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―その3―病院の一室で、草太に見守られて沙織は目を覚ました。「あなた...。」ぼんやりと目を開いた沙織の手を草太がしっかりと握っている。「赤ちゃん、無事だったよ。」「あなた...?」「類子さんのお陰だ。あの時類子さんがいてくれなかったら...。」「あなた、赤ちゃんのこと...!」「聞いたよ。お喜久さんからも、先生からも。」「君と僕の子だ。」「えっ?」「あの日、ホテルで君を抱いたのは沢木さんじゃない。僕なんだ。」「...?!」何が何だか解らず混乱した様子の沙織をベッドに寝かせたまま、草太は上体を屈め、肩を抱いた。「確かに最初、あの部屋を訪れたのは沢木さんだ。けど、電話の後、部屋に戻ったのは沢木さんじゃない。暗闇の中、君を抱いたのは僕なんだ。」あまりの驚きに沙織は声も出なかった。「あの人がどんなつもりでそんなお膳立てをしようとしたのか...。仲直りのチャンスをくれたのかもしれないし、反対に君を陥れることになったかもしれない。結果次第では僕たちの間は破綻してたかもしれないが...。でも、そんなことはどうでもいい。とにかく赤ちゃんを授かったんだ。やり直そう。」沙織の涙が頬を伝った。「あなた...。」草太の肩に両腕を回すと、幸せをかみ締めるように呟いた。が、次の瞬間、沙織は草太を強引に押し戻した。驚く草太に、沙織は慙愧に堪えない面持ちで訴えた。「私...、類子さんに酷いことをしてしまった...。取り返しのつかない酷いことを...!」草太は真っ直ぐ槐のオフィスの社長室に向かった。「沢木さん...!」訪問を告げる内線電話を手にしたまま振り返る槐を前にして、部屋に入るや否やいきなり草太は土下座した。「槐さん、許してください...!!」一体何のことなのか見当もつかないまま、驚きの表情を隠せないでいる槐に向かって、草太は床に頭をすりつけたまま言葉を続けた。「あの茶会の数日後、類子さんの身に起こった出来事は沙織の差し金だったんです...!」草太の言葉が、声も出ない程の衝撃で、槐の脳天を打ちつけた。「許してください、槐さん...!何度手をついても足蹴にされても、償えないのはわかっています!けど、沙織にそんな卑劣な真似を...、汚い真似をさせたのは僕です!僕が彼女をあそこまで追い詰めたんです...!!」床についた草太の両手が握られ、ワナワナと震える。「...どうか沙織を許してやって下さい。沙織が僕と類子さんの過去を知ってしまった時、僕は彼女の苦しみに少しも気付いてやれなかった...!そればかりか、更に関係を重ねようと...。」草太は一度槐を見上げると、再び床にこすらんばかりに頭を降ろした。「事の発端は僕なんです!僕が類子さんを誘ったばっかりに、沙織にあるぬ誤解をさせてしまった...!僕の責任です。僕を気の済むまで殴ってください...!!」「草太!おまえ...!!」槐は左手で草太の襟元を掴んで上体を起き上がらせると、頬を向けた草太の顔面に向かって拳を振り上げた。が、寸でのところでとどめると、掴んでいた襟元を離し、草太を床へのめらせた。「出て行ってくれ...。頼む!出てってくれ...!!」草太から顔を背けると肩で喘ぎながら槐は叫んだ。かろうじてデスクの前まで歩むと、崩れるように椅子に腰掛けた。どさっと音をさせて頭から背もたれに寄りかかると、片手で顔を覆った。類子の身に起こった不幸が、自らの事業の失敗に端を発していると思うと、居た堪れなかった。自分の見通しの甘さ、ふがいなさが類子を辛い目にあわせたと思いが槐を苦しめた。「類子、許してくれ―。」槐は天を仰いだまま、目頭を押さえた。「済まない、俺のせいだ。」リビングの入り口に立ったまま、百香と遊んでいる類子の姿をじっと見つめながら、呟くように槐は言った。