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江蘇省---南京旅情44「南京旅情44」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上の写真は南京の鷲峰禅寺の傍の金網のフェンスが少し破けておりその穴から川へ行き撮影した。冬でもあり少ない観光客であったがそれでも中国語が時折聞こえてくる。時には笑い声が聞こえる中で川岸の静かなたたずまいの雰囲気を撮影。雰囲気は伝わるだろうか・・。 午後3時過ぎほどに中山陵へ向かった。中山陵は中華民国の父の孫文の陵墓で1929年に完成し墓の規模は大きい。孫文は中国では孫中山と呼ばれている。封建制度を打開し民主国家建設への扉を開いた人物の墓に相応しい。歴代の皇帝の陵墓が並ぶ中であるが中山陵は歴代皇帝の陵墓に劣らない。
2011.03.31
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「南京旅情43」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京鷲峰禅寺の本殿から四天王殿へ入ったが木材を上手に彫り繋ぎ合わせて四天王の姿に出来ていた。彫刻職人の手により彫られた各パーツがボルトで止めてあるのが分かった。原色の塗料が四天王の体や衣服に塗られた鮮やかな姿もよいが木目の浮き出た四天王の姿にもまた新鮮な印象を持った。日本でも中国でも四大天王の名前は同じであり広目天・多聞天持国天・増長天の四天王である。欲界の六欲天の中の諸天で天に住み仏教における4人の守護神。四枚の写真で広目天は特殊な力を持った眼と四方を守る広目。多聞天は単独では毘沙門天と呼ばれ持国天は東方を護る守護神である。増長天は宝剣を持っている。
2011.03.30
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「南京旅情42」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。中国禅寺本堂の中の造りは北方地方でも南方地方でも全く同じ造りになっている。だが釈迦牟尼世尊像の表情や観世音菩薩の表情などはそれぞれ違っている。写真は観世音菩薩の姿である。観世音菩薩は釈迦如来像の裏側に安置されている。龍の子供の背中の上に乗り多くの僧侶を従えている。素晴らしい魅了される彫り物は鮮やかな色で塗装されおり多くの人達が手を合わせて祈りを捧げている。別の観音菩薩像や高僧の像にはマントが着せられていた。
2011.03.29
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「南京旅情41」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。鷲峰禅寺の本堂は撮影禁止との事。他のガイドが撮影を制止していた。私は本堂の外から望遠で撮影した。だが手ブレを起こしてしまうのでレンズを入れ替え中で素早く撮影した。本堂には三尊形式の仏像が安置されていた。左に観世音菩薩、中央が釈迦如来が安置右側は弥勒菩薩が安置されている。過去世・現在世・未来世から見ると釈迦如来は過去の仏で観世音菩薩は現在の仏、弥勒菩薩を未来の仏である。釈迦はインド菩提樹の下で悟りを開き弟子たちにお教により説法を続けた。始めは簡単な教えの小乗仏教から入り弟子たちが分かって来たところで大乗仏教へと教え導いた。だが弟子たちの悟りのとらえ方が皆それぞれ違ってしまった。現在でも仏教は多枝に分かれ統一など全く出来ないが、弥勒菩薩の誕生は未来の仏として説きあらわしている。
2011.03.28
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「南京旅情40」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。白鷺州公園の中に建立された明代や清代の由緒ある鷲峰禅寺の中へ入った。鷲峰禅寺の名前の由来は唐代に南京の地を訪れた名僧・鷲峰の名前が由来である。鷲峰禅寺がある白鷺州公園の歴史は古く380年ごろ東晋時代の東府城の頃の事。鷲峰禅寺は明代の天順年間に放生池の傍らに建立され、その後規模を拡大した。鷲峰寺は中国の文化遺産保護制度の一つで国務院が制定した文化遺産保護制度の中で国家級の文化遺産に対して制定されている。由緒ある寺という事もあり撮影禁止との事。私一人で行動していたので素早く撮影した。前頁の寺の門の写真で左右に獅子像があり禅寺の壁は黄色で塗られ統一されている。本殿の前の何段もの高炉を撮影した。古くは瑠璃瓦と呼ばれていた釉薬瓦が高炉の色と溶け合っていてホッとする。
2011.03.27
