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憲法に対する安倍首相の考え方を痛烈に批判する中学生の投書が、1日の東京新聞に掲載された; この前の憲法記念日、公民の授業で日本国憲法を改正すべきか否かを考えた。公民を学び始めてまだ日が浅いが、安倍首相が自著で述べた「個人の自由を担保しているのは国家なのである」に違和感を持った。 個人の自由は権利として憲法で認められ、国家が保障するものではない。また国家は「国民の厳粛な信託により正当に選挙された代表者」を通じて運営(ここで国家とは狭義の政府)するものであって、その権威は国民に由来するので、国家あっての国民ではなく、主役は私たち国民である。 法律は国民の生活を縛るが、憲法は国家権力を縛るルールである。そのルールを国民を縛るために利用されてはならない。2016年6月1日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-違和感覚えた首相の国家論」から引用 この投書を書いた中学生は、公民の教科書で勉強を初めてまだ日が浅いと謙遜しているが、その割には立憲主義、戦後民主主義の要諦をしっかり押さえており、首相の浅はかな認識に比べても、かなりしっかりした立派な文章である。教育行政に介入する日本会議系の議員や政府見解を無理矢理教科書に記述させるなど、いろいろと問題の多い日本ではあるが、現場の先生たちの努力によって、将来の日本を担う若者が健全に育っていることがわかり、日本もなかなか捨てたものではないと、大変心強く思いました。
2016年06月24日
どのような経緯から選挙権を「18歳から」にしたのか、私は寡聞にして知らないが、国が決めたことなのだから、それなりに合理的な理由があったはずである。そしていよいよ今年の夏には参院選があるということになってはじめて、せっかく選挙権を取得した高校生の活動を、今度は規制しようという話が持ち上がっているとは、甚だ理不尽である。学校の現場はどのようになっているか、2月21日の東京新聞は、次のように報道している; 高校生が1票を持つ。18歳選挙権はやわらかな新風のはずだが、学校現場では規制の議論が表面化している。文部科学省は、デモや集会参加など生徒の校外での政治活動について、学校への届け出制とすることを容認する姿勢も示している。新たな権利を教育に生かすすべはないのだろうか。(安藤恭子) ■反発する生徒 生徒がデモ参加の打ち合わせのため放課後、休日に「空き教室を使用したい」と言ったら使用させてもいいのか。校門を出たところでの政治活動は-。文科省が生徒指導関係者向けに作ったQ&A集には、規制を前提としているかのような「理論武装」が並ぶ。 「生徒を萎縮させるなんておかしい」。この中でデモなどの届け出制が容認されたことに、高校3年の中村涼弥さん(18)=東京都西東京市=は反発する。これまでも憲法集会に友達を誘ったりしたことで、進路室などに呼び出され「校内で政治の話をするな」と何度も説教されている。 21日には、中高生が同市から練馬区まで歩く「反戦パレード」を計画している。参加する同区の高校2年の男子生徒(17)は「ゲームやファッションの話題の中に政治があっていい。議論がなければ、投票に必要な情報も得られない」。 ■学校は及び腰 学校現場ではまだ、この課題に本腰を入れていない。ある都立高の副校長は「校外での政治活動については、とにかく都教委の指示に従う。都教委が学校で判断しろというならこれから考える」とする。 1969年に当時の文部省が出した通知は激しい大学闘争を背景に高校生の政治活動を禁じ、昨年廃止されるまで生き続けてきた。授業で安保法などの政治テーマを取り上げれば「偏向」とネットで名指しされる恐れもあり、教員も慎重にならざるを得ない。 埼玉の県立高の男性教諭(60)は「若者が政治に無関心になった責任は、教員にもある」と感じている。「規制ばかりして生徒の好奇心の芽を摘んでは、選挙権を与える意味がない」と、規制ありきの構えに懐疑的だが、現場はいじめなどの対応に追われ「面倒なので介入したくないのも、教員の本音」と明かす。 ■政治を身近に 自由の森学園高校(埼玉県)の菅間正道教諭(48)は7年前から、生徒たちに「政治家への手紙」を書かせている。国政選挙の候補者に「大学まで学費無償化」「軍事費削減」などのテーマをぶつけてきた。 生徒からは「政治を身近に感じられるようになった」という反応が多いが、中には誰からも返事をもらえなかった生徒もいる。管間さんは「高校生に政治に関心を持ってもらいたい、と真剣に考えてきた政治家がどれだけいるか」と問う。 安保法、消費税、奨学金、原発。政治は、高校生の未来につながる。「社会への不満や望みが、政治の原点。政治を教室に持ち込む試みをし、地域や家庭でも議論を重ねることで初めて、18歳選挙権が有効に使われるようになるのでは」◆文科省「理論武装」のQ&A集 文部科学省が作成した「Q&A集」の主な内容は次の通り。 Q 休日や放課後の政治活動の制限や禁止が必要となる教育上の支障が生じるケースとは。 A (1)部活動の利用が決まっている日に体育館で集会を開催 (2)放課後に校庭でマイクとスピーカーを使って演説会を行い、自習している他の生徒を妨げる-など。 Q 放課後や休日にデモ参加の打ち合わせで空き教室を利用したいと申し入れがあった場合、許可は適切か。 A デモ参加の打ち合わせは通常は政治活動などに該当すると考えられ、学校管理規則に沿って判断。 Q 校則などで「校内で選挙運動、政治活動、投票運動は禁止」と定めることは可能か。 A 学校教育の目的達成の観点から「校内では禁止する」と校則などで定め、生徒指導をすることは不当ではないと考えられる。 Q 放課後や休日の学校外での政治活動を届け出制とするのは可能か。 A 各学校で適切に判断する。届け出た者の個人的な政治的信条の是非を問うようなものにならないようにすることなどの配慮が必要。 Q 生徒が公選法などに違反していると考えられる場合、どう対応すべきか。停学や退学など懲戒処分としていいか。 A 警察などと適切に連携し、法の執行は関係機関に委ね、学校は必要な指導をする。懲戒処分にすること自体は、必要かつ合理的な範囲内で可能だが、基準をあらかじめ明確化することなどが必要。2016年2月21日 東京新聞朝刊 12版S 2ページ「高校生の校外活動 規制議論表面化」から引用 選挙権を取得して政治に関心を持った高校生に対して「しかし、政治活動はいけません」というのでは、「じゃあ、何のための選挙権なんだよ」と高校生は思うのではないでしょうか。活動をさせたくないのであれば、又は、学業に専念してほしいのであれば、最初から選挙権は20歳からにしておいていいのであって、わざわざ18歳にしたのは何のためだったのか、検証する必要があるのではないかと、私は思います。
2016年03月09日
千葉県柏市の教育委員会は、市内の小中学校に対し、組み体操禁止を通知することになったと、2月18日の東京新聞が報道している; 事故が相次いでいる運動会の「組み体操」をめぐり、千葉県相市教育委員会が2016年度から、市立小中学校での全面的禁止を検討していることが、市教委への取材で分かった。25日の教育委員会議で正式に決定、15年度中に全校に伝達する見通し。スポーツ庁の担当者は「全面的に禁止するのは聞いたことがない」としている。 市教委によると5日、同市の校長会から廃止を検討するよう要請があった。市立小中学校では15年度、組み体操の練習中にけがを負い、病院に搬送されたケースが約40件あった。 市教委の幹部は「団結力が深まるメリットがある一方、けがのリスクもある。その両面を判断して、市内の各校長が禁止を選んだ」と説明している。 組み体操をめぐっては、大阪市教委が「ビラミッド」と「塔(タワー)」の禁止を決定、さらに組み体操自体の禁止も検討している。千葉県松戸市教委も組み体操の廃止を含め、安全対策の見直しを進めている。◆被害生徒の母「良かった」 柏市教委が組み体操の全面的禁止を検討していることについて、組み体操の事故で重傷を負った同市立中学3年生の男子生徒(15)の母親(44)は17日、本紙の取材に「本当に良かった。同じような事故を防ぐことができる」と喜びの声を上げた。 男子生徒は昨年9月、体育祭の練習中に四つんばいに積み重なる5段「ピラミッド」の上部2段目から落下。約2・5メートルの高さから後方に落ちて、右太ももを地面に打ち付けて骨折。手術を受けて1カ月以上、入院した。本紙が昨年10月に事故を報じてから4カ月以上たった今も、足の装具は外れないという。取材当時、「落ちた時は死ぬかと思った。けがが続くなら組み体操はやめた方がいいと思う」と答えていた。 生徒は今も、右太ももから足首にかけて金属製の装具をつけて生活。走れず、体育も休み、完治のめどはたたない。受験生の生徒に代わり、母親はこう訴えた。「たった一度の組み体操の落下で、希望がくだかれる。この苦しみは当事者にしか分からない」。同じ中学に通う生徒の弟が、組み体操をやらずに済みそうなことが救いだという。2016年2月18日 東京新聞朝刊 12版 31ページ「柏市 組み体操全廃へ」から引用 柏市教育委員会が組み体操禁止の方針を決めたことは、全国の小中学生に取って朗報と言えます。団結力が深まるとか、達成感があるとか、いろいろ感動的な要素があるからと言って、命がけのパフォーマンスを全生徒に強要するのは、教育的見地から言っても、いかがなものかと思います。そのような観点から、柏市教育委員会の決定は英断であったと思います。ところが、この報道の2、3日後は、東京都教育委員会が、組み体操の実施に当たっては注意を呼びかけるが、禁止まではしないという決定をしたとの報道がありました。本来であれば、組み体操をやるかやらないか、各学校が自主的に判断して決めればよさそうなものですが、そこは横並び意識の強い日本人、お上の指示もないのに勝手なことをやって周りから奇異の目で見られるのは避けたい、などと言っていては児童生徒の健全な成長は望めないのではないかと危惧されます。
2016年03月03日
国際社会のグローバル化を支える基本概念は人権、すなわち個人の自由と権利です。昨今の自民党が言うような「国の権威」に国民がひれ伏すような「日本固有の伝統」を教育の基礎にしたのでは、これからのグローバル化の世の中に対応していけないと、ハーバード大学名誉教授の入江昭氏が7月26日の「しんぶん赤旗」で語っています;◆人権の保障こそ国家の使命 - 賛同署名をした、ハーバード大学歴史学部名誉教授 入江昭さん 敗戦から70年、世界は様変わりしてきました。日本はどうでしょうか。最近、私を含め米国などの歴史学者が発表した声明では、1945年以後の日本はそれ以前と異なり、民主主義、人権、言論の自由などが尊重される国になったとされています。 しかしどこまで日本が変わったといえるでしょうか。国家と個人の権利がどのように変わってきたのかを考えてみたい。 1945年まで、日本の国家主権は海外領土や勢力範囲にまで及んでいました。19世紀末の台湾統治、さらに20世紀初頭の朝鮮半島支配などを通して、日本帝国と呼ぶものをつくり上げていきました。 今日の世界では地理的国境の持つ意味は、戦前とは比べものにならないほど弱まっています。経済のグローバル化の故です。 グローバル化は国家だけではなく、人間の国境を超えたつながりも含みます。そしてその場合の基本概念が人権です。人権、すなわち個人の自由や権利が保障されてはじめて、グローバルな交流が可能となり、平和な世界へとつながっていきます。 日本では、政治家をはじめそのような変化に抵抗する人たちが少なくないようです。人権よりは国権を重んじ、日本固有の伝統なるものを教育の基礎にしようとしています。あるいは外国人、とくに在日朝鮮人などを排斥し、「慰安婦」問題を無視しています。これではグローバル化にも、世界の歴史の進歩にも逆らうことになります。 21世紀の日本は経済のみならず、ましてや軍事力ではなく、人権を海外にもたらすことを国家の目標、市民の使命としていきたいものです。(米独立記念日にボストンで)2015年7月26日 「しんぶん赤旗」日曜版 17ページ「欧米の日本研究者の声明に賛同続々」から一部を引用 入江氏の自民党政治批判は、自民党の改憲草案の批判にも通じます。わが国憲法では、人権は公共の福祉に反しない限り尊重されるとなってますが、自民党の改憲草案では「公の秩序を乱さない範囲」と大幅に制限されます。現行憲法の「公共の秩序に反しない限り」とは、他人の生命や権利を損ねることがない限りという意味ですが、「公の秩序を乱さない範囲」ともなると、普通の整然としたデモ行進でも警察が「これは交通渋滞をまねいて、公の秩序を乱すことになる」と判断すれば、それでデモは禁止、言論表現の自由は剥奪されるということです。日本固有の伝統などというものは、昔はこうだったと学習すればいいだけのことで、これを教育の基礎にしたのでは、将来の国民のガラパゴス化をまねくだけです。やはり、教育基本法は安倍政権が「改正」と称して実際は改悪した、これを元に戻すべきではないでしょうか。
2015年08月17日
4月16日の朝日新聞デジタル(WEBRONZA)に掲載された東京大学・須藤教授の「国旗掲揚・国歌斉唱と愛国心」について、4月21日の朝日新聞が次のように紹介している; 国立大学の入学式、卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を行うのは当然だという趣旨の質疑応答が国会であった。東京大学教授の須藤靖氏は「国旗掲揚・国歌斉唱と愛国心」(16日)で、「異論を許さず強要する姿勢こそが、真剣に憂慮すべき問題」だと論じた。 国会でも言及された教育基本法から、教育の目的や大学に関する条文を紹介したうえで、「教育とは、ある特定の国の国益とは無関係に、より広く人類社会そのものを支えていくために不可欠でもっとも重要な営みであることが明記されている」との見方を示す。 そのうえで、「教育基本法に謳(うた)われた教育の目的が達成された結果として、我々はそのような環境を提供してくれた国を愛するようになる。国を愛する人間をつくるための教育ではない」と指摘する。 職業柄、多くの国を訪れ、多数の外国共同研究者と公私ともに親しくしてきた経験から、「日本に生まれたことを誇りに思っている」「生まれ変わるとしてもまた日本人でありたい」からこそ、「強要は、愛国心を生むどころか、全くの逆効果になる」「強要と教養は相容(あいい)れない」と訴える。(編集長 矢田義一)2015年4月21日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「(WEBRONZA)『強要』で愛国心が育まれるか」から引用 もともと愛国心というものは、生まれた国で成長する間にその国の文化や伝統に触れて育まれるもので、学校やその他の公の場で誰かに強要されて身につけるものではありません。教育の目的が自国を愛する国民を育てることというのは、戦前の日本がやったことで、その結果は1945年8月15日に出されました。その後、私たちの日本はそのことを真剣に反省し、教育に国家権力が介入することの致命的な欠陥を学んだのでしたが、戦後70年に近づくにつれて、そのような反省が忘れ去られて、再び「過ちの道」へ向かっていることを、私たちは考え直さざるを得ません。
2015年06月07日
きのう引用した記事の続きは、安倍政権による教科書の「歴史修正」は戦争の歴史のみならず、明治以降に当時の政府がアイヌから土地を取り上げた事実を伏せて「アイヌに土地を与えた」などと記述していると告発している; 同様にアイヌ民族の歴史についても、当時の政府による差別政策を正当化するような表現が出てきた。 1899年に制定され、1997年に廃止されたアイヌ民族を対象にした北海道旧土人保護法について、日本文教出版(東京、大阪)の教科書は当初、「狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようすすめました」と記していた。 だが、検定意見を受けて「狩猟や漁労中心のアイヌの人々に土地をあたえて、農業中心の生活に変えようとしました」と、肯定的な書きぶりに変更した。 北海道大アイヌ・先住民研究センターの丹菊逸治准教授は「極めておかしな記述だ。アイヌには狩猟・採集で『イオル』(猟場)を中心とする伝統的な土地の利用方法があった。政府はそれを無視して土地を取り上げ、まずは和人に分配して、残った農耕に不適な土地をアイヌに分配した。これまで研究されてきた旧土人保護法の評価を間違えている」と指摘する。 「アイヌの中学生は、先祖代々語り継がれた歴史を知っている。かたや東京の中学生は教科書が唯一の情報源。正しい事実が共有されていなければ、両者が出合ったとき、民族問題が生じかねない。教科書は歴史認識の土台だ。記述はファンタジーではない事実に基づかねばならない」 検定以前に「自主規制」としか思えない記述も増えている。例えば、太平洋戦争末期の沖縄戦をめぐる史実の記述がそれだ。 地元住民をスパイとみなした旧日本軍の虐殺事件については、45年に発生した「久米島守備隊事件」などで知られている。日本文教出版の教科書が「スパイと疑われて殺害された人もありました」と記す一方、教育出版(東京)は今回「琉球方言を使用した住民は、スパイとみなされ処罰されることもありました」と記載した。 琉球大名誉教授の高嶋伸欣(のぶよし)氏(社会科教育)は「初めて見る記述」と驚きを隠さない。「当時、お年寄りは標準語が話せず、琉球方言しか使えなかった。スパイ扱い自体、納得できないのに、殺害されたことを『処罰』と書かれることには大変な抵抗がある。処罰とは、される側に相当な責任があっての罰。生徒が『仕方ないのかな』と解釈しかねない。日本軍の責任を薄めようとする表現だ」 さらに米軍の上陸後、沖縄の住民が壕(ごう)やガマと呼ばれる洞窟で強いられた集団自決をめぐっても、出版社の対応は分かれた。 6社の教科書は「日本軍によって集団自決に追い込まれた」などと、軍の関与を明記した。だが、自由社(東京)は全く触れず、育鵬社(東京)は米軍の攻撃を受けて「戦闘がはげしくなる中で逃げ場を失い、集団自決に追い込まれた人々もいました」と、日本軍の関与には触れなかった。 集団自決をめぐっては、作家の大江健三郎氏の著作『沖縄ノート』などをめぐり、当時の日本軍の指揮官とその遺族が2005年、日本軍が自決を命じたとする記述で名誉を傷つけられたとして、大江氏や出版元の岩波書店を提訴。 一審の大阪地裁は「大江氏が隊長による集団自決命令を事実と信じるには相当な理由があった」として原告の訴えを棄却。二審も「総体として、日本軍の強制ないし命令と評価する見識もあり得る」と一審判決を支持し、11年に最高裁も上告を棄却している。 高嶋氏は「旧日本軍の関与を避けるのは、教科書の執筆者や出版社が政権の顔色を必要以上にうかがっているからだろう。安倍首相らの歴史修正主義が、じわじわと教育を染め上げようとしている。しかし、沖縄の人たちは決して納得しない」と語気を強めた。<デスクメモ> 教科書会社に勤める知人はこう話す。「いまは各社の幹部らが検定以前に保守系議員に呼び出され、注文を拝聴することも多い。昔は内容を曲げられないという気概が強かった。最近は採用に結びつけたいという空気が勝る」。その結果、こうなった。どこもかしこも自主規制。つくづく嫌な世の中になった。(牧)2015年4月16日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「広がる自主規制」から引用 教科書会社に圧力をかける右翼議員も一応公正な選挙で選ばれた議員であるが、そういう議員たちの政党が圧倒的な国民の支持を得ているのかというと、投票率5割程度の選挙で辛うじて当選した連中であるから、彼らの言動が国民の支持を得ているとは言いがたい。そういう国全体から見ればごく一部の右翼政治家によって、児童生徒がウソの歴史を教えられるのは問題である。昔は教科書にウソは書けないと、教科書会社もがんばったが、今はそんなことより「売上げ」が第一で、記述内容は二の次になっており、その結果、間違った歴史を教えられた国民が増えていき、国際社会では通用しなくなり、国力は益々衰えることになる。こういうことで良いのか、国民は考える必要がある。
2015年04月30日
