「鉱脈」であったかとも考えられます。 それは、内容以前のいわば作品の「佇まい」です。 「人間が生まれて死んでいくという情趣」とは、作者自身が書いているこの作品の「テーマ」のひとつですが、例えば小説は、例えば音楽は、それを解釈しない形で、全く何もコメントせずにただ見せるという形で提出することが可能です。 司馬氏はこの作品で、「提出」に徹しています。しかしこの提出に徹する姿勢は、実は『坂の上…』でも同じスタンスではなかったか。 或いはそんな自らの立ち位置に対し、司馬氏は『坂の上…』を書きながら何度か自問したのではなかったか、と。 そして僕は、この提出の「作法」に、本作とブラームスとをリンクしてしまいました。 えー、「人生の秋」であります。 私のフェイバレットな作曲家ブルックナーもとてもいいですが、ひとつブラームスも気合いを入れて聴いてみようかと、ふと感じるような司馬遼太郎の小説でありました。/font>にほんブログ村
2009.07.18
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『愛と死』『幸福者』武者小路実篤(新潮文庫)の2回目であります。 でも、例によって、前回は本作感想にまで至らず、別の本のご紹介を致しておりました。この本です。 『白樺たちの大正』関川夏央(文春文庫) この関川氏という方も、実に魅力的なお仕事をなさっている方ですよねー。 どの作品がというのではなく、お仕事全体の「佇まい」が、とても魅力的であります。 いつかまた、もう少し時間をかけて作品の分析などをさせていただきたいと思いますが、これはきっと、「時代」に対する「間合い」の取り方が絶妙なんでしょうね。 とりあえず今はその程度に考えております。 さて、上記の関川氏の労作について、触れ直します。 前回記述と重なりますが、こんな内容の本です。 芸術集団「白樺派」の領主・武者小路実篤の、文学作品ならぬ「新しい村」運動を中心に据えながら、単なる文学史的記述に留まらない、大正時代の社会風俗全般を描ききろうとする試み。 この時代に対する、興味深い関川氏の指摘がいくつもあるのですが、一言でまとめますとこういうものですかね。 大正期初年から中盤にかけて、時代思想の最先端の筈であった武者小路の「人道的理想主義」が、次の昭和という時代の誕生と相前後して、なぜ「社会主義」に抜き去られてしまったのか。その課程・背景そして主なる原因。 そしてこの原因について、筆者は、21世紀の現代日本にあるほとんどすべての世態風俗の端緒が実はこの大正時代にすでに芽吹いているという視点を据えながら、何度も時代と場所をカット・バックして行きつ戻りつしつつ、広範囲にわたって説いていくという方法を取ります。 これはなかなかの力業で読み応えがあります。加えて、文章がとてもすばらしい。 例えばこのようなくだり。 谷川徹三はその大正十二年には二十八歳であった。京都帝大哲学科を出て同志社で講じていた。彼はその頃ちょうど恋愛中で、相手は政友会代議士の娘で長田多喜子という女性であった。この年の夏ふたりは結婚し、多喜子はやがて俊太郎という男の子の母となった。 このような書き方は、筆者の自家薬籠中の物でありましょうが、おそらくは山田風太郎の一連の明治小説の影響下にあるものと思われます。 日本文学史と日本近代社会史を「リンク」させつつ描いた、筆者の旧作『二葉亭四迷の明治四十一年』に、すでにこの手法が見られますね。 しかし、「お公家集団」と一部からは揶揄された「白樺派」であり武者小路ですが、そして事実その揶揄について全く誤った評価とは言い難い側面も持ってはいましたが、「新しい村」運動のリーダーとしての武者小路は、例えば「白樺派」同志で情死を果たした有島武郎は言うに及ばず、さらには「小説の神様」志賀直哉に対しても、やや「めくら蛇」的側面はありつつも、決して侮りきれない意志力と実行力を継続的に示していたことが、本文からもありありと理解できます。 実際に読んでいるときの感想としては、彼について「この方もかなり苦労したんだなー」という素朴な感想を持つことが可能ですね。 と、まー、かなり「すごい」本を読んだんです。 私は大いに反省を致し、改めて、武者小路先生のお教えを仰ごうと、上記の二作品に取り組みました。 私は今まで、私自身の愚かな偏見のせいで、武者氏の本は『友情』だけしか読んでいませんでした(遙か昔。中学生時代か)。白樺派の盟友である志賀直哉の本は主だったものはほとんど押さえているのに。 で、この度二冊続けて読んでみました。共に100ページちょっとの本ですから、すぐに読めます。 で、どう思ったかというと、まず『愛と死』については、うーん、「偏見が合っていたなー」と。いえ、すみません。言い直します。「若かった頃の私」の偏見としては、まぁ許せるんじゃないかしら、と。はい。 ただ文章については、さすがに古びてはいず、何かの本で読んだ「白樺派をもって近代の言文一致は完成を見た」というのはなるほどと思いましたね。この本は、今の中学生でもきっと普通に読めます。これはなかなか得難いことだと思います。武者、えらい。 次に『幸福者』についてですが、まーこの本は「小説」じゃないですねー。 いえ、ないことは、ないですね。だって小説というのはもっとも何をどう書いてもいい文学形式ですから。 でもこれは、宗教告白です。倫理の書であります。 悪くはありませんが、そしてこれはこれですごいなぁとも思いますが、今の私としては、少しパスという気はします。 こんなのを書くから、若かった頃の生意気な私は「偏見」なんて持ったんでしょうね。 でもね、本当にこの倫理観については、これはこれで、とても立派なものだと思います。今の私は。 そんな本でした。武者小路、悪いとは思いませんが、やはりちょっと魅力に欠けますかねー。はい。(おーい、偏見、直っとらんやないかー。) というわけで。以上。/font>にほんブログ村
2009.07.17
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『愛と死』『幸福者』武者小路実篤(新潮文庫) 「恥の多い人生を送ってまいりました」とは太宰治の殺し文句の一つでありますが、私も、あれこれ考えますれば、本当に恥の多い人生を送ってまいりましたし、現在も「堂々」進行中であります。 ちょっと脇にそれますが(いつもそうなんですがー)、近年「コピーライターとしての太宰治」という視点が流行のような、そうじゃないような…。 コピーライターという表現が相応しいのかどうかは、僕にはよく分かりませんが、しかし確かに「言葉の軽業師」という感じが太宰治には致しますね。 実に心憎いまでの言葉の芸です。 上記の表現もよく見ますれば、太宰を遡る600年ほども前に、吉田兼好がほとんど同じ事を言っています。 「命長ければ恥多し」 この人生上の普遍のテーマを、太宰は自ら固有の弱点と引き受けることで(引き受ける姿勢を見せることで)、逆に「普遍的」的シンパシーを獲得するっちゅう「荒技」ですね。 兼好の表現がいかにも坊主のいいそうな「説教」調であるのに比べると、惚れ惚れするような「反射神経」の「芸」であります。 えー、閑話休題。 私に恥が多いのはこれからもずっと続くでしょうが、「恥」もさることながら、それに負けず劣らず、まみれていますのが、私の場合「偏見」であります。 実はこの「偏見」について、告白をさせていただこうというのが、今回のテーマであります。 はい。武者小路実篤という小説家に、私なんとなく偏見を持っていたんです。 でもこれって僕だけなんでしょうか。 国文出身のやつってきっと武者について偏見があるような気がするんですが、そんなことないでしょうかねー。 