「何?どうしたの、やぶからぼうに」いつもより早くマンションに戻った槐に、類子は驚きながらも、笑顔で答えた。「ああ、きょうは夜から木工理建設の会長さんの喜寿祝いのパーティーだったわね。ごめんなさい、すぐ支度するわ。」優しく一言二言百香に言い聞かせると、類子はそそくさと準備に向かった。その場に立ち尽くしたまま、槐はぐっと目を閉じ、拳を握りしめた。―済まない、類子!心の中で槐は詫びた。タキシードに着替え、百香の相手をしてやっていた槐に、類子の準備を手伝っていたレイが声をかけた。「類子さんの支度ができたわよ。」顔を上げた槐の前にドレスアップした類子が立っていた。ベルベット地にモール刺繍やビーズのフリンジがあしらわれたソワレは、腰の部分からサテン地に切り替えられ、身体のラインに沿って流れて、類子の美しさを際立たせている。「さ、行ってらっしゃい。槐ったらあまりの美しさに声も出ないようね。」レイに茶化されても返す言葉がないくらい、槐は類子の美しさに今更ながらに呆然と見とれていた。会場に着くと、二人の姿は人々の視線を集めずにはいられなかった。美しい妻と、杖をつく美しい夫。槐は、会の主役と主催者に簡単な挨拶を済ますと、人々のさざめきから離れ、ひと気のないテラスに一人居た。この季節、わざわざこちらまで出向いてくる客はまずいなかった。時折、マイクを通したスピーチの声や、拍手の音が響いてくる。見上げると、街の明かりに照らされ決して暗くはならない都会の空にも、いくつかの冬の星座をかろうじて認めることができた。眺める槐の胸に、初めてゲストとして訪れた数年前の不破山荘でのパーティーが思い出される。 室内ではワルツの演奏が始まったようだった。一通り挨拶を終えた類子がシャンパンのグラスを二つ持って、テラスの方に向かってきた。類子の大きく開けられたデコルテは、クリスタルのシャンデリアのキラキラとした光に栄え、一層輝きを増している。類子がグラスを差し出した。「疲れた?」「いや。」二人は手摺りに寄りかかって並ぶと、シャンパンを口にした。会場内に目を移すと、招待客が思い思いに踊っている。泡が立ち上っては消えてゆく琥珀色のシャンパングラスの先に、人々の姿を漠然と追いながら槐は呟いた。「踊ろうか?」「え?」槐は類子と自分のグラスを側の小さなテーブルに置くと、テラスの手摺りに腰をもたれかけさせたまま、右手を類子の前に差し出した。類子は少し驚いたように槐を見上げたが、左手を差し出すと、その上に軽く重ねた。反対側の手を組み、類子を引き寄せると、槐は右手を類子の背に回して、曲に合わせて小幅にステップを踏んだ。「槐...。」一緒になってから、ダンスをしたのはこれが初めてだった。類子の結い上げられた髪からふわっとこぼれる後れ毛が槐の鼻先をかすめる。類子は槐にそっと身体を預けた。互いの息遣いが、胸の鼓動が、直に伝わるほど寄り添うと、目を伏せて音楽に身体を乗せた。類子もまた、山荘での一夜を思い出さずにはいられなかった。槐の肩に頬を寄せながら、一度は振り払った幸せに今は身を委ねている喜びをかみ締めずにはいられなかった。曲が終わると、類子は任せていた上体を起こした。組んでいた手をほどきかけると、槐がその手をとった。そして、手のひらに自分の唇を寄せ、押し当てた。槐のいとおしむかのような熱い口付けが、類子の身体の芯を奥底から疼かせる。「...あっ...」と思わず声を洩らしそうになって、類子は必死で耐えた。槐はそのまま、しばらく目を閉じて、唇を当て続けた。口許から離しても、その手をほどこうとはせず、じっと眺め、そして囁いた。「―傷は、もう...?」槐の視線が類子の手のひらから瞳に移された。類子は槐を見つめると、ゆっくりと口許をほころばせた。「―ええ、もう平気よ。どこにも傷なんて残ってやしないわ。」槐は類子の顔を凝視しながら、頬や額にかかる後れ毛を両手でそっと撫で上げた。「きれいだ。―きれいだ類子。ここに居る誰よりも。いや、世界中で一番...。」「何を言ってるの。」類子は少しはにかんだ様子で、目を細めた。「山荘に行かないか?」「えっ、パーティーは?」「たまにはすっぽかすのもいいさ。」「槐。」槐はいたずらっぽく目配せして類子を見下ろすと、その手をとった。 終わり