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「南京旅情39」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。瞻園と太平天国歴史博物館を巡ったあと白鷺州公園の中に入って行った。公園沿いを流れる河沿いに明代や清時代の建造物が建てられていた。河の中ほどにある台座の上には当時の煌びやかな衣装を着た人形が飾ってあり幻想的な雰囲気がした。他の人達は河巡りのため20分程遊覧を楽しんだが私は歩いて公園内を散策した。七重の白壁の塔が見えて来たので撮影したが全体の姿は近くでは入りきらないので広角に替え撮影した。この塔は白鷺塔と名づけられており塔の前に日本語の説明立看板があった。説明には1431年明代に大報恩寺を建設する残りの材料を利用して旧院と東園の間で回光寺を建てた。また塔を建立し白塔と名づけたとある。白鷺塔の前の道を少し行くと鷲峰禅寺という寺の入口に出た。
2011.03.26
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「南京旅情38」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。瞻園の中にある太平天国歴史博物館へ入って来たが太平天国の乱は中国の清代に起きた大規模な宗教反乱である。ブロンズ像の洪秀全は科挙の初期試験に失敗し1ヵ月半ほど病床に臥したが老人から破邪の剣を与えられる夢を見る。勧世良言のパンフレットを手にし夢の意味を理解しキリスト教に目覚める。洪秀全はキリスト教の教えの中で特に上帝が唯一神であることを強く意識し偶像破壊を熱心に行った。 中国では儒教・道教・仏教の廟が多く破壊し上帝だけを崇める事を求めたがだがその革命は成功はしなかった。洪秀全は効果的な布教方法を模索し行き着いたのが布教文書を著した。各地で反発が強く内乱を引き起こした。太平天国の乱で2000万人の戦死者を出す。旧日本軍兵士の大戦戦死者が300万人でその事から考えると犠牲者数が多い。ちなみに文化大革命では3000万人の犠牲者が出たが文革は中国全土である。
2011.03.25
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「南京旅情37」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。書画は書作品と絵画作品の総称で書と絵画という意味ではある。書と絵画が一体化した芸術である。東洋において書と絵画は一つのフレームに表現される事が多い。絵画の作者自らが賛を作品に書き入れる事を自画自賛と言う。馮智教授は南京美術家協会の会員で江蘇省花鳥画研究会の副事務総長を担当し役所の特別招聘の絵師である。馮智教授の作品は中国全国で何度も受賞し江蘇テレビ局で特別報道番組を持った事もあり香港東方書画芸術院の画集に入っている。今回弟子たちの作品を瞻園の中で展覧していたので撮影した。
2011.03.24
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「南京旅情36」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。瞻園の庭園造りは人工池の周りに回廊を造ってある庭園であり蘇州や杭州、上海などで見かける。幅が一間(1.8m)のものを単廊と呼び幅が二間(3.6m)のものを複廊と呼ぶ。日本での回廊も中国での回廊なども複廊であり中央から両側に回廊が設けられている。回廊の柱の色が朱色で塗られているが日本では神社に多く朱色が使われ鳥居など見事な朱色だと思うほど。中国では回廊の柱はほとんどが朱色である。日本の厳島神社の朱色の柱は目に鮮やかだが、中国の朱色はエンジ色が強い。朱色は硫化水銀を漆に混入し赤い色の塗料になり、防腐や防水など木材の腐食を防ぐ目的として塗られている。私が絵を描く時に赤を主体にして描くことが多いが赤色が放つ生命力の力強さや神秘性をも赤色から感じている。
2011.03.23
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「南京旅情35」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京市内にある瞻園の中での撮影も終盤に近づきだした所でやっと瞻園の文字が入った門を撮った。二人の女性は瞻園の中で友達になったものの毎回シャッターを押して下さいと便利に使われていた。瞻園へは夫子廟から歩いて来れるが急ぎ足で20分程掛かってしまう。夜は彼女たちと食事に出掛けたがバッグを持った方の女性が飲みすぎてしまった。ホテルまで送って行く事になり後悔した。勿論、もう一人の彼女と一緒に部屋へ入ったので問題はなかった。私の後悔とは帽子を被った方の彼女がホテルが違うのでタクシーで送り飲みなおそうとバーに行った。そこでの勘定が1700元(23800円)と予定していなかったお金が掛かった。あまり羽を伸ばし過ぎると熱いお灸をすえられてしまったという話しだ。
2011.03.22
