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新聞をはじめ日本のメディアは、学校や病院、行政という「強者」に対し、「弱者」である市民は全力を挙げてその非をあげつらうべきだという論を張り続けてきた。公的な機関は厳しく批判すればするほど機能が向上するという、経験上明らかにウソのアナウンスを流し続け、モンスターたちを励ましてきた。
メディアに限らず日本社会は今世紀に入って以来、問題点を指摘し、責任者を糾弾し、変革を求めることが、この国をよくする最良の処方箋(せん)だという考えにとりつかれてきた。 足元をクールに分析しようとせずに、システムを全否定 する。 小泉元首相 は「自民党をぶっ壊す」と言い、 安倍元首相 は「戦後レジームからの脱却」を唱えた。両氏を首相に据えたのは自民党であり、戦後レジームであることをかえりみない主張だ。そのころにクレーマーが出現したのは、決して偶然ではない。
変革という病にみんなが浮足立つ中で、すべての市民は同時に公民であり、公共サービスをよくするには自分たちが身銭を切り、汗をかかなければならないことが忘れ去られた。批評は攻撃に転化し、「さじ加減」は失われた。
ゼロか100かという変革の主張の根底には、グローバル資本主義の「リソース(資源)は無限だ」という前提がある。マーケットもシステムも無限だから、気に入らないものは全部壊して、一からつくり直せという発想だ。
だが、それらが無限でないことは、今回の経済危機が証明した。ようやく、有限のリソースを食い延ばしていこうという声が現れ始めた。
官僚を非難しておびえさせるだけでは、仕事はしない。全面変革のために教育制度を一時停止させれば、1世代を知的に破壊することになる。医僚機能が一時マヒすれば、患者を救えない。ならば、手持ちのシステムを使い回して「やり繰り」するしかない。面と向かって誰が悪いとののしるより、協力をとりつける努力が大切だと気づく。
グローバル資本主義のもとで、連帯と共生は根こそぎにされた。だが、今のように貧しくて厳しい社会では、どう連帯するかが問われる。
誰が悪いかより、自分に何ができるのか。周りに困っている人がいたらとりあえず手を差し伸べようと、人々のマインドは変わってきた。「年越し派遣村」の実践に、「微温的で根本解決を遅らせる」と大所高所から懐手でするようなヤジは飛ばせない。
連帯と共生のために、自分の孤立的な欲望をどう抑え、他人の考え方や生活習慣をどう許容するか。一言でいえば、どう我慢するかが、問題としてせり上がってくる時代だ。もはや、モンスターが出てくる余地はない。 (聞き手・今田幸伸)
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