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健康法を模索中。 グーグルでも本屋でも「健康」とか「健康法」で検索すれば、いっっぱい出てきます。全てを実践している時間は無いので、どうしてもそうした情報に頼ってしまうのは仕方ないですが。 いちばん大切なのは続けること。 挫折しても、サボっても続けることだと思います。 初めは意気込んでやると思いますが、まぁやっぱりコツコツとやり続けないと効果は出にくいですね。 でも続けられないからと いって、「意識が低い」とか「ヤル気が足りない」とか言われるのも癪に触ります。 なので、意志力ゼロでも習慣にできるやり方を探しています。 無理せずに続けられる健康法を紹介していきますね⇒無理なく続けられる究極の健康法
2016.01.31
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健康法を模索中。 グーグルでも本屋でも「健康」とか「健康法」で検索すれば、いっっぱい出てきます。全てを実践している時間は無いので、どうしてもそうした情報に頼ってしまうのは仕方ないですが。 いちばん大切なのは続けること。 挫折しても、サボっても続けることだと思います。 初めは意気込んでやると思いますが、まぁやっぱりコツコツとやり続けないと効果は出にくいですね。 でも続けられないからと いって、「意識が低い」とか「ヤル気が足りない」とか言われるのも癪に触ります。 なので、意志力ゼロでも習慣にできるやり方を探しています。 無理せずに続けられる健康法を紹介していきますね <a xhref="http://xn--u9j357gi0jhoks7d8wz.life-integration.info/wordpress/2016/01/31/%E7%A9%B6%E6%A5%B5%E3%81%AE%E5%81%A5%E5%BA%B7%E6%B3%95%E3%82%92%E5%85%AC%E9%96%8B/" target="_blank">⇒無理なく続けられる究極の健康法</a>
2016.01.31
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朝起きたときに、特にお腹の部分なのだが、「ダルい感覚」があるこれは何かなとカラダと相談したところ、どうやら「弱さ」を“演出”したいようなのだ。「弱い」と「かわいい」という思い込みがあって、「かわいい」と「大切」と感じ「大切」だと「大事にされる」と考える。「大事にされる」と「満たされ、安心する」みたい。そして「満たされ、安心する」と「安らぎ」が得られる。そんな接触不良を改善しなければならない。初めから「無条件の安らぎ」があれば、「満たされ、安心する」ことはどう感じるだろうか?「無条件に安心し満たされる」こととはどんな状態だろうか?それは可能だろうか?「大事にされる」ということはどう感じられるだろうか?「安心する」ために「大事にされる」という関係は必要不可欠だろうか?「大切」ということは条件付きになるだろうか?「かわいい」というのはどう変化するか?そして、「安らぎ」のために「弱さ」を演出することは必要だろうか?ボクのカラダはがんばっている。だからこそ再教育。カラダと調和するためには対話。やさしく読み解いて、鋭く切り込む。どうやら「安らぎのための弱さの演出」は3歳くらいに身に付けたようだ。一番初めの記憶は無いんだけど、たしかにそれくらいからアトピーが始まったようだ。幼いころはかなりの甘えん坊で、ウチには兄貴もいるから、親を独占したかったのかもしれん。その後もいろいろ体は問題を抱えていたな。この「内なる3歳児」に今の自分とのアクセスを取れるようにしよう。過去の自分を救いに行くのだ。「弱さ」を失ったとしても、大事な人とのツナガリは無くならない。むしろ、もっと良い関係を気づくことができる。大事にされるために「弱さの演出」をするのではなく、「安らぎ」があるから「弱さ」を認めることができるのだ。
2010.09.11
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1.禁オナ 43日目生存。 しかしまだエロ(動画・画像)に対する執着が消えない。 なにか、 「大切なモノを見逃してるのではないだろうか」 という焦燥感があるのはなぜか。 ただ、そういったエロを見ても特に興奮しなくなった。 というより エロ→ポルノ という認識になってきた。 現実世界のイイオネーチャンに対して エロい妄想をするのは男として当然なのかもしれないが、 とりあえずはネットなどの商品としてのポルノにはあまり魅力が感じられなくなってきた。 「何か大切なものを逃している」という感覚は消えないのかもしれないが、 それはナンパなりコンパなりで現実の世界で解消していくべきエネルギーなのだろうと思う。2.大学受験向けの英語のブログを解説した。 まだ全然進んでないのだが、 とりあえず一歩づつちまちまと更新中。 やはり自分の中のモノを文章に書き起こすという作業は 自分の中の「乾き」に直結した部分があると感じる。 なんか、下半身のグラウンディング度合いが高まってきてるので PQ的には間違っていないんだろう。
2010.09.06
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自分の体には、様々は感情が流れ動いていて、それがバラバラであるようで絡み合っているからこそ、つかみどころのないカタマリとして捉えられがちである。深海に住む様々な生物や海流のうねりの一つ一つが海を作っているのであり、海を照らす太陽の光や、波の上を漂う海鳥たちの営みが、海を豊かにするのである。その豊潤さから目をそらすことなく、その多様さに怯むことなくその大きな中に包まれるとき海は自分のものとなる。
2010.09.05
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1.禁オナ 33日生存 なるべく禁エロも開始したい2.オークション 家にある本が売れた さらばDr.苫米地。そしてありがとう もうあなたの本を買うことはないだろう。 DVDも入札を確認したので売れる予定。 余分なものを無くして すっきりノイズの無いPQを目指したい。3.読書 「史上最高のセミナー」 成功者はどういうコンセプトを持ち それをどのように運用(思考)し そしてどのような行動に結び付けているのか これを学ぶ。 「シュガーマンのマーケティング30の法則」 人間はどんな時に行動するのか どんなことが行動の障害になるのか 人間の行動と行動心理を学ぶ 本書に書いてあるのは、 「親近感を持てて安心して信頼でき、 結果が証明されていて 必ず満足できることが確約されており リスクがない」 ということになるが これをPQ的に捉えなおす。
2010.08.27
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1.禁オナ 32日目生存。 そろそろ性欲に対する認識が変わってきた。 生物学的にはそれは「セックスを求める欲」であるかもしれないが 身体的な性的満足を、人格的社会的なエネルギーとして捉えることもできる「かもしれない」ということだ。 つまり、 人の間に生まれ、人の中で生きるために、他人とツナガリを持とう・持ちたいというエネルギーになるのではないか。 他人というのは自分とは違った人格で、突き詰めていけば、 『何考えているかワケ分からん』 ってことになるんだろうけど、 そこで引きこもってウジウジするのではなく、 もう自分の欲求に乗っかっていくだけで 快適なツナガリを形成できるんじゃないかと 性欲の昇華というのは、そんなきっかけになるのではないかと思う。2.オークション 本が売れている。 まぁ定価の3分の1程度で売っているのでそんなもんかもしれん。 本て古本になったとたん値段が落ちるのねぇ 中身の情報が元々それだけの価値しか持ってないのかねぇ かといって、電子書籍が安いかといえばそんなことないのよねぇ これ不思議
2010.08.26
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1.禁オナ 28日目。生存 性欲に流されそうになるときもあるが、 次第にコントロールできるようになっている。 性欲もエネルギーの一種だから、 その他のエネルギーも浪費しないように管理できたらいい。 禁煙と禁オナは、一番欲求(エネルギー)に気づきやすいので、 ここから入るのがいいのかもしれない。 泥の中から蓮の花は咲くのである ただ、強力なので流されやすいのも確か。 いまだ禁エロはできないでいる。 2.掃除 水拭きは気持ちいい 部屋ごと水拭きしたいくらい 空気が丸ごと変わるのは不思議である。 数年前に、「掃除をすれば運命が変わる」的な本が売れていたが、 運命が変わらずとも、環境が快適に変わるだけで儲けもん。 続けたいが、続くかどうか。3.オークション 不要なもの、特に本を売っている 不用なので、とくに高額落札を期待してるわけではない。 ブックオフはかなり買い叩かれるみたいなので、 ならば直接売る方が皆のため。 なので、送料無料とかで出品してしまう。 太っ腹である。 オークションでも売れ無そうなものはブックオフに捨てたが、 200冊程度で8000円。まぁそんなもんね。 100冊くらいは値段が付かなかったとメールがきた。 でも100円で売るのだろう。それは良しとしよう。 オークションで転売して儲けるというのがあるが、 仕入れがメンドイ。 自分が知らないジャンルは怖い。 もっと調べてからにしよう。4.読書 いろいろ読んでる。暇人である。 おススメの本があれば教えて欲しい。 昨日は「史上最高のセミナー」という本を読んだ。 アンソニーロビンスの師匠であるジムローンの話はなるほどと思わされた。 『人は自分が向かう方向に進み、 自分が考える方向に進む』 自分の進んできた道は、自分がそちらに向いていたから。 このことをしっかりと再確認したい。 後悔・批判もいいが、 「いつでも自分は自分に忠実であった」 という自信が次の一歩につながる 『他人の計画に加わるか、 自分の計画を立案するか』 これは難しい。 自分の計画にどれだけの人を巻き込めるか、 どれだけの人に信頼されるか、 というのは人生を左右するポイントだ。 自分という一人の人間が、 どうやったら他の人々と、 混じりっけのない関係を作れるか。 集団や組織のフィルターを介することなく、 人としてのツナガリを確立・維持できるか。 『人生は、必要なものではなく、 その人にふさわしいものを与えてくれる』 自分に欠けているから手に入るのではなく、 自分がそれにふさわしいからそれを手にする。 お金やモノに限らず、 いまの人間関係や生活習慣も、 自分がそれにふさわしいという理由でそうなっている。 まずは自分のバージョンアップに専念 そして実行。行動。 5.その他 英語(読解)のブログでもやろうかと計画中 学習塾で教えているんだけど、 もっと中立的に、より広い範囲の人と関わりを持ちたいので。 大学受験生や予備校の先生なんかとも知り合いになれたら いい刺激になるかもしれん。 いまの自分としては、世界に対して発信できるコンテンツの中では一番手ごろなので、 ネット、世間というものにアクセスする手段にできたらいい。
2010.08.22
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二年くらいほっぽらかしてたんですが、また開始していくかもしれんです。いつのまにかPQ会員の皆様のブログも減ってしまったみたいですね。昔からいた方々が脱退したとは考えにくいですが、ちと寂しいです。。本山も更新されていないみたいですね。久々に倉本さんにも連絡してみようかな。。自分は結局、司法試験を諦めてつぎの道を探しています。いろいろありましたが、まぁ自分で選んだ道だから、自分しか進めない道だと思って一歩づつ見極めて行きたいと思います。まずは生活に変化を与えるという意味で、部屋の掃除(本を捨てるぞぉ)禁オナ(しばらくね)で様子を見よう。久々にブログを書くので、言葉が出てこない。いや、出て来すぎるので書けない。ぼちぼちやる。とりあえず関東は雨すごい。
2010.07.29
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”成功するには利己的になるべきだ。そうしないと目標は達成できない。そして最高のレベルに達したら、非利己的になるべきだ”マイケル・ジョーダン小室の慰謝料7億円にビビッてたけど、ジョーダンは180億円でした。。。優しく冷酷にぶっちぎるぜ。
2008.11.13
