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昨日、出かけた帰り道、バスの時間まで余裕があったのでデパ地下で、焼売弁当を買ってきました。久し振りに食べた焼売弁当でしたが一つ一つのお菜が、吟味され丁寧に味付けされていて評判の良いのも、なるほどと、頷けました。たまには、こう言うお昼も目先が変わって良かったです。↑ ルリマツリ↑ ノウゼンカズラ↑ ラベンダー散歩道の花がいつの間にか、夏の花に模様替えしています。このところ、一気に猛暑襲来!夏の花が一気に元気になりました。私はと言えば、月初めに図書館で見つけた高田郁さんの「商い世傳 金と銀」に夢中です。高田郁(たかだかおる)さんは、あの「みをつくし料理帖」の作者でもあります。12巻中、ただいま9巻まで読破、かくして、私の頭の中は江戸時代の商家モード。けさ、友人に送ったLINEの文章も江戸モードになっていたらしく合わせた文体の返事が返ってきて一人で笑ってしまいました。残りの3冊+1冊を期限の1週間で読み終えて、返却しなければなりません。久し振りに夢中になれる本に出会てテレビも見ずに、暇があれば読んでます。
2022.06.28
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☆あきない世傳金と銀(7)碧流篇・高田郁・角川春樹事務所・時代小説文庫(ハルキ文庫)の書き下ろし作品・2019年8月18日 第1刷発行♣︎亀蔵智蔵の友人。人形浄瑠璃の人形の遣い手。♣︎菊次郎歌舞伎役者。菊瀬吉之丞の実弟。♣︎中村富五郎歌舞伎の名優火の扱いの厳しい江戸では内風呂を備える家は少なく、殆どの者が湯屋を利用する。広小路を歩く楽しみもあり、五鈴屋7代目であり、江戸店の店主の幸と、奉公人の竹の2人は、店から少し離れた湯屋を利用していた。江戸の湯屋は、貧富の差を問わず利用するため、様々な着付けを眺めることができる。江戸では帯の巻き方が逆だということもここで知った。湯屋での幸と竹の遣り取りがが耳に入ったのだろう、中年女がふと、2人に目を移し、確かめるように注視したのち、話しかけてきた。連れの女の子をさし、10日ほど前に、この子の晴れ着用の手毬柄の友禅を半反、買わせてもらった者だという。反物をかける「撞木(しゅもく)」を依頼した指物師、和三郎の姉の才であった。最初は贅沢だと怒っていたお才の亭主は、反物を見せたら、よほど出来栄えが気に入ってしまったらしく黙ってしまったという。それが、五鈴屋と染め師、力造との出会いであった。掛け取りがない江戸店の大晦日は静かだ。揃って夜中に目覚めてしまった主従の胸には、この一年の様々なことが去来する。一つ屋根の下で暮らし、開店に向けてあらゆる知恵を出し合った。五鈴屋当主の女名前が許されるのは来年一年限り、新年も「笑う門には福です。笑って勝ちに行きましょう」店主の静かな誓願に忠義の奉公人たちは、へぇ、と声をあわせた。毎月14日は、無料で帯結びを教える日であった。最初は遠慮がちだった女たちだったが、帰りがけには何度も何度もお辞儀をして嬉しそうに帰って行く。ただちに利を産まずとも、いずれゆっくり大きくなって戻ってくれば良い。店の姿勢を知らせる良い機会になると、幸は考えていた。大抵の商家では、帳簿類に目を通すのは店主と番頭のみである。五鈴屋では6代目の要望で幸も加わった。7代目となった幸は、江戸店では4人全員が店の現状を把握できるようにと、お竹と賢輔も同席させた。吉原廓と芝居小屋。江戸で暮らしている内に、せめて芝居小屋は覗いてみたい。智蔵の友人で人形遣いの亀蔵からは、菊次郎という名の歌舞伎役者を訪ねるようにとの助言をもらっていた。柔らかな考えを生み出すためにも、その菊次郎に会ってみよう、と決めた幸だった。最初は商売のために来たのかと思っていた菊次郎だったが、話を聞くうちに幸の気持ちが届いたようだった。夕鯵売りの声を聞きつけ桶を抱えて飛び出した賢助が戻らない。惣次を広小路で見かけ裸足で追いかけたが見失ったという。竹も針供養の折によく似た姿を見たといった。彼は9年前に家を飛び出した五鈴屋の5代目であり、幸のもと夫でもあった。惣次が生きていたと分かれば、跡目が厄介なことになる。隠し通すことはできない。治兵衛と孫六の判断を仰ごう。冷静な2人は、今回もきっと良き方向に導いてくれるに違いない。幸は腹を据えた。伊勢の白子に型紙があり、江戸には型付師と呼ばれる染め職人がいる。何故、誰も「小紋」と結び合わせることがなかったのだろう。江戸っ子にとって小紋染めは武家の裃のためのもの。だが、江戸なら、身分を超えて小紋染めを纏うことも、きっと受け容れられる。五鈴屋7代目はそう確信していた。型紙を手に入れる算段を始めたものの、型付師のあてはまだ見つからず、五里霧中の状態だった。富五郎が演じる娘道成寺を見に、京へ行っていた菊次郎が戻り、五鈴屋に顔を出した。菊次郎の兄吉之丞が演じた清姫は、まさに当たり役であった。菊次郎は、江戸で上演される舞台衣装のうち、なんぼかを五鈴屋に任せられないかと頼んでみてくれたという。富五郎が戻ったら一遍連れてくると、上機嫌で店主に約束して帰って行った。明日は十三夜という日の夕暮れどき、幸の妹の結が鉄助と賢輔に守られるように到着した。小さな小さな鈴が一面に散らされている中に、少しだけ混じる心持ち大きめの鈴。しぼのある縮緬に染めれば、遠目には無地に見え、かなり近寄れば少しだけ大きな鈴に気づき、更に近づけば鈴紋だとわかる。他に洩れることのないよう、また、今後とも型彫りの仕事が頼めるよう、伊勢型紙の彫り師と約定を交わした上で、代銀を決めたという。番頭の判断に、幸は大きく頷いた。五鈴屋固有の小紋染め、これから江戸店の屋台骨を支えることになる小紋染めの型紙なのだ。深く頭を下げる幸に、鉄助と賢輔は、巴屋さんや白雲屋さんのご尽力があればこそ、彫り師の梅松さんに辿り着けたのだと言った。また、小さい鈴の中に、少し大きめの鈴を混ぜることを賢輔に提案したのは結だと言った。大阪へ戻る日が近づいたある日、本店の番頭、鉄助が、跡目の話を切り出した。「様々な事情が絡み、大阪では足掛け三年のタガが緩み始めている。足掛け三年を押し通して不都合が出た場合にどないするか、最も安易な解決策は、延長を許すということだす」といった。また「惣次が江戸にいたとなると、あとあと厄介なことになるのは明らかだ。五鈴屋が惣次のことを隠さず仲間に正直に相談したことで却って良い方向に向いた。それを受けて、親旦那さん(孫六)と治兵衛が何としても延長を認めてもらう方向で動いている」という。未だ確定したことではないが、幸以上に奉公人を束ねる力のあるものはいない。これからも、7代目の仕事を我々にも支えさせて欲しい、と佐助ともども、膝に頭がつきそうなほど頭を下げた。あと数日で神無月の声を聞く。鉄助が江戸を発つのは明後日に迫っていた。鉄助が幸だけに、これは未だ自分だけの考えだと前置きして、思いがけない話を始めたのだ。自分が8代目に相応しいと思う人の名を挙げたのだ。「今回の小紋染の段取りや働きを見ていて、五鈴屋の8代目に相応しいと、私は思います」と。約束の日を過ぎても未だ型紙が届かない。自分で確かめてくるという賢輔を皆で窘めているとき、聞き覚えのある大阪訛りが、店の戸口から聞こえた。歌舞伎役者の菊次郎と、もう1人、目鼻立ちの整った男がこちらを見ている。