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『蛇にピアス』金原ひとみ(集英社文庫) 先日、住んでいる地域の公民館のようなところで映画会をしていたので見てきました。 上映していたのは、『狂った果実』という日本映画で1956年の作品です。 石原慎太郎の小説が原作で、実質上の石原裕次郎のデビュー映画だそうです。 これは私に映画の鑑賞能力がないというか理解力がないというか、少しおおざっぱな言い方をしますと、昔の映画(「昔」とは厳密に、いつからいつまでかということがいえないんですが)を見ていると、セリフ回しが全く平板で早口で、まるで読んでいるようじゃないかと思うことが多い(評価のきわめて高い小津安二郎監督の映画の中にも)と、感じてしまうんですね。 しかしまぁ、そんなところに引っ掛かりながら、昭和31年頃の「太陽族」と呼ばれた青年たちの恋愛映画を鑑賞していました。 主に金満家の家の息子や娘たち(後はいかにも戦後すぐらしい進駐軍=アメリカ人がらみの男)が、日々の退屈に任せてほぼ自由に自堕落に恋愛、あるいは情交をするという話です。しかし、中心となっている恋愛を追っていくと、それはきわめて純愛になっているというのが、やはり観客に対しての落としどころなのでしょうか、恋愛風俗はその時代としては不道徳でセンセーショナルであっても、好きという感情は古典的で、切なく愛くるしいという展開でありました。 そんな映画を見て私は、ストレートな連想として、先日詠み終えた本書と同じだなと思いました。 違っているのは、体に入れ墨を入れるとか、顔面を中心に何か所もピアスの穴をあけるとか、舌先を二つに割ってしまうとかだけで、実際、私は読んでいて、かなり終盤近くまで、本書の青春恋愛小説的展開に、少し恥ずかしいような感覚を持っていました。 ただ、では全く従来の純愛小説と同じなのかというと、やはりそうではないだろうという気はしています。 もう一度『狂った果実』の話題に戻ってみます。 映画の中に、主人公の青年(若き石原裕次郎ですね)と彼女(のちに裕次郎と結婚をする北原三枝ですね)が夜、車で海岸に行くんですね。そしてそこでラブシーンとなるのですが、その場面が、まずキスをして岩場で二人が重なっていきます。しばらくシルエットのようなその場面が続いた後、彼女のスカートをゆっくりせり上げていく手が映って、そして溶暗となります。 もちろん今見ればそれだけの場面なんですが、劇場公開時は、表現できる限界ぎりぎりのところ、観客にとっても唾を飲み込むようなシーンではなかったかと思います。 やはり、このシーンはこの映画の価値として高く評価すべきなんだと思います。 それと同じことが、本作品にも読めると私は思いました。 刺青などについては、それこそ谷崎潤一郎の『刺青』(1910年作)に、はるかにクールな場面が描かれていますが、やはりスプリットタンの風俗を初めて書いたのは本書であり、それは一種の「不易流行」であるのでしょう。 一方、上記に私は青春小説的と書きましたが、それは中心となっている展開自体が青春恋愛小説的であると同時に、本文随所に取り上げられている多くのエピソードの形や描写の仕方、また自意識や感受性の傾向などが、いかにも19歳の女性が描きそうな(あどけないといえばあどけない)ものであることもあります。 ひとつだけ挙げてみます。 (略)無気力の中、私は結婚という可能性を考えてみた。現実味がない。今自分が考えている事も、見ている情景も、人差し指と中指ではさんでいるタバコも、全く現実味がない。私は他のどこかにいて、どこかから自分の姿を見ているような気がした。何も信じられない。何も感じられない。私が生きている事を実感できるのは、痛みを感じている時だけだ。 いかがでしょう。 私は抜き出していて、この文章は、例えば太宰治の『女生徒』の中に紛れ込ませても、すぐには見分けがつかないんじゃないかと思いました。 ただ、繰り返しますが、新しい風俗をその中に持ち込んだこと、それこそが、「不易流行」の新しい「流行」にふさわしい、と。 そう考えると、本書が芥川賞を受賞したということもまた、いかにもふさわしい感じがしますね。 なるほど、もとより芥川賞は、МVPでも三冠王でもなく、その半年間のフレッシュな最優秀新人王でありますものねぇ。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.03.23
