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『共に明るい』井戸川射子(講談社) 前回の続きです。 前回で私は、本短編集は、いかにも芥川賞受賞後第一作に相応しい、新しい作家の文体上の実験がたくさんなされていると書き、そのうちの「外堀」の実験を一つだけ考察してみました。 実はわたくし、少し前に、筆者・井戸川射子さんの講演会に行ったことがあるんですね。いろいろと興味深いお話をなさってましたが、編集者とのこんなエピソードを語ってくれました。 作品が活字になり始めたころ、校正の時編集者からいわゆる独特な表記について何度か確認をされたが、この表記でいいとそのまま出すと、そのうち確認はなくなった、と。 当たり前ではありますが、かなり確信的に独自の表現ならびに表記を用いていることがわかりますね。 前回は、そんな一つとして「不思議な読点」について取り上げてみました。 今回は、二つの短編小説の表現について報告したいと思います。 一つ目は、この作品がまさに芥川賞受賞後第一作なんじゃないかと思いますが、単行本の総タイトルにもなっている「共に明るい」についてであります。 そもそも筆者は、かなり人称にこだわりがある(少なくともこれらの一連の作品を書いていたころは)と思われますが、本作についてもそれは際立っています。 作品冒頭の一文はこうなっています。 冷え、結露する、ドリンクホルダーに入れられた誰かの、ペットボトルの水が揺れる。 で、以下、続いていくのですが、とりあえず地の文は三人称であります。三人称とはいえ、作中人物の誰か(多くは主人公)の視点や心情にほぼ寄り添って描いていくという手法で、これは多くの小説の設定にも見られます。 驚く、というか、少し笑ってしまうのは、この小説が寄り添っているのは、まさに「誰か」だとしばらく読んでるうちに気が付くことです。 「誰か」に寄り添っているその「誰か」というのは、一人称の「私」とか、三人称の「彼」や名前などと同じように、本来それらの人称や固有名詞が入るべきところに「誰か」が入っているということであります。 それは、上記の引用文でいえば、「誰か」は「whose」ではなくて、仮に「誰か」を「my(私)」に入れ替えて読んでも物語的にはほぼ問題がないということであります。 だから、驚いて少し笑って、いたずらみたいだと思ってもよかったと思います。 ただ、文中3か所、それだとどうもしっくりしない部分がありました。 わたくしわりとへんにこだわるタイプなんですね。 だから、この単行本で12ページの短編小説の中に、何か所「誰か」が出てくるか、そしてそれらはどんな働き並びに意味であるかをみんなチェックしてみたんですね。 するとまず、15か所「誰か」が書かれていました。 その内、1つだけ(あるいはどちらか決めづらいのがもう1つ)が、本来の不定称(who)の働きとしての「誰か」でした。しかし残りは、仮に「私」(或いは例えば「井戸川」とか「山田」とかの苗字と同じ働きの「誰か」さん)と入れ替えることが可能な、むしろ読者は心中でそのように入れ替えたほうが読みやすい「誰か」でした。 ただ、3か所だけそう読むといかにも変な表現になる所がありました。 その3つの文には、助詞が付いてないのであります。つまり、 「誰か思った」「誰か思った」「誰か思う」 これら以外の「誰か」には助詞が付いています。そして、普通わたしたちが書く文章においてはそうです。 「誰かが思った」「誰かの目の前の」「誰かは思う」…… 上の助詞の付いてない3つの「誰か」は(あるいは「誰」だけでも)、「私」などには置き換えられません。 ……これは何なのでしょうねえ。 もちろん、一つの答えは思いつきます。「誰か」を別の語に置き換えるからよくないのだ、と。「誰か」は「誰か」以外の何物でもないのだ、と。 しかし、だとするとそこには従来の日本語文法には則っていない、我々の知らない意味働きの「誰か」が生まれませんかね。 やはり、前回の報告で書きましたように(前回のは、読点について、筆者が独自のルールで用いているものがあるのじゃないかというのでした)、この度も「誰か」に、一般的な「誰か」以外の言葉の意味や働きを付加した表現なのでしょうか。 これらの表現も、必ずや筆者の中では、確信的な表現上の区別があるのでしょうが、ちょっといたずらめいた実験で、でもそれだけ刺激的な実験のような気もします……。 さて、上記に二つの短編小説を報告したいと書きました。もう一つ考えていたのは「野鳥園」という短編です。 この作品にも、かなり独創的な実験がなされていると私は思いました。 それは、この時期筆者がたぶんあれこれこだわっていたのであろう、作品の人称についての、これまたなかなか刺激的な取り組みであります。 どんくさい私はこの話を、一度目よくわからない小説だなと思いながら読み、二度目途中ではっと感じてびっくりして、そして三度目、うーん、と唸りながら読みました。 少しだけ報告しますと、上記にも触れた、「三人称とはいえ、作中人物の誰か(多くは主人公)の視点や心情にほぼ寄り添って描いていくという手法で」という部分について、いわば新機軸を試した表現だと思いました。 もう少し具体的に書きますと、地の文で心情などを描いている人物が、主語をほぼ表さずに、次から次へと変わっていってるんですね。これは、読んでいて始めびっくりします。何なんだと思いますよ。 (今、はっと気が付いたのですが、上記に新機軸と書きましたが、これって、平安古典の文章じゃないですか!) そんな短編小説です。 センスのいい人なら、一度読んだだけでその工夫にすぐ気づくのかもしれませんが、なまじっかどんくさい私だからこそ、3回読んで初めて気持ちよく読めたという経験も、なかなかエキサイティングでありましたよ。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.02.22
