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「南京旅情14」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上の写真の石碑は粤軍の大将を称えた碑で、粤軍とは広東や広西方面の広東軍の事である。1911年の江蘇省や浙江省地域では資本主義が発達していた。武昌武装蜂起の後で、革命軍は上海や杭州などの重要都市を攻撃占領した。江南方面の要塞の南京で清政府を攻撃し22日間の血戦後、南京を攻撃占領する。1912年1月1日、孫文は中華民国の臨時の大統領に就任し中華民国の始まりとなる。1912年に孫文は北伐を宣言し広東軍の回復を支援することに重きを置き革命の闘いの主力としていった。粤軍の陳大将は左翼で北伐の諸軍の中で、最初に決まり、最後に決まったのが山東煙台の第四軍革命軍だった。清国軍との戦いで当初革命軍は撃退され、一旦撤退したが革命軍は総員の力を集中し反撃に出て広東軍は徐州を攻撃占領する。中華民国は国民党政府になる前は北洋軍閥政府と呼ばれていた。
2011.02.28
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「南京旅情13」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。莫愁湖の南京古典家具館を出て左に折れ道なりに歩いて行くと200mほど前方に「建国成仁」と彫られた石碑が見えた。「建国成仁」とは正義のために自分を犠牲にして仁を成し革命を成就すること。道徳を重んじ儒教を教える儒家が道徳的な規則にのっとり生命を捨てることである。正義のために命を捨てることであるが昭和の時代に教育を受けた私にとっては意味は分かるが、理解し難い事である。 石碑には民国元年と彫られており中華民国元年は西暦では1912年である。中華民国は、1911年の辛亥革命を経て、1912年1月1日、南京において成立した。孫文は、民国初期の政治家であり革命家。初代民国臨時大総統で革命の父と呼ばれる。中国では孫文のことを孫中山と呼ばれ中国各地の都市に中山の地名が多くある。南京には中山陵として歴代の王朝の墓と並んで中国はもとより各国から訪れている。
2011.02.27
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「南京旅情12」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。莫愁湖にある南京古典家具館の中を急ぎ足で見て回ったが、上海豫園や北京紅楼夢館や蘇州などで古典家具を見ていたので時間を掛けず外に出た。中国の家庭に行くと古典風の家具が置いてあり家長が手で座るようにとるように勧めら座ると緑茶が出てくる。長い時間座り込んでいると慣れないとお尻の骨が痛くなり何故クッションが置いていないのかと思ったりもする。褐色や茶紫色した家具は仏壇などに使われる紫檀や紅酸枝が多く雲南省や東南アジアの南方で採木される。木目を見ても分かり辛いが表面を掌で擦すりながら目を凝らすと木目が分かる。表面が加工してあるので強く擦ると擦った跡が微妙に残るので拭くより叩いた方が良いようだ。家具の中でも重要なまた高価な部分は銅製の金具部分であり、中には白銀制の金具の彫金技術が評価されるようである。写真は、足早に見学した南京古典家具館を出る時に、家具館の門出入口を撮影した。
2011.02.26
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「南京旅情11」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京古典家具館の中に入ると正面に置かれた石に彫られた「前置き」の説明を見ると莫愁湖は六朝時代からの名勝地であり清朝乾隆の頃が一番賑やかであったとある。古典家具館に置いてある家具は18世紀のイギリスのアンティーク家具も多い。18世紀当時の家具には彫刻が施されマホガニーの高級木材が使われていた。18世紀ではダイニングテーブルの上に2枚重ねにしてクロスセッティングが正式な覆い方とされてきていた。だが、マホガニーで作られたテーブルだけはクロスを掛けなくても問題ないとの事である。マホガニーの光沢は、木の象牙と言われ昼間の太陽の光と夜のロウソクの灯りとではそれぞれの光りで違った美しさが感じられる。
2011.02.25
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「南京旅情10」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。莫愁湖公園の中に古い建築物の門が見えて来たので8mほど離れた所から南京古典家具館の門を撮影した。古典家具と書かれてあるので中国各地の観光地の建物に置かれている紅木の机や唐明代の家具が置かれているのかと思いながらも門を潜ろうとしていた。私は待ち合わせの時間が気になり腕時計を確認した所、時間も半分過ぎ中国人に一周見て回る時間を聞いていた。観光地に地元の中国人は少なく質問には正確に答えられないようだった。運転手に電話し、約束の時間には間に合いそうにない事を告げるとゆっくりと写真を撮って下さいと言われ安心しながら中へ入って行った。古典家具が置かれている館内には210件の精巧で美しい造型を秘蔵している。写真は、門に近寄り斜め方向から庭を撮影。
