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『プールサイド小景・静物』庄野潤三(新潮文庫) この度、わたくしなかなかいろんなことを考えさせられるいい短編小説集を読みました。感動したといってもいいと思います。 ただ、こんな風にちょっと奥歯にものの挟まったような書き方になったのは、本短編集を読了するまでに、あれこれいろんな知識や読書体験があったからであります。 ちょっと順にさかのぼって書いてみますね。 私がこの作家の小説を始めて読んだのは、多分高校3年生のことです。なぜそんな事を覚えているかというと、ちょうどそのころ私は、受験勉強もいい加減にして、芥川賞受賞作品読書にはまっていたからであります。 結果的には、すべての受賞作品が読めたわけではないのですが、ぽつぽつと芥川賞受賞作品を、主に新潮文庫で探して読んでいました。今では、「芥川賞全集」という本が、家の近くの図書館にもあることを知っているのですが、そのころはそんな本があることを知らず、わりと地道に丁寧に本屋さんで探して買っていました。 で、私は冒頭の新潮文庫を買いました。(ただし今回読んだのは新たに購入した本で、なぜ新しく購入したかというと、高校時代に買った本はもう本の周りが焼けてしまっているうえに活字が小さくて、ちょっと読もうかという気にならなかったからです。だから今回読了したのは二冊目の新潮文庫。) そして「プールサイド小景」を読みました。これが芥川賞受賞作です。 ところが、かつてはその一作だけしか、私は読まなかったんですね。なぜなら、他の作家の未読の受賞作が他にも一杯あったからです。多分そのころ私は、前後して吉行淳之介の「驟雨」や安岡章太郎の「悪い仲間」や小島信夫の「アメリカン・スクール」等を読みました。そちらのチョイスを優先したんですね。 いわゆる「第三の新人」以外の作品も読みましたが、ちょうどあの辺り(1953年から57年あたり)は、本当に第三の新人グループの作家のものが次々に芥川賞をとっていて、私はそれらの作品の中でも、この「プールサイド小景」は、(高校生のくせに)「悪くない」という印象を持ったのでした。(今でもそれを覚えています。) で、私はこの文庫本の中の一作だけを読んで、残りはまた今度読もうと思いつつ、えらいもんですねー、もう半世紀が過ぎようとしていますよ。 その半世紀の私の読書遍歴については、書き出すと切りがありませんので置いておいて、次に私が庄野潤三の作品を手に取ったのは数年前でした。(今、その記録を探ってみれば、もう十年近く前になっています。えーーっ。速いものですねー。) 『庭のつるばら』。 その読書報告がこの拙ブログにあります。私はあまり感心していないんですね。それどころか、ちょっとひどいことを書いたりしています。ただ、私の真面目な所は(自分で書くなよー)、そんな読書体験をした時ほど、ちょっとその作品について調べてみようと思ったりするところでありまして、その時も作者や作品について調べました。そして、幾つかの知識を手に入れました。 しかし、その時もやはり他の庄野作品を読むには至らず、今回の読書まで、さらにその時から十年近くも経ってしまったわけです。 で、やっと、冒頭の文庫本、七つの収録作品すべてを読みました。 今回の読書までにあれこれ雑多な知識がすでに私の頭の中に挟まっていましたが、それらを丁寧に取り除いて、本作品たちだけについての読後感想を述べれば、とても面白かったです。 私の読書歴でいっても近来まれにみる、いい短編集を読んだなあというものでした。 総タイトルになっている「プールサイド小景」と「静物」は良かったですねー。特に、少し長い目の短編「静物」は良かった。 同時に、上記に書いた『庭のつるばら』の、我が嫌な感じの感想に繋がる「足取り」めいたものの正体も、私なりに納得しました。 そしてそのあと私はふっと、村上春樹の本を手に取ったんですね。この本です。 『若い読者のための短編小説案内』(文芸春秋) 確かこのなかに「静物」についての批評がなかったか、と。 ありました。読みました。(再読です。) で、私はちょっと驚きました。 ここには、私が感じたものと同じ内容の分析がある、と。 ……えー、すみません。 