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「南京旅情74」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。 私が初めて南京大虐殺記念館を訪れたのは雨が降りしきる2000年11月20日だった。その頃の記念館は現在とは違い大分小さかった。写真の記念館に入っていくスペースに置かれたモニュメントなどは無かった。初め訪れた時の私には大虐殺の知識が乏しく彼ら中国人の話すことを信じざるを得なかった。南京攻城戦で大虐殺があったと主張しているのは1937年12月13日から6週間行われた事を指す。 1937年12月日本軍は南京を攻略、南京陥落前に南京から逃げ出した蒋介石は重慶に逃げ込んで国民党政府は重慶に首都を移していた。国民党の兵士達も重慶へ移動し南京には5万ほどの兵士しか残ってはいなかったが、日本軍は南京で残虐な大虐殺を行い30余万人を殺害したとされた。その事を内外にアピールする為に建てられたのが南京大虐殺記念館であるが実際とは異なる。 1971年日中国交樹立前に朝日新聞紙上に掲載された本多勝一の「中国の旅」という連載記事から始まる。私が中国へ居住した1993年当時は南京事件で気が重く大虐殺は本当に信じていたからだった。
2011.04.30
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「南京旅情73」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。一人で旅をしているとデメリットもあるがメリットも多い。無理なスケジュールを組まなければ思いがけない場面に遭遇する。20分ほど「烈士群彫」の近くに居たがその後その場を離れ300mほどの所まで歩いて来た。ふと先ほどの「烈士群彫」の方を見ると共産党幹部候補生学校の生徒達の姿が見えた。先程撮影した時には他の観光客を避ける為記念撮影している人達が居なくなるのを待った。だが幹部候補生の生徒達の撮影が終わないうちに何とか赤い旗と共に画像に収めたいと走った。撮影が終了しようかというときにレンズを向けた。連写にしてあり、何とか8枚の撮影が出来た。液晶モニターで確認すると8枚の画像データのうち4枚は旗が斜めになっており使えるものではなく学生たちの姿勢もバラバラだった。何とか絵になるのが上の写真であり中国共産党の幹部候補生の袖口には二本線の縫い付けが光る。赤の旗には鎌とハンマーが描かれておりソビエトの国旗のように見えるが共産党のシンボルとしている。鎌とハンマーを組み合わせた標章は農民と労働者の団結を表しレーニン主義の共産主義を表している。鎌は農民の象徴でハンマーは工業労働者の象徴である。中国の国旗は5つの星を配し五星紅旗と呼ばれる。赤色は革命を黄色は光明を表しており大きな星は中国共産党の指導力を表し取り巻く4つの星は労働者・農民・小資産階級・愛国的資本家を表す。五星紅旗は中国人民協商会議が行った公募で採用され1949年10月1日、天安門広場に五星紅旗が掲げられた。私は本来入るべきの北門から出てバス停に向かい次の「南京大虐殺記念館」へ向かった。
2011.04.29
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「南京旅情72」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京の旅の中でも雨花台には日本人はあまり訪れない場所であると聞いた。中国人の間では雨花台は有名であり特に新民主主義革命の記念碑が知られる。記念碑が立ち並ぶが記念碑と記念碑を結ぶ遊歩道には自然の木々の風景に心和む。雨花台へ行く前に近代革命史を勉強して行くと良いが中々時間が無く大変である。雨花台は国民党に反発する革命家や共産党員ら約10万人が処刑された場所であり処刑された革命烈士達の冥福を祈る場でもある。 写真は1979年に造られた「烈士群彫」である。中国の革命の為に亡くなった人達を記念する。写真でも分かるように皆の表情は厳しい。そして皆の見つめる先には明るい未来があり革命のために命を捧げた人々である。両手を縛られ自由を奪われているが皆の目には死んでも屈服しないというような国を愛する志士の姿を見るようであった。
2011.04.28
