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昨日はわが町の「文化振興協議会」が開催されたので、出席。本年度最初の会議である。この協議会は市が主催するもので、メンバーは文化活動家、学識経験者、マスコミ、NPO団体の監査人、マスコミ関係者など16名。私も昨年からメンバーに参加。昨年参加した当初は「各ジャンルの主導権争い」と「市が建設したハコモノの運営の充実」という狭い範囲の議論でやや辟易していたが、この1年間で「文化行政から文化政策」へと考える対象範囲が広がり、同時に「将来のこの町が伸びていく為に文化芸術をいかにするか」というより広い視点の議論になってきた。わが市が策定して数年に一度見直しを行っている「基本構想」や「基本計画」へも反映させようという意見も出てきた。文化振興協議会を所轄している市の担当課としては、おそるおそるであるが、なんとか舵をきりつつある。私の任期はあと1年。とにかく期待が持てる状況まで作りだしたので、最大限の努力をしてみよう。成果が出るまでには時間はかかるが。
2004年06月30日
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イラク主権移譲が前倒しになった。ところで、「人道復興支援」とはどんな意味なのだろうか。この言葉は非常に判り難い。議論が起きて、混迷するのは、その「判り難さ」にあるのではないか。その最大の原因は定義が明確になされていないことにある。物事を決める、議論する場合は、そのことの定義が必要。しかも今回は国際的な課題である。「人道復興支援」を一般的に定義することも必要であるが、具体的な事例をあげて、それらが、すべての人に共通の認識を持つことができるかどうかである。例えば、「医療行為」という場合には、「病人の診察をする」、「怪我の治療をする」、「病人や怪我人のために薬を調合する」はそれに該当するであろう。「これまでにない病気への薬品の研究を行う」も含まれるかもしれない。しかし、病院への道路を舗装することは「医療行為」とは言わないであろう。そのように具体的な事例をあげて明確にしておくべきと思う。次の行為のうち、「イラクでの人道復興支援」にあてはまるのはどれでしょうか?A 戦火で破壊された校舎の建設や机・椅子などの製作・修理 を行う。B 子どもたちに授業を行う教師をつとめる。C 子どもたちの給食を作る。D 通学に困難な子どもたちを自宅から学校まで車で運ぶ。E 武装勢力から学校を守るために警備を行い、ときには 戦闘を行う。F 非常時に子どもたちを避難させるための護衛を行い、 ときには戦闘を行う。G 教師や生徒が誘拐された場合、その勢力に対して、奪回 する為に戦闘を行う。H 今後の非常時の為に生徒たちに銃器の操作や格闘技を 教える。みなさん、どう思われますか?私はAからDまでは「人道復興支援」として、みんなが共通認識を持つことができるのではないかと考えます。しかし、E以降はどうでしょうか?ここには戦闘行為の可能性があります。「非戦闘地域での活動」が原則であれば、このようなケースはありえないはずです。また、AからDまでも、イラクの人々に役に立つ、喜んでもらえるとなれば、これをやるのが自衛隊であるべきかどうかは検証の必要があります。何事も、その活動がなされる前提と定義は非常に重要です。
2004年06月29日
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「伝説と事実があるなら、伝説を事実にするのだ」これはジョン・フォードの62年の作品「リバディ・バランスを射った男」で述べられるセリフである。映画「ビッグ・フィッシュ」は、まさにこのことを述べた映画ではなかろうか。父親のホラ話に辟易する息子、しかし、葬儀にかけつけたのは、そのホラ話に登場する人々であったというオチは、文章に書くと平凡であるが、この映画の演出は素晴らしい。思わず涙が出そうになる。(いや、出たかも知れない)この映画では伝説が事実になったのであり、その息子もまた父親と同じく語り部になるのではなかろうか。映画はそれを暗示して終るが、それは単に映画という物語の終わりではなく、今後もまた多くの映画を作るティム・バートンの映画作家としての決意表明ではなかろうか。ジョン・フォードで始めたので、ジョン・フォードにもう一度登場してもらおう。「ビッグフィッシュ」のラストは「長い灰色の線」を思い出させた。この映画をご存知の方、いかがであろうか?NHK教育テレビで、映画と芝居が一体となった連鎖劇「奈落・歌舞伎座の怪人」(総指揮・中村勘九郎)が放映されたが、これがまた素晴らしい!オチはあえてここでは書かないが、これはおそらく歌舞伎役者の本音であろう。ビリー・ワイルダーの「悲愁」を思い出した。教えてくれたまっきいさん、ありがとうございました。「ビッグ・フィッシュ」と「奈落・歌舞伎座の怪人」には共通した思いがこめられているように思える。
2004年06月28日
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昨日もまた、日記へのアクセスが多かった。こういうとき続けるには、是非、みなさんに読んでもらいたい入魂の内容を書くのが定石でしょうが、はたして、今日の話題はいかがでしょうか?でも、タイトル(もちろん山本監督のもじりです)で思わず読みたくなるのでは?私の掲示板の書き込みで「以前はこうもりが出たらしい」映画館のお話がありました。映画館に「こうもり」というのは初めて聞きますが、経験上、映画館にはいろんなものが出てきます。見ている傍でねずみが疾走していったことがあります。猫がスクリーンの下を歩いていたことも。犬がうろついていた映画館もありました。ずっと以前、田舎の映画館で蝶々が飛んできたことも。のどかなものですね。また、幽霊と遭遇したという話も聞きました。こういうのは、まだいいのですが、映画館に登場するもののうち最悪は「痴漢」ですね。映画館からお客がひいていった原因のひとつが痴漢であることは間違いないでしょう。一時期、映画館にいるのはポルノ映画を見たい変態と痴漢だけだと揶揄されたこともあります。考えてみれば、映画館は、お客がお客に意図的に迷惑をかけることができる唯一の場所ですね。他にこのような場所はありません。さて、みなさん、痴漢撃退法はどうされていますか?私は以前に、「ふざけんな!このチカン!」とビンタをかませて憤然と席を立って出て行った女性を目撃したことがあります。このような勇敢な女性は少数派と思いますが、みなさん、痴漢に対してどう対処・対応されているのでしょうか?痴漢対策として「映画館にこういうことをして欲しい」ということがありましたら、是非、お聞かせ下さい。また、独自の方法などありましたら、紹介していただければ、みなさんに有益かと思います。ちなみに、私はもう何十年も毎週、それもあらゆる種類の映画館に通っていますが、一度も痴漢に遭遇したことはありません。(男性だから当然だって?男性でも結構被害にあっています)でもなあ、痴漢よ、ほんとにあんたはやめてくれよ!痴漢は映画館のお客とはみなさないし、例え、毎日来ても映画ファンとは思わない!退場!