Mar 26, 2007

―その2―「お珍しい。あなたがお越し下さるとは...。用がありましたら、私の方から参りましたのに。」すっかり柳原開発の重役の顔が板についてきた草太は、オフィスの応接室の一つで槐を迎えた。「個人的な用件で申し訳ないんだが」促されて革張りのソファーに腰掛けると、槐は包みをテーブルの上に出した。「君の奥さんからことづかったよ。類子に渡してくれと。」「何なんです?」「忘れ物だそうだ。」包みを開けた草太もまた、一瞬動き止め、目を見張った。「が、類子はそんな忘れ物をした憶えはないと言う。」言葉を返せないでいる草太を、槐はじっと見守った。 「奥さんは、君と類子の仲を疑っている―。」「沢木さん...!」「説明してくれないか。どういうことなんだ?」槐は責めるのではなく、諭すように弁明を求めると、草太の言葉を待った。草太は槐を背にして窓際に立つと、外に向かって頭を下げた。「...、許してください。槐さん...。」真一文字に結ばれた草太の口から最初に漏れたのは謝罪の言葉だった。「あの日、柳原開発の茶会の日...、僕は類子さんに関係を迫りました。」槐は驚いたように顔を上げ、草太の背中を注視した。「でも、でも、それだけなんです。僕は...、あの人を抱けなかった...!」草太は肩を震わせ窓枠に手をついてうな垂れた。「僕はまりも興産の件であなたが資金繰りに困っていることを知っていた...。それで、銀行融資の保証人になることか柳原開発からの直接融資を引き換えに、類子さんに...!」槐の心臓が早鐘のように鳴った。「追い詰められた類子さんは決心して一旦は御自分で帯を解かれました。でも、僕は抱けなかった。あの人との思い出を自分で踏みにじるような卑劣な真似をしていることに気付いたんです...!」槐はぐっと震える拳を握り締めた。「わかった、草太...。」苦渋の表情でそれだけ言うと、納得したかのようにもうそれ以上類子のことで草太を問い詰めようとはしなかった。シンとした部屋に、時折草太の眼下を走行する車の音だけが響く。槐は足袋の包みに目をやりながら、もう類子のことには触れずに草太夫婦の問題に話を移した。「君たち夫婦の間がどうだろうと、知ったことではないが...。だが、こちらまで火の粉をかぶるのはごめんだ。」 「奥さんはかなり参っておられるようだが...。」「...。」「奥さんとの仲は続けたいと思っているんだろう?」「それは...、勿論です。別れるつもりはありません。けど...。」「仲直りしてもらわないと、俺も困る―。」その夜遅く、槐は沙織の待つホテルの部屋を訪れた。「待っていてくれたんですね。」「きっと来てくださると信じてましたわ。」ソファーに腰掛けると槐は沙織の手を取った。「辛い日々をお送りなんですね。」「沢木さんにお話をきいてもらってどれ程楽になったか...。」「沙織さん...。」沙織は目を閉じると、やや顎を突き出すようにして槐の方を向いた。手を握り合ったまま、槐は沙織の気持ちに呼応するかのように、そっと唇を重ねた。「私を...ふしだらな女とお思いにならないで下さいましね。忘れたいんです。辛いこと、何もかも...。」一度唇を離して、沙織は潤ませた目で槐を見つめて呟くと、その胸に体を預けた。槐は沙織の肩を抱くと、ベッドにいざない、優しく横たわらせた。見つめあい、優しくキスを交わす。「沢木さん...。」沙織の胸のボタンを一つずつ外しながらキスを繰り返す槐の背に沙織の腕が絡みついた。