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「南京旅情71」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台革命烈士紀念碑で沢山の鳩が観光客の撒く豆を求めて集まっていた。私は中国人の若者にポーズを取らせてシャッターを繰り返し押していた。革命烈士紀念碑の石段を下りて行くと重点文物保護や青少年教育基地などの社会主義教育の重要施設があった。写真の「拍照」の意味は「写真を撮る」で「禁止拍照」の意味は撮影禁止の意味。中に入ると全てが撮影禁止でフラッシュを光らせ撮影していた中国人が2人の警備員に捉まれ追い出されていた。私はどうしても撮影がしたくポケットに準備していたリモコンをカメラに取り付けた。警備員から死角になる所でリモコンコードを袖口から入れ込んでカメラを首から下げシャッターを切るときは軽く腕組みをした。フラッシュは使わず広角で撮影したがブレた写真になっている。広角画像をトリミングして見れるように調整した。上の絵は毛沢東の若い頃、江西省安源へ向かう姿を学生が卒業制作として描いた作品。この「毛主席安源へ赴く」の絵は後に高い評価を受けた事は言うまでもない。
2011.04.27
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「南京旅情70」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台は革命烈士の陵園と言われる程に革命のために死んで行った烈士の像が多く立ち並び歴史を知る者に取っては堪らない場所ではないかなどと思う。雨花台には毛沢東の伝説が保存される革命烈士紀念館や革命のために命を散らせた烈士の像の烈士群彫。雨花台革命烈士紀念碑の要塞のようなコンクリートで出来たスペースに入ると全国重点文物保護単位の毛沢東の銅像や胸像が少なからず置かれていた。写真は平和を象徴する「鳩」である。だが中国や香港での鳥料理の中でポピュラーな鳥が「鳩」であり驚いた。私が初めて鳩を食べたのは香港だった。中国のお客様から「美味しいでしょう」とレストランで出されたのが鳩だった。鳩が目を閉じ、じっと私の方を向いており、私は暫しの間、何とも言えない気分だった。鳩が飛び交い人懐っこい鳩を撮影した後後ろを振り返ると広大な雨花台烈士陵園の姿が目前に広がりシャッターを切った。
2011.04.26
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「南京旅情69」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。ホテルを出て南京の市バスで雨花台へ行ったが雨花台バス停は幾つもあった。以前訪れた雨花台へは団体ツアーでバスの中で眠っていようが問題なく雨花台へ着き無駄な時間は無かった。だが一人旅でタクシーを使わずに市バスを乗り継ぎ雨花台へ行った。タクシーに乗って行けば簡単だが市バスに乗り皆の生活空間の中に身を置く事で何となく癒されていた。私が着いたバス停は雨花台南門だった。だが実際には雨花台北門のバス停へ行かなければならなかった。北門と南門とでは正反対であり観て回るコースも全く違っていた。やっと雨花台革命烈士紀念碑の前に来た。雨花台は国民党と共産党との戦争による犠牲者を祭るのが本来の目的では有る。だが中国人は1984年以降、中国の教科書の改ざんで旧日本軍に殺された中国兵士を弔っていると歪められ理解されていた。
2011.04.25
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「南京旅情68」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台の路上で売られている雨花石。私が始めてこの地を訪れたのは2001年の初夏の事だった。雨花台のあちこちで見かけ雨花石。どの売り場へ行っても大きな容器に水を一杯にして、その中に雨花石がひしめくように入れてあった。ほとんどの観光客が水の中に手を入れ下の方に、もっとカラフルな雨花石が有るのではとかき回していた。その光景は、どこの売り場に行っても同じであり、売られている雨花石も同じようにガラス細工に見えたものだ。雨花石は昔から多くの人に愛されて来た。雨花石は天然の芸術品であると共に見ていると様々な模様に見飽きない。だが3回目となる雨花台では売られている雨花石が本物か偽物か分かるようになる。写真の雨花石は真っ赤な偽物である。偽物と納得して買えば腹も立たないが、写真のガラス細工を雨花石と思い買えば後で後悔し腹立たしくなる。雨花石は生きている化石と言われて来た。今まで多くの人が採掘し規制がかけられ希少価値な雨花石である。写真の雨花石は1つで2元(28円)で売られ中には3つで5元で売られている所もある。
2011.04.24
