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森田理論に「見つめよ」というキーワードがあります。過去や未来、感情や気分、思考、身体にとらわれないで、目の前の物や人をじっと観察していると、新たな感情が湧き上がってくるといいます。課題や目標が見つかれば。積極的、生産的、建設的、創造的な行動に繋がっていきます。野村克也氏は、事実を見ないで、先入観、決めつけ、思い込み、早合点で行動を起こすと間違いにつながると言われています。「固定観念は悪、先入観は罪」だとも言われています。プロ野球の場合は、相手のことを観察して相手の「クセ」を見抜いた選手は有利に勝負ができます。長い間プロ野球の世界に身を置いて、相手の「クセ」をつかむ努力をしている人は大成している。人間には無くて7クセと言われるほど多くの「クセ」がある。「クセ」は無意識に出るものだ。「クセ」が隠そうとしても、一時的に治っても、プレーに夢中になってしまうとついその「クセ」が出てしまうのである。「クセ」を見つけるのはしんどい。時間もかかる。コツなどはない。「絶対に見破ってやる」「何かあるはずだ」「クセ」を見抜けるかどうかは、「執念」の一語に尽きる。「クセ」がわからないという選手に限って全然執念がない。この話は事実を観察するという面でとても参考になります。森田では「見つめる」「観察する」能力を高めて、習慣化することをめざします。何か他のことに考えながら上の空で無意識的に確認行為をした場合、神経質な人は後から「きちんと施錠をしたかどうか」が気になりなります。今のはうわの空状態だったと気が付けば、すぐやり直しができます。時間が経って気になりだすと、精神交互作用で不安が不安を呼び込んで収拾がつかなくなります。森田理論に「今できることは一つしかない」というのがあります。心がうわの空になってしまうのは意志の力でコントロールできません。そんなときは、「今うわの空になっていた」という状態に気付くということが大事になると思います。風見鶏
2025.10.31
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森田先生は甲府での形外会の時に、神官の人から「先生は日本の神をお認めになりませんか」と聞かれたときに、言下に「古事記の神を認めます」とお答えになっておられます。(森田全集 第5巻 532ページ)水谷啓二先生によると、入院中は朝起きたときと夜寝る前に、5分間くらい「古事記」を音読する習わしになっていたという。(生活の発見誌 1970年5月号 7ページ)森田先生は八百万の神々が出てくる古事記をそれほどまでに高く評価されていたのであろうか。興味は尽きない。古事記の神々は決して全知全能の神ではありません。この世を作り出した創造主でもありません。教義や経典もありません、古事記の神々は喜怒哀楽を持ち合わせて、時には間違いを犯す神々です。天照大神の弟であるスサノオノミコトは乱暴狼藉ぶりが目に余ったという。そのためスサノオノミコトは、「高天原」という天界から地上界に追放された。スサノオノミコトは出雲の地でクシナダヒメと結婚した。天孫降臨です。日本の国の始まりです。古事記の神々は、清濁併せ持ち、時に荒々しく、時に慈悲深く、そして人間のように葛藤を抱える存在として描かれています。古事記に出てくる神々は、他人、自然そのもの、自然現象、ご先祖様、特定の場所をリスペクトし、感謝し畏れ敬うものとして大事に取り扱っています。大きな滝や木の周りにはしめ縄を張って敬っている。雨は恵みの雨となることもありますが、時には日照り、洪水をもたらします。時に人間に禍をもたらしますが、それを含めてあるがままに受け入れています。森田理論の不安や恐怖、気分や症状への対応と非常によく似ています。「おてんとうさまが見ているから悪いことはできない」「和をもって貴しとなす」ということわざがあります。特定の宗教を持っていないにもかかわらず、行動指針が明確ですし、それに沿った行動ができている。災害時に日本人が略奪行為をするのは稀です。外国とは大きく違います。電車に乗車する時、きちんと整列している。割り込みをすることはありません。電車内でスマホで話をするような人はいません。マナーを守るのが当たり前になっている。スポーツ観戦に行ったとき、ゴミが出ればすべて家に持ち帰る人が多い。意見が対立する時は、他人の意見を聞いて、双方が納得できるまで話し合うように心がけている。困った人がいれば、みんなで駆けつけて援助を惜しまない。モノづくりにしても、安かろう悪かろうではなく、経費や手間暇がかかっても最高のものを作って、お客さんの喜ぶ姿を見たいという気持ちで取り組んでいます。そういう共通認識を日本人は誰から特別に教えられたわけでもないのに、多くの人が自然に身に着けているということは不思議なことです。また田舎に行けば、仏壇と共に神棚があります。日本人には神道と仏教が対立することなく融合しているのです。結婚式は教会や神道、お葬式は仏式でも別に違和感はありません。クリスマスには家族でケーキを食べる。ハロウィンパーティーも取り入れている。正月には多くの人が初詣に行き、古いお守りを返し、新しいお守りを買う。日本人には融通性や包容力があるということだと思います。外国の新しいものをすぐに排斥するのではなく、一旦取り入れて役に立つものは活用させてもらう。少々合わないものでも、自分たちで工夫して、使い勝手の良いものに作り変えてしまう能力を持っている。古事記の神々は、森田先生が重視した人間のありのままの姿をさらけ出し、感情や気分をあるがままに受容・共感する部分があるのではないでしょうか。森田先生は神話の中に、あらゆる自然と調和し、持続可能な社会を作り上げていく、だれもが居場所や活躍の場を持ち、生の欲望を発揮する世界観を見出しておられたように思われます。さて、神道には、「生成化育」(せいせいかいく)という重要な考え方があるそうです。一言で言えば、「あらゆるものは混とんの中から生まれ、育ち、変化し、発展していく」という考え方です。これは現代の宇宙論や生命の根源的な働き、プロセスにつながるものがあります。森田先生自身も、宇宙論や相対性理論に言及されています。森田先生は、変化に対応し、調和やバランスをとりながら生きていく世界観を持っておられました。そういう豊かな精神世界は日本人がはぐくんできた神話の世界にそのルーツがあるということだと思います。
2025.10.30
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怒りや嫌な気分に振り回されて、問題行動ばかり起こしている人はどうすればよいのでしょうか。いきなり切り替えるということは難しいと思います。少しずつ、徐々にという気持ちで取り組むことが大事になります。いろんな方法があると思いますが、ここからは私の取り組んでいる方法をご紹介します。怒りの感情はひと山登り切るのに5秒から10秒ほどかかると聞きました。このわずかな時間をどうやり過ごすかでその後の展開が大きく変わってきます。北野武氏によると、人間関係では「間」をとることが肝心だと言われる。それができない人は「間抜け」な人になるそうだ。人間関係で「車間距離」をとらないと、追突事故につながります。事故になると後始末が大変です。人間関係にはハンドルの「遊び」のようなものが必要だと思われます。これは相手を寛容な気持ちで許容することだと思います。売り言葉に買い言葉的な対応は、スズメバチの巣をつつきまわすようなものです。あるいは、反社会勢力の人を挑発するようなものです。これでは身体がいくつあっても足りません。こんなことをすれば、逆に返り血を浴びてしまいます。そのためには、「5秒から10秒の耐え難い時間を何としてもやり過ごすのだ」という強い覚悟を固めることが必要になります。そのためには次のことを実行することを提案いたします。①何とかその場を離れるようにする。ちょっと腹が痛くなりました。トイレに行かせてもらえませんか。その場を離れて、自販機のコーヒーを飲む。別の部屋に移動する。②そして深呼吸に集中する。③「1日10秒マインドフルネス」(藤井英雄 大和書房)の132ページに、怒りで我を忘れそうになったときのエクササイズが紹介されています。④口角をあげて笑顔を作る。⑤意識して眼を動かす。顔の向きを固定したまま、眼だけを左右に動かす。詳しいやり方は2023年6月21日の投稿をご覧ください。⑥いつも一言多い人は発言を控えて、聞く方に専念する。⑦後から信頼している人に愚痴を聞いてもらうようにする。⑧我慢できたら自分にご褒美を与える。自分をほめてあげる。食べたいものを食べる。⑨反発したいことは口に出すのではなく、紙に書くようにする。これは夫婦喧嘩のときの森田先生のやり方です。⑩この次にやるべき目的の方に注意や意識を向ける。⑪怒りの感情を客観化して実況中継する。トイレなどに緊急避難して、「ただいま上司に叱責されて怒り心頭でパニクっております。台風が通り過ぎるをトイレで静観しております」⑫アドラーは怒りの感情を利用して相手をコントロールしようとしているのだと言っています。タテの人間関係は対立してくる。ヨコの人間関係を作るためには他者貢献を心がける。⑬山崎房一氏は、「人間は人生という舞台で人を感動させるドラマを演じている」と考えましょうと言われています。人間関係を円滑にし、心の安定を願うなら、言葉や態度を心の動きから完全に切り離し、役を演じながら生活すればよい。そうすれば人相もよくなる。その妙を心得ている人物を私たちは、円熟した人と呼ぶのではないでしょうか。人生はドラマ、人間はみんな役者、社会が舞台 人に感動を与えられる役者をめざしましょう!これらを全部やる必要はありません。また「感情と行動の分離」はこれ以外にもいろんな方法があると思います。自分が取り組みやすいもの、即座にできるものを用意して実行していきましょう。
2025.10.29
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今日は弁証法的行動療法(DBT)についてご紹介します。感情と行動の分離ができなくて、絶えず他人といさかいを起こし孤立してしまう人や気分本位でイヤなことを回避する傾向が強く、社会的な責任や義務を果たすことができない人には有効な方法です。DBTは感情のコントロールが特に困難な人に特化しており、感情と行動の分離が困難な状況下でも機能させるための極めて実用的なプログラムとなっています。なお、蛇足ながら弁証法というのは、つじつまの合わないものや対立するものを統一して、問題点を解決していくという意味合いです。DBTは、感情に支配された状態から、冷静で建設的な行動に移行するために、次の4つのスキルを体系的に学ぶ訓練プログラムで構成されています。①マインドフルネススキル・・・「今、ここ」の現実にリアルタイムかつ客観的に気付いていくことをめざします。心がうわの空になることを防ぎ、感情や気分を第三者の立場から客観的に眺められるエクササイズを行います。②苦悩耐性スキル・・・苦しい感情や気分に対して、暴言や回避といった反社会的な行動に走らずに「耐え抜く」具体的な方法を取得します。③感情調整スキル・・・感情を理解して、その性質やメカニズムを知った上で、実生活に応用する方法を身につけます。森田理論には「感情の法則」という学習項目があります。これで代用できるものと考えます。④対人関係スキル・・・相手を尊重しつつ自己主張するアサーションや、人間関係を良好に保つためのコミュニケーション技術を習得します。弁証法的行動療法は、専門家の助力を得て取り組むのが一般的です。日本での第一人者は、伊藤絵美先生です。本格的に学習してみたい方は下記の本を図書館などで借りてみてください。「弁証法的行動療法 実践トレーニングブック 増補改訂 第2版」マシュー・マッケイ他 著、遊佐安一郎 訳 (星和書店)「境界性パーソナリティ症の弁証法的行動療法ワークブック」シャノン・T、マーティン、他著 伊藤絵美 監訳 (金剛出版)