幸の目に、堺町で見かけた歌舞伎役者の絵が重なる。歌舞伎役者の富五郎であった。一礼して名乗る幸に向ける眼差しが何とも暖かで優しい。初対面の筈なのに、まるで親しい人に向けるような、懐かしげな眼差しだった。さり気なく水を向けてみても、何も応えず、ただ穏やかに微笑むばかりであった。霜月8日、黒塗りの挟み箱を担いだ、手甲脚絆に菅笠姿の男が、「四日市宿からの早飛脚でございます」といい、店の前に立った。水害の被害があり、期日から遅れること半月、やっと受け取った型紙を、番頭の鉄助は早飛脚に託したのだ。皆が待ちに待った「伊勢型紙」であった。届いた伊勢型紙を神棚に祀り、音高く、両の手を打ち合わせる。荷物の中に入れられていた、鉄助から幸に宛てた切り紙には、「師走最後の寄合で、惣次が江戸にいると分かったこと。延長の後の跡目の候補との二本柱で、天満呉服仲間の承認を取り付ける目処が立ちつつある。延長後の跡目のことは、治兵衛は渋っているが、孫六も、呉服仲間たちも皆、『それならば』と理解を示してくれている」と書かれていた。また、「船場の呉服商をまとめる大阪呉服仲間でも、足掛け3年の女名前を延長せよとの話が出ている」と補足されていた。当初、高島店支配人の周助を跡目にと考えていた幸だが、周助はむしろ、もともと奉公していた桔梗屋の暖簾を引き継ぐことを望んでいるのではなかろうか。正式に延長が認められたら、周助とよく話し合おう。そう決めて、幸は切紙を畳んだ。力造の女房のお才から、力造が小紋染めをやめた事情を聞いていた幸だった。力造は他の職人を紹介するといい、自らが小紋染めに戻ることを頑なに拒んでいた。けれど、「力造は型染にもどりたい。お才もまた、力造を型染めに戻したい」。力造の染めに対する矜持と本心を知れば知るほど、力造にこそ、鈴紋の小紋染めを作ってほしい、と強く願う幸だった。帳場に戻り、密かに伊勢型紙を愛でていた幸の耳に、「おいでやす」というお客を迎える支配人の声が聞こえた。常と異なり声が裏返っている。お竹は腰を抜かさんばかりな狼狽えている。客は歌舞伎役者の富五郎だった。富五郎は稽古着用の反物を見立てて欲しいとやってきたのだ。支払いを済ませようと、懐から取り出した紙入れが、何とも美しい、目の覚めるような紫の紙入れだった。富五郎は紫草の根で染めた「江戸紫」という色だと教えてくれた。店内を眺めていた富五郎の目に、薄紙から僅かに覗く鈴模様の伊勢型紙が見えた。許しを得て手に取って眺めた役者は、五鈴屋独自の小紋染を考えた経緯を聞き出して、しばし絶句する。そして言った。「最初に染めたものを、江戸で産声を上げる反物を、是非とも譲って欲しい。来年の『娘道成寺』、舞台衣装ではないのですが、少し考えたいことがあるのです」型彫師が精魂込めて彫り上げた型紙は、役者の心をうった。ならば、型付師ならどうか・・・。幸の熱意が頑なだった力造の心を解かした。型を彫った植松と、染めた力造の想いをしっかりと抱きとめて、江戸紫の小紋は、そこにあった。歌舞伎役者は、仕立てに関しての細かな遣り取りを交わして、暇をつげる。帰りがけ、富五郎のはふっと唇を解いた。「15、6年ほど前のことです、2人の友との出会いがありました。齢も近かったし、互いに若く、夢も野心もあって、それが心地よかった。歌舞伎以外の世界を垣間見れたのも、その友達のお陰でした」「1人は人形遣い、もう1人は、心斎橋の貸本屋に居候しながら、こつこつと読み物を書き綴っていました」幸は、顔色が変わるのが自分でも分かった。そして、役者は、この度の娘道成寺は自分にとっても大きな賭けになること、亡き友のご縁に縋りたい気持ちなのだと。幸と竹の2人が着物の仕立てることに拘った富五郎の気持ちがやっと分かった。如月25日。お練りの日。富五郎の姿を一眼見ようと集まった人々で、通りは大変な人出だった。富五郎の着付けを待つあいだ、菊次郎は、今日は富五郎のお練りの日やけど、五鈴屋の小紋のお披露目の日でもおますなぁ。これから大変なことになりますで・・・」と言った。座敷を出る時、「智やん、一緒になぁ」富五郎の囁きは、幸と竹の耳に届いた。☆あきない世傳 金と銀(8)瀑布篇・高田郁・角川春樹事務所・時代小説文庫(ハルキ文庫)の書き下ろし作品・2020年2月18日第1刷発行鈴模様の小紋が飛ぶ様に売れたが、麻疹が流行り店先から客の姿が消えた。江戸紫の小紋を、麻疹封じの鉢巻にしたいという母親に乞われ、手間賃を上乗せせずに切り売りにして売った。初冬を迎える頃、ようやく麻疹が下火になり、晴れやかな物を商う店に活気が戻りつつあった。行き交う人の中に、「紀州御用 伊勢型紙」と染めた幟を手にした行商人の姿が見られるようになった。大店だけでなく、多くの店が小紋染めを扱える様になった。幸は、商いへの影響を憂うより、多くの店が競い合うことで、友禅染めと同じように、小紋が広まってくれること方を喜んだ。中でも絶大な人気を誇る五鈴屋は人手が足りなくなる。いずれ大阪から手代をを移すまでの間、近江屋の好意で、壮太と長次の2人に通いで来てくれることになった。開店から3年、年末までの売り上げの目安が銀千貫目となった。それは、江戸店を出す目安とした本店の売り上げの目安であった。「衰颯的景象 就在盛満中」「衰颯の景象は、すなわち盛満の中に在り」ー衰えていく兆しというのは、実はもっとも盛りの時に在るー、という意味である。修徳の顔が浮かび、改めて気を引き締める幸であった。いずれ、賢介を大阪に戻し結と夫婦に、と考えていた幸だった。けれど、竹の話を聞き、賢輔本人の意思に配慮が足りなかったと気付かされた。長月、鉄助が江戸へ着き、賢輔に8代目を継がせることで纏まっていた話に親旦那さんから待ったがかかった。小紋染は今が正念場。賢輔抜きで乗り切るのは、賢輔にとっても五鈴屋にとっても惜しい。賢輔が五鈴屋の店主になるのは先にした方が良いと、思い直したのだという。呉服屋仲間から呼び出しがあり、出向くと、「おかみから、近々、五鈴屋に対する上納金の申し入れがある」と告げられた。その額1500両。応じなければ、呉服屋仲間から抜けてもらうことになる、という。支払うしか道は無い。両替商に借入の相談に行った幸と鉄助の前に、思いがけない人が現れた。9年前に出奔したまま行方知れずだった惣次が、本両替商井筒屋3代目保晴として現れたのだ。「上納金など、両替屋に借りてまで用意する物では無い。五鈴屋の暖簾を守りたいなら、知恵を絞りなはれ。悪い奴程阿保な振りが上手いよってに気をつけなはれ」と、言い、縋る鉄助には「私は井筒屋3代目保晴で、五鈴屋だの8代目など関係ないことだす」と言い置いて去っていった。1500両の上納金は、年に500両ずつ三年分割でも良いと了解が取れた。それでも、大金であることに変わりはない。まず、上納金については幸自身、考えがあるといい、いま、五鈴屋で何ができるか、何か手がかりがないか皆で知恵を寄せ合うことが出来る。跡目のことは、賢輔に9代目を継いでもらいたいと考えている。小紋染のためにも、五鈴屋のためにも、あと数年は江戸で踏ん張ってもらいます。賢輔どん、あなたは経験を積んで、9代目店主に相応しい器におなりなさい」番頭の鉄助は、まず自分で、相応しい器になれるよう踏ん張ってたあとで、継ぐか継がないか決めたら良い、と言葉を添えた。伊勢から型堀師梅松が到着。力松の家に住むことになった。立ち消えになったと、皆が思っていた両替商音羽屋との縁組が再燃。