2011.02.24
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「南京旅情9」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。莫愁は身請けされた翌年に子供を生んだ。莫愁の生活は裕福だったが不安を抱いていた。不安とは貧しい暮らしから抜け出したものの亡き父の貧しい人たちの為に漢方治療を施せれないことであった。悩んだ末、生家へ向い貧乏人の多い村人の治療に当たる事が出来慰められやっと笑えるようになった。村人達の願いもあり生家と身請け先と掛け持ちの生活になってしまったが、莫愁のチューリップ好きが知られるようになり人々は彼女の住まいを郁金香(チュ-リップ)堂と呼ぶようになっていた。莫愁を身請けした夫は以前、官職に就いた事があり南北朝時代の王である梁武帝が莫愁の噂を聞き水西門の庄園で莫愁を一目で心奪われてしまう。武帝は莫愁を宮殿に連れて行き寝食を共にしたいと計略を実行してしまった。武帝は莫愁の夫を徴兵させ途中殺害してしまい武帝は莫愁に宮殿に入り共に暮すよう話す。夫を殺されたという真実を知った莫愁は武帝を恨みながら湖に身を投じてしまったという。莫愁湖では莫愁が身を投げた伝説が残っている。
2011.02.23
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「南京旅情8」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京莫愁湖で風のないときに湖面を見ると湖面が鏡のように周りの景色を映し出す。だが冬場は吹く風も強く湖面にさざ波を起こし湖面に映るはずの景色も崩れ去る。莫愁湖に悲話物語が民間伝説として残っている、莫愁六朝時代に洛陽の貧家の娘として生まれた。だが幼少時に母を亡くし父と互いに頼り合って生きていた莫愁は聡明で美しく、よく働き、文を好み、何でも得意とする娘だった。莫愁は父から薬草治療を学び高いレベルに達していたが莫愁が15歳の時、父は崖から転落し亡くなってしまった。莫愁は泣き明したが家が貧しいため仕方なく、自分の身を売って父の葬らいを行った。莫愁は美貌さゆえ良縁も多くあり、その中の富豪に見初められ身請けをすることとなった。
2011.02.22
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「南京旅情7」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。莫愁公園の蓮華庵の中へ入った。蓮華という文字が目に入って来たとき、一瞬、仏教の一宗派かと思った。だが実際は蓮華(ハス)の花が咲く池でその池のほとりに庵が建てられておりここも初夏に訪れれば、きっといい雰囲気にめぐり合うことが出来たのかも知れない。古の風格がある東屋の回廊に座って、暫しの間、回廊から池を眺めていようかと思ったものの待ち合わせ時間が気にかかり撮影するだけに留め足早に去った。冬の寒さに襟を立てて物思いにふけりながら歩くのも寂しさが込み上げ、枯葉散る秋の寂しさとはまた違う思いで歩いていた。話しは変わるが、今中国ではネットで共産党の一党独裁廃止や民主化などを求めた集会を開くよう提唱する書き込みがあったが中国のネット監視システムにより即、削除されている。反日デモ時のネット書き込みは中国政府は見て見ぬふりだったが、自分に火の粉が降りかかるとネット警察の強化を図り削除する有り様だ。2月18日更新の最後の2行が強化されたようだ。
2011.02.21
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「南京旅情6」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。莫愁湖は三国時代から始まる六朝時代から名勝地として「金陵第一名勝」や「江南第一名湖」「金陵四十八景之首」等と賞賛されてきたのは古文書に架かれている通り。園内には華巌庵のほか、勝棋楼、郁金堂などまた園内には楼、軒、亭などが配置されている。堤岸には枝垂れ柳や中国原産のバラ科の花海棠が4月ともなれば紫色を帯びた花が咲き乱れ、枝垂れ柳とのハーモニーは美しい。莫愁の意味を電子手帳で調べてみたがその意味は分からず、別々に調べた。「莫」の意味は「するなかれ」で「愁」は「心配する」と「心配するなかれ」との意。近くに清掃のおばさんが居たので莫愁の意味を聞いてみると、人の名前という事だった。写真は莫愁画廊の入口付近だが、画廊というほどなので絵画が展示されていると思ったが莫愁湖の自然の美しい風景だった。本来なら心や目を楽しませるところだったが、春に訪れればきっと心和んだろうと思った。