その偏見の理由は、と言うと、ううーむ、実に返答に困ってしまいます。 まー、まっとうな理由なんてないから偏見なのだと居直ってしまうのが、私にとっては都合がいい。 でもあえて言いますと(はじめに謝っておきます。すみません。愚かなのは私です)、 「なんか、武者ってバカっぽいよなー。」です。うう。恥の多い人生を送っております。 さて、まず、この私の偏見を大きく覆す本に出会ったというのが、今回の読書の発端であります。この本です。 『白樺たちの大正』関川夏央(文春文庫) この本はなかなかの力作であります。 文庫本で460ページほどですが、内容的にもかなり筆者入魂の一作といえるように感じました。 内容は文藝評論ではありません。 芸術集団「白樺派」の領主・武者小路実篤の、文学作品ならぬ「新しい村」運動を中心に据えながら、単なる文学史的記述に留まらず、大正時代の社会風俗全般を描ききろうとする試みであります。 この論述方法は、関川夏央氏の自家薬籠の物ですが(この作家も僕は好きなんですねー)、何よりまずその量的側面において重量級であります。 私はこの本を読んで、自らの不明を大いに恥じたのでありますが、以下、次回。/font>にほんブログ村
2009.07.16
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『如何なる星の下に』高見順(新潮文庫) この高見順という作家は文学史的にはどんな位置づけになるんですかね。 ちょっと調べてみたんですが、太宰治より二つ年上になるんですね。 福井県知事の息子として生まれながら家庭的幸福にはほとんど恵まれず、その後一中一高東大と進学し、典型的エリートコースを歩みながら文学にのめり込み、時あたかも昭和初年、プロレタリア文学執筆から治安維持法違反による検挙、その後の転向と、項目によってアップダウンはあれど、ほぼ完璧に太宰に重なっています。 先日外村繁の小説を読んでみましたが、高見順・太宰治・外村繁は、揃って第一回芥川賞の候補者になり、全員芥川賞は外れました(受賞したのは石川達三)が、その後一時期「三羽がらす」的ブームが起こったそうです。 外村繁は、少し感じが違うような気がしますけれどねー(もっとも僕の読んだのは外村の晩年の作品ひとつだけですが)。 一方、高見順は太宰と並べてみますと、かなり近いものを感じます。 本作について言えば、昭和十年代を舞台に、浅草の売れない踊り子や大衆演芸家達の風俗を描いているゆえといえばそうですが(しかし太宰はこういった群衆劇は実は書きませんでした)、一種崩した文体が、とっても似ているんですね。(作者がしょっちゅう作品に顔を出してアイロニカルに展開を促していきます。太宰のお得意ですね。) えー、あらかじめ申し述べますが、私はやはり太宰治のファンですね。 いえ、昔から薄々、そうじゃないかなーとは思っていたんですがね。 近年、近代日本文学史のおさらいをするなんていうテーマで本を読んでいますと、本当に面白いお話を書き続けてきた作家というのは、明治以降、実は三人しかいないんじゃないかと思うようになってきました。 漱石・谷崎・太宰 ですね。 まー、我ながら、かなり偏見が入ってますが。 ともあれ、それを前提にしまして、さて、太宰治と高見順を見比べようというのですが、うーん、なんか、違うんですよねー。 何というか、描かれていることの「結晶度」といいますか「純度」といいますか、「品」といってしまうと、そんなものでもなさそうですが、とにかく、僕の中では、高見順は太宰の「エピゴーネン」になってしまう。 「エピゴーネン」なんて言い方が悪すぎるのなら、「傘の下に入ってしまう」「山脈の連なりに埋もれてしまう」という感じになっちゃうんですね。 うーん、高見順の悪口を言うつもりはさらさら無いんですがねー。 或いは高見にとっては、太宰と生きた時代を同じにしてしまった不幸があるかもしれません。 太宰のほうが、戦略的で「あくどい」んでしょうけれどもね。 なんか、太宰は、作品のどこかで「時間」を睨んでいるような気がします。(『人間失格』なんかはむしろ余りそうは思わないんですが。)でもそんな意識こそが作品の「矜持」を生み出すと思うんですがねー。 結局、才能の質なんでしょうかね。 私流に言えば、太宰治は片や近代日本文学史のベストスリーですから。 ということで、この作品は、健気で愛らしくはありましたが、その健気さの表し方の戦略において、太宰に一歩先を譲るような気が、残念ながら私には致しました。 参考までにタイトルですが、これは高山樗牛の章句によっているそうです。こんなんです。 「如何なる星の下に生まれけむ我は世にも心弱きものなるかな」 ねっ。 こんなタイトルをそのまま付けるんだから、計算高い太宰に比べると、ほとんど無防備のような危うさを感じますでしょう。 というところで、今回は以上。/font>にほんブログ村
2009.07.15
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さて、夏目漱石前期三部作最終話です。 『門』夏目漱石(新潮文庫)です。しかし、今回もそのものを取り上げる前に、僕が読んだ、『門』が描かれるに至った社会状況について指摘した文章に触れてみます。こんな本です。 『漱石 片付かない〈近代〉』佐藤泉(NHKライブラリー) この本は前半が漱石作品全般の概論、そして中盤あたりから、個別作品の検討に入っています。『門』について書かれたところが、僕はとても面白かったです。 こんな風に書いてありました。 まず『門』に前後して二葉亭の『平凡』、独歩の『非凡なる凡人』などが発表され、軌を一にした作家の動きに対してこの様に説明しています。 「平凡」な人生は、あるとき小説に描かれるべき題材として見いだされたのである。(略)物語のヒーローとして、およそふさわしくない、ただの人を主人公にするというのはひとつの価値転換だが、そこにこそ小説における近代性の一面があった。 なるほどね。 明治という時代が良くも悪くも一定の安定を見せ始めた時に、この様な状況が生まれるのは、さもありなんと思えますね。 つまり平凡人を書くことが新鮮であり、最先端であったということでしょうか。 しかし同時に、佐藤氏はこういう指摘も行っています。 『門』の夫婦の日常生活が湛える一種の魅力の正体は、絶え間なく自己を鍛えて成功へと邁進しなければならない過酷な自由競争のコースから降りた者の安らぎなのかもしれない。コースに乗れなかったために平凡なのではなく、コースから降りたために平凡になった彼の静かな日常は、野心と競争、羨望と挫折といった社会的心理の外でこそ可能になっている。 ここに触れられている内容は、明治の近代文学が発生すると同時に文学者達が取り上げた視点であります。 二葉亭の『浮雲』しかり。漱石の作品履歴においても、挫折者『坊っちゃん』は当然として、デビュー作『猫』の中の「太平の逸民たち」にすら、この「無用者の系譜」は読みとれます。 なるほど、古い酒を新しい皮衣に、ということですか。 『門』に我々が感じる「哀愁」にも、こういった読み慣れた「アウトサイダーへのシンパシー」が、大いに感じられますよね。 でもこんな風に指摘されますと、改めて、漱石って本当にいろいろ書き込んでいるなーと思いますね。いろんな解釈が可能だというのは、それだけ本文の懐が深いって事なんでしょうねー。えらいものです。 で、さて、『門』です。 うーん、何というか、『門』って、やはり暗いですねー。「平凡」であることって、地味ですよねー。というか、もうズバリ、思いっ切り(!)地味です、これは。 ところで、この地味さは、取り上げた文庫本の解説によると、漱石の体調不良がそのまま反映しているということでした。