結本人も、この人と決めた人がいるとはっきり断った」。干支の文字を彫った型紙が出来上がった。梅松と力造に無理を言い、皆に見せたいと一旦店に持ち帰って来た。神棚に上げて、その夜、幸は安堵から深い眠りに落ちた。異変が起きたのは、翌朝である。紅で「かんにん」と書いた紙片を残し、昨夜、神棚に供えた筈の型紙と共に、結が消えた。☆あきない世傳 金と銀(9)淵泉篇・高田郁・角川春樹・2020年9月18日 第1刷発行・ハルキ文庫書き下ろし作品、手代の賢輔が図案を考え、型堀師の梅松が精魂傾けてて彫った、十二支の漢字を散らした紋様の伊勢型紙。今後の五鈴屋の命運を賭す大事な型紙が、結と共に消えた。賢輔との結婚が叶わないと知った幸の妹、結が型紙を無断で持ち出し、あろうことか、両替商の音羽屋に駆け込んだのである。途方に暮れ、詫びる言葉もない幸に、梅蔵は思いもかけない話を始めた。「私が彫った型紙、あの十二支の文字散らしの型紙は、五鈴屋以外の店が、あれで染めた反物を売り出しでもしたらえらい騒動になりますやろ」という。賢輔が書いた図案に、3箇所だけ別の字をいれたのだという。それは、「五」「金」「令」の文字であった。音羽屋の妻となった結は呉服店を任されることになり、文字散らしの小紋が売り出されることになった。けれど、そのその三文字のおかげで、文字尽くしの小紋の本家は五鈴屋であることが知れ渡ったのだ。訪ねて来た歌舞伎役者の菊次郎が、近頃江戸では一風変わった句合わせが、えらい人気で、こないな句が披露されてましたで、と言い、くっくっと肩を揺らして笑う。「本家より 分家が出張る 文字散らし」今では「五、令、金」の文字が身の証を立てて、江戸中の者が五鈴屋が本家やと認めてる。何よりのことや、と菊次郎は鷹揚にに言った。次々と厄介な問題に当面する五鈴屋に、又々新たな災難が降りかかった。加賀藩に売った白生地100反が原因で、呉服仲間の怒りを買ってしまったのだ。師走8日、その日は富久の祥月命日であった。寺は葬儀が行われており、幸と竹は人々が去るのを待ち寺門を潜った。偶然その場に居合わせた井筒屋3代目保晴を名乗る惣次は富久の次男であり、幸のもと夫であった。惣次は、五鈴屋が呉服仲間から外されそうになっていることを知っていた。彼は、その昔呉服仲間から外され、潰れるどころか大きくなった店の例を上げた。京に仕入店を持つ五鈴屋では、仲間から離れても別段困ることではない。組合が必要なら自分で作れば良い。しばらくは商いを諦めることや。極めて真摯に、惣次は幸に伝え、ゆっくりと立ち上がった。そして、上納金のことも、今回の仲間はずれのことも偶然のことではない。早く気がついた方が良い、と。「・・・音羽屋忠兵衛」 幸の呟きに、惣次は口のはしを持ち上げただけだった。怒りの炎を双眸に宿したもと女房をじっと眺めて、惣次は軽く頭を振った。喋りすぎてしもうたなといい、本堂を後にした。今年に入ってからの売り上げは悲惨な上に、木綿についても知恵の糸口も見つからない。引き伸ばし続けた大阪行きだった。近江屋の茂作が帰る時に合わせて、幸は8月中に江戸をたち10日ほど向こうで過ごしたら戻ってくることに決めた。葉月20日、茂作と幸、それに型彫師の梅松が同行して旅立った。江戸を発って19日、予定より早く一行は大坂の土を踏んだ。7代目到着の知らせを受けて、次々に奉公人が現れた。新しい顔も多い中、成長した奉公人の姿をみつけて、幸は思わず呼びかける。賢輔の父親であり、もと番頭の治兵衛、親旦那さん(もと桔梗屋の店主、孫六)と相談もできた。治兵衛と孫六は、両替商の音羽屋が、なぜそこまで五鈴屋を狙い撃ちにするのだろう。だが、太物を扱わない音羽屋は、太物扱いに絞った江戸店を狙い撃ちすることは難しいだろうという。「深い淵の底で、泉のように知恵を湧かせてみたい」と言う幸に、治兵衛は満面の笑みを湛える。8代目の周助の嫁も決まった。綿買いの文次郎からは綿について知識をもらい、もと4代目徳兵衛の嫁だった菊栄にも会えた。菊江は、いずれ江戸へ出て、自分の名で、大阪では出来ない商いをするつもりだと言い、江戸で会いまひょうなぁ、と晴れ晴れと言った。懐かしい人たちと会い、様々な知識を得、多くのことを学んだ幸。梅には「菊枝が鉄助らと共に江戸へ行く時、江戸までお供をしてもらえないかしら。江戸で待ってますからね」と言った。江戸で「太物商い」の花を咲かせよう。長月22日、旅装束の7代目、江戸店へ回してもらえることになった手代と丁稚、それに型彫師の一行は、別れを惜しみつつ旅立った。復路は紅葉の只中であった。浜松で長月から神無月になり、予定通り20日で、一行は江戸に入る。木綿生地に型を置き漬け染で染めると、柄がぼやけてしまう・・・。力造の試行錯誤は続いていた。風呂上がりに着る湯帷子としての浴衣ではなく、街中でも着られるようなものにしたい。幸は芝居小屋の役者たちが着る部屋着としての浴衣を思い浮かべていた。生地の白をクッキリ浮き立たせるために、ぴったり重なるように両面に糊を置こうと、力造は躍起になっていた。けれど、小紋用の細かい模様の型では、模様がぼやけてしまう。「模様を大きくすればどうか」と言う幸の台詞に型付師夫婦と、型堀師が目を剥いた。賢輔が幸を庇うように「せっかくの藍染め、小紋では勿体ない、と私も思います。藍色地に、確かに麻の葉だと分かる白抜きの方が、藍染めの美しさが際立つのではありませんか」。藍染めは身分を問わず誰にも好まれること。両面が同じに染まる浸け染なら、裏返して縫い直せることなど、賢輔は柔らかな言葉で店主の想いを補う。果たして出来るかどうかと思案する力造と梅松に、幸は「丁寧に時間をかけましょう」と言った。乗り越えなければならないことが山積みであった。明けて宝暦7年(1757年)如月16日、幸と賢輔は力造の染め場にいた。2人が固唾を呑んで見守る中、力造は片面に糊を置き、乾くのを待って裏にも糊をおき天日に干す。待つ時間は途方もなく長い。呼ばれて、幸は物干し場へ上がる。表の色糊と寸分違わず、ぴたりと重なった裏側の糊。幸は思わず、ああ、と声を漏らす。ころころと楽しげに転がる鈴たち、鈴同士を結び、柔らかな曲線を描く鈴緒。賢輔は声も無く立ち尽くしている。木綿のための型染めは、今、まさに産声を上げようとしていた。
2022.06.28
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↑ 先日、赤レンガ倉庫の広場で開催されたフラワーフェスティバルで買ってきたヒューケラダイソーの浅型の大きい鉢に植えました。なかなか、いい感じ〜♪と、一人で悦にいっています↑ 花菱草去年の零れ種が芽を出し、自分で選んだ居心地の良い場所で元気に咲いています。写真には写っていませんが、薄いクリーム色の花も一緒に咲いています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑ ハルシャギク一昨年の秋に種を蒔きました。芽が出て喜んでいたら、一晩で消えてしまいました。誰に、食べられた?諦めて、すっかり忘れていました。それが、なぜか昨秋、同じプランターで芽を出したのです???3株だけですが、こんなに元気に咲いています。もしかして、種が一年間眠っていた?不思議です。・・・・・・・・・・・・・・・・・濃い赤紫のモナルダはそろそろお終いピンクが咲き出しました。ピンクの方が、少し優しげですが余りにも蔓延りすぎて花が綺麗なときは、ほんの僅か・・・。花が咲き終わったらうんと減らそうと思っています。アメリカンブルーは、ますます元気です。5月末に苗を植えた、胡瓜とミニトマト(黄色)胡瓜は、苗を植えて22日目に、2本収穫余りの速さに驚きましたがそのあと小休止。小さい実が何本も出来ています。今年のミニ菜園に植えたのはこの他には、ゴーヤ、鷹の爪、獅子唐だけです。今日の横浜は、久し振りにすっきり晴れました。3時の気温が31度。風があるので救われますがとにかく蒸し暑いです。少し庭仕事しただけで、バテバテです。どうやら今週末には、梅雨明け宣言が出そうです。晴れるのは嬉しいのですが温度差に、身体の方が悲鳴を上げています。