2011.02.20
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「南京旅情5」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京へは今回で3度目の訪れとなる。初めて南京を訪れたのは26年前のこと。初めて訪れた時は北京・上海・南京や浙江省杭州を12日間ツアーで回った。中国に住むようになってからは1箇所に1週間以上滞在しているので記憶に残るが短期間で多くの場所を観光すると何が何だか目まぐるしい事のみ思い出に残っているだけ。南京市内南西の方角に莫愁湖公園がある。ガイドから1時間ほどで入口へ戻るように言われたので小さい公園と思って中へ入った。公園内の案内図を見ると莫愁湖は一周5キロありとても1時間では戻れないかも知れないと思った。一人で公園内を散策したが冬の観光客が少なかったからなのか静かに感じた。
2011.02.19
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「南京旅情4」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。「長江第一大橋」の下を流れるのは揚子江。川底に打ち込まれた橋脚基礎部分から橋の一番高い地点まで70メートルある。橋の上から下を眺めた時に足がすくんだ。下に降り先ほどまで居た橋の上を眺めてもそぼ高さの程が感じられた。大橋の上側は車が走り、下側は列車が走っているが撮影中に貨物列車しか通らず走り抜ける貨物の部分しか写っていない。特急列車が通るシーンを撮影できればと思っていたが、見ることは出来なかった。橋脚に毛沢東指導が抜粋され刻まれていた。革命では誰が我々の敵か、誰が我々の友か、革命のいちばん重要な問題を問い掛けていた。貧農は、農村できわめて数の多い大衆であり農民問題は毛沢東が重要視していた問題である。一部の知識人は敵であり、革命の指導勢力に工業プロレタリア階級を友として挙げている。毛沢東の中国共産党の指導理念の本質は中国化されたマルクス主義といわれる。下の写真には団結万歳と刻まれているが、徒党を組めば直ちに武力弾圧されてしまう。報道も監視され放映不利な報道はカットされインターネットに於いては批判的なページやデモの呼び掛けは直ぐに閲覧できなくされてしまう。
2011.02.18
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「南京旅情3」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。長江第一大橋の上があまりに寒いので早めにエレベーターを降りた。中ほどに売店があり中間の階を入った。土産物売り場は観光客も多くはなかった。土産物を撮影するとダメですと手で遮られたが、片言の日本語の話せる従業員が写真を撮ってもよいですと言ってくれた。さほど欲しいものはなかったがシャッターを切っている間、説明をしていた。写真は撮影した橋の上のスナップ写真をコーヒーカップに貼り付け焼いたものだが、直ぐには出来ず後ほど郵送されるとの事。真ん中のブレスレットは、雨花石で出来ており腕に常時付けていると血行が良くなるとの事。何となく偽物っぽい感じのするブレスレットだ。下は雨花石で作られたペンダントだが、雨花石に着色をしたのか、プラスチックなのかはよく分からないが中国人は結構買っていた。
2011.02.17
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「南京旅情2」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。長江に架かる「長江第一大橋」の上に行くため、車を大橋の下に停め70mほどの橋脚に造られたエレベーターで上がった。橋の上に着くと2月の冷たい風が頬を刺す。羽毛ジャケットのフードをすっぽり被り厚い手袋を着けたまま撮影を続けた。人民解放軍が手に持ち掲げている書物の文字は見え辛いが毛沢東の選集である。毛沢東選集の第一巻には第一次革命戦争の時期と第二次革命戦争の著作が収められている。第二巻と第三巻には抗日戦争の時期の著作が収められ、第四巻には第三次革命戦争時期の著作が収められている。毛沢東の生涯は革命に始まり革命に終わった。ソ連の工業を取り入れた産業革命、農民政策に重きを置いた農業革命、また毛沢東の意思に反し一人歩きを続けた文化大革命など多く収められる。抗日戦争の時期は、国民党との内戦のための充電期間でもあり、蒋介石に戦わせて日中戦争が終結する頃には蒋介石の国民党軍の戦死者も多く毛沢東率いる共産党軍は巨大な兵力を得て兵力の劣った国民党を倒すこととなる。写真の長江第一大橋の70m上には自動車が通り下側には鉄道が走る両用2階建てになっている。1960年から建設が始まり1968年に完成した橋はコンクリートの質も悪く、また長年の風雨で傷み1998年に大規模補修工事が行われた。また中国の発展に伴い車の通行量も橋建設当時より現在の交通量はその6倍にもなっている。