修善寺の大患、胃潰瘍大出血までもう数ヶ月(でしたっけ)ですから。 でも、さらに解説(この解説者は大井征という方です。失礼ながら、寡聞にして私はよく存じ上げません)によると、『門』の新しい芸術上の特質は二つあるそうです。 ひとつめ。 主人公宗助の寂しく暗い心の影は、実は漱石自身のものであるということ。 『三四郎』の広田先生、『それから』の代助にあった一種陽性の性格は全くなくなってしまっているが、これは漱石の精神上の深刻な悩みの反映であるということ。 ふたつめ。 その暗い主人公を設定することで、漱石は従来の作品からさらに一歩踏み込んだ鋭く深い心理の描写に成功しているということ。 この延長上には『こころ』が、その結実として直接結びついているということ。 なるほど、『こころ』に似てますね。 でも、ちょっと中途半端ですね。ちょっと、というより、かなり中途半端です。 よく言われていることですが、「参禅」が、やはり唐突なんですね。その参禅自体も中途半端だし。 (だってそもそも『門』というタイトルは、弟子の小宮豊隆と森田草平が付けたんでしょう。『ツァラツストラ』かなんかを見ながら。) うーん、これって、上記には「古い酒を新しい皮衣に」と触れましたが、ちょっとマンネリですかね。なんだかそんな気がしてきましたよ。 この後、大出血をして、人生観が変わってなかったら、ひょっとしたら漱石、もっと大変だったかも知れませんね、小説家としては。 次の作品は、血を吐いて後の『彼岸過迄』ですか。 だいぶ前に何度か読みましたが、「須永の話」は、なんとなく今でも印象に残っているんですがね。 うーん、「後期三部作」は、どう致しましょうか。 ともあれとりあえず「前期三部作」を読んでみました。 あれこれ言っても、面白さは圧倒的であります。 こんなこってす。では。/font>にほんブログ村
2009.07.14
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『それから』夏目漱石(角川文庫) さて今回は、上記作にストレートに入っていきます。 この作品を読んだのは、多分4、5回目だと思いますが、実はどうも今回は、今ひとつ主人公に感情移入ができませんでした。 理論的なものはともかく、主人公代助に対して、微妙な「違和感」を感じ続けました。 「理論的な」というのは、読み終わってから気がついて、一応の納得はできたということですが、それはつまり、 「漱石は、次作『門』を射程距離内において『それから』を描いたのだ。」という、そんなの当たり前じゃないか、といわれそうなことの「発見」ゆえであります。 もう少し、順を追って書いていきたいと思います。 『それから』の前半部に、何度か主人公代助が「仕事」についてあれこれと考える場面が出てきます。資産家の息子代助は、30才前で、大学を出た後定職もつかず、今で言うと完全に「パラサイト・シングル」になっています。 こういった無能の文化人が、実は明治時代の文化の管理者であったというのは、確か丸谷才一も説いていたし(あれ? 司馬遼太郎だったかな?)、今までは何となく分かったつもりでいたのですが、今回読んでみて、ちょっと「違和感」を感じましたねー。 漱石作品にはこのタイプの登場人物が結構多いです。 この「違和感」は何なのでしょうか。「こいつやっぱり気楽なもんやで」という思いなんでしょうかねえ。そんな気もします。 これは、僕が年を取ってきて現実的になっちゃって、想像力とかロマンティシズムとかがなくなりつつあるからでしょうか。うーん、ちょっと考えてしまいましたが、やはり全編を通して気になり続けました。 さて作品後半、代助は、友人平岡の妻三千代に対して改めて自らの愛情を告白します。代助は三千代を、若かった頃友人平岡に譲るわけですが、これはいわば『こころ』の裏返しですね。 しかしよく読んでいると、その若かった頃の二人はほとんど結婚まで後一歩のところにいたように書いてあるんですね。 にもかかわらず、代助はあっさり三千代を平岡に譲ります。そしてその理由は、極めて曖昧なんですね。 僕はそこに、なんて言うか、代助の心の中に、一般論として「結婚」に怯んだというだけじゃない、何かもっと現実的・即物的な三千代に対する「生臭い」ような嫌悪の感情、三千代に関して、密かにささくれるような出来事があったに違いないと思うんですが、どうでしょうか。 観念論・一般論だけで、最愛の女性を、そう簡単に友人に譲る事ができるものでしょうか。 つまり、代助は三千代に対して(それが一時的なものであったかどうかはともかく)「あの女のここが、おれは生理的に耐えられない」といった嫌悪感を持ったんじゃないかということです。 これって、僕のゲスの勘ぐりでしょうか。 この辺の曖昧な部分を指摘して、代助にホモセクシュアルを見るなんていう解釈もあったりしましたね。 というわけで、今回の『それから』読後感は、「違和感」でした。 ただ、この後『門』が書かれますね。 そんなの当たり前じゃないかと思われるかも知れませんが、漱石は、当然『門』のテーマや展開について、すでに充分頭の中にあった上で『それから』を書いたんですよねぇ。 『門』の存在を「前提」にしつつ『それから』を読むと、私の持った「違和感」はかなり薄れるような気がします。 あの『門』の「暗さ」は、代助の「仕事」に対する、あるいは「三千代との結婚」に対する、一種の「気楽さ・浅はかさ」を償って(?)余りある圧倒的「暗さ」であります。 ということで、次回は「暗さ」の総本山『門』です。 うーん、暗い。/font>にほんブログ村
2009.07.13
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娘は柿が好きです。女房も柿が好きです。女房は「お光さん」のような田舎の子です。 下記にありますが、『三四郎』の広田先生は、桃を食べながら、桃は仙人めいていると言っていますが、柿もなかなか負けていないようなヘンな果物ですね。 桃は、仙人なんて語が出てくるように、中国っぽいところがありますが、柿は純日本という感じがしますね。柿って、確か、日本産じゃなかったですかね。 とにかく、秋の果物として柿が最も俳句になるような気がするのは、子規のおかげだけでもないと思うんですが、どうでしょうか。 さて漱石作品についての刺激的な文芸評論を二冊続けて読んで、やっと当作品に辿り着きました。 『三四郎』夏目漱石(新潮文庫) 久しぶりの『三四郎』です。 『三四郎』は、漱石作品の中で、僕が最も好きな小説の一つです。多分今までに10回くらいは読んでいると思います。 今回また再読して、僕自身が年を取ってきたこともあってか、とっても「哀愁」っぽく読んでしまいました。 まぁ、「帰らざる青春の日々」といった、かなり安っぽい感傷であります。 しかし、今回の『三四郎』読書のテーマは、丸谷氏並びに石原氏の文芸評論に書いてあったような「読み」が、実際に可能かどうかの検証なんですね。 特にポイントは、石原氏の「読み」の検証。 それは、おおざっぱに言って、こういうことでした。 三四郎が東京に出てくる前に、野々宮と美禰子の間には恋愛感情があったが、三四郎が現れるほんの少し前に急速に二人の愛情は冷めてしまった。 美禰子にやや慎みが欠け、そのことによって野々宮は振り回されていたのだが、とうとう二人の中を清算するに至った。そして9月、三四郎は大学に入学してくる。 美禰子は、三四郎に対して恋愛感情など、全く持っていなかった。 と、まぁ、こんな読みですね。 こんな読みが、本当に『三四郎』の原文から読めるのだろうかということです。 