2022.06.24
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ー 新港中央広場 ーここは、桜木町駅前〜ワールドポーターズ経由赤レンガ倉庫に向かう途中の広場です。入り口付近の、ブルーと白のアガパンサスが爽やかでした。けれど、なんと言ってもピンクや薄紫のぼかしのダンスパーティ純白のアナベルさり気なく添えられたガウラ・・・。ここが一番素敵でしたアリウム 丹頂maria- さんのガーデンに植えていらっしゃるのもこの花でしょうか? 背の低い草花の中に植えたらアクセントになってなかなか素敵だろうなと思いました。ニコチアナ(ハナタバコ)この日は雲が厚く、暗い曇りでした。綺麗な色の花たちをお見せ出来なかったのが残念です。
2022.06.20
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ー 横浜赤レンガ倉庫 イベント広場 ーラジオ体操の友人から、チラシを頂きました。ネットで調べてみると、主催は有名なYouTuberさんだとか初めて見るイベントです。内容がよく分からないまま、近場なので昨日の午後、行ってきました。赤レンガ倉庫は、5月9日から設備メンテナンスの大規模改修工事のため休館中。建物の中には入れませんが広場でのイベントのみ開催されているようです。プルメリアが手頃な値段で並び珍しいからか結構、売れていました。ピンクの煙の木には、目が点‼︎初めて見ました。パッションフルーツは、1鉢3000円。まだ蕾がついているのもあり、ものすごーく惹かれてました。けれど、よくよく聞くと、屋外では越冬できないとか。持ち帰るには結構鉢が重い。ハナから迷う余地が無かったです(笑)こんなに、真っ赤な紫陽花は初めて見ました。珍しいことは確かですが、どの花も暑苦しい。それでも、結構買っている人がいて、人の好みは様々だなと思いました。萎れている花もありましたがこちらは涼しげで、なかなか素敵でした。・・・・・・・・・・・・・・・こんな季節に咲く蘭があるのですね。・・・・・・・・・・・・・・・多肉植物のお店が2つ出てました。こちらのお店は、品揃えが豊富おまけに、寄せ植えがなんとも可愛かったです。↑ ユーホルビア(ラクティア)という名札が付いていました。赤い部分が花かと思ったら花は別に咲くそうです。・・・・・・・・・・・・・・・フィンガーライム発見!もの凄ーいトゲトゲでした。もしかしてtamtam 4153さんの家の子と同じでしょうか?実がなりますか?と聞いたらある程度木が大きくなればなりますよ、との返事でした。人ごとながら嬉しくなりました。↑↓名前を確認するのを忘れました。ヒューケラ発見‼︎嬉しくなって、色違いの葉を3つ買いました。途中のドリンクタイムを入れて2時間余りウロウロして、結局買ったのはこれだけ(笑)500円×3=1500円。珍しい花がいろいろ見られて楽しかったです〜♪チラシに付いていた、割引クーポン(100円)を出すのを忘れてました。
2022.06.19
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↑ 珊瑚紫豆(サンゴシトウ)・・・・・・・・・・・・・・・↑ クラウンベッチ☆6月18日追記昨日付けのイングリッシュガーデンのFacebookに写真と共に「クラウンベッチ」と掲載されていました。クラウンベッチで検索すると別名:コロニラ・バリアマメ科タマザキクサフジ属和名:玉咲草藤(タマザキクサフジ)情報をいただきありがとうございましたm(__)mこれにて、一件落着と致します。余談ですが実際に植えた方の口コミを見ると繁殖力が半端では無い様でガーデンには植えない方が良さそうです。・・・・・・・・・・・・・・・この時期、背高のっぽの百合がローズ&シュラブガーデンの至る所で咲いています。・・・・・・・・・・・・・・・↑ ヘメロカリス 色々・・・・・・・・・・・・・・・↑ 煙の木と紫陽花・・・・・・・・・・・・・・・↑ 岩絡み(イワガラミ)アジサイ科イワガラミ属名前の通り、岩などに這い登って生育するのだそうです。イングリッシュガーデン入口、左手の壁面をよじ登るように咲いていました。先日、バラを見に行った時咲いているのに気がつきました。友人とソフトクリームを食べながらお喋りしているうちに写真を撮るのをすっかり忘れて帰宅。もう駄目かと思っていたのですが辛うじて間に合いました。こんなところで、イワガラミに出会うとは思いもしなかったです。今回は、紫陽花以外の花たちを掲載しました。ここまで見てくださった方、お付き合いいただきありがとうございました。
2022.06.17
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ー 横浜イングリッシュガーデン ー今日と明日は、貴重な梅雨の晴れ間だとのこと。ならば今日しかないとイングリッシュガーデンへ行ってきました。空いている内にと、9時15分に家を出て24分発のバスに乗り、10時のオープン直後に到着。空いているかと思ったら、既に大勢の人がいて驚きました。ローズトンネルの中は、例年通り、涼やかさをイメージした傘やクリスタルのしずくが吊り下げてありました。残念ながら、今年は色合いがなんとも暑苦しい。涼しげな色合いの画像だけ選んで掲載しました。・・・・・・・・・・・・・・・ここからあとは、紫陽花だけ・・・。↑ 紫陽花・メイアンジュバラの季節には、存在すら気付かない紫陽花ですが、バラが終わると、バラの影に隠れていた紫陽花たちが待ってましたとばかりに、咲き出していました。改めて、ガーデン内の紫陽花の数に驚かされます。いつものことながら、ププロの凄さを感じます。
2022.06.16