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『共に明るい』井戸川射子(講談社) 本書は短編集で、5つのお話が収録されています。 筆者は、2022年に芥川賞を受賞されており、それを挟んで、21年発表の作品が1つ、23年発表の作品が4つとなっています。 いわゆる、受賞後第一作を中心として作った短編集となっています。 そんな、新人らしいといえば新人らしい短編集です。 どんなところが新人らしいかといえば、それはいろんな文体上の実験をしている感じのところであります。 実は私は、この筆者の小説は、芥川賞受賞作は読んでいません。ただ、その前の野間文芸新人賞を受賞なさった小説は2回読みました。 そして、いかにも純文学作家らしい、文体にかなりこだわった作家だなと感じました。 そんな文体について、まず一番「外堀」っぽいところから報告してみますね。 それは、本短編集全体に広く点在している筆者独自の表記方法についてです。 また、上記にも触れた、野間文芸新人賞作にもそれがあったのではないかと、ちらりと思い出しましたが、本短編集においては、読んでいて、特に始めはかなり気になるというか、つい、引っかかってしまうように感じました。 ちょっと、引用してみますね。 踊る大きな木の躍動、遠くで上ずる子どもの声、どれも吹くものに作用され混ぜられる。風の音が最も大きく、耳が恐ろしく受け止める。湿る公園は土のにおい溢れ、こういうのを嗅ぐととうとう売ってしまった、先祖代々の畑を思い出す、でもどうしようもなかったと国語教師は思う。 いかがですか。この短い引用部だけでもかなり個性的な文体だなと感じますね。 後で触れますが、かなり強く主語や人称にこだわった一文の成り立たせ方を感じます。 でもこの引用部から私が一番に「外堀」っぽく指摘したいのは、読点の打ち方の際立った独創性です。 「こういうのを嗅ぐととうとう売ってしまった、先祖代々の畑を思い出す、でもどうしようもなかったと国語教師は思う。」の部分ですね。 ここには二つの読点が打たれています。 しかし、よく読むまでもなく普通の文章なら、一つ目の読点は打たず、二つ目の読点は読点ではなく句点だろう、と。 特に私が今回引っかかったのは、二つ目の読点の用法であります。(一つ目の句読点の用法は、ルール違反とまでは言えないと私も思います。)本短編集のすべての作品に、ここは読点じゃなく句点だろうという文が書かれています。 ではさて、それをどう考えるか、まさか、そんなことに気が付かずに筆者が用いているとはとても思えません。 別の個所を引用してみます。これは、主人公が職場にいる時、地震がおこるという場面です。 「揺れてるよね」と野中さんに言われ、初めて揺れていることに気づいたような、神経質ではないような素振りで、彼は辺りを見回す動作をする。本当はさっきの、とても小さな揺れの音から気づいていた、彼は地震に、細心の注意をいつも払っているから。今でも寝る前には一度、体の揺れを想像してから目を閉じるから。突然に驚かされぬよう、ベッドが揺れてたわむような感触を、来るであろう縦揺れか横揺れか、感覚だけでは分からないのを、背中で想像してから眠るから。部屋で一番責任ある主任が、「机の下潜るで」と指示を出す。遠慮する動作になる彼が、隙間を縫い最後に入っていくと机の下はパンパンになる。救急車の音が聞こえる、彼は救急車に乗ったことがない。その車内にいれば、サイレンは上から聞こえるのだろうかと彼は考えてみる。外からの複雑な機械の音は止まらない。袖口が手首に当たる、動きにより作業着の布はもう手首に馴染んできている、それで頭の横を庇ってみる。 少し長めの引用になりましたが、ここにも「本来句点じゃないか読点」は散らばってありますね。(「袖口が手首に当たる、動きにより作業着の布はもう手首に馴染んできている」の読点は「いらない読点」とも読めそうですね。) でもそんな不思議な読点ばかりじゃなく、いわゆる行替え、形式段落もきわめて少ない文章ですよね。読みやすい文章を目指すなら、二つくらいは段落わけがあってもいいような内容です。 それから、現在形の多用も気になるといえば気になります。この現在形の多用も後で触れますが、筆者の個性的な文章の大きな特徴であると思います。 という、かなりこだわりの感じられる筆者の文体ですが、ただ、不思議な読点については、こうして数を読んでいけば、なんとなく筆者独自ルールみたいなものが感じられてきます。 あ、こんなルールで不思議な読点は打たれているんじゃないかと、我々読者にも、何となく思わせてくれるんですね。 だから、まー、私はこの不思議な読点を「外堀」と書いたわけでありまして、この先には、形式だけではない「内堀」の問題と考えられる表記がある、と、そんな思いであります。 ただ、だからと言って、この不思議な読点使用は、文章を読む者としてそんなに簡単に納得していいものであるとは思っていません。 要は、トータルな日本語表現に、文章作者が自分だけの勝手なルールを付け加えていいのかということであります。 私が思うに、この不思議な読点は、従来の読点よりは「拍」が長く、句点よりは「拍」が短い空白を示しているのではないかという解釈です。 もちろんそんなルールは、従来の日本語体系にはありません ……で、わたくし、あれこれ考えたんですね。 今までにない日本語表記ルールを新たに考え出した小説家はかつていないのか、と。いないなら、そんなことを勝手にしていいのか、と。 で、私なりの結論ですが、たぶん、いいのだろう、と。 あれこれ考えましたが、ざっくり一点極端例を挙げますと、明治初期の言文一致運動、つまり、近代小説の起こりが、すでにそうではなかったか、と。 ……と、まあ、最後はすこし大きな話、というか焦点のぼやけてしまった話になりましたが、実は、私が本短編集で、興味深く思った筆者の文体実験については、まだ全部触れていません。 すみません。次回に、あと二つ、そんなことを考えてみたいと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.02.08
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