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『沖で待つ』絲山秋子(文春文庫) わたくし、このお話は二度目の読書なんですね。 前回読んだ時の読書報告もありまして、ちょっと読み直してみると、基本的にはこの度の私の感想と同じようなことを書いています。 どう書いているかというと、まー、戸惑っているんですね。 それは、作品がわからないから戸惑っているんじゃないんですね。分からないようなところはまるでありません。(そんな意味でいえば、分からないところがなさすぎるから戸惑うのだといったら、それは、まー、少しは合っているように思います。) はっきり書いてしまうと、この作品が芥川賞を受賞したことに戸惑っているんですね。なんでこの小説が芥川賞なの? と。 ついでに先に書いておきますと、この小説(もう少し正確に書きますと、本文庫には3つのお話が収録されていて、そのうちの総タイトルにもなっている「沖で待つ」が芥川賞受賞作で、とりあえずこの小説)は、読んでいて軽快で心地よい、筆者の物語づくりや描写力のとっても達者さが感じられる、スマッシュヒットのような青春小説だと私は思ったんですね。 ひさびさにウォームフルなお話を読んだなあ、と。 でも、芥川賞って、本当に今までこんなお話を選んでいたの? こんなお話は、(短すぎるけど)選ぶなら直木賞じゃないの?……と、まー、戸惑ったというわけであります。 しばらく考えたのですが、わたくし、反省いたしました。 芥川賞云々はこの際関係ないことにしよう、そこに拘っていてもわからない。要は、この小説をどう読んだかの読書報告である、と。 と、そうは考えたのですが、実は一回目の読書以降、わたくし同作家の別の作品を二つ読んだんですね。どちらも本ブログに報告していますが、『御社のチャラ男』『末裔』です。で、この二作は、(この度の読書で思い出して)いかにも芥川賞受賞作家の作品という感じがするじゃないか、と。 しかし、まぁ、そんなことを言っても、例えば筒井康隆氏みたいな方もいらっしゃいますからねぇ。やはり芥川賞を取ったから(あるいは取ったのに)どうのこうのというのは(暇つぶしに考えたらそれなりに面白かったりはしますが)、やはり作品の本質としてはどうでもいいものなんだろうということにしておきます。 というわけですが、そんな風に考えると、ちょっとくり返しになりますが、この「沖で待つ」は、私としてはさわやかファンタジー青春小説、ってところで、特に、ストーリーとして、とても小説的面白さがある(ハードディスクの壊し合い約束なんてのですね)作品でした。 また、最後までうっとおしい展開(うっとおしい展開というのは、何というか、いかにも「純文学」的うっとおしい展開)にならずに読み終えることができて読後感のさわやかな、わたくし的には近年まれにみるという感じの、お話づくりのできる作家の作品だと思いました。 さて、上記にあるように、本書には3つのお話が入っているのですが、最初にある「勤労感謝の日」という短編。本当は好みでいえば、私はこちらのほうが好きであります。 「沖で待つ」と合わせてこの二作品、主人公は共に三十代後半くらいの女性勤労者という設定ですが、どちらもほぼ作者自身とかぶっているのか、巻末の解説文によると、1986年男女雇用機会均等法施行から4年目あたりの大卒総合職希望就職、となるそうです。 作品はその時代の、つまりはバブル期真っ盛りの、いわば最前線のビジネスパーソンの実体の上に話を展開しています。 読んでいて、私も驚いたのですが、なんかすごい古臭い感じがしました。なんか遥か昔の話のような感じがしました。 これは作家のせいではなくて、いうならば、作品素材のせいでありましょう。 24時間働くことのどこがおかしいの、と日本人みんなが思っていそうな時代の労働環境の雰囲気と、もっと即物的に言えば、おそらくスマホ(インターネット)のあるなしのせいでしょうか。ちょっとついていけないような古臭さを感じました。 (これはついでの話ですが、このインターネットと同じような次の世界の画期的ゲームチェンジャーが、AI技術なんでしょうかね、まー、私はよく知りませんけれども―。) ただ、これも、小説という形態の特徴の一つで、1986年の労働風俗は古臭く感じても、明治の漱石の作品風俗は古臭く感じないというのは、多くの読者が実感するところであります。 というわけで、ざっくり青春小説とまとめてしまいました。 でも、同じ労働環境を描いて、より現代的課題に触れていると私も思う同作家の『御社のチャラ男』の原型が、なるほどここにあったのかと感じられたのは、2度目の読書のおかげでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.03.09
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