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「南京旅情67」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石博物館を出て30mほど歩くと前方に水の少なくなった川原で母親と子供たちが雨花石を拾っているのが見えた。私はレンズを向け、綺麗な雨花石は拾えましたかと聞きながらシャッターを切る。母親が「博物館で見た色鮮やかな雨花石は見つかりませんが・・」と掌の中の拾った石を見せてくれたが柄も色も良くなかった。私が水の中に浸せば綺麗に見えますよと受け売りの言葉を話していた。少し歩き振り返ってみると雨花石拾いは止めたようで川原を3人で見ていた。一人旅の私は先を急ぐことも無く歩いて行くと「雨花石の歌」と彫られたモニュメントの前に出た。モニュメントは六角形で24枚の花崗岩を磨いて張り合わせてあり、その上にはステンレスで作られた8分音符などが雨花石の歌の字と上手く調和していた。私がシャッターを押すころには先ほどの川原で雨花石を拾う親子も来ていた。「雨花石の歌」は中国観光地の歌曲大会で第一位を獲得した記念としても写真のモニュメントが作られたと聞いた。雨花石の歌の歌詞の一部夜明けを迎える度に喜びを分かちあいたいその思いを満たすために土壌に埋まった私は今日も貴女のやさしい手で拾われるのを待つ。モニュメントから左に折れ丘から流れる水の音に呼び寄せられ暫くたたずむ。入場チケットの裏側を見て次の革命烈士陵園に向かったが、前方に先ほどの親子が歩いていた。他に観光客が歩いてなく道が広く感じた。
2011.04.23
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「南京旅情66」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石博物館は1988年に着工し、1990年にオープンしたが1997年に博物館はリニューアルされた。雨花石博物館は5つのホールに分かれているが、始め分からずに出口から入って行ったので第1ホールへ案内された。第1ホールには雨花石の絵が展示されていた。写真は第3ホールで撮影した雨花石だが本当にニスが塗られているような光沢だった。写真は、いくつもの棚に仕切られた中に貴重な雨花石が展示されている光景。第2ホールに雨花石が展示されていた。また古い雨花石の展示、そして有名人が雨花石を持つ写真と雨花石の詩が綴られ第3、4、5ホールには百数十件の石が展示されており撮影は禁止されていた。詳しくは読めなかったが唐代からの大量の雨花石の文献が記載されていた。
2011.04.22
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「南京旅情65」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。20年ほど前は雨花石が沢山拾えたと話す。だが、最近では観光客が多くなり雨花石を買って行くので業者が増え現在では探すのも難しくなったとの事。雨花石は天然の瑪瑙メノウの一種である。昔は雨花台でも採れたが、今では隣接する南京の六合や儀征の一帯で採っている。雨花石は奇異な筋模様や透き通ってきれいな性質が世に知られている。写真は雨花石博物館の中で撮影した。1990年4月に南京雨花石博物館が正式に対外開放された。雨花石博物館では雨花石の文化を広めるために石を収集して保存や研究また展覧が主な役目である。館内には多くの雨花石が展示され始めて見るような石を観て回った。だが、30分ほどの間、観光客は誰も入っては来なかった。
2011.04.21
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「南京旅情64」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石はパワーストーンと言われている。石や岩が人の願いを叶えるとされておりまた石や岩は独特の波動を放つとされその波動は人々の願いに同調してより大きな波動となり別の世界に向け発信し願いを叶えるとの事。その話を聞いたとき、私は思わず吹き出して大きな声で笑ってしまった。だが実に不謹慎と反省もしているが本当なら私も願いたいものだ。雨花石(うかせき)は昔から多くの人に愛されて来たのは天然の芸術品であると共に、見ていると様々な絵に見えて来る。その絵は人物や花、風景、また動物など多数あり、実に生き生きとした姿が見れる。それは自然が造り上げた芸術品であり全く人の手が加えられていない。
2011.04.20
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「南京旅情63」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。写真のブロンズ板は雨花石の伝説を彫刻であらわしたものである。南北朝である6世紀初めのころ南京郊外の丘で説法をする高僧を彫った。真ん中で説法する僧は嵩山の少林寺で達磨に面会し弟子入りを請うた慧可であり禅宗の悟りを開いたことでも知られる。伝説によると慧可(エカ)が丘で説法する話を聞いた天が説法の内容の素晴らしさに感動し綺麗な花を雨のように降らせたという。また花がひらひらと舞い散ると色鮮やかな石になったという。その舞い降りた色鮮やかな石を雨花石と呼ぶようになったということだった。慧可が説法を行った丘を雨花台と呼ぶ。雨花台は、その後革命家を処刑した事でも世に知られるようになったが景勝地として多くの観光客が訪れるようになっている。五色の小さな石になった伝説から「雨花石」の名前の由来にもなった。