2025.10.28
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アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)も「感情と行動を分離」するときに効果があります。ACTは、不快な感情や思考を排除しようとせず、そのまま受け入れる。このことをアクセプタンスといいます。そのうえで、自分が人生で大切にしたい「価値」に基づいて行動を起こす。このことをコミットメントといいます。ACTは、自分の思考と自分を切り離し、思考を単なる言葉として距離を置く「認知的脱フュージョン」という独特な技法を重視します。これは『「自分はダメな人間だ」という思考を、単に「自分はダメな人間だ」という考えが浮かんだな』と客観的に捉え直す訓練であり、思考にとらわれないようになることを目指します。この技法は先日ご紹介したマインドフルネスの「感情や思考の客観化」に通じるものがあります。感情や思考を客観視するプロセスが、感情と行動を分離させる基盤となっているのです。ACTは森田理論の考え方に近いものです。違いは次の点です。森田理論は不安はあるがままに受け入れて、目的本位の行動を積極的に促します。これに対してACTは、自分が「何を大切にし、どんな人生を送りたいか」という個人的な価値を行動の指針とすることを目指します。不安を受け入れたうえで、自分が生きていくなかでこれは大事だと思うことを明確にして、実際に実践・行動に移していくことです。ここでいう「価値」ですが、人生の羅針盤のようなものです。欲望とは違います。ACTには「価値観リスト」があります。「貢献」「自律」「思いやり」「勇気」「公平さ」「ユーモア」「誠実さ」などです。これらのリストの中から、自分にとって特に重要だと感じる項目を選び、優先順位をつけていくことで、自分の価値観を明確にしていきます。ACTの目的は、こうした「価値」を認識し、それに沿った行動を日々の生活の中で実践する(コミットメント)ことにあります。例えば、「認知症を予防し、自分の足で歩いて100歳まで長生きをする」ことに価値があると思ったとします。そのためには、心身の健康、趣味、人間関係、経済的自立、人生の目的など様々な課題が出てきます。価値の実現に向けて課題や問題に真摯に取り組むことで生きがいが生まれてきます。客観化と価値の実現がACTの目指すところです。
2025.10.27
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今日はアドラー心理学の立場から見てゆきたいと思います。アドラーは人間の苦悩は人間関係の悩みであると言っています。人間関係の悩みを解決するための方法をいくつも提案してくれていますので対人恐怖症の人は大いに役立ちます。アドラーは怒りの感情や悲しみの感情は、自分の目的を達成するために自ら作り出して利用しているのだと考えました。「怒り」は相手を支配するための道具として使っている。「悲しみ」は同情を引くための道具として使っているというのです。母親が子どもに「あとがつかえているから早く風呂に入りなさい」と再三声をかけたのに、子どもが従わなかった場合、怒りを感じることがあります。ある人が自分の欠点を取り上げて非難したという場合、親しい友人に愚痴をこぼして同情を引き、相手への復讐を企てるということがあります。同情も感情を利用していることになります。親の離婚がトラウマとなって恋愛ができないというのは、自分が離婚することがいやなので、恋愛をしたくないという目的のために利用しているとみているのです。森田理論では、不安や怒りの感情は自然現象なので、自由にコントロールすることはできないと考えます。コントロールできないものを、無理やりコントロールしようとすると、不安や怒りはどんどんエスカレートして収拾がつかなくなります。アドラー心理学では、個人的な感情と相手と絡む感情は同じように考えるのではなく、別々の対応が必要になると言っています。過去の出来事に罪悪感を感じて後悔する、将来のことを考えると不安になる。疲れてなにもやる気が起きない。などという不安な感情は個人に属する感情です。これは森田理論がその対応方法を教えてくれています。相手に対して腹が立つ。反抗的になる。嫉妬している。ストレスを感じる。劣等感を感じる。などは相手がいる時に感じる感情です。これらの感情は主にアドラー心理学が取り扱っている感情です。これらの感情は自分では気づいていないのですが、感情を利用して相手をコントロールしようとしているのだといっています。アドラーは、怒りなどの感情を利用して相手をコントロールしようとするときは、その目的をはっきりさせる必要があると言っています。「子供に早く風呂に入りなさい」と指示して、無理やりその指示に従わせるというのは目的達成のための手段としては考えものです。子どもが自ら動き出すことができるような方法を考えることが肝心であると言っています。要するに、自分の目的は普遍的で妥当性のあるものなのかどうか、相手が受け入れてくれるような目的であるのかどうかを考えることが肝心である。腹が立ったときに喫缶的に考えることはできません。このような具体例をいくつか想定して、集談会のような場でみんなで話し合うことが後で役に立ちます。次にアドラーは「課題の分離」という話をしています。相手の課題や領域に土足で足を踏み入れるようなことをしてはならないと言っています。過保護、過干渉、放任というかかわり方は、感情と行動の分離から見ると問題があります。
2025.10.26
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マインドフルネスの考え方とその手法から見ていきたいと思います。マインドフルネスの考え方や手法は、森田理論と似ている部分もありますが、その内容ははかなり違います。また、マインドフルネスというと、すぐに瞑想のことかと早合点する人がいますが、それは手法として有名ですが、その内容を理解しないと食わず嫌いの一品となってしまいます。マインドフルネスは、「今、ここ」に意識を向けて、感情や思考をもう一人の自分が客観的にリアルタイムで観察することを言います。ネガティブな感情が湧き上がった時、その感情を良い悪いとなどと価値評価するのではなく、例えば、ただ「怒りの感情が湧いているな」と気づくことを重視します。この気づきの練習をすることで、感情に振りまわされて反射的、衝動的な行動をとることを防ぎ、感情と行動の間に、一呼吸置くことができるようになります。一呼吸置くことで、買い言葉に売り言葉的な対応を抑制することが可能になります。このことを森田療法では自覚を深めるといいます。客観化するためには、感情と一体化した自分の他に、その状態を客観的に眺めることができるようになることが大事になります。イメージとしては、川を下っている舟に乗っている自分を、川岸から眺めているもう一人の自分を作るようなものです。例えば、会社に出勤したときすれ違った上司に挨拶をしました。上司は私のあいさつを無視して足早に自席に向かいました。「ああ、イヤだ。自分のことを無視している」というのはマインドフルではありません。もう一人の自分が、「上司に無視されて腹立たしい気持ちになっている自分に気付いている」という状態がマインドフルです。読書をしている時に、面白くて時間が経つのをつい忘れて読んでいたというのは、マインドフルではありません。もう一人の自分が、本読みに夢中になっている自分に気づいているというのがマインドフルな状態です。難しいと思われるかもしれませんが、マインドフルネスのエクササイズを続ければものにすることが可能です。森田理論は不快な感情は自然現象なので手出し無用と言います。不快な感情に完全服従すれば、時間の経過とともに収束してくるという考えです。マインドフルネスでは、不快な感情にラベルをつけて自分専用のアナウンサーに克明に実況中継させましょうという考え方です。その際是非善悪の価値評価はご法度です。これができれば、感情と行動の分離が可能となります。さらに自己洞察が深まる可能性もあります。そして、人間関係が破綻するリスクを避けることが可能となります。
2025.10.25
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森田理論に「感情と行動は別物」というのがあります。どんなに激しい怒りの感情が湧き上がってきても、それをそのまま行動に出してはいけないというものです。幼児は気に入らないことがあると、ところかまわずわめき散らして親を困らせます。幼児の場合は、ある程度は許容されますが、大人の場合はすぐに人間関係が悪化し、収拾がつかなくなります。社会から排除されることになります。ですから「感情と行動の分離」はぜひとも身につけなければなりません。このテーマに対して、森田理論、マインドフルネス、アドラー心理学等の考え方、手法を見てゆきたいと思います。森田理論では、行動が感情に振りまわされることを問題視しています。感情と行動を別物として取り扱うことが肝心だといいます。森田では感情は自然現象であり、人間が自由自在にコントロールできるものではないと言われます。不快な感情はイヤなものですが、すぐに取り除きたいと考えて、安易で短絡的な行動をとるとあとが大変です。精神交互作用によって最終的にはアリ地獄に突き落とされます。森田理論には、感情の取り扱い方として「感情の法則」があります。この法則を森田先生が公開されて、学習できたことは幸運だったと思います。この法則を学習する前は、感情に法則があったとは思いもしませんでした。感情の法則の1から5ではとても役に立ちました。肝心なことは、この法則を実生活の中で応用・活用しているかどうかです。不快な感情を認めて受け入れることができれば、時間の経過とともに感情は変化して、薄まるか消えてなくなるといいます。ですから不安に押しつぶされそうになってもあわてる必要はありません。ただ時間の経過に任せればよいのです。あわててしまうとボヤで済んだものが、大火事になってしまうことがあります。感情と行動は分離したほうがいいし、またそうしなければならないということです。次に、森田理論では、不快な感情を抱えたまま、目的本位の行動を勧めています。不快な感情に手を付けないということと、目的本位の行動をとることは対になっているのです。目的本位の行動をとると、新しい感情が湧き上がってきて、それまでの不快な感情は山奥を流れる小川の如く流れていきます。さらに小さな成功体験を積み重ねていくと、自己信頼感、自己肯定感が持てるようになります。人間関係も格段に改善できます。森田理論は、感情と行動を分離するために、不快な感情に絶対服従という立場です。不快な感情を抱えたまま、目的本位の行動をとり続けていくことを推奨しています。このように見てくると、森田理論は不快な感情に素直に従って上手に流していくという理論なのです。森田理論を学習して、「感情と行動の分離」を身に着けたいものです。明日はマインドフルネスの考え方、手法を見てゆきたいと思います。
2025.10.24