2004年06月27日
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6月25日の日記へのアクセス数はなんと270でした。内容がタイムリーであったのでしょうか。私としてはトラックバックをかけている「茶色の朝」を是非、読んでいただきたいと思います。私の25日の日記は、映画「遠い夜明け」より、この「茶色の朝」に触発された言っても過言ではありません。さて、このテーマに従って今日も書いてみます。映画「ニュールンベルグ裁判」は1961年の作品。今、リバイバルして欲しいと熱望する作品のひとつである。スペンサー・トレイシー、バート・ランカスター、マレーネ・ディートリッヒ、リチャード・ウィドマーク、マキシミリアン・シェルなど豪華キャストである。裁判長はスペンサー・トレーシー。被告がバート・ランカスターで、彼の役はナチス時代にユダヤ人に判決を下した裁判官である。ランカスターは有罪の判決を受け、ラストで拘置所で裁判長に会う。被告は有罪を受け止めるが、裁判長に向かって「アウシュヴィッツの虐殺は知らなかった。これだけは信じて下さい」と言うが、それに対して裁判長は次のように答える。「あなたが初めて無実の者を有罪としたときに虐殺は始まったのです。」戦争が、虐殺が、ある日突然にやってくるわけではない。いかにしてそのようなものが始まるのかを示した秀逸な場面である。
2004年06月26日
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5月28日の日記に映画「遠い夜明け」と南アのアパルトヘイトについて書いたが、その映画を見たときにアパルトヘイトを支えていた法律について以前に調べたことがあるので、改めて書いてみたい。いずれも南アの国内法であり、長期にわたり、整備されてきたもの。1936年 原住民土地法 (全土の約90%の土地を白人が使用) 1950年 人口登録法(人種登録義務化) 集団地域法(人種別の居住地区指定)1953年 バンツー教育法(人種毎の異なる教育システム) 分離施設留保法 (諸施設の運用に関する人種分離)これら以外に 異人種間結婚を禁止した法律や「背徳法」とよばれる異人種間の性行為の禁止、そして、お定まりの共産党の非合法化を定めたものがある。さて、ここにあげた法律の名称を見てわかることであるが、どこにも「人種差別を進めよう」とか「原住民を弾圧しよう」を連想させるものはない。土地の管理や運用、それに住居や教育をそこに住む人にあったものになるようにしようと、いう感じのものばかりである。アパルトヘイトの国の、それを支える法律には、表面的には禍々しさは、ほとんどないのである。これと同じことは、わが国でも行われている。「国際貢献」、「人道復興支援」これらは自衛隊が海外に出ていく名目で使われて、今では多国籍軍への参加の根拠である。政府が「国際貢献」や「人道復興支援」を本気で考えていないことは、この間で起きたことを見れば明白である。ついでにいうと「個人情報保護」は、一般国民への利益より政治家のスキャンダル追求防止に寄与させようとしているし、「国民保護」は軍が自由に国土を利用できる名目である。国家が、「さあ、戦争をしよう」「あの領土を占領しよう」などと言って国民を戦争に駆り立てることなどないのである。「国際貢献」「人道支援」、「住民保護」が戦争開始に使われる最大の名目である。そして、それは多くの既成事実の上で、それとなく忍び寄ってくる。この日本で、それはもはや想像力を駆使するまでもなく明らかである。これを変えていくことは地道な発言と次の選挙で与党以外に投票することである。棄権などもってのほかである。
2004年06月25日
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友人や友情など不要、大事なことはロココ調の美の追求を信条とロリータファッションに身をつつむ自ら孤独を選んだ少女。そして、もう一方の、暴走族のファッションで、族の中で生きるヤンキーの少女。対照的な二人が、対立しつつも共に行動を共にする。本来なら、二人の性格の対比を伏線をはりながら演出していき、その性格の差でクライマックスを描くのが、この種のドラマの定石であるが、この映画の監督も主演二人もそのような力量はない。しかし、監督は己の力量と強さをきちんと認識している。ここでは二人の性格の差をドラマというよりスピーディな画面転換で描いていく。その狙いは成功していると思う。私は最後まで退屈することなく、楽しんで見ることができた。そして、この映画は、きちんとテーマを伝えている。そのテーマとは「伝説とは虚妄である」と「すべては個人が作る」今の日本に最も重要なテーマではないか。
2004年06月24日
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事業であれ、運動であれ、それに取り組むときに、最も大事なことは何であろうか?いろいろと考えられる。まず、資金が大事。その取り組みによって得られる利益その取り組みによって実現する夢や理想これらは非常の大事であり、これらの示し方によっては仲間も協力者も増えてくる。しかし、最も大事なことは 現状への危機感だと思う。このままではだめだ、このままではつぶれてしまうという危機感こそが何かを取り組むにあたり、最も強い原動力になると思う。これはビジネスにおいても、政治においても、市民運動においても同じであろう。このままでは日本の民主主義は破壊される。このままでは日本は法治国家なくなる。このままでは私たちは戦場に行って殺人者となる。次の選挙に臨むにあたっても、このような危機感こそが必要であろう。これらの危機は、今、そこにある。
2004年06月23日
