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政府は、第193国会において、学校教育における教育勅語の取り扱いについて看過しがたい答弁を繰り返した。その主旨は、次のように整理してよいだろう。
(1) 教育勅語を唯一の指導原理とする教育は許されないが、教育勅語を指導原理の一つとして教育を行うことは可能である。
(2) 日本国憲法及び教育基本法に反しないかぎり、教育勅語を教材として肯定的に扱うことも、朝礼等で生徒に唱和させることも可能である。
(3) 教育勅語を教材とする場合、その判断は学校及び教師の創意工夫にゆだねられる。不適切な使用は、設置者・所轄庁が適切に措置する。
戦後、教育勅語の「教育ノ淵源」としての性格(=指導原理性)は全面的に否定され、学校教育において教育勅語を普遍的・肯定的な道徳的価値が記述された文書として扱うことはなかった。1983年に、教育勅語の「奉読」等を行う私立高校があることが国会で取り上げられた際、政府は「教育勅語の扱いにつきましては、学校という 公の教育を行う場におきまして教育活動の中で取り扱ってはならない ということは、学校を経営する者はわかっているはず」、「島根県当局に対してこういう内容についての是正を指導してもらいたいということを指導してまいった」というように、 教育勅語の指導原理性や教材としての使用を認めない 旨を答弁していた。政府自身は否定しているが、第193国会における政府答弁は、教育勅語に関するこれまでの政府見解を大きく変更するものだった。
ただ、教育勅語を正面から取り上げてその容認にまで言及することは、政府が当初から意図するところではなかったかもしれない。第193国会では、安倍首相夫妻が「すばらしい」と賞賛した私立幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させたり「安倍首相がんばれ」などと連呼させたりしていたことに、野党の質問が及んだ。これに対して、政府参考人の文部官僚が、教育勅語を暗唱させることが直ちに特定の思想信条の押しつけにはならないとか、教育勅語を唯一の「根本理念」とする教育は適当ではないが教育勅語が含む普遍的な「内容」を活用することは差し支えないなどと答弁したことをきっかけに、一連の教育勅語容認答弁が展開されることとなった。
しかも、 政府が展開した教育勅語容認の論拠は、明々白々歴史的事実に反するもので説得力を欠く ものだった。そして、野党から追求されればされるほど、論拠を欠いたまま教育勅語容認のトーンが上昇し、最後には文部科学副大臣が朝礼での教育勅語の唱和も容認されるとまで発言してしまった。
懸念されるのは、一連の教育勅語容認答弁に励まされて、教育勅語に基づく道徳教育や教育勅語の教材化を学校・教師に迫る地方議会や教育委員会が現れるおそれがあることだ。政権内部及びその政治的支持基盤には、教育勅語を教育の指導原理として復活させたいと考える政治勢力がもともと存在しており、これまでも一部の地方議会等に露頭のように姿を現すことがあった。今回の教育勅語容認答弁は、露頭の出現をさらに促進するだけでなく、鉱脈本体の露出にまで結びつく危険性もある。
本稿の課題は次の2つである。第一に、第193国会における政府の教育勅語容認答弁が論拠を欠くものであることを明らかにする。そして、第二に、明治政府はなぜ教育勅語を必要としたのか、そして今日教育勅語を復活させる狙いはどこにあるかを考察する。
Ⅱ 根拠のない教育勅語容認答弁
まず、第193国会における教育勅語容認答弁を分節化して論点を明確にし、それらに正当な論拠がないことを示す。
(一)教育勅語の指導原理性は全面的に否定されている。
政府は、文部次官通牒や国会決議を論拠に、教育勅語を「唯一の指導原理」とすることはできないが、「唯一」でなければ教育勅語を指導原理として教育を行ってもよいとの答弁を繰り返した。これは歴史的事実を曲解する不当な主張である。1945年8月の敗戦後、政府は当初教育勅語の温存や新勅語「換発」をはかろうとし、1946年10月8日の文部次官通牒「勅語及び詔書の取扱について」では、教育勅語の「奉読」や神格化は明確に禁止しつつも、教育勅語を「教育の唯一の淵源となす従来の考へ方」を捨て「広く古今東西の倫理、哲学、宗教等」にも目を向けるべきだと通知した。これは「唯一」でなければ教育勅語を指導原理とすることは可能ということを意味する。
