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恥ずかしながら、筆者は映画を見るまでスミスのことをよく知っていたわけではない。しかしながら、映画を見ることで、多くのことを考えさせられた。
著名な写真家でありながら、芸術家としての行きづまりや身体の不調(その原因は激しい沖縄戦での取材にあった)に苦しむユージンと、年齢の離れた妻であり、日米のはざまで自身の進むべき道を模索するアイリーンが協力して、写真集「MINAMATA」を共に出版し、世界に水俣病の実態を知らせる過程を描いた映画は感動的である。
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ただし、映画は決して過去のことだけを描いているわけではない。エンドロールでは、水俣病の健康被害を訴える人とその認定問題が今も続いており、病気に苦しむ患者の救済が終わっていないこと、さらに世界各地で、同様の汚染物による被害が今もなお続いていることが告発される。 問題はまさに現在進行中であることを痛感させられた。
チッソ社長(劇中ではノジマ・ジユンイチ)の描き方も印象的であった。チッソは病気の原因が同社の排出する有機水銀ではないかという指摘を認めることなく、むしろ隠蔽し、水俣病の公式確認から国による原因の認定まで長い時間が経過した。その後も巨額の賠償を恐れ、会社は患者らの要求に向き合うことなく、救済は大幅に遅れた。この会社の責任者が心の中で何を思っていたのか、映画はいろいろと想像させる。
水俣病の責任は一会社だけのものではない。国や県は被害の発生と拡大を防止しなかった行政責任を問われるばかりでなく、そもそも日本列島の工業化を推し進める中で事実上、企業と一体化して環境破壊を推進したことが深刻である。その意味で、水俣病はこの国の近代化や産業化のひずみの産物であり、その結果を罪なき人々が袒わされている現実を改めて確認しなければならない。
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映画を見た後、石井妙子さんのノンフィクション「魂を撮ろう」を読んだ。スミス夫妻の生い立ちと合わせ、さらに長い射程で水俣の問題を論じる著作だが、その中にユージン・スミスの印象的な言葉があった。「ジャーナリストが目指すべきことは、客観的であろうとするのではなく、自分の主観に責任を持つことだ」。自らの誠意や信念、責任感や物の見方に基づき、ジャーナリストは自ら決断し、責任を持たねばならないという。
フェイクニュースを含め、虚実の定かでない雑多な言葉や情報が世にあふれる今日、あくまで「清廉潔白」と「正直で公正であること」を信じて戦った2人の生きざまが心に残る。安易に「客観的」という言葉に逃げてはならない。社会のひずみに苦しむ人々と共に暮らし、その姿を伝え続けた写真家の物語は、現代に生きる私たち一人ひとりの覚悟を促しているように思えてならない。
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