沖縄県竹富町の教科書問題は竹富町が採択地区から分離独立することで決着したが、これは竹富町がわがままだったのではなく、元々この採択地区では竹富町を含む3市町の教育委員会が民主的なルールに基づいて、現場の教員の多数決を尊重して教科書の選択が行われていたものを、邪な右翼的意図を持った石垣市長が送り込んだならず者まがいの悪徳教育委員が、それまでのルールを無視して独断で「つくる会」教科書の採択を決めたために、竹富町は自治体が一丸となってこの横暴なルール無視に反発したのであった。これは実に民主主義を守る戦いの立派な成果と言える。それに比べれば、石垣市や与那国町の教育委員会のふがいなさは絶望的である。その後の竹富町の教科書選定の状況について、7月10日の朝日新聞は次のように報道している; 沖縄県の八重山地区(石垣市、竹富町、与那国町)で異なる中学公民教科書が使われていた問題は、竹富町が採択地区から分かれることで決着し、同町は1日に単独で教科書採択審議会を立ち上げた。小規模自治体に十分、教科書の調査研究ができるのか疑問の声も残る。調査にあたる地元教員らには、不安とやりがいが入り交じっている。 沖縄県教育委員会が採択地区の分離を決めた5月下旬、竹富町のある中学校長はほっとした表情を見せた後、心配そうに言った。「採択地区から離脱すると、教科書の調査員を務める教員が足りないのではないか」 ●1教科あたり3人 町内の教員は小学校約70人、中学校約60人しかいない。八重山地区では基本的に、1教科あたり3人の教員を調査員に任命し、教科書の調査研究を託してきた。竹富町が設けた採択審議会も、各教科3人の調査員を任命する。小中学校ともに全部で9教科あるため、それぞれ27人が必要になる。中学校では教員のほぼ半分が調査員になる計算だ。 八重山地区で以前、中学の社会科教科書の調査員を経験した男性は「通常業務をしながらだったので大変だった」。調査期間は2カ月ほど。教科書会社からの接触を防ぐため、調査員であることは職場でも隠し、土日に3人で集まって教科書をめくった。 社会科だけで20種類の教科書があり、全てに目を通した。「説明文の表現はこっちの方がいい」「沖縄のことを取り上げている」などと話し合い、推薦する教科書を決めた。「この内容ならこんな授業ができると考えながらの作業で、やりがいはあった。授業にも責任感が出た」と振り返る。 教科書採択は原則4年に1度、全国一斉に行い、今年度は小学校、来年度は中学の教科書が対象。竹富町は今年度、独自に中学公民教科書も選び直す。来年度は改めて中学の全教科を採択する必要がある。 同町は教員の少なさを補うため、退職教員の活用を検討している。県教委も、調査研究を支援する職員1人を八重山教育事務所に派遣する。さらに県教委は、各採択地区に提供する調査研究資料を充実させることで、単独での調査研究は可能と判断した。 同町の慶田盛安三(けだもりあんぞう)教育長は「単独採択になることで、より地域の特性を生かした教育のための教科書選びができる。教員の負担は増すが、やりがいを持ってやってくれるはずだ」と期待している。 ●国「十分さ」に疑問 同町のように、共同ではなく単独で採択する自治体は2013年度時点で全国8都府県に14町村ある。だが、大半は同町より人口が多い。文部科学省の担当者は「竹富町だけで十分な事前調査に基づく採択ができるか疑問だ」と懸念する。 市民団体「子どもと教科書全国ネット21」の俵義文事務局長は「政府は元々、学校ごとの採択を目指してきた」と今の文科省の見解に疑問を投げかける。 1997年、当時の橋本龍太郎内閣は「将来的に学校単位の採択」を掲げ、「採択地区の小規模化」を促す閣議決定をした。俵事務局長は「それを無視して今さら町単独は難しいというのは、おかしい」と指摘する。(泗水康信)2014年7月10日 朝日新聞朝刊 13版 33ページ「教科書選び、不安とやりがい」から引用 国民の教育は国民が自主的に行うもので、政府が教育の内容に介入することは許されない。また、その一方で基本的な教育が受けられない者が出ないように、全ての国民が教育を受ける権利を保障するのが政府の義務である。つまり、政府は国民の教育にカネを出す義務はあるが、教育内容に介入してはならない。これがルールである。したがって、政府であれ教育委員会であれ、現場の教師が選択する教科書に異論を述べることは許されないということを、再確認するべきだ。政府はかつて橋元内閣が標榜したように、学校単位の教科書採択を目指すべきである。
2014年08月03日
国民の教育は本来自由であって時の政府や政治家の考えで統制されるべきものではない。したがって、学校教育で使用される教科書も教育の現場で教員が選択して決めるものであるが、わが国では教科書検定制度で国のチェックが入るようになっている。ところが、昨今は「教育の自由」を理解しない反知性主義の政治家が違法な政治介入をして検定を通った教科書であるにも関わらず特定の教科書を名指しで批判するするケースが増えており、その問題点を指摘する投書が5月30日の東京新聞に掲載された; 近年、自治体の教育委員会や地方議員の一部が、文部科学省の検定を通った教科書の国旗国歌の記述などにクレームをつけ、ある出版社発行の高校日本史教科書を使用させないような圧力を加えてきている。 このことにいくつかの大きな問題がある。 第一に、名指しされた出版社に対する営業妨害であり、経済活動の自由を侵す行為である。 第二に研さんを積んできた教科書執筆者や編集者の学問の自由、言論・出版・表現の自由を侵す行為である。 第三に学校の教員の意向や学校の実情、生徒の学習活動や進路など現場の状況を無視して、特定の教科書を排除して使用させないということは、教育の自由を侵すものだ。 自由は民主主義の根本であり、社会の発展の源泉である。 いろいろな考えや意見が衝突しながらも尊重されなければならない。権力を振りかざして自分の思うようにしたいというのは傲慢(ごうまん)である。2014年5月30日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-検定教科書に圧力許されぬ」から引用 ここに引用した投書は、教育委員会や地方議員が教科書の内容にクレームを付けること自体が問題であるとしており、記述内容や表現によらず、検定を通った教科書であれば教育委員会や地方議員が文句を言う筋合いではないという主旨で、中立的な立場からの公正な意見だと思います。右翼思想の教育委員や地方議員は言動を慎むべきです。
2014年06月12日
安倍政権が教科書に領土問題に関する政府見解を書かせようとしていることについて、高校生が4月12日の朝日新聞に次のような投書を寄せた; 5日の社説「領土の教育 冷静に、しっかりと」を読んだ。私たちが授業を通して学ぶことの根本は、教科書に書かれている。だから、どうしても教科書に書いてあることは正しいと思い込んでしまう。竹島と尖閣諸島の領有権問題について、政府の見解を書かれても知識にはなるが、それ以上のものは得られないと思う。なぜ問題になっているのか、相手国の言い分はどうなのか、それらを知って初めて自分なりに領土問題について解釈できる。 いざ韓国や中国の人と領土問題について議論する場合、教科書に書かれた「竹島も尖閣も日本固有の領土だ」という知識だけでは、どちらが正しいのかという中身のない口論になってしまう気がする。政府見解だけの知識では、相手を説得することなど絶対に不可能だろう。 私は「日清戦争に乗じて尖閣を奪われた」という中国の主張を日本史の時間に学習した。この主張を考えるためには、下関条約や当時の国際情勢まで踏み込んで知らなければならない。領土問題というのは歴史的、地理的、文化的な様々な面から考察しなければならないはずだ。小学校の社会科で学ぶにしても、政府見解だけでなく多角的に知る必要があるのではないだろうか。2014年4月12日 朝日新聞朝刊 12版 14ページ「声-領土問題は多角的考察が必要」から引用 この投書を読むと、尖閣諸島の領有権問題については安倍政権よりも高校生のほうがはるかに深くものを考えていることが分る。これは現場の先生たちの努力の結果に違いないし、安倍政権が想像しているよりも高度な教育が行われていることが理解されるというものである。安倍政権は教科書介入の浅知恵を恥じるべきだ。
2014年05月08日
文部科学省が教科書検定に応募すると思われる出版社に異例の通知を出した、と4月25日の東京新聞が報道している; 5月26日から申請受け付けが始まる中学社会科の教科書検定で、文部科学省が、尖閣諸島や竹島に関する記述内容の変更を申請後にも認める異例の措置を、各教科書会社に通知したことが分かった。1月に中学高校の学習指導要領解説を改定し、尖闇、竹島を「日本固有の領土」と教えるとしたことへの対応だが、教科書会社からは「時間を与えるから記述を増やせという意味か」と困惑も聞かれる。 (加藤文)◆領土教育強化、出版社困惑 通知は今月22日付。申請翌日から60日以内なら、尖闇や竹島の記述追加や変更を認める。通常なら、申請後に内容を変えられるのは、検定結果が出た後に取り上げた題材をめぐる社会情勢が変化した場合や、明らかな間違いがあった場合に限られる。 文科省は理由を「指導要領解説の改定を踏まえ、教科書の編集期間を十分確保するため」と説明する。 だが通知に添えられた変更内容の例では、目次に尖闇・竹島で一項目設けたり、コラムを追加したりした例も示している。教科書会社は申請の一カ月前の段階で、尖闇や竹島の記述を増やす方向で再検討を余儀なくされる可能性がある。 ある教科書会社の担当者は「なぜこの時期に。文科省の意図が分からない」と困惑する。別の会社の担当者は「教科書編集が大詰めに入った1月に解説を改定したこと自体、無理があるのに、追い打ちをかけられた印象だ」とこぼした。◆政治の「不当介入」 共栄大の藤田英典教授(教育社会学)の話 領土問題で歴史的経緯や政府見解を記載すること自体には、問題があるとは思わない。だが道徳の教科化の検討や、沖縄県竹富田の教科書採択問題への対応など、この一年の教育施策を踏まえれば、今回の通知は教科書会社への圧力ともとれ、政治の「不当介入」と言わざるを得ない。2014年4月25日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「尖閣・竹島 記述増促す?」から引用 尖閣諸島や竹島を日本固有の領土であると生徒に教えるのは戦前の政府が「日本は神の国だ」と教えたのと同じで、教育としては邪道である。生徒には世の中の真実を教えるべきで、その意味で「日本政府は尖閣諸島と竹島は日本固有の領土であるとの立場を堅持している」と教えるのは当然であるが、それだけに終わらず中国政府や韓国政府はどう言ってるのか、そもそも歴史的経緯はどうなのかといった点まで掘り下げて教えるべきであり、それには相応の準備も必要であるのに、そういう現場の事情を一顧だにせず「とにかく政府の見解を書け」と言わんばかりの態度はいかにもヤンキー政権らしい。こういう政権の政治介入を放置したのでは、わが国の将来は没落の一途である。
2014年05月04日
ジャーナリストの黒島美奈子氏は、沖縄県竹富町の教科書問題について4日発売の「週刊金曜日」に、次のように書いている; 人口約4000人、9つの有人離島からなる沖縄県竹富町。自然あふれる町でいま、政治的圧力が強まっている。いわゆる「八重山教科書問題」だ。いま一地域の問題を超えて「教育の政治的利用」という本来の顔を明らかにしつつある。 ことの発端は2011年6月。教科書選定作業を担う「八重山地区協議会」で異例のルール変更が行なわれた。1つは、選定作業を補足するため現場教員などが事前に行なう教科書の「順位付け」の廃止。2つ目は協議会委員の1人が、役員会での承認なしに独断で委嘱されたことである。その結果、八重山地区協議会は同年8月、育鵬社の中学公民教科書を採択した。順位付けで同教科書は、現場教員の推薦がないばかりでなく「原発の危険性や男女差別についての記述がない」という欠点も示されていたのに、だ。 通例では地区協議会の採択答申に従い、市町村教委が教科書を決める。八重山地区のうち石垣市と与那国町は答申に従った。 一方、答申に納得のいかなかった竹富町教委は、地方教育行政法を根拠に独自に東京書籍を採択した。「現場教員が欠点を指摘した教科書で子どもたちを学ばせるわけにはいかない」という理由で、至極もっともだ。ただ、地区内で採択が異なる事態に驚いた県教委は「同一教科書が望ましい」と3市町教委を指導。同年9月8日、3市町の教育委員全員が参加する協議(全員協議)が開かれ、竹富町教委の言い分が認められる形で改めて東京書籍を地区の中学公民教科書として採択した。これが本来の顛末である。 この間、八重山地区協議会によるルール変更が育鵬社の教科書を選定するため行なわれていた可能性が報じられた。主導した玉津博克石垣市教育長は「選定は本来協議会の判断だが(略)順位付けが拘束性を持ってしまっている」(11年7月20日付『沖縄タイムス』)と順位付けの影響を受けずに教科書を選定したかったと告白している。その後も玉津教育長が義家弘介自民党参院議員(当時)から採択が有利に働くよう指南を受けていたことも報じられた。「文科省によると14年度の中学公民教科書需要数に占める両教科書の割合は、東京書籍が56・8%に対し、育鵬社は4・1%にとどまっている」(3月22日付『琉球新報』)。つまり八重山教科書問題は「現場教員に人気のない教科書を採択するため、一部の人が立場を利用し採択をコントロールしようとした問題」だった。 だが全員協議の5日後、中川正春文部科学相(当時)が「協議は無効」とした時に問題は、国家による教育行政への不当介入へと発展した。中川文科相は12年度から、同町教委への中学公民教科書の無償配布を中止。義家議員は13年3月、文科大臣政務官として竹富町教委を訪問し、同一教科書の採択を迫った。今年3月には下村博文文科相が町教委に対し地方自治法に基づく是正要求を出した。 不正まがいで採択された教科書を、国がここまで強力に押しつけることに違和感を覚えないわけにはいかない。文科省の役人でさえ「政権交代の後、より強い指導を行なうようになったのは事実」(前川喜平初等中等教育局長談、3月26日付『沖縄タイムス』)と認めている。2014年4月4日 「週刊金曜日」986号 14ページ「黒島美奈子の政治時評」から引用 この記事が明らかにしているように、沖縄では右翼思想に取り付かれた玉津博克石垣市教育長と義家弘介自民党参院議員(当時)が結託して、それまで行われていた教科書選定のルールを無視し、侵略戦争美化の傾向があって評判の悪い「つくる会」系教科書を無理やり児童生徒に押し付けようとしたもので、これに対応する竹富町は、民主主義の国における教育の自由を守るための当然の処置であると言えます。しかるに安倍政権は、これまでのルールを無視した右翼グループに肩入れして不当な政治介入をしている。「非」は安倍政権側にあることに間違いはありません。竹富町教育委員会は、教育委員会本来の機能をフルに発揮して国家権力の不当な介入をはね除けてもらいたい。
2014年04月22日
安倍政権は学習指導要領に尖閣諸島や竹島が日本の領土であることを明記する方針であるが、領土問題を教育の場に持ち込む愚策を1月17日の朝日新聞投書は、次のように批判している; 文部科学省が学習指導要領解説書に尖閣諸島と竹島を日本の領土と明記することを検討しているという。これまでの流れから驚くことではないが、私は教科書を政治的主張の場にしてしまうのではないかと思う。 社会科や地歴科を学ばせる目的は、社会の問題について批判的で主体的な認識を持ち、自ら考え判断できる市民を育成することであろう。領土問題であれば、近代国家にとって領土とは何か、また、どのように国境が定められるのかを教え、領土をめぐる国際紛争に対して自ら解決方法を探らせる指導が大切である。具体的な教材として何をどのように取り上げるのかは、教科書執筆者や現場の教師の専門的判断に委ねるべきである。 その中で尖閣諸島などを扱うことは当然考えられるが、「日本の正当性を教える」ことではない。近隣諸国の主張も教え、どうすればよいのかを生徒自らが考えるように導くべきであろう。相手が「自国領土」と教えているからといって、同じ手法で対抗するのは相互理解をますます困難にするのではないか。 政府の立場を国民に知らせることが目的だというなら、広報活動などによるべきであって、教科書を利用するのは教育への冒涜(ぼうとく)であると思う。2014年1月17日 朝日新聞朝刊 13版 16ページ「声-領土問題、教科書利用に違和感」から引用 この投書が指摘するように、国民を教育する目的は自国の正当性を教えることではなく、豊かな知見と柔軟な思考方法を身につけることである。したがって、領土問題の学習であれば「大昔は無人島で誰も寄り付かなかったのに、何時ごろからどの国が領有を主張し、現在はどの国がどう主張しているのか。解決策はどうあるべきか」という方向で学習するべきです。「日本の正当性を教える」という発想は、やがて「日本は正しい、日本は優秀だ、神の国だ」という方向に言ってしまうという苦い経験を我々は思い出すべきでしょう。ところが、安倍政権は何を勘違いしているのか、その苦い経験を「すばらしい時代だった」と考えている節がある。アメリカ政府をして失望させている所以である。
2014年02月13日
本当の歴史を歪曲し修正していこうという者が政権についたことによって、いよいよ歴史教科書の歪曲が始まる。安倍政権がどのような手を使ってやろうとしているのか、その問題点は何か、12月12日の朝日新聞は次のように論評している; 文部科学省が、小中高校の教科書検定基準の改定に動き出した。社会科の記述にバランスを持たせ、改正教育基本法の趣旨を反映させるというが、なぜ必要なのか。懸念は何か。保守色を強める自民党の意向を受けた改定の意味を、3氏に聞いた。■「バランス良さ」近現代史が焦点 教科書検定に関しては、安倍晋三首相が4月に国会で「検定基準に改正教育基本法の精神が生かされていない」と答弁し、見直しを示唆。同月に検討を始めた自民党特別部会の提言をもとに、文科省がまとめたのが今回の改定案だ。 要点は、社会科の教科書を「バランス良い記述」にすること。具体的には、▽近現代史で通説のない事項はそれを明示▽未確定な事項で特定の事柄を強調しすぎない▽政府見解や確定判例がある事項はそれに基づく記述――の3点。さらに、「改正教育基本法や学習指導要領の趣旨に照らし、『重大な欠陥』があれば不合格」との要件を加える。 このほか、教基法をより意識させるための申請書類の改定や、検定手続きの透明化も進める予定。教科用図書検定調査審議会の検討を経て、来年度の中学向け教科書検定から適用したい考えだ。■高千穂大准教授・五野井郁夫氏 近現代史などで諸説を挙げる中で政府見解にも触れることは、従軍慰安婦問題などの強制性をめぐる国のスタンスを知る機会にもなるので、必ずしも否定しない。敵対心をあおるだけの中韓両国政府の反日教育には抗議すべきだろう。戦後日本の平和教育も、歴史認識の正確さにおいて、疑問に感じる点はある。 それでも、今回の教科書検定基準の改定には反対する。政府見解の義務づけは教育のバランスを大きく崩し、偏向教育に陥りかねないからだ。改正教育基本法がうたう目標を意識した教科書は、これからの時代に必要とされ、国も推し進めているはずのグローバル人材を育成するうえで足かせとなるだろう。世界と対話するためには、内向きの政府見解から自由な歴史認識を持つことが必要だ。 王朝が代わるたびに「正史」として歴史が書き換えられた他国の問題点を踏まえ、日本では江戸時代から、史料に基づく歴史研究が取り組まれてきた。 この流れは「大日本史料」として東大史料編纂(へんさん)所に引き継がれている。わが国が世界に誇るべき姿勢だ。こうした伝統にのっとり、政府の恣意(しい)性を排した研究に基づく歴史を教えるべきだ。 政府見解といえば、従軍慰安婦への日本軍関与を認めた河野談話や、アジア侵略を明記した小泉談話もそうだが、これらの記載を求める気は国にあるのか。いずれも世界の中の日本の立ち位置を知る上で欠かせない。「負の事実を隠さなければわが国は愛されない」と考えるとすれば、「自虐史観」などとレッテル貼りする側の自信のなさゆえだろう。愛国心とは、正負両面の史実を知って初めて芽生えるものだ。【聞き手 三橋麻子】 ◇ 五野井郁夫 著書「『デモ』とは何か―変貌(へんぼう)する直接民主主義」で、反原発デモについて考察。反対の立場で活動した「ヘイトスピーチ」が今年の流行語トップテンに。2013年12月12日 朝日新聞朝刊 13版 33ページ「どこへ行く 教科書検定」から一部を引用 文科省がまとめた改定案では「バランスの良い記述」にしていきたいとのことであるが、あたかも現在の教科書はバランスが悪いかのような、あいまいな話に私たちは騙されてはいけないと思います。これまでも、政府の教科書検定は日本に都合の悪い表現をできるだけ削除して都合の良い教科書にしようとしてきた過去があり、あまりにもひどいというので、学識経験者から批判され裁判にまでなって、できるだけまともな記述ができるように努力してきたのが実情である。その「まともな記述」が気に入らない安倍首相は、「何が侵略であるか、定義はまだない」などと口走って、国際社会には通用しないような歴史教科書にしようと考えている節がある。そのような教育の歪曲では、育った国民は国際社会に通用しない「ガラパゴス化」してしまう危険性がある。安倍政権の間違った教育介入に反対の声を上げるべきだ。
2014年01月07日