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「南京旅情34」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。日本での庭園造りは奈良・平安時代で自然は大自然の中で獣たちがはびこり人々の生活に危険を及ぼすものだった。日本では自然美を見ようとしはじめ仏教の流布により仏像と寺の意識の中で庭園の思想が生まれて行った。中国では日本以前に仏教が流布したが庭園の意識は日本より劣っていた。日本が鎌倉や室町時代には寺院が多く建立される時期に入り庭園造りは今まで以上に盛んに造られた。中国では宋時代や元時代であり仏教寺院や石仏が多く造られたが庭園の充実までには至っていない。日本が江戸時代に入り戦国の世も終焉を迎え庭園造りに拍車が掛かった頃中国では明や清朝に入っており本格的な庭園造りの到来となる。
2011.03.21
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「南京旅情33」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上海などの庭園と南京の庭園はほとんど造り方が似ており瞻園でも同じような造り方であった。人工池が造ってあり、その回りに回廊が造られている庭園である。蘇州の庭園で築山が多く造られているが瞻園でも築山が半分近くを占めている。日本の庭園と中国の庭園造りとどちらが良いかとの質問を運転手が私に投げかけて来た。私自身日本での庭園は、あまり見たことがなかったと思い。日本での庭園の写真を思い浮かべたが、運転手に日本と中国の庭園にはそれぞれ良い所があるから一概に日本が良いとか中国が良いなど言えないと答えておいた。確かに日本の庭園の方が手入れが行き届いており日本人である私には日本庭園の方が心和むと思うが何とも言えないところである。
2011.03.20
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「南京旅情32」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京の瞻園は600年以上の歴史がある。明建国の第一の功臣徐達の府邸である。徐達は明の将軍で娘は永楽帝の皇后で朱元璋の旗揚げ時から協力し元を追って新王朝を立てるのに大きな功を挙げた。朱元璋と行動を共にして紅巾軍に参加し朱元璋が王になると徐達も大将軍に任命された。徐達は軍人としての才能に優れ江南の平定がなり明が建国された。徐達はその後も元との戦いに活躍するが、功績を立て過ぎたことにより朱元璋に疎まれるようになっていた。徐達は軍内において人望は高かった。その有能さと名望を王の朱元璋に恐れられ毒殺されたようである。朱元璋時代の明の都は南京にありその後北京に遷都するが徐達の邸宅は瞻園と太平天国歴史博物館」として現存し受け継がれている。
2011.03.19
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「南京旅情31」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。瞻園の中に入ると緑の多さに冬でありながら快ささえ感じる。塀の丸い出入口から庭園の緑を撮影したが思うようには撮れていない。瞻園は総統府の中にある煦園と同じく賞される庭園である。総統府の煦園より瞻園の方が大きい庭園でもあり、金陵第一園といわれる。明朝のはじめからあった庭園であり太平天国の乱のときには瞻園に太平天国の乱の指導者の洪秀全が住んだ。始めは私も分からなかったが庭園に隣接して太平天国歴史博物館があるので運転手より説明を受け納得した。 観光客が少なかったが人気がないのではなく冬でもありシーズンオフで人出が少なかった。
2011.03.18
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「南京旅情30」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。古秦淮を秦淮河沿いに歩いた後、秦淮河の畔の瞻園路に足を運んだ。明の初期に造られた瞻園へ入った。瞻園は南京に現存する最も古い庭園で朱元璋が功臣のために造った。清朝に乾隆帝が南方を視察したおり庭園に泊まり瞻園と親筆した。後に藩台役所内の花園となった。瞻園は昔から築山でよく知られており築山がその半分近くを占めている。回廊も特色があり、南北に曲がり門を入ると仙人峰の石峰が目に入る。宋の時代花石綱の遺物といわれたが瞻園は何度も破壊されたが修復された。瞻園は山水が美しく独特の特色をもち南京の有名な古典庭園の一つであり日本の盆栽にも似たものも沢山ある。
2011.03.17