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NHKの「私の一冊」という番組で、児玉清さんが「不安定からの発想」という本を紹介していました(残念なことに絶版みたいです)。ライト兄弟の話しなんですが。簡単に言うと。それまでは、安定性を目指していたから飛ばなかった。反対に、不安定な状態にして、それを操縦することによって安定するようにしたら飛んだ。これは興味深いですね。
2008.11.01
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久々の連続投稿ですが。タイトルを見て分かった方。そう、マルチの会合に行ってきました。マルチレベルマーケティング=MLM=マルチ商法=ネットワークビジネスのマルチです。8月の話しなので、かれこれ二ヶ月以上経つんですけどね。いろいろネットで見てみたら、コメントとかメチャメチャになってるとこもあったんで、名前は出しません。経験者にはわかるけど。事の経緯は、マネーリテラシーが足りんなと思ったので、「金持ち父さん」を一通り読み。「会社人」として会社のために稼いでおこぼれをもらう道以外にも、自分で自分の資産を作って増やして行かないとイカンなと思い。ネットで何か商材を売るほどのアイデアがあるわけではなく。たまたま知り合いが「ネットワークビジネス」とやらを始めたと聞いたので。(このときネットワークビジネス=マルチとは知らなかった・・)なるほど、そういう道があったかと思って話を聞きにいった。というトコ。結論。僕はやらない。チャンチャン理由はいろいろ。まず、「その場にいた人が有能でも魅力的でもないと感じた」からそして、「その場にいない人が、さらに有能でも魅力的でもないと感じた」からさらに、「被害が出ている」から(どんな被害か気になった人は調べてくださいね。まぁ昔と変わらずです)その他いろいろ。ツッコミどころ満載。「格付けが5A-1なので経営が安心」↑投資家にとってはね。自分らは投資家になるわけではない。「MLMは世界中の大学でも扱われている。日本では一橋大etc..これからはMLMの時代です」↑各大学がHP上で否定してますよ。MLMに気を付けましょうって扱われ方なんですけど。「アメリカのオリンピック委員会からスポンサーになってくれと”頼まれた”」↑裏づけなし。「オリンピックの公式サプリになっている}↑アメリカで販売されているものと成分が違う。しかも今は味の素でしょ。確かにアミノバイタルは効く。「オリンピック選手も飲んでいる」↑だから。。裏付けないのよ。「星野監督も愛飲」↑もはや・・「市販されている製品はほとんどが広告費と中間マージン。我が社の製品はクチコミ+直売なのでその分を原料費に投下している。なので品質が市販のモノよりも圧倒的に優れている」↑スポンサー=広告宣伝と認識していた僕には目から鱗。たしかにスポンサーをやっている割には未だかつて聞いたことなかったので、広告ではないのかもしれない。一般の流通における中間マージンはなくても、報酬(?)として親のフトコロにまで払うわけだから、マルチ特有のマージンが上乗せされているわけでしょ。しかも数十パーセント。もっと安価で成分の良い製品はある。「“日本ではサプリの効能を言うことは禁止されていますが”アメリカではサプリが癌や成人病のリスクを軽減すると言われています」↑それ言っちゃダメなんでしょ。なんちゃらマシーンのそばで・・「“日本の薬事法で禁止されてるので本社の人は言いませんが”この機械であなたの健康状態が測定できます。数値が低い場合には近い将来癌になる危険性が高いと言えます。」↑だからそれ言っちゃダメだってば。「自分の夢の実現のために行動するのです。私は今こんな家に住んでいて、こんな車に乗っています」↑自由な時間+自由になる金を手に入れて豪遊するのが夢なのか。単なる我欲・煩悩じゃないですか。まぁこれは人それぞれですかね。僕は「I have a dream」で始まる演説をしたいです。そして家の写真だけじゃなくて権利書見せろ。「失敗してもリスクはない。現状維持なだけ。行動が大切です。」↑友人を失うのはリスクでないのか。リスクがない行動なんて本当にあるのか。そして、会社全体の売り上げが下がっているわけなのだが、これは現状維持ができない証拠なのではないだろうか。てな感じなんですわ。でもですね。場のチカラってやつですか。年寄りが高額な布団を買ってしまうのも分かりますね。その場にいるときは、批判せずに受け入れてしまっている自分がいたのです。洗脳とまでは言えないかもしれないけど、アレは自分の感覚を持っていかれますね。僕は初めからアブナイなという直感が働いたので、行く途中に小さなノートを一冊買ってですね。「批判・検証ノート」って書いてカバンにしまっておいたんですね。そんで帰りの電車の中で、話された内容に対して裏付けが必要なモノとかを整理しておいて、家に帰ってからネットと本で調べまくって・・みたいな。特に自分が感銘を受けた部分ってのは、自分の中の抑圧されていたり隠れているナニカが反応してしまっている可能性もあるだけに、イチバン危ないと思っているので。前のブログでも書いたように僕は他人の目を気にしてしまう体質なんだけど、「これ○○に言ったら何て言われるんだろ」っていう視点が今回ばかりは良い方に転がったかな。僕の他に二人新しい人が話しを聞きにきてたんですけど、たぶんあの二人は続けているんだろうなぁ。話した感じだと、批判的に物事を考えられなそうだったし。仕事できるタイプではないし、友達が多いタイプではないし、でもこだわりがあって、しかも現状に不満があって、人間関係においてウブで、抜け駆けしたいという願望があって・・スピリチュアルとかにハマってしまうタイプと重なる感じですね。「人とは違う自分でいたい」と思いつつ妄信的みたいな。カモですね。マルチはグループで活動していくのが普通みたいなんですけど、少なくとも一緒に「ビジネス」をしたいと思うようなメンバーではなかったのです。もちろん、「そんな人たちであっても稼げるのがネットワークビジネスなのです」っていうフレコミなんだろうから、それは気にしちゃいけないことなのかもしれないけど。だけど、先に挙げたような「甘い誘惑の羅列」を批判的に検討せず、自分の人生を左右しかねない情報の裏づけさえもせずに、ただただ他人に言われるがままに「流されている」だけなのに、それを自分の夢のための行動・決断という美辞麗句で置き換えてしまうような人とは・・無理なんですよ。「ウチのグループには誠実な人しか入れません」「素直な人が伸びます」それって「カモ」ってことだよね。ネットワークビジネス自体には今でも可能性を感じているんだけど。でも「誰でも参加できる」ということは、どこからでも「ウィルス」が入り込んでしまうわけで。そうなったら「ウチのグループは他と違って健全です」ってのは通用しない。クチコミが重要になるだけに、信用度を高いレベルで維持する「仕組みが無いこと」それ自体がネットワークビジネスの信用度を確立して普及拡大できない原因になるんだよね。だけど仕組みとして作ってしまえばそこに費用が発生するし、「自由な新規参入」ができなくなるわけで・・結局広まらなくなる。もちろんがんばればネットワークビジネスで稼ぐことは可能かもしれないけど、そういう「リスク」はあるわけで。だから、「自分が全く知らない他人」によって「信用を墜落させられるリスク」を甘受し、「自分が全く知らない他人」が被害を受けた「その構造の一端に自分も加担している」という不義理さを受け入れられるようになったら、僕も始めるかもしれない。そういうわけです。しかしマルチの会合で「社会は甘くない」という教訓を得るとは思いませんですた。実に良い経験になりましたのです。
2008.11.01
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「犀の角のようにただ独り歩め」 『ブッダのことば 岩波文庫』僕は小さなころから、人の反応に過敏になってしまうことがあるんですね。「あぁこの人はいま不快に思った」とか電車に乗っていたり、ファミレスで話していても、見知らぬ他人が何人くらい「自分の話を聞いてしまっているか」「なんだコイツと思っているのか」ということが気になってしまう。もちろんこれは誰にでも備わっているものだと思うし、人間関係を築いていく上で不可欠な能力なんですけど。それが気になってしまう。過敏になってしまうことがある。一時期よりはマシになったけど。一応その「自分が感じた相手の反応」に対するアプローチを適切に行うことによって、「うい奴よのう」というように、「世渡り上手」の印象を持たれることが多いわけですが。しかしそれは身近な関係にある人の場合。ファミレスの他人とか、要は自分との人生の接点のない人に対してはこちらからアプローチのしようがないわけなので。。。女性が(もちろん全員ではないだろうけど)おおっぴらに公衆の面前で暴露話をしているのが信じられないわけなのです。と言いつつ、酔っ払って下ネタ連発してる自分ですがまぁ、でもこれって「自我の独立・自尊」ができていないってことなんじゃないかと思ったのです。「他人がどうであるか」ってことを前提にして、自分の行動を決定しているわけですね、僕は。でもこれって「後出し」。「○○が仕事をサボっていた」ということを前提に、自分がそれにどう対応をするか考えてしまう。その結果、ムカついたり、シカトしてみたり、他に愚痴をもらしたりしてみる。なんつうか、先手を取ることができないと、自分の感覚・軸を奪われてしまうような気がするんですよね。「自分がどうありたいのか」ってのが先にあって、そこに他人を飲み込んでいくってくらいじゃないとねぇ。倉本さんが昔ブログで書いてた「大阪のおばちゃん的なあつかましさ」ってやつですかね。もちろんその「自分がどうありたいのか」ってのがショボイと、飲み込まれた他人はたまったもんじゃない。だからこそ「大義名分」が必要になるんだろうね。「優しい冷酷さ」ってのがいまいちピンと来ていなかったんだけど、そういう方向なのかな。
2008.10.31
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ロルフィングの10セッションが全て終わりました。 結論から言いますと「効果アリ」です。 1セッションが12000円なので、同じ効果でもっと安い方法はあるかもしれませんが。 まぁ知名度も上がってきてると思うので、安心感コミという感じでしょうか。
2008.10.04
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マイパソコンパソコンが起動しなくなって早一ヶ月、結局ウィンドウズを再インストールすることにしました。とりあえず今はubuntuっていうリナックス(?)で動かしています。ubuntuをインストールしたらデータが全部消えてしまいましたとさ。。。さて、いつの間にか高岡氏の新サイト「究極の身体」が開設されていたのですね。北京五輪について書いてあるみたいなので、これからじっくりと読ませていただきます。
2008.09.13
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結局司法試験がダメだったので、来年に向けて心身共にバージョンアップしたいなとおもいまして、ロルフィング10セッションに通うことにしました。まだ2セッションしか終わっていませんが、確かに身体感覚は良くなってきますね。特に施術直後に立ったときは、施術前とは明らかに違う体を実感できます。もちろん、そのセンセーションがどれだけ持続するかというとまだわかりませんが。また体に帰ってきました。そういえば、PQを始めてしばらくはO脚が良くなっていたのに、カラダに対する意識が薄くなってからはまた元通りになってました。反省です。それとチャイルドスポンサーっていう、途上国の子供に対する援助を始めました。1ヶ月4500円なので、1日150円で何かが出来るならと思いまして。2500円のとか4000円のもあるみたいです。ボクが担当することになったのはケニヤの8歳の子です。成長が楽しみっす。あと、知ってたけどなぜか敬遠してた「金持ち父さん」シリーズを読み始めました。お金に対するリテラシー能力が決定的に欠如してるなと。そんなこんなで、ブログ書いていないときの方が活動的なBeLike!でした。
2008.06.21
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試験でやばい点取った後から不安・不満の感情が高まってます というか試験前にフタしてたものかもしれませんが いっそ潔く試験あきらめて就職したとしても、「それでいいのか」っつう自責もあったりして ぐちゃぐちゃ言ってねぇでさっさと受かってしまえって自分で言い聞かせても…なんか違うんだよな なんだこれ そういった感情のカタマリに気づけたのは良いことだけど、眼高手低の状態だと潰れちまうっす だから感情を使えなくなってるんだろうけど さてどうやってコレを人生に乗せて行きましょか