東京都教育委員会は君が代斉唱時に起立しない教員を減給処分にするという暴挙を行って裁判にかけられ敗訴したが、それより軽い処分ならいいだろうと、相変わらず職権乱用を行っている。20日の東京新聞は、その実態を次のように報道している;◆都教委 異様な「粘着気質」◆最高裁の苦言も無視「まるでストーカー」 都立校の式典で、君が代の起立斉唱を拒んだ教職員への処分について、最高裁が「減給は重すぎる」と処分を取り消した教員7人に対し、東京都教育委員会は17日、戒告処分を出した。最高裁判決の趣旨は処分乱発をいさめたもの。にもかかわらず、都教委は猪瀬知事の醜聞騒ぎにまざれ、前代未聞の再処分を強行した。 (出田阿生) 戒告処分を受けた都立高教員の伏見忠さん(55)は「都教委は命令に従わない教員をとことんいじめ抜かないと、気が済まないようだ。まるでストーカー」と絶句した。 伏見さんは2005年3月、卒業式での君が代斉唱時の不起立により、減給十分の一(1カ月)の懲戒処分を受けた。03年に都教委が起立斉唱を義務づけた「10・23通達」に基づく職務命令違反が理由だった。だが、最高裁は今年9月、減給は重すぎるとして、この処分を取り消した。 ところが、都教委は今回、伏見さんら現職の教職員7人を再処分した。都教育庁教職員服務担当課の職員は「(最高裁判決で)減給は重すぎるとされたが、それより軽い戒告については何も言われていない。学校の規律・秩序保持のためには職務命令違反者をきちんと処分する必要がある」と理由を説明している。 伏見さんは「都教委からは最高裁で敗訴が確定した後も、一切の謝罪はなく、減給分を返還するという紙を送りつけてきただけだ」と憤る。 ちなみに同一事件で、二重の刑罰を与えてはならない「一事不再理」原則は刑事事件のみで、こうした行政処分では適用されない。それゆえ、再処分に違法性はない。 しかし、「君が代」訴訟弁護団の平松真二郎弁護士は「事件後、8年もたってからの懲戒処分など民間ではあり得ない。今年1月と9月の最高裁判決の補足意見で都教委に対し、処分乱発をいさめ、紛争解決に向けて教員らと話し合いをするよう求めたのに全く無視している」と批判する。 こうした都教委の「粘着体質」は常態化している。東京地裁は19日、元都立高教員の福嶋常光さん(64)に対し、都教委が出した減給十分の一(6カ月)の懲戒処分を取り消した。福嶋さんは05年3月の卒業式で君が代斉唱時に起立せず、そのため「再発防止研修」の受講を命じられたが、授業のために欠席。このことで処分された。 研修受講日は福嶋さんの担当する高2と高3の生物の授業が5時間あったが、都教委が一方的に決めた。福嶋さんは「受験生もいるのに、授業をすっぽかすわけにはいかない。授業のない日に研修を受けたい」と変更の希望を出していたが、校長を通じ「認められない」と断られたという。 心身ともに疲れ果て、早期退職した福嶋さんは「予定通りに授業をしたせいで処分されるとは。生徒を教えることより、大事な仕事があるだろうか」とあきれる。 都教委は6月、国旗国歌法で「一部の自治体で強制の動きがある」と記述した日本史の教科書について、「都教委の考え方と相いれない」ことを理由に使わないよう各都立高に通達している。 安倍政権が閣議決定した国家安全保障戦略には「愛国心」が明記されたが、この流れを先取りしたのが都教委の10・23通達。司法判断に背を向ける姿勢には、国の動向も影響していそうだ。2013年12月20日 東京新聞朝刊 11版S 26ページ「君が代不起立教員 前代未聞の再処分」から引用 生徒を大事に思い授業を大切に考えている教員に対して、都教委の仕打ちは異常である。教育者の風上には置けない。そのせいで、東京都の教員採用試験はこのところ定員に満たず、地方の採用試験に合格しなかった学生に声をかけて募集する始末である。このような教育現場の荒廃は、石原慎太郎のような者を4回も都知事に選んだ都民の責任だ。後継の都知事は1年足らずで辞任したが、次の知事にはまともな常識を持った人物を選ぶべきだ。
2013年12月29日
教育の現場に「競争」を持ち込むのは誤りであることについて、11月30日の東京新聞コラムは、次のように述べている; 学校でこんな実験をしたとする。同じ問題を二つの班に与えて、違う指示を出す。 一方には「班で話し合ってもいいですが、班ではなく個人の成績を見ます。班の中で順番も決めます。他の子より良い点を取るように」と言う。他方には「よく話し合い協力し、班として少しでもいい成果を出すようにしなさい。班の点数が一人一人の点数になります」 さて、どちらの班の得点がよくなるか。競争が働く前者のように思えるが、逆だそうだ。競争と協力をめぐっては多様な研究がなされてきたが、競争は協力ほど成果を生まず、かえって悪影響が出るとの結果が数多く得られているという(コーン著『競争社会をこえて』) 考えてみれば、他者の敗北なしに自らの喜びが得られぬ競争より、ともに達成感を味わえる協力・協同の方が力強いというのは、当たり前のようでもある。 政府が学力テストをして、学校別の結果を公表する。新聞はその順位表を載せ、学校間の競争を煽(あお)る。学校はテスト対策に追われ、答案改ざんなど不正まで行われるようになる。 これは、教育現場に徹底した競争原理を持ち込んだ英国の話だ。日本でも学力テストの成績の学校別公表を始めるという。「成績の悪い子は、テストの日は休んでほしい」・・・そんな思いがチラッとでも先生たちの頭をかすめるようになったら、それこそ教育の敗北だ。2013年11月30日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「筆洗」から引用 テストの成績を競わせるのは教育の目的から言って、間違ったやり方である。教育の目的は、一人ひとりの人間の個性を生かして人格を完成することを支援するものであるから、様々な能力や可能性を持った人間を、短時間の「試験」で評価することは不可能である。教室で先生が生徒を試験するのは、学習結果がどの程度であるかを評価するだけのことであって、その場限りのものである。それを、全国一律の試験をやって順列を比較することには教育上の意味は何もない。その上、学校別の結果を公表するとなると、学校も先生も、生徒の学習効果をみるという本来の目的を見失って、とにかく点数を上げるということが第一の目的になってしまう。これは本来の教育ではない。点数を上げることが目的となると、そのためには不正を行い、試験の前日に問題と答えを生徒に教えておくとか、本来の教育から逸脱し、教育者にあるまじき行為をする先生が出現したことも、かつては新聞に報道された。そういう失敗を何度も経験しておきながら、性懲りも無く「学校別の結果を公表」などと言い出すこの国の大人は、本当に学習能力を欠いている。
2013年12月09日
沖縄県の八重山地区教科書採択協議会は右翼思想の政治家が不当な介入を行って、侵略戦争を賛美するかのような「つくる会」の歴史教科書を無理やり採択する決定を行い、同地区の大部分の中学校は仕方無しに「偏向教科書」を使って授業を行っているが、竹富町教育委員会だけは不当な採択協議会の決定に従わず、独自に現場の先生たちと協議してまともな教科書を使用している。そのため教科書代は国から支給を受けられず、竹富町が負担している。ところが、これに対して国は沖縄県教委に圧力をかけて、竹富町の中学校にも偏向教科書を使うように指導するようにと指示していたのであるが、沖縄県教委はそのような不当な指示には従わない方針を決めたと、11月20日の朝日新聞が報道している; 沖縄県竹富町の教科書採択問題で、県教育委員会(新垣和歌子委員長)は、文部科学省から指示されていた同町への是正要求を出さない方針を固めた。20日の定例会で結論を出す。文科省は、県が要求を出さなかった場合、竹富町に直接、是正を求めることも検討している。 地方自治法に基づく是正要求は過去に2例ある。住民基本台帳ネットワークへの接続を拒んだ東京都国立市と福島県矢祭町について、総務省から指示を受けた都と県が2009年に各市町に要求した。今回、沖縄県教委が指示に従わなければ、初のケースとなる。指示に従う法的義務はあるが、従わなくても罰則はない。 県の教育委員は学識経験者ら6人。文科省から指示があった先月中旬以降、計5回にわたって協議を重ねてきた。 関係者によると、▽ 地方教育行政法は自治体独自の採択権を認めている▽ 町が採択したのは検定に合格した教科書で、教育現場に混乱は生じていない――などの理由で、是正要求は出すべきではないという意見でほぼ一致しているという。 是正要求については、県内の教育関係者や弁護士らから「教育現場への不当介入」などと批判が出ており、県教委幹部は「県民の声を無視するわけにはいかない」としている。 竹富町を含む沖縄・八重山地区の採択協議会は11年、中学の公民教科書に育鵬社版を答申。しかし竹富町は「手順がおかしい」などとして東京書籍版を採択した。文科省は、竹富町もほかの2市町と同じ教科書を採択すべきだとして、県教委が町に要求するよう指示していた。 (泗水康信)2013年11月20日 朝日新聞朝刊 14版 38ページ「沖縄県教委、是正要求せず 国指示拒む方針」から引用 本来、政府が出す是正要求というものは、行政が関与する範囲内に限定されるのが当然であるから、教科書の選定という教育内容に関わる事案については介入するべきではない。そもそも児童生徒の教育は親の責任で教師に任せているのであるから、教科書の選定も現場の教師に任せるべきであって、特定のイデオロギーを持った政治家や国家が介入するのは不当である。したがって、正しい判断をした沖縄県教委は立派である。
2013年12月07日
埼玉県議会が県立高校の教科書選定に不当な政治介入を試みて失敗した事件について、朝日新聞・池田拓哉記者は11月13日の紙面で、次のように批判している; 東京都や神奈川県の教育委員会が各校の選定を押し戻した実教出版の高校日本史教科書。埼玉県では、この教科書問題に横やりを入れたのは、教委ではなく県議会だった。 教壇に立つ先生が選び、県教委も採択したのに、やり直しを求める決議が10月、自民党など保守系議員の賛成多数で可決されたのだ。 問題にされたのは、国旗掲揚や国歌斉唱について、脚注にあった「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」との記述。県議たちは「(公務員にとって)強制ではなく義務」と繰り返し、県教委の採択を覆そうとした。 2都県の教委も問題視した箇所だが、政治介入は教育の中立性を脅かす。県議会文教委員会では「(執筆者の所属は)共産党系の団体」「この教科書で(学んで)は、まず自民党支持者にならない」との発言まで飛び出した。 県議には県政に関する事柄を広く調査する権限がある。しかし、この教科書を選んだ8校の校長を文教委に呼び出し、選定の理由を問い詰めたことは、学校現場全体に及ぶ萎縮効果を狙ったとしか思えず、明らかにやり過ぎと言えるだろう。 校長らは「図表がふんだんに使われ、授業を進めやすい」などと説明し、県教委は「各高校の判断を尊重した」と述べた。すると県議らは「県教委には自主性がない」と攻撃した。 これにも首をひねった。 県教委は教科書採択の前から、国旗、国歌に関するすべての教科書の記述を紹介する資料集の作成に取りかかっており、その資料集も使って生徒を指導することを採択の条件としていた。決して「丸投げ」ではなかった。 現場の選択を尊重し、あわせて生徒が多様なものの見方に触れる機会を保障しようという、妥当な判断だったと思う。一方、県議らは、今後すべての日本史教科書を専門家とともに点検する構えをみせる。自らの考えと異なる記述があれば、やはり排除に躍起になるのだろうか。 決議を受けて県教委は臨時会を開き、採択を変えないことを確認した。筋を通した形だが、今回の騒ぎが来年以降の教科書採択に影響を及ぼす可能性は否定しきれない。 教科書は、生徒に一番近いところにいる教員が責任を持って選ぶのが一番良いはずだ。一部の政治家が「民意」の名の下に度を過ぎた介入を続ければ、それこそ「強制の動き」になりかねない。 (いけだたくや さいたま総局)2013年11月13日 朝日新聞朝刊 12版 14ページ「記者有論-教科書選定 行き過ぎた政治介入に疑問」から引用 私たちの日本が「教育の独立」という原則を確立したのは、戦前の軍国主義政権の下での愛国教育、軍国教育の反省から「教育は政治・イデオロギー、思想・宗教に左右されることがあってはならない」という理由によるものです。昔は国定教科書で皇国史観を教えるのが教育者の仕事でしたが、戦後は国民の教育は国民の権利であり、国民の責任において実施されるもので、政治が介入できない制度になりました。したがって、埼玉県議会が逆立ちして頑張っても、自民党好みの教科書を教師と生徒に押し付けようとするのは無理な話です。そんなことも知らないというのは、やはり自民党の政治家というのは勉強は足りないし、教養もなければ見識も無い、学校時代は不良生徒の烙印を押されていたであろうと思われるような人物が埼玉県議会に巣食っているのではないかと思われます。そのような下品な埼玉県議会の恫喝にも屈せず、筋を通した埼玉県教育委員会は立派であり「教育者の鏡」であると言えます。
2013年12月02日
特定秘密保全法案は使い方によってはわが国の民主主義を終焉に導く魔力を持っているにも拘らず、政府がそれを進めようとしているのに、国会議員の間には何の危機感も無い事態について、9月25日の東京新聞は次のように論評している; もう一つ侵されかねない国会議員の権利がある。憲法62条で定めている国政調査権だ。各省庁などは国会議員から資料要求などがあれば原則、拒むことはできない。ところが、秘密保護法案が成立すれば矛盾が生じる。井上氏は「まだ法案の概要しか公表されていないので詳しく内容を知らないのかもしれないが、国会議員はもっと深く関心を持つべきだろう」と訴える。 しかし、国会議員の危機感は薄い。 法案内容を協議する自民党の「インテリジェンス・秘密保全等検討プロジェクトチーム」(座長・町村信孝元外相)では、国会審議への影響についてはほとんど議論されていないという。 議員の法案に対する認識不足を心配する全国市民オンブズマン連絡会議は今月11日、全議員に対し、法案概要に関する質問状を送付した。質問は大きく4つあり、ポイントは「国会への特定秘密の提供方法」と「国会議員が特定秘密を漏えいした場合の罰則規定」。今月末が締め切りだが、回答はまだ少ない。 同会議事務局長の新海聡弁護士は「自民党は『官僚を抑え付ければ、お手盛りができる』とでも考えているのかもしれない。だが、官僚が国会に対しても怒意(しい)的に情報隠しをすれば、議論をコントロールできる。議員には法案について考えてほしい」と強調した。 国会を否定する自殺行為ともなりかねない法案にもかかわらず、議論が沸き起こらないのはなぜか。 政治評論家の森田実氏は「野党が弱体化してしまい、自民党に何も言えなくなっている。民主党が倒れて、日本維新の会など、自民党の補完勢力が数を増やし、国会が『オール安倍化』している」と指摘した。その上で「議論すべき法案の議論ができず、非常に危ない状況。私が中学1年の時に第二次世界大戦の終戦を迎えたが、共産党が『アカ』と呼ばれ、弾圧された戦前の世相を感じる。成立して誰かが逮捕されてから気付いても、もう遅い」と断じる。 法案概要では、地方自治体について触れていないことも懸念材料だ。秘密対象の「防衛」「テロ対策」など4分野は一見すると地方自治には無関係にも映るが、大きく影を落とす。例えば、テロ対策にかこつければ、自治体が持つ原発関連の情報も秘密に指定されかねない。 「東北電力女川原発(宮城県)の使用済み核燃料の輸送ルートについて宮城県から一部開示されたが、秘密保護法によって不開示にできる。今後の東京五輪関連の工事や施設についても、テロ対策を理由に不開示にできる。在日米軍基地に関する自治体の情報も対象にでき、恐ろしい秘密国家になる」(新海氏) 自治体や地方議員に危機感が欠如しているのは言うまでもない。 前出の井上氏は、国権の最高機関に所属する議員の「プライド」に望みをつなぐ。 「法案の審議では国会議員としての見識、プライドが問われる。あらためて言うまでもなく、行政機関を監督し、問題があれば是正させるのが国会議員の大きな仕事。それを侵されようとしているのだから、党派の枠にとらわれることなく、慎重かつ徹底的に議論をする必要がある」<デスクメモ> 町村元外相は秘密保護法案の旗振り役である。父の町村金五元参院議員は、1980年代に一度は葬られた国家秘密法案の促進議員懇談会の顧問を務めた。同会の会長は、安倍晋三首相の祖父である岸信介元首相。情報統制への飽くなき執念を受け継いだ二、三世が今、亡霊の復活に血道を上げる。 (圭)2013年9月25日 東京新聞朝刊 11版S 29ページ「足かせ 議員危機感薄く」から引用 この記事が指摘するように、野党が弱体化して政府が出してきた法案をまともに議論できないという現状が、既に民主主義の危機である。しかも、与党の中にも疑問や危機感をもつ議員もいないわけではないだろうが、古参の議員に「将来のことも考えれば、口を慎んだほうが身のためだ」などと恫喝されて沈黙である。そのような議員を選挙で選んだ国民のほうも、危機感は皆無で、秘密と言えばそれは守るのが当たり前だろうとか、拡大解釈して基本的人権を侵害することのないようにすると書いてあるから大丈夫とか、まったく能天気なのは困ったことだ。法律の文言にどのような美辞麗句があっても、実際の法律が施行されれば、例えば贈収賄事件に関連して外務大臣を取材しようとした時点で「外務大臣は安全保障政策の重要な情報を持っている政治家だから、そういう重要な政治家を取材するなどは、秘密漏洩の元になりかねないから、特定秘密保全法違反で逮捕だ」という羽目にもなりかねない。国民は、国家権力が情報統制のために手段を選ばないことを、歴史に学ぶべきだ。
2013年10月08日
元衆議院議長の河野洋平氏は、集団的自衛権の行使を容認しようとする安倍政権の姿勢を批判して、14日の秋田魁新報で次のように述べている; 安倍晋三首相は憲法改正が「私の歴史的使命」と強い意欲を示している。15日の終戦記念日を前に、自民党ハト派の代表格だった元党総裁の河野洋平・元衆院議長(76)に憲法改正や歴史認識について聞いた。 -安倍首相は憲法改正に意欲を示している。自民党の改正草案は自衛隊を国防軍とし、集団的自衛権の行使容認も前提にしている。 「改正の必要性を感じない。改憲して国防軍にし、防衛大綱を改定して装備を充実するとなれば、周辺の国々に防衛計画改定を勧めるようなもの。際限のない軍備競争のきっかけをつくる必要は全くない。日本を取り巻く安全保障の環境が変わっているとの主張もあるが、こういうときこそ、ますます外交努力をするべきだ」 -戦時中、空襲のたびに防空壕(ごう)に逃げ込んだことや、玉音放送をラジオで聞いた様子をかつて手記に記している。 「忘れられない経験だ。今の憲法ができてから時間がたち、何か9条を軽んじる風潮がある。初心に帰って、なぜこういう憲法があるか、きちんと考えなければならない。戦争の惨禍、悲劇をわれわれは忘れちゃいけないのです。9条は日本の根本的な精神だ」 -以前は自民党内にも改憲に反対する勢力があったが、今はそういう声が聞こえてこない。 「自民党は純化路線をたどっている。衆院が小選挙区になった影響が大きい。党公約を厳格に順守しなければ公認候補になれない」 -自民党の改憲草案は国民に新たな義務を課す部分が目立つ。 「今の改憲論議は、国民がこの憲法では不都合で日常生活ができないから変えなければ、と盛り上がってきたものではない。上からの改憲論。(改憲の国会発議要件を緩和する)96条改正も、権力の座にある人が改憲をしたいときにできるようにする、と聞こえてしまう」 -安倍首相は最近、集団的自衛権行使を禁じた政府の憲法解釈見直しにも前向きだ。 「憲法を改正して(集団的自衛権の行使を)できるようにすると言ってきたけれど、どうも改憲はそう簡単でないとなると、今度は『解釈改憲で』と言っている。解釈改憲なら手続き上、閣議決定でもできてしまう。しかし、それは国会と国民を軽んじていないか」 「集団的自衛権の行使は、結局は交戦するということ。憲法の精神とは相当違うのではないか」 -植民地支配と侵略を認め、謝罪した「村山談話」に反発する声が、今も自民党内で上がる。 「あの戦争は間違っていなかったという主張だろう。ただ、そうするとサンフランシスコ講和条約までさかのぼって、みんな否定していかなければならない。国際的にも国内的にも無理な話だ。それに、間違っていたことを『間違っていた』と認めることが国際社会での日本の評価を高める」2013年8月14日 秋田魁新報 3ページ「軍備競争より外交努力」から引用 安倍首相は、いきなり96条を変えると言ったり、改憲が無理となると解釈改憲だと言ったりで、何がなんでも武力を使いたいのだと言ってるようで、平和憲法の国柄にはなじまない政治家ではないかと思います。村山談話を見直すなどと言うに至っては、それじゃあサンフランシスコ講和条約も、もう一度やり直しするのかと言う話になりかねず、アメリカがそんなことを容認するわけがない。安倍首相には、日本を取り戻す前に、正気を取り戻してもらいたい!