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☆あきない世傳 金と銀(4)貫流編・高田郁・角川春樹事務、・2017年8月18日 第1刷発行 五鈴屋店主、5代目徳兵衛こと惣次は、長月25日に店を飛び出して以来、八方探し回るものの、その行方は知れなかった。発端となったのは、五鈴屋が江州波村に前貸ししていた銀4貫の預かり手形が、両替商の分散により紙屑と化したことだった。五鈴屋に一切の損はなく、ただ波村ばかりが借財を背負うことになったのだ。惣次に相手への気遣いがあれば、充分に避けられた事態だった。神無月8日智三27歳。智蔵が惣次からの手紙を届けに来た。智蔵を訪ねた惣次は「隠居する。呉服仲間にもその旨申し入れをしたといい、また智三に五鈴屋を託すと言ったという。惣次31歳、未だ隠居という歳ではない。幸は富久の手から文を受け取り目を走らせる。確かに夫の筆跡で、隠居の意思が認めてあった。家を出た日、惣次は波村に融通する筈の銀3貫を持って出ていた。この店に9つで奉公に上がった幸は21になっていた。その夜、途方に暮れる富久を大店の桔梗屋が訪ねて来た。帰りがけに桔梗屋は幸に言った。「自分よりも秀でた女房を持つというのも良し悪しや。共に生きる不幸よりも、離れて生きる不幸を、惣次は選ばはった」と言い置いて帰って行った。誇り高い惣次は五鈴屋に傷を残さぬよう、店主の立場を去ることで波村へのけじめとし、仕切り直して新しい人生を始めるつもりではないのか。幸はそう思った。幸から話を聞き終わった元番頭の治兵衛は幸をねぎらったあと、「旦那さんには申し訳ないことだすが、五鈴屋にとっても、智ぼんさんにとっても、ええ風向きですなぁ」といい、「どこかで見極めをつけならん。智ぼんには良い折やと思いますで」といった。惣次が家を飛び出して一月が過ぎた。延享2年(1745年)、八代将軍吉宗が隠居。呉服仲間の月行事のもとに、行方を伏せたまま、惣次から幸への去り状が託された。離縁という治りどころが見えたことで、幸はむしろ腹が据わった。元の女衆として陰ながら商いの知恵を絞り五鈴屋の役に立ちたいと心を決めた幸だった。心を決め五鈴屋に戻った三男の智蔵は、そんな幸を人形浄瑠璃に誘い、「6代目徳兵衛の嫁になり、何の才も無い自分の遣い手として商いの知恵を思う存分絞って欲しい。それでこそ自分が家に戻る意味があるといった。呉服仲間での智蔵の役者ぶりには幸も舌を巻いた。五鈴屋を出て9年、その年月が智蔵を成長させていた。2人を守り抜こうとする桔梗屋の強い後押しもあり、幸を嫁に迎えることに異を唱えるものは誰一人としていなかった。「五鈴屋を百年続く店に・・・」と幸に託して、富久が世を去り、五鈴屋の援助で、江州波村で織り上げた『浜ちりめん」は売れ、新しい試みが、どれも良い形で実を結んていた。その年の暮れ、五鈴屋の売上は前年の倍以上に伸びていた。番頭の鉄助の話では、このままでは店も蔵も奉公人の数も足りないという。呉服屋仲間からの急な呼び出しがあった。跡取りのいない桔梗屋に対しての騙し討ちのような買い取り話に、桔梗屋は脂汗を流して頭を抱え込んでいる。ここで買い上げの話を取りやめて貰わないと死んでも死にきれないとすがる桔梗屋。会所の中は騒然となった。恩義のある桔梗屋に何とか救いの手を差し伸べられないか・・・。幸の頭の中には、人も店も足りないという番頭の話も、帳簿類に記された店の蓄財の額も深く刻まれている。幸の耳から音がすっと消えた。すっと息を吸い、気持ちを整えると、五鈴屋の女房は一気に言い切った。「桔梗屋さんの買い上げに、五鈴屋が名乗りをあげさせて頂きます」☆あきない世傳金と銀(5)転流篇・高田郁・角川春樹事務所・2018年2月18日第1刷発行幸が思う存分働けるよう、さり気なく幸を庇う智蔵との穏やかな暮らしのなか、2人ならではの新しい仕事を見つけだし、店の売り上げも蓄財も大きく増やしていった。恩義のある桔梗屋の窮地に手を差し伸べた結果、店の規模も大きくなった。店名は元通りと決めていた智蔵と幸だったが、桔梗屋の店主孫六の意を汲み、元の桔梗屋は「五鈴屋高島店」とした。「桔梗屋の暖簾は預かり、将来、番頭の周助らが、独立して別家になった時に、引き継いでもらいましょう」という、幸の申し入れは、受け入れられた。孫六は「親旦那さん」、番頭だった周助は「高島店の支配人」とした。慣れるために、月ごとに手代を入れ替えることにした。「新たな地で五鈴屋の種を蒔き、百年続く店にするためーお家さんとの約束を果たすため、江戸へ出るつもりです」と言いきるご寮人さんに、夫の智蔵、番頭の鉄助、支配人の周助の男3人、息を飲み込んだまま固まっている。やがて「成るか、成らんかは、やってみないと分かりまへん。けど、そないな夢を見ることだけはどうぞ、ゆるしておくれやす」と、鉄助と周助は智蔵に頭を下げた。智蔵は「しばらく見守らせてもらおうと思う」といい、「どやろ、それで、ええか」と、控えめに言い添えた。幸が智蔵の子を宿し店中が喜びに包まれるも、月足らずで産まれた子は産声を上げることもなく亡くなり、幸も一時は生死の間を彷徨った。表が黄檗(おうばく)、裏が青地に鈴紋、また、表面が若草色、裏に緋色の鈴紋。両面が違う色の布地を使って仕立てられた「鯨帯(昼夜帯)」にヒントを得て作られた帯は「五鈴帯」と名付けられた。師走14日、赤穂義士の討入りの日に、歌舞伎の舞台でお披露目となった五鈴帯は、一気に大阪の街には広がり、飛ぶように売れに売れ続けた。前年、幸の母、房が急死。結は20歳。幸の元へ引き取られた結は竹と梅に、裁縫や作法を仕込まれた。手先の器用な結はたちまち上達し、竹と梅のお供で、今でいう実演付きの訪問販売にもモデルとして駆り出された。やがて結に縁談が持ち込まれるようになったが、当人にその気はなく、もうしばらくこのままでいたいという。江戸店の話が再燃、幸は大店が集まる日本橋を避け、最初は小さく慎ましく始めようと考えていた。少なくとも2年かければ、季節も2巡し、見落としも少なくなる。そうなると、鉄助も周助もそんなに長く店を空けられない。まずは左七と、元番頭治兵衛の一人息子である賢吉が江戸へ向かうこととなった。8つで奉公に上がって10年、人として、商人として伸び盛りの賢吉を早いうちに江戸へ送り、さまざまのことを身につけさせたい。治兵衛が五鈴屋の要石と言われたように、賢吉にもいずれ要となって店を支えてもらいたい、と幸は強く望んでいたのだった。創業より65年、6代目にして、将軍様のお膝元で店を持つ ー 先代までなし得なかったことに挑むのだ。江戸の左七と賢吉からの文は、月に一度、ゆっくり時間をかけてようやく届く。途中で誰かが読むことを考えると書けることには限りがあり、なかなか細かいことは伝わらない。幸は太物と言われる木綿を扱うことを考えていた。けれど大阪では色々と制約があり、五鈴屋ては扱えない。智蔵は江戸なら何か手があるのではないかといい、「2人で江戸へ出えへんか?」といった。一旦、賢吉を呼び戻し直接話を聞くことになった。賢吉から聞く江戸の呉服屋の商売の話は驚くばかりだった。五鈴帯も浜羽二重のの売れ行きは好調。掛け取りも滞りなかった。親旦那さんも治兵衛もすこぶる元気だ。「二人で江戸へ行きまひょ」と言っていた、そんな智蔵が出先で倒れた。☆あきない世傳 金と銀(6)本流篇・角川春樹事務所・2019年2月18日 第一刷発行♣︎孫六呉服の大店、桔梗屋の元店主。♣︎賢吉五鈴屋の要石と言われた元番頭の一人息子。6代目の逝去から5ヶ月、五鈴屋の後継者を決めなければいけない。大阪には女は後継者になれないという「女名前禁止」の掟がある。何か手がないか、幸は治兵衛や孫六、番頭の鉄助、支配人の周助と知恵を絞った。思案していた孫六が、過去に船場で同じようなケースが起き、3年間女名前を許されたことがあったこを思い出した。3年あれば商いの上で色々な手が打てる。3年後、誰に継がせるか熟考も出来るだろう。足掛け3年と言う期限を条件に呉服屋仲間の同意も取れ、公儀のお許しも出て、幸は7代目を継ぐことになった。だが、あくまで中継ぎであり、混乱をきたさないように、店での呼び名は「ご寮さん」で通すことにした。許された期限は再来年の暮れまでとなる。