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松島へ。計画ではとっくに梅雨が明けているはずだったのに、雨が降りやまない。あざやかな色のパラソルをひらいたホテルのプールにも、かもめが一羽浮かんでいるきり、お客さんはいない。わたしにきれいな海を見せようと、テラスのついた部屋を予約してくれたくまは、空を見上げてはため息をついている。でも、白くて霧のかかったさみしい海が、わたしは案外好きなのだ。霧のむこうをゆっくり動いてゆく光、あれは船? それとも燈台の灯りだろうか。上野に鳩、奈良に鹿がいるように、松島にはかもめがたくさんいる。テラスの屋根をかすめて、大きなかもめが飛んでゆく。窓をあけたら、ばさばさと羽ばたく音まで聞こえた。あまり期待せずに出かけたガラスの美術館が、思いのほかいい場所だった。飾られているのは、おもに藤田喬平という作家の作品。ヴェネツィアふうの花器や、和ふうの飾り箱。ガラスのぶどうに、ガラスの睡蓮。時間を忘れてうっとりと見入る。館内は掃除が行きとどき、広さが十分にある。照明は明るすぎず、お客さんもあまり多くない。何より、ひとつひとつの作品が、大切に扱われているのが気に入った。海に面した展望室では、きれいなガラスの器で水出しのお茶ものませてくれる。晴れた日に松島を訪れたら、きっとまた来よう。円通院というお寺の庭が、とてもよかった。こじんまりして、よく手入れがされていて。あじさいの花びらに雨つぶがついて、宝石みたい。くまと知り合って4年、結婚してもうすぐ2年、ふたりでいろんな景色を見た。最初のうちは、なんでも言葉にして伝えないと不安だったけど、景色を見て心にわき起こる気持ちを何もかも共有する必要はないのだ、と最近は思うようになった。ただ、だまって並んで同じ景色を見ることが、何十枚写真を撮って言葉を尽くすより、ずっと後まで心に残ってゆくことはたしかにある。たっぷり温泉に入って、海の幸をたらふく食べて、充電完了!明日からまた、日々の暮らしを照らす小さな燈台守の仕事に戻るのです。守るべき場所をもつことの幸せよ。
2009.07.31
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くまの仲間たちを招待して、お好み焼きパーティをひらく。最近、大きなホットプレートを手に入れたので、そのお披露目をかねて。前回の反省を踏まえた本日のお品書き。・お好み焼き(シーフードと豚肉たっぷり。長いも入り。キャベツ1キロ刻みました)・焼きそば(6玉+野菜どっさり)・鶏のから揚げ(1.2キロぶん)・マカロニサラダ(タッパー6個ぶん)・おにぎり(お米3合ぶん)・トマトサラダ(刻みゆで卵と玉ねぎのみじん切りのっけ)・きゅうりとキムチ、焼き海苔を和えたもの・チョコレートケーキワンホールこのほかに、若ぐまの奥さんが差し入れてくれた餃子が30個くらい。「さあ、食いきれるものなら食い切ってみろ!」と啖呵をきる我が家のくま。それはなんだか主旨が変わっているような気が…宴会が始まってしばらくはほとんど会話もなく、もくもくと食べつづける若ぐまたち。ふふ。どんどんお食べ。冷蔵庫にはまだマカロニのコンテナが3つ残っているし、手付かずの焼きそばもある。おにぎりも涼しい場所で出番を待っている。デザートにはずっしりしたケーキもあるのよ…と勝利を確信しながら去年の梅酒を飲みほすわたし。今回は食べものが足りているし、お好み焼きはくまがテーブルで焼いてくれるから、わたしも安心して会話に参加できる。今夜のお客さんは、くまを家族のように思ってくれる人ばかりなので、わたしにとっても気安い。楽しくて、つい飲みすぎてしまう。こうやって気の置けない人たちと騒ぐのが、わたしは昔から好き。それを知っていて、くまが自分の領域にわたしを巻き込んでくれるのも、だからけっこう嬉しい。新しいホットプレートには一度に30個焼けるたこ焼きプレートもついているので、次はたこ焼きパーティを開催する予定。ホットプレートは、ホームパーティの心づよい味方なのです。
2009.07.29
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くまが春から取り組んでいた仕事が一段落して、ちょっと気の早い夏休みモードのわが家。連休は、ひさしぶりにくまの実家へ帰省してきました。陽あたりのいい居間で読書などしていると、お父さんとくまがいる田んぼの方から、草刈り機のぶーんという音が聞こえてくる。涼しい風にさそわれて外へ出ると、麦わらぼうしをかぶったお母さんが畑の草むしりをしている。息を吸い込めば、刈りたての草の青い匂い。たっぷり汗をかいた男性陣に便乗して、わたしも昼間からビールをのみ、みんなと一緒に昼寝。ああ、夏休みだなあ。 *念願の光原社には、くまと、くま母さんと三人で出かける。光原社は、宮澤賢治生前唯一の童話集「注文の多い料理店」を発刊した会社。