2013年08月26日
文芸評論家の斎藤美奈子氏は、桜宮高校の体罰事件に対する大阪・橋下市長と教育現場の対応について、1月23日の東京新聞コラムで、次のように述べている; 思わぬ展開となった桜宮高校の体罰事件。橋下徹大阪市長のやり方はそもそも強圧的だった。 「従わなければ予算を凍結する」という制裁をちらつかせながら、教員の総入れ替えや入試の中止を迫る。こうした手法を民間では脅しという。暴力の一種である。 その脅しに屈する形で大阪市教委は桜宮高体育系2科の入試中止を決めた。が、じつは体育系分の定員120人は普通科として募集し、入試科目も従来通り。市長の顔を立て受験生にも配慮した「折衷案」という。 なんて老獪(ろうかい)な、そして卑屈な判断だろう。「君たちも上には逆らわないほうがいいよ。裏の抜け道を探しなさいね」。そうメッセージしているのと同じ。教育の理想とはほど遠いダブルスタンダードのすすめである。 なぜ生徒や保護者の声は無視されたのか。市教委は防波堤になれなかったのか。布石はすでに打たれていた。維新の会の主導で昨年成立した府と市の教育関連条例には、首長の権限を拡大し、教育への政治介入を許す内容が含まれている。 最近まで市長も体罰肯定論者だった。学校や教師に成果主義を迫り、従わなければペナルティーを科すと脅してきた。学校の体罰と同じ構図だ。体質改善が必要なのは誰なのか。市教委の決定にご満悦な市長。顔色をうかがう教育現場。「暴君による圧政」という言葉を思い出す。(文芸評論家)2013年1月23日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-『暴君』に屈した判断」から引用 私も、橋下市長がいきなり「入試中止」を言い出して「いうことを聴かないなら、予算は出さない」と発言したことなどの報道に接した当初は、また橋下市長のパフォーマンスか、と思ったのであったが、その後の様子を見るにつけ、この体罰事件に関しては、橋下市長の言ってることのほうが正論なのではないか、と最近そう思います。斎藤氏のコラムでは「なぜ生徒や保護者の声は無視されたのか」と言ってますが、私はこの斉藤氏の言い分に疑問を感じます。これまで、似たような体罰やいじめで生徒が自殺する事件は、たびたび起きていて、何回繰り返されても一向に改善される様子はありません。私が思うに、その理由は、とりもなおさず事件が起きても、教師と親や生徒の反省が不十分で、まあまあで済ませてきたからではないのか。暴力教師がいて、生徒が自殺する事件まで起こした学校に、それでも自分の個人的な都合でそういう学校に進学したいと思う生徒と、そういう暴力学校に子どもを進学させたいと思う親というのは、体罰や教師の暴力を「それほど悪いものではない」と是認しているのではないか。学校も教育委員会も、親や生徒のそういう雰囲気に迎合して、事件が表面化したときだけ、当事者の暴力教師に軽い注意をするくらいで済ませてきたから、なんども同じ悲劇が繰り返されたのではないのか。そういう「悪しき伝統」を断ち切る必要があると見抜いたのは、橋下市長の慧眼ではないかと私は思います。ここまでやらなければ、教師による体罰・暴力の悪しき伝統を断ち切ることはできないのではないか。もちろん、上のコラムが指摘する「元々は体罰肯定論者だった」ことや「学校と教師に成果主義を迫る」などの姿勢は、批判されて当然ですが、教育現場からの暴力根絶は必要なことです。
2013年02月13日
作家の高橋源一郎氏による4月の朝日新聞論壇時評は傑作であった。平易な言葉で綴られた分かりやすい文章で、次のように述べている; 1年前、長男のれんちゃんが小学生になった時の入学式のことだ。最初に、校長先生が、舞台中央の演壇に向かって深くお辞儀をした。でも、演壇にはなにもない。「はて?」と思って、よく見ると、左奥に日の丸の旗がある。誰に向かって、何のためにお辞儀をしているんだろう。まるでわからない。ぼくに常識がないからなのかな。しばらくして、「国歌斉唱」の番になった。そしたら、ぼくは、なんだか憂鬱(ゆううつ)になった。誰がこんなやり方を決めたんだろう。半月前の保育園の卒園式には、あんなに感動したのに。 で、突然気づいたんだ。卒園式では、子どもたちがたくさんの歌を歌った。みんな、子どもたちのための歌だった。でも、小学校の入学式で歌うのは、子どもたちのための歌じゃない。これは、子どもたちのための式じゃなかったんだ! だから、こう思ったよ。「小学校の入学式は、たぶん、キョウイクイインカイとかそれを指導しているエラい人のための式なんだ。だから、イヤになっちゃうんだ。現場の先生に任せたら、もっと嬉(うれ)しいものになったのになあ」って。 家に戻って、「入学式」のことをちょっと調べてみた。アメリカでは、登校する最初の日、みんな講堂に集合する。真ん中にテーブルを置いて、そこにジュースやチョコレートを並べる。雰囲気は、まるでパーティーみたいだって書いてる人がいた。それって式じゃないよね。オーストラリアやイギリスでも、入学式はないみたいだし。そもそも「入学式」自体が、「常識」ってわけじゃなかったんだ。ランドセルは、もともと「軍隊」と共に輸入された背嚢(はいのう)が起源だし、日本で最初に運動会をやったのは海軍兵学校だった。「入学式」って、実は「入隊式」なんじゃないのかな。 * 今月、「教育」について論じたものが多かったのは、「教育」に、たいへんなことが起こっているからなんだろうか。 大活躍しているのは尾木ママこと尾木直樹さん。二つも雑誌に登場している(〈1〉〈2〉)。 尾木さんがいっているのは、(日本の)みんなが「常識」だと思っていることが、実はそうじゃないってことだ。 この国の外では、教育はどうなっているのか。世界を飛び回って、尾木ママは調べる。たとえば、「世界で大学入試試験をやっている国はほとんどない」とか、日本のパパやママは、世界の平均の2倍から3倍も教育にお金を払わされているとか。知らないことばかりだよ。オランダでは、「朝学校に行って一時間目から五、六時間目までの時間割を決定するのは子どもたち自身」で、先生はそれを支援する役目。そして子どもたちは「自分が決めたことだから自分で責任を持とう」とするっていうんだ。宿題だってまったくないってさ(〈1〉)。それでも、160カ国からも移民が集まるこの国で、日本と学力が変わらないのは、「子どもたちの人権」こそ最優先だ、という考え方があるからなのかもしれないね。 あなたの国では子どもたちが悲惨な状態のまま放置されている、っていわれたら誰だって驚くよ。しかも、その場所が「学校」だっていうんだから。桜井智恵子さんの『子どもの声を社会へ』(〈3〉)の最初の方に書いてあるのはこのことだ。国連・子どもの権利委員会が、厳しい競争環境が子どもたちをイジメや精神障害といった不幸な状態に陥らせていると日本に勧告した(〈4〉)。へえ、そんな風に見られていたのか。ぼくは「世界の常識」を知らなかったんだ。 日本で初めて「子どもの人権オンブズパーソン」制度を作ったのは兵庫県川西市で、桜井さんはそのオンブズパーソン。競争社会は、弱い者に負担を強いる社会だ。そして、もっとも弱い者とは子どものことだ。桜井さんは、疲れ傷ついた彼らの声に耳をかたむけ、立ち上がる手助けをする。その過程で、桜井さんは気づく。子どもたちが、悲鳴のように、この社会の構造を変えてほしいって訴えてることに。桜井さんは、こういう。 「私たちの社会は子どもたちが引き継いでくれる。だから大人は、子どもに失礼のないように、思考停止をしてはいけない」 * その通りだ。この社会は、やがて子どもたちに引き継がれる。なのに、ぼくたちの「常識」には「子どもに失礼のないように」ということばがないんだ。 「常識」があてにならないのは、それだけじゃない。ぼくたちは、ギリシャをヨーロッパの一部だと思ってる。でも、村田奈々子さんは、確かに古代ギリシャ文明はヨーロッパ文明を産んだけど、中世以降、正教会に属するキリスト教の地だったギリシャはヨーロッパではなかったと書いている(〈5〉)。だから、ヨーロッパはギリシャに冷たいんだってさ! それから、北朝鮮の「ミサイル」発射の件もなんか変な気がするんだよ。海外のメディアは、「ロケット」と呼んでいるみたいだけど、日本にいると、目に飛び込んでくるのは「ミサイル」ということばだ。弾頭を装着すれば「ミサイル」で、宇宙開発が目的なら「ロケット」というらしいんだけど、そんな違い、なんか意味があるのかな。っていうか、その「ミサイル」より、アメリカ軍が持ち込んでいるかもしれない核兵器や福島第一原発4号機の燃料プールの方がずっと怖いと思っちゃうのは、ぼくに「常識」がないからなんだろうか。 ◇ たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。昨年4月から論壇時評を担当。今月で2年目に。著書に『恋する原発』など。月末に『さよならクリストファー・ロビン』が刊行。=高波淳撮影 〈1〉尾木直樹「子どもたちの新しい人権のために」(現代思想4月号) 〈2〉尾木直樹・土肥信雄の対談「学校を死なせないために」(世界5月号) 〈3〉桜井智恵子『子どもの声を社会へ』(岩波新書、2月刊) 〈4〉国連子どもの権利委員会の「最終見解:日本」(外務省のホームページから、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf) 〈5〉村田奈々子「ギリシャはどれほど『ヨーロッパ』か?」(中央公論5月号)2012年4月26日 朝日新聞朝刊 12版 15ページ「論壇時評-入学式で考えた ぼくには『常識』がない?」から引用 考えてみれば、学校に上がるとか卒業するというのは個人の生活上の節目であって、日の丸や君が代には何の関係もない話である。しかし、戦前の国家権力にしてみれば、生まれた子どもが成長して成人した暁には軍隊に召集する必要があったので、幼いころから「日の丸・君が代」に対する態度を刷り込んでおくことは、大変重要な事項であったわけである。国家や皇室に忠誠を尽くすという考えは「特定のイデオロギー」であるから、これを国民に強要することは、戦前の日本ではまかり通っていたが、戦後民主主義の世界では許されないことである。したがって、式典で起立・斉唱を拒否する先生たちには道理があると言える。総理大臣の記者会見ならともかく、小学校の入学式卒業式に日の丸を飾るのは、戦前の、国が特定のイデオロギーを国民に押し付けた時代のなごりであるから、我々はこの悪しき旧弊を克服するべきである。「背のうを背負って兵営に入る」ような小学生のファッションも、将来は見直されて然るべきである。 また、朝鮮のロケット実験でも、欧米のメディアは「ロケット実験」であると、客観的な報道を行ったのに対し、日本のメディアは、ことさら危機感を強調して武装の必要性を国民に印象付けたい権力の策略にまんまと乗せられて「ミサイル騒ぎ」に終始し、PAC3だのMDだのと馬鹿げたから騒ぎをしたのは、三流メディアの本性を現わした結果であった。
2012年05月15日
学校で大事なのは日の丸・君が代で起立を強制することよりも、歴史を学ぶことであるとする投書が、3月19日の東京新聞に掲載された; 「君が代」斉唱に抗議して着席する教員の行為を「子どもじみた」などと批判する投稿がありましたが、処分をされた教員側からは意見が聞こえてきません。愛国心を養成するためには、何が何でも「君が代」を起立斉唱させるという行政命令は、果たして教育的なのでしょうか。 こうした問答無用なやり方で、個性豊かな創造的な人格が育つでしょうか。命令に何回以上従わない教員は免職するという条例をつくった今人気の大阪市長のほうが「大人げない」と思うのですがいかがでしょうか。 「多数決を取れば何をやってもいい」というのは民主主義なのでしょうか。独裁者ヒトラーも議会で多数を取り、合法的にユダヤ人の虐殺を命令実行しました。民衆は扇動や一時的感情で一人の人物を支持し、そのカリスマ性に誘導されるという弱点があります。それにブレーキをかけるのが基本的人権や表現の自由を重んじる裁判官であり、学者や言論人です。 まさに政治不信が充満する今こそ、冷静に少数者の意見に耳を傾ける必要があります。そして歴史を謙虚に学ぶ中で、民衆がどのようにマインドコントロールされて、他国を侵略し自国民の命も犠牲にしたのかを知ることが大切です。 「日の丸」「君が代」の果たした役割も検証した上で、どうするかを考えるべきです。国を愛するのは、むやみに「君が代」を歌うことではなく、再び子どもたちを戦場に送らないために、扇動に踊らされない冷静な歴史観を持った子どもたちを養成することではないでしょうか。2012年3月19日 東京新聞朝刊 5ページ「ミラー-君が代より歴史教育を」から引用 君が代を強制する行政命令が教育的なわけがありません。基本的人権を蹂躙しているという点で「非教育的」であるとすら言えます。また、「多数決を取れば何をやってもいい」という考えは誤りです。複数いる候補者の中で誰を市長にするのかを多数決で決めても、そのようにして選出された市長は、自分に投票した有権者だけのために市政を実施していいというものではありません。選出された市長は、賛成派も反対派も含めた市民の代表なのですから、常に賛成派はもちろん、反対派にも配慮した市政の実施が義務付けられています。特定の人物の扇動に惑わされないしっかりした市民になってもらうためにも、歴史教育は大変重要です。
2012年04月05日
大阪の学校では、日の丸・君が代に対して起立を強制するどころか、校長や教頭が生徒そっちのけで教員の口元を注視するという馬鹿げた事態が起きている。14日の東京新聞コラムは、大阪の教育現場の大人気ない状況を次のように批判している; 製品の中から不良品を血眼になって探し出す工場長の姿と重なって見える。違っているのは、相手にしているのが、生身の人間であるということだ。 大阪市の橋下徹市長の友人で、民間人校長として採用された大阪府立高の校長が、卒業式の君が代斉唱の際に、教職員の口の動きを見て実際に歌っているかどうかを確認していたという。 約60人の教職員全員が起立した後、口の動きをチェック。不自然に見えた3人の教師を呼び出した。府教委は、歌わなかったことを認めた一人の処分を検討している。 「起立斉唱の職務命令が出ているのだから、口元を見るのは当たり前で素晴らしいマネジメント」と橋下市長は校長をほめちぎった。起立はするが歌いたくはないという教員は、アイドルグループ並みの「口パク」技術を習得しなければならない。 演劇賞をさらった「歌わせたい男たち」は、君が代斉唱をめぐる校長と教師のせめぎ合いを喜劇チックに描いた永井愛さんの戯曲だ。当初、ロンドンの劇場との提携公演になるはずだったが、あらすじを送ると「もっと文化的に越境が可能なコラボレーションをしましょう」と芸術監督に断られた。 国歌を歌わない、起立しないことで教師が処分される現実は海外で理解してもらうのは至難のようだ。口元を確認してまで歌わせようとする男たちの心象はどう見えるだろう。2012年3月14日 東京新聞朝刊 1ページ「筆洗」から引用 生徒の成長の節目である卒業式をお祝いしてあげようという心はどこへやら、橋下市長への忠誠だけが重視される大阪の教育の現場は異常である。教育の本質を理解しない場違いな民間人校長は問題であり、それが橋下の友人であるとなると尚更問題である。大阪の人たちは、橋下グループのこのような愚行をいつまで容認し続けるのだろうか。
2012年03月24日
日本国内と海外の人権団体は、日本政府が朝鮮学校の無償化を実施しない状況を「民族差別」であると認定し、国連に訴える準備を進めていると、2月24日の東京新聞が報道している; 朝鮮学校だけを高校授業料無償化の対象から除外し続けるのは、「日本も批准する人種差別撤廃条約違反だ」として、国内外の人権団体が24日、国連の人種差別撤廃委員会に初の申し立てをする。朝鮮学校への補助金を止める自治体も出てきており、団体側は「緊急性が高い民族差別」として、国連が日本政府に是正を働きかけるよう訴えている。 (出田阿生) 大阪府にある大阪朝鮮学園。幼稚園から高校まで11校を運営する学校法人だ。運営費は年間約5億5千万円で、うち約1億7千5百万円を府からの補助金で賄っていた。 府はこれまで朝鮮学校の生徒一人当たり年約7万円の補助金を支給。東京都の1万5千円などと比べて手厚い。府議会の超党派議員連盟が「日本の学校に準じた扱いを」と後押しして、約20年前から続けられてきた。 しかし、現大阪市長の橋下徹前府知事や政治団体「大阪維新の会」が突然、「金正日(キムジョンイル)総書記らの肖像画を外す」ことなどを要求し、2010年度に高校への補助金や授業料の軽減措置を停止した。 学園は公認会計士の監査を受け、府に毎年財政収支を報告してきた。関係者は「教職員の給料は四カ月の遅配で、貯金を切り崩している状態。このままでは学校がつぶれる。今まで日本社会で生きる隣人として認められてきたのに」と話す。 東京都や埼玉、千葉、宮城県も補助金の予算凍結などを始めた。◆日本政府は批判を浴びる可能性高い 外国人学校ネットワークの師岡康子さんは「日本政府は『外交・政治問題と、教育とは別』との公式見解を出している。だが現状は10年に国連が勧告で懸念したような教育上の差別が起きている」と指摘。「これは明白な人種差別撤廃の条約違反。このままでは日本政府が国連から是正勧告され、国際的に批判を浴びる可能性が高い」と話した。2012年2月24日 東京新聞朝刊 11版S 27ページ「無償化除外は民族差別」から引用 朝鮮学校の生徒に対して、東京都の支援が年間1万5千円のとき大阪府では年間7万円も出していたのは立派である。しかも、超党派の議員連盟でそのような政策が実行された、これこそが日本が誇る民主主義の精神というもおである。このような優れた政策は、正しい歴史観と憲法の精神があって初めて実施されるものであり、これが日本の常識である。それに比べて、朝鮮学校は朝鮮政府が運営しろだの、反日思想を教え込んでいるんじゃないかだのという当ブログ・コメンテーターの質はかなり低レベルであり、さらにその下をいくのが石原慎太郎と橋下徹である。一日も早く、もとの常識的な民主主義を回復したいものである。
2012年03月07日