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「南京旅情29」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。秦淮河は揚子江右支流で南京では長江を除くと最大の川である。全長は100キロ余りの長さがある。秦淮河には南北二つの源流がある。北の源流は句容河で南は?水河である。南北の二つの源流が合流し方山を過ぎて北西へ向けて流れ南京城内へ入る。南京城の通済門外の九龍橋で秦淮河は内秦淮河と外秦淮河に分流している。写真の古秦淮は、秦淮河沿いに造られた町並み通りである。南京の夫子廟から近い事もあり大勢の観光客で賑わいをみせている。古秦淮の通りには老舗が多く入っており古い客層も多いが、それとは逆に新しいファッションショップやファーストフードの店も増えてきた。
2011.03.16
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「南京旅情28」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。天下一という言葉は南京に限らず、中国の何処へ行っても見る。また日本でも多く見られた言葉だ。夫子廟から車で5分ほどの所に秦淮風味の食事を味わうことができる。肉料理と精進料理や好みにより色々な料理が用意してある。夫子廟の軽食は軽食宴や軽食会席まで中華料理の中で軽食づくしである。五味卵やシャオビンや雨花石団子など秦淮八絶軽食はもう南京軽食の代表で食事していて影絵芝居などが見られる。メニューには桃花、揚州前菜四種と海老の黒酢炒め、秦淮春大菜 フカヒレスープ 豚バラ肉の醤油煮その他8品目で450元(6300円)桜花は揚州前菜五種 クラゲとウドの和え物や鶏レバーの香辛料煮大正海老と唐辛子入り強火炒めその他10品目で600元(8400円)瓊花(けいか)となると揚州前菜六種海の幸の唐辛子入り特製沙茶醤炒め金陵ダックやアワビと新筍のスープ煮その他12品目で750元(10500円)この料金は2人分であり一人ではとても食べ切れるものではない。
2011.03.15
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「南京旅情27」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。写真の秦淮河は南京城内を流れる河でその向う岸には龍が作られていた。また秦淮河の両岸には居酒屋が立ち並び歌い女たちが、歌を歌っていた。国王は国防には興味が無く、詩歌や芸術そして酒と美しい女性を愛して止まない。国王が酒や女に入浸りとなれば国は乱れ終には軍隊が攻め込んで来て国は滅亡した。痛ましい由来を歌にしたものが沢山ある。だが歌い女たちはそんな由来なんて詳しくは知らなくとも楽しく歌う。南京は歴史上11回に渡り都となった。古くから秦淮河あたりは優れた文人が集まり商家が立ち並ぶ地となっていた。今でも酒楼や茶屋が多くひしめき合い女性遊びも華やかに行われている。中国の法律では買春は違反でありテレビカメラも入って摘発されているがそれでも後を絶たずイタチごっこである。
2011.03.14
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「南京旅情26」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。私が宿を取ったのは夫子廟から徒歩で1分程の所にあり、何かと行動するには便利と思ったが宿で5泊する事となった。写真の咸亨酒店は、浙江省紹興市が始まりで老舗の居酒屋として有名である。紹興市といえば紹興酒のふるさとで魯迅をはじめ多くの人に愛されてきた。私は日本にいるときは紹興酒を飲んだ事はなく中国へ来てからである。始めは少し薬っぽい味に慣れなかったが何度も飲むうちに美味いと思えるようになり今では紹興酒無しでは落ち着かないほど。旅に出ると必ず紹興酒を探し求めホテルの部屋に買い置きをするほどだった。だがアルコール度数は17度ほどあり飲みすぎてしまうので注意をしている。
2011.03.13
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「南京旅情25」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京中華門をあとにして建康路の夫子廟から少し行った所にある河へ出た。南京を代表する水路でもある秦淮河の横に造られた参道のような所へ出た。秦淮河に架かる橋を渡り参道を歩いていると李香君古居の前に出た。李香君は「桃花扇」舞台劇に登場し一躍世に名を知られるようになった。「桃花扇」は、清初の劇作家の孔尚任が1699年に完成した戯曲で「長生殿」と並ぶ清代の戯曲の代表作である。明朝の滅亡を背景に、文人の侯方域と名妓の李香君との悲恋を描いている。登場人物のほとんどが実在の人物で、史実に基づいた歴史物語になっている。李香君は抗清の名将楊之浩の娘であり南京に逃亡するが媚香楼に売られる。彼女は美人で芸に長けており当時秦淮で最も有名な歌妓の一人であった。李香君故居は夫子廟の西南に位置し、夫子廟から10分程の所にある。
2011.03.12
