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『日の砦』黒井千次(講談社文庫) まず、タイトルが、純文学っぽいではありませんか。 『日の砦』ですよ。何の意味なんでしょうね。雰囲気はいかにもありますが、具体的には何を表しているのかよくわかりません。 加えて、筆者が、いわゆる「内向の世代」と文学史的には派閥分けされる黒井千次であります。「内向」していく「世代」なんですね。 この筆者の作品は、私はそんなにたくさん読んだわけではありませんが、『群棲』という連作形式の短編集に、かつてかなり感心した覚えがありす。 今回の本も、この文庫本の裏表紙の作品紹介(作品宣伝)の文章を読むと、こんな風に紹介してあります。 家族の穏やかな日常にしのびよる、言いしれぬ不安の影を精緻に描き出した連作短編集 なかなか煽った文章ですね。 その上、冒頭に触れたようにわけわからぬながらいかにも純文学っぽい『日の砦』タイトルですから、これはもー、きっと『群棲』の感動再びの小説ではないか、と。 まー、そんな風に思って私は読み始めたのでありました。 全話をほぼ20頁ほどに統一した10篇の話による連作短編集です。 私は、一つ目の「祝いの夜」を読みました。 おもしろかったですねー。とても良かったです。 一つの物語空間が始まろうとしている描写が、ゆっくりしっとりと展開され、そしてそこに予想通り(作品宣伝文の紹介通り)、「しのびよる」「不安の影」らしいものの存在が、終盤ふっと現れてさっと消えていきました。そこには、いかにもという雰囲気がありました。 そして私は、二作目、三作目と読んでいきました。 悪くはなかったです。でも読み進めていくと、まー、当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、やはり『群棲』のずっしりと重い存在論的な不安感とは違った感覚でありました。 10篇のうち、前半は、素材が少し薄味に過ぎるせいかなと、私は思いました。 作品のまとまった余韻というには、やはり描かれていることが微細すぎて、受ける思いが弱く、固まってこないように感じました。 ところが、そんな感覚の話が、六つ目あたりから少し変わってくるんですね。 どこが変わってくるかといえば、それは、還暦を過ぎ定年退職をした主人公の男性が、実際にいろいろ動き出すことからであります。 それは例えば、町で見ず知らずの男の後をつけてあれこれ世話をしようとしたり、カラスと戦闘状態に入ったり、とにかく、知人でもない人物とやたらに話をする(話しかけたり話しかけられたりする)、そんな展開になっていきます。 そのように変わっていくと、話のトーンもやはり大きく変わっていきます。 私は、主人公の変貌に、思わずこれではおせっかいな男の滑稽話じゃないかと独り言ちてしまいました。 私はそう思って、第一話「祝いの夜」の主人公の姿はどこへ行ったのだろうと、もう一度パラパラと第一話を読み直してみると、あ、と気が付きました。 第一話は、夜に家族でタクシーに乗り、その運転手と少し不気味なやり取りをするという話ですが、その運転手の不気味なセリフを引き出したのはことごとく、の還暦すぎの主人公の、あらずもがなの一言ではありませんか。……。 ……んー、とわたくし少し考えたんですね。 で、勘違いしていたことに気が付きました。 私は、『日の砦』という(純文学的)タイトル、内向の作家という筆者の位置づけ、そして、この文庫本の裏表紙の作品紹介宣伝文に勘違いしていたのであります。 おそらく、本短編集で筆者が狙ったのは、同じ「不安」ではあっても、人間存在そのものに繋がってくるような不安ではなくて、むしろ世俗的な日常生活に次々起こる些細な「トラブル」を、煩わしく思い戸惑う姿を描いたのではなかったか、と。 例えば、存在論的不安や恐怖を描いて、日本文学における第一人者は、多分内田百閒だろうと思います。また、家族間の日常にしのびよるやはり不安を描いて名作であるのは川端康成の『山の音』(これも連作短編!)だと思います。 この度の本作は、(作品完成度比較は少し置くとして、)これらの作品とはまた少し異なった新しい時代の日々の「不安の影」なのかもしれません。 だとすると、本文庫裏表紙の作品紹介文章は、さほど不正解なことを読者に期待させているわけでもなさそうであります。 (ただし、家族を描きながら、家族間の心情の食い違いについて、ほとんど触れられていないのは、やはり「不安」の中心に踏み込めていないのではないかという気は、わたくし少しするのでありましたが。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.11.17