かつて僕は、ある国文学のえらい先生から、作品解釈というのは、とりあえず辻褄が合えばいいのだ、積極的にこれ以外の読み方はないのだというところまで持っていく必要はない、と教えられました。 読もうと思えばこうも読めますねというところまででいいという考え方ですね。 そして、この流儀で読むと、石原氏の上記の読みは可能です。 そもそも、ほのめかし程度のことしか三四郎と美禰子の関係については書かれていないのですから。 もしちょっとだけ首を傾げるところがあるとすれば、与次郎が馬券を買ってなくしたお金を、三四郎が美禰子に貸してもらいに行ったときに、美禰子が、三四郎が馬券を買ったのだと勘違いをして言うせりふ。 「馬券で当てるのは、人の心を当てるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引の付いている人の心さえ当ててみようとなさらないのんきな方だのに」 という、この部分ですかね。 「索引の付いている人の心さえ当ててみようとなさらない」というところは、三四郎への思いというものがないとしたら、ちょっとわかりにくい部分ですね。 でも上記の言葉は、本文中では、さらりと出てきて、その先引っかかる部分を全く持たないんですね。これって、美禰子の愛情告白じゃなかったんですかね。 今まではそうだとばかり僕は読んでいたのですが、こんな風に改めて読んでみると、だんだんわかんなくなってきましたね。 どう思われますか。どうです、『三四郎』「再読」してみませんか。 ということで、次は当然『それから』になります。 「乞うご期待」と、言い切る自信は私には全くないぞ。(自慢すんなよー。) では今回はここまで。/font>にほんブログ村
2009.07.12
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『三四郎』夏目漱石(新潮文庫) えー、この作品の三回目です。 とはいえ、実はまだ、直接『三四郎』まで行っていません。 『三四郎』へ辿り着くお話として挙がっているのが、これでした。 『漱石と三人の読者』石原千秋(講談社現代新書) この本の作者、石原氏の導きの元に、『三四郎』中とっても面白い場面の報告をさせていただいております。前回と重なりますが、こんな場面でした。 三四郎は、東大キャンパス内の、後に「三四郎池」とよばれる池端で、団扇を持った美禰子と看護婦に初めて出会います。 最初やや離れていた両者でしたが、そぞろ歩きの如く美禰子が三四郎の方に近づいてきて、そして三四郎の前を通り過ぎていきます。その時、美禰子が二つの動作をします。 まず一つ目の動作。 三四郎のすぐ側まで来たとき、頭上に茂っていた木の名前を看護婦に尋ね、実は成っていないのかと感想を述べ、仰向いた顔を戻すときに三四郎を一目見たこと。 その目がかなり印象的に書かれます。 次に二つ目の動作。 通り過ぎるときに美禰子が今まで嗅いでいた白い花を、三四郎の前に落として行ったこと。二人が行った後三四郎はその花を拾い嗅いでみますが、花に匂いなどなかったと書いてあります。 暗示的でしょ。 なかなか、ほのめかしよりますねぇ。 この二つの動作の意味するものは何なのか。 普通に読むと、美禰子が三四郎の気を引こうとしたのだとしか読めませんわね。事実、長い間この場面はそう読まれてきました。また漱石はそう読まれるように、ここに至るまでの個所でいろいろ仕掛けを施してきています。(例えば冒頭の汽車の中の女など) しかしよく考えると、二人は初めて会ったのですよ。ここでいきなり美禰子が三四郎の気を引いたとすれば、それでは美禰子は、全く見も知らぬ男を理由もなく挑発する「娼婦」の類の女になってしまうではないですか。 吾々は、永くそのことに気がつかなかった、いや気づいていてもそんなに「変」だと思わなかった。美禰子とは、そんな女なんだと何となく思ってしまっていた。でもこれは実は、漱石の「芸」の力なんですねー。うーん、見事なものですねー。 でも冷静に考えると、やはりそんな読みはおかしいですわね。 では、「美禰子はいったい誰を挑発したのか」ということであります。 石原氏が解説してくれているのは、これについての、新解釈です。 なかなか、面白そうでしょ。 うーん。後は自分で読んでください。 って、意地悪じゃなくて、ここで簡単にまとめる自信がないんです。すみません。 というわけです。ただ、この本の中には、どうもしっくり来ない個所も結構あったりします。 例えば『こころ』について触れている個所ですが。 取り上げている個所はなかなか面白いところですが、『こころ』の作品冒頭、「私」(第一部第二部の語り手である青年)は、なぜその人を「先生」と呼ぶかについて、「余所余所しい頭文字などは使う気にならない」とありますが、その「先生」は死んだ親友を「K」と書いているんですね。 石原氏はここに着目して、第一部第二部の語り手である青年は、少なくともこの手記を書き出した時点においては、実は「先生」のことをそれほど尊敬していないと解釈しています。これって、結構面白いとは思うんですが、しかしそんな解釈が本当に引き出せるのでしょうかね。 うーん、私にはよくわかりません。 失礼ながら、ちょっと玉石混淆といった部分もありましたね。 以下、次回に。/font>にほんブログ村
2009.07.11
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さて、前回から漱石の「前期三部作」を取り上げようと言うことで、その第一作について始めました。これですね。 『三四郎』夏目漱石(新潮文庫) えー、丸谷才一の文芸評論がとても面白くて、「よし、また読んでみるか」という気になったんですね。 そしてそんなところにまた、面白い文芸評論を読みました。これです。 『漱石と三人の読者』石原千秋(講談社現代新書) この作者は「受験もの」新書が、わりと有名な人ですが、本当の専門は日本近代文学、漱石なんかがやはり専門の方のようですね。実はよく存じ上げません。 この本が、上記の丸谷氏の本に輪をかけて面白かったです。 タイトルにある「三人の読者」とは、自らの小説の読者として漱石が考えていた三種類の読者像のことを言います。 一つ目の読者は、「木曜会」参加者という言い方が、最もわかりやすいと思います。漱石の弟子でもあるが小説のライバルでもある、同時に漱石にとってもっとも「顔のはっきり見える読者」です。 二つ目の読者は朝日新聞社入社後の、自らが書く新聞小説の読者として、最大公約数的に想定した読者。基本的には、インテリゲンチャで、文壇と関係を持たない大人の男性のことでしょうね。「何となく顔の見える存在としての読者」です。 そして三つ目は、作品ごとに異なってくる「顔のないのっぺりとした存在としての読者」。想定しづらいが、捨て置けない部分として存在する読者のことを指します。 もう少し具体的に言えば、例えば『虞美人草』では、漱石に「藤尾」を殺さないでと迫った読者。『三四郎』でいえば「お光さん」的存在と石原氏は解説しています。 少し脱線しますが、今回この本を読んで、下記に説く内容以外に面白かったものに、この「お光さん」の記述がありました。 三四郎の郷里の「真っ黒」な娘さんです。 『三四郎』最終章である第13章の直前に、三四郎は郷里に一度戻りますが、その時のことが全く触れられていないことについて、石原氏は「お光さん」との縁談が成立したのだと説きます。えっと、驚きますね。 なんだか最近はそんな、鬼面人を驚かすといった感じの研究が多いように思うんですが、どうなんでしょうね。正しいかどうかはともかく、なかなか面白い論だとは思いましたけれどもねー。 閑話休題。 さて石原氏の文芸評論は、一言で言うと、この三種類の読者像を漱石がきっちり意識しながら作品を書いていることの論証、といったところでしょうか。 