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ここ数日はおだやかな天気がつづいて、積もった雪もすっかり融けてしまいました。冬休みに入ったくまとふたり、ここぞとばかり近所を走りまわっています。ふだん、ひとりのときは30分弱の決まったコースを走るのだけど、くまと一緒なので、行ったことのない道へ連れて行ってもらう。見おぼえのない景色が新鮮で、あたりをきょろきょろ見回しているうち、気づいたら1時間くらい走りつづけていた。2年前は、20分で息が上がって地面に座りこんでいたのに、いつの間にか、ずいぶん体力がついたんだな。疲れてきたら、下っ腹にぐっと集中して、おへそのあたりで走る感じにすると、体幹がぶれずに長く走れるみたい。調子に乗って「ホノルル、行けるかな?」とくまコーチに聞いてみたら、「フルマラソンを走るにはハーフマラソンを完走しなくちゃならないし、ハーフを走るには10キロを、10キロを走るには5キロの大会に出てみなければね」とのお答え。走る人への道のりは長くけわしいのでした。(楽天では売り切れのようですが、Amazonのマーケットプレイスで扱いがありました)ギーゼラ・プロイショフ「木の癒し」を読んでいる。図書館で借り出して読み返すのは、もう何度めかわからない。木と人間のかかわりについて記された第一章から順に読むのもいいし、ブナやリンゴ、モミにニレなど32種の木を、伝説・生態・薬効などさまざまな視点から紹介した第二章を、好きなページからめくるのも楽しい。ケルト人のツリーサークルに基づいて、自分の誕生日にあてはまる守護樹を見つけ、その樹について詳しく知るのも心おどる経験だ。さまざまな樹のたたずまいに思いをはせていると、それだけで気持ちがふわりと軽くなる。樹のことを想っている胸のあたりから、あたたかな安らぎがこんこんと湧いてくる。ヒトが地上にあらわれるはるか昔から、木は大地に根を張り、空を抱いて、地球とともに生きつづけてきた。木にはそれぞれの意思があり、個性があり、日常的に会話もおこなっている。人間が使っているものさしは、木のそれと比べてごく短いから、人がそのことに気づかないだけだけだ。人間の身体の構造は、木の構造と非常によく似ている、という部分を読んでいて、「人はかつて樹だった」という詩集があったのを思い出す。あの題名は比ゆだと思い込んでいたけれど、「木の癒し」を読んでいると、なるほど人はかつて樹だったのだろう、と自然に思えてくる。自分を、一本の木だと考える。あるいは自分の中に、一本の木を置いてみる。そうすると、身体や心にもうひとつの時間軸が生まれて、それがいつもぶれない自分の中心、何ものにも侵されない神聖な場所になってゆくような気がする。 *自由とは、どこかへ立ち去ることではない。考えぶかくここに生きることが、自由だ。樹のように、空と土のあいだで。「空と土のあいだで」より(長田弘『人はかつて樹だった』みすず書房)2009年も、のこすところあと1日。みなさまどうか、よいお年をお迎えください。
2009.12.30
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Merry Christmas!いつもお世話になっている皆さまに、心からの感謝と祝福を。今夜、すべての人に、心おだやかであたたかな時間がありますように。あなたと、あなたの愛する人が、笑顔で過ごせますように。わが家では今夜、シーフードピザとチキンを焼き、ポテトサラダをクリスマスリースの形にして、ブッシュ・ド・ノエルを作る予定です。(ロールケーキの生地は、きのうくまが一生けんめい泡立ててくれました)さあ、楽しいクリスマス!腕まくりしてがんばるぞ!そうそう、毎年恒例、NORADのサンタ追跡はこちら。ルドルフ(トナカイ)の赤鼻から放出される赤外線信号を人工衛星でキャッチして、サンタの位置がわかるんだって。
2009.12.24