2008.05.26
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一年間は早いもんで、明日司法試験の択一試験です。あんまり直前の追い込みもしてないし、緊張もしてないんですけど。まぁやることはやったので、頑張らずに頑張ってきます。
2008.05.10
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なんか英文法のサイトを見てたんですけど、受験生にはお馴染みの「時・条件を表す副詞節では・・」ってやつで、「その説明って意味あんのか」って思った部分があったので、受験生はいないと思いますがツラツラと。基本的に勉強ってのは「何が大切なのか」っていう問いをもっていないと、単なる「ゴリゴリ暗記大会」にハマってしまうし、意味のないことをやり続けるのは苦痛ですからね。大事なのは「大局観」「感性」「論理的思考力」「戦略的試行力」だと思うんですが。「仮説力」とかも大事か。とりあえず以下、自分なりの理解。「時・条件を表す副詞節内では、未来の内容を現在形で表す」の本当の価値を理解する10のステップ1、時間と時制は異なる。 時間は客観的なものである。時制はその表現方法である。過去形が無い言語にも「客観的な過去という時間」は存在するが、それを表現する時制がないだけである。(もちろん、表現手段を持たないことが思考様式に影響を与えるのは言うまでもないが) 2、未来を表す表現はwillだけではない。 これが抜けていることが多いんですね。 ア:現在進行形 現在進行形は「今~している途中」を表す。「途中」であるならば、「終わっていない」ということだ。走っている途中の人はゴールしていないし、宿題中の人はまだ終わっていない。そして、「終わっていない」ならば、「これから先も続く」ということだ。ゴールまで走らなければならないし、宿題が終わるまでやならねばならない。棄権したらその時点で「している途中」ではなくなってしまう。 もちろん「今~している途中」であるならば、「スタート地点は今ではない」という意味でもある。 したがって、現在進行形は「以前にスタートし、今している途中で、近い未来も続く」という内容を表すことになる。 もちろんこれがそのまま「be going to do」の意味になっていることはいうまでもない。 イ:現在普通形 現在普通形はbe動詞・三人称単数のsが付くとき以外は「原型と同じ形」で用いる。「原型」とはいわばプロトタイプであり、「時間を超越」していると考えることができる。つまり、「現在・過去・未来」といった時間の枠を超えて当てはまる内容が現在普通形で表される内容である。 これは「普遍の真理」や「科学的な事実」「現在の習慣」といった参考書でおなじみのフレーズで表現されることになるが、「現在・過去・未来を問わずにあてはまる」といった「確実性」を表すということである。 したがって、「明確な未来」「確定した内容」などは現在普通形で表現することになる。 ウ:will これは「推測」を表す表現である。あくまでもwillは「助動詞の“現在形”」であることに注意が必要である。したがって、英語に「未来を表すことのできる表現」はあっても「未来“形”」は存在しない。3、以上から、未来を現在形で表現するのは「珍しいことではない」ということになる。 つまり、「未来はwillで表す」という出発点での説明が足りないために、受験上“ツジツマ合わせ”をしなければならなくなったのである。4、「未来の時」は「条件」と交錯する内容である。 「条件」とは到来未定or未到来の内容を、「到来したならば」と表現するものである。 「現在・過去の時」は確定的であるが、「未来の時」は到来未定・未到来の内容を「~になったとき」と表現するものである。ちなみに、辞書にはifにwhenと同じ意味が載っているし、whenには「~ならば」という「条件」の意味も載っている。5、「条件」は事実ではない。 「明日晴れたら、買い物に行く」といった場合、実際には晴れないことも多い。つまり、まだ明日になっていないのだから「“晴れた”という事実」を表しているわけではない。これは、現在・過去が事実を表すのと決定的に異なる。 あくまでも条件は条件である。6、「条件」は確定的に記述しないと「結論」が出ない。 「明日天気がむにゃむにゃしてたら」というのは、どんな天気でもその条件を満たすのかどうか明らかでなく、条件としての限定機能を果たさない。 であるならば、後々「“晴れたならば”という条件の構成要件」に「“晴れ”“雨”という現実の事実」を当てはめて結論を出すために、条件の構成要件は一義的に明確でなければならない。条件というのはあくまでも「入れ物」で、そこに事実が入るかどうかが問題になるのだから、その入れ物がどんなものなのか明確になっていなければならない。7、2・6より、「条件の構成要件を明確に記述する」ために、「現在形」を用いらなければならない。 条件を明確に記述しなければならないならば、その要求に応えるのは「現在形(とその仲間)」である。ちなみに、日本語でも「もし明日“晴れた”ら」というふうに確定的な表現を用いている(この事実に気付けば暗記する必要はないのだが)ことからすれば、このルールは英語のルールではなく、論理上のルールなのである。ということは、英語の勉強ではないんだから、論理的に積み上げて理解しているかが大事な項目というわけである。決して、決して「暗記」が大切な項目ではない(だってすでに日本語で使っているんだもん)。8、 とすれば、「明日雨が降るという推測をするならば」という内容を条件にしたいのならば、推測のwillを使うことも可能である。 「もし彼が失敗“しそうになったら”、助けてあげてね」という場合も同じ。失敗が確定してしまってからでは遅いこともあるのである。予測的に行動する場合にはwillが適切である。9、また、このルールは「時的表現」としてのルールであるから、「意思を表すwill」の場合には適用がない。 もっとも、時間表現のwillと混同されることが多いので、条件節内の意思は「be to do」を用いるのが丁寧とされる。10、従って、このルールの本当の意味は a:条件規定は確定的内容・推測的内容がある。 b:確定的条件にはwillを用いない。 c:推測的条件にはwillを用いる。 d:意思はwill又はbe to do を用いる ということになる。
2008.04.12
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知り合いからパスワードの分からなくなった電子辞書をもらいました。すでに一台持っているので、それが壊れたら使おうと思いまして。パスワードは数字四桁、つまり一万通りなんですけど。「まぁなんとかなるな」ってカンジでして。全体像がはっきりしていて、そこに答えが含まれていることが確実である場合、あとはコツコツやり続ければいいわけですからね。楽勝ただ、この“一万通り”を「到達可能」と考えるか「到達不可能」と考えるかの違いってのは、人生における差としては大きいのではないかと思うんですよね。よく、「成功するには、成功するまで続けることだ」とか「成功した自分をイメージするのだ」とかそういったカタチで言われるんですけど。「“成功するまでの試行回数”に耐えられるかどうか」ってのは、「答えがそこにあることに確信が持てている」からできることなんですよね(後にそれが見当違いであることが発覚するにせよ)。その分だけ、「ここに答えがあるのだろうか?」という問いに対して敏感でなければならなくて。隣の芝は青く見える的に、「ここではないどこかに答えがあるのだ」って思っていたら、一心不乱に試行していくことができないわけですね。もしくは、「答えなんて関係ないんじゃー」って突き進むか。「どうやったらもっと効率的に試行を繰り返せるか」という悩みは重要であっても、「どこかにいいものないかなぁ」という現実逃避に解決策はありませんから。そして、「答えがそこにあることに確信が持てている」状態であれば、多少なりとも「試行回数が膨大になっても耐えられる」のならば、狭い世界に閉じこもっている必要はなくて、「答えが確実に存在する範囲にまで全体像を広げてしまえ」ということになるんですよね、乱暴にいうと。どうしても、自分の世界を広げてしまうと自分の能力が追いつかなくなるんではないか、とかどこかに支障がでるのではないか、とかいろんなマイナス面ばかりに気をとられているんですけど、むしろ、「信頼できる全体像」があるからこそ、「目の前の些細なモノにのめり込む安心感」が生まれるわけで。「ピースの欠けた世界」の中で「感謝しなきゃ」とか「癒し」「エコ」とか言っていても、どこかで“ウソ”っぽくいなってしまう感じがするんですよね。結局どこかに責任を押し付けているだけ、というか。だからこそ、自分を小さな殻に閉じ込めないで、「ターゲット偉人」たちを上手くつかって、「自分の全体像を無理やりにでも広げていく」ほうが、答えがあるのかさえ分からない世界で、チマチマと「力みと癒しの往復」を生きるよりも、確信のある一歩を重ねられるのではないのかと思う次第です。はい。結局それが「ゆるむ」ということにも繋がっていくのかとも感じますが。しかし、一万通りかぁ・・試験終わってから実行しよ。とりあえず「パスワードなんてどうせ誕生日だろ」って高をくくっていたんですが、見事玉砕・・1回入力するのが約4秒なので、1時間で9百通り・・・11時間やればなんとかなるんだね。そんなもんか。。ん、計算合ってるよな
2008.04.11
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http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/879.htmlなんか古臭いなぁと感じつつも、「うぅむ」と唸ってしまった。伊藤先生の授業は受けたことはないし、著作では「基本例文700選」と「英文法頻出問題演習(だっけ?)」でしかお世話になっていないんですけどね。自分が受験生のときにまだ存命だったら受けたかったな。でも授業はイマイチという意見もありますが。「今は大切なのは網羅することじゃないと思っているよ。しっりした基本姿勢だけを教えておけばいいのであって、体系を教えるより、言語という一本の線を辿る時の、素直な頭の働きを展開する方が学生のためになるんだ」という部分で考えてしまった。そうかぁ・・ふぅむいまはこういう「堅気」なタイプはウケないんだろうな・・残念ですが。明日本屋で立ち読むことにしましょう。
2008.04.06
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高岡氏の新刊をアマゾンで予約していたんですが、発送が遅いんでセブンアンドワイにチェンジ!昨日の99サイズに出てたけど、グニャグニャ感は流石でしたね。
2008.04.02
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http://www.bodymaps.com/こんなのがあった。ただし激重だぜ。。。CGだとイマイチなのでコッチの方が好き。http://web.sc.itc.keio.ac.jp/anatomy/osteologia/知らずに見てたが、どうやら慶應大学のサイトみたいだす。
2008.03.30
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「A COURSE IN MIRACLE」っていうスピリチュアル系の本の中に、「全てのコミュニケーションは、愛の表現か、愛を求める表現である」みたいな一節があるんですが。「愛を求める表現」に対して敏感になっているなぁと感じます。いや、正直メンドクサイんですけど。あぁ、「大変ですね」って声を掛けて欲しいんだろうなぁとか「手伝いましょうか」って言う場面なんだろうなぁとかそういうとき、今までは声を掛けてたんだけど、試しに止めてみるかな。なんかその先の流れが見えてきたというか・・「ホント大変なんだよ、昨日なんてさ・・・」「いやまだ自分一人で出来るからさ、ありがとね・・」ってうぬぬ。。。「その場の空気」は維持されるんだけど、先がないんだよねぇ。結局そこで「その場の空気に耐え切れずに安易に答えてしまう」ことで、同じような流れが再生産されるだけだし。「どこで愛を満たすか」ってのは切実な問題よね。一方で、自分は「疲れた」「大変だ」「忙しい」って言葉を使わなくなりました。本当に忙しいときは「忙しい」って言ってられないわけだし。「疲れたなぁ」って感じたら、「帰って寝ゆるしますかぁ・・ゆるゆる」ってなるし。もしくは「体力落ちてるから、気分転換も兼ねてたまにはプールで泳ごうかな」とかね。「大変だ」って思ったら、「乗り越えたかったらゆるむが勝ちでっせ。まぁ自業自得だし」ってなるし。そこで言葉を使ってしまうと、「言語化したこと自体」や「自分の感覚を他人と共有できたこと自体」に満足してしまうことになりそうで。だからいつもフツーに元気。メタボリック手前まで行っておいて、「疲れた」は鈍すぎだよなぁ・・でもそういった空気を共有できなくなったら人間社会でやっていけるんでしょうか?という疑問もあるんだけど。まぁそんなレベルの社会から出ちゃうのがイチバンなんだろうけど。飛び抜けるしかないな。「一周回って戻ってくる優しさ」か・・・