それまでに後継者を決めなければならない。何が出来るか、何をすべきか、幸は連日考えた。「江戸へ出る」夫の智蔵(6代目)の志は今も、幸の胸にある。佐七から江戸店が見つかったと知らせが届いた。店は浅草田原町3丁目、浅草寺のすぐ近くにあった。元は太物を扱う「白雲屋」といい、堅実な商いで顧客にも恵まれ暖簾を託すところで、肝心の息子が風邪をこじらせて呆気なく逝ってしまったのだ。全ての望みが潰え店を手放すことにしたという。周助が江戸へ出向き、佐七と共に店主に会い、詰めるべき話を詰めたうえで話を決めてきた。居抜きで、更に商品もそのまま一緒に、金150両という破格の値段であった。賢吉を一年以上見てきて、賢吉のような奉公人を抱える店ならば、全てを託して悔いはない。夫婦して何日も話し合い、買い上げを願い出たのだという。江戸へ向かうのは、幸と竹、番頭の鉄助、それに旅慣れた茂作が同行してくれることになった。天満を出て丁度20日、当初の予定よりも早く一行は品川宿についた。それから一刻(約2時間)、人の多さ、ことに武士の多さに慄き、武家屋敷の広さに肝を潰しながら歩いた。店は真口2間半(約4.5m)、奥行き18間(約32m)の2階建て。表通りに面し、入口は北向き、そこから南に続く細長い造りになっていた。「小さく産んで大きく育てる」智蔵の願いにも叶うスタートだった。鉄助は10日ほど江戸に留まり、大阪へ戻った。江戸へ出ることを目標に赤穂浪士と同じく2年の時をかけた。開店は12月14日。赤穂義士の討入りの日と同じ、師走14日に暖簾を掲げることに決めた。江戸店は店前現金売りを行う。開店後は、佐七は手代から支配人となり、名は「佐助」、賢吉は、丁稚から手代となり、名は「賢七」、お竹は、名はそのまま「竹」とし、役名は小頭と決めた。小頭は江戸の商家では手代の上の格にあたる。開店まで4ヶ月を切った。反物の一部分を縦にかけて見せる撞木(小型の衣紋掛け)も誂えた。浅草界隈では細く裂いた浅草紙を棒の先に括り付けて、ホコリを払っていた。佐七と竹は、反物の大敵であるホコリや塵を払うための、その「さいはらい」の先に紙の代わりに、古手の絹布のボロを細く裂き、括り付けていた。なるほど、これなら布地の傷みを気にせずに済む。こうして、全く経験が無い店前現銀売りに向けて、少しずつ準備が整っていった。江戸店開店の披露目は、従来のように盛大に引き札を撒くことも、何もしないと決めた。ただし、開店までに屋号を知ってもらう工夫を一つすることにした。それには大層金銀がかかる。届いた荷から出てきたのは、大量の手拭いだった。暖簾と同じ青みがかった緑色の地に「5つの鈴」と共に、「田原町五鈴屋」の文字が両端の2箇所に染め抜かれていた。4人は、その手拭いを風呂敷に包み、手分けして江戸市中の神社仏閣の水場に置いて回った。ひとの集まるところは多めに、人の姿を見ないところにも必ず一本ずつ置いた。奉納というにはあまりにもささやかだから、用立ててもらう。そんな気持ちだった。店には湯殿がないため、幸とお竹は湯屋に通う。2人は、飾らない、他愛のないお喋りを聞くことを楽しんでいた。そんなある日「田原町に五鈴屋なんて店はないよねぇ」「あ、それ、私も気になってたんだよ」。はっと、幸は背後を振り返った。2人の中年女が声高に話している。2人の手拭いの話が続く。賢吉は試しにその手拭いを使ってみたら「バチが当たる。早う返してこい」と、見ず知らずの人からえらく叱られたという。言い訳したい気持ちで一杯だったが幸から釘を刺されている。湯屋で出会うた人誰一人として、五十鈴屋を知らなかったという。賢吉の話を聞いたお竹は朗らかに笑い声をあげている。「開店まで謎のままで通し、ある日突然、その正体が判明するとしたら、その方が、断然面白おますなぁ」と、幸はいう。その後も、湯屋では謎の五鈴屋の話で持ちきりだった。江戸進出は、5代目惣次の悲願でもあった。6代目の智三が地固めをして、7代目が実現させた。失敗する訳にはいかない。表情を強ばらせる使用人に、幸は、元番頭、治兵衛の口調を真似てみせたあと、「笑って勝ちに行きましょう」と言った。店主の言葉に、3人はへぇ、と力強く応えた。宝暦元年(1751年)師走、14日。ここ浅草でも、赤穂義士に扮した「俄(にわか)」が現れて、皆の注目を集めていた。火事装束に似た黒の衣装で「討ち入り、討ち入り」と、群れを組んで、東本願寺から広小路を目指す。「俄」に気を取られていた通行人が、ふと、視線を転じれば、これまで空き店かと思っていた表店に暖簾が掛けられようとしている。立看板に「呉服太物(ふともの) 五鈴屋」の文字。青みかかった暖簾には、五つの鈴に「田原町 五鈴屋」の文字が染め抜かれている。暖簾をかけ終えた手代らしき奉公人が振り返った。丸く優しい目元の青年は、野次馬を認めて、満面に笑みを浮かべた。懇篤に一礼すると、良く通る声を張る。「本日、討入りの日に開店させて頂きます。呉服と太物の五鈴屋でございます」
2022.06.15
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一昨日、いつもの東の散歩道を歩いてきました。ここは、いつ行っても何か咲いていて歩いていて気分が晴れ晴れします。コバノブラシノキ(メラレウカ)(英名:paper barks)フトモモ科 コバノブラシノキ属赤いブラシの木とは違い、こちらはふわふわの柔らかいブラシです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ケムリノキそんなに大きな木では無かったのに今年は何故か、小さく刈り込まれてました。葉っぱだけしか出てない木もあり、残念無念・・・・。アガパンサスが咲きはじめてました。紫陽花とラベンダーの赤く見えるのは、海紅豆(ディゴ)の花今日は午後から紫陽花を見に行こうかと思っていました。10時過ぎには雨が降りはじめ、諦めました。
2022.06.14
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↑ 小道沿いに植えられたヒューケラ(ツボサンゴ)カラーリーフが美しく、とても魅了的でした。↑ エキナセア改修工事で、公園の端にあった花壇に小道が作られ歩きやすくなっただけでなくとても魅力的な場所になっていました。・・・・・・・・・・・・・・・↑ シロタエギクこちらは、公園入り口の花壇に咲いていた花たち早くも、キバナコスモスが咲いていました。
2022.06.12
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ラジオ体操の行き帰りに通る道フト、見上げると八重咲きのドクダミの花が咲いていました。精一杯腕をを伸ばし、撮りました。アナベル拡大して見ると、その繊細さ、品の良さに見惚れます。・・・・・・・・・・・・・・・・道路を隔てて南隣の家の萼紫陽花いまは、若いご夫妻が購入されリフォームして住んでいらっしゃいます。主は変わっても、この紫陽花はそのまま、抜かずに残されました。紫陽花が咲くと、穏やかで素敵なご夫妻や娘さんたちのことが思い出されます。・・・・・・・・・・・・・・・岡村公園のラベンダーちょっと魅力的なラベンダーで何という種類なのか知りたかったのですが名札には「ラベンダーと」しか書いてなかったです。このところ、久し振りに見つけた高田郁さんの本を夢中で読んでます。現在、既刊は12巻。ただいま、5巻を読んでいる途中です。近くの図書館でない4冊は、市の図書館でネット予約。ほぼ、入手できる目処がつきました。このところ、庭仕事と読書三昧の日々が続き気がつくと、1週間近くブログをサボってました絵も描かなきゃいけないし、ずっと前に途中まで描いてそのままになっていた山百合の絵を描き上げたいと、一大決心。昨日は、波打ってしまった紙を伸ばすべく慣れない水張り作業ををしていました。YouTubeの動画をいくつか見てチャレンジ何とか大丈夫そうです。便利な世の中になりました。