2011.02.16
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「南京旅情1」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。今回から南京市内の写真を更新して行きたい。日本人にとって「南京」と聞き思い浮かぶのは「南京大虐殺事件」の事であろう。南京事件は、1937年12月13日から6週間の間に行われた南京城の城内外で大規模な残虐行為が行われ30万人の中国人が虐殺された事件である。私が「南京事件」を知ったのは1985年頃の事。1993年中国へ来た時に「南京事件」の事は全く気にも留めていなかったが中国人から責められた。「南京事件」の事は「南京大虐殺記念館」の写真を公開するときにコメントしたいと思う。写真の大橋は「長江第一大橋」と呼び「長江」とは揚子江の事を指しており「第一大橋」は1960年に着工し1968年に完成している。1960年以前はソ連の技術指導のもと橋を架けたが長江第一大橋は中国独自の技術で最初に建設された。長江(揚子江)は青海省の青藏高原から流れ出し6300キロの旅をして東シナ海に流れ込んでいる。長江の水の流れが速く、また川幅も広いので、古くから多くの都市が流域に立地してきた。
2011.02.15
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「アモイ市内の旅17(完)」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。昨日は早めにアモイ繁華街へ着いた。ホテルに寄りカメラバッグを置いた後、中心街にあるいつもの居酒屋に向かった。居酒屋で酒を飲む前にDVDショップへ行った。そこで中国の連続テレビドラマを買った。私の中国語学習方法の一つに中国のDVDを見て会話を覚える方法を取っていたからだ。中には四川省の方言で会話する場面などのDVDに出会ったりすると面喰ったりする。中国のDVDの場合、必ず中国語の字幕が入り聞きなれない単語が出てくると字幕の単語から辞書をタイプして意味を覚えることができる。私の買うDVDは会話の多い青春恋愛物語が多い。戦闘シーンの多いDVDも時には購入するが学習するというより娯楽のためである。今までに購入したDVDは100枚を裕に超えている。だが、日常会話に応用できる事柄は少ない。今回の旅は12日間に及んだが帰る日になった。アモイ空港にて厦門(アモイ)航空の飛行機を撮影したが、私のチケットは中国南方航空である。フライトまで待つ間、各航空会社の飛行機を眺め、ぼんやりとしていたが、椅子に座り直し中国語の単語の学習を続けた。次の更新は「南京大虐殺」の有ったという南京の市内の写真を公開したいと思う。
2011.02.14
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「アモイ市内の旅16」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ国際マラソンの歴史は新しい。第1回の開催は2003年3月29日だった。気温は21℃で真冬のマラソンに比べると15℃も高く記録も期待できなかった。だが南国春の花が咲き乱れる海岸通りを走るランナーを応援する側に立ってみると春に行われるマラソンは人気があった。2003年から2007年までは3月末の土曜に開催されていたが、2008年を境に1月の第一土曜日に変更になった。アモイ国際マラソンの開催時期が3月末より1月頭に変更になった事で参加ランナー数に変化が生じ、8500人前後の参加数が3万人とホノルルマラソン級の参加人数になった。更には年々参加数は増え続け2009年6万人2010年7万人、2011年8万人になった。また大会記録も年々塗り変えて来ている。毎回8位以内に入るのはエチオピアやケニアの招待選手達だが記録を伸ばして来ている。男子では2時間08分07秒の大会新記録が出て女子では2時間31分49秒のタイムでゴール。マラソンの世界記録はエチオピアのセラシェの2時間03分59秒で未だ破られてはいない。女子ではイギリスのラドクリフが出した記録の2時間15分25秒だが2003年以降破られていない。中国ではスポーツで優秀な成績を収めた生徒に対し大学受験時に点数を加算する制度がある。2011年1月2日に行われたアモイ国際マラソンで、山東省の高校生による集団替え玉事件が発覚しネット上で不正を告発する書き込みが相次いだ。替え玉事件は高校生30人以上がICチップを足の速い選手に手渡し、自分の記録として登録。だが不正行為で失効処分となり受験にも影響する。
2011.02.13