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いよいよ、本格的に雪が降りはじめました。(写真は裏山のようすです)積もった雪のゆるむ頃合いを見はからって、雪かきに出発。友達が贈ってくれた毛糸の帽子にダウンコート、長靴の下にはスキー用のズボンを仕込んで、濡れてもいいように、スキー用の手袋をはめる。雪かき用の大きなスコップで、雪に埋もれたわが老車を掘り出すこと、40分。かいたそばからうっすら積もりはじめる雪に白いため息をつきながら、雪まみれの汗だくで凱旋。当分ジョギングはおあずけだけど、こりゃあ絶好の有酸素運動になりそうだな。とほ。翌朝以降、両肩から前腕、背中全体をおそうひどい筋肉痛も、もはや冬の風物詩。苦労のかいあって、懸案だったクリスマスの買い物も何とか済ませることができた。あとはショウガ入りココアでもつくって、あたたかい部屋の中から、どさどさ降り積もる雪を見守ろうと思います。明日の雪かきのことは、明日まで忘れることにしよう!梨木香歩「からくりからくさ」を読む。何も知らずにたまたま続けて読んだのですが、「りかさん」の続編なのですね、この物語は。「りかさん」は図書館の児童書棚にあったけれど、「からくりからくさ」は大人むけ小説コーナーに並んでいました。「りかさん」で提示された世界観が、さらに濃密に、掘り下げて描かれる。いつもならここで、「からくりからくさ」はこんな設定の、こんなあらすじの小説で…と感想文を書き起こすのですが、あまりに重層的な物語で、いったい何から書けばいいのか、途方にくれてしまう。ああ、そうだ。「りかさん」というのは、お人形の名前です。主人公のひとりである蓉子が、幼い日の誕生日におばあさんから贈られた市松人形。持ちぬし(という言い方はたぶん正しくないが、わかりやすさのためにあえて)の少女と、心を通じることができる。と書くと、反射的に「こわい」と感じる方がいるかもしれない。でもね、りかさんはこわくない。お人形遊びをしたことのある女の子(や男の子)なら、なつかしくて少し切ない、やさしい気持ちになれると思う。「りかさん」にはこわい場面も出てくるけれど、それは人形が持つこわさじゃなく、人の心の闇のおそろしさ。人形というものは、大切に思った経験が濃密であればあるほど、可愛らしさと同時に、少しこわいものだと思う。梨木香歩は、そのこわさに背を向けるのでも、申し訳程度に表面をなでるのでも、こわさをクローズアップしてホラーの方に行くのでもない。誠実に、冷静に、愛を持ってこわさの中心へ入っていき、こわさの核を抱きしめて、自分の一部にしてしまう。これだけ大きな物語の原石を前にしても、「自分の手には負えないかも」とひるむことなく、勇気と根気づよさをもって、コツコツと掘りすすんでいく。そして、この物語を通り抜けることで、読者もまた、漠然とした「こわさ」を自分の内に取り込むことができる。自分の一部になったとき、「こわさ」は既に消えているはず。それは昇華されて、読み手の魂の深みになる。そう、それで、「からくりからくさ」です。蓉子のおばあさんが亡くなって、大人になった蓉子がおばあさんの家にやってくる場面から、物語がはじまる。女子学生の下宿として使われることになったその家に、りかさんと蓉子を合わせて五人の女性が暮らすことになる。植物染料を使った染色の修業をしながら、管理人をつとめる蓉子。鍼灸の勉強のため、日本に来ているマーガレット。美大で機織を学んでいる与希子と紀久。おばあさんが手をかけて暮らした古い家に守られ、庭の植物に囲まれて、五人はおだやかな日々を紡いでいく。ある日、りかさんを手がけた人形師をめぐる、ひとつの謎が投げ込まれたことから、物語の歯車がゆっくりと動きはじめる…作者の頭の中をちょっとのぞき見る、という類の小説ではなく、一冊の中にひとつの世界が丸ごと収まっているので、読者も物語の扉を開けて、その中へ体ごと入り込むような、稀有な読書体験をすることができます。読みすすめるごとにどんどん深く入ってしまい、夜がふけてもやめられない。ときどき、どちらが自分の現実だったかわからなくなって、寝ている家人が息をしているのをたしかめに行っては、安心してまた続きを読む。物語の大きな流れと、細部の描写。どちらも魅力的で濃厚すぎて、とても一度に味わうことができない。一度目は夢中でストーリーを追いかけ、二度目でようやく、落ち着いてディテールを味わうことができた。染色と織物。人形と能面。唐草模様。蛇の神話と、メドゥーサ。蛾と繭。それらのモチーフを縦糸に、登場人物それぞれの生きかたを横糸にして、カラフルで濃密な物語が織られてゆく。