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17日の日記で「アーサー・ペン」と「フランソワ・トリュフォー」を挙げたが、この二人は一見、対極にあるようで、案外と感性は近いのではないか。例えば、ヘレン・ケラーの少女時代を描いた「奇跡の人」と狼に育てられた少年を描いた「野生の少年」とには共通項がある。そして、その映画のもう一人の主人公イタール博士は、トリュフォーが俳優として出演した「未知との遭遇」の宇宙人との会話を試みる博士に通じるはず。アーサー・ペンもトリュフォーも、その映画の主人公たちは「自分たちの言葉」を見つけてさすらっている。
2004年06月22日
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岩打つ波が砕け散る東映マークで始まる映画といえば、男臭いアクション映画と決まっていたが、東映映画からそういう匂いが消えて何年になるであろうか。この状態は非常に不満である。韓国映画「シルミド」は、そうした不満を一掃させる久々の傑作である。「シルミド」は、東映配給作品なのである。そして、これはアメリカ映画なら、ロバート・アルドリッチ風の男の集団活劇であり、東映調でいうなら、「地獄島・殺しの軍団」とか「独裁者の首・殺しの軍団」というタイトルが相応しい内容である。そして、登場する俳優たちの顔つきが素晴らしい。ダイナミックでシャープな展開の中で、個性的で力強い顔が迫ってくる。「殺人の追憶」でも感じたが、韓国映画の強みは「俳優の顔」であろう。韓国では長く封印されてきた事実を、このようなダイナミックな娯楽映画に仕立てあげた力量が、これは韓国映画の力量であり、おそらく民度の高さであろう。これで日本は映画だけでなく、民度でも負けたということである。
2004年06月21日
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商店街を回って、その都度、名刺交換を行っているが、「Eメールアドレス」が記載してある名刺は半分以下なのである。つまり電子メールが業務において使用されていないということであろうか。商店街としての店長間の情報共有や連絡などは、相変わらず電話や回覧等によって行われているのであろうか。同じ地区内であれば、これはまだいいとしても取引のあるメーカーや商社との情報交換はどうなっているのだろうか。ITによる産業振興とか、IT立国とか、IT革命とは掛け声は華々しいが地方都市では、実態は、まだまだではなかろうか。他の地方都市ではどうなのであろうか。
2004年06月20日
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ごぶさたしておりました。日記を書くのは久し振りです。「疲労」と書いて、しばらく休止したので、いつも訪問される方々やリンクを張ってくださっている方々にはご心配をおかけして申し訳ありません。このささやかな地味な日記を待ってくださる方がおられるとは、非常に感激です。日記未記載中に書き込みやメールを下さった方々へ心よりお礼を申し上げます。実態は、疲労ではなく、多忙で、しばらく日記をお休みしておりましたが、下書きはしておりましたので、追いかけて記載していきます。9月18日から10月11日の約1ケ月間、8本のトリュフォー作品を上映する「フランソワ・トリュフォー映画祭」に向けて準備中である。今回は周辺の商店街を巻き込んで、映画館と周辺の商店街のエリアの賑わいと商店の売上を伸ばしていこうという狙いがある。映画館のお客を商店のお客へ、商店のお客を映画館のお客というそれぞれの流れを生み出そうというもの。商店街の意図としては、シネコンが入った大型商業ショッピングセンターのビルに対抗しようという意図もあるが、街の賑わいを生み出そうという意図とは合致している。このような動きは、わが町では初めてのことであり、みなが期待と不安の中というところ。そんな中、映画館の営業部長と私は毎日商店めぐりである。
2004年06月19日
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疲れております。しかし、やるべきことは多い。「赤目四十八瀧心中未遂」を見た。非常に疲れたというのが正直な感想。もともと疲労気味であったので、本来ならば「下妻物語」あたりにしておけば良かったのであるが、日程の都合でこの作品を選んだのが失敗であった。生きる目的と明日を捨てた一人の男が流れ着いた尼崎。そこで臓物捌きと串刺しで日々を送る。殺伐とした下町の風景が、そこに登場する異様な人物たちによって、たちまちこの世とは思えぬ光景に変貌する。男はやがて一人の女と出会い、やがて死への旅に。結果としては、題名通り「心中未遂」となるが、男は女からすべてを奪い去られる。一種の「悪女もの」と見ることもできる。昨年の日本映画においては非常に評価が高く、特に寺島しのぶも好演であるが、私はどうも好きになれない作品で、とにかく疲れた。その大きな理由は、主人公をはじめ登場人物に感情移入ができないことと、展開される風景に潤いがないこと。もちろん、その点は作品のねらいであることは判っており、体調にも原因があったのであるが・・・。とにかく疲れております。
2004年06月18日