目を閉じて、沙織がささやく。「お願い、忘れさせて...。」槐の手が沙織の足を伝い、スカートのファスナーを下ろしにかかったとき―、テーブルの上に置かれていた槐の携帯電話のバイブレーターが着信を告げた。「失礼。」槐は電話をとると、カードキーをドア横のキーボックスから抜き取って、廊下に出た。暗闇の中に沙織は放置される格好となった。「済みません―。」大して時間を置かずにドアが開いて槐の声がした。カードキーをボックスに差し込まず、そのまま沙織の許まで来ると、真っ暗な中で沙織を掻き抱いた。草太と沙織の仲は相変わらずのまま、数週間が過ぎようとしていた。沙織は憔悴しきったような表情で日々を送っていたが、あの日以来、槐を呼び出すこともなかった。「若旦那さま...。」沙織を小さい頃から母親代わりのように慈しみ手塩にかけて育ててきたばあやのお喜久が、見るに見かねた表情で草太に声をかけた。「こんなことを私が申し上げるのは僭越かと存じますが...。」「お喜久さん。」「お嬢様は...若奥様は、若旦那様だけを愛していらっしゃいます。沙織様には若旦那様だけしかいらっしゃらないんです。」「わかってるよ、お喜久さん。」「どうか、沙織さまに優しくなさってあげて下さいませ。」草太はお喜久に軽く微笑みながら頷いた。いつもとは何か違うお喜久の執拗さを感じながらも行こうとする草太のスーツの袖を、お喜久の細い指が掴んだ。「お待ちください...!お嬢様の...月のものが、遅れています...。」「えっ...?」同じ頃、類子は沙織から、槐と密会したホテルの庭園に呼び出されていた。「沙織さん、どうなさったの。急にこんなところへ...。」「類子さん...。」どんよりとした寒空の下、沙織は類子を伴って少し庭園を歩いた。「私、赤ちゃんができましたの。」「まあ、それは...。」おめでとうと言いかけた類子の言葉を遮った。「沢木さんの子です。」「えっ?」二人は足を止めて対峙した。「沢木の...?」「そう、この子の父親は沢木さんです。私、二ヶ月前、ここのホテルの一室で沢木さんに抱かれましたの。間違いなく沢木さんの子です。」「ご主人は...。」「あの人とはそういう関係にありませんでしたもの。少なくともあのお茶会の日以降は。」「沙織さん...!」沙織から呼び出しの連絡があったとき、類子はそのことに触れられずいることは出来ないであろうと予感していた。槐が足袋を忘れ物だと託された日から、いつか沙織から茶会の日のことについて問い質される時がくると覚悟していた。沙織は必死の形相で類子に訴えかけた。「類子さん、私、あのお茶会の日、旅館の離れの間で何があったか知りたいんです!」「沙織さん...。」「...ごめんなさい、沙織さん。」類子は少しの間言いよどんでいたが、心を決めると何もかも正直に包み隠さず沙織に告げた。「私、沢木の会社のことしか考えていなかったわ。一番傷ついたのはあなただったのに。」「ご主人との関係は、わざわざ自分から言い出すことでもないから黙っていたけれど...。本当にあなた方には幸せになって欲しかったの。」「沙織さん...?」沙織は無言のまま、辛うじて立っている風だったが、二、三度前後に上体を揺らすと、そのまま芝生に倒れこんだ。「沙織さん?沙織さん!沙織さん!」真っ青な顔をして目を閉じ、類子の呼びかけにも応じない。沙織の白いコートの下の方にじんわりと赤い染みが広がって行く。「沙織さん!しっかりして!沙織さん!!」 ~後編~その3 へ続く
Mar 19, 2007