しかし、日本国憲法の公布・施行や教育基本法の制定を経て、1948年6月19日の衆議院決議「教育勅語等排除に関する決議」では、教育勅語に「指導原理性を認めない」ことが明確に宣言された。この決議で、教育勅語等が「今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であつたがため」として1946年通牒を批判し、教育勅語等の「根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残す」と述べた。参議院も同日、「教育勅語等の失効確認に関する決議」において、「教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にする」と決議した。これらを受けて、文部省も次官通牒「勅語及び詔書の取扱について」(1948年6月25日)で、1946年通牒を撤回し、国会決議の趣旨を徹底すべく教育勅語の回収を指示した。
要するに、衆参両院は、日本国憲法及び教育基本法の制定により教育勅語の指導原理性が全面的に否定されたにもかかわらず、1946年通牒の影響で教育勅語が温存されていることを憂慮して、 1948年決議により教育勅語の廃棄を最終的に確認した のだった。「唯一」でなければ教育勅語を指導原理とする教育も可能であるという 政府答弁は、歴史的事実をねじ曲げるもので、根拠のない主張 と言わなければならない。
(二) 教育勅語に普遍的な道徳的価値は認められず、その内容を肯定的に扱う余地はない。
政府は、「夫婦相和シ」等を例示して、教育勅語には普遍的な道徳的価値が含まれており、それらを学校教育で肯定的に扱うことは可能だと答弁した。
ここで12の徳目すべてに言及することはできないが、 たとえば「夫婦相和シ」は男尊女卑の家父長制を前提とする価値観に基づくもので、個人の尊厳と男女平等を基調とする現代の家族関係とは根本的に異質なものである。 逆に、「夫婦相和シ」を現代的な意味で説明すれば、生徒たちは戦前戦後の家族制度の質的転換を認識できず、日本の近現代史を理解できなくなってしまう。同様に、「公益ヲ広メ世務ヲ開キ」を脱文脈化して、現代社会の生き方として理解させることも教育勅語の誤読である。
教育勅語の徳目を当時の意味で肯定的に説明することは、国民主権・基本的人権・平和主義に反し認められない。 他方、それらを肯定的に説明するために脱文脈化すれば、教育勅語及び日本の近現代に関する認識を誤らせることになり、非教育的な教え込みになってしまう。
(三) 教育勅語を教材として肯定的に扱うことは、日本国憲法・教育基本法に反する。
政府は、教育勅語を教材とすることの是非について定めた法令の規定はないから、日本国憲法・教育基本法に反しないよう適切な配慮の下で教材として使用することは可能だと答弁した。
教育勅語は、戦前の教育や社会を批判的に考察するための教材として教科書や資料集で紹介されてきた。これはまったく正当な使い方だ。しかし、政府が、日本国憲法・教育基本法に反しないよう配慮すれば、教育勅語を教材といて使用できると答弁するのは、教育勅語またはその一部を肯定的に教えることを容認するという意味においてだ。
教育勅語に限らず、日本には特定の文書等を教材として使用することを禁じる法令はない。しかし、教育勅語の指導原理性を一部認めた1946年通牒でさえ、教育勅語の「奉読」や神格化つまり肯定的に扱うことを禁止した。さらに、 1948年の国会決議は、教育勅語を勅語という形式ゆえに否定しただけでなく、その内容が日本国憲法に違反するとして教育勅語を学校教育から排除した。 教育勅語を教材として肯定的に扱う余地はまったくないのである。
(四) 学校・教員による教育勅語の肯定的使用は許されない。地方議会や教育委員会による教育勅語の使用強制は不当な支配に該当する。
政府は、教育勅語の教材としての使用は教育現場の創意工夫にゆだねられ、不適切な使用があったときは設置者(公立学校・都道府県・市区町村、私立学校・学校法人)・所轄庁(私立学校・都道府県知事)が対応すべきだとの答弁を繰り返した。この答弁は教育勅語の使用を助長する効果をもつが、これに正当な根拠がないことはすでに述べたとおりである。
今後、地方議会や教育委員会が、学校・教師に対して、教育勅語を指導原理とする教育の実施や教育勅語の肯定的教材としての使用を強制する事案が発生することが懸念される。その際、教材の選択や使用は教育現場の創意工夫にゆだねられており、不適切な使用があったときは設置者・所轄庁が対処するとの、政府の答弁は、教材の選択・使用ルールを確認したものとして重要だ。 もしも地方議会や教育委員会が教育勅語の使用を学校・教師に強要したときは、このルールに反する不当な支配(教育基本法第16条)として排除されなければならない。
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