2008.03.18
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なんか、今までは拘束から逃れよう逃れようとしているうちに、頭ごなしに拘束を否定してたんですけど。ある意味“どうでも良くなった”というか。こんな拘束があるんだなぁ、へぇ・・ ↓ じゃあこうしますか。 ↓あぁなんだかんだなんとかなるもんだねぇ ↓あれ、拘束が弱まってる気がする(気がする)みたいなサイクルになってます(ここ2日くらいだけど)。「元気がない自分」みたいなのがいるとして、それに対して「元気が出る方法」を施して行くのは、ある種の自己否定が隠れているわけですよ(以前にも書いたけれど)。「元気がないとき」は「元気を出さねばならぬ」と言って「元気があるとき」は「浮かれてはならぬ」と言ってなんか常に自己否定。「完全なる自分」を理想像の中心に置いて、その「完全体に対しての美学」を追求していくと、「現在の自分」や「現在の環境レベル」から捨象されたこもごもの「日常」を処理し切れなくなってしまう。結局のところ「隣の芝は青く見えるという美学」と紙一重なところがあるんですよね。「超人的な成功哲学」と「人生に些事なし」との間で行ったり来たりして、「超人モード」のときは、「成功するためにはココロを鬼にして切り捨てなければならん」と言って「目の前の日常」を「(無視することで)乗り越え行く(ような錯覚に陥る)」ための「力への意志」に溢れているだけど、「仙人モード(些事なし)」のときは、「何事も無視してはならんのじゃ」と言って「超人を戒める」ことによって、「目の前の日常」に「(超人的意識に対する罪悪感から生じる贖罪意識を)慈愛(と呼んで)を注いでいく」ための「達観への意志」に溢れているでもどちらも否定しあう関係にあって、そしてどちらのモードにあるときも反対のモードの欠点は見えるが、自分の欠点(正当化)は見えないんですよなぁまぁ「超人」でも「仙人」でもそういった“モード”があるのはいいんですけどそれに振り回されずに適切に使い分けていくためには、不安や怒りといった感情を感じることができる「生々しい凡人」が必要なわけです。といったトコでしょうか。ふんふん
2008.03.15
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いま東海道線が遅れたおかげで終電の連結ができず、テクテク歩いてます タクシー乗るお金はあるんですが、いい機会だと思って3時間くらいを目安に歩いてみますね。
2008.03.12
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他人の言動に対してすごくイライラする自分がいます。「何でそんなことすんのか?」という疑問とともにイライラ・・「俺のせいにすんなよ」っていう回避行動とともにイライラ・・「こいつ本当に考えてんのか」っていう非難とともにイライラ・・「それじゃ上手くいかないよ」ってある程度の結果が前倒しで見えるだけにイライラ・・だからといって相手を変化させられる手立てがないだけにイライラ・・・まぁでもコイツはこういう人生歩んできたんだから、まぁいいじゃねえかと思いながらイライラ・・・アドバイスしたってそれで上手くいくほど楽じゃないよなぁと思いながらイライラ・・このイライラは自分の中の何かを反映しているはずだと思いながらイライラ・・イライラを受け入れて昇華するくらいゆるゆるになれるんかなぁ。そういう状態にアコガレを抱いている自分がいるのです。
2008.03.11
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ガチガチやんけ!と実感したBe Like!です。今日、本屋さんで見つけた「Yogaではじめる瞑想入門」についてた瞑想CDを聞きながらの感想です。これは、綿本彰っていう、日本のヨガではたぶん一番有名な人が書いているんですけど。内容はしっかりしているのに、堅苦しくない。だからといってポップなわけでもない。主張するわけでもなく、淡々と読める。だけど無味乾燥としているわけではない。自然の風景をイメージ作りのために載せてせてあって(この本ではチャクラを使った瞑想がメイン)、アタマと感覚の両方が反応できる。「さぁ一旦読むのを止めて、30分間自分の手で目標を書いてみよう」的な流れって多いじゃないですか。(やるわけねーだろと思いながら、それが分からない程度の筆者であることに幻滅するんですけど)カラダとココロが自然とそちらの方向に向かうようにアラインメントをかけるのは至難の業なんですね。人を変えようとすると、こっちばかりが疲れて一人相撲になって最後はバカらしくなっちゃうし。まぁそんなトコで。綿本さんはターゲット偉人に入れておこう。・内容に手抜きはしない・内容に手抜きがないからこそ自信が持てる・コンテンツに自信があるから、声高に自慢・宣伝はいらない・自慢・宣伝がいらないから、内容が(人に)やさしい・内容が人にやさしいから読みやすいその「結果」、充実した内容が伝わる。さて、以下印象に残った部分。・「たとえポジティブな空想であったとしても、足もとがふわふわしたまま、エネルギーが上昇しすぎている状態なので、下降エネルギーが希薄なことにかわりありません。」P42・「第1~3のチャクラは、ベース・パワー・方向性という『個人的』なエネルギーの流れを表しているのに対し、第5~7のチャクラは『自分を超えた』エネルギーを指します。この中間に位置するアナーハタは、まさに『自』と『他』を結ぶ存在なのです。」P77・「ヴィシュッダが乱れる主な原因は、この部分にかかる余計な力です。この力はたいてい、頭で何かを起こそうと考えているときにかかります。下腹から突き上げてきたエネルギー(Want=欲求)の純粋さを無視し、頭が『こうしなければならない!』(Must=義務)と、むりやりねじ曲げようとして生じる衝突が、これにあたります。」P89あと、呼吸法は気持ち良いのが大事で、数を数えるとか、長く呼吸を持ちこたえることはそんなに大事ではないっていうスタンスには魅かれるものがありやした。で、CDに添ってやってみたんですが、今までは「正しいカタチ」を追ってしまっていたんだなぁと反省。。。ガチガチになっているアバラを「無理やり」動かしていただけでした。もう感覚が全然違いすぎ。少しずつ自分の感覚を取り戻していこう。そしてそのおかげで勉強が上手く進んだ。これは大きい。高岡センセの丹田に意的側面を入れるには良い参考になると思うので、本屋さんで見つけたら是非。。
2008.02.19
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お久しぶりのBe Like!です。 風邪引いて寝込んでます。13日午前1時現在38.5℃‥ツライ なんか寝れないんで、寝ゆるしながらつらつらと<(_ _)> アタマは働きません‥ 風邪については、ここ数日背中から首が固くなってるなぁと感じてたんですよね。 しばらく放置してた「骨・肉単」のフォトリーを年空けくらいから念入りにしてて。 今日はなんか大デン筋も変だぞと思ってからドンピシャです。 原因はというと、おそらく「目」にある気がするんですね。 目の緊張度合いが背中の緊張の度合いにつながってるのが、身体実感として自覚できるようになってるんですが。 目の奥の奥のコリが抜けないのです。 これは、特に最近「目的」にフォーカスしすぎたからかなと思うんですね。 というのは、 そろそろ試験の願書出す時期でまぁ試験合格というのが否応なしに突きつけられるのと、 「原田隆史」とか「アンソニー・ロビンズ」の「目標達成プログラム(みたいなやつ)」を見てたからなんですが (youtubeでtony robbinsで検索できます) どちらも、「過去は関係ない、大切なのは目標と行動なのだ」って感じです。 以前の日記にも書いたように、こういった自己啓発は結局のところ自己否定や自己無視を含んでるので、「自己の責務」を発見するのが難しくなって来てしまうんですね。 ですが、使い方によってはパワフルなのでうまくPQでコントロールすればいいかなと思いまして。 ただいま霊光玉をダウンロード中です(笑) そのうち結果報告します。
2008.02.12
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違うな。恐れを感じつつ、その恐れをハートフルさで「乗り越える」というか。なんか、ハートフルvsビズィネス(ライク)という構図はやめようと思う。エンドユーザーとの関係がビジネスライクであることに対するストレス的な反動で、社内での対仕事・対従業員のハートフルさの演出が「必要になってしまっている」感じがします。ハートフルさというか、「ボランティア精神」というか。でもそのボランティア精神てのは、「その分の利益は会社の利益になるし、会社の利益は回りまわってオマエの利益になるじゃないか・・」っていうまさにビジネスなんですよね。だからこそ、そこから逃げちゃいけないというか。そんなミセカケのハートフルじゃなくってね。ホンモノのハートフルを実現しないと。「相手のために奉仕する」ということ自体は中立で。「自分のためにならないことは相手のためにもならない」というと、まだまだそれだけの処理を出来るPQはなくって。なので「仮住まい」で暮らしていかなければならんのだが。ゆくゆくは、ビジネスであることに胸を張りたいし、ビジネスであることがより広い視点でのハートフルを実現する鍵なんだと言いたい。利益を生み出すことが冷酷なはずはない。 ビジネスといっても、会社の中での数字メイクにばかりに気をとられることとは違うダニ。 だからといって、自分の中の意志に捉われずに。意識的な方向付けってのは、気をつけないと「無意識的な逃げの現われ」になってしまうこともあるので。その中で、自分は何を実現していきたいのかを再定義していく。回りくどいな。もっとど真ん中をズキューンっと打ち抜けないってことは、多かれ少なかれ覚悟が足りんな。
2007.12.04
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なんとなく誘われて始めまして‥ マイダーツを買いました! おかげで「ゆる体操」やら「高岡理論」というPQ会がごぶさたしてる話に戻ってきまして。 「センター」「レーザー」「リバース」の活用で、ダーツを始めてから1ケ月、マイダーツ購入から3回で、 カウントアップの最高得点550です。 かなり集中力と身体意識が左右するなぁという感じがしてます。 なんかコツがあったらお願いしますm(_ _)m
2007.11.21
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「正しさ」が存在しても、「正しいと気付けるか」は別問題だ。 全ては間違いで、役に立たない間違いと役に立つ間違いがあると思った方がブレーキがかかりにくいかも。 この考えがどこまで連れて行ってくれるかわからないけど。 正しさはその証明と納得を必要とする分、「不完全な寂しがり屋」なのかも。
2007.11.03
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幼いときは乳母車 子供のときは自転車 大人になれば自動車 老人になれば車イス そして死ぬときはベッド いつになったら自分の足で歩くのだろう? 子供の頃は親の言いなり 学生の頃は先生の言いなり 大人になれば世間と上司の言いなり 老人になれば医者の言いなり いつになったら自分の目で見るのだろう? いつになったら自分の頭で考えるのだろう? 幼いころはあまりにも無知でか弱く 若者はあまりにも傲慢でか弱く 中年はあまりにも悩み多くか弱く 老人はあまりにも絶望しか弱い いつになったら自分の人生を受け入れる強さを手にできるのだろう? 子供の頃は「世界を変えられる」と思ってた でもいまは「世界は変えられない」と思っていることに気付いた いつ変えようとした?