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『俺たちに明日はない』 (1967/アメリカ) Bonnie and Clyde 『突然炎のごとく』 (1962/フランス) JULES et JIM どちらも好きなタイトルである。これらはタイトルだけではなく内容も非常に好きである。「血と暴力とセックス」に彩られたアメリカン・ニューシネマの先駆けとそのようなものから最も遠い恋愛映画の名手フランソワ・トリュフォーの代表作。一見して、対極にある2作品であるが、実は、奇妙な関係がある。「俺たちに明日はない」のシナリオは、もともとが映画ファンであったロバート・ベントンとデヴィッド・ニューマンが、トリュフォーの「ピアニストを撃て」と「突然炎のごとく」を見て、トリュフォーに撮ってもらいたく執筆したものである。実際にトリュフォーのところまで出向き、プレゼンを行ったそうであるが、当時のトリュフォーは「華氏451」を準備中でこの企画は実現できなかった。そこで盟友のゴダールを推薦され、ゴダールにも会うが、彼もまた撮影中の作品と重なってだめとなった。そして、いくつかの曲折を経て、ウォーレン・ビーティ主演・アーサー・ペン監督作品として世に出た。トリュフォーやゴダールの「俺たちに明日はない」が実現していたらと考えることはファンにとっては楽しい空想である。しかし、トリュフォーは「暗くなるまでこの恋を」で、ゴダールは「気狂いピエロ」でそれぞれ愛する二人の逃避行を描いているではないか。「突然炎のごとく」と「俺たちに明日はない」を軸にして、アメリカン・ニューシネマやゴダール、トリュフォー作品を見ると、きっと新しい発見があるのではないか。ロバート・ベントンの最新作は「白いカラス」である。
2004年06月17日
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さて、本日6月16日はジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」が扱った日である。しかも今年はちょうど100年という年である。「ユリシーズ」は映画化されたことがあり、見たのであるが、実はほとんど記憶に残っていない。同じジョイスの「ダブリン市民」からの「ザ・デッド」は非常に印象に残っているのであるが・・・・。ともかくジョイスのファンは、本日は特別な日として過ごすのであろうか。続いてオードリー・ヘプバーンについて書いてみる。「ローマの休日」や「シャレ-ド」から考えると「許されざる者」はヘプバーン映画としては異色であろうし、ファンとしても奇異に感じる作品であろう。確かにそうである。しかし、ヘプバーンという女優の作品系譜を考えると、そこには当然、デビュー期、試行錯誤期、定着期というものがあり、「許されざる者」は試行錯誤期の作品である。ヘプバーン映画が定着期に入ったのは、60年代に入ってからであろう。「ローマの休日」のウィリアム・ワイラーが再びヘプバーンを起用した「噂の二人」は、その境界点にある作品である。ヘプバーン映画が観客の話題となり、興行的にも成功した最後の作品は「暗くなるまで待って」で、これはアメリカン・ニューシネマがアメリカ映画の主流になろうとする時期でった。ヘプバーンが最も輝いた時代は、赤狩りのブラックリストが崩壊した時期からアメリカン・ニューシネマが定着するまでの時代であった。「暗くなるまで待って」がアメリカで公開されたとき、ソンミ村虐殺事件が起きていることは奇妙な暗合である。
2004年06月16日
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「許されざる者」というタイトルの映画は私が知っているだけで3本ある。そのうち二つはアメリカ映画で、どちらも西部劇である。まず、クリント・イーストウッド監督・主演で、イーストウッドの、というよりアメリカ映画史を飾る傑作の地位にある92年の作品。次は、オードリー・ヘプバーンの唯一の西部劇。ヘプバーンの作品はリバイバルの機会が多いのであるが、この作品だけは、その機会に恵まれていないが、つい最近、テレビ放映があった。ジョン・ヒューストン監督で、バート・ランカスター、リリアン・ギッシュ、それにオーディー・マーフィーが出演の59年の作品。原作者が「捜索者」のアラン・ルメイ。曲者ぞろいで一筋縄ではいかないようである。原題は、イーストウッド作品は「Unforgiven」ヘプバーン主演作は「The unforgiven」である。「The」の有無が、この2作品の差異をどのように表現しているのであろうか?私は、イーストウッド作品の方は大好きな作品のひとつであるが、ヘプバーン作品を見ていない。どなたか教えていただきたいのです。
2004年06月15日
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映画の日本語題名で好きなものを紹介したところ、エメラマリンさんがご自分の6月9日の日記「味のある映画題名」で原題もあわせて紹介してくださいました。ありがとうございます。『ミクロの決死圏』 (1966/アメリカ) Fantastic Voyage『俺たちに明日はない』 (1967/アメリカ) Bonnie and Clyde 『突然炎のごとく』 (1962/フランス) JULES et JIM 『終着駅』 (1953/アメリカ) Terminal Station 『空から赤いバラ』 (1967/アメリカ) Fathom 『唇からナイフ』 (1966/アメリカ) Modesty Blaise 『大いなる西部』 (1958/アメリカ) The Big Country 『真昼の決闘』 (1952/アメリカ) High Noon 『殺しのテクニック』 (1966/イタリア) Technica Di Un Dmicidio 『夕陽に向かって走れ』 (1969/アメリカ) Tell Them Willie Boy Is Here 『大人は判ってくれない』 (1959/フランス) Les Quatre Cents Coups 『ミツバチのささやき』 (1973/スペイン) El Espiritu de la Colmena 『少女の髪どめ』 (2001/ イラン) Baran これらの題名から判るように、言葉に出して言い易いこととひきつける要素があります。ひきつける要素とは、具体的には次のようなものです。・ドキドキさせるもの。