別に、私が村上春樹並みの小説読解力を持っているといいたいわけでは、本当に、本当に、心底そうではありません。 この村上本も私は過去に読んでいますから、表面上は忘れていても、実は今回の読書も村上本の内容に無意識に導かれた感想を持ったに過ぎないとも十分に考えられます。 だから、まー、これは、主観、驚いた時の私の主観にすぎないものでということで、ご容赦いただければと存じますー。 ということで、もうあっさり、村上感想の引用をさせていただきますね。こんな風に書いてあります。 「舞踏」と「プールサイド小景」といった初期の作品を初めて読んだ人はおそらく、「この人がこういう方向でこれからどんどん成熟して伸びていけば、ほんとうに素晴らしい小説家になるんだろうな」と考えるのではないでしょうか。そのような来るべき小説を手にとって読んでみたいと思う。僕もそう思いました。ところがそういう方向にはいかない。 「静物」に行っちゃうわけです。 いや、僕は何もそれを非難しているわけではありません。「静物」は文句なく素晴らしい作品だし、僕は大好きです。ただ、ああ、行っちゃったんだなと、それだけです。(略)それ自体は素晴らしい。でもそこから先は、どこか別の方向に行っちゃうしかない、ということです。ここまで書いてしまうと、もうほぐしがきかない。 いかがですか。上手に解説していますねー。私は上記に、私の考えていたことと一緒だと厚かましくも書きましたが、こうして書き写してみると、たぶん似ているのは全体の十分の一くらいの内容だと思います。(実に申し訳ない。) さらに数ページ先に、これも私が感じていたのと同じ内容(もー、やけくそに書いてます)の、上記引用文でいえば「どこか別の方向」に多分関係してのことが、こんな風に書いてあります。 小説を書くという責任を行為的に完璧に果たすことによって、小説的責任(小説自身の責任)をねじ伏せることは可能です。しかしそれはいつまでも続けられることではない。この「静物」という作品はまことに見事な作品だけれど、その鋭敏な切っ先の部分で、ほとんど目に見えないほどの先端の部分で、小説的責任を見切っている(もっと強く言えば、放棄している)……そういう印象を僕は受けざるを得ないのです。そんなことを言う資格が僕にあるかどうかはおいておくとして。 ここも見事ですね。 というわけで、私は本小説を読んで思いがけず、小説と作家の実生活の関係(あるいは作家の社会的責任や、さらには文学的既成事実なども)について、改めてあれこれと考えました。 ただ、単独でこの短編集のことだけの感想ならば、上記のくり返しになりますが、この本は圧倒的にできのいい作品集だと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.10.19
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『戦場のレビヤタン』砂川文次(文芸春秋) 例えばこんな描写があります。 Kはここでの生活と、今と、それから過去自分が経験した生活と呼ぶことすらおこがましい記号的消費者としての時間の浪費について、たまに比較することがある。日々何かを買い替えたり、誰かにそれを見せびらかしたり、そうでないときは死ぬほど退屈していたあの過去の生活と、明日生きているかすら分からないほど瘦せこけた子供か青年かもわからぬ男が必死に盗みを働こうと目を爛々と輝かせ、あるいは通りで盗んだ工具箱を、反対側にわたって堂々と売りさばく、工事現場から帰ってきた中年が、家でサッカーを見、夜でも外で遊ぶような彼らの生活は、どちらが人として真っ当なのだろうか。 これはもちろん私が典型的だと思った個所を抜き出しているのですが(似たような描写は他にもあるのですが)、どうも私には、この文の文意がよくわからない、いえ、かなり、何というか、私なりに「好意的」に読めば、分からないことはありません。でも、例えば、「今と」「あるいは」などの言葉は本当にいるのだろうか、とか、「中年」に最終的には収束する長い屈折した修辞の部分は、本当にこれがベストの表現なんだろうか、といった思いはぬぐえません。 作者は、基本的に確信的にこんな文を書いているのでしょうね、多分。 