盛岡駅の近く、材木町の一角にいくつかの店舗があって、南部鉄器や柳宗理デザインの食器が販売されているほか、芹沢けい介の染色作品、棟方志功の版画なども見ることができます。お目当てのくるみクッキー(ものすごくおいしい!)や、鳥取の因州和紙でできた便箋と封筒などを買い、喫茶店「可否館」でお茶をのむ。窓の外、しっとりと降る雨を見ながら、ていねいに淹れてもらったコーヒーをいただく。時間が止まったような、すてきな空間。大きなアイスクリームに、濃いめに淹れたコーヒーを回しかけたデザートがとてもおいしかった。 *ゆっくり三泊して、ひさしぶりに帰ってきたわが家はなんだか新鮮。台所に立つのも楽しくて、いつもより時間をかけてパン生地をこねたり、産直で買った摘みたてブルーベリーをジャムにしたりする。家事をはなれてふだんと違う時間を過ごすことは、当たり前の日常を光らせる。残りの夏休みも、めいっぱい楽しもう。
2009.07.22
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メイ・サートン「独り居の日記」を読む。メイ・サートン(1912-1995)はベルギーに生まれ、アメリカで生涯を過ごした詩人、小説家、随筆家。心に残るのは、たとえばこんな一節。「何もしない日がどんなに重要であり、日記の数行も書かず、何も産み出すことを期待しないことが時時どんなに大切であるかを、私は忘れがちである。(中略)精神(サイキ)に対して私たちのできるもっとも貴重なことは、時折り、それを休ませてやり、遊ばせてやり、光の変化する部屋の中に生かしてやり、何かであろうとつとめることも、何かをしようとも、いっさいしないことだ」「自己表現に巧みなほど、言葉はより危険になる。真実を伝えるためには、できるだけ正確で慎重でなくてはならない」(「独り居の日記」より) *駅舎に併設された小さな図書館の片隅で、彼女の円熟期の日記「海辺の家」を初めて手にとった日のことは忘れない。外は小雨が降っていて、わたしは砂漠に不時着したパイロットが水を欲するような切実さで、創造と孤独についての言葉を必要としていた。「わが身を縛る、つまりコミットするというよほど大きなリスクをとることなしに、われわれはどうして根を見いだすことを希望できるだろう。見た目には冒険的にも危険にも見えるかもしれない、漂い浮かぶ根無し草の生活よりも、はるかにリスクの大きなコミットメントなしに。愛にしても、仕事にしても、宗教にしても、それに身を捧げると誓って飛び込むということには、根無し草でいるより大きな勇気が要求される」「孤独は長くつづいた愛のように、時とともに深まり、たとえ、私の創造する力が衰えたときでも、私を裏切ることはないだろう。なぜなら、孤独に向かって生きていくということは、終局に向かって生きていく一つの道なのだから」(「海辺の家」より) *メイ・サートンの日記には、求めていた言葉のほとんどすべてがあった。書くこと。暮らすこと。女であること。ひとりであること。ふたりであること。あまりの豊かさに、一度めはむさぼるように読み通してしまい、二度めからようやく、落ち着いて言葉を味わえるようになった。以来、何度となく借り出しているが、読みすすめるほどに味わいぶかく、読み返すごとに新しい発見がある。生涯の友人に引き合わせてくれた、この町の小さな図書館に感謝。※メイ・サートンの日記と著作に関しては、こちらに詳しい案内があります。「海辺の家」は絶版のようです。古書店や図書館でお探しください。
2009.07.08
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戦う主婦(主夫)を勇気づけることば。夕食の支度が憂うつな午後に料理をしている自分のことを想像してみて、もしも嫌いだなと思ったら、そういう時はべつに料理なんかすることはありません。(高山なおみ「高山なおみの料理」)片付けても片付けても散らかる部屋にため息が出る夕方に人間の必要とするものに真の避難と養育の場を与えるためには、家は見せびらかす必要はない、ただ住み込めばよい。そしてそれには、生活を強化させるための能率がさほど重要なわけではない。テーブルに坐った猫とか、花の咲いた球根の鉢あるいは散らばった本でよい。(メイ・サートン「独り居の日記」)自分の仕事の価値について、ふと考え込んでしまった夜にイスタがいる限り、ガルヴァマンドがお客さまを粗略に扱い、ご先祖様の名誉を汚すようなことはありえない。イスタの心意気は、家事についてわたしが言いたかったことと重なっている。つまり、これが大切なことでないなら、大切なことなんてありはしない、こういうことをちゃんとやらなかったら、ちゃんと生きるなんてできっこない、ということだ。(ル=グウィン「ヴォイス 西のはての年代記2」)
2009.07.01
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