著者一流の繊細な心理描写と、たしかな知識に裏打ちされたリアリティが、全編にしっかりと張りめぐらされていて、最後の一行まで集中力がとぎれずに読める。ラストシーンには胸がつぶれるほどおどろいたけれど、二度目にゆっくり読み返したら、「ああ、これでいいんだな」と心から感じることができた。満ち足りた気持ちで、本を閉じる。内容について、そこから考えたことについて、いくつも、いくつでも話したいことがあるけれど、それはまだ「からくりからくさ」に出会っていない幸運な読者の楽しみを奪うことになるので、このあたりで筆を置こうと思います。女性であること、日常を生きること、それから書くことについても、この本から贈りものをたくさんもらったような気がする。わたしも自分にとっての機を、日々たゆまずに織ってゆこう。
2009.12.21
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雪が舞いはじめました。と言っても、冬の日本海特有の、たっぷり水をふくんだ大つぶの雪じゃなく、雪の子どもみたいな、小さくてあわあわした、はかない雪。根雪にならず、日が差してくると融けてしまう。2、3日前から曇り空がどんどん低くなってきて、そろそろかなあと予感はあったのだけれど。空が雪の重さを支えきれなくなって、とうとうつないだ手をはなしてしまった、という感じ。ジョギングで民家の前を通るたび石油ストーブのにおいがして、ああ冬がきたなあ、と思う。週末はくまの誕生日。今年はレアチーズケーキを作りました。ハチミツレモン風味のビスケット台とチーズ生地の間に、甘さひかえめに煮つめておいたブルーベリージャムをはさむ。くまは口の周りの毛皮をチーズだらけにして、夢中でがふがふ食べていた。家でつくるケーキの魅力は、けちけちせずに新鮮な材料をたっぷり使えること。それから、「おかわり自由」なところ。ばななさんの「ごはんのことばかり100話とちょっと」を読む。タイトルの通り、ばななさんが日々の暮らしの中で見つけたごはんにまつわるエピソードがたくさん詰まっていて、ページをめくるごとに元気が出る。「田舎の不便さとか、閉塞感とか、そうしたものをたったひとつおぎなうのは自然のすばらしさ」というくだりに深くうなずく。安くて新鮮な食材が身の回りにあふれていて、窓を開ければいつでも四季おりおりの美しい景色に出会え、水と空気がおいしくて、車で10分走れば300円で天然温泉に入れる…というシアワセの前では、欲しいものがすぐに買えないとか、おしゃれな喫茶店が少ないというようなことが、とても小さく思えるのです。最近の、「なんでもかんでもていねいにやる」風潮についての文章も、体の深いところに入ってきて、気持ちが軽くなるようだった。家事は、おもしろい。どこまでも奥が深いし、先輩の知恵を学ぶ愉しみもある。一見同じ作業のくり返しにみえても、一日として同じ日はなく、自分に返ってくる感動はつねにあたらしい。ひとつひとつの喜びは小さいが、確実に積み重なって、自分の土台石になる。気持ちの安定をかたちづくる。とはいえ、完璧をもとめるあまり、やりたいことをする時間がなくなり、いらいらして家族に八つ当たりするのは(少し前のわが家でときどき見られた光景です…)、何だかちょっとちがう気がする。何もかも手作りでナチュラルじゃなくても、便利なものは上手に利用しつつ、楽しめる範囲、見返りをもとめずにいられる範囲で気持ちをこめてやる、というのがいいんだろうな。何よりも大事なのは、自分と家族が幸せを感じて生きること。ほかにも、ばななさんのお姉さんのコロッケレシピ(24.5個分!)が紹介されていたり、日々のごはん支度と小説を書くことの共通点に「ほほう」とうなったり、盛りだくさんの内容で、どこから読みはじめてもおもしろいし、何度読み返しても飽きない。食いしん坊さん、料理好きさんにおすすめのエッセイ集です。
2009.12.17