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神経質者は「自己内省力」があると言われます。「森田理論学習の実際」では、「自己内省力」にはマイナス面とプラス面があると説明されています。マイナス面・・・自分の心身の現象を細かく分析して、わずかの弱点・欠点などを過大化して劣等感を抱く。傾向が強い。「症状」で苦しんでいるときは、自分のことにしか意識が向かない。また観念的な理想を追いかけ一気にそこに到達しようとするので、自分の実際の姿と矛盾を生じ、症状の一因になる。意識が内向化して観念的、自己防衛的、自己中心的になりやすい。プラス面・・・細かいことによく気が付く。それらをきちんと反省して改善しようとする。反省心が強く、真面目で、責任感が強い傾向がある。神経質者の自己内省性は、症状をのりこえ、さらにそれ以上に発展していく際の大きな力になります。この自己内省性とまじめさ・真剣さがなければ、神経質症はのりこえられず、他人に迷惑をかけてしまうことになりかねない。神経質者は、自分の過去の失敗や不祥事などを思い出して、自己嫌悪、自己否定で苦しむことが多いように思います。神経質者は性格特徴のマイナス面に注意や意識をフォーカスして苦しんでいる人が多いようです。自己内省力には、マイナス面の他にプラス面があるわけですから、ことさらマイナス面ばかりに焦点を当ててしまうのは問題があります。プラス面を積極的に評価して鍛え伸ばしていく必要があると思います。自己内省力のプラス面をどう評価していけばよいのか。危険の察知能力が高い。小さな不具合や問題点を見逃さない。探究心が強い。分析力が強い。論理的である。研究熱心である。問題点、原因の追及能力が高い。思考力が高い。これらは外向的で発揚性気質の人たちが持ち合わせていない性格特徴です。自己内省力のマイナス面に焦点を当てるよりも、プラス面を評価することが肝心です。私たちは発揚性気質の人たちとコンビを組んで、縁の下の力持ちとして能力を発揮することができれば、双方ともに大きなメリットがあります。例えば、本田宗一郎氏には、藤澤武夫氏がいました。本田氏が技術畑を担当する一方で、藤澤氏は会社の経営全般を担い、両者がお互いの領域に口出ししないという方針で、ホンダを世界的企業に育てました。藤澤氏が財務や経営面で能力を発揮していなかったとしたら、現在世界のホンダは存在しなかった可能性が高い。餅屋は餅屋だと思います。ないものねだりをして、自分の強みや長所を放置することはあってはならないことです。私たちはこれらの優れた能力を持っているわけですから、そのことをよく認識して、さらにその能力を鍛えて社会に貢献していく役割があります。
2025.10.23
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神経症で苦しんでいる人の多くは対人恐怖症の人のようです。今日は対人恐怖症の方の職業の選択を考えてみたいと思います。どんな仕事も他者と関わる、他者と協力する、他者のお世話になる部分はあります。しかしその程度は千差万別です。訪問営業のような仕事は、相手の購入意欲を高めて、相手を説得する必要があります。プロジェクトチームで仕事をする時は、役割分担して目標や目的に向かって仲間と協力しながら仕事をすることになります。対人恐怖症の人は、人の思惑を絶えず気にして、ビクビクハラハラしながら仕事をしていますので、絶えず利害関係が対立するような仕事は難しいかも知れません。反対に、人間関係よりも職人さんのように出来栄えが重視されるような仕事もあります。人を相手にするよりも、どちらかというと物を相手にしている仕事があります。私も対人恐怖症ですが、大学を卒業して選んだのは訪問営業の仕事でした。マネージメントの仕事も任されて、心身とも立ち行かなくなり9年で退職しました。次は営業事務の仕事でした。得意先から注文をもらってパソコンなどで加工して工場に流す仕事でした。上司や同僚、営業マン、得意先、施主、職人、メーカー、工場関係、配送センターとの人との接触や交渉事が多く毎日神経をすり減らして仕事をしていました。誤発注などのミスをすると仕事を続けることがいやになりました。今考えると、対人恐怖症の人は人を相手にするよりも、物を相手にするような仕事を選択すべきであったという思いがあります。対人接触が全くないという職業はありませんが、比較的緩いという仕事はたくさんあります。思いつくままにあげてみると、職人、士業、検査や調査、税関、分析関係、研究開発、農業、刑事、獣医師、設計士、パイロット、電車や車の運転などです。そこで、もっと掘り下げて調べてみました。専門職・技術職・・・プログラマー、システムエンジニア、データサイエンティスト、会計士、税理士、弁護士・司法書士、裁判官、検事、刑事、校正者、編集者クリエイティブ・創作系・・・ライター、小説家、ウェブデザイナー、グラフィックデザイナー、作曲家、編曲家その他・・・図書館司書、学芸員、品質管理、検査官これらはいずれも、臨機応変な対人折衝能力よりも、「正確さ」「出来栄え」「論理的思考」「探究心」「分析力」がより重視されます。その人の性格や興味によって向き不向きはあると思いますが、これなら一生涯関わり続けられるという仕事を見つけて努力してゆきたいものです。そして森田理論やアドラー心理学を学習して活用していけば、人間関係で破綻してしまうこともなくなるはずです。
2025.10.22
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森田先生は「君子は和して同ぜず、小人は同して和せず」と言われています。君子の例として西郷隆盛を挙げておられます。西郷隆盛は、薩摩藩内や明治政府内において、様々な意見を持つ人々がいる中で、感情的に対立するのではなく、大局を見据え、協調的な態度で臨もうとしておられました。しかし、自分の信念を曲げてまで他者に迎合することは決してありませんでした。征韓論における彼の主張や、西南戦争に至るまでの経緯を見ても、自分の正義や理想を貫き通そうとする強い意志が感じられます。西郷隆盛は自分の意見を持たずに周りに流されたり、表面的な同調だけをするような人物ではなかったようです。西郷隆盛は、自分の確固たる意志を持ちながらも、相手の立場や気持ちを理解し、尊重しようと努めた人だったようです。自分の考えとは違っていても、話し合いによってみんなの意見がまとまれば、自分が先頭に立って行動をする。まさに男のなかの男のような人です。彼の魅力は、その二つの要素が矛盾することなく共存し、高い次元でバランスがとれていた点にあるのかもしれません。ここで「君子」を「森田の修養の進んだ人」人に置き換えて考えてみたいと思います。森田の修養の進んだ人は、「和して同ぜす」、森田の修養が進んでいない人は「同して和せず」の傾向が出てきます。森田の修養が進んでくると、相対立していることが目の前にあるとき、両面観の立場から検討していくことができる能力を獲得した人だと言えるのではないでしょうか。例えば、森田先生のところに入院していた患者が、うさぎ小屋の掃除をしていた時、野犬が飛び込んできてうさぎを噛み殺してしまったという事件がありました。ここで修養の進んでいる人と進んでいない人の違いが如実にでます。修養の進んだは、「わあ、可愛そうなことをしてしまった。玄関の戸をきちんと閉めておけばこんな悲惨な事にはならなかった」と思うでしょう。修養の進んでいない人は、「これは入り口の造作が悪かったら起きたことだ。私の責任ではない」と思って言い訳、弁解、責任転嫁、自己保身に走ってしまう。修養の進んだ人は、森田先生と共に悲しむということになります。以後二度とこんなことが起きないように工夫をするでしょう。修養の進んでいない人は、森田先生から叱られないように自己防衛のことばかり考えます。にもかかわらず、森田先生から大目玉を食らうことになります。今後うさぎ小屋の掃除は懲り懲りだといってうさぎ小屋に近づくことがなくなります。この時に、「ああ、かわいそうなことをしてしまった」という初一念の感情をしっかりと受け止めていたら次の展開はまったく違っていたはずです。森田の修養で最初に湧きあがってきた感情を大切に取り扱うということが身についていたら、その後森田先生から罵倒されることはなかったはずです。
2025.10.21
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感情と行動をきちんと区別する方法については、山崎房一氏の話が参考になります。人生はドラマ、人間はみんな役者 社会が舞台意志の弱かった私は「己に打ち克つ」ということが理解できなかったそれは 本心に関係なく演技することだ役者になることだ と知って納得できたのです役者は気分がすぐれないときでもまた嫌な相手であってもいつも最高の演技を見せてくれる役は、本心とはちがうところにあるからです本心でない言動は噓であり道徳に反するという考え方が人間関係をこわしてしまうのは役を演じることを忘れ本心をむき出しにしてしまうから本心で生きる人を世間では未熟で幼稚な人と見ます他人は私を 私の外面 即ち 言葉や態度で評価する今までは私は私の内面 即ち 心の動きで自分を評価していたそのような自分を自分の心の動きで評価する無意味なことはやめること人間関係を円滑にし 心の安定を願うなら言葉や態度を心の動きから完全に切り離し役を演じながら生活すればいいそうすれば人相もよくなるその妙を心得ている人物を私たちは円熟した人と呼ぶのではないでしょうか(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所 80ページ)不快な感情のまま、不快な気分のまま、体調不良のまま、ネガティブな思考のままに行動している人は、人生という舞台で大根役者を演じていることになります。大根役者はいずれ人生という舞台から引きずり降ろされ、孤独な人生を送ることになります。自分がどんなに惨めな状態にあろうとも、そんなそぶりを微塵も感じさせない役者になりきる。そんな能力を身に着けた人を、敬意をこめて「森田の達人」と呼ばさせていただきたいと考えます。
2025.10.20
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他人を上から下目線で見ることが習慣化している人は、対立的な人間関係で自他ともに苦しんでいます。これを解決する方法として、形から入るというのは如何でしょうか。森田では、内相はそのままにして、外相を整えるといいますね。小金沢昇司さんの「ありがとう・・・感謝」という歌があります。一度You Tubeで聞いてみてください。この歌をリピート機能のある録音機に録音して絶えず聞くようにする方法です。できれば、普段いつも無意識に口ずさんでいる状態に持っていく。全部でなくても2番の最後の部分だけを覚えて口ずさむのもよいと思います。効果絶大です。この歌を口ずさみながら、同時に他人を非難したり否定することはできません。①ありがとう ありがとう 言い尽くせない ありがとう思い起こせば 数えきれない 多くの人に出会いました迷惑かけたり 心配かけたり 半人前の僕でしただけどこうして歌を唄い 夢をつむいで こられたのはあなたがいるから あなたがいたからあなたがいつも いつも 見てくれたからありがとう ありがとう 大切なあなたへ ありがとう②新しい時代 来たというけど 寂しい心変わらない酒に飲まれて 電話で怒鳴って 大人になれない僕がいるだけどこれから 明日を信じて歩いていける 気がするのはあなたがいるから あなたがいたからあなたがいつも いつも 見てくれたからありがとう ありがとう勇気をくれて ありがとうありがとう ありがとう 兄弟友達 ありがとうありがとう ありがとう 父さん母さん ありがとう 感謝を込めて ありがとう