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「アモイ市内の旅15」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ国際マラソンのスタート地点はアモイ国際会議展示場からでゴールもまたアモイ国際会議展示場へ戻ってくる。北京から参加した知名度の高いランナーもアモイマラソンはかなりハードである、記録も重要だが、それより海岸線を走り、雰囲気を十分に堪能できることの方が重要だと走りぬいた後コメントした。私は日本にいる時も中国へ来てからもマラソンはニュースでしか見なかった。だが、人工的に作られたとはいえ中央分離帯に設置されたブロンズ像を大自然の中で見ているだけで胸が躍った。マラソン自体、42.195キロを走り抜ける競技であり体力を消耗する前に相当の汗を流す。特にアモイは南方に位置しているので南国の風はランナーにとって辛い闘いになる。大会に参加した中国の友人は記録なんて意識せず、ただ完走する為だけに参加したが、もう少し気温が低ければと話していたことを思い出す。
2011.02.12
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「アモイ市内の旅14」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ国際会議ホテル前の広々としたグラウンドを後にし少し歩くと海岸へ出た。海から吹き付ける冷たい風を受けながら海岸線に造られた遊歩道を歩いた。幅10mほどある中央分離帯が続いておりその中を歩いていた所、ブロンズ像が見えて来たので撮影を始めた。更に報道カメラマンのブロンズ像達の前方を見るとマラソン選手達のブロンズ像が立っており、私は分離帯沿いに歩いて行った。マラソンランナー達のブロンズ像は1キロを過ぎても延々と続いており、等身大のブロンズ像に魅せられ歩いて行った。世界のマラソン大会の中でホノルルマラソンやニューヨークシティマラソンや東京国際マラソンなど多くのマラソンが知られている。だが参加者数は3万人前後であるのに対してアモイ国際マラソンの参加者数は8万人と多い。2011年は1月2日午前8時にスタートした。昨年は7万人で今年は8万人だった。
2011.02.11
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「アモイ市内の旅13」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイインターナショナルシーサイドホテルを出てホテル前の広場で凧上げをする家族に出会い色々と言葉を交わす事ができた。凧上げをしている最中に寝そべっていたご主人と話しをしたが何とも中国風の愚痴が多かった。ご主人は上海の人で、奥さんはアモイ地元の人だったが、中々上海へは帰省出来ないとの事。IT関係の仕事をしているとの事で普段の帰宅は夜遅くになってしまうとも話してくれた。私は、ご主人を手招きした所、何ですかと笑顔で来てくれたが、私は奥さんの視線が気になり、ゴルフクラブを持ち素振りをしてみせた。ご主人にゴルフをされるのですねと念を押した所ハイと答えたので、ゴルフボールを出しアプローチの練習を試合形式でしませんかと持ちかけた。約50mと30mの所に凧を置き、その凧にボールを近付けた方が勝つという遊びを提案した。私は21歳からゴルフコースに出ており自信はあったがこの4年間というものクラブは触ってはいなかった。だが、私がアプローチでは勝ったものの試合には勝ってはいけなかった。奥さんや子供たちやご主人まで不機嫌な思いをさせてしまい気まずい思いをした。
2011.02.10
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「アモイ市内の旅12」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ国際貿易会議ホテルの中へ入りカメラを構えると、写真撮影は禁止ですとホテルの副支配人が手を横に振り現れた。ロビーは撮影せず花だけ撮影させてほしいとお願いしたが首を縦には振ってはもらえない。折角中へ入ったので何とか撮影したく3分間で撮影する事と撮影後画像を見せる条件を提案して許可を取り付けた。ロビーの配置やフロントの撮影はせずに花の中で水仙とツツジ・胡蝶蘭を撮影した。花の名前は余り知らないが水仙と胡蝶蘭やツツジ位は知っていたので、その花の近くへ行き露出優先にし構図を決め素早く撮影した。撮影している間の短い時間、副支配人は私の後ろにピッタリ着いて歩いてきた。撮影を終え時計を見ると4分程経っていた。私はモニターを見せるため手招きをした。副支配人は案内係の女性に指図してあったのかお茶を持って来させソファーに座るよう促した。私がモニターを見せると、見なくても結構とお茶を一緒に飲みましょうと私に勧めた。10分程会話をしたが、時折流暢でない日本語を話してくれたりもし、握手を交わして外へ出た。写真の水仙を「雪中花」と呼び、花言葉は自己愛・自惚れ・うぬぼれ・神秘・プライド。ツツジは細長いプランターに植えてあった。花言葉は、愛の喜び・節制や情熱・初恋など。胡蝶蘭の花言葉は「幸せが飛んでくる」とか「あなたを愛しています」や「機敏な人」。私は、胡蝶蘭を買った事はないので幾らするかは知らないが高級な贈り物の印象がある。