本文中最も刺激的だったのが、『三四郎』中の、三四郎が美禰子と初めて出会うシーンの解釈でした。 実は、このとらえ方を初めてしたのは別の研究者で、1978、9年あたりらしいです。『三四郎』研究史上画期的な研究と述べられています。もう、だいぶ前になりますね。 私がまだ、自らの将来に明るい希望を抱いて日本文学を読んでいた頃であります。 うーん、あのころ、そんな研究があったんですね。 それは一言で言うと、「この場面で、美禰子はいったい誰を挑発したのか」ということです。 この読み方によると、美禰子は三四郎をほとんど(全く)愛していなかったことになり、二人の淡い恋の物語という『三四郎』の大前提のように思えていたものがことごとく崩れてしまいます。これは、なかなか刺激的ですよね。 もう少しだけ、具体的に書いてみますね。 三四郎は、東大キャンパス内の、後に「三四郎池」とよばれる池端で、団扇を持った美禰子と看護婦に初めて出会います。 最初やや離れていた両者でしたが、そぞろ歩きの如く美禰子が三四郎の方に近づいてきて、そして三四郎の前を通り過ぎていきます。その時、美禰子が二つの動作をするんですね。 ねっ、面白そうな場面でしょ。 では以下、次回に。/font>にほんブログ村
2009.07.10
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何回かに分けて、夏目漱石の「前期三部作」を書いてみたいと思います。 漱石の「前期三部作」といえば、私のフェイヴァレットであります。何度目かの再読になりますが、漱石は、何歳で読んでも面白い、と半ば信じつつ、でも、そんなことって本当にあるのだろうかという疑い心も少々あるようで、とにかく、始めます。 まずは、 『三四郎』夏目漱石(新潮文庫)からですが、そもそもなぜ漱石の「前期三部作」を読もうとなんて思ったのかというと、実は、そう思わせてくれた本が、二冊も、あったんですねー。 まず、この本。 『闊歩する漱石』丸谷才一(講談社) ここんところよく図書館に行くもので、自分で本を買うことがなくっていいような、少し寂しいような、ちょっと微妙な感情です。 私が小さい時に住んでいたところは公共の図書館から少し離れていたので、図書館で本を借りて読むという習慣づけが、私にできていなかったんですね。 現在、図書館から自転車で五分の所に住んでいますが、上記に「よく図書館に行く」と書いてありますが、実は図書館の本を読むことについては、いまだにほんの少し「違和感」というか、なにか、一枚、膜がありますね。 さて、閑話休題、上記本についてです。 丸谷才一は好きな作家で、以前にもブログでちょっと触れましたが、小説の新刊については追っかけて買っています。(最近は御高齢故か、少し新刊を見ないように思うのですが。) エッセイ・評論のたぐいは、まぁ、文庫になってから買うかな。(じゃないのもありますが。) エッセイもとてもおもしろいのですが、最近は、ちょっと難しめ。きっと僕の方が日々馬鹿になっているせいだろうけれど、博引旁証・ディレッタンティズムが少々煩わしく、ぼんやりと読む、ということがちょっとできにくくなっているように感じています。 何かの拍子に、途中で眠くなったりすることもあります。 この本には漱石の三つの小説『坊っちゃん』『三四郎』『猫』のことが書いてあるのですが、『三四郎』の部分が一番おもしろかったように思います。 丸谷氏曰く、この小説はもっとガラの大きい社会小説になるはずだったと。 冒頭、三四郎は上京途上で二人の人物に出会うが(若い女と広田先生)、その時広田先生が話していた富士山の話(例の、日本の国は滅びるねというやつです)が、上京後発展していないと、作者は述べます。 そこにもう一つのあり得たであろうリアルタイムの社会小説の片鱗を見るわけです。 残念ながら、登場人物並びに当時の日本の社会風俗描写の限界から、その可能性は失われ、恋愛小説的側面が(これが最初の若い女の象徴するひとつのもの)残ったものの、中盤あたりから登場人物の動きがさらに取れなくなり(作者は登場人物たちの社会的階層にその原因をおいてます)、漱石作品の中では構成に比較的破綻のない展開でありながら、ややスケールを小さくして終わってしまった、と。 この分析はおもしろかったですね。うーん、そうだったのか、と思わず膝を叩いてしまいます。よし、久しぶりに『三四郎』を読み直してみよう、と。 そう思わせるに充分でした。 そんなところに、さらに興味深い『三四郎』話を、この後、私は読んでしまうのですね。 以下、次回。/font>にほんブログ村
2009.07.09
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『秀吉と利休』野上弥生子(新潮文庫) 時代小説について、ここ2.3年、私は司馬遼太郎を中心に読んできました。 司馬氏については、高校時代に『龍馬が行く』で「ケツ割り」してしまいましたが、その後、何年も経ってからでありますが、若かりし日の自らの愚考を大いに反省し、斎戒沐浴、改めて司馬氏に挑ませていただきました。 『坂の上の雲』が確か、その最初だったと思います。 バルチック艦隊のギャグのような運行ぶりに、大声でぎゃははと笑いながら読んだのを覚えています(他の所は覚えてないんかい)。 その後『空海の風景』『人々の跫音』等を読み、大いに感心致しまして今日に至っております。 が、上述のように、昔、『龍馬が行く』全8巻をたしか2巻ぐらい読んだ所で「ケツ割り」したんですが、そのとき、高校生のナマイキだった少年Aは、自らが「ケツ割り」した原因について、 「文体が砂のように味気ない」と、文句をつけたような覚えがあります。 うーん、あの頃の私は、司馬遼太郎の文体について、大いに不満を感じていたんですね(多分こう言うのを「酸っぱいブドウ」って言うんじゃないでしょうかね)。 しかしそのうち私も年を取り角を取り、その一方で、感受性は失うわ頭の作りはますますアバウトになるわで、すっかり腑抜けになってしまいました。 そしていつしか、文体の芸術性なんてどこ吹く風になっておりました。 えー、ちょっと困った展開になりつつある予感がしているんですけどね。 司馬氏については、現在の私にとってもちろんすばらしい崇拝の対象なんですけどね。 ただ、最近司馬氏の歴史小説を結構読んできて、そして司馬文体が、「ノーマル」みたいに感じていたことについて、その一点だけについて、今回の読書で改めて感じたことがあると、それが言いたいわけですがー。 さてこの度、野上弥生子の上記本を読んで、うーーーん、思わず思い出してしまいました。(なにを? 高校時代の私を、であります。) これはなかなかに立派な文章であります。 まるでブルックナーの交響曲のように、きわめて重厚であります。長さもまたそれくらい長い。いえ、文庫本で430ページほどですから、司馬氏の諸作品に比べると全然短いのですが、そのぶん密度は濃いです。 あえて比べるならば『夜明け前』がこんな感じじゃなかったかと思います。 また登場人物が複雑怪奇ですわ。 司馬作品登場人物の如く、「明るさ」一本槍ではありません。しかしその分人物に陰翳が出るんですねー。これが作品の厚みなんですねー。 そしてそれに比例する如く、秀吉も利休も「悪人」なんですねー。「悪人」が少し言い過ぎならば、「イヤなヤツ」なんですねー。 でも人間なんて、深く掘り下げれば、普通は「僕ならつきあいは拒む」になるものでありましょう。それが「人間が描かれている」ということでもありましょうか。(これ、いいすぎ?) というわけで、とても読みづらくも、しかしこれは間違いなく「力作」であります。 野上弥生子、漱石の弟子筋ですが、いゃー、立派なものです。感心しました。 というところで、今回は、ここまで。/font>にほんブログ村
