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1977年8月、カーター大統領はパナマ国内での反米感情の高まりなどを睨(にら)み、パナマ運河返還を決断、新たな条約をパナマと締結する考えを発表した。それまで米国が独占していた運河運営権を1999年12月31日正午(パナマ時間)にパナマに返還するという内容だった。
大統領の新方針に対して、米世論は一斉に反発した。当時の世論調査によれば、回答者の78%が運河返還に反対で、賛成はわずかに8%だけ。当時、「重要な外交案件について熟考を求められたら、必ずそうします」とカーターに約束していた私は即座に「上院で(批准を)検討する前に世論を納得させる必要がある」と助言している。
とはいえ、それまで私はパナマ運河に無関心だった。年中行事のように共和党保守派によって提出される「パナマ返還反対決議」にも熟考することなく署名していた。だが、上院・共和党のリーダーとして、もはやそれは許されない。私は様々な意見を聞き、この問題を真剣に考えた。結果、新条約締結が南米諸国のモラル回復だけではなく、長期的には米国の安全保障にも資するとの結論に至った。
政治的なリスクが大きいパナマ返還について、当時の側近らは何度も再考を促した。「大統領選に出るつもりなら、条約賛成はやめておいた方がいい」というわけだ。私はこう反論した。「大統領選にどのような影響を与えるのかという基準をもってすべての行動を決めるなら、大統領選への出馬以前に私は大きな失敗を犯すだろう」と。
78年1月、私はカーターの了解を得て、同僚議員とともにパナマに向かった。当時、軍事クーデターを経てパナマの支配者となっていたのはトリホス将軍である。迷彩服姿で我々を出迎えたトリホスはパナマ全土をヘリコプターで案内した後、我々を会談場所となる海辺の別荘へと導いた。彼の側近の一人には後にパナマの独裁者となるノリエガ将軍もいた。
席上、「上院は新しい条約を批准するのか」と尋ねるトリホスに私は「修正条項を付帯しなければ無理だ」と指摘、その場で二つの修正条項を手渡した。そこには有事の際、運河先端に米艦船が展開できること、運河閉鎖を試みる勢力に米軍が武力をもって対抗すること、の二つが記されていた。
「つまり、あなたは新しい条約を交渉しに来た?」。長い沈黙の後、血走った目で私を詰問するトリホスに私は「修正条項なしに上院は批准しない。カーター大統領もそれを承知している」と突っぱね、何とか同意を取り付けた。
それから20年以上たった1999年12月14日、パナマで運河の返還記念式典が行われた。式典にはクリントン大統領の名代として出席したカーターの顔もあった。だが、私とギリギリの駆け引きを演じたトリホスは81年に不可解な飛行機事故で他界し、晴れの舞台に立つことはなかった。(前駐日米大使)
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