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だが、いまの管直人内閣は、学者が閣僚になっているわけではないにせよ、実は憲政史上珍しい、政治学ずきの政権なのである。何しろ、6月の政権発足にあたっての首相の所倍表明演説では、国民主権の活性化について松下圭一氏、外交方針に関して故・永井陽之助氏と、日本の政治学者の名前を2人も挙げながら主張を述べていたのだから。政治学者の端くれとしては、まことに慶賀すべきことがらであった。苦々しく思った人もいたかもしれないが。
先ごろ国会で問題になった、仙谷由人官房長官の「暴力装置でもある自衛隊」という発言にも、政治学ずきの片鱗(へんりん)がうかがえる。おそらく「暴力装置」という言葉それ自体は、かつてヨーロッパの共産主義運動が、国家の支配者による強力な抑圧を批判するさいに用い始めたのだろう。
だが、マックス・ウェーバーが著書『職業としての政治』(1919年)で、物理的な「暴力」の正当な行使を独占する団体として「国家」を定義して以来、政治学や社会学では軍隊と警察について、批判の意図がなくとも、「国家の暴力装置」と呼ぶ言い方が定着している。
ふつうの日本語では、「暴力」には不当な力の行使という含意がつきまとってしまうから、むしろ「強制力」とでも訳した方がふさわしかったのかもしれない。官房長官もウェーバーの用いる意味を念頭においたことを、あとの記者会見では示唆していた。
さしあたり以上の文脈で考えれば、 社会主義の用語だとか、憲法第9条の精神に反するといった、官房長官に対する問責決議案の理由に見えた批判はあたっていない。 自衛官の誇りを傷つけてしまう表現であることはたしかだが、その場で撤回し謝罪したことで、けりのつく程度の失言である。
むしろ「暴力装置」発言をめぐる一連の騒動に感じたのは、政治家たちのユーモアの欠如である。失言の現場での対応にかぎって言えば、言葉尻をとらえて大騒ぎする議員が出てくるのも、いちおうやむをえない。 政権攻撃のパフォーマンスを、ひたすらくりかえすことで野党が面目を保っていた、自民党政権時代の気風はなかなか抜けない だろうから。
しかしそのあとは、「いや~、学生時代にウェーバーを読みすぎまして……」「政治学でなくてもっと政治を勉強せい(笑)」くらいの軽いやりとりですませればよかったのではないか。眉をつりあげて空虚な泥仕合を国民に見せ、政治への信頼をさらに落とすよりは、ずっとましである。
ウェーバーが国家の定義にあたって「暴力」を強調した理由の一つは、人々の生死を左右する強制力の行使にかかわっている現実を、政治家に自覚させることであった。 みずからの行動についても、一種の必要悪として突き放してながめる距離感を失えば、政治は単なる実力支配に堕落してしまうだろう。議論の応酬に笑いをまじえるのも、構えに余裕をもたらすだいじな手段である。
国会での言動も含め、権力の行使を自己点検する醒(さ)めた眼(め)を、政治家が養うこと。ウェーバー自身がすすめる方法は、情熱と責任感をもって仕事にあたれという、きわめて真面目なものであり、何だか堅苦しい。むしろ時には、ユーモアでやんわりと包む工夫も、大きな助けになるのではないだろうか。
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