2011.02.08
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「アモイ市内の旅11」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。写真はアモイ国際シーサイドホテルである。ここへ来るまでのバスの中でも昨日のレストランでの事柄を思い浮かべていた。別荘レストランが昼の休憩に入ったためにオーダーを断られたものの何でもよいからと半ば無理やりお願いし食べさせてもらった。満腹になり先ほどの無礼を許してもらおうと謝罪をし勘定を払おうとしたが、結構ですと受け取っては下さらないので店で売っている土産物を買い丁寧にお辞儀をして外へ出た。来るときはバスを乗り継ぎ、挙句の果て行く方向を間違えて乗車してしまい予定より2時間弱遅れで博物館へ着いた。帰りもバスを乗り継ぎ帰ろうと思っていたが面倒になった私は帰りはタクシーにしようと20分程待ったが、だがタクシーが全然来ない。来たと思って手を挙げても人が乗っていた。こんなふうならバスにすればよかったと後悔。思い直しバス停へ向け歩き出したところへ空のタクシーが虚しく通り過ぎて行った。写真はアモイで貿易国際会議に使われたホテル。
2011.02.08
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「アモイ市内の旅10」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。昨日はアモイ海滄大橋の橋梁博物館に午前11時頃に入り午後2時頃までいた。博物館の人に昼食を取りたいが近くに食事をする所がないものか聞いてみた。だが近くには食事をするところはないとのことだったので、このまま帰ろうかと思ったが別荘のレストランが浮かんだ。橋梁博物館近くの別荘のレストランへ行きランチを食べさせて頂けないか交渉した。だがコックさんが既に休憩に入っており満足なものが出来ないと断られた。私から「ごはん」は有るか聞いたところライスはたくさんあるとの事で、おかずは残り物で良いからとお願いした。ライスとビーフに野菜の炒めものとスープを出して頂いたが、お金は残り物だからと取らなかった。何度もお金を手渡そうとしたが残り物だからとお金は受け取って下さらなかった。写真はアモイ国際シーサイドホテルで、アモイ最終日朝より市バスを乗り継ぎ訪れた。
2011.02.07
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「アモイ市内の旅9」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。博物館の中には建設工事の写真がたくさん掲示されていた。興味深かったのは工事の作業員達が描いた絵の佳作以上の作品が展示されその絵を見ているだけでも感動を覚えた。 階上に上がりガラス張りのテラスから港を眺めるとクレーンが並んでいた。クレーンは陸揚げに使われているのだが40フィートコンテナを船から陸揚げしていた。博物館のガラス張りのショーケースに展示されている工作物を撮影した。工事に使われたと思われるボルトやナット・ワッシャーなどを組み合わせたボルト人形が展示されており心惹かれた。ボルトやナットをバラバラにすれば、きっと何でもない金属の冷たさしか感じられないだろう。だが、このように同じ金属であっても組み立てると妙に愛嬌があって温か味さえ感じるから不思議である。
2011.02.06
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「アモイ市内の旅8」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイ島と海滄区とを結ぶ海滄大橋。第8次5ヵ年計画では155億ドルの赤字が出たものの第9次5ヵ年計画期の後半には1億ドルの黒字に転じている。第9次5ヵ年計画は1996年~2000年まででこの5ヵ年計画の中に組み込まれたのが全長6キロの海滄大橋の建設であった。江沢民がアモイと海滄へ訪れたのは1994年の事で当時、アモイ港へ陸揚げされた貿易資材を海滄まで運ぶには交通の便が悪く迂回するか渡し船を利用するしかなかった。アモイ島から対岸に見える海滄は近くて遠いイメージがあったが海滄大橋が完成して大きく変わった。海滄大橋は橋脚を利用しワイヤーで吊り上げた橋であるがワイヤーの太さは直径5.7センチでその中に5ミリほどの太さのワイヤーが120本ほど詰まっている。鋼鉄のワイヤーに30m間隔でワイヤーと橋の欄干を吊り下げている。車で走行したがとても吊り橋とは感じない。
2011.02.05