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「南京旅情24」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京城の中華門は明代には雨花台のある聚宝山の名前をとり聚宝門と呼ばれていた。だが、1930年頃に現在の中華門に改名された。中華門は南京城墻の一部で南京城最大の城門で東西南北の長さは約130mである。写真の中華門は東門で観光バスなどはこの門より中に入ることが出来る。中華門は南京防衛の要であり南京大虐殺の映画「南京!南京!」では、この城門を旧日本軍が門を破壊し中国軍が肉弾での攻防を破り入場した。中華門は城門であったが規模としては要塞に近い様相を構えていたといえる。中国軍事史における現存する貴重な実物資料でもあり現在は中国各地より多くの観光客が訪れている。中国の映画や学校教育で過大提示された旧日本軍による南京破壊事件を中国人が口々に見たような事を話している。一般の公園とは違い夜8時まで開いている上の写真は実習と書かれた下に解説する所と観光客が訪れた折に中華門の説明をしている。
2011.03.11
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「南京旅情23」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。明代の南京城を守った中華門の反対側を下って行くと当時の装束姿で明の旗を右手に持ち立つ姿が見られた。この明の時代も現代と同じように3時間の交代で歩哨に立つのだろうかなどと思いながら下って行った。南京は金陵と呼ばれており古都5000年の文明史の中で数多くの歴史的な文化遺産を保持している。現在の中華門は1368年に完成している。明朝の南京城の造営に伴い造られた。秦淮河が東西に横断しており、もとは聚宝門と言ったようである。辛亥革命後、現在の名に改称された。今は城壁の一部しか残されていないが手で触ってみても強固な造りである。提灯が幾つも繋がれ吊るされていた。運転手は、この提灯がない方が、より一層昔が偲ばれるという。
2011.03.10
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「南京旅情22」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。明王朝の276年の統治の中で経済の発展が最も著しかった。中でも貨幣の鋳造と流通については洪武年間に洪武宝銭を発行した事だった。貨幣の流通は政府により強制的に発行したが金額を制限しなかった。貨幣のみ鋳造し放出したので貨幣の価値の下落に歯止めが利かなくなった。経済の発展に伴い民間の取引の中で自然発生的に形成されたのが銅銭を使う状況になっていった。明の中期以後、銀が経済の生活の中で基軸通貨となり銀を主として形成した。洪武通宝は真ん中に穴を開けた貨幣で明の時代に入り流通させた。 南京の今で言う造幣局に洪武通を鋳造するように命じて造らせた。元の時代に使われていた貨幣は使ってはならないと公布し各省にて明のお金に監禁されて使用された。写真の大砲は明の時代にイギリスより輸入され南京城の守りを固めていた。
2011.03.09
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「南京旅情21」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京中華門の2階部分の分けられた展示室を見て回っていると陳列された馬の蹄の形をした金銭を撮影した。中は電気が点いているものの薄暗くフラッシュが必要だったが、撮影禁止でフラッシュを焚くと、撮影している事が分かっているので、明るいレンズで撮影。それでも手ブレを起こしているがISOの数値を上げて撮影してもこの程度。明代での通貨に使われた馬蹄金であるが大平元宝10枚で開基勝宝1枚分で開基勝宝10枚で馬蹄金1個との事。私には、中国時代劇ドラマで見る位で価値がどれ程なのかは分からない。中国の貨幣も皇帝が変わると造り変えられ、金より銀銭の流通の方が多かったようである。それを馬の蹄の形をした馬蹄銀と呼ぶ。
2011.03.08
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「南京旅情20」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。貔貅(中国語でpi2xiu1)と呼び日本語読みでは(ひきゅう)と呼ぶ。貔貅は伝説上の猛獣の名であり貔が雄で、貅が雌ということである。辞書を引くと貔貅という語は勇猛な軍隊を譬えて用いられる。史記の五帝記に、黄帝が熊や羆貔や貅、?や虎の六獣を飼いならし炎帝と戦い勝利し即位した。また貔貅は邪悪を避ける動物として、三国時代には戦いの旗印としてそのデザインは流行したという。明代に著された三国志では魏の初代皇帝である曹操が貔貅は勇猛な将兵として戦ったとある。運転手が貔貅にはお尻の穴がないと言うので、後ろに回り覗き込んだ。貔貅は蓄財のお守りと言われ金を食べても穴がないので外に出さず中に貯め込むとの事から縁起物とされる。貔貅は南京市のシンボルマークでもある。