ーその1― ―それにしてもあの男たちは、だれ...?目的は、何...?恨み?不破じゃあるまいし、槐は誰かに恨まれるようなことをしているの...?翌日、東京のマンションに戻った類子は、すっかり自分を取り戻し、気丈に振る舞っていた。が、ふとした瞬間、心の片隅に追いやった筈の小さな胸の疼きが、類子の手を止めさせ、思いを巡らせる。―目的は、何だ...?書類を目にしていても字面だけを追っていることに気付いた槐は、諦めて書類を投げ出すと、デスクに肘をつき目の下で指を組んで考えを巡らせた。類子をマンションに送り届け、百香の安全を確認すると、その足でオフィスに向かい、会社にも何も起こってないことを確認した。―俺をおびき出すのが目的かとも思ったが...。類子に暴行を加えることだけが目的なら、ご丁寧に場所を知らせてきたりはしないだろう。まるで、見つけてくれと言わんばかりに...。俺に発見させるためか?類子の姿を見せつけるのが目的なのか...?「ちょっと出てくる。」自ら法務局へ向かい、事件のあったビルの土地と建物の登記簿謄本の写しを請求した。しばらくして窓口で渡された書類を目にして槐は驚いた。所有者の欄には柳原開発の子会社の名が記載されていた。―まさか、草太...?!「こちらですわ。およびだてして申し訳ありません。」そんな折も折、槐の許に、沙織から会いたいとの申し入れがあった。時間通りに行くと、ホテルのラウンジの奥まった席で、すでに沙織が待っていた。「突然のことで驚かれたでしょう。」「いえ、ご無沙汰しています。先だっては妻をご招待下さってありがとうございました。皆様、お元気そうで何よりです。」挨拶を済ませると、槐は沙織の向かいの席に腰掛けた。「それで、きょうは何か...?」「沢木さん...。」沙織は思いつめたような面持ちで、一度は槐を見つめたが、何も言い出せないまま、目を逸らした。うつむき加減で、外の景色に目をやりながら、「突然こんな話をするのは何なんですけど...。」言い難そうに口を開いた。「沢木さん...、ご存知でした...?奥様とうちの主人とのこと...。」「えっ...?」沙織は槐の方に向き直ると、訴えかけるような目で槐を見上げ、そして、意を決したかのように口を開いた。「奥様とうちの主人が今も深い関係にあるということを...!」「今も...、ですか?」「わたくし、知ってしまいましたの...。主人が、不破さんの生きてらっしゃるときから奥様とそういう関係にあったということを...。」沙織はハンカチを握り締めると更に続けた。「知ってしまったときはショックでしたわ。でも、結婚してからは会ってはいないと信じてたんです。類子さんも沢木さんとご結婚されてとてもお幸せそうでしたし...。」沙織は目からポロポロと大粒の涙を流すと、濡れたまなざしを槐に向け、唇を結んで震わせた。「柳原さん、ちょっと外へ出ませんか。」槐は目立たないよう庭に誘うと、ハンカチを口に当て嗚咽のとまらない沙織をかばうようにして歩調を合わせた。ひと気のない木立の陰で立ち止まると、「沢木さん...、私どうしたら...!」沙織は堰を切ったかのように、槐の胸に突っ伏し、泣きじゃくった。掛ける言葉が見つからず当惑気味に立ち尽くしている槐のことはお構いなしに、沙織は槐の胸に顔をうずめ、嗚咽を漏らし続ける。しばらくして沙織が落ち着きを取り戻すと、槐は近くのベンチに沙織を座らせた。「あの、お茶会の日...、主人と奥様は離れの一室で会ってたんです。」「しかし、それだけでは...。」「いだきあっているのを見たものがおりますわ。」「...。」「もう、私どうしたらいいのかわからなくて...。主人のことは信じたい。信じたいんです。でも...。」再び沙織は肩を震わせ、しばらくの間うつむいていた。涙で濡れた顔を上げると、沙織はぎゅっと下唇をかみ締め、上目遣いに槐を見つめた。「どうかしてるってお思いかもしれませんが、沢木さんの他に相談できる人がいなくって...。」潤んだ瞳が槐を捉える。「これからも相談に乗っていただけますか...?」「...私でお役に立てるなら。」槐の手が沙織の手をそっと包んだ。別れ際、沙織は思い出したかのように、包みを取り出した。