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「アモイ市内の旅7」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。橋梁博物館には、海滄大橋建設の設計を紹介する模型があり、また百年間の橋梁建築に関する資料コーナーもある。海滄大橋の高さは橋の下を船が通るようになっているので、かなり高い。 海滄大橋は、中国独自の技術だけで建設されたのではなく、日本からの無償技術協力のもと出来上がった。船が通り抜けるゲートの部分の強度はたとえ船が衝突したとしても問題ない。また、震度7級の地震にも耐えれる。その上、空港が近くにあるのでゲートを開けた時のゲート端が飛行機と接触しないほどの高さに設計してある。尚且つ、最大級の船が通れるくらいのゲートの高さの設計で協議を重ねた。また、飛行機がゲート上を通り過ぎる時の風圧を考慮し風洞試験で橋の揺れを実験。実際の工事会議に使われたノートが展示されており読める人には興味深い。
2011.02.04
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「アモイ市内の旅6」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。海滄大橋の撮影を終えたのち海滄大橋の建設工事過程に使われた鋼材やワイヤーや中国内の橋建設の歴史などを説明した橋梁博物館へ入った。 橋梁博物館の中に入ると人影はなく女性スタッフが一人で出迎えてくれた。私が入った時に博物館の照明が消されていたがスタッフが着いて来て照明のスイッチを指差した。各コーナーにスイッチがありますからこれを押して下さいと照明を付けてくれた。曇り空で窓も少なく光が入らず館内は薄暗かったがコーナー毎に点く照明で華やいだ。写真は江沢民の筆字による海滄大橋と厦門大橋を額に入れてあったものを撮影。厦門大橋とはアモイ大橋のことでアモイ大橋は海滄大橋のことを指している。海滄大橋の建設は1996年に着工し4年後の2000年に完成している。海滄大橋は橋脚を利用した吊り橋である。また橋梁博物館は中国で唯一の橋梁をテーマにしている博物館である。2002年に橋梁博物館が出来た当時は、近隣から多くの人が訪れていたようだが、最近では学校の遠足で賑わうほどで平日は閑散としていて残念と話していた。写真は黒縁メガネを掛けた江沢民が建設工事の説明を受けている写真を撮影した。
2011.02.03
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「アモイ市内の旅5」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。アモイで宿泊するホテル近くのバス停から海滄大橋行き直通バスを探したがなかった。バス停で待っている人に聞いてみたところ途中でバスを乗り換えて下さいと言われメモした。メモしたバス停で降り言われた路線番号のバスに乗ったが、何となく様子がおかしいので前まで歩いて運転手に聞いてみた。何処から乗車し何処へ行きたいのかと聞かれた。運転手は反対方向のバスに乗ったねと笑い出した。バスを降り陸橋を渡り反対車線でバスを待った。バスに乗った後、すぐに海滄大橋までどれ程掛かるか聞いた所、バス行程表を見てと言われた。バスの窓の上に貼ってあるバス行程表を目で追い海滄大橋バス停を見つけたが、心配になりノートに海滄大橋までの5つの停留所の名前を書き出し座席に座ろうとした。だが私がバス停の名前を書き写している間に空き座席がなくなってしまい吊り革を握り苦笑した。写真は、海滄大橋の日中の画像であるが曇り空だった。
2011.02.02
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「アモイ市内の旅4」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ市内」の写真を公開しています。中国の朝のパワーを感じる事柄の一つは朝6時半頃から始まる出店の食事だ。朝7時から10時ごろに出店が並ぶ。また、その出店に行くユーザーも多い。私は肉マントウを2つ買い袋に入れたままバス停まで歩いて行った。その歩く道すがら肉マンを食べるのがまた楽しく美味しいものであるし人の目を気にして歩いていても気恥ずかしさはなかった。その一角には30mほどのスペースに屋台が並んで美味しそうな香りが立ち込めていた。急ぎ足で先を急いでいる人も、その前を通るとその足が緩やかになったり立ち止まる人もいた。私も同じように立ち止まり、その場の雰囲気を満喫して、つい食べ物を買ってしまっていた。日本でも学生が好きなヌードルが売られていたが中国人が多く群がっているのが、写真のヌードルはインスタントではないが、唐辛子が沢山入っていて薄味好きの私にはとても食べれそうにはない。この一角を過ぎると海滄大橋行きバス停である。
2011.02.01
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