2025.10.19
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森田先生が活躍されていた大正から昭和初期にかけての「生の欲望」はどのようなものだったのでしょうか。当時、「都会で一旗揚げて故郷に錦を飾る」という言葉がありました。社会的な成功と名誉に対する強い欲求を持っている人が多かった。当時の生活は今のように欲しいものが比較的簡単に手に入るという状況ではありませんでした。また兄弟姉妹は5人から6人は当たり前で、家督相続をする長男以外は家を出て自活する必要がありました。豊かで安定した生活を築き上げ、社会的に高く評価されるような人間になりたいという明確で具体的な目標がありました。現代人はどうでしょうか。「都会で一旗揚げて故郷に錦を飾る」というような目標を持つ人は少なくなりました。いまや物質的には欲しいものは何でも手に入れることができ、食べたいものは何でも食べることができる時代に生きています。大型テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、掃除機、クーラー、乗用車、パソコンやスマホを誰もが持ち、スーパーや量販店に行けば好きな時に好きなものが簡単に手に入る時代となりました。電気、ガス、水道も自由自在に使える時代に生きています。兄弟姉妹は1人か2人で、両親や祖父母が愛情と資金的援助の限りを尽くしています。現代人は昔と比べるとこれ以上ないような物質的に豊かで恵まれた生活を享受しているのです。こういう時代に生きていると、大正時代から昭和初期の人たちが目指していたような生の欲望を持つことはできなくなってしまったのです。では現代に生きる日本人はどんな生の欲望を持っているのか。①まず人生90年から100年時代を迎えて、「長生きリスク」が生まれてきました。長生きすると、身体の健康、心の健康、経済的自立、生きがいの面で様々な問題を処理しなければなりません。年金をもらっていても健康保険料、介護保険料、各種税金などが天引きされ、さらに公共料金やその他必要経費が自動で引き落としされて生活するのがやっとです。突発的な支出は貯蓄を取り崩している人が多いのではないでしょうか。現代人は、経済的に自立して、認知症や寝たきりにならないようにして、元気で生きがいを持って長生きしたいという欲望があります。②人間は「人とのつながりを求める」という根源的な欲求を持っています。しかし現実には子どもとの関係も疎遠になり、地域の人間関係も希薄になり、閉鎖的な人間関係の中で生活するようになりました。「隣は何をする人ぞ」といった社会の風潮があります。マンションに住んでいても、隣近所の人とは没交渉です。人間は孤立してひとりでは生きていけません。集談会の仲間、趣味の仲間、近隣の人、OBたちとの交流がなくなると、天涯孤独となり寂しい人生が待っています。暖かい人間関係のなかに身を置くことは、心の安定感を維持するために欠かすことができません。③仕事をしている人は、会社に対してどんな貢献をしたのか厳しく査定されています。成果第一主義です。ノルマがきつい、目標管理で追い込まれています。仕事はつらいものになっています。仕事を通じて自己実現を図ることは難しい状況です。会社内の人間関係は利害が対立してギスギスしています。これらの問題をどう解決していけばよいのか。④仕事から引退した人は、自由に使える時間がたくさんあります。その自由時間をいかに有効活用するのかが現代人に問われています。仕事、学習、習い事、趣味、ボランティア、動植物の世話など人によってそれぞれ取り組む内容は違いますが、目標を持って生活すること大切な時代となっています。⑤最近は、異常気象による天変地異、地震のリスクが高まっています。高齢者の交通事故も増えています。これらの災害リスクに普段からどう備えていくのかが問われています。⑥欲望が暴走する社会に突入しています。核兵器が暴走しかねない危険な時代に入っています。一旦核兵器が使用されれば、人類が絶滅してしまう可能性があります。森田の「物の性を尽くす」という考えは、すべてのものに居場所を与え、持てる力を最大限に発揮してもらうという考え方です。この考え方はお互いを思いやるあたたかい人間関係を作りますので、武力で対立することは少なくなると思われます。森田を学んだ人は、現代社会に対して警鐘を鳴らしていく必要が出てきたと考えます。これらの問題に真摯に取り組むようにすれば、人生90年時代を楽しく過ごすことができるように考えますが如何でしょうか。
2025.10.18
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「オロナミンⅭ」のコマーシャルでお馴染みのいつも笑顔の大村崑さんは現在93歳だそうです。家庭的には、太平洋戦争開戦の年にお父さんが腸チフスにかかって亡くなられた。その後一家離散を経験されている。大村さんは父親の長兄の家へ、4歳の妹は母親の妹の家へ、乳飲み子の妹だけは母親のもとに残ることになりました。大村さんが引き取られた叔父の家は、叔母が手荒な暴力を振るう悲惨なところだったという。毎晩布団の中で猫を抱いて泣いていたそうだ。一回逃げ出して、再婚していた母親を丹波まで訪ねて行ったことがあったが、面倒は見ることはできないと追い返されたという。健康面では、幼い頃から元気いっぱいの子どもではなかったようです。尋常小学校に入学したころは虚弱体質で養護学級へ通っておられました。目も悪く小学校2年生からずっと眼鏡人生だといわれています。小学生の時に叔母に平手打ちをされて左耳の鼓膜を損傷し難聴になりました。19歳の時には肺結核にかかった。右肺の切除手術をされています。医師からは40歳までしか生きられないと宣告された。結婚はするなと言われた。運よく生き延びたが、58歳の時に大腸がんになった。手術で取り除いた。その後60代、70代、80代と歳を重ねることができたが、病気していないからと言っても元気ハツラツとは限らない。気づいたときは、よたよた歩きの「ザ・おじいさん」になっていました。腹がでてきて腹まわりは1mを越えていたという。転機となったのは、86歳でトレーニングジムで筋トレを始めたことだった。バランスボールにもたれて数回がやっとだったスクワットは、まもなく15回できるようになった。その後はバーベルを肩に担いで、7年後の今では30キロのバーベルを担いで10回×3セットをこなしているそうです。スクワットも腕立て伏せも上達が数字にはっきりと表れます。それに体もどんどん変わっていくんですよ。僕の場合、筋トレをはじめて3年半後には、体脂肪率が25.9%から17.1%に、筋肉量は42.4キロから45.2キロになりました。背筋はピーンと伸び、肩は後ろに引けていて、正しい位置から首がスッとまっすぐ。膝も伸び、足腰に痛みはまったくなし、あんなに出ていた腹もすっきりと、片肺だけへこんでいた胸にもしっかりと筋肉がつき、60年以上つきあってきた息切れとも無縁になりました。ヨボヨボの「ザ・おじいさん」が、「びっくりするほど若々しい人」に変身できるなんて、こんなに楽しいことがありますか。会う人ごとに褒められて、いつだって気分は上々です。(93歳、崑ちゃんのハツラツ幸齢期 大村崑 中央公論新社)
2025.10.17
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不安や恐怖を考えるにあたって、「神経症的な不安」と「現実的な不安」をきちんと分けて対応することが大事になります。神経症的な不安にはどんなものがあるか。・人に嫌われているかもしれない。・赤面恐怖、体臭恐怖が気になる。・仕事でミスや失敗をすると、同僚に軽蔑されるかもしれない。・ガンなどの難病にかかって入院することになったらどうしようか。現実的な不安も見てみましょう。・今日の夕ご飯は何にしようか。・明日は試験があるが、準備不足なので不安だ。・仕事のノルマを果たすことができないのでイライラしている。・毎月の家計費がマイナスになっているので不安だ。・巨大地震がやってくる確率が高いと言われているので心配だ。神経症的な不安を考える上で大事なことは、生の欲望があるから不安が生まれているということです。・人から仲間として受け入れてもらいたいと欲望があるから、嫌われて仲間外れにされるのが怖い。・完璧な仕事をして、仕事が出来る人という評価を受けたいと思っているから、誰もが犯すようなミスや失敗が気になる。・いつも健康で長生きをしたいと思っているから、病気や認知症、寝たきりが気になる。不安と欲望はあざなえる縄のようなものです。神経症的な不安は生の欲望があることを教えてくれています。過度に不安や恐怖にとらわれると、生の欲望のことを忘れてしまいます。そして不安や恐怖を取り除いて、すっきりした気持ちを作りだそうとします。この方向は、精神交互作用でアリ地獄の底に落ちてしまいます。森田では神経症的な不安や恐怖は「あるがまま」に受け入れて、生の欲望を発揮に力を入れましょうと言われています。次に現実的な不安や恐怖は、神経症的な不安のように「完全服従」という態度をとるのは問題です。むしろ、積極果敢に手を出して不安や恐怖の原因を無くするように行動しなければなりません。明日のテストが心配なら、しんどくても勉強しなければいけません。仕事のノルマが達成できないのなら、どうすれば目標に近づくか検討して行動しなければなりません。家計費がマイナスになって自己破産が心配という場合は、ライフプランナーなどに相談して家計の収支バランスを見直す必要があります。地震が心配から、家具固定する。耐震化工事を検討する。非常食を用意する。避難訓練に参加する。など具体的な行動をとらなければなりません。神経質者の場合、神経症的不安に対しては、過度に不安や恐怖と格闘している。不安や恐怖を抱えたまま生の欲望の発揮に舵を切る必要があります。一方現実的な不安や恐怖に対しては、不安から目を背け、楽なほうに流されている。「気分本位」な生活になっている。現実的な問題は未解決のまま残り、より深刻な不安や困難として積み重なっていきます。これを逆にすけば、誰でも幸せな人生が待っています。
2025.10.16
