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3月29日、立憲民主党の小西洋之参院議員が、衆院憲法審査会の 「毎週開催は憲法のことなんか考えていないサルがやることだ」 と発言した。この「サル発言」は与野党を問わず強く批判されただけでなく、思いがけず改憲問題への関心を呼び起こした。
憲法審査会は改憲に関する審議をする国会の常設機関である。 おそらくこの「サル発言」によって、国民の多くは、国会議員が毎週、改憲問題を議論していると知ったのではないか。
あるいは昨年の参院選後の岸田文雄首相の発言を想起するかもしれない。与野党を問わず改憲勢力は、衆院だけでなく参院でも、改憲発議に必要となる3分の2を上回る議席を得た。この選挙結果を踏まえて、岸田首相は改憲について「できる限り早く発議に至る取り組みを進めていく」、安倍晋三元首相の「改憲の思いを受け継ぐ」と発言した。
このように改憲の可能性が高まるかのような状況は、これからどうなっていくのだろうか。
改憲の高まりは今に始まったことではない。戦後史においていくつかのピークがあった。そのうちのひとつとして、 1956年に安倍元首相の祖父、岸信介などの議員が提出した憲法調査会法案に基づく憲法調査会(憲法審査会の前身)の設置 を挙げることができる。以下では、この憲法調査会における議論が今日の改憲問題に示唆するところを明らかにする。
憲法調査会は国会議員20人と学識経験者19人を委員として発足した。護憲派勢力が憲法調査会を批判したのはもっともだった。委員の多数が改憲論者だったからである。護憲対改憲の対立のなかで、調査活動が多岐にわたったこともあり、 1000ページを超す大部の報告書がまとまったのは、64年 のことだった。
この報告書の実質的な起草者は副会長の 矢部貞治 である。戦前、東京帝国大学で政治学を担当していた矢部は、首相を務めた近衛文麿のブレーンとなり、新体制運動の理論を構築したことでよく知られている。敗戦後、東大を辞して自称「浪人生活」を送ったのち、拓殖大総長などを歴任した。
矢部は改憲論者だった。ところが調査会の発足から5年後、調査の結果を踏まえて「この憲法に抱いていた考えが、大きく変ってきたことを告白せざるを得ない」と述べる。 矢部は占領軍が「日本を骨抜きにする目的で、押しつけたというのは正しくない」と「押しつけ憲法」論の間違いを「告白」する。 矢部によれば、日本国憲法の制定は、極東委員会(連合国の対日最高政策決定機関)の天皇制廃止の主張に先手を打って、「天皇制を救うため」だった。
このような矢部の理解は、報告書の「日本国憲法の制定経過」に反映される。報告書は制定過程を敗戦時における「きわめて異常」なものとしながらも、「当時のわが国をめぐる微妙な、しかも峻厳な国際情勢の中で行なわれたこと」に注意を喚起する。日本国憲法は「押しつけ」なのか否か、「日本国民の自由な意思に基づくもの」だったのか否か。「事情はけっして単純ではない」
報告書が「押しつけ憲法」と断定しなかったことは、委員の「戦争の放棄」理解を前提としている。委員は全員一致で、前文と第9条の平和主義を「推進・強化」すべきとの立場たった。 他方で委員のほぼ全員の見解によれば、第9条の下でも自衛隊は違憲ではなかった。意見が対立したのは、「防衛体制の現実に合わせる方向」に第9条を改正するか、それとも「現実の防衛体制をできる限り第9条に合致させるべき」かだった。
矢部は会長の高柳賢三(英米法学者)とともに、第9条の改正に限らず、改憲に慎重な姿勢を示す。 「理論的な潔癖さから、現行憲法の規定の欠陥を指摘し、解釈の統一を期するために条文を改正すべきであるとする見解には賛成しえない」
さらに矢部は報告書を提出する直前に講演で、改憲勢力が国会で3分の2を占めたとしても、「憲法改正などということはなかなかできるものではないと思います」と述べている。 矢部は強調する。「国民のなかから盛り上がる要求があって、初めて改正というようなことができるものだ」
以上のような 改憲論から出発して改憲慎重論に至る矢部の思索の軌跡 は、今日の私たちに問いかける。 「国民のなかから盛り上がる要求」があるのか。
ウクライナ危機が続き、台湾有事の可能性も無視できない。このような国際情勢下であっても、「国民のなかから盛り上がる要求」がなければ、憲法改正は時期尚早である。
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