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『ワーカーズ・ダイジェスト』津村記久子(集英社文庫) 「ワーカーズ・ダイジェスト」って、どんな意味なんでしょう? そう思って、少しネットで調べると「ワーカーズ」はともかく、「ダイジェスト」について、「要約」「摘要」「梗概」などの日本語が出てきます。 大概外国語のセンスのない私ですが、それなら、「勤労者というもの」「典型労働者」……うーん、本当に翻訳のセンスがないですねぇ。 とか思いながら読み始めたのですが、読みながら次に思ったのは、そもそもこのお話はいったいどんな読者層が読むお話なんだろう、という事でした。 まー、そんなことを思うという事は、おのれはちょっと中心読者層から外れてるんじゃないかと感じているってことですかね。 まー、そうかもしれません。 20代後半から30代くらいの都会で勤める女性、あたりが主な読者層ですかね。 (ついでの話ですが、30代位の女性というのが現在一番小説本などを購入するのだと何かで読んだような気がします。) なぜそんなことが言えるのか。 主人公がそうである(半分は同年代の男性主人公の話ですが)というのを前提にしつつ、(1)食べ物の話が多い、(2)大きな事件は起こらない、そして(3)エンディングの緩い肯定感、あたりでどうでしょう。 最後の、緩い肯定感というのは何なのか、例えば本文ではこんな感じで書かれています。 来年は、彼らも私も、もう少しだけましになるだろうと、奈加子は形式的に思いながら、二つの鍋の火を止める。あとは少しずつ回復できればいいと思う。それまでのレベルに達することができなくても、それを受け入れられるようにはなるだろう。そしてその時その時のベストを尽くせるように、後悔のないように、心持ちを整えられるようになるだろう。 そして、半ページくらい後にこんな一文があります。 音楽が鳴り始める。何の根拠もないけれど、自分は自由だと感じた。 いかがでしょう。 この個所を読んだ、想像最大多数年代層読者はきっと、圧倒的な共感と健全な小さな明日への希望を胸に抱く、と。 ……えー、ちょっとなんか変な展開になってきたので、少し別の方面のことを書いてみます。 特に前半あたりを読みながらわたくし、そうだったんだと気づいたことがありました。 これは、上記の、中心読者層の圧倒的共感とも関係することなんでしょうが、この筆者の文体は、「村上春樹的読者殺しキメ文体」(今思いついて作った造語です。すみません)ではないか、と。 特に初期の村上春樹は、マニアをとろけさせるようなエピグラム的文体、それは対象を説明する時の斬新な切り口と、それを文字化する時の圧倒的な比喩力が、本当に作品の随所に散らばっていました。 ひとつ、デビュー作『風の歌を聴け』から抜いてみますね。 かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。 高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることができない人間になっていることを発見した。 それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。 次に、本書から引用してみます。 せっちゃんは十か月ほど前に、三年付き合った人と別れた。いい人だったけれども、賭け事が本当に好きで気前が良すぎる人だったからだそうだ。三年間、彼の預金残高が五千円を越すことはなかったのだという。せっちゃんはお金を貸しそうになってしまい、でもそれは駄目だと思って別れたのだそうだ。その前の彼氏は、働かない人だった。 いかがですか。 とてもよく似ていますね。どちらも、「キメ台詞」「殺し文句」という感じで、私はとっても好きです。この津村節も、きっと30代都市勤労女性の好むところだと思うんですがね。 で、さて、そんな文体で、筆者は何を描こうとしたのか。 例えば村上春樹『風の歌を聴け』なら、ざっくり人間存在の根源的孤独なのかもしれません。 津村記久子なら、何でしょう。あえて言えば、労働現場の人間不在、でしょうか。 ただ本書は、上記で私があれこれ思ったように、対象読者層をかなり絞った感じがあるせいで、かなり限定的な環境の人物の生きづらさといったものが、より前面に出ている気がします。 もちろんそれは、全く悪いことではありません。 それこそは、現在最もたくさん小説本を購入する読者層の、おそらくは最も好まれるテーマであるのでしょうから。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2024.11.03
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