さらに、このタイトルの小説(この本には二つの小説が入っています)を読み始めてしばらくすると誰でも気が付くのですが、主人公を表す人称の用語が、作品内全般にわたって、ほぼランダム的に複数混在しているんですね。 「K」「おれ」「自分」「俺」 主だったものは「K」と「おれ」ですが、極端な場合、繋がる二文で二種類の人称用語が用いられていたりします。 ただ、始めはしばらく戸惑っても、そのうちさほど気にならなくなります。それは、「K」「おれ」と、まるで異なる三人称と一人称であっても、それを受けるあとの文体が明らかに一人称、あるいは主人公に寄り添った三人称の形のもので一貫しているからです。 では、一体なぜこんな「いたずら」のようなことを筆者はしているのでしょうか。 今私は「いたずら」と書きましたが、それは私が個人的にこんな「ルール破り」をあまり好まない、まー、保守的な読み手であるからであります。 冒頭のどうにも読みにくい表現といい、混在する人称用語といい、どうなんでしょう、この筆者は確信的にいわゆる小説の基本ルールを自分は守るつもりはない(破壊しようとまでは思っているのでしょうか)と告げているのでしょうかね。 少し遡って考えてみます。 そもそも日本語はとても人称用語の多い言語で、英語なら「I」だけのところが、さていくつありますか、とにかく少なくなくありますね。それらを私たちは、日常生活の中で確かに「適当に」使い分けていてます。(用語使用時の相手、つまり誰に向かっての用語かによる使い分けと、その時々の自らの感情の在り方による使い分けなどですね。) もちろん、そのこととこの度の混在人称は同じだとは私も思いません。が、かりに「準じて」と全く考えられないわけではないのじゃないか、と。 さらに同様に遡って考えてみますが、そもそも、小説というジャンルは、作品全体の少なくない部分が言語を用いて作られている表現、くらいのルールしか、そもそもないのではないか、と。(詩人草野心平の「冬眠」という詩は、それすら守っていないか、いや、タイトルを含めたら3つの表記中、二つは一応漢字表記ではありますが……。) (しかし、それにしても、文法は一応は守らなければならない気はしないでもありません。文法すら意図的に守らないなら、これは外部に向けた表現とはとても思えなくなりませんかね。ただし、人称の統一については、それが文法と呼べる範疇のものであるのかどうか、私には、うーん、よくわかりません。) ともあれ、だとすれば、この度のことも、単なる作品の個性程度のものとして、別に取り上げてもいいが、改めて疑問を呈するというほどのことではなかったのかもしれません。 本書には二つの小説が収録されているのですが、一つは自衛隊の幹部候補生の100キロ行軍訓練の話、もう一つは、元自衛官が中東に行って武装警備員になる話です。 どちらも珍しめの設定ですから(そうでもないのでしょうか)、私などはそれなりに興味深く読みました。 ただ、その設定でおそらく取り上げられている主なテーマは、例えば冒頭で引用した個所からも読めますが、ざっくりまとめてしまうと「自分探し」小説と読めそうなものであります。 これも典型的な個所を引用してみます。 彼だけではなく、いわゆる先進国であるとか西側諸国とよばれている国で産み落とされた人間は、その誕生日から今日まで、欲しくもないものを買わされるためだけに生かされ、そうでなければ実体の伴わない、広告によって言葉巧みに作り出された恐怖に怯えながら生きてきた。少なくともおれはそうだったし、不慮の事故とか病気と老衰程度にしか自身に直接的脅威をもたらさない"恵まれた"環境が整備され、乳幼児死亡率も低く、高度先進医療が受けられるような国家に所属する人間がわざわざ中東まで出向いて銃を持つ理由は、そもそも人として壊れているか、購買意欲から逃れるためか、あるいはその両方かでしかない。ここには実体を伴った恐怖がある。 こういったテーマが、もちろん悪いわけではなく、また一概に古臭いとも思いませんが、小説作品としては、もう少し内容そのものに落とし込むほうがそれらしいかなと、わたくし、少々思ったりしました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.10.05
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