「これ、奥様の忘れ物です。」「何なんです?」「足袋です。お渡し下さいますでしょうか。」「足袋...ですか...?」「また、お会い下さいますわね...。」夕食後、ダイニングの片付けを終えた類子の傍らで、槐はコーヒーを飲みながら話しかけた。「きょう、柳原の若奥様に会ったよ」「沙織さんに?」「茶会の時の忘れ物、渡してくれるよう頼まれた。」「―忘れ物?」類子が包みを広げると、出てきたのは真新しい足袋だった。「私、足袋なんて忘れないわ。それにこの前は野点だったし、履き替えることも...、!!」類子の、はっと何かに気付いたかのようなかすかな動揺を、槐は見逃さなかった。「この前の茶会、草太に会ったのか?」「この前...?この前は女性ばかりの集まりだったから。...でも、会ったわ。」「類子、思い出したくない話かもしれないが...。あの、例の廃業したホテルは柳原開発のグループ会社の所有物件だったよ。」「柳原開発...?まさか草太が...?草太があの一件に関わっているとでも...?」「何か心当たりでもあるのか?」「い、いえ...。」「こんな新品、忘れ物だなんて、柳原さんも何か勘違いされたんだろう。俺から返しておくよ。」槐は類子の手から足袋を受け取ると包みに戻した。―どうしたものか...。自室に戻りデスクの前に座ると、槐はいつものようにパソコンを起動させた。が、少しばかりキーボードをたたいたかと思うと、画面の先に視線を移して、漠とした面持ちで思案した。その数日後、同じホテルの庭園で、再び沙織と槐は会っていた。「試したんですか?私たちを...。」槐は厳しい眼差しを沙織に向けた。「類子は足袋なんか忘れていないと言っている。それにあの足袋はまだ新品だった。」「ごめんなさい、沢木さん。私、どうしてもあの二人が潔白だという証が欲しかったんです。それで、類子さんが弁明してくれたら、と思って...。」「弁明?足袋でですか?」「だれかが抱き合ってるのを見た、というのは嘘なんです。」沙織は槐から顔を背け、肩を震わせた。「私...、類子さんが部屋で着物を着直しているところを...、主人に足袋を履かせてもらっているのを見たんです...!」「あなたが?」「類子さんは何もおっしゃらなかったんですね?どうしてそんなことになっていたのか何も、何も...。」沙織はこうべを垂れ、槐に寄りかかってきた。「ああ、私、気が狂いそうなくらい、毎日辛くて辛くて...。」槐は暫くの間、優しく沙織の肩を抱いて撫でさすってやっていた。やがて、沙織は目に一杯涙を溜めて槐を見上げると、怯えるような表情で訴えた。「沢木さん、私を助けて...。」「柳原さん...。」「沙織って、呼んで下さい。今の私には頼れるのはあなただけ...。」槐は少し驚いた風だったが、沙織の目を見つめて言った。「沙織さん...、ホテルに部屋を取ってあります。今夜あなたさえよければ、もっと詳しくお話をお伺いしますが...。」「沢木さん...。」「待っていてくれますか?」手に部屋のカードキーを握らすと、沙織の口元が少し緩んだ。「腹いせに俺を落とそうというのか...?」一旦、沙織と別れると槐は草太のオフィスに向かった。 ~後編~その2 へ続く
Mar 9, 2007

誰もいない山荘に着くと、槐は灯りを点しながら抱えるようにして類子を二階に連れて行き、上着でくるんだままの類子をベッドの端に腰掛けさせると、部屋続きの浴室のバスタブにお湯を張った。「温まるんだ。」バスローブを用意して類子の側らに置くと、部屋を出た。槐の階下に降りていく足音だけが屋敷に響く。 脱力状態のまま動く気にもなれずしばらくぼうっとそのままでいた類子だったが、槐の上着をはずすと、のっそりと立ち上がり、浴室へ向かおうとした。服を脱ごうとして初めて、類子は自分の姿が目に入った。見上げると髪を乱し、化粧の剥げた自分の顔が窓に写りこむ。