2011.04.19
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「南京旅情62」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石文化区のゲートの中へ入ると文化区の中央に池があり、池の上を木造の七曲橋があり、池の中に目をやると雨花石が沢山あった。雨花石は水に浸かると石独特の色合いがにじみ出ると言われている。だがこの小川のような池の中に敷き詰められた雨花石には色合いもくすんで見えたが、今は貴重な雨花石を誰でも取れるような所へ置いておく筈もないと思いながら撮影した。この敷地内に雨花石博物館があり博物館の中へと入って行ったが中には光沢のある色模様の雨花石が並べられており一部許可を得て撮影した。
2011.04.17
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「南京旅情61」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石文化区の中に入り観光客を見掛けないために、なんとなく異様な雰囲気を感じていた。その異様な雰囲気と天に手をかざす手の平のモニュメントも手伝い第二次大戦で1千万もの中国人が命を落とした事より日本人による30万人大虐殺の事が気になった。モニュメントは天より花が雨のように降ったという伝説を表現したものである。だが、天より降り注ぐ花を掌で受けているモニュメントだが、私にはそのモニュメントがもうこれ以上私たちを殺さないでと懇願しているように思えてならなかった。
2011.04.17
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「南京旅情60」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中国へ来た当事の1994年の事であるが南京の事はほとんど知らなかった。と、いうのも南京大虐殺のことで中国の人から攻められる事がよくあった。私にとって南京大虐殺の知識はそれほど多くはなく返答に困った。本来なら雨花台の画像のページで南京大虐殺の話を持ち出すべきではない。それは分かっていてもモニュメントを目の前にし、どうしても結びつけてしまう。南京大虐殺30万人とは中国共産党とアメリカ政府が原爆投下を正当化するためでっち上げたものだと論議されている。だが、そんな事を中国人に弁解してもどうなるものではなかった。
2011.04.16
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「南京旅情59」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花石文化区と彫られた石碑の前に来た。中国人のツアーバスで参加する人たちは雨花台の正面ゲートより入る。私は、一人の行動で勝手に市バスに乗り着いてみれば雨花台でも全く反対側のゲート付近で降りてしまった。入るときに以前来た雰囲気と相当違うので不思議にも思ったが、一般観光客はこのゲートからは入らなかった。 また現在私が立っている雨花石文化区は時間のある人が、立ち寄るところだと後になってから聞いたが笑うしかなかった。一人旅で時間に制限があるわけでもなくのんびりと雨花台の中を見ることができた。上の写真の岩に彫られた「天降花雨」の文字は文字通り、天から花の雨が降って来た伝説を岩に文字で彫り表したものである。
2011.04.15
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「南京旅情58」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台と書いて「うかだい」と読み雨花石と書いて「うかせき」と読む。だが、日本語読みの場合はそうだが中国語では雨花台をユーフアータイと読み雨花石をユーファースーと読む。日本の25倍の広さがある中国の中でも南京の雨花台一帯でしか採れないという。雨花石の名前の由来は雨花台で採れたので雨花石と呼ばれるようになったとか。雨花石は330万年前の火山活動で瑪瑙に微元素が入り込み長い年数を掛け、写真のような模様が生まれた。 雨花石の表面は光沢があり、人工的に色を塗りニスをふき付けたようである。半透明のガラス細工にも見える石だが余りにもカラフルな感じの雨花石は偽者のガラス細工であるので注意が必要である。雨花石を採り研磨する前の石を見て感じたことだが、磨く前は石がくすんでいるが水に浸して見ると、その美しさが出てくるようだ。だから売られている雨花石のほとんどが水を一杯にした容器の中に入れられている。