2009.07.08
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『土』長塚節(中公文庫) この本も、以前より何となく気になっていた本です。 いつか読んでみたいなと思っていた本です。 その理由は幾つかあります。 まずひとつ目。 漱石が推薦していたせいですね(漱石は「『土』に就て」という序文を、本書に書いています)。下記に触れていますが、一種の宣伝文とはいえ、かなり「真面目」に「真剣に」漱石は薦めています。漱石ファンの私としては、気になるところでありました。 二つ目の理由は、たまたま読んでいた小説に、この本が出ていました。 不治の病で入院している青年(高校生くらいでしたか)が、ベッドの中でこの本を読んでいるという設定で、小説の主人公(アルコール依存症)は大いに感心し、自らを反省するというお話です。確か、中島らもの小説です。 ついでに三つ目を挙げると、もうほとんどうろ覚えなんですが、確か丸谷才一がこの小説について触れていたのじゃなかったか、と。 新幹線でビールを飲みながら読み出したが、悲しい話でとても読んでいられず、ビールだけに専念した、と。違っているかしら。 というわけで、いかにも「誠実」そうな小説という先入観を勝手に抱いて、私は読み始めたのでありました。 ところがこのたび読みながら、結構長いもので(文庫本420ページ)ちょっと休憩を挿みまして、この小説の評価について、ぱらぱらと別の本なんかを読んでいました。 すると、臼井よしみが、漱石の『土』評は誤っていると書いてある文章に出会いました。 なるほど漱石は「序文」で、こんな薦め方をしているんですね。 娘が年頃になって、音楽会がどうだとか、舞踏会に行きたいとか言い出したらこの本を読ませたいと思っている。面白いから読ませるのではない、苦しいから読めと忠告するのだと。 うーん、確かにちょっと変ですね。 またこんな言い回しがあります。 「土」の中に出てくる人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に哀れな百姓の生活である。 確かにこれって、ちょっとひどいですよね。 実はこんな所に漱石のねじれがあるのであります。 漱石は、21世紀の今に至るも、日本人の「師」のごとき評価を受けております。 そしてそれに見合う実績も確かにあるのですが、やはり神様ではないわけで、プロレタリアートに対する認識については充分な深みを持っていません(ただし、漱石がもう少し長生きをしたならば、かなり深い認識を持った可能性はあります。絶筆『明暗』中の「小林」という人物の造型にその端緒が見えそうです)。 一方、この中公文庫の解説者山本健吉が、正岡子規が長塚節に送った手紙を紹介していますが、子規の節理解は、漱石よりも遙かに大地に根を張ったしっかりしたものとなっています。 この違いは、漱石と子規の、江戸生まれと田舎者の差でしょうね、おそらく。 というわけで、この小説は「暗い重い長い」の三重苦のような小説です。 朝日新聞連載中も読者に不評だったそうですが、たしかに漱石の言うとおり「苦しい」小説であります。 最後にもう一つ。 漱石も少し触れていますが、作品中に書かれている茨城県の方言が、僕にもあまり分かりませんでした。地の文が重くって、セリフが理解不能なんだから、とっても大変でありました。 でも、読後感は悪くないです。そんな本でした。/font>にほんブログ村
2009.07.07
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『多情仏心』里見とん(新潮文庫) (「とん」が、出ません。悲しいけれど、平仮名にします。) 以前からぼちぼちとそうしていたのですが、このブログを書き出したせいもあって、近代日本文学史中のマイナーっぽい作家の文庫本を漁っています。 自然主義や白樺派、日本浪漫派やプロレタリア文学、そんな辺りの地味ーーな作者の本を追っかけているわけです。(ただし文庫本に限る。) そうすると結構、あるんですね。 まず岩波文庫。以前にも少し触れましたが、あいかわらず、よーこれだけ「売れ筋」を外した品揃えをしているなと感心します。 次に、新潮文庫が数年前に新潮文庫の復刊シリーズを出しまして、それが古本屋市場に出ています。また、去年あたり流行った小林多喜二の影響でか、プロレタリア作家の文庫本が新刊で出ています。 さらに、相変わらず腰が抜けるほど高価な講談社文芸文庫は、タカビーな顔をして、新刊書店の棚にツンと澄ましています。 というわけで結構あるんですね。 おかげで、ネット、古本屋、新刊書店、はては近隣の大学生協書籍部でも(大学生協書籍部は、なんか、もうひとつ品揃えが良くないように思いました。大きな大学ですがねぇ。今の大学なんてこんなものなんでしょうかね。でもジュン○堂レベルの文学系文庫本は一応ありましたよ。)一冊買いまして、で、現在、この先半年間に読む量ぐらいの文庫本がそろってしまいました。 せいぜい頑張って読まねばと、うーん、ややプレッシャー。 さて、前掲本、これまた結構長い本なんですね。650ページほどもあります。 この作者、ご存じですか、読んだことありますか。僕は今回初めて読みました。 この作者は、白樺派「有島三兄弟」のひとりですね。 日本文学史的キーワードを幾つか挙げますと 「小説の小さん」「まごころ哲学」 となります。ご存じでしたか。 前者のキーワードは落語の「名人芸」のように、読ませるお話を作ると言うことでしょうか。後者は、いかにも白樺派らしい、「まごころ」があれば何をしてもいいのだというポリシーの元、早い話が、何人もの女性と恋をするという、まー、おきらく手前勝手な話です。 そんなわけで、本作についても、基本的な「コンセプト」は金持ちのお坊ちゃんの気楽な話です。ただ、そんな話を650ページも続けるに当たっては、これはなかなか感心するくらい、次から次へどんどんいろんなストーリーやエピソードを、これでもかこれでもかと惜しげもなく畳みかけるように作品に込めています。 これは感心しました。 そういう意味でいいますと、きわめて「贅沢な」つくりの小説と言い切っていいと思います。 いやー、あほらしい話ですが、なかなか侮れない話でした。 お気楽な現代の光源氏か世之介の話、650ページ、どうですか、読んでみませんか? じゃ、そゆことで。/font>にほんブログ村
2009.07.06