・スケール感・スリル感・ある特殊なムードこのうち「ミクロの決死圏」ですが、エメラマリンさんのところの書き込みで、原題が「Fantastic Voyage(幻想的な航海)」であることにびっくりされていた方がおられましたが、そうかもしれません。「Fantastic」という言葉のニュアンスは英語と日本語ではかなり違いますが、「Voyage」は内容をずばりと表現しています。何しろミクロ化した医師団が潜航艇に乗って体内を航行して外部からの手術ができない箇所を内部から患部を削除しようというものですから。その前に「海底2万哩」という「潜水艦映画の傑作」を撮った職人リチャード・フライシャーを監督にあてたことは成功の要因であったと思います。このミクロ化には1時間という時間制限があることから、「ミクロの決死圏」という日本語タイトルは見事であったと思います。無駄な描写がなく、しかも特殊撮影とドラマが必然性をもって融合していた痛快娯楽作です。ミクロ化する医師団の一人にラクエル・ウェルチが扮していますが、彼女が医師に見えるかどうかは疑問すら起こさせない手際の良い演出です。(私は彼女がミクロ化するなら、体内に入って治療していただきたい!)「ミクロの決心圏」と同様に「唇からナイフ」もまた、美女のスパイをヒロインにしたという作品の特質を見事に表現していると思う。この映画は1966年公開であるが、今なら原題通り「モディスティ・ブレーズ」で公開されたであろう。オリジナルタイトルの「モデスティ・ブレーズ」より、「唇からナイフ」の方が見たいという気持ちをかきたててくれる。これもまた、映画の邦題のあり方の模範例だと思う。他の作品については、またいくつか。
2004年06月14日
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現在、映画館の入場割引サービスとしては、毎月1日が1000円で、毎週水曜日にはレディースディとして女性1000円である。他にも60歳以上のシニア料金がある。各地でも地域毎に独自のサービスがあるかもしれない。さて、全国的なサービスとして次が新たに実施される。------------------------------------------------------「映画館に行こう!」実行委員会が都内で発表。全国の映画館で7月から、夫婦のどちらかが50歳以上なら2人で2000円、というキャンペーンが始まる。割引を受けるには、窓口で運転免許証などを提示する。ただ、夫婦であることの証明は難しいため、自己申告に頼ることになりそうだ。 キャンペーンの狙いは、年間観客動員2億人達成だ。動員は96年の約1億2000万人を底に、ここ数年は好調傾向。03年は「踊る大捜査線 THE MOVIE2」などメガヒットもあり、1億6000万人を突破した。一気に攻勢をかけ、映画館に行く機会が少ない50代以上を取り込む。 実行委員会は、日本映画製作者連盟、全国興行生活衛生同業組合連合会、外国映画輸入配給協会、アメリカ映画協会の映画関連4団体で構成されている。製作、配給会社だけでなく、映画館サイドもガッチリ手を組んだ。来年6月末までの1年間限定だが、反響や動員数などによっては、続行も検討される。(日刊スポーツ記事より) ------------------------------------------------------今回のサービスのポイントは、映画館に行く機会が少ない50代を取り込むのが大きな狙いという。そこで50代という世代に限定して考えてみたい。料金が映画館離れをしているのは事実で、50代もその例外ではなかろう。しかし、この世代は映画よりはるかに金のかかるゴルフや酒飲みにはよく行くし、欲しいものには金に糸目をつけない(もちろん限度はあるが)という人も多いのも事実。50代が映画館離れを起こしている要因は入場料だけであろうか?このようなサービスを行うことだけで一気に攻勢をかけてこの世代を取り込むことができるであろうか?今後、高齢化する中で50代を取り込むことを考えることは必須であると思う。みなさん、いかがでしょうか?
2004年06月13日
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本日は映画と時事ネタの2本立て。まずは、「ロスト・イン・トランスレーション」。この映画は、カルチャーギャップについての考察というより異国におけるほのぼのとした心のふれあいドラマ、プチ・ロマンスというべきであろう。この映画から思い起こすのは「ローマの休日」であるが、考えてみれば、この「ローマの休日」は異国の地で異国人2人が出会うドラマにもかかわらず、そのカルチャーギャップがまったく描かれていないという不思議な映画である。それは当時、ヨーロッパに対してリーダー的立場にあったアメリカとしては当然のことであろう。さて、今日の新聞から話題をひろってみる。井上防災担当相が佐世保の事件に絡んで「元気な女性が多くなったのか」と述べた発言について「誤解を招いたことを遺憾に思い、発言を撤回する」と語ったと新聞記事にある。この言葉は非常に判りにくいし、理解できない。「誤解を招いた」とあるが、「『本来の意味』を、『誰が』どのように『誤解』した」というのか?彼の発言を解釈すると「誤解をした」のは、彼以外の人間であるということになる。つまり、こういうことではないか。「私の表現が不十分で、みなさんに誤解を与えてしまった。みなさんも私の発言を誤解している。これは非常に遺憾なことであり、あの発言は取り消すが、後日、別の表現で行う」少なくとも私はそう感じるが、みなさんはいかがでしょうか?要するに、「誤解したのはあなたがたで、私はちっとも悪くはないよ。」と、こういうことのようだ。うーむ、書いていて不愉快な気分。「キャシャーン」の悪口をもう一回書いた方が気持ち良かったかも。それにしても、同じ日本でも永田町語と日常語とののトランスレーションでは、普通の人は、迷子になってしまうぞ!