2011.04.14
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「南京旅情57」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。雨花台は南京南駅の近くに位置する。中華民国時代の革命烈士の処刑場であり多くの革命家たちが処刑された。予定の行動では、雨花台の入口ゲートを潜ると革命烈士群像が見えてくる筈だった。 写真でも分かるとおり生態密林区の中へ入って来たが何となく迷い込んだ感じがした。雨花台は国家AAAA級風景区に認定されるが表側入口ゲートを入った所の建物を総して4A級風景区に指定されているのではと思った。つまり予定していた雨花台革命烈士紀念碑や烈士群彫、革命烈士紀念館などを認定している。私が南京路線バスに乗って来たが、遊2のバスに乗れば、正門入口に来れた。だが、観光客が歩いていない遊歩道を一人だけで歩くのもまた風情があると思った。
2011.04.13
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「南京旅情56」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京市内路線バスを乗り継ぎ雨花台へ向かったがタクシーなら20分ほどの道のりを1時間掛けて来た。雨花台は南京の南部の丘にあり歴史を紐解けば紀元前5世紀まで遡る。春秋時代に浙江省の辺りにあった国の越王勾践が雨花台辺りに築城した。雨花台の公園内には古代の史跡もある。雨花台の名は、南北朝の時代に僧侶の感動的な法話を聞いた神が花を雨のように降らせたという伝説に由来するようだ。 雨花台の公園内へ入ったものの予定の入場ゲートから入らなかったのでガイドブックの道順とは違ってしまった。雨花台の広さは150万平方メートルとかなりな広さの公園で、どうやら私は予定していた雨花台入口ゲートとは相当離れているようだった。だが、ここも雨花台の入口ゲートには違いないので観光客の少ないゲートを通り抜け中へと入って行った。
2011.04.12
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「南京旅情55」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文の陵墓である中山陵の観光を北京の大学生と共に観て回った。大学生はツアーに合流するために中山陵からバスで南京駅へ向かった。私は別れた後、バスで夫子廟近くのホテルまで帰って来たが、秦淮河の夜景を撮影するため途中で降りホテルまで歩いて帰ることにした。秦淮河の灯船は秦淮河の有名な景色で船はイルミネーションで飾られている。流れ行く灯船には観光客の話し声の他音楽や歌なども聞こえて来たいた。鎮淮橋一帯の秦淮河にある船と楼閣では毎年旧正月初日から30日までの1ヶ月間秦淮河の夫子廟一帯で金陵灯会を行う。夫子廟は南京市内の秦淮河北岸の貢院街に位置ししている。孔子を祭っている場所であるが一般的には李香君故居、江南貢院や王導謝安紀念館など秦淮河周辺から建康路周辺の地域を夫子廟と呼ぶ。夫子廟は南京の有数な歓楽街でもあり夜遅くまで賑わっている。夫子廟近くの広場では多くの若者が集まりダンスのレッスンをしていた。夜9時頃にもなると冷え込んできたが彼らはリズムに合わせ踊っていた。翌日は中国国民党と共産党との内戦の記念の雨花台へ行くためホテルへ帰った。
2011.04.11
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「南京旅情54」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文と15歳で結婚した大月薫は冨美子を生むが養子に出した。冨美子は養子先の宮川家で更に婿養子を取り長男東一を生む。大月薫が外孫の宮川東一と栃木の寺で会う事になったのは冨美子の計らいでもあり薫62歳の時だった。孫文の事を知る宮川東一だったが、初めて聞く孫文の事に戸惑うと共に孫文の知識に疎いため漠然としていた。孫文と中華民国の歴史を紐解くと1911年の辛亥革命の後1912年元日南京を首都とし中華民国を建国する。孫文は自らの軍事力を確保するためソビエトからの支援を求めた。孫文の弟子だった蒋介石は1923年孫文の指示によりソ連の軍制を視察。孫文のもう一人の弟子の毛沢東は1921年7月上海で行われた第1回中国共産党大会に出席した。孫文は1925年3月闘い半ばにして北京で死去し亡骸は南京中山陵へ。国民党の後を継ぐ事になったのは蒋介石であり中山陵造成も指揮をする。1945年日本敗戦後、中華民国が台湾を編入し実質上中華民国の領土となる。蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との内戦が続いたが1949年10月1日に共産党に敗れた蒋介石は台湾へ失脚。台湾は中国から離脱し中華民国となる。
