森田先生のお話です。
死刑囚の者が懺悔するときに、申し合わせたように必ず、自分は、これまでかくかくの悪いことをしてきたが、世の中の人はこれを戒めにして、悪いことをしてはならないという。
すなわち、自分ではできなかったが、人は都合よくするようにという。
これは懺悔に似て、実は本当の懺悔ではないのであります。
自分は悪いことをした。自分は悪人である。善人になることができない。
人に善を勧めるなど、およびもつかぬ事であるとかいうことを自覚すれば、単にそれだけで懺悔になる。
自分の因果・応報を見本にして、世の中の人に善をさせて、それでいくらか自分の罪を軽減して、安らかに往生しようというのが余計なことである。
またある時、森田先生のところに入院していた女性の患者さんが、森田先生のところへ手紙をよこしたことがあった。
その内容は、何かにつけて主人から虐待を受けているので、どうか主人に教訓して、改心させてもらいたいという依頼の手紙だった。
弟子の古閑先生は、その人は入院してあれほどよくなったのに、主人がそれほどまでにいじめるのはひどいと思ったといわれた。森田先生は、それは古閑先生の判断の仕方が悪いと言われた。
森田先生は、古閑先生は言葉の見かけに、騙されていると言われた。
なるほど、その奥さんの言うことをうのみにすれば、全く理由もないのに、非常識の乱暴をするその主人はほとんど精神異常とみなければならない。
でも少し考えてみると、奥さんは、一方的にご主人の悪い事ばかりを誇張している。
自分の欠点・短所は少しもかえりみていない。
また自分がどんな事をした時に、主人が悪口を吐いたかという事はほとんど書いてないのであります。
すなわち、この奥さんは、少しも自己反省の力がなくて、いたずらに相手のみを嫉視・憤慨するもので、ヒステリー性・低能性のものと鑑定しなければならない。
少しも自分の悪いところや欠点を内省・自覚することなく、周囲を悪意にばかり解するときには、相当に見識があり、経験のある眼を持った人でなければ、その文章に欺かるる事はやむをえないのであります。
死刑囚者、その他の悪人が懺悔するように、奥さんは自分の恥ずかしいことも、すべてその不運の一生を赤裸々に、世の人に発表するのは、懺悔に似て、実は懺悔と大いにその趣を異にしている。
すなわち、本人は、自分がその悪を自覚して、これを悔いあらためて、天国に生まれるとするのではなく、これと反対に、周囲の境遇を恨み、世の人を呪い、自分の悪を弁護し、強い自信を持って自分の善意を主張するものであって、宗教家が神に準ずると同様に、いわゆる主義に殉じ、すなわち死んでも我意・我執を張り通そうとするものである。
(森田全集第5巻 180、 181ページより要旨引用)
少し難しいところもあるので、私なりに分かりやすく解説してみたい。
私たちは、他人に暴言を吐いたり、危害を加えたときに、自分のことは棚に上げて、相手のせいにすることがあります。自分は何も悪くない。
その原因を作ったのは相手の方だと言って、他人を攻撃し、他人に責任転嫁をする。
そしていろいろと弁解したり、自己擁護ばかりしている。
森田先生はそういう態度は、出発点からして間違っていると言われているのです。
ここは「かくあるべし」の弊害、思想の矛盾について説明されていると思います。
ここは森田理論の根幹にかかわる部分なので、よく理解してほしいところだ。
死刑囚の話は、もっともの様に見えるが、実は重い罪を犯した自分を上から下目線で眺めている。
つまり自分の立ち位置というものが、事実、現実、現状にはないのだ。
ではその人の立ち位置はどこにあるのか。現実とは程遠いい雲の上のようなところにあるのだ。
そこから重い罪を犯した自分自身を見下ろしている。見下しているといったほうが分かりやすい。
そのような態度は、罪を犯した自分を他人事のように眺めてしまう。
罪を反省して、懺悔するという気持ちにはならないのだ。
ともすれば、自分のような過酷な境遇に育ったものは、重い罪を犯したとしても仕方のないことなのだ、許されるのだと弁解したりする。
そして私のような者を、見本にして私のような不幸な人生を送らないようにしてもらいたいなどという。これは本当は自分にはあまり落ち度がなかったかという自己擁護以外の何物でもない。
事実を軽視するとこのような状態になるのである。
主人に虐待されているという女性の場合もそうである。
その人は雲の上のようなところに立ち位置をとっている。
決して地上にいる自分に寄り添っているわけではない。
かわいそうでみじめな自分を上から下目線で眺めているのである。他人事のようである。
そして主人のこのような理不尽な仕打ちは決して許すことはできないと考えている。
なんとか仕返しをしてやりたい。でも、自分の力ではどうすることもできない。
そこで、昔世話になった森田先生に助け舟を出してもらおうと手紙を書いたのである。
森田先生のすごいところは、その女性が現実にしっかりと根を張らずに、雲の上のようなところに立ち位置をとっていることをすぐに見抜いていることである。
現実に立ち位置をとっているとすれば、自分がどういう言動をとったときに、主人が理不尽な対応をとったのか、具体的、赤裸々に手紙に書くはずである。
そうなれば客観的な立場から、自己内省力も湧いてくる。自分の言動を振り返ってみることができる。
私の態度で改善するところがあればぜひ教えてほしいということになる。
事実を出発点にすれば、問題がどこにあって、どう改善していけば、夫婦の人間関係が良くなるかという方向性が見えてくるはずだ。
上から下目線で主人のいうことなすことを批判したり、否定するばかりでは、結局は家庭内別居、離婚は避けられないものと思われる。
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