2007.10.13
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ルール・マナーをしっかり守ることは、相手に「尊重されている」という感覚を与える。相手をしっかり見ることは、「相手との間」にもルールを設定することでなかろうか。両者は対立しない。「尊重してくれ」というのは、相手に「尊重されていない」という感覚を与える。「尊重されていない」というのは、相手に「しっかり自分のことを見ていない」という印象を与える。やっぱ、マナー守らないとなぁ。いやさ、相続モメモメ。オカンがあさって法律相談に行ってくるらしい。でも、法律相談というか・・・それ以前?社会の中で個々の人間はどうあるべきなのか?みたいなさ。それがないと、堂々巡りになってしまうんですよね。。法律を使ってお金を取り戻すことは、手順を踏めば達成されるという意味で簡単なんだけど。でも、お互いの間にルールが形成されない分だけ、人間関係は修復不可能になりやすい。個々人の間にルールや秩序を当てはめるのではなく、それを形成していく試みこそが人間関係なのかな。個々人に具体的人間関係が生まれる以前の、一般的秩序維持はルールの得意とするところですがね。最近ちと時間取れなくて、メモみたいな感じですが。発想が深まったら、もっとチマチマと書きたいなぁ(笑)。時間見つけながら前の大作(?)の続きを書いていきたいと思います。関係ないけど、さっきアマゾンで注文していた「英語喉」という発音の本が届きました。「耳」やら「口」やらと出版されてきて、「ノド」ときました。そのうち、「鼻(嗅覚?)」「体(身体操法・ジェスチャー)」なんてくるんですかね。さてさて、どんなものかな。
2007.10.09
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先日亡くなった祖母の遺産でモメてます。 長男に土地はあげようとしていたんですが、さらに貯金を使い果たしていたことが発覚。 アンド、開き直り。 つまり、遺産を独り占めしようとしてたみたいです。 もちろん法的措置は取れるんですが。その前に誠意のある対応をして欲しいですね。親類として。 大人なんだから、人生勉強してもらいましょう。 みなさんもお気を付けて。 ちなみに、勝手に共同相続財産を使えば、窃盗または横領になります(告訴しないと捕まりませんが)。 こちらも気を付けて。
2007.10.08
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先週から「ブッダの瞑想法」を読んで。 今週から「新約聖書」を英語で聞き始めました(audible.comで千円くらいで購入できます。音声ファイルは約19時間です。本文も英語・日本語ともにネットで読めるから、かなりオトク。しかも、単々と朗読するんではなく、ちゃんと本文と会話の区別ありです。興味ある方は一報を!)。 仏教に関しては(倉本に指摘されているように)、私が陥りやすい落とし穴に落ちてるんですが。 まぁ、でもその落とし穴を埋めるように(人間社会は)できてるなぁ、とつくづく感心します。 仏教の「空」というのは、「あなた次第」ということなのかなと。 「あなたの色に染まりますよ」というのが「空」なのかな。 「無(無価値)」とは違うよねぇ。 ボクはどんな色なんだろう? そういう意味で、『全ては「空」だから意味がないんだ』‥というのは賛同できないなぁ。 「それ」がどんな意味を持つのは自分次第で。 「その意味」を誰にどう伝えるかは自分次第で。 「その反応」をどう捉えるかは自分次第で。 「その経験」をどう活かすかは自分次第で。 「そこから学んだ自分」を誰とつなげるかは自分次第で。 だからといって「善⇔悪」という二項対立では、その両端を行ったり来たりで。 どこにも行き着かない。 全体として安定しているのであって。 部分としては絶えず揺り動いている。 どこが自分の「全体」なのか? その確定感が、安定と安らぎをもたらす。 でも、安定したらその「全体」は確定してしまうのか。 「永遠に拡大し続ける不安定性」というのは、う~ん、永遠の成長を約束しているようで‥ とりあえずメモす。
2007.10.04
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さらに、「この人はすごい人なんだぁ」という期待(アコガレ)も裏切られます。まず一つ。憧れてしまうと(まるで初恋のように)相手の実体が見えなくなってしまうということ。でも、憧れの効果(利益)というのはそこにあるんではないでしょうかね。アコガレにとって、「実体なんて見る必要はない」というか。人間は社会的な動物です。集団・社会を構成し、その中で生活を行います。すると、集団・社会に、個人を超えた秩序が成立します。そして、その秩序を維持するため、人間は互いに模倣的に(明示的または暗黙のルールの元で)動くようになります。もっとも、各社会にも個性があるのと同様に、同じ社会の中の各人間にも個性があります。とすれば、「社会秩序の形成維持のため」に、社会の中の「不特定多数」を模倣しているだけではありません。「不特定多数の模倣」では社会は安定するものの、硬直化してしまいます。その安定は維持しながら、硬直化を避ける作用(個性の復権)がアコガレなのではないでしょうか。絶えず流動的でありながら、常に安定していなければならない。いわゆるカオス的な社会になります。一方で、カオスに飲まれることは、個性の放棄のように感じます。そして、一般的に個性の放棄は恐ろしいものです。それゆえに、流動的になればなるほど、個性にしがみつくようになります。このように、秩序→硬直化→個性の復権→流動化→足場の崩壊→個性喪失への恐怖となるのではないでしょうか一般には、「流動性から個性が導き出されている」という話だと思います。すなわち、「社会の価値観が多元的になったから個性が生まれる」と。しかし、流動化がもたらされる以前に、「硬直化を抜け出し、価値観を多元化するための心理的作用」としてアコガレがあるのではないでしょうか。なので、「アコガレによる個性によって、流動性が生まれる」というストーリーで考えてみます。アコガレは社会の硬直化を脱し、安定した流動性を獲得するための心理作用である。と。そして、アコガレの対象は人によって違う。と。すなわち、その流動性を支えるのは心理的個性である。と。その結果、アコガレは、自分の身の回りの社会内における個性(他者との差異)を導きだす。ここで、「他と違っても自分は大丈夫なのだ」という自信をアコガレが与えてくれる。しかしながら、憧れているままでは個性は確立しない。そこで、「離」の段階がやってくる。また、そもそも「アコガレ」は、個人に個性を獲得させ、社会に流動性をもたらす起爆剤に過ぎない。とすれば、そのアコガレは実体に即している必要はない。むしろ、社会の硬直化を脱するための手段として、社会を駆動させていくためには、自由な妄想による意味づけが必要になる。人によって、何に反応して爆発するかは変わるものの、結局それは何であってもいいのではないか。と思ったり。つづく・・・
2007.10.02
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(すこしづつ再開します。)そして、その「塗装」を身体レベルで実感しているのなら、「もうあの時は帰ってこないんだ」という風には「喪失感」は感じないのではないかと。一つひとつ刻まれた歴史を振り返ることはあっても、そして「いろんな出来事が自分を作り上げているんだなぁ」と認識することはあっても、「失った」という感覚については克服できるのではないでしょうか。未来は変化するかもしれないが、過去は確固としてそこに存在するんですね。10年後この人と一緒にいるかどうかは分からないケド、今のこの「瞬間」は誰にも奪えない。「瞬間」を奪われてしまうのは、概念世界の中で生活しているからでしょう。いまこうやって感じている「感覚」というのも、奪われることはない(洗脳でもされない限り)。また、これは期待の仕方にもよるでしょうが、「幻滅」は感じないのではないかと思うようになりました。まず、「立派に育つといいなぁ」という、親が子供に対して抱くような、又は、植物や動物に対して抱くような「期待」に対しては、「裏切られる」という体験は持ちにくいですね。その「期待」が現実にならないということはありますが。花が咲かなくて悲しい思いをすることはあります。でも「悲しく」なるだけです。世界中で子供達が苦しみの中に死んで行く。「悲しい」です。「悲しい」です。そして「悔しい」です。でも「裏切られる」のとは違う。次に、「この人は自分に利益をもたらしてくれるはずだ」という、期待(打算)は「裏切られる」でしょう。相手は、必ずしも直接的に自分のために生きているわけではないからです。また、「自分がイメージしたカタチ」で「利益」が得られるとは限らないからです。間接的に回りまわって「利益」がもたらされる場合はありますし。『そもそも与えられるのは、「利益」という製品ではなく、「材料」でしかない』とも感じます。「期待」すること自体には何の問題もありません。しかし、「期待」は概念世界に存在します。とすれば、現実世界との対話(フィードバック)を欠いてしまうことが「幻滅」の始まりなのではないでしょうか。そして、「なんでもアリの概念世界」+「パラダイス指向の期待」の中毒性が進むと、現実との乖離が激しくなって、現実と概念世界のバランスを維持できなくなるまで、「自分が概念世界に住んでいる」ことに気付かないわけです。「あなたは変わったわ!」「元からこうですけど・・・(君はボクのことをちゃんと見てなかったんだね)」つづく・・
2007.10.02
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疲れたっす・・しばし休息。つかアウトプット量がハンパねぇ・・・なんじゃこりゃいつ終わるんだ?いや終わらねぇ!『我ながら良く書けた文だ 三枚も書いたコオロギが便せんに止まった 失礼なやつだ君に会いに行くよ 君に会いに行くよ愛してます 好きにしてよ 君に会いに行くよ』~星のラブレター:THE BOOM~みなさん、いろいろコメントください。長くて読みにくいですけど。
2007.10.01