急に怒りと惨めさがこみあげてきて、身体をわななかせながら、破れたストッキングを、汚れたスカートを、ボタンのとれたブラウスを、キャミソールを、下着を、荒々しく脱ぎ捨てると、ゴミ箱に投げ入れ、押し込んだ。バスタブに浸かると、身体のあちこちがちりちりと痛む。今まで気付かなかったが、手足のあちこちや顔に、擦過傷や、青い打撲痕ができている。ところどころ関節が痛む。身体の内部にも心にも疼痛を感じずにはいられなかった。「生娘じゃあるまいし、あんなことぐらい...」そう思おうとした。「あんなことぐらい、平気だわ」「...でも、槐には見られたくなかった...」両手で顔を覆うと、さらに深くバスタブのなかに身を沈めた。じっと浸かっていると、先刻、自分の身に突然起きたあの忌まわしい出来事が甦ってくる。いくら振り払おうとしても振り払いきれない記憶。身体のあちこちに残る男たちの感触。洗っても洗ってもそれらの足跡を拭い去ることができなかった。類子はシャワーの下に立つと、バルブを全開して、針のようなしぶきを全身に浴び続けた。槐の用意してくれたバスローブをまとって浴室から出ると、槐が部屋に戻っていた。「飲むといい。」類子をベッドの隣の椅子に座らせると、両手で包み込むように、温めたワインのグラスを握らせた。「何か食べないと...、と言っても、ワインとクラッカーぐらいしかなかったが。」そう言いながら自分のグラスにもワインを注ぎ、ベッドの端に腰掛けた。類子が思いつめたように、ゆっくりと重い口を開く。「槐...、私ね、私きょう...、」「話さなくていい。」「男が二人...、」「言わなくていい...!」グラスを持ったまま、槐は類子に背を向けた。明々と灯されたシャンデリアの光と、山荘を覆う静寂さとが二人を包む。類子の掌のなかで、口をつけられないままワインが冷めてゆく。じっとグラスに注がれていた瞳から、涙が滲みでた。「くやしい...。」「くやしい、くやしい...!」つぶやきが怒りに変じて、類子の身体を突き上げる。グラスを投げつけると、そばにあった枕の縫い目を引き裂いた。中身の羽毛が一面に舞い上がる。さらに枕をベッドにたたきつけると大声で泣きながら突っ伏した。「許さない!あんな奴ら...!」「くやしいぃー!わあぁぁ...!」全身を波打たせ、類子の口からとめどなく激しい嗚咽がもらされる。槐は終始無言のままだった。「忘れろ」ともいわなければ、「大丈夫だ」とも言わなかった。責める言葉もなければ、いたわりやなぐさめの言葉もなかった。類子の肩に手をやるでもなく、抱き起こすでもなく、しばらく類子を見下ろしていた。 が、やがて衝動に突き動かされたかのように、グラスを置くと類子を引き寄せ、嗚咽のとまらない類子の口を自分の口で無理やり塞いだ。両手で類子の頬を挟み、強引に唇を貪る。嗚咽と口づけの激しさに息もできないでいる類子のことはお構いなしに、荒々しく舌をねじ込ませ、類子の舌に絡みつかせた。類子の後頭部は槐の左手で捕らえられ、類子があらがえば諍うほど、半乾きの髪が槐の長く美しい指にからみつく。 唇を離すことを許さないまま、槐は右手を類子の背に沿って滑り降ろした。バスローブの裾をたくし上げ、きょう類子が恥辱を受けたばかりの場所へ、後ろから指を這わせ、侵入させようとする。「いや...、槐、やめて...!」口を塞がれたまま類子は叫ぶ。が、更に強く吸い上げられ、声にはならない。「お願い、やめて!」そう叫びたかったが、槐の唇が許さない。顔を背け、こぶしを振り上げもがこうとしたが、槐は全身で抱え込んで、抵抗を許さなかった。 そのままベッドに倒れこみ、槐は類子の足を抱えると容赦なく一気に正面から押し入った。烈しく、何度も類子をさし貫く。類子には槐の気持ちが測りかねた。―優しくされれば却って辛かったかもしれない。でも、できればそっとしておいて欲しかった。