昨日、小学5年生のPTA行事で、実験教室をさせていただきました。
私自身の反省と感想が、まだ、ごった煮状態なんで、
アンケート結果も含めて、後ほど、公表したいと思います。
簡単に言えば、どうなのかと言えば、
結果オーライと言えばとってもオーライなのです。
しかし、自分に対して、何と言いましょうか、
がっかりだあ!!!!
しかし、それにも関わらずですよ、
さまざまな汚点を乗り越えて、
結果が良い
かえって言葉が見つからないのです。
(もちろん、準備や整理がハチャメチャなことを指摘された感想もあります)
それにしても、私という人間は、
いい加減な人間だとは思ってましたが、
ここまで整理がつかない、鈍くさい人間だとは、
自分で思ってもみませんでした。(今頃、気づいたのか!!)
特殊学級の生徒にも笑われます。
これで、不真面目に取り組んだのなら、
それはそれで納得するところもあります。
しかし、頑張ろうという意思はありながら、
そして、結構ドタバタ試行錯誤しながら、
「整理がつかない」、「準備が整わない」ということに、
正直 いらだちます。
これで、大失敗すれば、それはそれで納得するのですが、
内容自体は、これまた、結構、響いているのです。
「弟子にしてくれ」という感想もあります。
「楽しそうにしているのが、良かった」とも書かれています。
しかし、心は泣いているのです。
せっかく考えた、構想や準備をすっかり吹っ飛ばして、
その場しのぎで、やってしまう自分が情けないです。
でも、さらに、考えると、構想通りやったからといって
もっと良い結果が出せたかというと、そうとも言えないのです。
「ここは、やっぱりこうしなきゃ」という私の心の声が、
準備にブレーキをかけていたのかもしれません。
だったら、その声に従って、整理して準備すればいいものを、
まったくチグハグです。
プロとしては、失格です。
ま、もともと、プロになる気はなく、
アマチュアとして子どもと接したいと思ってますが、
講師料をもらうのが、恥ずかしい限りです。
でも、これをもらわなくちゃ、次につながらない。何もできなくなってしまう。
いただかなくてはなりません。これも辛い。
そっかあ、アホな標本として、見てもらえばいいんだなあ。
アホな「悪の天才科学者」への同情として、献金をいただいているのです。
少し、アタマの整理ができてきました。
「私は、最悪。 だけど、科学は最高。」
このプレゼンだったわけです。
何も、私のパフォーマンスを誉め称えるために、
皆さん集まってくれたわけでもないわけで、
科学に対する、良い印象を受け取ってもらえば、それで十分なわけです。
こんな鈍くさい寅さんでも、とっても楽しめるものが「科学」なんだ。
君たちに、科学のトビラを開けられないはずはない、って。
主役は、寅さんではなく、科学なのだ。
ただ、その人の人間性を離れた科学ってのも、
存在しないから始末が悪い。
現代の科学にはいろんな流れがありますが。
ある意味、「この世」は、人間の意識が作りだしたものだ
という考え方があります。
ある研究者は、極端なことを言えば、
科学の法則とサイエンスフィクションは、差はないというのです。
言語哲学者のヴィトゲンシュタインの影響で、
言葉のやりとりというのは、ゲームにすぎないという考えです。
これも、丸ごとでないにしろ、間違いなく真理の一部だと思います。
ですから、私の意識と参加者の意識の交流、
参加者同士の意識の交流が、科学の認識をつくっていくのです。
そういう意味で、寅さんの意識も、たいへん重要な要素ではあります。
そうなんだ、科学は「空」なんだ。
それなのに、私は、「モノ」や「事象」にこだわった準備をしてしまい、
それが、現場に立ったとき、参加者の意識を受けたときに
ズレを感じ、パニックになってしまうんだ。
モノにこだわらず、意識の交流パターンを複数想定して、
それに基づいた、準備をしておけばいいのだ。
だから、当然、「モノ」としての準備物は、
いっぱい多くなってしまうのだ。それでいいのだ。
そうだ、それほど、間違いではなかったのだ。
使わないものが大量で残っても、それはそれで、気にしなくていいのだ。
ただ、それが、参加者の目に入ると、
「何をしてるんだ」ということになってしまうだけなんだ。
気にならないように、整理して隠しておける道具を開発すればいいのだ。
だって、現場に立たないと、実際はどれを使うか、
決定できないんだから。
と、まあ、私の自問自答でした。
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