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最近、カラダの中に「昔の自分」を発見することがあるんですね。「過去の恋愛」や「言い出せなかった不満」とかね。なんというか、過ぎ去った過去(と言われるもの)は今でも存在する「感じ」がしています。英語の現在完了形みたいに、過去の出来事は「カラダの実感レベルとして現在に影響を及ぼしている」といえば分かりやすいでしょうか。存在するのは、「変化が進行している部分」と「変化が一応完成した部分」だけなのではないかとも感じます。ベルトコンベアーによる流れ作業で自動車が作られる場合、「塗装の工程」が終わってしまえば、「塗装の工程」は過去のものとも考えられますが、「塗装」が無くなるわけではありません。「塗装そのもの」は確固として現在します。たしかに、工程を逆行させてやり直すことができないという面(不可逆性)を捉え、その「修復不能」を「喪失」と呼ぶのならば、それを「失う」とラベリングすることにも一理あります。このように、「あるモノの喪失感」というのは、多くの人にとって、「あるモノの“変化の可能性の喪失”」を意味するというわけです。また、再現不能性を意味することもあるかと思います。無限回再生できるCDに対し喪失感を抱くことはないでしょうが、一度しか再生できないCDに対しては喪失感(もしくはそれに類似する感覚)を抱くことは可能でしょう。これは人間関係においては顕著に現れると思われます。いずれにしても、「もはや手出しを出来なくなった」という意識が喪失感の元になっているのではないかと感じるようになっています。もしくは、その意識が「喪失感」と巧妙に置き換えられているだけなのではないかと。そうすると、「そもそも何かを失ったわけではない」のではないかとも感じるわけです。身体的実感を基軸にしている限り、その「塗装」が確固として存在する実感が持てると思います(思うというか、実感し始めています。)つづく・・・
2007.10.01
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やっと、PQ開発による成果その3です。(長くてすんません・・頑張って書いてますんで、末永くよろしくお願いします。)何かに対して期待した結果、その対象に幻滅したり、または大切なモノを損なってしまうと、「これは受け入れなければならない現実なんだ」という風に「過度に脅迫的な受容」に傾く傾向があります(これは過去形になりつつあります)。これはスピリチュアル方面の本を読んでいたときは結構頻繁にやって来ました。すべては運命だから、執着・トラワレから離れなきゃイカンと必死になっていました。そうしてその「思想を鍛錬」をしているうちに、「安定した瞬間」を迎えることにはなるんだけど。その安定から一歩抜け出して再び現実世界と向き合う段階になると、刻々と濁流のように流れている世界を前にして、その「崇高なる論理で編み込まれたパラダイス」は一気に崩壊していました。その崩壊のエネルギーは、必死に自分を取り繕ってがんばった分だけ、つまり、「自分の感じている感覚を放棄してオシエに帰依」していた分だけ、「真理に向けて積み上げてきた自分」を否定する力を持っているようでした。積み上げれば積み上げるほど、崩壊後に立ち直るのが難しくなってゆく。そして、前述したように、自らにとってはその世界が全てになっているわけですから、そこから脱するのは困難で、どんどん泥沼化していきます。もちろん、その「概念世界の崩落」は、実はPQ的には「ラピュタ城の上昇」を意味していると思うんですけど。「崩落する上昇」を迎え入れることが出来ないのは、結局は概念世界に対する執着の表れなのでしょう。「概念世界の価値観を先行をさせ、それを当てはめるような生き方」は、「現実世界の事実の多様性を放棄し、取捨選択している」というそのこと自体に見られるように、「価値に対する執着」「価値先行」以外の何物でもないわけです。そして、「概念世界の崩落」を迎え入れるキッカケとなるのは、自分の柔らかい部分を潔く放り出せるような、かけがえのない愛情なのかなと思います(これは仮説段階です)。これも、「価値概念としての愛情」ではなく、実感としての愛情と言えばいいのでしょうか。「彼女が欲しい」という場合、「彼女」というのは価値概念でしかないわけですね。彼女の定義を必要としてしまう。そして、「付き合っている人を彼女とラベリングする」のならば、「彼女という名称」は「付き合っている人ならば誰にでも与えられる役職」ということになってしまいます(代替性)。「“具体的なこの人”と付き合いたい」というのも、「付き合う」というのは価値概念です。「付き合う」とは如何に。「お互いに解り合っている異性の友達」と「付き合いの浅い恋人」は、どちらが、より掛替えのない存在なのだろう?というオカシナ疑問が生まれます。 そうではなくて、自分は「目の前のこの人」と「××したい(変な意味ではなく)」というのを、実感をベースにして行きたいなと(解かりにくいですね)。「概念当てはめ型」に陥らないということです。「彼女」「運命の人」「幸せな生活」という概念を作り、そこに当てはめていくような人間関係は、結局は相手のことを見ていない(相手を読み取っていない)ということになりかねません。(再録:もちろん「概念当てはめ型」100%の人はいないでしょうが。)そういう、実感ベースのキズナが最後のピースとなって、崩落に身を任せられるんじゃないかと(なんか急に底の浅い話になったなぁ・・)。それが見つからないうちは、「すべてを手放す決意(修行的受容)」と「もう何も失いたくない欲求(概念的執着)」との間を行ったり来たりすることになるのだと思います。身体的実感を軸にすると、世界が「理不尽なほど神聖なカオス」に感じられます。しかし、それならば、「自己というものも同じくらいカオスであっていい」んだと思う。要は、それを認める勇気があるかどうか。自我というものを単一的に、また世界から独立したものとして定義していれば、自己のカオスを認めることは人格的統一性の放棄であって、これは苦痛でしかない。また、過去というモノを「過ぎ去ってしまってもう存在しないモノ」と定義していれば、海に漂う小舟のように不安定になってしまう。でもカオスは決して不安定な状態ではなく、全体として複雑な安定を保っているわけですね。結局、「認識力不足からくる複雑性への恐怖心」が、「現実世界の複雑性を取捨する概念先行の生き方」を導いてしまうのではないかと思います。(もちろん、科学者などはこの複雑性に挑むために統一的概念を設定しようと試みているわけですから、ここでの一般人と同列には考えていません。)
2007.10.01
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長々となりましたが。私の取る道は、現実世界の実感を軸にする。概念操作に頼らない。というものです。もちろん、人間社会は価値の総体です。したがって、価値判断を回避することは不可能ですし、それでは人間社会で生きる意味を放棄してしまうことになりかねません。大切なのは、価値判断を先行させずに、最大限利用することだと思います。また、「これまでの長い間価値判断を先行させてきたことによる思考の偏り」が感じられるようになりました。これまでに述べてきた、「概念操作型自己啓発」の弊害でしょう。そこを埋め立てる範囲での概念操作を行なうことはやむを得ないと思います。もちろん、ここでも現実世界の実感を基にしますが。さらに、概念操作に頼らないことと、統一的視点を持つことは、必ずしも矛盾するものではないと認識しています。「現実世界の実感」を入力系に据えていることにより、その統一的視点は物理的秩序(身体構造)へと反映されることはあっても、左記に長々と述べたような、バーチャルな概念秩序に陥ることはないのではないかと思います。以上をもって、その2を終えさせていただきます。
2007.10.01
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以上のように、現実世界と乖離した、概念操作による思考は、魅力的であるものの、結局その目を曇らせる原因となってしまいます。回りくどい言い方になりますが、「答えに到達するため」には一般的な意味での悩む必要はないと思います。答えは「到達するもの」ではなくて、「曇りの無い目によってピントが合う」ことによって現れる・気付くものなのではないでしょうか。 つまり、答えはもう「そこ」にあるわけです。答えを知っているからこそ、自らの言動や他人の身の振り方に違和感を覚えるのだと思います。 しかし、「そこ」は、感じ取れなければ存在しないのと同じです。そして存在を感じ取れないからこそ、概念主導の演繹的自己啓発が流行るわけですが。非PQ的思考では自らが陥っている思考のワクは意識されないでしょう。盲目的に走り回っているだけで、時間と労力を費やしたことによる「疲労的満足感」という目的は達成されますけれど。一方、本来的な思考(PQ的思考)にとって、ワクを認識することは不可欠だと思います。なぜなら、そこに自己が属する文化や社会の枠が見出すことができるからです。逆説的ですが、思考できないところまで思考し切ることによって、本来的な思考が始まるのだと思います。それまでのワクにぶつかるまで転げまわるプロセスは、あくまでも思考への準備にすぎないのではないでしょうか。長い長い道のりを歩き続け、海岸に到達する。ある人にとってはそこがゴールでしょう。しかし、そこが私のスタートなのです。水平線の遥か先にある大陸を思い浮かべ、そこに生きる人々や動物・草木に思いを馳せる。自分の足元が揺らぎ始める。「ここ」はどこなのか?自分の生きる「アタリマエ」や、他人の生きる「アタリマエ」がある。思考とは透明の水晶のようなもの。それはあまりにも透明なので普段は意識されない。意識しようと努めなければ、水晶を見ているか、それとも水晶に映る世界を見ているのか区別が付かない。すでに生起しつつある思考のカタマリを「感じ取る」こと。そこがPQ的思考の出発点であると思います。その思考のカタマリに対して「多角的に視点を設定する能力」・「各視点を鋭く抉り取る能力」・「解釈する能力」・「統合調和する能力」・「各人に合うよう再現再構成して伝える能力」。これらはPQ能力に不可欠な能力でしょう。
2007.10.01