2004年06月12日
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「キューティーハニー」を見た。楽しめた!面白かった!先に見た「キャシャーン」と比較すると、やはり紀里谷和明はアマチュアで、庵野秀明はプロである。「キャシャーン」は、たっぷりと金をかけたようなシーンを作ったにもかかわらず、所詮はチンケでショボイ印象(成金御殿のようなもの)しか与えなかったことに対して、庵野は金をかけたかどうかというプロセスには全く気にしていない。結果がすべてだとばかりに楽しめる場面にしている。要は観客が楽しめるかどうかということである。「キャシャーン」では、一体何の為に出演したのかという有名俳優が多いのに対して、「キューティーハニー」では、適材適所。主人公が「何の為に戦うのか」という点も、「キャシャーン」では、くどいばかりの演説であったが、「キューティーハニー」では「愛の為よ」と単純明快。その上、ヒロインの無敵ぶりを強調していない点が大きな特長であった。上映時間も90分程度という娯楽映画としては理想的な長さに、お楽しみがつまっているおもちゃ箱、それがこの映画「キューティーハニー」である。さて、この映画の骨格はどこにあるかというと、これは「ローマの休日」である。落ちこぼれOL・如月ハニーがスーパー・ヒロイン=キューティー・ハニーであることがわかるかどうかという設定は、ローマ市内を一緒に歩き回る可愛いレディーがアン女王であることが周辺にわかるかどうかという設定と同じ。この設定がヒロインを身近なものにしている。ラストは「ローマの休日」が主人公たちの「信頼と友情」で終るように、「キューティーハニー」もまたヒロインをめぐる主要人物たちの信頼と友情により次のステージへと移る。そこに、悪を滅ぼした以上の爽快感がある。「ローマの休日」がヘプバーンの圧倒的な魅力で支えられていたように、「キューティーハニー」は、ヒロインを演じる佐藤江梨子の魅力なしでは考えられない。脱力系というのか、癒し系というのか、見ていてほのぼさせるキャラクターが見事である。脇にまわる市川実日子もいい。次の日本アカデミー賞の主演女優賞と助演女優賞は、この二人にやってくれ。あるいは、「チャーリーズ・エンジェル3」では、この2人がゲストスターに!とにかく面白い!オススメです!--------------------------6月11日付け「朝日新聞」の「キューティーハニー」評は賛同できます。みなさん、ご一読ください。
2004年06月11日
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昨日6月9日について。この日は、どんな日であったのか。「あの方々の結婚記念日ではないか」と言われそうだが、ここは深作欣ニファンとしては「華の乱」から、松田優作が演じた有島武郎が亡くなった日であると言っておこう。この作品は松田優作が出演した最後の日本映画であったと思う。翌年に「ブラック・レイン」で強烈な印象を示し、その公開中の訃報であった。名優・森雅之が有島武郎の長男であることは有名である。その血は中島葵という女優にひきつがれる。今となっては中島葵という女優は、あまり馴染みはないかも知れないが、遅咲きながら日活ロマンポルノで個性的な存在感を示した。しかし、彼女は1991年に若くして亡くなる。どことなく、不幸なイメージがつきまとう女優であった。
2004年06月10日
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最近、映画の題名が味気ない。「ロスト・イン・トランスレーション」「デイ・アフター・トゥモロー」「ロード・トゥ・パーテイション」「ロード・オブ・ザ・リング」「アイデンティティ」「ニューオリンズ・トライアル」「オーシャン・オブ・ファイアー」「ディボース・ショー」「コールド・マウンテン」「ドーン・オブ・ザ・デッド」「インファナル・アフェア」英語が日常的になったとはいえ、こんなカタカナ羅列では、一体どんな意味なのかさっぱり判らないというのが正直な気持ち。映画から味わうロマン、うるおい、スリルのようなものが全く伝わってこない。これでは単なる製品記号としか思えない。しかもこの傾向は一向に改まらない。やはり、思わず「観たい!」と思わせる題名、内容の情念が伝わってくるものが欲しい。製作年代を問わず、私の好きな題名をランダムにあげてみよう。「ミクロの決死圏」「俺たちに明日はない」「突然炎のごとく」「終着駅」「空から赤いバラ」「唇からナイフ」「大いなる西部」「真昼の決闘」「殺しのテクニック」「夕陽に向かって走れ」「大人は判ってくれない」「ミツバチのささやき」「少女の髪どめ」
2004年06月09日
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「バトル・ロワイアル」が話題になっている。正確に言うと槍玉にあがっている。小説も映画も。そして映画の場合は、「バトルロワイアル2・鎮魂歌」も対象となっている。こちらの新聞では加害者が「事件前に『バトルロワイアル2・鎮魂歌』を借り出していること」が大きく取り上げられ、あたかもこの作品が事件を生み出したような印象を与える記事になっている。見出しは「殺人映画」と大きい。原因を小説や映画に求める前にもっと考える課題はあるはずであるが、映画ファンとしてひとこと言っておきたい。私は、この映画や小説が事件と関係あるとは思わないが、小説に対しても、映画に対しても、いろいろな意見があっていいので、「この『バトルロワイアル』(小説・映画)は犯罪の原因となっている」という論の存在も認めよう。しかし、その場合は、それをきちんと論理的に論じてもらいたい。多くの場合は、この小説(映画)は「中学生42人が生き残りをかけて殺しあう」という点からの印象批評でしかない。しかし、私の6月4日の日記にある通りこの小説(映画)は「国家の命令により中学生42人が生き残りをかけて殺しあう」という内容であるので、きちんと小説(映画)を読んで(観て)批評をしてもらいたい。そこで賛否両論の議論が起きるのであれば、小説(映画)にとっても、またそれらを鑑賞した人々にとっても幸福である。しかし、その場合に、やっていけないことは「この小説(映画)を禁止にしよう」と権力側に働きかけることである。それだけは絶対にやってはいけない。映画の場合、映倫という業界団体の自主規制がギリギリのところである。小説にしろ、映画にしろ「毒」は必要であり、そのような「毒」の存在を許すべきである。