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1年半前に脳外科医で神の手を持つと言われた福島孝徳医師が81歳で逝去された。福島孝徳記念病院で直接指導を受けられた根本暁央医師のお話です。あるとき福島先生が根本氏に次のような質問をされた。手術でもゴルフでも何でもいい、上達するうえで大事なことが4つある。一つは才能です。一つは指導者、一つは努力、もう一つは運です。これを大事な順番に並べてみなさい。根本氏は、最初に才能、次に指導者、努力、最後に運ですと答えました。そうしたら「お前は本当に馬鹿だな」と言われて、福島先生は、「指導者、努力、才能、運」と言われました。なぜかというと、いくら才能があっても、一人で努力したところでちゃんと上達することはできない。よい指導者に就くことが一番大事。そこで努力するからうまくなる。才能はそこに肉付けしてくれるものだと言われました。この4つが全部揃った上で、最後は「場数をこなす」ことだと言われました。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 9月号 49ページ)福島先生は、目標を達成したいと思ったとき大事なことが5つあると言われています。そして肝心なことは、優先順位があるということです。その中でもよい指導者を見つけることが大事になるといわれています。これは森田理論学習にも当てはまると思います。森田では森田先生が偉大な指導者です。文献を多数残されております。また弟子を多数輩出されている点も見逃せません。次に自助組織のNPO法人生活の発見会には素晴らしい先輩方がいらっしゃいます。ではどのような先輩から学んでいけばよいのか。ずばり森田理論と行動実践のバランスが取れている人です。森田では理論と行動は車の両輪にたとえられます。小さいなら小さいなりに同じ大きさの車輪であることが肝心です。理論が深まってくると当然行動実践の車輪は付け替える必要があります。つまり2つの車輪のバランスが取れているを見つけることが肝心です。たまに、理論の車輪はとてつもなく大きいが、行動実践の車輪は見るべきものがほとんどないという人がいます。こういう人を師と見誤っては将来の展望は開けてきません。次に、努力、才能、運、経験ですが、神経質性格を持っている人が、悔いのない人生を送りたいと思えば、森田理論学習は必須だと思います。1年くらいは寝食を忘れるくらい取り組んでみたいものです。努力精進をくり返していけば、味わい深い人生観を獲得できます。森田理論の行動実践は一つではありません。様々な切り口が用意されています。最初のうちは、数多い選択肢の中から一つか二つに絞り込むことだと思っています。例えば規則正しい生活習慣を作るなどです。私は森田先生の「鶯の綱渡り」という宴会芸を真似て、一人一芸を磨きあげてきました。もう15年以上になります。仲間とグループを作って、老人ホームや地域のイベントで披露しております。今や「わが人生に悔いなし」と思えるようになりました。若いころは神経症でのたうち回っていたが、最近は霧が晴れて視界良好になってきたような感じがしております。
2025.10.15
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精神療法には得手不得手があると思います。自分抱えている問題に一番に対応している療法に取り組むことが有効だと思われます。大まかにその違いをご紹介します。①森田療法・・・ちょっとした不安に過度にとらわれて、はからい行為を止められない人に適応しています。不安はあるがままに受け入れて、目の前のなすべきことに取り組むことを目指します。②認知療法・・・極端な認識の誤りを持っている人。事実を無視して先入観、思い込み、決めつけ、早合点してしまう人に合います。認知の修正を目指します。論理療法も認知の誤りを問題にします。認知療法と行動療法を合体させて、認知行動療法はよく知られています。保険適応となっています。不安をいくつもの階層に分けて、やりやすいところから、恐怖や不安に段階的に慣らしていく方法取ります。これはエクスエクスポーシャ―(暴露療法)と呼ばれています。③アドラー心理学・・・人間の悩みの大半は人間関係の悪化からもたらさられるという考え方に基づいて、どういう人間関係を目指していけばよいのかを教えてくれています。他者承認、他者貢献、自己容認がポイントになるようです。対人関係の問題を抱えている人に適しています。④マインドフルネス・・・藤井英雄氏によると、マインドフルネスとは「今、ここ」の現実にリアルタイムかつ客観的に気付いていくことだと言われています。過去や未来に心を奪われるのではなく、今ここに集中することと不安などの感情や思考に振りまわされるのでなく、それを客観的に見つめることを目指します。瞑想は一つの手法ですが、それがマインドフルネスのすべてではありません。⑤内観療法・・・自己中心的で周りの人に対して、過度の要求をしたり、支配欲が強い人には効果があります。お世話になったこと。して差し上げたこと、迷惑をかけたことを身近な人との関係の中から調べていきます。両親、祖父母、兄弟、同僚、友達などに拡がります。一人で行います。1週間の集中内観を受けた人によると、感謝の気持ちが湧き出て最後は涙が止まらなくなるそうです。但し、日常内観を継続しないと元の木阿弥になるようです。⑤交流分析・・・個人の人格を分析する理論で、それに基づいて行動の変化を促します。自分の人格を、回避・孤立型、協調・共存型、拒絶・自閉型、独善・排他型の4つに分けてどういう傾向が強いのかを分析して、今後の対人関係などに活かしていくものです。エコグラムが有名です。⑥家族療法・・・人間にとって最初の社会である家族が心の形成に大きな与えている。家族の人間関係の改善を目指します。様々な手法があります。愛着障害を抱えている人に役に立つ療法です。⑥ロゴ・セラピー・・・意味療法とも言います。人間は実存的に自らの生きる意味を追い求めており、その人生の意味が見つけられないことが、心の病に関係しているとみています。ナチスドイツの強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルが有名です。その他精神療法はいろいろとあります。例えば、スキーマ療法、弁証法的行動療法があります。弁証法的行動療法は認知行動療法をベースにマインドフルネスや感情調整スキルを統合した療法です。すぐに不快感情に振り回されてしまう人、苦しみへの耐性力に欠ける人、人間関係をよくするコミュニケーションなどを学びます。自分びったりとフィットする精神療法をぜひ見つけていただきたいと思います。その他、薬物療法、カウンセリングを視野に入れて、神経症がある程度落ち着いたら、神経質者の生き方を取り扱っている森田理論の学習に本格的に取り組んでいくとその後の生き方が変わってきます。
2025.10.14
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「神経質の本態と療法」(森田正馬 白揚社)の解説は、河合博先生が書かれている。この中に「逆説療法」について詳しく解説されている。本書の中に発作性神経症の治験例があるが、この治し方は、できるだけ発作を起こすように努力してみよ、ということである。症状は神経質患者の意識の中心にあり、これを忘れよう、意識すまいと努力する。すなわち意識の中心より周辺に押しやろう押し込めようとする。そうすればするほど、それは意識の中心を占領する。意識しまいとすればするほどますます、一点に凝集強化される。これが神経質の症状である。しかし意識は、耐えざる流動・変化である。神経質症状も、環境の中で力動的に変化消長する。そして症状が意識の中心より、やや遠ざかったときに、意識的に無理にこれを中心に持ってくるように患者に努力させる。発作を起こすようにさせる。これは平素の患者の努力とは反対の心のはたらきをさせるのである。すると、ここに意外なことには、中心に持って行こうとする努力とは逆に、周囲に退くのである。(同書 267ページ)森田先生は、不眠の患者や心悸亢進発作の患者に逆説療法を試されている不眠の患者には、今日は寝てはならない。今日一晩寝ないでその結果どういう心理状態になるか、あるいは体調の変化の様子を明日詳しく報告するように指示された。いつもは寝ようと色々と工夫していた患者に、森田先生は逆に朝まで寝ないで起きておくようにという逆説療法を行われたのです。その患者は、憑き物が取れたようにその夜はぐっすりと眠り、目が覚めると朝になっていたという。心悸亢進発作の女性の患者は、一度発作が起これば、多くは3日あるいは5日間、同様の発作が起きていた。森田先生は、まずこれが器質的な病気ではなく神経性のものであることを確認された。本患者は私が往診したとき、ちょうど昨夜その発作があって、今夜もまた同じ発作が起きるに違いないと言って、これを期待していたので、私はこれ幸いと患者に向かい、「今夜寝るときに、発作がもっとも起こりやすいという横臥位をとり、自分から進んで、その発作を起こし、しかもその位置のままに苦痛を忍耐し、かつその発作の起こり方から、全経過を熱心に詳細に観察するようにして下さい。そうすれば私は、あなたの体験によって、将来けっして発作の起こらない方法をお教えする」と伝えた。この患者は森田先生が指示されたようにしようとしたが、自分で発作を起こすことができないで、5分も立たないうちに、眠りに入り、翌朝まで気が付かなかったという。
2025.10.13
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森田先生は、「善悪不離・苦楽共存」と言われています。(森田全集 第5巻 653ページ)「善と悪」「苦と楽」はあざなえる縄のように一体のものであり、切り離すことは不可能であるということです。私たちは別々のものとして区別してしまう傾向が顕著ですが、両面観で両方を見ていかないと正しい判断はできないということになります。それらを別々のもとして取り扱うと次のようなことが起きます。苦しいことや嫌なことにとらわれてしまいます。目の敵にしてなんとかして取り除こうとするか避けるようになります。精神交互作用で神経症を固着させてしまうことになります。森田先生によると、人生には苦しみや不安がつきものであり、それを排除しようとすれば、かえって苦しみを増悪する原因になると言われました。森田先生は、苦しみや不安をあるがままに認めて、その裏にある生の欲望に向かって努力精進する態度が肝心であると言われました。恐怖や不安をなくして楽になろうとすれば、自己嫌悪感、自己否定感が生まれてきます。どうにもならないことに関わりすぎると、疲れ果ててしまい、目の前の「なすべきこと」に取り組む気力・体力が萎えてしまいます。葛藤や苦しみはイヤなものではありますが、それを抱えたまま必要なことを必要な範囲で取り組んでいくと、観念的悪循環がなくなり、日常生活の好循環が生まれてきます。森田では善悪や苦楽といった価値評価の枠を乗り越えて、ただひたすら現実の「生命の躍動」そのものになって生きていくことを推奨しています。森田先生は、「不安心はすなわち用心の安心にして、失敗はすなわち改良の喜びである」と言われています。(森田全集 第5巻 652ページ)この言葉は、「不安は安心のための用心である」という言葉に言い換えることができます。不安は戦うべき相手ではありません。不安はあなたを強力にサポートしています。不安は、あなたに危険やリスク、問題や課題を教えてくれているありがたい存在です。いわば神様が我々に与えてくれた「ギフト(贈りもの)」のようなものです。解決可能な不安に取り組み、解決すれば小さな成功体験を味わうことできます。成功体験の積み重ねは、ステップアップした課題や目標への動機づけに繋がります。
2025.10.12