正当な理由もなく朝鮮学校への無償化を凍結している政府を、2月15日の東京新聞は次のように批判している; 高校無償化制度から除外されたままの朝鮮学校問題。政府は「外交とは関係なく客観的に判断する」との統一見解をよそに、北朝鮮の政治情勢を理由に適用を見送っている。一方、昨年は別の民族学校2校が無償化された。関係者は14日、参議院議員会館での集会で即時適用を訴えた。 (出田阿生) 「朝鮮学校を放置している間に、2つの学校が、どこの国の話かと思うほど迅速に無償化された」。集会では田中宏・一橋大名誉教授がこう皮肉った。 同じ各種学校のホライゾンジャパンインターナショナルスクール(横浜市)は学校開設日の前日に、コリア国際学園(大阪府茨木市)は各種学校に認可されて8カ月後にそれぞれ無償化された。 文部科学省の無償化条件は「高校の課程に類する」カリキュラムがあること。あくまで客観的な基準を満たせばいい。教育基本法は教育内容への介入を禁じており、私立学校法で自由な宗教観や歴史観に基づく授業が保障されているためだ。 ところが朝鮮学校については、2010年11月の北朝鮮の砲撃事件で菅直人首相(当時)が無償化手続きを停止。翌2年8月に再開を指示した後も事態は動かず、同12月に金正日総書記が死去すると、中川正春文科相(同)は「北朝鮮の今後の体制で判断したい」と言い出した。 民主党政権は高校無償化に伴い、16~18歳の特定扶養控除の上乗せ分を廃止し「朝鮮学校に子どもを通わせる親は、より多くの税金を払うことになった」と田中名誉教授。 国連の人種差別撤廃委員会も、無償化除外を懸念し「教育機会の提供に差別がないように」と勧告した。集会では、卒業生で法政大一年の金淳力(キムスンリョ)さん(18)が「日本で朝鮮人として生きる自分たちとは、何者なのか。教えてくれるのは朝鮮学校だけです」と訴えた。2012年2月15日 東京新聞朝刊 11版S 27ページ「朝鮮学校早く適用を」から引用 高校の授業料を無償化するという政策は、わが国社会の進歩を象徴する優れた政策であるが、朝鮮学校への対応を見ると、一部の日本人には相変わらず戦前と同じ民族差別の感情に囚われた者がいることが明らかで、甚だ残念なことである。最初に朝鮮学校への無償化にストップをかけたのは、民主党の中川某という議員で「拉致問題が解決していないからストップだ」などとヤクザ並みのいいがかりをつけていた。拉致問題は、半島の共和国の問題であって、朝鮮学校の生徒には何の責任もかかわりも無い。その次には、米韓軍事演習の際に朝鮮軍が韓国領の島を砲撃したから、朝鮮学校からの申請の審査を凍結するというものであったが、この砲撃事件も朝鮮学校の生徒には何のかかわりも無い事件であった。それが、今は指導者が代わったから様子を見るなどと、ますます関係ない理由で政府文科省の言い分は支離滅裂である。教育基本法が定めるとおり、政治権力はそれぞれの学校の独自の教育方針に介入してはならないのであり、それぞれの学校がどんな人物の肖像画を飾ろうと、教科書に何が書かれていようと、その内容に行政や立法府が注文をつけることは法律が禁止している。政府は教育基本法の精神に立ち返り、即刻朝鮮学校に対する無償化を実施するべきである。
2012年03月05日
共産党の政策委員を務める垣内亮(かきうち・あきら)氏は、欧米の富裕層と日本の富裕層の行動の違いについて、「しんぶん赤旗」日曜版コラムに次のように書いている; いま、欧米では、経済・財政危機の深まりの中で、「1%の富裕層に増税を」求める世論が高まっています。世界的に有名な大富豪のウォーレン・パフェット氏をはじめとして、当の富裕層の中からも「われわれに課税を」という声があがっているのが特徴的です。ところが、日本ではまったく逆に、大株主の「税逃れ」が横行しています。 日本では、2003年に小泉内閣が創設した「証券優遇税制」によって、株の配当や売却益に対する税率が20%から10%に、10%も軽減されています。この税率は欧米に比べて3分の1程度にすぎず、日本は世界有数の「株主天国」になっています。 今年6月、民主党政権は、この証券優遇税制をさらに2年間延長することを決めました。 その際、「金持ち優遇」の批判への言い訳として、配当についての優遇税制の適用要件を若干厳しくしました。 具体的には、これまでは各企業の発行株式数の5%以上を保有する「大口株主」は優遇の対象外とされていたのを、「3%以上」に変更するというものです。 財務省は、この変更によって新たに1300人の大株主が増税になり、所得税で年68億円の増収になる、との試算を示していました。 ところが、この変更が適用される10月を前にして、これまで3~5%を保有していた大株主が、持ち株を売却したり資産管理会社に移したりして保有比率を3%未満に減らし、引き続き優遇税制を受けようとする動きが続出しました。 企業の報告書などから判明しただけでも、こうした「課税逃れ」をした株主は260人以上、その「節税」額は、所得税27億円、住民税6億円、あわせて33億円にもなっています。 京セラ名誉会長の稲盛和夫氏の場合は、1人で3億円近い「節税」です。同氏は、民主党政権のもとで日本航空の会長に就任し、ベテラン乗務員を乱暴に首切りしてきた人物です。「空の安全」はどうでもいい、「自分の懐の安全」の方が大事だというのでしょうか。 11月29日の参議院財政金融委員会で、日本共産党の大門実紀史議員がこの間題をとりあげました。大門議員が示した大株主の一覧表を見て、安住淳財務相も「大変、残念なことだ」と答えざるを得ませんでした。2011年12月25日 「しんぶん赤旗」日曜版 20ページ「経済 これって何?-大株主の『税逃れ』」から引用 欧米には「国家財政がそんなに大変なら、我々富裕層に課税してくれ」と、堂々と発言する愛国心旺盛な富裕層がいるのに、わが国の富裕層は「国に治める税金は、一円でも少なく」と節税に余念がない。この「愛国心」の違いは何に由来するのか、私は大変興味を感じる。
2012年01月05日
中央大学教授で教育制度・行政学が専門の池田賢市氏は、2日の朝日新聞に寄稿して、大阪府の教育基本条例案を次のように批判している; 大阪維新の会(代表=橋下徹・前大阪府知事)が府議会に出した教育基本条例案が、大きな波紋を広げている。府立高等学校PTA協議会は10月、条例案の見直しを求める嘆願書を橋下氏らに提出した。親として見すごせない条項が盛り込まれているからだ。 たとえば10~11条では保護者に対し、学校運営への参加として、部活動への助言、校長や教員の評価、使う教科書についての協議などを求める。だが、親たちが学校にどの程度かかわれるか、それは家庭によってまちまちだ。もし学校へ定期的に通うとなれば、親同士の貢献の度合いに格差が生じ、トラブルにもなりかねない。 ただ、こうして親の貢献を促しながら、「保護者は教育委員会、学校、校長などに対し、社会通念上、不当な態様で要求などをしてはならない」ともいう。 この「態様」を判断する主体や基準が示されていない以上、「文句をいわずに学校に協力しろ」といっているように読めてしまう。条例案の前文で、教育に対する「民意の反映」を強調していることと矛盾を感じる。 条例案にある「教育委員会の見直し」も、広く住民の声を聞こうとするものとは思えない。 そもそも教育委員会という存在が、政治からの中立と、民意の反映を意図するものだったはず。それが、戦後から長い間をへて形骸化し、時代の様々な要請にこたえられなくなったというのなら、教育委員を公選制に戻せばいい。委員会を、学校とつながった実質的な議論ができる場として活性化させるのも、有効な一手である。 ところが条例案だと、教育委員は、知事の定めた目標にむかい、責務を果たさなければ罷免(ひめん)される。これでは、政治家の意向ばかりが反映され、民意を軽視することになってしまうだろう。 私は条例案を読み、危険な予感を禁じえない。維新の会は、学校の現状や家庭への影響を見ていないのではないか。そうでなければ「3年連続で定員割れした高校は、統廃合の対象になる」という趣旨の案が入るはずがない。これは民間会社の競争原理、効率主義にそった考えで、教育行政が本来果たすべき「学ぶ権利の保障」に反するといえるだろう。 財政上の効率だけでなく、地域や生徒の事情に応じ、柔軟に教育できる環境を整えてほしい。維新の会は、その環境整備のため、悪戦苦闘している教員や親たち、そして「安心して学びたい」と願う生徒たちの声に、もっと耳を傾けるべきだ。それが真の意味で「教育に民意を反映させる」ということではないだろうか。2011年12月2日 朝日新聞デジタル 「〈私の視点〉大阪教育条例案 民意反映しない危うさ予感」から引用 大阪府の教育基本条例案がもつ基本的な矛盾や問題は、この記事が指摘するとおりである。橋下氏も維新の会メンバーも、誰一人「教育」を真剣に考えておらず、それ以前に教育とは如何なるものか、まるで理解をしていない。浅はかな思い付きで作った条例を可決すれば、大阪府の教育は混乱し、被害を被るのは大阪府民である。そういう政治家を選んだ府民は責任がある。おそらく橋下氏は、府知事の仕事を途中で投げ出したように、市長の仕事も途中で投げ出すことになるであろう。
2011年12月15日
8年前、都下の養護学校に自民党と民主党の都議が、突然乗り込んで教員を恫喝し、罵声を浴びせかけた上に教材を持ち帰るという暴挙にでた。その場に居合わせた都の教育委員は、本来の教員を保護する義務を放棄し、怒鳴りまくる都議に阿る始末だった。これは明らかに犯罪であり、教材を強奪された学校は、窃盗罪で都議を告訴するべきであったが、あろうことか都教委はこの件について、事件を起こした都議ではなく、当該学校の教員を処分するという本末転倒を行った。このような不当な事件を訴えた裁判に対し、一審で原告は勝訴したが、この度二審でも原告が勝訴したと、9月25日の「しんぶん赤旗」日曜版が報道している; 「再び勝訴」の垂れ幕が大きな拍手と歓声の中で掲げられました。16日、東京高裁は、都立養護学校の性教育に介入した一部の都議らの行為は「教育への不当な支配にあたる」と断罪。計210万円の賠償を命じた一審を支持する判決を出しました。 本吉真希記者 訴えたのは、東京都日野市の都立七生(ななお)養護学校(現七生特別支援学校)の当時の教員と保護者ら計31人。訴えられたのは、自民党の田代博嗣都議(当時)、同古賀俊昭都議、民主党(当時)の土屋敏之都議と都教育委員会など。 原告の教員らは、言葉だけの説明では理解が難しい知的障がいのある子どもたちのために、性器を含む体の各部位の名称を歌詞に取り入れた歌や、お母さんのおなかの中を実感できる「子宮体験袋」などを作り、きめ細かな教育を行ってきました。こうしたとりくみは校長会でも高く評価されていました。 ところが2003年7月、この実践に対し被告の都議らが同校を「視察」。2人の女性養護教員に性教育の教材を並べさせ、「感覚が麻痺(まひ)しているよ」などと一方的に非難しました。 その後、教材の没収や同校の全教員からの聴き取り調査を実施。都教委は「学習指導要領を踏まえない不適切な性教育を行った」などとして、教員ら13人を「厳重注意」処分しました。 これに対し大橋寛明裁判長は、都議らが養護教員2人に対して行った言動は「侮辱にあたるとともに(旧教育基本法10条1項の)教育に対する『不当な支配』にあたる」と認めました。また、「視察」に同行しながら都議らの言動を制止しなかった都教委職員の対応は、「不当な支配」から教員を保護すべき義務に違反したと指摘しました。 学習指導要領は「一言一句に法的な拘束力があるとはいえない」とし、「具体的な教育内容は教育を実践する者の広い裁量に委ねられている」としました。都教委については「教員の創意工夫の余地を奪うような細目にわたる指示命令を行うことは許されない」と判断。同校の実践は「学習指導要領に違反しているとはいえない」と明確にしたうえで、教員への「厳重注意」は、裁量権の乱用で違法だとしました。◆親にも歓迎された性教育取り戻そう 都議や都教委の介入以後、実践が滞り、子どもや保護者の悩みに向き合えずにきた8年間。七生養護学校の元教員で原告団長の日暮(ひぐらし)かをるさん(62)は判決後の報告集会で、勝訴を喜ぶ一方、「失ったものは大きい」と悔しさを口に。「それを取り戻すのは私たち教育に関わる者の責務」だと力を込めました。 同校が実践した性教育「こころとからだの学習」は、生徒間の性的行動をきっかけに始まりました。教員らは「子どもたちを性犯罪の被害者にも加害者にもしたくない」という切実な課題に直面。子どもたちが自分の体と心を大切にし、生きる力を身につけ、異性や立場の違う人の気持ちを理解できるよう、保護者にも丁寧に説明しながら教育を進めてきました。 しかし、被告都議らの乱暴な介入は学校現場を萎縮させ、性教育をやめさせてしまったのです。 原告で元PTA会長の洪美珍(こうぴちん)さん(61)は「具体的に、丁寧に教えてもらうことで子どもは理解でき、親も安心できました。子どもたち一人ひとりを大事にした、あのときの教育がもう一度、戻るよう願っています」と話しました。◆教育の自由守る力に 桜美林大学教授(元東京都立大学総長、障害児心理学) 茂木俊彦さん 子どもたちの実態とニーズを軸に据え、教育をよりよいものにしていくためにこそ、教師の裁量は広げられなければならない-。私は教育の自由をそう捉えています。そのことを認める判決が出た意味は大きい。 裏を返せば、行政や政治家が教育の内容や方法に介入し、教育現場を上から支配しようとすることへの正面からの批判になっていると思います。 七生養護学校の教師たちは、家庭環境や知的障がいなど、多くの困難を抱えた子どもたちの発達権と教育権を保障したいと願い、長い期間をかけて教育課程をつくり上げてきました。その実践が成果をあげていたところへ、都議や都教委などが乱暴な攻撃をかけてきたのです。その不当怪を一審に続き、二審でも断罪したのが今回の判決です。 今、「日の丸・君が代」の強制など、教育への不当な介入が広がっています。大阪では、従わなければ、その先に免職もある、と言い始めていますが、これには教育委員や校長からも強い批判が出ています。当然のことです。 教育への「不当な支配」は許さない。これは、戦前、教育が軍国主義によってゆがめられたことへの反省からきたものです。判決を力に、教育の自由を守り発展させる流れを大きくしていきたいですね。2011年9月25日 「しんぶん赤旗」日曜版 35ページ「七生養護学校への介入 再び断罪」から引用 戦前の日本では、学校で児童生徒が使う教科書の内容が国によって決められる「国定教科書」で、教育が政治に支配されるという異常な状態でした。そのような中で「日本は神の国だから、戦争をしても負けない」などと教えられたわけです。このような苦い体験から、戦後の教育基本法は、教育への政治の介入を排除し、教育は国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものであると規定されたのでした。「国民全体に対し直接に責任を負う」とは、一党一派の代表が競って多数決で選出されただけにすぎない首相や都道府県知事から責任を問われる筋合いではないという意味です。大阪の橋下知事などは「今の教育は誰が責任を取るのか、明確ではない」などと言ってますが、それは当たり前です。教育事業は国民全体に責任を負って行われているのであって、大阪府知事ごときに、日の丸の前で立てだの座れだのと命令される謂れはありません。
2011年10月11日
政治家として露骨に教育に介入することを企てる橋下徹大阪府知事を、明治大学教授の西川伸一(にしかわしんいち)氏は、8月26日の「週刊金曜日」コラムで、次のように批判している;「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」 大阪府の橋下徹知事は、6月29日夜、大阪市内のホテルで開かれた自らの政治資金パーティーの席上、約1500人の出席者を前にこう気炎を上げた。6月3日には、公立校の教職員に君が代の起立斉唱を義務づける全国初の条例が大阪府議会で成立した。これは橋下知事が代表を務める大阪維新の会府議団が提出したものである。 しかし知事にとって、君が代条例成立は本丸を落とすための一歩にすぎなかった。その本丸とは教育委員会制度である。各自治体には首長から独立した合議制の行政委員会として、教育委員会が置かれている。この制度は特定の党派的影響力から教育の中立性を確保し、首長の一存によって教育が左右されるのを防ぐ役割を担う。 これに対して知事は、5月18日の記者会見で「今の教育委員会制度では教員に対する責任の所在、教育に対する責任の所在が全く分からない」と批判している。さらに「何か問題提起するネタはないかということで、この君が代問題は念頭にあった」と述べた。4月の府立高校入学式では、2人の教員が職務命令に従わず起立斉唱しなかった。これが格好の「ネタ」になって、条例制定へと事態は急展開する。不起立教員の存在は、教育委員会が現場をマネジメントできていない象徴とされた。 条例成立から教育委員会制度の骨抜きに至るのは当然の成り行きだった。知事は8月17日に、維新の会が「教育基本条例案」を9月府議会などに提出することを正式表明したのである。君が代条例同様、知事提案ではなく維新の会の議員提案としたのは、独裁批判をかわすカムフラージュだろう。 条例案によれば、知事は教育委員会とともに学校が実現すべき目標を設定し、教育委員がその実現努力を怠った場合は、議会の同意を得て罷免できる。全員公募される校長には「年俸制」を導入し、教科書採択権や教員採用権をもたせる。また、すでに条例化された君が代の起立斉唱に従わないなど職務命令に3回違反した教職員は寵免できる。「愛国心」教育も明記された。 橋下知事や維新の会の幹部はしきりに「府民」「民意」「政治主導」を強調する。「起立しないのは府民への挑戦」「教育では中立性が強調され、民意が反映されていない」「教育委員会に全部任せるんじゃなく、民意を受けた議会でしっかりオーソライズしましょう」「(選挙で選ばれた)知事と教育委員会が、ともにビジョンをつくっていくべきだ。(条例が成立すれば)政治が教育の目標をつくることになる」 これらの「府民」「民意」「政冶」を「知事」に置き換えれば、彼の意図は明瞭になろう。「民意」に名を借りた「御意」に召さない「治外法権」の行政領域を、浪速のヒトラーは潰しにかかっているのだ。 知事はこの条例案と同時に提出する予定の「職員基本条例案」を、2月の知事・大阪市長のダブル選の争点とする意向である。ここで「民意」の支持を得て、来春までにはこれらを可決・成立させることを目指すという。 橋下流皇民化教育でも行なうつもりなのか。大阪府民は独裁を肯定する知事のかけた麻酔からそろそろ醒めるべきだ。2011年8月26日 「週刊金曜日」860号 12ページ「西川伸一の政治時評-『政治で一番重要なのは独裁』なんて言う知事の麻酔から醒めませんか、府民の皆さん」から引用 戦前は児童生徒が使用する教科書は国が定めるもので、教育内容は国家権力がオーソライズしたものでなければならなかった。そのような教育によって、多くの日本人は中国や朝鮮を蔑視し、日本は神の国だと信じ込まされ、侵略戦争にも疑問を持たずに動員されていった。そのような歴史を反省し、戦後は、教育は行政から独立したものであるとする教育基本法が制定され、そこには「教育は国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」と明記されてものであった。その精神は今も変わることはない。 ところが、教育の素人である橋下知事は、先生たちの給料が府民の税金から支払われており、その府政の長が自分だから、先生たちは自分の言うことを聞くべきであると考えているのではないか。「起立しないのは府民への挑戦」などともっともらしいセリフを吐くが、起立しない先生も府民の一人であり、そういう先生を理解しサポートする府民もまた少なからず存在することも、知事としては理解しなければならないはずだ。そういう世の中の仕組みを理解せず、自分の価値判断だけをごり押しして教育に介入する態度は、戦後民主主義に対する重大な破壊活動だ。こういう者は、次の選挙で落選させるしかない。