2004年06月08日
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2日間にわたって映画「キャシャーン」について書いた。それぞれ視点が違うのであるが、両方の視点から書いても、この映画は出来のいい映画ではなかった。評価としては、「おもしろい映画ではない、1500円の入場料に見合う映画ではない、人に薦められる映画ではない」というのが正直な感想で、現時点では変わらない。しかし、私にとっては、2日間にわたり、これだけのことを考えさせてくれてこれだけの文章を書くことができたので、それなりの価値はあったと思っている。周辺の人に薦めることはできないが、大変興味をかきたててくれた作品ではある。映画ファンとしての私のことを理解してくれる友人、あるいは映画とは何かを追求しようとしている人が相手であれば、これをきっかけにいろんなお話ができる。映画の評価としては大体において次のように区分できるのではないかと思っている。A:よく出来ており、テーマとしても共感できる。B:テーマとしては共感できないし、私の考え方と合わないが、 よく出来ている。C:出来はつまらないが、その原因や内容については一考の 価値あり。D:出来がつまらない上に、内容について考えるに値しない。E:本来は見るべきではなかった。私の世界の対象外。見た後の感想は、「良かった」か「つまらない」という色分けであるが、その背景にはいろんな考えが渦巻いている。だから映画は面白い。
2004年06月07日
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今日も「キャシャーン」について書こう。昨日、さんざん貶して、またか、と言われそうであるが、今回は別の視点で述べてみよう。紀里谷監督は、海外での活動経験もあり、また、従来のパターン化された人生を歩んでいるようでもなく、仕事自体も常に前衛にいることを求められるものである。そうした人が映画を作るとなると、完成度よりは、どれほど前衛的で、従来から飛躍したものが生まれるのかを期待するのは、当然である。では、この作家は、この最初の監督作品でいかなる新しいものを生み出したのだろうか、少しばかり検証してみよう。まず気付くことは、この「キャシャーン」を形成しているものが、何とも古臭いということである。親子の関係や国家観もそうであるが、この映画のコピー自体が、「キャシャーンがやらねば、誰がやる!」と、まるで体育会系のノリというか、任侠映画のノリである。「俺が行かねば、誰が行く!男、秀次郎、ドスを片手の殴りこみ!」というようなものである。よくよく考えてみれば、「親に授かった生命から新造生命のキャシャーンに生まれ変り」という点は「親からもらった大事な肌を墨で汚して」「任侠道の世界に入って堅気の世界に別れをつげて」という点と全く同じである。ストーリーそのものも、ベースは、かっての東映やくざ映画にありそうなものだ。一見して前衛的なビジュアル・アーチストの映画監督デビュー作が、これであることに、まず意外性を感じるが、それはそれでもいい。では、古臭い素材に、新しい才能が新たな生命を吹き込み、再生させたであろうか。また、異種の出会いによる、新たなものを生み出したであろうか。それらの対しては、「NO」と言わざるを得ない。この作品は、現代の戦争をなぞっている部分もあり、シナリオと演出によっては、現代を撃つ衝撃的な作品になったはず。それは実現できたであろうか。しかし、紀里谷監督は、映画を撮ること自体に喜びすぎたのか、映像の外観、つまり画面の構成、色調、キャメラアングルといったもののみに関心が向き、肝心の「何を述べるか」は、疎かになったのではなかろうか。もしかしたら、彼自身、製作途上でテーマの追求が不十分であり、内容の空疎さや映像が何も物語っていない点に気がついたのかも知れない。演説調のセリフや古臭い構成要素は、そうした破綻を糊塗する為に必要なものであったのではないか。それによってある種の観客には、それらしきキーワード満載のセリフが目くらましとなり、映画全体の破綻を気付かれないですむと企んだ可能性はある。これによって映画「キャシャーン」は<演説映画>という、新しいジャンルを切り開いた。昨日の日記では『妻が主題歌を唄っている素人監督のファミリー映画が間違って劇場に出たと思うことにしよう。』と述べたが、これではあまりにも酷評かもしれないので、この映画が<演説映画>第一号の栄誉を担っていることをお伝えしておこう。
2004年06月06日
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場内が明るくなると後ろの方から「やっとおわった。何かよくわからんかった」という声が聞こえてきた。正直な感想というべきであろう。とにかくセリフが多い。それもやたらと理屈っぽいセリフが多く、それが映画全体の魅力を削いでいる。そもそも監督の紀里谷和明氏は、ビジュアル・アーチスト、時には映像作家ともいわれているが、それなら、もっと映像を駆使してテーマを述べて欲しい。一見、凝った映像が見受けられるが、その映像が全く物語っていないのである。まず、キーになる映像がない、伏線になる映像がない、「なるほど、文字で表現するより、この表現が説得力あるぞ」(例:「2001年宇宙の旅」の猿人が空中に放り投げた骨が宇宙船に変化するような表現)という映像表現が全くない。その代わりに「戦争・平和・人類愛・憎悪・国家・連帯・絆」などという言葉をキーワードにした理屈っぽい演説調のセリフをエンエンと聴かされる。その上、これは効果なのかもしれないが、映像が汚い。描かれている情景は戦後の荒廃した世界であるから、汚れているのは当然。しかし、私が言っているのはそういう意味ではない。「ブレードランナー」には美があったではないか。これで本当に映像作家?この映画には、異分野から参入してきた人が初めて映画監督を行った際に陥りがちな点がよく出ている。その意味では、この作品は、例えば、映画学校での教材に最適である。まあ、そんなわけで、私も点数をつけるとすれば、10点満点の3点。再び映画監督に挑戦するなら、もうちょっと勉強していただかないと、1500円を払う観客としては困るぞ。まあ、今回は、妻が主題歌を唄っている素人監督のファミリー映画が間違って劇場に出たと思うことにしよう。さて、次はプロの「キューティーハニー」。これは来週!