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「治らずして治る」という言葉は、なんともすっきりしない言葉である。禅問答のような言葉である。第三者から見ると、神経症が「治っている」ように見えるのだが、本人にしてみればすっきりとしない。まだ治ったとは思えないという状態のことだろうか。手足の骨が折れたとき、ギブスを取り付けてじっとしていると骨がくっついて、元のように動かせるようになることを想定しているのであろうか。そもそも神経症というものは、不安や症状を取り除きたいと思っているうちに、気がつくといつの間にかアリ地獄に落ちていたというようなものです。観念上の悪循環、行動上の悪循環で仕事や日常生活に支障が出てきます。自分で意識しないうちに徐々に進行していくので厄介です。神経症が治るというのは、アリ地獄の底から地上に這い出ることを言います。これは口で言うは易く、実行困難です。自分一人でなんとかなることはありません。仲間の助けが必要になります。時には精神科医、臨床心理士の力が必要になります。運よく地上に這い出すことができたらどうなるか。不安や症状にとらわれやすいという神経質性格が、急に外向的性格に変わり、不安や症状に振り回されなくなるということではありません。不安や症状にとらわれながらも、目の前のなすべきことを何とかこなせるようになってきたということです。この状態は不安にとらわれながらも、「本当に苦しいよね。つらいよね。でも仕事や生活を放置していくわけにはいかないから、それらはいったん棚上げにして最低限必要なことだけをやっていこう」という段階に変化してきたということです。この状態は、第三者から見ると、「そんなのあたりまえのこと、普通の人はみんなそうしているじゃない」ということになります。ことさら、症状が治ったとか、治らないとか議論しているのはおかしいということになります。神経症の場合は、葛藤や苦悩が大きいので、どん底にいた時の苦しみを10とすると、いまはどれくらい軽減されたと考えます。行動力が回復してくると、葛藤や苦悩が軽減してきます。苦しみが9、8、7・・・と減少してきます。その減少した部分が実は治ったということなのですが、素直には納得できない。それは不安や神経症に振り回されないで、完治することをイメージしているからです。心配性という神経質性格は一生ものですから、そんなことはあり得ないことなのですが、目標が高すぎていつまでも苦しんでいるということになります。第三者から、「これ以上治さなくてもいいんじゃない」と助言されても、そんなことは受け入れられないのです。「万が一再発したどうなるの。責任を取ってくれるの」という気持ちなのです。「治らずして治る」というのは、完全に治らなくても、仕事や日常生活が何とか回るようになった時点で神経症の克服宣言をしましょうと言っているのです。そして、ここからが大事なことですが、神経質性格には、他の性格者には見られない類まれな優れたプラスの特徴があります。プラスの側面を大いに評価して、神経質性格として人生90年時代を乗り切る人生観を確立していくことに邁進していくことがより大事になります。そのためには森田理論学習を継続することです。これを一人でやっていてもあまり顕著な効果は望めません。幸い森田には自助組織生活の発見会があります。地方には集談会があります。それだけでは物足りない方には、現在はネットを通じで様々な学習会や交流会が開催されています。これを活用すれば全国の仲間と家に居ながらつながります。ちなみに私は地元集談会の他、4つのZOOMの学習会に参加しています。井の中の蛙が、大海に飛び出たようなものです。全国の人と交流ができて嬉しいかぎりです。
2025.10.11
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森田先生は修養は実際を離れてはいけないと言われています。実際と修養が不即不離でなくてはならない。事上の禅が必要だと言われている。これを次のような例で説明されている。Ⅿ君は、中学では1番で卒業し、士官学校には、ただ1回で、17人に1人の競争試験に合格して、入学したのだから、優秀な人です。それが大尉にまでなって、それをやめて今は精神病院の看護人をしている。どうして、そうなるかというと、神経質のいろいろな思想の矛盾からの結果です。はじめ僕のところに入院し、その後、古閑君・佐藤君のところと、その間、郷里に帰ったり、上京したりして、長い間隔はあったけれど、森田療法の遍歴者であって、療法のための療法、修養のための修養で、いつまでも、物足りないという気分のために、修養ということに執着しています。Ⅿ君が軍人としての勉強をすれば、すなわちそれが修養になり、向上するけれども、それをやめて、いたずらに修養という机上論にとらわれるから、それが思想の矛盾になって、逆に人生は退歩するばかりである。現在、同君のやっている看護人も、やはり修養のため、治療のためのつもりで、やっているのである。(森田全集 第5巻 266ページ)この話によると、Ⅿ君は症状を治すことを唯一最大の目的にして生活していることが分かります。森田先生は神経症を治すための修養はやめて、その時その場で、必要に応じて必要なことを必要なだけ取り組むことが肝心であると言われています。神経症で苦しんでいる人は、不安や恐怖、違和感、不快感などがあると、まずそれを取り除いて万全の精神状態を作り上げてから行動しようとする。また仕事をするにあたっては、頭の中で「これならなんとかなる」と納得しようとする。徹底的にシミュレーションをしないでとりかかると失敗ばかりしまうと考えてしまう。失敗すれば費やした労力やお金が無駄になりかねない。人から嘲笑される。効率を重視し、やらなければよかったというのは何とか避けたい。リスクをとることを怖れ、再起不能に陥ることを避けようとする。挑戦や行動をした結果、たとえ失敗しても貴重な経験の蓄積は、人間としての成長につながるという考えは無視しているのである。森田先生は「事上の禅」で伝えたいことは次のようなものです。不安や恐怖、イヤな気分を観念の世界でどうにかしようとするのではなく、それらを「あるがまま」に認めて受け入れ、目の前の「なすべきこと」に視線を移して行動するということになります。例えば、緊張や不安を感じているときに、「どうしてこんなに不安なんだろう」「この不安を取り除かなければ」と考えるのではなく、「不安を感じていても、やるべき仕事や家事に手をつける」という態度で生活することです。感情や気分と実践・行動はきちんと分離するということです。理屈や感情にとらわれずに、行動を通じて現実に向き合うと、その結果として、心が次第に安定し、より豊かな生活を送れるようになるということです。頭で納得できるのを待つのではなく、まず行動することが、心の状態を健康に保つ一番の近道だと森田先生は説明されています。
2025.10.10
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高知県四万十町は、1日1000台の交通量しかありません。京都府南山城村は、2014年全国消滅可能性都市の全国17位にランクされた村です。一見集客に不利な奥地にありながら、平日も賑わい、全国にファンを持つ「道の駅」があります。「道の駅四万十とおわ」と「道の駅 お茶の京都 南山城村」です。年間売り上げは、「四万十とおわ」が5億円、「南山城村」7億円です。ちなみに全国の道の駅の売り上げ平均は2億円と言われています。利用者はそれぞれ年間約15万人、62万人です。実はこの2つの道の駅は運営ノウハウの面で協力関係にあります。「南山城村」の方が、「四万十とおわ」に出向いてその考え方などを学んで実践してきたのです。「四万十とおわ」のほうは、実は高知在住で地域活性化、地域再生のパイオニアである梅原真氏の指導を受けているのです。梅原真氏の考え方は、地元に住んでいると都会の人から見ると、その土地その土地で素晴らしいところがいろいろとあるのに、その素晴らしさに気付いていないというのが出発点になっています。あるとき「四万十とおわ」の畦地履正氏が梅原真氏に「十和村には特産品が何もない」と愚痴をこぼしたそうです。すると、梅原真氏がバーンと机をたたいて、「何いっとんじゃおまんは!」「十和におって、この地域の価値が分らんのか」「おまえ、そこの川見てみい。天然の鮎が泳いどって、網を放ったらばんばん獲れる。これを東京の築地の料亭で1匹食うてみい。3000円はするぞ。おまんはそれをタダでこんだけ食えるんじゃ」「十和村のお茶は全部手摘みじゃ。その価値が分らんのか!」畦地氏は目から鱗でした。何もないと言いながら、本当は非常に贅沢な、自然の「資本」があることに気づいた。そこから彼の人生はガラッと変わったそうです。十和村には手摘みのおいしいお茶があったのですが、静岡茶のブレンド用として出荷されていた。そこで「四万十川のほとりで新茶を楽しむ会」を企画したところ、ゴールデンウィークの2日間で30万円の売り上げがあった。次の年は200万円の売り上げがあった。その他、「四万十の水」「天然の鮎や鰻」「四万十の檜風呂」(檜の端材を袋詰めにして販売)、「四万十地栗・ジグリキントン」(十和村は栗の産地だった。最盛期800トンあったが当時30トンを切っていたので再生することにした。生産工場も稼働している)これらが宣伝効果と相まって大盛況となっている。南山城村は、隣町と合わせると京都産のお茶の7割から8割を生産していた。これを宇治の茶問屋さんが買取り「宇治茶」として販売されていた。今は「むらちゃ(村茶)というブランドで販売しています。人気なのは村で春先に摘んだ茶葉で作る「村抹茶ソフトクリーム」です。濃厚なお抹茶味ときれいな緑色が特徴の品種「おくみどり」を使って、注文を受けたその場で作ります。連休シーズには1日で1400本売ることもあります。これで年商7億ですから、普通の道の駅の3倍強です。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 9月号 22ページ参照)我々も自分の強みや能力を棚卸して、自分の強みを活かすような生き方をしたいものです。自分の欠点や弱みや不得意などを修正することに注意や意識を向けていると、元々持っていた長所や強みや得意は目減りしてくると集談会で聞きました。頭に入れておきたい言葉です。
2025.10.09
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水谷啓二氏が形外会で森田先生に次のような質問を投げかけました。学校の書物をまったく読む気が起きないときに、形外会の余興の滑稽劇の稽古に精を出した。これは森田先生がよく言われる、ともかくも手を出したことになるでしょうか。これに答えて、森田先生曰く。それは手を出したことにはならない。もし君が学校の書物を読めば、それが手を出したことに相当する。君が書物を読まないのは、苦しくて興に乗らないからである。その苦しいながらに読むことをともかくもというのである。(森田全集 第5巻 301ページ参照)このやり取りについて、「応用森田・活用森田」の学習会で話題になった。書物を読みたくないというのは、素直な気持ちではないのか、森田では素直になることを「純な心」と言います。自分を叱咤激励して勉強したり書物を読むというのは苦痛です。それを回避するのは「純な心」ではないか。どう考えたらよいのでしょうか。書物を読みたくないというのは自然に湧き上がってきた感情です。感情は自然現象ですから、どうすることもできません。この感情を無視したり、コントロールしようとすると、その嫌な感情をつつきまわして刺激することになり、どんどん膨れ上がってきます。森田では嫌なことは「あるがまま」に認めて受け入れ、目の前のなすべきことに手をつけることをお勧めしています。この場合は、「書物を読む」か「滑稽劇の練習をする」の2つの選択肢がありました。どちらを選択するかは、その時の状況や状態によるのではないでしょうか。例えば、試験が近づいている、リポートの提出期限が迫っているという場合は、いくら気分が乗らなくても書物を読まなければならない。森田先生の話は、そうした状況を想定しての発言ではないでしょうか。試験が近づいているのに、やる気がしないので、やりやすい滑稽劇の練習をするというのは問題の先送りになるのではないでしょうか。不安は解消できないどころか、ますます大きくなっていく。片や、特段急いで勉強する必要がない場合もあります。それより近日中に滑稽劇の上演が迫っているような場合は、滑稽劇の練習を優先した方がよいかもしれません。いずれにしても、その時の状況や状態を見ないで安易に「こうした方がよい」などと観念的に行動方針を出すことはできないということです。主観的事実だけでなく、客観的事実を加味して考えないと、片肺飛行になってしまいます。片肺飛行は不安定でとても危険です。サーカスの綱渡りでは落下して大けがをします。神経質者は両面観でものごとを見るということが比較的苦手です。自分の主観的事実を重視して、客観的事実が蚊帳の外になっているというケースが多いように思います。精神拮抗作用というのは、ある欲望や考えが沸き起こったときに、それを制御する不安の感情が自然に湧き上がってくるというものです。その両方の感情を比較検討して行動を選択しないと、問題行動が起きてしまうことになります。
