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初の発禁は創刊翌年の1935(昭和10)年の記事「広田外相の平和保障」。内務省警保局は「我国ノ戦争ニ対スル正義観ヲ歪曲(わいきょく)シ、反戦的思想ヲ誘致」したと判断した。
しかし、実際の文章は「その職業意識から、戦争あれかしと希望する結果、ややもすれば瓢箪(ひょうたん)から駒を飛び出させ、想像を現実の舞台に追い出すに何の不思議があらう」と、軍人優勢の風潮に警鐘を鳴らしたものだった。
36(昭和11)年の2・26事件後の「言論自由の再実現」では「言論機関をして『軍部』といふ言葉にすら伏せ字を使はしめつつある今日の世態は、天に口なし人をもって言はしむる真理そのものを抹殺せんとするものである」と書き、発禁にされた。
軍部批判は一貫していた。信毎主筆時代の33(昭和8)年の 「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」 で「投下された爆弾が火災を起(おこ)す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈する」 「敵機を関東の空に、帝都の空に迎え撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」 と約10年後を見通した。
憤慨した在郷軍人が新聞の不買運動をすると騒ぎ、主筆のクビを切れと求めたため、悠々は退社に追い込まれる。しかし、筆は折らない。翌年、「他山の石」の前身となる冊子を創刊したのだ。
悠々の背後には読者たちの支えがあった。購読料を納める会員は300人以上。尾崎行雄ら政治家、松永安左エ門、岩波茂雄、徳田秋声ら経済人、文化人も支援した。
激しさを増す弾圧で支援の輪は小さくなり、暮らしも悪化する。その一方で信濃毎日新聞の前任主筆、風見章司法相が悠々宅を訪ね大金を置いていったり、子どもの学費を出したりと支える人もいた。
悠々は日米開戦直前、世を去る。 病床で友人らに「軍閥がワシントンの戦犯法廷へ引きずり出される最後の姿を見届けないで死ぬのが残念だ」と語ったという。 葬儀には憲兵が目を光らせた。
新聞は権力を監視する使命がある。しかし、それを可能にするのは支えてくれる人たちがいてこそ、だ。読者の信頼を裏切ってはならない。特定秘密保護法が成立した今、その思いを新たにしている。 (こまのつよし オピニオン編集部)
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