2022.06.11
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☆あきない世傳金と銀(1)源流篇・高田郁・角川春樹事務所・2016年2月18日第1刷発行♣︎幸摂津津門村に生まれ。兄・雅由、妹・結と共に育つ。享保期に学者の子として生を受けた幸。齢九つで大阪の天満にある呉服商に奉公に出された。女衆でありながら番頭・治兵衛に才を認められ、徐々に商いに心を惹かれてゆく。♣︎重辰=父♣︎房=母♣︎雅由=兄。享年18歳で病没♣︎結=妹♣︎彦太郎地元の豪農。凌雲堂の建物の持ち主。♣︎治兵衛五鈴屋の番頭。「五鈴屋の要石と称される知恵者。幸の商才ををいち早く見抜き、商いについて教える。♣︎富久(ふく)五鈴屋先代の母親。2代目徳兵衛に嫁ぐ。息子である3代目徳兵衛の病没後は、3人の孫と店を守ってきた。♣︎4代目徳兵衛富久の初孫で長男。♣︎惣次次男。商才に富む。♣︎智蔵末弟。浄瑠璃を書いているのを次男の惣次に見つかり、大げんかの末に家を出る。享保12年(1732年)雅由18歳、幸8歳、結5歳。享保の大飢饉。稲虫の大群に食い尽くされた。飢饉の後、兄雅由が18歳で病没。諸国で流行した風邪に罹患した重辰も10日足らずで死んだ。房と結は住み込みの下女となり、幸は縁あって大阪天満の呉服商「五鈴屋(いすずや)」の女衆(おなごし)として奉公に行くことになった。幸、9歳。五鈴屋では「さち」と呼ばれることになった。五鈴屋は伊勢出身の初代が「古手」と呼ばれる古着を天秤棒で担いで商いを始め、念願かなって大阪天満の裏店に暖簾を掲げたのを創業とする。幸が奉公に上がった時、4代目徳兵衛は20歳。享保14年(1734年)元日。「今年はなるべく笑って過ごそう。笑顔になって福を引き寄せよう」10歳になった幸は、台所の片隅でそんな抱負を抱いた。知恵を身につけたいという幸に、幸の賢さを見抜いていた番頭の治兵衛は、誰からも咎められることなく幸が学べるように影で心配りをしてくれた。4代目徳兵衛に、大店の呉服屋「紅屋」から菊栄という嫁が来たが、徳兵衛の廓通いは止まない。絵草紙をを書いていたのを次男の惣次に見つかり、大げんかの末、三男の智蔵が家を出て一年たち、幸は13歳になり美しい娘になっていた。「来年あたり薮入りで帰れるようにしてあげまひょなあ」と、優しい言葉をかけてくれた菊栄が「色恋なしの子作りだけ、というのもしんどいもんだす。ややこ産めたら胸張っていられるのやけど・・・」と幸に話した。相手が幸だからこそ洩らせた本音のように思われた。徳兵衛の廓通いが紅屋の耳に届き、徳兵衛と菊栄の離縁が正式に決まった。そうなると結納金の35両は返さなければならない。五鈴屋にそれだけの金は無かった。「何処ぞに、徳兵衛の手綱をしっかりと握り、商いにも知恵を貸せるような、この五鈴屋の暖簾を守り、商いを広げてくれるような、そんな娘はいてへんやろか」思案にくれた治兵衛の目に、蔵の影で火鉢の灰を篩う幸の姿がとまった。耳に、先ほどの富久の台詞が蘇る。五鈴屋の番頭は、訝しげに振り向いたその幸の顔を、ただじっと見つめていた。☆あきない世傳 金と銀(2)早瀬篇・高田郁・角川春樹事務所・2016年8月18日第1刷発行 元文3年(1738年)元日菊栄を離縁したために敷金の35両を紅屋へ返さなければならない。やっと返し終わった途端、また徳兵衛の廓通いが再開した。幸を徳兵衛の後添いにという話が、本人の知らぬところで外堀を埋めるように纏まった。幸が1番の味方だと思っていた番頭の治兵衛は、卒中で倒れ、別家となり五鈴屋を出て行ってしまった。治兵衛は幸に、この縁組が流れる術を教えた上で、「幸、五鈴屋の嫁になんなはれ。幸は運命に翻弄される弱い女子とは違う。どないな運命でも切り拓いて勝ち進んでいく女子だす。女衆で終わったらあかんのや。幸は知恵を武器にして、商いの道を切り開いてゆく戦国武将になれる女子だすよってな」治兵衛の言葉は太い矢となり幸の心の的を射抜いた。鍋の底を磨いて過ごす一生を、打ち消すつもりは決して無い。ただせっかく与えられた一生を、それのみで終えたくない、というのはまさに幸の真の望みだった。幸はとうに己の本心に気付いていた。自らの不運を嘆くより、自らの願望を叶えたい、という気持ちの方が勝った。呉服商の仲間から、幸がご寮さんに相応しい人物かどうか厳しい試問を受ければならない。その席で皆が認めて初めて、嫁として扱かってもらえるのだという。幸14歳。その日、松葉色の紬に鬱金染めの帯を結んだ幸は、なんとも不思議な美しさを湛えていた。雨上がりの竹林のような静謐さだった。富久は、「呉服のことを聞かれても、わからんことは、わからんと答えたらよろし。堂々としてなはれ」としか言わなかった。布地に関する質問が次々と出されるもの、知識がない幸には答えようがなかった。集まった人々の口からくっくっという忍び笑いが重なって漏れた。明らかな嘲笑が座敷に漣の如く広がってゆく。幸は背筋を伸ばし、今、己に出来ることは何か。己を知ってもらうにはどうすれば良いか考えた。「金蘭、繻子、緞子、彩綾、縮緬、綸子、羽二重・・・」幸のよく澄んだ声で、ひとつ、ひとつの言葉が丁寧に発せられる。幸は、商人にとって一番大切な心得を書いた「商売往来」の中の、絹布の項から順に、ゆっくり諳んじてゆく。最後に「よって件の如し」で締めくくり、懇ろに頭を下げた。一行一句間違えることなく暗唱するのを認めて、人々は固唾を呑み込んだ。嘲笑していた店主らの間に動揺が走り、部屋の雰囲気が一変した。その日、幸は呉服商仲間から認められ、新たな道に立つことを許されたのだった。弥生(4月)25日瑠璃紺にに光琳波の晴れ着、白藍の帯、白の半襟姿は、その日の幸を気品に満ちた娘へと変身させていた。形ばかりの祝言が済んだあと、徳兵衛の「私は色好みですけどなあ、子どもを手篭めにするような真似、せえしまへんよってに」という言葉に、幸は救われた。治兵衛の「先ずは知識を身につけなはれ。知恵は知識という蓄えがあってこそ絞り出せるんや。盛大に知識を身につけなはれ」という、番頭の言葉を一つ一つ胸に刻んた。富久に連れられて仕立物師のところへ、また次男の惣次に連れられ得意先へ行ったりしているうちに、幸は一つ一つ懸命に学んで行った。惣次は「私は商いが好きや、どないしたら買うてもらえるかあれこれ工夫するのが好きなんや。せやさかい、商いに本気出さん奴が嫌いや」という惣次に、幸は店で見せるのとは別の姿を見出した。「知識を得て知恵を得たい。そして五鈴屋の役に立ちたい」という幸のひたむきさに触れ、惣次の中で何かが変わりつつあった。惣次に、大阪一の呉服商であり、両替商も兼ねる伏見屋から婿養子の話が来た。何故自分では無いのかと嫉妬に狂い家を出た徳兵衛はその夜帰らず、翌朝、戸板に乗せられて運ばれてきた。