せめて傷が癒えるまで一人にしておいて欲しかった―。 いつもなら求めてやまない槐の口づけも、身をとろけさせる様な愛撫も、今の類子には不快なものでしかなかった。あのような現場を目の当たりにした後でなお、自分を抱くという槐の仕打ちに、軽い嗜虐性のようなものすら感じられる。言葉では何も表現されない分、類子には身体で責められているようにも受け取られた。が、反面、汚されてしまった身体をこうして求めてくれることに、愛されている悦びが感じられないわけではない。 男の性への憎悪と嫌悪、屈辱と悔しさ、槐に対する申し訳なさと心の片隅に存在する嬉しさ...。様々な思いが複雑に交錯し、ないまぜになって混乱した類子の頭は、思考を停止し、そのうち、槐に抗うことを諦め、流されるまま槐を受け容れるようになっていった。やがて、類子の身体は槐の動きに応え、四肢を槐の身体にしがみつかせる。徐々にあえぎ声を高まらせ、身体の奥底から突き上げてくるものを表出するかのように、咽から間断なく細い叫び声を発し、上気させた顔に恍惚の表情を浮かび上がらせていった。「雨...?」夢うつつのなかで類子は雨の音をきいたような気がした。...が、それは隣室で槐が使っているシャワーの音だった。うとうとと眠ってしまっていたが、さっきから、まだ何十分も経っていない。類子はバスローブの前を合わすこともなく、ベッドに仰臥したまま、けだるそうに首だけ傾け、槐のシルエットを目で追った。部屋の照明は少し落とされ、浴室が明かりで煌々と照らされている。ぼんやりとした記憶のなかで、つい先刻行われた槐との営みが思い出される。 登りつめて果てた後、槐は、類子の手の平に擦り傷を認めると、この上なく優しく口づけた。手の甲にも、肘にも...、傷跡を認めるとひとつひとつ優しく丁寧に口づけてゆく。身体を起こして脛にも膝にも足の甲にもゆっくりと口づけると、最後に類子の頬の傷跡に口づけた。「槐...。」今さっきまでいた槐のぬくもりを求めて、類子はシーツに唇を寄せる。 バスローブを羽織って、槐が出てきた。飲みかけのワインを一口飲むと、類子が目を覚ましているのに気が付いた。「なんだ、起きてたのか。飲まないか?」類子は微かに笑みを浮かべて軽く頭を振った。槐は寛いだ姿で、ゆっくりとワインを空けた。 「来いよ。」槐は類子にドレッサーの前に来るよう促した。椅子に座らすと、後ろからそっと類子を抱きしめる。「見ろよ、きれいだ...」鏡に類子の姿を映して肩越しにささやく。「この瞳も...」「この唇も...、髪も、胸も...」槐の言葉が、ひとつひとつ類子の身体に烙印をおしてゆく。「この手も、この腕も...」頬を寄せたまま、両手で類子の肩を抱いて静かに立たせる。バスローブの前がはだけ、類子の身体のずっと下の方まで鏡の中に映りこんだ。「きれいだ、類子...。」後ろから、唇や顎先で類子の髪を掻き分け、かすかに触れるか触れないかの口づけを繰り返しながら耳元でそっと囁く。槐は類子の前で腕を交差させると、包み込むようにやわらかく抱きしめた。そのまま、類子のバスローブを肩から落とし、ゆっくりと類子の腕に沿って手を滑らせる。手首を掴むと鏡の前に手をつかせ、上体を少しのめらせた。「類子...、きれいだ、類子...。」類子の肩越しに、鏡に映る類子の表情を、身体を、愉しみながら、耳から首筋、肩にかけて唇を這わし、何度も何度も口づけた。その度、類子の身体を戦慄が駆け抜ける...。一度登りつめてまだそれほど経っていない類子の身体が、再び槐を受け容れるのはそう難しいことではなかった。槐は掴んだままの類子の両手首を後ろに引き寄せ、何歩か後ずさりすると、そのままベッドへ倒れこんだ。 後編へ続く
Mar 2, 2007
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