2011年09月11日
入学式や卒業式は児童生徒の成長を記念する行事だから、それにふさわしい歌をうたってお祝いするべきだとする投書が、7月15日の朝日新聞に掲載された; 入学式や卒業式での「君が代」「日の丸」への教師の対応が焦点になっているが、この二つは式の目的とはいえない。 戦前の教育は、日本国家のための国家による国民教育だった。式では「君が代」を歌い、「日の丸」を掲げて、役人である学務委員らから訓示があった。 戦後は、戦前の反省から、一人ひとりの子どものための教育に変わり、子どものために「おめでとう」という式になったはずである。主人公は児童・生徒であり、校長が祝辞を述べる。他の人々のあいさつは式に花を添えるものである。 入学式後の教室での担任との顔合わせやあいさつ、卒業式後の担任の別れの言葉などは、子どもにとって式以上に心に残るかもしれない。これに対し、「君が代」「日の丸」は子どもたちにどれほどの意味をもつものだろうか。 これらの式では、「おめでとう」「ありがとう」の気持ちがこもった歌を、心をこめてみんなで歌いたいものである。2011年7月15日 朝日新聞朝刊 12版 14ページ「声-入学・卒業式は心こもる歌に」から引用 戦前のわが国の教育は「皇民化教育」と言われ、日本人として生まれたからには皇室のために尽くしなさいということで、戦争になれば天皇のために戦地で戦死することが日本人の使命であるかのように教育された。だから、戦争が終わって「これで無駄死にをしないですむ」と安堵した国民は多い。しかし、戦後はそのような非人道的な教育を反省して、教育とは一人ひとりの子どもがそれぞれに全人格の完成を目的として行われるべきであると、教育基本法に謳われたものであった。 現代の日本では、普通に暮らしていれば日の丸が国旗で君が代が国歌であるくらいのことは外国人にも十分認識できるのであるから、これを殊更学校教育の中で教える必要性はまったく無い。テレビを見ていれば、プロ野球でもボクシングでも大相撲でも、日の丸は見ることができるし君が代も聞くことができるから、まぁ、音楽の時間に少々の歌唱指導をするくらいにしておけば十分であり、条例まで作って起立しない者は処分するなどという発想は、常軌を逸しているというものである。そして、上の投書が述べるとおり、入学式や卒業式は、生徒本人の成長をお祝いする式典であることを念頭に、それに相応しい歌を歌ってお祝いするべきだ。
2011年08月08日
神奈川県の弁護士の団体が、一部に存在する偏った思想で書かれた教科書を批判する意見書を公表したと、2日の朝日新聞が報道している; 今夏の公立中学校の教科書採択に向けて、神奈川労働弁護団など法曹関係4団体は1日、育鵬社と自由社の公民・歴史教科書について、「日本国憲法に関して誤った理解の記述がある」と批判し、「教科書として不適切だ」とする内容の意見書を公表した。 基本的人権について、権利より義務を過度に強調▽平和主義について、戦争への反省は一切なく、連合国軍によって押しつけられたと説明-などと指摘し、「通常の憲法理解とは異なる特異な見解」と批判した。憲法改正についても、「『押しつけ』憲法論を前面に押し出し、露骨に憲法改正に誘導しようとしている」と訴えた。 4団体は1日、意見書を横浜市教育委員会と県教委に出した。今後県内すべての教委にも配るという。4団体は「子どもは教科書を選べない。我々大人は内容を理解、吟味し、最もふさわしい教科書を選んで、民主社会を担う子どもたちに手渡す責務がある」と説明していた。2011年6月2日 朝日新聞朝刊 13版 28ページ「教科書採択に向け法曹団体が意見書」から引用 憲法がGHQに押し付けられたものだとか、軍隊を持たない国家は戸締りをしない家と同じだという議論は、戦後間もない頃に言いふらされたものであったが、そういう幼稚な議論はその頃活躍した社会運動家の山川均によって、ことごとく論破されたものである。その詳細は、今では岩波書店「『世界』憲法論文選1946-2005」に見ることができる。それが戦後60年以上たって、また蒸し返されているのは、単に不勉強な者どもの迷妄であって、そんな者が書いた教科書を検定合格にする文部科学省は、もはや検定機能を喪失している。そのような検定制度は意味がないから廃止して、教科書はそれぞれの地域の教師と親が相談して決める制度にするべきであり、自民党議員のような特定のイデオロギーを持った政治家の介入を許すようではいけない。また、文部科学省が教育内容に介入するのも意味のないことであり、教育委員は元々そうであったように公選制に戻すべきである。
2011年06月23日
今になってもなお朝鮮学校の授業料無償化に消極的な民主党政権に対し、9月5日の朝日新聞社説は次のような提言をしている; 在日朝鮮人の若者たちが「なぜ自分たちだけ取り残されるのか」と、つらい思いで2学期を迎えている。 朝鮮高級学校をめぐり、文部科学省の専門家会議が、授業料無償化の学校にふくめるかどうか判断するための基準をつくった。高校の無償化は4月に始まったが、朝鮮学校は「日本の高校課程に類する」ことを確認できないとして、先送りになった。 示された案は、授業時数や教員について専修学校なみの水準を求め、支援金がすべて授業料減額に使われるよう財務の透明化の注文もつけた。他の外国人学校とともに、文科省が定期的にチェックする仕組みもとり入れる。 一方で、個々の具体的な教育内容は判断の基準にしない、とした。日本の学校とは異なる方針の下で教育を行うことを、認めようという考え方だ。 時間がかかりすぎたとはいえ、学校制度の外に置かれてきた外国人学校をきちんと位置づけ、多文化の学びを国が支援してゆくための、客観的で公正なモノサシができたと言える。これを使い、4月にさかのぼっての無償化を速やかに実施すべきだ。 ところが文科省は民主党内の意見を聞くとして、またも結論を先延ばしにした。管直人首相の指示だという。 党内には、経済制裁を続けているのに、その北朝鮮の影響を受ける学校を支援すべきでないとの意見がある。拉致被害者家族からも「対北朝鮮で日本が軟化したと取られる危険が大きい」と反対がある。先送りは、こうした意見にも配慮したのだろう。 しかし、子どもの学びへの支援と、拉致問題への対応とを、同じ線上で論じるのはおかしい。高校無償化の支援対象は学校ではなく、生徒一人一人だ。「外交上の配慮で判断すべきでない」というのは、国会審議の中で示された政府の統一見解でもある。 教育内容を問うべきだとの指摘もある。確かに金正日体制への礼賛は、私たちの民主主義とは相いれない。 だが、同じ町で暮らす朝鮮学校生に目を転じてみよう。スポーツでは地域の強豪校でもある。北朝鮮の思想を授業で学びながらも、生徒や親の考えは一色でない。バイリンガルの能力を生かすなど、様々な分野の担い手として活躍する卒業生もたくさんいる。 ここは日本社会の度量を示そう。 多くの朝鮮人が住み、北朝鮮を支持する人がいるのは、歴史的な経緯があってのことだ。祖国を大事にする価値観を尊重し、同じ社会の一員として学ぶ権利を保障する。そうしてこそ、北朝鮮の現状に疑念を持つ人との対話も広がり、互いの理解が進むだろう。 そのうえで、日本で生きる朝鮮人としてどんな教育がよいか、今の朝鮮学校でよいかどうかは、彼ら自身に考えてもらうべきことだ。2010年9月5日 朝日新聞朝刊 14版 3ページ「社説-日本社会の度量示そう」から引用 高校授業料無償化の制度について、朝鮮学校も対象とするかしないかという問題は、突き詰めて言えば日本人社会の度量の問題である。同じ社会に暮らす者を出生や思想信条で差別するのはフェアではないから、朝鮮学校も対象とするのが常識的判断であるが、朝鮮の政治体制が気に入らないからとか、拉致問題があるからとか、朝鮮学校で学ぶ生徒に直接責任の無い理由で差別をするのは、あまりにも狭量であり、そのような偏った主張に配慮しなければならない民主党政権の非力はつくづく残念なことである。
2010年10月02日
評論家の柳田邦夫氏は、児童生徒の教科書をデジタル化しようというソフトバンク社長・孫正義氏らの構想を、13日の「秋田さきがけ」で次のように批判している; 小中学校の教室の風景が、遠からず全く違ったものになる日がくるだろう。教師は電子黒板で授業をし、子どもたちは電子読書器「iPad(アイパッド)」のような手元の電子機器を見つめ、電子ペンで書きこみをする。 遠からずと書いたのは、政治・行政に影響力を持つソフトバンク社長の孫正義氏が「5年以内にやらなきゃいけない」とぶち上げたからだ。7月27日、孫氏やマイクロソフト社長の樋口泰行氏ら業界主導で学者らも集めた「デジタル教科書教材協議会」の設立シンポジウムにおける講演だ。 デジタル教科書とは、教科書も副読本などの教材もテストの問題も、すべて見ることのできる小型映像端末のこと。動画も見られる。もう教科書はいらない。ここではその機器を仮に『ePad』と名付けよう。 教師は ePad と同じ画面を電子黒板に映し出して授業をし、ePad 上に問題を出す。教師はパソコンで一人一人の取り組みをチェックして、行き詰まっている子を見つけると、すぐにそばに行って指導をする。論理の飛躍 デジタル教科書教材協議会は、「すべての小中学生にデジタル教科書を」という目標を掲げている。孫氏は「2015年には、全小中学校に配備する必要がある」と力説した。目的は何かというと、日本の国際競争力を取り戻すには、分析能力と競争心を強くする教育が必要で、そのためには教科書を魅力的で感動的なものにするとともに、教師が子ども一人一人の理解力をその場でとらえて指導する学習環境を整える必要があるというのだ。 だが結構ずくめの話には、《ちょっと待てよ》と一歩退いて考えてみないと、落とし穴にはまる危険がある。勝ち組企業戦士を育てるのが教育なのか。動画のある面白い教科書 → 感動 → 分析能力・競争心が育つ → 日本の国際競争力増大、という図式には論理的に飛躍があり過ぎる。 パソコンなどのない時代に育った私の「分析能力」をすぐに刺激したのは、全小中学生に ePad を持たせることが企業にもたらす収益効果の側面だ。全国の小中学生は約1千万人。教師用や高校、大学への波及効果を含めると、マーケット人口は教育界だけでも2千万人を超える。ePad の値段を仮に1台2万円とすると、4千億円のマーケットが創出される。急ぎたいわけだ。教育の公共事業化とさえ言える。ゲーム感覚 孫氏と言えば、08年に児童生徒がケータイで不良サイトにアクセスするのを禁じるため、政府がメーカーにフィルタリング機能を付けるのを義務づけようとした時、国会審議の参考人として、「(ケータイの規制は)包丁が危険だからといって台所からなくすようなものだ」という趣旨の理屈にならない理屈を述べて大反対した人物だ。それでも影響力を持つのは、成功者の迫力と財力を基盤にした政官学巻き込みの活動だ。 民主党政権の原口一博総務相は、すでに昨年末、学校教育のデジタル化構想を発表し、今回の協議会発足の席でも孫氏の構想に賛意を語った。新成長戦略にも合う。この調子だと、「議論より実験」という孫提言にそって、教育のデジタル化は本当に5年で進められる可能性が高い。 それでなくても、子どもたちはケータイ、ゲーム、パソコンという電子機器とばかり接して、生身で親子や友達同士で一緒に過ごして、人間関係を築いたり相手への思いやりの感性を身につけたりする機会が少なくなっている。結果、人格形成にゆがみのある子が増えている。 くしくも協議会発足と同じ7月27日、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告が東京地裁の本人質問で、暴走した理由について、ネットばかりに依存する生活をしていたことや、自分を言葉で表現するのが不得手で怒りを粗暴な行動で示す傾向があったことなどを、反省をこめて語っていた。 ついに学校でまで、かけがえのない人間形成期の子どもたちが多くの時間を電子機器とばかり向き合う時代になった時、ゲーム感覚そのままに、自己中心で勝ち抜くことばかりを考える人間を生み出すことにならないか、今こそ教育現場で議論すべきだ。 (ノンフィクション作家)2010年8月13日 秋田さきがけ 6ページ「識者コラム現論-人格形成にゆがみ生じる 教育のデジタル化に疑問」から引用 この記事は、いろいろな問題を提起しているように思われます。思いつくままに列挙すると、(1)教科書のデジタルファイル化という教育問題を、企業経営者と原口総務相が発議しており、教育が専門の文部科学相は何をしているのか、(2)教育の目的を分析能力と競争心を強くしてその結果として国際競争力をつけることであるとして、教育基本法を全く無視している点(3)児童生徒がケータイで不良サイトにアクセスするのを禁じるための措置は、孫氏の反対で何もしないことになったのだったが、それで良かったのか(4)孫氏は携帯電話にフィルター機能を付けることは「包丁が危険だからといって台所からなくすようなものだ」と言ったが、その理屈は正しいのか、柳田氏の言うように「理屈にならない理屈」なのか この辺が記事から読み取れる問題点ではないかと思いますが、私がこの記事を読んで最初に意識したのは、現在の教科書の来歴です。人類は長い間の経験から、知識や情報の伝達は紙に書いた文章を読むことであると知ったのであって、紙が発明される以前から木片に文字を書いたりしてきました。そのような長い経験に裏打ちされて現在の教科書があるのに、今年ヒットしたばかりの人気商品の販路拡大のアイデアを思いついたところは立派かも知れませんが、いきなり「教科書」という発想は拙速にすぎるのではないかと憂える次第です。
2010年08月23日
高等学校の授業料無償化の制度は朝鮮学校にも適用される見通しになったと、2日の朝日新聞が報道している; 今年度始まった「高校無償化」制度をめぐり、文部科学省は、全国の朝鮮学校の除外措置を解除する方向で最終調整に入った。文科省は教育の専門家による会議を設置して制度適用の可否を議論してきたが、「日本の高校に類する教育をしており、区別することなく助成すべきだ」との判断を固めたという。 文科省は月内にも会議の検討結果を公表する予定で、4月にさかのぼって適用し、私立高生と同じく年約12万円、低所得層は倍の約24万円を上限に助成したい考えだ。ただし、朝鮮学校への適用は、中井洽・拉致問題担当相の反対論などでいったん見送られた経緯がある。今回も首相官邸には「政府全体でどう判断するかは別問題」と党内情勢を見極めた上で最終判断すべきだとの声が上がっている。 高校無償化は昨夏の総選挙での民主党マニフェストの柱で、「幅広く高校段階の学びを支援すべきだ」という考え方に立っている。文科省は一般の高校や他の外国人学校と同様、全国に10校ある朝鮮学校の高校段階(高級学校)の生徒約1900人にも適用する前提で予算を組んでいた。 反対論を受け、4月時点での適用は見送ったが、政務三役は「無償化は純粋に教育制度として考えるべきで、朝鮮学校の教育内容を検証して改めて判断する」として5月に専門家による会議を設置。学校制度や教員養成の専門家、大学の学長経験者ら6人の委員を集めて議論してきた。 会議は委員名や日程などすべてが非公開で進められているが、関係者によると、事務局の文科省職員がすべての朝鮮学校を訪ね、カリキュラムや教科書などに関する資料の提供を受けた。授業風景や施設などもビデオで撮影し、検証材料にしたという。 会議では「朝鮮学校は社会に向けてさらに情報をオープンにすべきだ」との意見が出たといい、文科省は制度適用に合わせ、カリキュラムや財務情報、学校法人の役員名など一般の高校並みの情報開示を求める方向で検討している。仮に今回も適用方針に異論が出た場合は、文科省の政務三役は「専門家が検証した結論だ」として反論するとみられる。 (青池学)2010年8月4日 朝日新聞朝刊 14版 1ページ「朝鮮学校 無償化へ調整」から引用 高校無償化が朝鮮学校にも適用される見通しになったことは大変結構なことである。これで日本も国際社会で恥をかくこともなくなった。朝鮮学校には専門家が訪ねていって、使っている教科書や授業内容を確認しビデオに撮って可視化して、問題がないことを確認したのだから、中井洽のような教育の素人は口を慎むべきである。
2010年08月20日