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現実世界との対話現実世界と乖離した、いわばバーチャルなマイワールドの秩序を現実世界に「当てはめていく」というのは、精神的に弱っている人が一時避難する方法としては存在意義を見出すことはできるとは思います。それは、自分の内面の安定によって、現実世界をも安定させることが可能となるからです。しかし、現実性に根ざした幸福を追求していくのならば、その現実世界それ自体が持っているモノを「読み取って」いかなければならないと思います。たとえば、実物のペンを見たときに、「ペンである」というラベル付けをしてしまうと、その実物のペンはもう見れなくなります。「頭の中のペン」を眺めているので、いつもと違う面があったとしても、そのような違いを認識させるような事実が起きない限り(書いてみたらインクが切れている・・等)、その違いに気付くことはないでしょう。 また、本を読む際に「○○をチェックすればスラスラ読める」というような公式を覚え、それを当てはめていくようになってしまうと、本を読むことは出来なくなってしまいます。なぜなら、その本を読む前から持っている知識や公式を当てはめるならば、その知識や公式に当てはまらない部分は切り捨てられてしまうからです。[自分→公式→本]という図式になってしまいます。しかし、筆者の話に耳を傾けるという場合、本来は[自分←本]という情報の流れになるはずなのではないでしょうか?前者のように、自らの知識を当てはめていくような読み方は、自己確認にはなれど、自らの能力を磨いてはくれません。もちろん、どちらか一方しかしていないというわけではないと思いますので、無意識のうちに「当てはめる式」と「耳を傾ける式」を行ったり来たりしていると思います。要はその比率如何かと。「当てはめる式」は、「自らが専門とする分野の争いのない対象」に対し、「機械的に情報を集める」場合には威力を発揮しますから(大量の書類を読む場合など)。 私が挑戦している司法試験では、「勉強の方法を知識重視に傾き過ぎると、問題を読むことができなくなる」ということが多々あります。 「抽象化した知識」によって、「具体的事実」が切り捨てられてしまうからです。(分かりやすいものですと、業務用冷蔵庫の業務用という部分がポイントになる問題もありました。「家庭用の場合と比較して、何が違うのか」というのは、当てはめるような読みかたでは気付きにくいでしょう。)以上のように、既知の公式を当てはめることは、現実世界の持つ「抽象化しえない繊細さ」を切り捨て、自らの見たい世界をマイワールドに作り上げているに過ぎないと感じました。そしてこれが、「概念と価値操作主導の自己啓発」の魅力であり、また危うさでもあると思います。各人が持っている事実上の差異(生まれも育ちもカラダも違う)を無視し、対象を抽象化ジャンル化し(「怒りが込み上げた場合」「行き詰まりを感じた場合」などの場面設定を行なう)、「○○という考え方をすればよい」という一定の公式を示し、それを当てはめることで解決が得られたような感じにもっていく。事実を取捨している分だけ、モデルを見させられているときは、圧倒的な爽快感をもって問題が解決したように「見える」わけです。しかしながら、その取捨された部分の問題は依然として残っているわけですね。本人には見えなくなっただけで。「プラス思考」を標榜している人達、「人生楽しまなければ損」と言っている人達に対して違和感を感じるのは、「問題残ってるやんけ」ということです。現実を変えなくても、心が変われば悩みは消えると言われます。しかしそれは、「自分のことについて悩んでいる人」に対してのみ通用する言葉でしょう。いくら自分が自分の生活に幸福感を感じていても、「アフリカの子供達が死んで行くのを笑顔で見送れるようにはなりません」。マイナスの部分から目を背けてしまうのは、「プラス思考」でも何でもありません。「弱さ」です。これは、スピリチュアル式自己啓発でも同様です(あえて自己啓発と表現しますが)。「あの世の論理」を絶対化し、それを当てはめていくのは、自らの魂がレベルアップしたような疑似的な感覚になりますが、その分だけ抜け出すことが困難になってしまいます。そして、抜け出すのが困難であるというのは、それ自体が不自由を意味するのではないでしょうか。もちろん、自己という個体意識から、集団意識へと意識を拡大していくこと、そして意識を集約することで事実を変化させていくことはスピリチュアルの歴史的功績でしょう(近代市民革命など)。しかしながら、結局「あの世の奴隷」であることは変わりありません。また、「その人」と対話することが不可能になってしまいます。例えば、「目の前の人」が江原理論(あえて理論です)に忠実に従って生きているとしましょう。あの世の理論で言えば魂のレベルは高いわけです。しかし、私は「この人」と対話をすることはできません。いやむしろ、「この人」と対話をするためには、「この人」は必要ではないのです。なぜなら、私が江原理論を学べば、それで「この人」の考え・問題点は分かってしまうからです。たしかに、魂にも個性があるから、「理論の統一性」をもって「個体の類似性」に置き換えることはできないとも考えられます。しかし、人間は「意味」に引き寄せられます。「より意味を有する方を指向してしまう」傾向があると思います。であるならば、「理論の統一性」に美しい意味を付与されれば、その方向に個体の意識が集約・指向されていくのは当然であると思います。そして、魂の個性は認めるものの、同じ方向を指向するのであれば、結局その個性は「レベル違い」によって評価されるということにならないでしょうか。「より真理に近い魂」はレベルが高く、「遠い魂」はレベルが低いと。このような階級意識・差別意識を真理であると認めることには抵抗があります。スピリチュアルを標榜する者の「君達分かってないねぇ」的な言動は、このような「真理との遠近関係からくる優越感」に根ざしたものなのかもしれません。と、これ以上書いてもキリがないので、この話題はここで切り上げます。(この「その2」は壮大な回り道なので・・・)
2007.10.01
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観察による気付きではどうしたらいいのでしょうか。先ほど、「現実世界と頭の中の世界と相違するから悩みが生じる」と述べました。そうすると、悩みが生じた時点で、マイワールドは出来上がっているんですね(アタリマエの話ですけど。まぁ意識しているかどうかは別としてね)。つまり、[現実世界との乖離→マイワールドの成立→悩み]ではなく、[マイワールドの成立→現実世界との乖離→悩み]なわけです。悩みが生じた時点で、「現実から乖離したマイワールド」が存在(?)するわけです。その場合、さらに「現実から乖離したマイワールド」の「中」で、あれこれ概念的に思考(モドキ)をしてみても、前述のように「思考は自己確認的・現状維持的」ですから、「現実から乖離したマイワールド」の「外」、すなわち「現実世界に根付いた内的世界(外的世界と対話可能な内的世界)」へと飛び出すことはできないわけです。このように、概念的・意味論的な悩み解決または自己啓発は、進めば進むほどその世界から抜け出す道が無くなっていきます。進めば進むほどというのは、その概念操作を高度に行なうことができるようになればなるほど、現実世界の持つ情報をいかようにも変容して取り込むことができ、また、操作できるからです。現実世界の情報を変容して取り込んだ場合、たとえそれが素晴らしい結果をもたらしたとしても、結局は「世界を歪んだカタチで捉えている」ことになってしまうのではないかと思います。「世界を歪んだカタチで捉える」ようになってしまうと(そして、それがその人にとって素晴らしい世界であればあるほど)、「自分の見たいものしか見ない」「自分の認識力が及ばないものは見えない」わけですから、「発見されずに死んで行くイノチの涙」は見えないことになってしまいます。その結果、当人からは見えないアレコレを引き起こし、または跳ね返ってくることになります。この、認識していない世界からの跳ね返り(流れ弾)を、再び歪んだカタチで「自分の見たいように見る」わけですから、マイワールドの平穏は保たれるわけです。なお、概念操作によるマイワールド形成では、「投げたものと返って来たものの関連性と相違」に基礎を置くフィードバックによる学習は起こりえないことになります。つづく・・っていつまで続くんだろう・・・
2007.09.30
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悩みと分析以上のように、「悩み」自体は問題解決に向けられているわけではないと思います。悩みは自分の感情に気付くためのサインだと思います。言い方を変えると、人が悩むとき、「本当の答え」は「悩みとは別のところから探さなければならない」ということでもあります。起こっている又は起こりうる事実に対して悩みを抱える場合、それは「頭の中の世界と相違する」からであるといえます。自分の望んだ世界と実際の世界が一致しているなら悩みは生じることはないでしょう(または格段に少なくて済むはずです)。だからといって、「(裏切られるとツライから)希望は持たないほうがいい」というのでは、人間の意志の力・無いモノを創り出す力を半減させることにもなりかねません。人間の持っている本来の能力(本能)を活用していく道を探るのがPQです。社会的圧力に合わせ、そのワクの中で創造(ごっこ)をするのは「奴隷の夢」でしかないでしょう。われわれは一般に、思考の中に現実の物理世界とは別のマイワールド(内的世界)を持っています。このマイワールドは物理的な世界ではないので、現実の世界のルールによる制約を受けづらくなっています(例えば、私は今すぐにあなたのところへ瞬間移動できます。例えが気持ち悪いですけど・・)。このマイワールドは、意味や概念・期待・感情の世界です。だからこそ暴走の可能性があります。実際の世界では、突然タライが落ちてくることはありません。しかしマイワールドではそれは可能です。したがって、マイワールドにもルールや秩序が無ければ、現実の世界との乖離を不要に招くだけになってしまいます。しかし、あまりにルールや秩序に縛られてしまうと、今度は自由な発想や夢を持つことが困難になり、無気力につながってしまうでしょう。個性が育たなくなるおそれもあります。さらに、現実世界よりもマイワールドを先行させてしまうと(現実世界に“マイワールドを当てはめる”ような生き方をしてしまうと)、マイワールドにおいて存在しないものは認識できなくなってしまいます。これでは現実世界の多様性を取捨することになってしまい、自己の認識から一歩も出ることができなくなってしまいます。このように、マイワールド先行の悩み解決では、その足場が無いだけに不安定で、また外の現実世界との乖離にさらに悩まされ、「現実にあわせるか」と「理想を追求するか」の間で揺れ動くことになってしまいます。つづく・・・長いなぁ・・・
2007.09.30
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PQ開発一年の成果その2です。(長いですが、本題の前振りというか脱線ですかな) 思考では超えられない壁があるようにはっきりと感じるようになった。頭でぐりぐり考えても、結局一歩も進んでいないことに気付きました。その意味で、思考は自己肯定的、又は現状維持的です。なぜこのような自己肯定的・現状維持的な思考が人類に搭載されるに至ったのかは、これからの検討事項です。思考が現状維持的であるとすれば、どのようにして人間の能力の向上が図られるのだろうか。同じ枠の中でしか物事を捉えることができないのならば、明日見る風景は昨日見た風景と同じです。初めから決められた囲いの中であれこれとはしゃぎ回っているだけで、結局どこかにたどり着くわけではありません。そして、思考による一応の疲労感が達成感に置き換えられることはあっても、そして、たとえ何かが達成されたとしても、その結果はそういった徒労から生み出されたわけではなく、その人の能力・実質は変わらないのではないのではないでしょうか。つまり、人間の能力向上は、思考とは別のものから生じているのではないかと。もちろん、ここでいう思考とは非PQ的思考のことで、「悩み」と同列に扱われるものです。ここまでをまとめると、人は悩む。そして悩みは自己肯定的である。したがって、人は自己を肯定するために悩む。自分を認めて欲しいから悩むというわけです。ただ、「自己を認めることによってもたらされる成長」は、「思考の産物ではない」ことに注意が必要かと思います。「頭の中で駈けずり回ること」それ自体に意味があるのではなく、「頭の中で駈けずり回ること」に対する「意味付けの仕方」に意味があるわけです。さんざん駆けずり回ったあげく、結局何も手にできず徒方に暮れる人は、また駈けずり回るハメになります。その一方で、一度駆けずり回った経験から学び、二度と駆けずり回る必要がなくなる人もいます。満たされない人は、自分を肯定するためになんども悩みます。しかし、同じように満たされない人の中でも、「自分は満たされていなくて、自分を認めたいという欲求の現われなんだ」と気付いている人は、悩むことはないでしょう。感情が「個体と社会の結び付きを表象するサイン」であるならば、そのサインに気付いた瞬間に「気付いて欲しい欲求」は満たされていますから。次に必要なのは分析と行動です。つづく・・・