2025.10.08
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「目的本位」という言葉は、森田理論学習をしているのは、森田理論の核心をなす言葉の一つとして受け取られており、改めて再考することはありません。前回瀬戸内支部主催の「応用森田・活用森田」の学習会で、「目的本位」という言葉の再考が行われた。とても参考になりましたので、このブログで取り上げてみたいと思います。生活の発見会から「新版 森田理論学習の要点」が2004年に発行されたとき、従来の要点である「森田理論学習の実際」(紫色の表紙)で大きく取り上げられていた「目的本位」という言葉が一時見当たらなくなりました。作成者にその理由を尋ねたところ、現代は「目的本位」に行動しても、目的が達成されないことが多く、結果として自己嫌悪、自己否定で苦しむ人がいると説明された。つまり「目的本位」が「かくあるべし」となって、自己嫌悪や自己否定に向かいかねないというものであった。その時はそんなものかなと思っていたが、その後も「目的本位」という言葉は多くの人から、森田理論の核となる考え方の一つとして使い続けられてきた。「目的本位」の意味するところが今回の学習会で解けた。帚木蓬生氏の「生きる力 森田正馬の15の提言」の中で、「目的本位」の反対語は「気分本位」だと言われています。「気分本位」は自分の行動を気分で判断し行動することです。気分で行動すると、イヤなことに手を付けなくなります。ですから「気分本位」行動は「怠惰」に直結します。「気分本位」の反対の極みにあるのが、森田正馬が口にした「目的本位」です。今日一日、悲観し溜息をつきながら働いたとき、悲惨な1日だと考えるのが、「気分本位」であり、よくぞ働いた、目的は達したと、安堵するのが「目的本位」だと言われています。不安や症状があっても、「目的本位」に行動することが神経症克服には欠かせないと言われています。今回の学習会でも「目的本位」の役割の一つとしてそのことを確認しました。そのうえで「目的本位」には、大きな落とし穴があるということがわかりました。有り余るエネルギーを持っている人は、「目的本位」で行動しなさいと言われると、他人のことや外部の状況やその変化にはお構いなしに、猪突猛進で我を押し通してしまうことがあります。しかし自分の気持ちや欲求を最優先に考えて行動していると、他者からの反発を招き反目し合うようになります。ではどうすればよいのか。「物事本位」になればよいという話が参考になりました。つまり我を押し通すのではなく、他人や物事とのバランス、調和を最優先に考えるということです。森田では主観的事実に対して、客観的事実があるといいます。そのバランスを取りながら前進していくことが欠かせないと言ことがわかりました。主観的事実は無視してはいけませんが、それを基にして行動すると弊害が出てきます。むしろ客観的事実を優先した方が丸く収まり、自他ともに幸せになれます。
2025.10.07
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WBO世界バンタム級王者の武居由樹氏のお話です。武居氏は元々キックボクシングをされていて、キックボクシングでも世界チャンピオンになっている。武居さんの両親は離婚し、母子家庭で育ち、母親のネグレクト(育児放棄)にあった。愛情いっぱいに育てられたわけではなかった。家を追い出されて非常階段で寝ることもしょっちゅうあったという。まともに食事を与えられないでコンビニのおにぎりを盗んで補導されたこともあった。その後育ての親であるキックボクシングの指導者、育ての親である古川誠一氏夫婦にめぐり合うことができたのが大きかった。K-1で優勝したときのインタビューで、育ての親である古川夫婦に対して、「古川氏との出会いがなかったら今の自分はない」感謝の言葉を述べている。と同時にネグレクトを受け、音沙汰が途絶えた実の母親に対して、「生んでくれただけで感謝します」と述べている。普通はネグレクトの母親に対して、怨みや不平不満で顔も見たくないという気持ちになると思われます。その母親に対して、世界チャンピオンになったからとはいえ、「生んでくれただけで十分です」という言葉の重みは大きい。大橋ボクシングジム会長の大橋秀行氏は、恨みや不平不満というエネルギーを発していると、本人はすごく疲れる。ボクシングに取り組むエネルギーは萎えてしまう。感謝はその真逆で大きなプラスのエネルギーを生み出す。人生の最初で躓いても、それを「神様からのギフト」として受け取り、自分の成長の肥やしにできるか、あるいはいじけてダメになってしまうか、この心の持ち方でその後の展開は全然違ってくると言われている。武居氏は試合後のインタビューでは「足立区から来た武居です」と毎回言っているという。『はい、その言葉に込めているのもやっぱり感謝ですね。近所のおじいちゃんやおばあちゃんもずっと応援してくれて、「試合見たよ」と声をかけてくれるんです。足立区に育ててもらったので恩返しがしたいですし、足立区ってどうしても治安の悪いイメージがあるじゃないですか。自分が活躍することで、良いイメージに換えたいっていう想いも強いです』私は毎晩仏壇の前で両親やご先祖様に、「今日も無事に過ごすことができました。ご先祖様の加護に感謝いたします」と言って手を合わせています。また毎日日記に感謝の言葉を書いています。特に思い浮かばないという日は、当たり前に過ごしていることの中から見つけています。もしこれが突然失われたらどうなるだろうと思うことにしています。そうするといくつも感謝の言葉が湧き上がってくるのです。感謝の言葉は、不平不満をなくする「魔法の言葉」だと思っております。
2025.10.06
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最近思うことですが、人間には誰でも得手・不得手があります。野球選手になりたい、サッカーの選手になりたい、俳優になりたい、学者になりたいと思っても能力がなければどうにもなりません。最初から箸にも棒にも掛からないということならすっぱりとあきらめがつきますが、中学、高校、大学である程度の実績を残した人は未練が残ります。こういう場合は、3年ぐらいの期間限定で自分の能力を見極めるというのは如何でしょうか。プロとして最低でも10年間くらいかけて、その世界で活躍ができそうかどうかを見極めています。目途が立てば、技術や能力をさらに高めて、プロとして飯を食っていけることができます。もし技術的、能力的な向上が見込めない場合は、よくよく考えてみる必要があります。結果的に引導を渡されて、しかたなく辞めざるを得ないというのは自分も惨めになります。私はこの世の中は「捨てる神あれば拾う神がある」と思っています。森田理論の「両面観」で分かったことは、誰でも長所と短所、強みと弱み、得意と苦手を持っているということです。普通は短所や弱点や苦手をなくして、すべてを長所や強みや得意に変えてしまいたいと考えます。限られた人生の中で、それは尊いことではではあるが、現実的ではないと思います。堀紘一氏は、そんなことを考えて実行すると、長所や強みや得意にヤスリをかけるようなものだと言われている。そしてとりえのない人間になってしまう。他人と差別化できるものがなくなり、自信が持てなくなり、自己否定するようになる。堀紘一氏によると、自分の長所、強み、得意、能力、環境、境遇を正しく見極めて、全エネルギーをそこにフォーカスしていくことが正しい選択であると指摘されている。この考え方を基に自分の例で考えてみた。自分の弱点や短所や苦手としては、いつも一言多く良好な人間関係が築けない。他人は怖いものという潜在意識が強い。マネージメント力、統率力とは縁がない。仕事に対する責任感がない。物事に飽きやすいところがある。つまり社会性に欠けているので、利害が衝突する会社員生活は困難を極める。自分の強みや長所としては、好奇心がとても強い。興味や関心の範囲が広い。探究心が強い。分析力がある。論理的である。読書が好きである。人に対してよりも、物や真実に対する興味や関心は極めて強いものがある。私の場合は、弱点や短所や苦手なことはある程度目をつむって、ここにフォーカスして生きていけばよいのだと判断した。これは森田理論の「神経質の性格特徴」を学習して気づいた。それまでは、社会性のない自分を認めることができないで、将来を悲観していたが、自分に対する正しい見方考え方ができるようになって、将来の方向性がはっきりと見えてきた。今やっていること、まずはこのブログを13年継続している。森田理論学習は40年、生活の発見会の支部活動も30年くらいは続けている。老人ホーム慰問活動を15年くらい続けている。チンドン屋の一座に参加しアルトサックスを吹いている。その他、どじょう掬い、獅子舞、浪曲奇術、傘踊り、しば天踊り、民謡などの踊り、オカリナ、ウクレレ、手品、腹話術などの一人一芸に取り組んでいる。自家用野菜や花卉園芸、果樹作り、男の料理、みそなどの加工食品作りに精を出している。今年は夏野菜(ミニトマト、ナス、ピーマン、シシトウ、カボチャ)が大豊作で、多くの知り合いの人にお裾分けをすることができた。自他ともに嬉しかった。これらはある程度社会貢献にもつながり、生きがいのある人生に繋がっている。仕事としては利害が対立することや中間管理者の仕事はことごとく失敗した。今考えるには、農業、職人、研究職、編集者、取材、刑事、鑑識、検査、分析化学、物つくりなど自分の裁量でできるものを選ぶべきであったと思う。人と関わるよりも、真実を追求することや物を作り上げる仕事が性に合っていたのである。大学卒業時に安易に訪問営業の職業選択をしたのが運の尽きだった。現在マンションの管理人をしているが、自分の裁量でできるので、比較的自分に合った仕事だと思う。ただしこれは給料が少ないので、家のローンを抱え、子供の教育費を賄うには無理がある。いろんな条件を加味して、人に相談しながら職業選択をすべきであった。他山の石として、これから人生を切り開いていく人は参考にしていただきたい。
2025.10.05