琉球大学名誉教授の高嶋伸欣(たかしまのぶよし)氏は、産経新聞が事実を歪曲して報道していることを、7月23日の「週刊金曜日」で次のように批判している;「第五の全国紙」を自称する『産経新聞』が、7月3日の朝刊で厳しいNHKウオッチングぶりを、発揮した。小丸成洋経営委員長が6月22日の会見で、大相撲名古屋場所を「中継しないわけにはいかない」と述べたのに、28日に公表された会見要旨にそれがないと指摘。NHK側は、「個別番組のことに対しては何も言えない」との原則論も発言していたので、その線で要約したという。 それでも『産経』は、23日にNHKの放送総局長らが「今のままでは放送は難しい」としていたことに言及し、それが会見要旨作成に影響した可能性を臭わせた。このあたり邪推すれすれだ。それでも、会見での具体的発言と要旨との微妙なズレまでチェックしている点は評価される。巨大組織NHKの経営委員長の言動に対する監視は、ジャーナリズムの本道でもある。 だが同じ『産経』が5月15日の東京本社版(朝刊のみ)で、それと逆の歪曲(わいきよく)報道をした。第一面の題字直下という目立つ位置の準トップ扱いで、横浜市教職員組合(浜教組)が作成した自由社版中学歴史教科書批判の資料集は、法律違反と決めつけた記事だ。 自由社版の同教科書は、安倍晋三氏たちの露骨な支援を得ていた「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)が、内紛後に短期間に作成して検定申請した。その後1ページ当たり1・35カ所の誤記などを指摘されて不合格。訂正して再申請後、136カ所の欠陥を修正し、ようやく検定合格となった。それでもなお、採択用の見本本で40カ所の欠陥を指摘され、それらを訂正した生徒用の供給本に、多数の誤記や写真の裏焼きが見つかっている。 このような欠陥本を強引に採択した横浜市教育委員会は、同書の回収や訂正の措置を、自由社に求めていない。こうした事態に対して、浜教組が同書の使用を義務づけられている現場の組合員向けに、授業案の資科集を配布するのは当然だし、何ら問題もない。 だが議会多数派の自民党議員などに押されて、市教委は市内各中学校長宛に、教科書使用義務の徹底を通知した(4月28日)。そこでは、組合の授業案の中に、自由社版以外の資料だけで授業を進めている例があると指摘している。これを『産経』は、浜教組がいずれの案でも自由社を使わずに授業をするように「”指令”」しているのだから、教科書使用義務の法律に抵触すると決めつけ、見出しでも強調した。 これまでの判例では、半年や通年での教科書不使用は違法とされているが、1、2時間の不使用を違法と騒ぐのは逆に「非常識」としている。『産歴』や騒ぎたてる市議の非は、明らかだ。 それに同記事では市教委の通知にある「一万人を超える組合員」を「一万人以上の教師」と替えている。組合には教員以外も所属している。資料集の配布を「指令」とするなど、やはり『産経』の全国版紙面の記事はウサン臭い。『産経』は、いつまで「サギをカラスと言いくるめ」続けるのか。2010年7月23日 「週刊金曜日」808号 59ページ「メディアウォッチング-『欠陥教科書』の使用義務を騒ぎ立てる『産経』」から引用 「つくる会」教科書は、上に引用した記事が説明するとおり、間違いが多く、しかも特定の思想信条を持つ政治家の露骨な支援を受けて出来上がったもので、そういう変な教科書を押し付けられた生徒は可哀想である。見かねた教職員組合が用意してくれた資料集を参考に使ったら、それが法律に触れるとは噴飯ものである。そんなことを言い出したものの分からない自民党議員に反論できない教育委員会もどうかしている。横浜市の教育の正常化を望むものである。
2010年08月09日
今年の春から「つくる会」教科書を使うことになった横浜市では、この怪しい教科書で授業を行う際の注意点をまとめた冊子を発行したと、4月14日の朝日新聞が報道している; 今春から横浜市内の8区の市立中学校で使用が始まった「新しい歴史教科書をつくる会」主導の自由社版の歴史教科書について、導入に反対する大学教員らでつくる市民団体が、教科書を使う際の注意点や課題をまとめた指南書を発行した。現場の教員に役立ててほしいと、歴史の見方や他社との違いなどを細かく解説している。 指南書は「自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?」=写真。採択に危機感を持った元中高教員や大学教員の有志が昨年秋、横浜教科書研究会を発足。反対の立場から教科書の内容を共同で細かく検討してきた。 今回発行した第1号の指南書では全体を概観し、教科書に掲載されたいくつかの時代の「特徴的なコラム」を取り上げた。 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした事件について、自由社版は「江戸の庶民の喝采をあびた」と紹介。これについて「半世紀近く後に人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、大好評を得たことを、事件そのものに対する評価と勘違いしてしまった記述」と指摘。「虚構と史実を混同しないことが求められる」などと注意を促した。 メンバーは約60人。第1号はA4判20ページ。1千部作って全市立中学校に郵送した。引き続き、授業進度に沿って古代・中世・近世編、近代・現代編を発行していくという。 文部科学省によると、国公私立校で今春から使用見込みの中学歴史教科書のうち、自由社版の全国シェアは1・1%。扶桑社版が0・6%だったという。横浜市教育委員会は昨年夏、市内全18区のうち8区で使う歴史教科書について自由社販を採択した。 メンバーは「検定に合格したからといって、誤りがないわけではない。今後は市民向けの学習会やセミナーも開いていきたい。教員だけでなく市民にも読んでもらいたい」と話す。 1部300円(協力金)。希望者は事務局の横浜国大歴史学研究室(045・339・3436)へ。(佐藤善一)2010年4月14日 朝日新聞朝刊 13版 25ページ「つくる会教科書 使う際の課題 導入に反対の団体が指南書」から引用 検定に合格したからといって誤りがないわけではないとは、恐れ入った話だ。特定のイデオロギーを無理やり教科書にねじ込もうとするから、そういう誤りが発生するのではないだろうか。教科書編集者にはよく注意していただきたいものだ。
2010年05月14日
教職員の人権を抑圧する「指導」を継続する教育委員会を擁護する発言をした松沢・神奈川県知事を批判する投書が、9日の神奈川新聞に掲載された; 松沢知事は先月、「教育委員会が(不起立で)問題となっている教職員を指導するのは当然。指導のために必要な情報として氏名を把握するのは理解できる」などと見解を示した(本紙、1月27日)。2008年にも同趣旨の発言をしている。 日の丸・君が代をめぐる問題は憲法19条で保障されている「思想・良心の自由」が背景にあり、不起立する教師らの行為(自由)は、侵してはならないと私は考える。従って、知事の発言は、納得できない。 知事は、国旗・国家の大切さを教えるのは、学習指導要領にもあると言い、あるべき教師論まで持ち出し「氏名の把握」を正当化するが、とんでもないことである。 憲法学者の故長谷川正安さんは、「内心の問題は絶対に自由でなければならない」と、「日本の憲法」(岩波書店)で指摘している。この間題では、県の審査会が情報収集・利用を「不適当」と判断、是正を求めていた。私は、不起立者は「神奈川の良心」と言いたい。県教委はこの答申を受け止め、今後の氏名収集はやめてほしい。2010年2月9日 神奈川新聞朝刊 6ページ「自由の声-不起立の氏名収集やめよ」から引用 この投書は正論を述べている。教職員の人事権を握る立場にある者が、教職員の行動をいちいちチェックするのは、そのこと事態が良心の自由を抑圧する行為であり、わが国憲法の許すところではない。松沢知事は己の不明を恥じて、発言を撤回するとともに、不適切な人物が教育委員会に巣食っている事態を改善するべきである。
2010年02月23日
外務省の機密費が首相官邸に密かに上納されているのではないかという疑惑について、真相解明の努力を15日の「週刊金曜日」は次のように報道している; 岡田克也外相は8日の記者会見で、外務省の報償費(いわゆる機密費)が首相官邸に上納されていた疑惑に関して「事実関係については、私自身は、あるかないかを含めて承知をしております」と述べた。ただ、公表については「内閣として基本的に一つの考え方にした上でお話しすべきことだと思いますので、現時点ではコメント致しません」とした。 外務省関係者は「驚きました。『あるかないかを含め』と予防線を張っていますが、上納を事実上初めて認めたといえるのではないでしょうか。自民政権は否定するだけでしたから。政権交代の効果がでています」と話している。 上納問題では、鈴木宗男衆院議員が昨年10月29日、「かつて外務省において、報償費を首相官邸に上納するという慣行があったと承知するが、新内閣は右を確認できているか」などと質問主意書を出したが、後に撒回した。 先の関係者は「新政権の中で岡田外相や鈴木氏は説明責任を果たそうとしている。それを抑え込もうとする勢力との駆け引きが活発化しています」と内情を語る。 会見で岡田外相は「内閣官房も含めた話になりますので」とコメントしない理由を語っている。平野博文官房長官は、自民政権時代の悪弊を打破するため、岡田外相と積極的に動くべきだろう。 記者会見について外務省は八日、『週刊金曜日』など「今までの基準のいずれかに準ずると認め得る者についても会見を開放」し、本誌から初めて出席。報償費について岡田外相に質問した。 伊田浩之・編集部2010年1月15日 「週刊金曜日」782号 8ページ「金曜アンテナ-外務省『機密費』上納疑惑」から引用 新政権には、自民党長期政権の悪弊を洗い出し、改善して、わが国民主主義の向上に努力してほしいと思います。
2010年01月29日
現職高等学校教員の蜷川純雄(にながわすみお)氏は、先月の朝日新聞に投稿して、教育現場の問題点を次のように指摘している; 民主党政権になって、「教員免許更新制度」「全国学力テスト」「電子黒板」の導入といった、近年作られた教育関係施策のあり方が、見直されることになったと聞いて、多くの教員が胸をなでおろしていることと思う。 今、学校教育が直面している多くの困難は、こういった施策で解決できるたぐいのものではないと、私たち教員は感じているからだ。 例えば、「学力低下」問題の実情は、学習意欲が全くない児童・生徒が増えていることである。だから、自治体や学校が全国テストでの成績(平均点)を競い合うことは、学ぶことに喜びも展望も見いだせない児童・生徒に「学びたい」という気持ちを呼び覚ますことにはつながらない。電子黒板は学校に一つあってもいいかもしれないが、何か、喫緊の教育課題を解決する手段ではないだろう。こうした的外れと言ってもいい新たな教育施策に、無駄な労力を割かなくても済みそうだ、とほっとしている。 近年、「いじめ」や「学力低下」などの問題が表面化すると、それぞれ個別に対応策が講じられる。その結果、新たな教育施策が次々に追加され、これが、教員の仕事量を飛躍的に増やしている。 人権教育、いじめ・校内暴力防止、特別支援教育、キャリア教育、IT・コンピューターの活用、学校の特色づくり、学校評価制度……、こういった施策がそれぞれ別個に考えられ、文部科学省から自治体の教育委員会を経由して指示される。学校ではその都度、校内委員会を設置してマニュアルに沿った計画書を作る。指示された研修に出かけ、実施した後は報告書を提出しなくてはならない。今では、ひとりの教員がいろいろな校内委員会に所属することになっている。 もとより、私たち教員の仕事は、授業、児童・生徒の指導と評価、学校行事の計画・実施、学校の管理・運営、課外活動の指導など、通常の業務で飽和状態にあるため、新しく加わった業務に割ける時間は、実は、あまりない。このため、形式的に書類を整えるだけに終わらざるを得ないこともある。 新しい仕事が付加されることによって、通常の業務を削るということにもなる。「パソコンの前にいる時間が長くなり、子どもたちの話を聞く時間が短くなった」「このごろ先生は部活の練習を見に来てくれなくなった」。近頃、現場でよく聞く声だ。 上乗せされていく新たな教育施策は、書類の山を築く一方で、教員の働き方を変えてしまっているようだ。教員の仕事の中心は、児童・生徒一人ひとりと向き合うことであるはずだ。十分な数の教員を配置するなど、それを妨げない方法を検討して頂きたい。2009年12月26日 朝日新聞朝刊 12版 15ページ「私の視点-学校教育-相次ぐ新施策で現場は困惑」から引用 この記事を読むと、前政権の下で場当たり的に次々に繰り出された教育施策が、単に先生たちの雑用を増やすばかりで、かえって本来の教育活動を阻害することになっていた様子が良く分かります。とりわけ、テストの点数を競うことは学力向上の役にはたたないという指摘は傾聴に値します。新政権では、現場の声をよく聞いて、真に役に立つ施策を実施してほしいものです。
2010年01月16日
教員採用の条件から国籍条項が撤廃されて、外国籍の先生も教壇で活躍していると、12月26日の読売新聞が報道している; 外国籍の先生が教壇に立つ姿が各地で見られるようになった。1991年に公立学校で日本国籍以外の先生を採用することが認められて以降、小中学校や高校で年々増加。現在は大阪、兵庫はじめ神奈川、京都など25の都道府県で、在日コリアンを中心に少なくとも約200人が指導に当たっている。 文部科学省の通達では、外国籍の教員は「期限を付けない常勤講師」と定められており、「主任」などの管理職にはなれない。学級担任になるなど教育上の権限は日本人と同じだ。 在日コリアンの児童も通う大阪市淀川区の市立北中島小学校で開かれた3年生の音楽の授業。子どもたちが韓国の民族楽器チャンゴなどを楽しそうに演奏した。担任は、在日3世の李(リチリ)知里さん(31)。韓国慶尚南道出身の祖父をもち、愛知県で生まれ育った。 大阪府、大阪市は1970年代から、独自に外国籍教員を採用していた。82年からは国の通達に沿って日本国籍以外の採用を見送っていたが、国籍条項の撤廃を受けて93年から採用を再開。府内の外国籍教員は今年度で135人を数える。 李さんは、大学卒業まで「宮本知里(ちさと)」という日本名を名乗っていたが、「本当の自分を隠しているようで心が重かった」と振り返る。 6年前の採用時。市教委や校長から「本名を名乗ることが、朝鮮半島にルーツがある子どもたちの心の支えになる」と助言され、本名を名乗る決心がついたという。現在は、朝鮮半島の文化を伝える機会をつくっているほか、児童や保護者に自分の生い立ちを説明することもある。 大阪府・市の外国籍教員のうち、学校で「民族のルーツ」を明らかにしている人は6~7割。先月7日、同市で開かれた「外国にルーツを持つ教職員ネットワーク」の設立総会には、府内11市から計52人が集まり、体験談などを披露した。今後、生い立ちを語り合い、教育課題に取り組む場にする。 同ネットワーク事務局の在日3世、韓秀根(ハンスグン)さん(34)は「在日コリアンが目に見える存在になることが、生きた歴史を伝えることになり、子どもの異文化理解にも結びつく」と話している。 (望月弘行)2009年12月26日 読売新聞朝刊 12版 14ページ「外国籍の先生 教壇に続々」から引用(写真も) 外国籍の先生たちの授業を受けて、子どもの頃から自国文化のみならず異文化を理解する能力を身に付けることは、これからの国際社会の一員として大変有意義なことと思います。
2010年01月03日
鳩山政権が誕生して以来、昔の自民党がやってきた政策を転換しようとするたびに、読売新聞などは「過度にマニュフェストに拘らず、柔軟に対処するべきだ」などと主張し、そのような紙面を見るたびに私などは「それじゃぁ何のためのマニュフェストだったんだ」と思ったものであるが、12月11日の「週刊金曜日」には次のような民主党マニュフェスト批判が投書されている; これまでの自民党の大小の教育改革は、大抵、教員の締め付けに利用されてきた。マニフェストに掲げた民主党の教育政策も、教育現場の実情を知らぬ、心得違いの施策である。 教員免許更新制を発展的に解消、進化させ、いずれ「教科学習」「生活進路指導」「学校マネジメント」の三つの分野での「専門免許」の取得を「標準にする」という。 教員の仕事は三つの分野に分けてできるものなのか。どの「専門免許」も持たない教員は標準以下の教員とされるのか。 教員養成課程を六年制にし、教育実習は一年間にするという。 これでは是が非でも教師になるしかない者だけが教員になる。一年間の教育実習で教職の現実に嫌気がさす者も多いはずだ。いったん、教職に就いたら、転職は難しいのだ。 私の高校教員時代にも修士号を取得していた教員はいたが、その指導力が特に優れていたとは思えない。 この「専門免許」も「六年制」も「教員の質と数の充実」を意図しての施策だろうが、これではどちらの充実にもならない。逐一、「伺い」を立てなければ何の試みもできない職場ではなく、自由裁量も創意工夫できるゆとりのある教育現場であれば、教員の質も向上し、教員志望者も増えるのだ。 次に「高校無償化」。高校教育を受ける学力もない、あるいは学習意欲もない生徒にも授業料相当額の給付金を出すのか。学力もあり学習意欲もあるが低所得ゆえに高校に通えない生徒たちにこそ返済不要の奨学金を与えるべきだ。 次に「学校理事会」。どういう構成になるのか。その構成メンバーを誰が選ぶのか。彼らに教科書を選定し、校長を人選し、教員の人事にまで介入させようというのだ。これでは、彼らの意向に沿わない教員は排除されてしまう。学校側は理事会の要求を拒否もできるのか。 学校理事会は教育を不当に支配しかねない。教員は上に従うばかりでなく地域からも圧力を受け、労働法規を無視した働き方をますます強要されるだろう。 最後に、教員管理のための「踏み絵」として極めて有効に利用されてきた「日の丸」掲揚「君が代」斉唱。深刻な、この強制問題からは、民主党もその有力な支持母体である日教組も逃げている。 新しい国歌を、という提案があるが、どんな国歌でも強制になってはいけないのだ。「君が代」の「君」当人も「強制は望ましくない」とおっしゃっている。入学式や卒業式に参列させておいて、一律に起立して斉唱することを強要し、そうしない教員は懲戒処分する、という民主国家がどこにあるか。思想・良心の自由を保障している憲法一九条に違反しているのは明白である。 政権交代があろうと、教員にとって重苦しい時代はなお続く。2009年12月11日 「週刊金曜日」779号 63ページ「論争-心得違いの教育マニフェスト」から引用 教員免許更新制は、安倍内閣が人気取りを目的に始めた無内容な政策で、教育現場には何の利益も無い、即刻廃止するべき制度である。そもそもこのような教員を抑圧する制度が考え出された始まりは、ときおり散見される教員による不祥事の発生である。しかし、大勢の人間集団になればその中に極少数の不心得な者や事故事件を起こす者が出てくるのは、何も教師に限った話ではない。自衛隊や警察官にも似たような事件は起きている。民主党が、上の投書で批判されるようなマニュフェストを造ったのは、無自覚に自民党の政策を模倣した結果であろうと推測される。もっと、教育の専門家や現場の声を踏まえた政策に転換するべきである。