2011.04.10
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「南京旅情53」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文は盧慕貞と夫婦であったが革命に失敗日本へ亡命し1903年から3年間大月薫と結婚していた。盧慕貞とは1915年までの30年間夫婦だったが離婚し宋慶齢と結婚。孫文と大月薫の結婚は束の間の事だった。孫文の子供を宿した薫は自分ひとりで冨美子を出産した。孫文は子供を抱く事もなく革命のために帰国した。その後孫文とは連絡が途絶えてしまった。冨美子は乳児のまま横浜の商家の宮川家に養子として出されたが、大月薫の親は薫を不憫に思い他家へ嫁に出すことにした。歳月は過ぎ冨美子は多摩から宮川家に婿養子として迎えた吉次と結婚し長男に宮川東一を授かる事となる。宮川冨美子には生みの親が一体誰なのか危険な情勢下のため知らせなかった。冨美子が薫と別れ初めて会ったのは栃木県の寺で実に48年後の事だった。冨美子の長男の宮川東一もこの時初めて自分が孫文の孫と知る事となる。
2011.04.09
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「南京旅情52」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。大月薫は再婚したが、孫文からの連絡を生涯待ち続け1970年没、享年82歳だった。大月薫の娘の名は冨美子と呼び、冨美は孫文の文の訓読みから付けた。孫文は医師として世に出るが革命思想を抱くようになり革命に敗れては、しばしば日本に亡命したが、1911年に辛亥革命後1912年に中華民国を建国する。革命に失敗しては海外や日本へ逃亡。乾ききった孫文の心に少女の薫は安らぎを与えたに違いないだろう。大月薫の家は一般の家庭で、後の妻である宋慶齢の実家のように大財閥で孫文の革命に資金を捻出出来なかった。ゆえに大月薫は歴史の中に埋もれ2009年2月まで世に知られなったのかも。
2011.04.08
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「南京旅情51」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。2009年2月の人民日報上で孫文に日本国籍の妻がいたと記事を掲載。孫文の妻は盧慕貞、宋慶齢、陳粹芬の3人とされてきたが、大月薫名の日本国籍妻がいたと公表した。横浜で大月薫と出会った孫文は美しさに心を奪われ求婚した。孫文36歳、大月薫14歳と22歳離れ親から断られた為1年後、直接求婚。2人は横浜市内で結婚式を挙げた。1906年2人の間に娘が生まれたが娘を見ないまま孫文は中国に帰国しその後、日本に戻ることはなかった。娘は生まれてまもなく養女に出された。1925年、革命未だ成らずの言葉を残して北京で永眠。孫文の棺の天井には国民党の党章のシンボルマークがある。
2011.04.07
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「南京旅情50」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の孫文の祭堂に入った。祭堂の中央に大理石製の孫文坐像が置かれている。写真では祭堂の暗さに露出が合い孫文像が白トビを起こしている。堂内の壁は黒の大理石に孫文直筆の「建国大綱」の文字が刻まれている。内部は墓室になっており大理石の孫文の寝姿の下の棺に孫文の遺体が安置されている。中国革命の父と呼ばれた孫文の中国名は「孫中山」と呼ばれる。 中華民国では国家の父と呼ばれ中国でも近代革命の先人として国父と呼ばれている。中国では尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼ばれている。中国広東省広州にある大学で中山大学や台湾の中山大学は孫中山の名前から付けられた。
2011.04.06
