私が本選びの教訓としているのは、
「本を読んでよくわからなかったら、
自分のアタマが悪いと思うな。
その著者のアタマが悪いと思え。」
というものです。
これは、私の理解力不足を棚に上げる
負け惜しみではありますが、でも、実際
こう考えるのが、真っ当な筋道だと思います。
「この先生は、何て、アタマが悪いんだろう。
ボクにわからせることもできないんだから!」
という意識は、健全な子どもが持ってしかるべきだと思います。
だって、ある本では、チンプンカンプンなのに、
同じテーマで、別の著者は、とってもわかりやすく
目からウロコで、書いてくれていることが、ほとんどだからです。
で、どちらが、本質に迫った名著か、と言ったら、
当然、わかりやすい方だと思います。
と言うことは、
科学や学問の真髄は、
難しい専門用語を並べた専門書よりも
一般人向けや、子ども向けの啓蒙書の方に
見いだせる確率が高いということも、言えると思います。
なぜ、専門書はわかりづらく、また、面白くないか?
また、専門家の話(二流・三流の)は、わかりづらいか?
それは、一定の常識や権威を前提に、
話が始まっているからです。
学会の常識となっていることは、
知っているのが当たり前、という立場です。
それだけだったら、まだいいのですが、
読者や受講生が理解できないと、
「わからない?
世間では、この考えは、みんな正しいと言っているんだよ!
君は、ものわかりが悪いなあ!」
という立場で、脅されるからです。
科学というのは、そもそも権威に反抗するために生まれた
とも言えると思っています。(寅さんの理解では)
その場合、一般の人の常識や
学会の常識に反論することが、主な任務ですから、
だれでも、納得できるように、目からウロコのように
書いたり、話したりできなければなりません。
だから、本当の科学の最前線の人の話は、
わかりやすいものです。
ガリレオも、学会の専門用語のラテン語ではなく、民衆の言葉である
イタリア語をつかって、わかりやすく天体の動きを記しました。
ところが、いつの間にか、権威を押しつける側にくると
権威をかさにきた態度が、プンプンと臭うようになります。
これは、いつの間にか、科学の本質をはずれてしまった証拠でもあります。
だから、見かけは、最新情報を扱った、立派な本ですが、
中身は、昔の本のほうが、よっぽど良いということが
いっぱいあります。
そう言えば、権威を基にして、作られている本と言えば、
その代表作は、「学習指導要領準拠」と唄った
参考書たちでしょう。
これらは、教科書のことを覚えることが当然だ、という立場ですから
なぜ、こんなことを学ばなければならないか、
なんて問題意識は、ハナからありません。
著者は、自分のアタマで、これこれのことは、
子どもたちに、ぜひ覚えて欲しいことだ、との信念で書いていることは
まず、ないでしょう。
実際、本当に、何が子どもたちに必要かを
自分のアタマで考えたら、別の本ができるでしょうから。
授業もそうです。
面白くない授業というのは、
学習指導要領という権威に頼った話です。
理科離れを防ごうと指導要領が改訂されますが、
本当は、理科好きにさせるのは、とっても簡単なのです。
先生に自由裁量権をもっと与え、
教室で、何でも明るく意見が言える雰囲気を作ればいいのです。
先生が本心から、こんな面白いことや、タメになることを
「伝えたい!」と思ったことを
授業すれば、自然に授業技術も磨かれ、
生徒が本来もっている向学心が刺激されるのです。
別の言葉でいえば、常に生徒と同じ目線や立場に立てるかどうか
(何の商売でも言えますね)
に尽きるんでしょうね。
永遠の課題です。
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