2010年01月02日
あまりの評判の悪さに必要な人数の応募が得られない東京都教育委員会は、地方で不合格になった人材に応募を働きかけることになったというニュースがあったが、それに関連した投書が4日の朝日新聞に掲載された; 都の小学校教員採用で都教委は2010年度に実施する試験から、他県と協定を結び地元で不合格になっても東京で合格できる、という取り組みを行うという。この就職難の時期に、都の教員がなぜ魅力的でないかをしっかりと分析しての都教委の案であったのか。 そもそも教員仲間では、都教委の教師に対する締め付けは目に余るものがあり、都では働きたくないと言われている。また、地方の教員になりたくてなれないから都でしばらく働いて、というのは都の教育を軽視してないか。仮にこの取り組みで新規採用になった教員には「他県の不合格者」などの目に見えないレッテルが張られることは想像でき、それが生徒・保護者の関心事にならないと誰が言えよう。ますます現場がぎくしゃくする。為政者をおもんばかって高圧的な指導をしたり処分をしたりすることをやめ、都民のためという原点に立って教育を考えるべきである。2009年12月4日 朝日新聞朝刊 13版 18ページ「声-教員なぜ不足 都教委は考えよ」から引用 この投書の言うとおりである。都の教育委員は石原慎太郎のおかげで教育委員になれた者ばかりだから、児童生徒のための教育行政ではなく、石原慎太郎のご機嫌を損ねないようにという点にだけ注意を集中しているのであろう。日の丸君が代で起立しない職員を処分するとか、職員会議での議決禁止とか、ろくでもないことばかりやっているから、このていたらくだ。人選を行った石原慎太郎の責任である。
2009年12月30日
民主党の小沢幹事長は、今まで自民党支持だった仏教界を民主党支持にしたいという熱意から、不用意にキリスト教批判などとしてしまって、キリスト教関係の人たちから批判されるという一幕があったが、それに対して、小沢氏本人は自らの宗教観・文明観を、次のように説明したと11月17日の朝日新聞が報道している; 民主党の小沢一郎幹事長=写真=が16日の記者会見で、仏教観と文明観を改めて披露した。 10日に和歌山県の高野山金剛峯寺を訪れた際に、キリスト教を「排他的」「独善的」と指摘。これに対し、「日本キリスト教連合会」が「キリスト教に対する一面的理解に基づく、それこそ『排他的』で『独善的』な発言」と抗議文を送っている。 これを受けて小沢氏は16日、「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」と説明。さらに、エベレストに挑んだ登山家の「そこに山があるから」という発言を引用し「西洋文明は自然も人間のために存在する考え方。(エベレストの)地元では霊峰としてあがめられて、征服しようという考え方はアジア人にはほとんどない」と語り、西洋思想は人間中心だが、東洋思想は人間が自然の一部だと強調。最後は「僕も君も、死にゃ仏になれるんだ、だから」と締めくくった。2009年11月17日 朝日新聞朝刊 14版 4ページ「小沢氏、宗教・文明観を改めて披露」から引用」 人は死んだらみな仏様になるという考え方は、わが国に古来からある伝統的な考え方であると言えます。ところが、数年前に、当時の首相だった小泉純一郎氏が周辺諸国の抗議を無視して靖国神社参拝を強行して、その理由を新聞記者に問われて「日本では古来から、人は死んだら誰でも神様になると言われており、それがわが国の伝統だ」と発言したことがありました。これは、当人の教養の無さを暴露した一幕であったのですが、その点を何故、会見中の記者諸君は追及しなかったのか、わが国ジャーナリズムの未熟さをつくづく感じたのでありました。
2009年12月17日
東京都教育委員会がやっている日の丸・君が代の児童生徒や教職員への強制が、如何に間違った行為であるか、4日の「週刊金曜日」の投書は次のように述べている; 10月、「全国豊かな海づくり中央大会」の開会式が放映されました。「君が代斉唱」、司会者は起立を求めましたが「差障りのある方はそのままでお願いします」と一言加えました。 常識的な対応です。起立・斉唱を強要し、従わぬ者を処分する東京都がいかに、民主的礼儀に反しているかがわかります。 立場・状況に応じて、処遇するのが円熟した、豊かな社会です。「女が家事をするのが普通だ」「起床は六時、これがまともな家庭だ」などと自分のあり方を常識と決め付け、他を排除するのは想像力が「貧しく」包容力に「乏しい」のです。つまり「人間」が貧乏なのです。 靖国神社をなくすべきと考えますが、戦場に倒れた将兵を慰霊する気持ちを理解します。伯父が眠っていますので、参拝もしました。しかし、戦争遂行の精神的根拠を与えた歴史的経緯から、靖国の存続に、そして、「日の丸・君が代」にも反対です。 横浜市では、ある歴史教科書だけを使わせるためのルール変更が行なわれました。多様性の混在を許せない偏狭さは、バイ菌をすべて殺さなければ清潔とは認めない潔癖症に似ています。都の「君が代」への対応も同じです。こうではなく、私たちはお互いを目的とし、尊敬し合う社会を求めています。 2004年の園遊会で、東京都教育委員の米長邦雄(よねながくにお)さんが、すべての学校に国旗国歌を尊重させたい、と話すと天皇は「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」と述べられました。しかし、その後も強制は続いています。 彼は天皇を尊敬しているのではなく、利用しているように見えます。2009年12月4日 「週刊金曜日」778号 「投書-差障りある方はそのままで」から引用 多様な価値観の存在を認めるのが民主主義ですから、日の丸君が代を命より大事だなどと考える人たちを、私は否定をするつもりはありませんが、自分がこう思っているのだからオマエも同意しろという「強制」には異議を唱える必要があると思います。
2009年12月16日
学校を卒業して就職する若者に、学校はもっとしっかり労働三法を教えてほしいという投書が、10月4日の朝日新聞に掲載された; 中学や高校を卒業して就職する若者たちには、学校で必ず労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法)などを教えてほしい。 彼らが社会に出て働いてみると、職場は家庭や学校とは全く異なる環境であることを知る。組合があって労基法が守られていればいいのだが、労働環境や労働条件が劣悪であった場合、どうすればいいか思い悩むことになる。 憲法は労働者の権利として、勤労権や団結権、団体交渉権、団体行動権を定めていて、それに基づいて労働三法がある。労働者はこうした法律によって守られているのだが、そのことが学校で十分教えられているとは思えない。 私は2年前まである組合の職員をしていたが、組合の力で解雇を撤回させたり、労働条件を改善させたりした例はたくさんあった。さらに職場に組合がない場合は、1人で加入できる組合もある。劣悪な労働環境や労働条件が横行するのは、労働三法どころか、組合の存在さえ知らない若者たちがたくさんいるからではないか。若者が希望を持って働ける社会にしていくためにも、ぜひ学校でそれらのことを教えていただきたい。2009年10月4日 朝日新聞朝刊 13版 6ページ「声-若者たちに労働三法教えて」から引用 私もこの意見に賛成である。最近の若者は憲法や国民の権利について、あまりよくわかっておらず、まして労働三法と労働者の権利については、まるで他人事のような認識のように見える。そんなことでは民主主義の社会はいつひっくり返るかも分からない。そういうことでは困るので、せめて労働三法と労働者の権利についてだけでも、しっかりした知識を身に付けてほしいし、学校はそれを支援するべきである。
2009年11月03日
国が学校教育に介入するのはよくないことなので、教科書検定は廃止するべきであり採択は学校ごとに先生に任せるべきであるとする投書が、10月1日の朝日新聞に掲載された; 民主党政権の成立を機に、長年教科書問題についてさまざまな観点から考えてきた研究者として、検定と採択に関する改革案を提言したい。 検定は廃止すべきだと考える。教育内容への国の介入を避け、外交問題化を防ぐ狙いである。仮に検定の即刻廃止に不安があるならば、検定制開始以前の明治時代の一時期、小学校が自由採択した教科書を国に報告するだけだった「開申制(届出制)」を過渡的に採るのも一案である。検定を廃止すれば、教科書調査官は不要、経費節減もできる。 採択については、無償措置法で設けられた広域採択地区での同一教科書採択という現行制度を廃止し、現場の教員が、少なくとも「学校」単位で教科書を選べるよう改めるべきだ。この方向性は自民党政権下でも度々閣議決定していたのだが、文科省が事実上強力に推進してこなかったのが問題である。公約で学校単位への移行を示している民主党には大いに期待したい。2009年10月1日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「声-教科書は教員に選ばせよう」から引用 「つくる会」教科書のようなものまで検定に合格するようになって、検定の間口は大きくなりすぎ、もはや検定している意味もなくなったと言っていいのではないか。右よりの考えを持った教育委員が変な教科書を先生と生徒に無理やり押し付けるのでは、現場がかわいそうだし、何より将来を担う生徒たちをそんな目にあわせてはいけない。教科書は、それを使って授業を行う先生の責任で選択されるべきである。
2009年11月01日
いまどきあり得ない時代錯誤な教科書を採用した横浜市教育委員会について、現場の教師は次のように憂慮している; 横浜市教委は、有識者を含む審議会の答申をも無視し、18区中8区で自由社の教科書を採択した。私は横浜市の中学で37年間社会科を教えているが、近代日本の戦争をやむをえなかった、結果的にアジアの植民地解放につながったと描く教科書は初めてだ。 古代の兵役は地方の文化の交流にもなったとし、江戸時代は、治安維持と行政を担当した武士を百姓町人が経済的に養い、互いに依存し合い平和な社会を支えたとする前近代の記述にも驚かされる。私の区は別だが、該当8区の社会科教員は大変だ。来春までの間、市販本での準備も可能だが、今までの教科書の歴史観との違いに戸惑うだろう。 私ならしばしば教科書の内容を否定しながら授業せざるをえず、生徒たちを混乱させてしまうに違いない。採択撤回がかなわぬなら、これからの半年間、出来る限り教員同士で連絡を取り、「教え子を戦場に送る教育」にならぬように準備する他ないと思う。2009年9月29日 朝日新聞朝刊 13版 16ページ「声-『自由社』版で授業の混乱心配」から引用 今の横浜市教育長を選任した前市長は、市民の税金をつぎ込んだ開港150年イベントの真っ最中に突然辞任するという無責任なやり方をして姿を消したが、新市長はそれに比べればまっとうな人物のようなので、教育行政のほうもそのうちにまともな姿に戻してほしいものである。
2009年10月27日
政権交代した民主党に、元教員の読者は次のような要望を、9月24日の朝日新聞に投書している; 民主党政策集には「学習指導要領の大綱化」の促進が掲げられている。小・中で教員をしてきた者として早急に取り組んでほしい課題である。 戦後47年から相当の期間、学習指導要領は試案だった。教師白身がカリキュラムをつくり、作文、読書、観察などにユニークな実践が盛んで、物資は乏しかったが教室も職員室も活気に満ちていた。教師自身が子どもに合わせて創意・工夫することは大切だ。そのため、細かい点までは現場を縛らない指導要領の大綱化はぜひとも必要である。 そして、指導要領大綱は幅広く現場教師や学者の声を聞いて作成すべきである。文部官僚主導で行うべきではない。また「国歌・国旗」については、「強制しない」との立場を明確にすべきである。 さらに、新教育基本法は、国民の時間をかけた論議がなされないまま、性急に決められてしまった感がある。ぜひ、国民による見直しの論議が必要と考える。2009年9月24日 朝日新聞朝刊 12版 10ページ「声-指導要領の大綱化早急に」から引用 国歌・国旗を強制しないというのは、民主国家として当然の姿勢であるが、自民党政権では一部教育委員会が強制しているのを放置していた。新政権ではそのようなことのないよう、姿勢を正すべきである。また、投書が指摘するように、教育基本法も十分な論議を尽くさず、前政権が3分の2で再議決するという手段で強引に制定した経緯から考えて、見直しは必要である。
2009年10月17日
読売新聞には「桐谷夫妻の一期一会」というエッセーがときどき掲載される。15日のコーナーでは、日本文化の魅力について次のような文章が寄稿された; 先日、近所の文房具屋で買い物をしたら、代金を計算するのに何とそろばんを使っていました。今やバーコードとコンピューターが当たり前の時代というのに、どうしたことでしょう。 でも、こんな信じられないような新旧の組み合わせが、まだ残っている日本が大好きです。 そろばんは16世紀ごろ、中国から伝来したと言われています。それが生活の中でも、教育の現場でもいまだに用いられているなんて、奇跡のようで感動的です。 また、日本は支払いにとても便利な振込制度の先進国なのに、結婚式の祝いや葬式の香典、あるいは旅館でチップを渡す時などには、伝統的な作法を守り、現金をのしや水引の付いた袋に入れたり、紙で包んだりします。 古いものと新しいものが混じり合っていながら、何の混乱も起きず、矛盾も生じないのは、見事と言うほかありません。まさに日本のユニークさを象徴するもので、少しも古くさく見えず、心地良くさえ感じます。 以前、浅草寺で針供養を見たことがありますが、使った針に感謝するのだと知って、びっくりしました。 これはほんの一例に過ぎませんが、このように身の回りの物や習慣を大切にし、敬う心は、私が最も好きな日本の一面です。 下町の銭湯が好きなのも、高層アパートやマンションの孤独な生活では得られない、近所の人たちとのコミュニケーションを通して、日本の伝統に触れることができるからです。 今やグローバルな時代とはいえ、新時代のワンパターンなやり方には味気なさを感じずにはいられません。その点、豊かな過去を持つ日本には、新しいやり方以外にも様々な選択があるのは実に幸せなことです。 絵・桐谷逸美 文・桐谷エリザベス2009年9月15日 読売新聞朝刊 14版 29ページ「身近な物や習慣 敬う心」から引用 異文化を持った人の目からみた日本論ですが、日本文化に対する細やかな敬愛の念が感じらて、大変良いエッセーだと思います。日の丸だの君が代だのと騒ぐ前に、このような文章をこそ、愛国心養成のための教材にするべきではないかと思いました。
2009年09月27日
公立の学校で使う教科書としては著しく内容の偏った教科書を、横浜市教育委員会が採択したことに疑問を呈する社説が、8月23日の朝日新聞に掲載された; 横浜市の市立中学校の約半数で来年春から新たに、「新しい歴史教科書をつくる会」主導で編集された歴史教科書を使うことが決まった。 4年前の採択時期には、つくる会の歴史教科書の採択率は全国で0・4%にとどまった。今回は東京都杉並区、栃木県大田原市などが継続して使うことを決めているが、指定市では横浜が初めてだ。使用する学校の在籍生徒数も約3万9千人と最も多い。 横浜市で採択されたのは、従来の扶桑社ではなく自由社から出されたものだ。内容の大部分はこれまでの版を踏襲し、今春検定に合格した。 教科書検定は控えめにすべきだし、教科書は多様である方がいい。しかしそれでも、つくる会の教科書は、歴史の光と影、自分の国と他の国との扱いにバランスを欠き、教室で使うにはふさわしくないと考えざるを得ない。 自由社販でもそれは同じだ。天皇や神話を重視し、近現代史を日本に都合よく見ようとする歴史観が色濃く、中国への侵略、朝鮮半島の植民地支配については不十分なままだ。沖縄戦の集団自決にも触れていない。 気になるのは、横浜市教委の採択経緯が教育の現場の声を十分反映したものかどうか、疑念が残ることだ。 市教委の付属機関で教員や保護者、学識者でつくる教科書取扱審議会が、自由社版を含む7社の候補を選定。18区それぞれの学力状況などに応じ、区ごとにも幾つかのふさわしい教科書を挙げて市教委に答申した。 答申は自由社版を「他民族の生活や文化の扱いがやや弱く、生徒の多様な見方や考え方を育てるにはやや適さない」とも評した。どの区でも自由社版の評価はさほど高くはなかった。 ところが市教委では、各区で現在使用中の教科書と自由社版の二つを比較する形で、委員が意見を述べた。その後、委員6人が無記名で投票し、八つの区で現行のものから自由社版に切り替わることになった。 市教委の今田忠彦委員長は、4年前の採択時、市教委でただ一人、扶桑社版を採用すべきだと主張した委員だった。今回の採択には、市教委トップとなった今田氏の意向が強く反映されたのだろう。 教科書の採択権限は教育委員会にあるが、実際に使うのは教師と生徒だ。現場の声を反映した審議会の答申が、どこかで自由社か否かの二者択一のようになってしまった。 今田氏は自由社版を「愛国心」条項などが盛り込まれた改正教育基本法の趣旨に合っている、と評価する。しかしこの法律は同時に、他国を尊重する態度を養うことも求めている。こちらは満たしているだろうか。 30日投票の横浜市長選に立候補している各候補者の意見も聞いてみたい。2009年8月23日 朝日新聞朝刊 13版 3ページ「社説-横浜市の採択への懸念」から引用 この社説が指摘するように、横浜市の今田忠彦教育委員長は教育基本法に盛り込まれた「自国を愛する心」をのみ主張し、他国を尊重する態度を養うという観点が欠落している。このような偏った人物を教育界の風上におくことは災いの元だ。即刻罷免するべきである。
2009年09月24日
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