2004年06月05日
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事件が起きれば、何かと引き合いに出される「バトル・ロワイアル」。今回もまた加害者が、この小説を好んでいたということで取り上げられている。いろんな意味で話題の多い小説(あるいは映画)であるので、取り上げられるのは仕方がないが、問題はこの小説(映画)の紹介のされ方である。どのように紹介されているかというと「中学生42人が生き残りをかけて殺しあう」というものである。確かにそうであるが、肝心のことが抜けている。正しくは「国家の命令により中学生42人が生き残りをかけて殺しあう」と言うべきである。「国家の命令で」という部分を抜かしてしまうと、この小説(映画)の重要なポイントが消えてしまうし、この小説(映画)を知らない人が聞いたときの印象も全く違ってくるのではないか。これは、巧妙な「情報操作」である。
2004年06月04日
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まず、「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」を見る。アキ・カウリスマキ、ビクトル・エリセ、ヴィム・ヴェンダース、ヴェルナー・ヘルツオーク、ジム・ジャームッシュ、スパイク・リー、チェン・カイコーの7人が10分づつの短編映画集である。昨年見た「セプテンバー11」でも強く感じたのであるが、映画監督の腕は短編にこそ発揮できることを思い知らされ、今回も期待したが、その期待は全く裏切られない。この7人が「時間、人生」をキーワードに作品を作っているが、まさに「映画もいろいろ」である。優劣も好き嫌いもつけることなどできないが、特に強く印象に残ったものは、ビクトル・エリセの「ライフライン」とヘルツオークの「失われた1万年」。特にエリセ作品は素晴らしい。生まれたばかりの赤ん坊の臍の緒からのじわじわとした出血。しのびよる赤ん坊の危機。それとナチの侵攻を重ね合わせて、「ミツバチのささやき」のような情景の中で描くというもの。座席数約170で、観客はなんと私だけ。この7人の作品を独り占め状態であったので、あの瞬間、私は世界で最も幸福な映画ファンであったのかもしれない。続けて、同じ劇場で入れ替えで上映中の「カルメン」を見る。映画館の方からは「お疲れさま」と声をかけられる。「カルメン」は、スペイン映画。ビゼーのオペラをなぞったものではない。カルメンは、まさに悪女として登場し、ファム・ファタールぶりを見せつける。この映画では、ミカエラが登場しないが、カルメンに対比する存在として聖母マリアが描かれる。ここが、おそらくこの映画のキーなのであろう。これまで「カルメン」を素材に映画は数多く作られ、中にはフランコ・ネロのマカロニ・ウエスタン風の翻案「裏切りの荒野」もあるが、まさに「カルメン」もいろいろ。監督は今年78歳であるが、実にエネルギッシュ。さて、明日は「キャシャーン」に挑戦!----------------------------------------------人もいろいろ。うわっ!こういう人も!しかも大臣!井上喜一防災担当相は4日の閣議後記者会見で、長崎県佐世保市の小学校で起きた女児殺害事件について、「元気な女性が多くなってきたということですかな、総じてどこの社会も」と発言。
2004年06月03日
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「カルメン」と「キャシャーン」は4日まで!「カルメン」は前売券を購入済みなので、これはかならず行く。「キャシャーン」はどうすべきか?「キューティハニー」は前売券を購入しているので、必ず見る。その比較の上でも「キャシャーン」は見ておくべきか?「ロスト・イン・トランスレーション」も、公開2週目ではやくも1日2回の上映となった。これは早く終りそうだ。「10ミニッツ・オールダー(人生のメビウス)」と「赤目四十八瀧心中未遂」も始まった。映画を見る時間をなかなか確保できない!
2004年06月02日
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「橋田さんの奥様は気丈にふるまわれて、先の3人の人質の家族とは比較にならない。これがあるべき姿であろう」という趣旨の文章が見受けられる。(一人や二人ではない)私はこういう文章を読むと唖然としてしまう。先にイラクで拘束されて人質になった家族の方々にとっても、今回の橋田さん、小川さんの家族の方々にとっても、直面した状況が、どれほどのものか想像を絶する。家族・親族・仕事の同僚以外は、はっきり言って野次馬である。野次馬が、当事者の方々の態度に対して、あれこれと感想を述べること、それをこのような公開の場に出すことは失礼極まりない。それでも発言は自由だ、それなりの意義があると言われる方もおられるであろう。しかし、このようなことを書いた人々に問いたい。あなたやあなたの家族が、そのような状況に置かれ、野次馬から、このようなことを言われたら、どういう気持ちであろうか。このような言い方・書き方は、例えば、他人の葬式に行って、「飾りつけに金がかかっとらんな、先日のXX家は立派だったよな」と大きな声で言うようなものである。ひとつの事件に対して、様々な賛否の意見があることは当然である。しかし、言っていいことと、そうでないことがある。私は、上記のようなことを言う人の品性を疑う。冒頭の発言は、思想の是非以前の品性の問題である。それでも言いたいという方は、見苦しい言い訳をする総理を始めとする閣僚や議員へ目標を変えて、どうぞ。
2004年06月01日
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