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「くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである」とはじまる、川上弘美の小説「神様」(中公文庫)を再読する。わが家の主人もくまなので、いろいろと参考になる部分が多く、折に触れて読み返すのである。しみじみと読み返すうち、この律儀なくまは誰かに似ている、と思う。うちのくまではない。誰か、よく知っている人間に似ているような気がする。本棚を掃除していて、はたと気づく。なんのことはない、くまは「センセイの鞄」のセンセイに似ているのだ。川上弘美の小説では、いちばん好きなのが「センセイの鞄」で、二番めが「神様」である。それで、「センセイの鞄」も久しぶりに読み返すことにする。明日はくまの奥さんたちと冬眠前の会合があるので、刻んだくるみを混ぜ込んだブラウニーを焼きながら読みはじめる。数ページ読んだところで、この小説を、わたしは隅から隅まで、余すところなく、哀しくなるほど好きなのだった。と思い出す。さらに読んでゆくと、読書にのめり込んでいくとき特有の身ぶるいがする。全身の細胞が目をさまし、分子の振動が激しくなり、言葉の中に自分がめり込むような感じになる。ツキコさんになったつもり、サトルさんの店のカウンターでまぐろ納豆をつまみに一杯飲んでいるつもりで、小説の中をたゆたう。前に読んだとき、どの場面をいいと思ったか忘れてしまったが、今回は、島でセンセイとツキコさんが「海鳴りや蛸の身のほのかに紅し」と句を読む場面を繰り返し読んだ。ツキコさんとセンセイがディズニーランドに行くあたりで、オーブンから甘ったるいにおいが流れだしてくる。物語の主人公が、たとえば二十歳の若者よりはあの世に近い場所にいることを差し引いても、恋の絶頂は、内側に死の気配を孕んでいるように思えてならない。大まじめに、甘やかに、生のぬくもりと死のにおいの交わるところで息をひそめる。久しぶりに恋愛小説など読んだせいか、ブラウニーは甘くなりすぎてしまった。真夜中に、とろりと濃いコーヒーを淹れて、ひとり湯気と一緒にかじる。半分恋をしているような気持ちのまま、少しずつかじる。
2009.12.10
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しばらく休んでいたジョギング、また始めました。夏の暑さを理由にウォーキングがメインになり、そのまま何となく秋まで走らずにいたのを、「もう走らないの?」とくまに指摘されたのです。どき。「体にいいから」とか「気分がすっきりするよ」とすすめられてもいまひとつ気乗りしなかったのに、「いつか一緒にホノルルマラソンを走ろうよ」と言われて俄然やる気になるわたし。単純…師走に入ったというのに、平地はまだ一度もまともな雪が降っていない。温暖化は心配だけれど、走るのにはちょうどいい気候でありがたい。自分の内側に意識を向け、できるだけ集中して走る。同じ時間帯、同じコースでも、歩くときは意識が外へ広がって周囲への注意力が増すのに、走ると矢印が逆になるのはふしぎだ。集中の度合いは、車道を走る自動車の存在にどれくらい「引っぱられるか」ではかることができる。エンジン音や、巻き起こる風、排気なんかにのまれて気弱になりそうなときは、腹のあたりにぐっと力を入れる。猛スピードで持っていかれそうになる意識を、ぐいっとこちらに引っぱり返して、とことこ地道に走る。毎日、だいたい同じコースを走るので、「写真館の前で汗が出て、手袋をはずしたくなる」「あの角を曲がると、タオルを使いたくなる」「この一本道を走っているときがいちばん苦しい」などと、少し前からわかる。息苦しさや汗の感じで、その日の体調もおおよそ判断できる。最後の上り坂を越えたら、帽子とipodのイヤホンを外して呼吸をととのえ、裏山の神さまにお参りする。ストレッチをして、階段を駆け上がったらゴール。しばらく走っていなかったから、当分は体がきついだろうと思っていたが、三日も走ったら、体が感覚を思い出して楽になった。冬は夜明けも遅いので、お弁当を作ってくまを見送った後、どうしてもこたつにもぐりこみたくなる。そこをがまんして、「えいやっ!」と走りに出てしまうと、体もあたたまるし、気分が晴ればれして一日前向きな気持ちで過ごせるから、一石二鳥だ。本格的に雪が降るまで、また気持ちよく走りつづけようっと。
2009.12.04