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さて、前回より取り上げていた作品はこれです。 『あらくれ』徳田秋声(新潮文庫) え、話題としましては、「筑摩書房『現代日本文学大系』全97巻」を取り上げていました。 狭い我が家が、いやが上に狭くなっている一因の文学全集です。 でもねー、背表紙を見ているだけでも、私としましては、結構面白いんですがねー。 ともあれ、今回に至る詳細は、前回の報告をご覧ください。すみません。 さて、徳田秋声と正宗白鳥との違いですが、多くのお方は、 「そんなもん一緒やないかー。そもそもそんな人知らんわーい。」とお思いかも知れません。そのお考えはほとんど正しいのですが、実は少し違っています。 秋声は、岩波文庫に4冊も入っているんです。 いくら「売れ筋」を見事に外すのを趣味としているような岩波文庫でも、4冊も入っている作家は、やや珍しい方です(ただし、そのうちの何冊が、今でも絶版になっていないかどうかは、少し不安です)。 それに秋声は、新潮文庫にも一冊入っています。今回僕が読んだ文庫本です。きれいな「足袋」の絵の表紙です。 そんな徳田秋声の『あらくれ』です。 文学史的な評価はとても高い本です。「無思想・無解決」の自然主義小説の一つの到達点、とまで評価されています。 ところが、さー、今回読んでいて、これが、おもしろくない本なんですねー。文庫本でわずか250ページほどしかないのに、やたらと進まない。なかなか終わりませんでした。 なんでかなー、と読みながら考えてたんですね。 一読、これは「エミール・ゾラ」だなと。ゾラについては、そんなに読んだことはないんですが、それでもフランスの自然主義の「本家本元」でありましょう。 もしもそんな印象を感じさせるが故の、「自然主義小説の到達点」というのなら、それはそれで正しいのだとは思います。ただ、ゾラというには、書き込みが浅いんじゃないか、とも思いました。 この話は、主人公の「お島」という女性が転々と男性遍歴をしながら生きていくという話ですが、一言で言って、「転々と」しすぎと思いましたね。もう少し、一つ一つの話について、せめてもうちょっと「面白く」感じるほどに書き込んで欲しいと思いました。 ただ、その時々の描写はとてもくっきりと正確で、好ましい感じのものです。間違いなく現代日本語の先駆者の一人の筆だと思います。 結局、ヨーロッパ大陸の白人とは、「体力」の違いでしょうかね。 つまり、まとめますと、この小説は私にとって、「もっと長くても良いのにと感じるほどに短いし、もっと短い方が良いのにと思うほどに長すぎる」という、なんとも、困った感じの感想になってしまいました。 うーん、なんか、しんどかったですねー。 実は家に後、3冊、秋声の岩波文庫があります。うーん、困ったものです。 というわけで今回はこんな所で。/font>にほんブログ村
2009.07.05
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『あらくれ』徳田秋声(新潮文庫) 少し前に、この作家の短編集を一つ読みました。その時の一作『新世帯』はなかなか面白かったという印象が残っているんですが…。 話は少し横に逸れます。 今、私の部屋に、筑摩書房『現代日本文学大系』全97巻という「無用の長物」があります。えー、月報によりますと、昭和43年8月第一回配本「芥川龍之介集」から始まって最終配本は、昭和48年9月となっています。 繰り返しますが、97冊です。 全く、狭い部屋をますます狭くさせる「無用の長物」であります。 しかし真面目な話、この全集は近代日本文学史の評価として、間違いなくこの時期の「オーソリティ」でありました。 そして実は、この全集での作家の取り上げられ方が、私がブログに報告する小説を選ぶ時の一つの基準になっています。 じーっとこの全集の背表紙を見ていると、なかなか興味深いことに気づきますよ。 全97冊中、2冊にわたって取り上げられている作家が5人います。誰だか見当がつきますか。 この全集が、明治以降の日本の作家の中で、最も高く評価した作家です。それは、 森鴎外・島崎藤村・夏目漱石・永井荷風・谷崎潤一郎 の5人です。このメンバーは、毎年オールスター戦に出場する押しも押されもしない各チームの4番かエースでありますね。僕も見ていて、まー、順当かなと思います。 次に、1冊まるまるあてがわれている作家が、12人います。上述の芥川なんかがそうですね。このメンバー、何人くらい見当がつきますかね。ちょっと面白いでしょ。 こういった面々です。 幸田露伴・徳田秋声・正宗白鳥・柳田国男・武者小路実篤・志賀直哉・ 有島武郎・斎藤茂吉・佐藤春夫・芥川龍之介・川端康成・小林秀雄 どうですか。どんな印象を持たれますか。 柳田国男の入っているあたりが、編者の一つの「見識」でしょうかね。小説だけに偏せず広く「文学」を見渡すという。斉藤茂吉もそれに近いですかね。 しかし後のメンバーを見渡した時(評論の小林秀雄は、評論とはいえ、他の小説家に全く見劣りはしていませんね)、失礼ながら、ちょっと「違和感」を感じる方が、お二人、いらっしゃると、まー、思いませんかぁ。 柳田・斉藤・小林をとりあえず小説外ということで外した後、「違和感」が残るのはなんといっても、秋声・白鳥でしょう。だって、このお二人は、すぐに代表作も浮かばないですよねー。 他の作家はどうでしょうね。 露伴-『五重塔』、武者-『友情』、志賀-『暗夜行路』、有島-『或る女』、佐藤-『田園の憂鬱』、芥川-『羅生門』、川端-『雪国』、と、まぁ、適当に挙げてみましたが、こんなものでしょうか。 それに比べると、秋声・白鳥両氏は「弱い」。特に白鳥。この人って、現在も読まれているとはちと思えません。 (でも今回のテーマはこの人ではないので、この件については後日、大いに考えてみたいと思います。なぜ、正宗白鳥の評価は変わってしまったのか、を。) という佳境に入った(どこが?)ところで、以下、次回。/font>にほんブログ村
2009.07.04
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『流れる』幸田文(新潮文庫) 『おとうと』幸田文(新潮文庫) 文豪、巨匠など、小説家の娘っちゅうのはなんとなく私、気になるんですがね。 これが息子になると、そんなに気にもならないんですが。池澤夏樹氏くらいですかね、親父も小説家で僕がわりと読んでいる人は。 一方、親父-娘ラインの人は、結構興味があります。 先日ちょっと読んでいたんですが、斉藤由香の天然ボケのほほんエッセイですが、北杜夫-斉藤由香なんかも、一応そのラインですかね。 森茉莉なんて人も、非常に個性的な強烈な人ですね。 津島祐子はなんか怖そうでよー読んでません。 萩原葉子も怖そうですね。 というわけで、幸田文ですが、私の中では森茉莉あたりと同偏差値の人ですね(なんの偏差値じゃい、と言われると私もよくわかりませんがー)。 読み始めてまず最初に感じたのは、とにかく「抜群」という感じの文体力ですね。歯切れの良さに圧倒されるような、実に惚れ惚れとした文章の力であります。 ただねー、本ブログ「近代日本文学史メジャーのマイナー」という「わけわかんない」テーマの元に、今まで手に取ったこともなかった作家のいろんな小説を、それなりに順調に読み続けてきて、私、少々気になっていることがあります。 それは、一言で言うと、 小説の「終わり方」についてです。 なんか、何を読んでもしっくり終わっている感じがしないんですね。 なんでかなーと現在も考え続けているんですが、一つだけまとまってきつつある思いとしては、「困ったときのこの人頼み」、やはり、漱石の「佇まい」ですね。 僕がとっても上手だなーと思う終わり方をしている小説ってなにかなとつらつら考えると、うーん、『三四郎』かな、と。 これは誠に見事にきちんと終わっていたな、と。 そう思うと、『それから』『道草』などは言うまでもなく、終盤における「漱石的破綻」といわれる『行人』『こころ』でさえも、いかにも終わりらしい終わりであったなと思い至ったわけです。 なるほど。 漱石の諸作品は、他の小説家の作品とどうしてこんなに違うんでしょうね。 一つ思うのは、漱石という人は、我々が漠然と考える以上に「サービス精神」に富んだ人であることですね。読者のためにしっかり終えてくれているんでしょうね。 というふうに、「小説の終わり方」に着目して振り返ってみますと、今回の幸田文の二小説も、終わりが「キョトン」としてしまいます。「尻切れ」感じの終わり方です。 この終わり方、そういえば、こんな感じの終え方の小説、昔読みましたよ。 永井荷風の小説が、確かこんな感じじゃなかったかなと思います。(アバウトやなー) そんなこと、読み終えて、考えていました。 ただ、この歯切れ良い文章を味わうだけで、充分価値のある小説です。それは私のこのつまらない感想などとは全く無関係に、圧倒的に贅沢の極みであります。 えー、今回はここまで。/font>にほんブログ村