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「南京旅情49」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の石段を登りつめた所に孫文の直筆の「天地正気」の額が掛かっている門が見えてくる。「天地正気」とは天地の中に正気があるが流動的なものでこの正気は地上では河や山となり人に乗り移つると高揚として士気があがり胸中一杯となる。「正気」は天地宇宙の根源となるエネルギーであると考えられる。「孫子・軍学」に正々堂々との言葉がある。「正正の旗」を討つなかれ、「堂堂の陣」を討つなかれと教えた正々堂々である。整然とした軍隊や士気が上がり進軍して来る軍隊には迎え撃つなとの意味である。孫子は、戦う将兵の士気が上がっている敵には決して迎え撃つなと教えている。下の写真は祭堂の前から中山陵の牌坊を遠く望んだがココまでで392段だが降りる時に再度確認した。
2011.04.05
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「南京旅情48」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の石坊前の広場の南端に孫文像が立っており石坊の後側に長く広い墓道が続いている。墓道を上がった所に祭堂に入る門があり、祭堂の南側のアーチ型の3つの門がある。門の上には民族、民権、民生の文字が記されており「民生」門の上には孫文の直筆の「天地正気」の額が掛かっている。石段を上るのに段々足がだるくなり休み休み上ったが、何段あるかなど脳裏から消え去り大学生に任せた。
2011.04.04
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「南京旅情47」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の石段を上って行くと孫文の国民党葬が行われた事を記す碑が造られていた。中華民国18年6月1日と記されており中華民国元年は1912年であるので中華民国18年は西暦では1929年である。中山陵造成には3年の歳月を要した。完成した年に国民党葬が行われた。孫文の碑堂を抜けると何段もの石段を上らなくてはならないが、その先に孫文の祭堂があり、奥に墓室がある。 陵墓は1926年1月に起工し1929年の春に完成した。敷地内には広場や墓道陵門、碑亭、祭堂、墓室などがある。敷地は鐘の形で鐘の頂上にあたる部分は半月形の広場になっている。広場の南端には孫文の銅像が建っている。
2011.04.03
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「南京旅情46」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵へ着いたのが午後4時頃でその事もあってか人出は少ない。以前来た時は午前中という事もありまた秋の行楽日和だった事もありコンクリートが見えないほどだった。午後5時で閉門になるために私たちは先を急ぎ歩いて行った。中山陵は孫中山(孫文)の陵墓であり清朝を滅ぼし中華民国を建てた孫文にまつわる言葉が掲げられている。孫文の祭堂を上がっていく石段の前に門が建てられており上には天下為公の文字が彫られ掲げられていた。天下為公は古典「礼記」の一節で天下は権力者の私物ではなく公(民衆)の為のものであるという意味である。政治的判断を下す上で政治家が念頭に置いている言葉でもあり為政者の政治理念を説く言葉の「天下為公」に由来するものである。日本でも同じことが言えると思う。最近の政治では「公」が持つ意味が不確かなものになているような・・。政治に携わる人々は、常に念頭に置き行動して行ってほしいものである。
2011.04.02
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「南京旅情45」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中山陵の入口の脇でチケットを購入中国人の大学生と二人で中へ入った。私は中山陵へは今回で3度目になる。始め来た時に中山陵の石段が何段あるのか数えながら上がった。途中で何段目なのか数を読み違え340段ほどかと思っていたが392段あるとの事がわかった。2回目に中山陵を訪れた折に再度、石段の数を数えてみた。だが、350段ほどしかなかったので、また数え違いをしてしまった位にしか思わなかったが、今回学生にも伝え数えてもらうことにした。孫文の陵墓を造った折、中国の人口が3億9千2百万人で392段とした事を告げた後、石段の数を確認して行った。
2011.04.01
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