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月が変わったので、小さなツリーを飾ってみました。リビングと台所を仕切るカーテンレールにも、クリスタルのオーナメントを吊るす。玄関には、ふわふわの雪結晶。さいきん、茶のみ友達ができて、女のひとが遊びにくることが増えたので、部屋の飾りつけが以前より楽しいのです。 *立派なかぶを手に入れたので、圧力鍋でポトフを作る。塩をしてラップに包み、冷蔵庫で5日ほど寝かせてあった豚かたまり肉をさっと水洗いして、鍋に入れる。水、酒、昆布、しょうがも加えて加圧10分。圧が下がったら、お肉を3センチ角に切って鍋に戻す。最初はかぶだけの予定だったが(だから最初のお出汁が和ふう)、思いついて冷蔵庫のにんじん、玉ねぎ、ソーセージ、セロリの茎とローリエ、粒こしょうとタイムを放り込む。ここでふたたび加圧10分。(しっかりしたお鍋なら、5分でじゅうぶんかもしれません)火を消して待っているあいだに白パンを発酵させ、ついでにお風呂にも入ってしまう。塩こしょうで味をととのえ、あつあつとろ~んとなったところを、たっぷりの粒マスタードで、焼きたてパンと共にいただく。たくさん作って何日か楽しむつもりが、予想外の大好評で、あっという間に鍋が空っぽに。スープだけ少し残っていたので、翌日ホールトマト缶とつぶしたにんにく、かたまりのベーコンと玉ねぎを足して煮こみ、お昼ごはんにしました。みそ味もためしてみたかったんだけど、それはまた次の楽しみだな。スープは時間がかかるけど、作りながら本を読んだりほかの仕事を片づけたりできる。冬の主婦の強い味方なのです。
2009.12.03
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干し終えたばかりの洗濯物を朝日に透かして見たら、セーターの肩のところからもわーと白い湯気が上がっていた。外気温はたぶん5度くらいしかないのに、太陽の力はすごい。朝日にかがやく湯気のつぶがあまりきれいで、しばし見とれる。佐藤初女さんの「こころ咲かせて」を読む。この本を読んでから、おにぎりを作るひとときが魔法の時間になった。お米がふっくら炊き上がったら、粗熱をとる。やさしくお茶碗に盛ったら、あまり水を使わず、手に塩をつけてしばらく待って、出てきた水分でリズムよくにぎる。熱いけれど、たなごころをきちんと使って、心をこめる。(書きながら思ったけど、「たなごころ」っていい言葉だなあ!)そうすると、外はしっかり、中はふわっと、ごはんつぶがこわれずに、塩気がちょうどよく、時間が経ってもおいしいおにぎりができる。何も言わず食卓に出してみる。いつもどおり無言でほおばったくま、ふしぎそうに食べかけのおにぎりを見つめて、「何か変えた?」だって。むふふ。魔法をかけたのよ。青菜を茹でるときは、鍋に入れたら目をはなさず、そばについている。じーっと見ていると、初女さんの言うとおり、青菜の色がぱっと鮮やかになる瞬間があるから、そこですばやく引き上げる。今まで、茹でた青菜は何でもかんでも冷水でしめていたけれど、この方法だと、ざるにとってそのまま冷ましてもあまり色が褪せず、和えものにするときなど水っぽくならない。歯ごたえと、野菜の香り、生命力がうしなわれずに、おいしくいただける。初女さんは1921年に青森県で生まれ、岩木山の麓で、「森のイスキア」という場所をひらいている。「イスキア」は、心が疲れた人がいつでも訪れて、初女さんが心と手間を込めたお食事をいただくことのできる、夢のような場所です。キリスト教徒でもある初女さんの言葉は、その食卓と同じように、心をこめてひとつずつていねいにつづられていて、読みすすめるごとに心が透明になるような浄化力がある。巻末におさめられた河合隼雄先生との対談も、大事なことが次から次へと惜しげもなく語られていて、しみじみといい。実は何年も前から、この本はわが家の書棚にあって、けれど長いあいだ手にとらずにいた。読み終えた今は、「もっと早く読んでおけば!」と思うけれど、わたしにとっては、今が初女さんの言葉に出会うタイミングだったのかもしれない。心をこめて料理をすることの楽しさ、大切さを忘れそうになっていると気づいたら、何度でも手にして読み返したい一冊。
2009.12.01
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