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森田先生のお話です。我々の精神は、外界の刺激と内界の精神発動との間の、種々の関係において意識の消長が起こる。外界と内界とが全く調和する時に、刺激を感ぜず意識は零となり、刺激が適度の時に、快と興奮と緊張とを覚え、刺激が過度の時に、苦痛を意識するようになる。空気が温度と湿度と風とが、適度である時に、我々はなんの感じもなく、あるいは春風に快を覚え、寒風に苦痛を感ずる等の如きである。(森田全集 第5巻 646ページ)森田先生は外界の状況は刻々と変化している。その変化は私たちの内界にさまざまな影響を与えている。感情の発生は外界と内界の相互作用であると言われている。私たちは湧き上がってきたその感情に基づいて対応しているのである。森田理論に「精神拮抗作用」というキーワードある。ガス栓の締め忘れやドアの施錠が気になるというのは、火事や盗難で全財産を失うことを心配するからです。どうしても気になって心配だという場合は、再び家に帰り再度点検をする。閉め忘れていた時は再度やり直して安心して出かけることができます。「精神拮抗作用」は、気がかりなことや欲望が発生すると、同時にそれを打ち消すような考えが湧き上がってくるというものです。「精神拮抗作用」が人間に備わっているおかげで、大事に至らずに済んでいる。欲望の暴走を制御しているのは「精神拮抗作用」が働いているのである。大変ありがたい機能が人間には標準装備されているのである。この機能を大いに活用させてもらいたいものです。普通の人でも、ガスの元栓、クーラーの電源の切り忘れ、ドアの施錠が気になることがあります。そういうとき、心ここにあらず状態で何か他のことに気を取られたまま確認行為をしていることが多い。これは車の運転をしている時に、わき見運転をしているようなものです。大変危険です。意識を確認行為にきちんと向けることが必須です。きちんと向き合い、呼称確認をすることが大切です。「ガスの元栓OK」「電源OFFもOK」「ドアの施錠OK」とやれば、後から「きちんとやったかどうか」と迷うことはなくなります。それでも、不安や恐怖に取りつかれてしまう人は、不安の裏に欲望が存在していることを理解することが必要です。しかし現実には理解できても実行できないようです。不安や恐怖に行動が乗っ取られている状態です。この場合は可能ならば、せめて二人で確認するようにしたらどうでしょうか。一人ではパニックになっても二人で確認すれば安心できます。でも一人暮らしの人は無理ですね。不安と欲望はコインの裏表の関係にあることをしっかりと理解して、不安になった時は自分の欲望について考えてみるようにしたいものです。不安と欲望の関係は、長い棒を持ったサーカスの綱渡りのように上手にバランスを取らなければすぐに落下してしまいます。落下してしまえば、自分本来の目的に向かって前進することが不可能になってしまいます。
2025.10.04
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私たち日本人は、中学生の頃から英語を勉強しているにもかかわらず、日常会話すらできないのが現実です。残念なことですが、外国人に道順を尋ねられた時、対応不可能な場合が多い。これは日本人の英語教育が、外国人との会話を目的としていないからだと思います。極端なことを言えば、高校や大学の受験科目になっているので学習しているのです。英語でよい点を取るためには、難しい単語の意味や文法を数多く覚える。難解な英文を正確に日本語に翻訳できる能力の有無を判定しているのです。まるでパズルを解くような問題が多い。会話ができるということは軽視されてきたといわざるをえません。英語教育が実用的でなかったというのは、日本人にとってとても大きな損失です。父親の関係で外国で暮らした子供は、現地の子どもたちと交流の過程で現地語を身に着けています。英語というのは、見たことも聞いたこともない外国人の動作であり、その動作をマネるという唯一の方法で英語を身につけていくのです。外国人の動作を真似て言葉を覚えるということは、「体験」を通して言葉を覚えるということです。つまり、言葉というのは本来「体験」と一つになっているものであり、同じ意味を表している言葉でも、「体験」が違えばそれは全く違う言葉なのです。(生活の発見誌 8月号 30ページ)生活の発見誌8月号で、「神経症が治った人の真似をして、森田を習得しましょう」という提案がありました。ちなみに「学ぶ」の語源は、「真似(まね)ぶ」だそうです。上手な人のやり方をそっくりそのまま真似ているうちに、今までできなかったことがいつの間にかできるようになることはよくあります。特に子供の場合顕著です。神経症も集談会で治った先輩のやり方や考え方を真似ているうちに自分の症状もよくなった経験をお持ちの方もいらっしゃいます。森田先生は、「治った人にあやかれ」ということを言われています。実は私も集談会の中で先輩会員の真似をして、神経症の克服と生き方を身に着けてきました。私が参考にした先輩は、「物の性を尽くす」と「物そのものになりきる」を愚直に実践している方でした。身近な実践例をいくつも聞きました。自分でも実践したことがいくつもあります。例えば次のようなことです。・ビールをおいしく飲む方法。・カラオケを上手に歌う方法。・タイの粗炊きをおいしく作る方法。・水泳の楽しみ方。・映像ライブラリーの利用方法。・路傍の草花を楽しむ方法。・近場のハイキングコースの紹介・雑草と楽しく付き合う方法・盆栽の手入れの方法。現在の私は自家用野菜の作り方を写真にして集談会などで紹介しています。その他趣味も多彩なので具体的に紹介しています。今まで読んだ森田関係の図書の紹介などもしています。なかなか反応がないのですが、100人のうち1~2人でも関心を示す人が現れれば、成果があったと思うようにしています。
2025.10.03
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神経症で苦しんでいる人は、「ネガティブな感情や気分が、日常生活を支配している」という話を聞きました。神経症で苦しい時は、「この激しい怒りの感情を収めないと苦しくて仕方がない」「仮に無理して行動してもやることやすことがデタラメになる」と考えてしまう。「感情と行動の区別」「感情と行動の分離」が大事だということは分かっているのですが、いかんせん応用できていないのです。神経症を克服するためには、「感情本位」「気分本位」から脱却し、「感情はどうであれ、目的を達成するために行動する」という「目的本位」に転換することが欠かせません。感情や気分は自然現象ですから自由に操作することはできません。しかし、雨ふりを止めることはできませんが、傘をさして外出し、目的を果たすことは可能です。神経症で苦しい時は、外出すれば服が濡れてしまう、靴や足元が汚れてしまうことを気にして、肝心の目的は蚊帳の外になっているということです。マイナス感情がどんなに大きなものであっても、基本的には目的をしっかりと捉えておくことが肝心です。目的本位になるためにはどうすればよいのか。帚木蓬生氏は、「生きる力 森田正馬の15の提言」(85ページ)の中で、目的本位になるためには毎日同じ時間に同じ行動を繰り返し行う方法が一番簡単な方法だと述べておられます。規則正しい生活習慣、ルーティンワークを確立することが大事になると説明されておられます。これは森田理論の「目的本位」を実践するうえで、非常に有効かつ具体的な方法になると思います。森田理論では、神経症にとらわれている状態を、意識が内側(不安や感情)に向かい過ぎている状態だと考えます。この意識を外側、つまり現実世界での具体的な行動へと転換させるために規則正しい生活習慣、ルーティンワークを活用したいものです。これは3か月くらい繰り返せば習慣化できます。しかし、そんな堅苦しい生活はまっぴらごめんという人が多いのが現実です。人生の楽しみ方はたくさんあるのに型にはまった生活は生きづらさにつながるというのです。私はウィークディは規則正しい生活をしています。6時20分起床です。その後は決まった時間に決まったことをしています。緊張感を持って生活しているせいか、ここ何年も風邪を引いたことがありません。しかし、土曜日、日曜日、祝日は全く違います。起床時間は同じですが、懸案の事項への取り組み、田舎生活を楽しみ、飲み会に参加、芸能クラブに参加、イベントに参加、老人ホームの慰問活動など様々なことに取り組んでいます。それらが生活を活性化するアクセントになっているのです。ですから、一年中規則正しい生活という訳ではありません。規則正しい生活は、建物でいえば基礎部分だと思います。基礎がぐらついていては、どんなに立派な建物を立ててもいずれガタがきます。基礎をしっかり固めていけば、丈夫で長持ちするのではないでしょうか。
2025.10.02
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ビートたけしさんのお話です。見渡せば世の中、間抜けな奴ばかり。どいつもこいつも、間が悪いったらありゃしない。「間」というものは厄介で、その正体は見えにくいし、コントロールするのも難しい。けれど、それを制した奴だけが、それぞれの世界で成功することができるんだよ。(間抜けの構造 ビートたけし 新潮社)「間」というのは、意識して空白の時間、隙間時間を作ることです。一呼吸置くことで相手とタイミングを合わせ、一体化するといった意味があります。意識して、けじめをつけて一旦区切りつけるのです。締まりがなくなると、間が抜けて白けてしまいます。飽きてくるのです。宴会などで、予定の時間が来ると、「一本締め」「三本締め」で一旦お開きとなります。けじめをつけて次の行動に移るというのは、次の行動に移るときの呼び水となります。意識して「間」作り、次の行動に移ることは大事なことです。森田に、「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」というキーワードがありますが、意味するところは同じです。不安や恐怖にとらわれやすい神経質者にとってかなりハードルが高い。歌舞伎では一つの所作が完了したときに必ず「見得」をきって一区切りつける。歌舞伎の「見得」とは、役者が一連の動作の最終形として、ある動作をとることで、お客さんを興奮状態に持っていくのです。観客に「これでどうだ」と言わんばかりに動作をいったん止める。歌舞伎では、この「間」のポーズが決まれば拍手喝采となる。十分に「間」をとってから次の展開に移る。「間」がないとワサビのない刺身を食べるようなもので締まりがなくなります。人間関係で「間」が持てない人は、例えば怒りや腹だたしい感情が湧き上がってきたときに、その感情のままに暴言や暴力を振るうことになります。普通は小さい頃の雑多な経験の中から、「間」の持ち方を自然に身につけてきますが、友達や兄弟でけんかをしたことがないような人は、「間」の持ち方が身についていません。風の吹くまま、気の向くままの行動になりやすい。ハンドルに遊びがない、工作機械に潤滑油が行き渡っていないようなもので、絶えず摩擦を引き起こしているのです。「あなたはいつも一言多い」といわれるような人がいます。そういう人は、人間関係の「間」「車間距離」「ハンドルの遊び」の大切さがわかっていない人です。「一言多い」ために、人間関係の悪化を招いて自ら墓穴を掘っている。集談会で「人間関係は馬の合う人20%、馬の合わない人20%、どちらでもない人60%」の法則があると聞きました。「一言多い人」は、どちらでもない人を、馬の合わない人に付け加えて80%の人と折り合いが悪いようなものです。「一言多い発言」をできるだけ我慢するようにしたいものです。
2025.10.01
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