2009.07.03
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『人生の親戚』大江健三郎(新潮文庫) 本ブログの読書テーマは、タイトル通りの『近代文学史メジャーのマイナー』という、本人にも分かったような分からないようなものですが、実はもう一つ「隠れテーマ」があります。 それは、「今までに一度は読もうと思っていたが、読み切れていないもの」というのであります。 うーん、実に情けないテーマだ。 もっと具体的に言うと、よーするに「買ったのに読んでない本」ということですね。 やはり情けない。(ただそれだけでもないんでしてー、いずれ追々と。) で、先日、そんな本を本棚から順次抜き出していったんですね。 ところが、案外にこの手の本が少ない。 おかしーなー、もっと、買っただけで読んでもいない本があったはずなのになーと思ったんですが、しかし、どうもそんなにはない。 うーん、私は、買った本はほぼ読んだのであろうかと。それでも例えばあんな本やこんな本があったはずだとさらに思い出していきました。 例えば司馬遼太郎『龍馬が行く』全8冊。確か、半分でケツ割ったはず。 例えば大西巨人『神聖喜劇』全4冊。これは確か半分行かなかったと思う。 と、こんな本がないのは、そーか、結局こんな本は、いつまでも読まないのに目につくところにあるのがいかにも目障りで、きっとこっそり棄ててしまったのであるなと。 まー、学生時代から現在に至るまで何回か引っ越しもあったことですしー。 というわけで、今回取り上げた本は、本来棄てられてもおかしくなかったのに、棄てられそこなって読んでもらった(やっと読みやがったか)本です。 さて私にとって、大江健三郎氏の本格的な小説(随筆・子供向き本以外です)の読書は、久しぶりであります。 いつ以来でしょうか。かつては新作の度に勇んで買っていたのに、すっかりご無沙汰になっていました。なぜでしょうか。 かつて私が受験生であった頃、そのおもしろさに中断することができずとうとう夜明けまでかかって一気に読んだ記憶のある『万延元年のフットボール』を、少し前に、何を間違ったか再読してみようと手に取ったのですが、10ページほど読んだらどうにも先に進むことができず、そのまま「ケツ割り」してしまいました。 で、今回読んでみましたが、なるほど、生きている小説家は大変なものですなー、と。 谷崎潤一郎が傑作『春琴抄』を書く前に、文体についてあれこれ迷って、最後もっとも肩肘張らない形を採用したらああなったということを書いていたのを思い出しました。 大江氏といえばまさに独特の文体で、大江氏がデビューしたての頃に、谷崎がその文体について自分は付いていけないと言ったことをどこかで読みましたが、確かにそんな、日本語離れのした一種特殊な文体でした。 が本作は、ふっと肩の力が抜けているような気がするんですね。 これはどのあたりの作品からそうなのか、残念ながら僕にはよくわかりません。 しかし若い頃の作者の「無骨な」文体であった頃から、同時にとてもしっとりとした「ポエジー」のようなものも間違いなくその文章には漂っていて、それは本作からも感じられました。 僕なんかにとっては、それはとても懐かしい感じのするものでした。 次に内容的なものをいいますと、それがさらに、「なるほど、生きている小説家は大変なものですなー。」なんですね。 しかしこれは否定的評価なんじゃなくて、例えば職人が何かを作っている。とても巧みに作っている。それをじっと見ていて、 「なるほどあんな風にして作るのか。すごいものだなー。なーるほど。うーん。大変だなー。」という、感想なんですね。 やはり若い頃親しんだものというのは、幾つになっても、それなりの親近感を覚えるものですね。 今回はそゆことで。では。/font>にほんブログ村
2009.07.02
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『季節の記憶』保坂和志(中公文庫) えー、一応の所、この作家の話題は前回で終わりにしようと思っていたのですが、実はまだ読まぬ同作家の本が家に2冊ありましてー。 しかしまったく、ブック○フという存在はありがたいような、そうでないような、いえ、確かに、ありがたくはあるんです。ありがたくはあるんですがー、まるでダイエット中に、 「お饅頭買って来たで、お茶にしょーか」という老母のごとく、でも結局、お饅頭はおいしく頂きますんですがねー。 しかし私自身、この作家の話題を取り上げた第一回目に 「結局もう少し別の作品も読んでみなければよく分からないなと感じます。」とありますので、それに従ったと言えば従ったわけですね。 さて、保坂氏の本は3冊目です。 初めて保坂氏の小説を読んだときの一種不思議な違和感、その後の顛末についてはすでに述べました。 実際、こんな小説ありかと、かなり考えましたね。今でも少し考えます。 今回読んでいて、そう言えば、何か似た感じの小説を読んだことがあるぞと、ふっと思いました。 何だったかなーと、じーと思いだしていたら、思い出しました。 「せやせや尾辻克彦の小説がこんなんや」 尾辻氏の小説がちょうどこんなんです。 一般的には「ミニマリズム」と言われる小説です。 尾辻氏のを読んだときも、こんな何のストーリーもない小説でいいのかと考えましたが、保坂氏の小説は尾辻小説以上にストーリーがありません。本当に、ほとんど何にもありません。その代わり、長いです。 何が「その代わり」になるのかとお思いでしょうが、まさしく「その代わり」なんだなと言うことに、今回読みながら思い至りました。 この小説は、登場人物と知り合う小説であります。 知り合うとは、現実の人間関係のように知り合うわけです。 例えば、自宅のマンションの隣の部屋に新しい家族が引っ越してきた、というシュチエーションと全く同じであります。 最初お引っ越しの挨拶があって、朝晩の出会ったときの挨拶だけがあって、何かの拍子に少し長い話をする機会があったりして、そして少しずつその人のことを知っていく。そのうちにマンション内のイベントなんかがあって、もう少し深い話を交換したりする。イベントの終わりの打ち上げ会で飲みながら、ちょっと討論なんかしたりする、等々。 こんな風にして、お隣さんとつき合っていくのとほとんど同じ時間の流れる小説が、この小説です。現実にそんなにドラマティックなストーリーがないように、この小説にもほとんどストーリーはなく、その代わり、日々の蓄積は「量」として描かれる。 そんな小説でした。 そんな小説、一体何が面白いのだとお思いになるかも知れませんが、それは読み始めれば分かりますが、つい読み続けてしまいます。 そんなことを考えつつ、この度3冊目を読むと、その通りの展開になるので、なんか、安心感なども生まれてきて、心地よいたゆたいに浸ってしまいます。 そんな本でした。 さて、上記のように、保坂氏の小説が、もう一冊買って置いてあります。 ハンモックに眠るような感じでまた読んでみようと、つい、やめられないとまらないカッパ○ビセンのような小説でありました。 今回はこんなところです。では。/font>にほんブログ村俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末
2009.07.01
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