酔って堤から足を滑らせ、石垣の下に転げ落ちたのだという。医者の見立て通り徳兵衛は3日後に呆気なく死んだ。広縁に並び月を見上げる、富久と惣次と幸。「惣次、お前はんに店を継いでもらうしか、もう道はないと板敷に額を擦り付けて、縮こまって頼み込む富久に、惣次は「私の言う条件を呑んで頂けたなら、五鈴屋を継がして頂きますよって」と答えた。富久にその条件を問われた惣次は、傍らの幸に視線をなげた。「幸を、私の嫁に迎えることだす」驚きのあまり、幸は肩を引き思わず板張りに手をついて身体を支えた。呆気に取られている富久に惣次は重ねて告げる。「呉服屋仲間に認めてもらい、町内にも祝儀袋を支払うて、五鈴屋のご寮さんとして正式に迎える。それが私のただ一つの条件だす」☆あきない世傳 金と銀(3)奔流編・高田郁・角川春樹事務、・2017年2月18日 第1刷発行婚礼も滞りなく終わった翌朝、惣次は居住まいを正し、女房の顔を覗き込んで口を開いた。「十三夜の夜に話した通り、私は五鈴屋をこの国一の呉服商に仕立て上げようと思う」と言い、自分の思い描いている計画を話した。最後に「先ずは五鈴屋を内側から変える。そのためにも、あんたの力を貸してほしい」夫の心からの願いに、幸はしっかりと頷いた。5年で江戸に出店する、という夫の目標を共に背負う覚悟は自ずと決まった。惣次の働きで五鈴屋の商いは順調だったし、奉公人に手を上げることも無くなったが、厳しい仕打ちは変わらず、富久の嘆きは消えなかった。「奉公人を温こうに見守り育てるのが店主の手腕なのに、なんで惣次は皆を攻め立てるようなな真似をするのやろか」という富久の言葉に、幸は自分の思いを伝え惣次を庇った。また、奉公人との間にもたち、気配りも忘れなかった。浮世草子の空いたスペースに五鈴屋の、今で言う広告を入れてもらうこと、番傘に切り貼りで五つの鈴を入れることなど、幸のアイデアは次々と当たり評判になった。最初のうちこそ「何かとぶつかる富久や奉公人との間にたってくれたこと、得難い女子を嫁にできたともようわかってる」と打ち明けていた惣次だったが、いつしか彼の中に妻の商才に対しての嫉妬心が積もっていたのだった。事件が起きた。「惣次には徳がない。このままでは、あの子の商いはそのうち、行き詰まりますやろ」と、富久が常々案じていたことが、現実のこととなったのだ。両替商が潰れ、惣次からその手形をつかまされた江州波村の人々が押しかけて来たのだ。落ち着き払って応対する惣次に向かい、波村の庄屋、仁左衛門は言い放った。「あんたは店主の器やない。私の知る大阪商人は、もっと実がありますよってにな。こんな汚い手ぇ使う相手と組んでいけるほど、私らは不実と違う」番頭の鉄介は平伏し、足元にすがり、懇願する。仁左衛門は自分に手を貸して支えている幸に目を向けて「あんたなら、どないする?」といった。畳に手を突き、懸命に考えた幸の口をついて出たのは、心からのお詫びの言葉だった。一切の言い訳をせず、番頭はじめ、手代ら同じように額を畳に擦り付けた。そのあと、幸は以前から考えていた、縮緬の産地にしてはどうかという提案をした。「波村を縮緬の産地に仕立て上げる。そうなるまで、五鈴屋で支援をさせて頂きたく存じます」と、深々と頭を下げたのだった。五鈴屋との取引は・・・と、問う番頭に、仁左衛門は言った。「五鈴屋の店主がこの男でいる限りはお断りや。ただし、このご寮さんは、まこと店主の器。このお方が主なら話は別や。ほいたら、これから波村は波村自身のため、それに五鈴屋のために、なんとしても縮緬を生み出して見せますぜ」「お前らの好きにしたらええ」底知れぬ失望を滲ませ出ていく惣次の後を、幸は懸命に追いかけた。
2022.06.11
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↑ スズメの親子我が家の庭はいつも雀や鳩、椋鳥の遊び場になっています。ときどきメジロや四十雀、コゲラの姿も見かけます。夫が水を入れたお皿を置いてやると、飲むだけでなく水浴びをしたり、ミニ菜園の中で砂浴びをして遊んでいます。秋になり庭中に茂った青紫蘇が実をつけると雀たちが連れ立ってやって来て夢中になって啄んでいます。この時期は何も餌がないため残りご飯を干してバラしたものを夫が時々まいています。しばらく前は、嘴で咥えてそのままどこかへ飛んで行ってました。ところが最近小雀を連れてくるようになったのです。右が雛で、左が親鳥(上の写真)羽の色がぼんやり薄く嘴の縁が黄色いのが小雀。図体だけは大きくなっても甘えているのが、なんとも可笑しいです。 ・・・・・・・・・・・・・・お腹がいっぱいになったのか小雀たちがうたた寝を始めました。嘴をぽかんと開け目がとろんとしています。警戒心、まるで無し。リビングの目の前のテラスです。ー 庭の花たち ー花菱草サルビアコクシネアピンクが早くも咲き出しました。ピンクは初夏の頃から赤は晩夏になってようやく咲き出します。多肉ちゃんが、何本も茎を伸ばし次々と咲いています。地味ですが、可愛い花です。クチナシの花が咲いています。裏に植えてあるため台所の窓を開けたとき香りで気付くことが多いです。
2022.06.05
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手導式芝刈り機が届きました。ムシトリナデシコを抜き昨日は午後から芝を刈りました。,かなり伸びていたため、汗だくになりましたがボーボーだった庭が、サッパリしました。季節の変わり目は庭仕事が大忙しです。2本目のルピナスが咲きました。今度も紫でした。↑ モナルダ去年は肥料をやり過ぎて花も草丈も逞しくなり過ぎたのを反省今年はうんと肥料を控えました。3年目のアメリカンブルーどんどん株が大きくなり冬は地上部分が枯れ枝のようになってました。抜いてしまおうと思っていました。ところが芽吹はじめ、花が咲き出しました。已む無く枯れ枝を取り除いたら何事もなかったかのように咲いています。アメリカンブルーってこんなに逞しい花でしたっけ?
2022.06.04
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ー 久良岐能舞台 ー↑ 門の傍らの萼紫陽花昨日の午後、お使いに出たついでに山紫陽花を見に寄ってみました。年明けに始まった庭園の工事が未だに終わらず、なんとなく雑然とした感じでした。青と紫系の山紫陽花が咲いていました。「紅(くれない)」の装飾花はまだこんな感じ赤くなるのはもう少し先になりそうです。水琴窟の傍らの光悦寺垣が新しくなってました。石垣に群生して咲いていました。拡大すると、こんなに可愛い花でした。ー 早朝の岡村公園 ーラジオ体操の帰りに撮りました。↑ 早朝の光を横から受けて透き通る様な水色が素晴らしい〜♪↑ ピンクは未だこんな感じ・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑ アカンサス・モリス土手に咲いていたホタルブクロ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ー 帰り道 ー↑ 早朝の日差しを浴びたピンクも美しい〜♪↑ これは、山紫陽花
2022.06.02
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