2007.09.30
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なんだかんだで一年が過ぎました。PQを「続けた」というより、「止めなかった」という感じでしょうか。消極的な言い方のようですが、意志力ではない一年だったなぁと。んで。一応の成果。1:身体意識の高まり これはいうまでもないですけど。でも、「カラダのどこかを動かそうという意識」よりも、「カラダと外界を感じること」に意識を向ければ、自然と適切な姿勢に向かうような感じがしています。「適切な」というのは「正しい」とは違うということです。自分のカラダの状態と、社会との関係性の中で表現される形態が、姿勢なんだと思います。 社会との関係性というのは、簡単に指摘されているようでなかなか把握しにくいものですね。人間が社会的動物であるのならば、「自己」という範囲に、社会関係を含めて考えるべきなのではないのかと感じます。 たとえば、蜘蛛というのは、「蜘蛛の体」だけでなく、その製造物・表現物である「蜘蛛の巣」を含めて蜘蛛である、と考えるでしょうし。 とすれば、「自分と社会との在り方」というのも、(あたかも蜘蛛の巣が張り巡らされているように)、自分の範囲に含まれるのではないかと。 もっとも、社会関係という場合は、(蜘蛛と蜘蛛の巣との関係とは異なり)相手も独立した(?)個体です。したがって、蜘蛛の巣を辿るようには簡単にその全体像を把握することは困難です。 したがって、自己の物理的な身体構造は、その内実として、自己によって定義されうる「個性」と、把握困難な「社会性」を含む、とても複雑な構造になっていることに気付きました。 このように、「単純には把握困難である」ということに対する繰り返しの気付きが、この一年間における身体意識の気付きの最大の成果といえます。 その分だけ、高岡理論などによる「上から(演繹的に)支えるアプローチ」の有効性も再認識できました。気付きの蓄積による帰納的な統一を目指すと、どうしても常に部品が足りなくなってしまう。 把握困難な「個性」「社会性」から来る部品の不足を、「ある種のフィクション」で演繹的埋めることも、全体的な発展という意味では必要だと思うようになりました。つづく・・・
2007.09.30
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今朝夢見て、号泣しながら目覚めました。たまにあるんだよなぁ、こういうの。ワケ分からん夢だったなぁ。友達と会う約束してた(そういう設定でした)からそこへ向かってたら、いきなり「内戦」が始まりまして。夢の中だけあって、場面がコロコロと変わるんですが。全編にわたり英語です。現地人の英語がひどく訛ってて、これまたリアルなんですが、相手のこと(つまりおいら)を「I」と言ったり。When you use “I”, it means me?「Iっておいらのことを指しているのか?」とかのやり取りがリアルでしたね。イザとなったらありうるなぁって。心配のし過ぎか。途中で山奥の焼け野原に集められたときに小学校の同級生に遭遇して、そこだけは日本語でしたが。そんで敵に捕まったんだけど、戦闘員ではないということで、とある町(中東っぽい?‥レンガの家が多い)の教会らしき場所に収容されて。日本人はおいら一人だけでさ、その教会でイロイロ聞かれたんだな。最後のやり取りが印象的だったのでQ&Aで掲載。Q=質問者(女性でした)A=おいらQ:How did you get there?どうやってあそこに行ったんだ?A:Via Philippine.フィリピン経由だQ:What are you doing in that area? What your purpose?あそこで何をしていたんだ?何が目的なんだ?A:To look for English teacher. We Japanese need excellent ones. This is because we must reconstruct our country in the international world, and have responsibility for what we have done and will do in the future toward the countries around us. 英語の教師を探しに来た。 我々日本国民は質の高い英語教師を必要としているのだ。なぜなら、私達は日本を再建しなければならず、近隣諸国に対して行なってきたこと、ならびに将来において行なうことについて責任ある立場にあるからだ。Q:What are you longing for? 君は何を望んでいるんだA:My wish? 望む? Q:People around here pray to make it happen. みんな望みを叶えるために祈ってるんですよ(教会の中からはお祈りをしている人々が見えた。それは神社の境内から外を眺めているような景色で、比較的身なりのしっかりした子供から年寄りが祈りを捧げていた。どうやら教会の中に向かって自分の望みを話すのがそこの風習らしい。)PEOPLE1: May I have big money. PEOPLE2: Please bring me a holy place.PEOPLE3: Have fun with the girl.金持ちになりたい聖地に行きたいあの子とうまくやりたいA:I don't want “my” wish. I don't pray. I make "our" world safe and mature to make "everyone" happy. This is neither WANT nor WISH. This is what I DO. 望みなんていらないし、私は祈りなんて捧げない「みんな」が幸せになれるように、「我々の」世界を安全で成熟したものに「する」んだ。これは「したいこと」でもなければ「望み」でもない。これは私が「(事実として)行う」ことなんだ。これを言い終えてウェイクアップしました(ルー語になってますが‥)。起きたときは号泣。夢の中でまで幻滅体験しなくてもいいと思うんですが・・でも、自分の夢とやらを延々と語る人々を見ていたら「誰のおかげでそんなことが言えると思ってんじゃい!」ってワナワナと怒りが込み上げてきました。最後の台詞はチャップリンの「独裁者」の最後の演説みたいになってますな。『I should like to help everyone』とか言ってやればよかった。たぶん、久間発言の「ソ連が侵攻して北海道を占領されていれば、日本は朝鮮半島のように東西で分断されていたかもしれない」といった趣旨の部分や、「五分後の世界」の「日本がまだゲリラ戦を続けている」という世界が頭の中でごっちゃになったんでしょう。最近は、世界の王になったとき何を語ろうかと考えています。そういったものがこの「宣言」には含まれているようです。訛った英語を話す相手に対しても、「わたしたちの勇気とプライドを示し続ける」ことを意識して話してましたし(夢の中でね)。
2007.09.09
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DVD付きの書籍を買いました。「フェルデンクライス・メソッドWALKING―簡単な動きをとおした神経回路のチューニング」ってやつ。「幼いころの飛躍的な発達をささえた脳・神経回路の学習システムに働きかけて、“立つ”“歩く”“走る”を、重力と調和したハイレベルな“Balancing Act”へと改善。むだな緊張や努力感のない自由自在のパフォーマンスを実現する。欧米で注目のボディ・ワーク。」とのことです。「むだな緊張感や努力感のない」ってのがPQっぽいなと思いました。内容も、「微細な動き」によって「違いを感じ取る」ことがメインです。あまり「○○体操」みたいに「大きなイベント」は無いですね。「非日常的な○○体操」で身体や意識を変えようとしても、「魔法」は長く続かないんですね。ディズニーランドにいる間は楽しめるけど、一歩外に出たら「明日からまた仕事イヤだなー」とかなってしまう。でも、そんな「大げさなワンダーランド」でなくって、この混沌とした世界の中でも、「いつもはやらないような簡単な微細な動き」をするだけで、カラダには「いつもとは違う結果」が現れている。そこをキチンと「身体感覚」で受け入れることができたら、そしてそれを「快」として感じることができたら、まさにこの場こそ「気付きの場」であり、まさにこの瞬間こそが「カタルシス」になるわけで。もっとも、「いつもの自分」を把握できていなければ「いつもと違う自分」を感じることはできない。したがって、大海原に注がれた一滴の墨汁ほどの「いつもと違うこと」に気付かない人は、それを丁寧に掬い取ることはできず、「いつもと同じ世界」にその黒点を溶かし込んでいってしまう。「いま」と「さっき」で違うことはないですか?「ここ」と「あそこ」で違うことはないですか?最近は大きな変化というのは影を潜めているんですけど。これは大きな「結果としての変化」がないという意味です。最近起こっている変化というのは、「目盛が細かくなっている」ということ。他の人が、そして今までの自分が「四捨五入してcm単位」で物事を判断していたのが、「mm単位」になってきた感じ。その分、「なんでこの人はここの3mmを無視できるんだろう?」と不思議な感覚+怒りを感じています。たぶん、その「不思議な感覚+怒り」がこれまた「微細な行動の変化」に現れるようになって、そのフィードバックで・・・っていうのが至上のサイクルなんでしょうけど。ビジョン(抽象的な自己像)は大きく。行動(具体的な自己実現)は微細に。でも思い切って。未来は長期的に。現在は細分化して、1時間単位よりも1分単位で。1秒単位よりももっともっと細かく。ストップウォッチの0.01秒よりも、もっともっと細かい「スモールワールド」の集積。そこに「1つしかないと信じている自我」を超えた存在としての行為が生成されてくるんだと思う。あ、膝下が少し細くなりました。
2007.09.08
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