2011.03.07
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「南京旅情19」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。写真は中華門の2階部分に造られた各部屋に陳列された南京城や中華門を作るときに使われたレンガ類である。陳列されているレンガには全て浮彫文字が施してあった。陳列ケースの中には取り壊された城壁のレンガが整然と並んでいた。陳列された部屋と同じくらいの部屋が7つほどあり各部屋に貴重な歴史的な品が陳列されていたが中は寒々として底冷えがした。レンガの浮彫り文字を見ても詳しい事は分からなかった。運転手が説明をしてくれていたが大まかな事だけで、レンガの一つ一つについては分からないようだった。年号や地名また干支の事が書かれており南京城建設の折には、多くの所から高級なレンガが送られて来た事が分かる。
2011.03.06
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「南京旅情18」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。元の時代から明の時代になり始めの55年間は首都が南京にあった。江南地方から中国統一を果たした事は明朝が初めての事であった。南京城は周囲34キロにわたったがその正門が中華門と言われる門であった。城の西方には長江(揚子江)が流れ東方と北方には紫金山がそびえていた。中華門の城門は南側で南京城を守った。上の写真は南京で取れる雨花石である。日本で南京と名の付くものではU字型の引っ掛けが付いた南京錠や刺されるとかなり痛く痒い南京虫。落花生の南京豆や麻で作った南京袋舞台で披露する南京玉簾や緩みにくくしっかりと固定できる南京結びなどと南京と名のつくものは意外とある。写真は中華門の案内写真と南京城を立てた折に基礎にした石やレンガに時の名前や年号などが織り込んである。
2011.03.04
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「南京旅情17」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京は北京や西安また洛陽と並ぶ中国四大古代都市の1つである。南京城を囲んでいる城門の1つの中華門は明代に南京城正門として秦淮河に沿うように造られた。写真は、中華門に入った土産物屋で売られているものを撮影した。どこの観光地の土産物屋も同じで絹のスカーフと白檀の扇子が売られているが人気は高い。下の写真は、中華門の馬道である。なぜ馬道かというと大門の下から大門の城壁の上まで馬で一気に駆け上がった為「馬道」と名がついた。石畳の上を馬が闊歩するのは蹄にもかなり負担が掛かったのではと一緒に着いて来た運転手の話だった。次に案内されたのがレンガで仕切られた細長い部屋に通されたが、中には明代の貴重な物などが展示されていた。
2011.03.03
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「南京旅情16」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京の莫愁湖を出て中華門へ来た。南京市の南部にある城の門である。清朝の前の明代には聚宝山に由来し聚宝門と呼ばれていたが、中華民国の時代に入った1931年に現在の中華門の名前に改められた。中華門は南京城墻の一部であり南京城最大の城門でもある。東西南北は。ほぼ正方形になっており一辺の長さは約130mで4つの城門がある。中華門は南京防衛の要であり兵士3500人の配備が可能であった。中華門は南京城の城門であるが一般の門というより要塞と思えるほど。城門の上に上がると石で仕切られた壁により幾つもの細長い部屋が作られており現存する貴重な実物資料館のようになっていた。旧日本軍が南京を攻略した時に南京城門を破壊し南京城の上で万歳をしている写真をよく見かける。
2011.03.02
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「南京旅情15」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。莫愁湖公園出入口まで急ぎ足で帰った。そんな時、運転手より電話が入った。私は孫文の辛亥革命の事柄を運転手に聞いたが、難しい事は分からないと話。大事な事は貴方を無事に次の所へ送り届ける事しかないと話していた。辛亥革命とは簡単に言うと干支が5年周期60年に一度訪れる辛亥の年に起こったので辛亥革命と呼び今年で100周年を迎える。革命の内容は清朝末の政治的閉塞感から漢族の間に反満意識が生まれ清朝への反発が革命へとつながった。辛亥革命が勃発すると広東省恵州を攻撃して粤軍第1軍は清軍の提督を捕虜にし広州は革命派により掌握された。孫文は広州に護法軍政府を開設し護法運動を開始すると粤軍は福建省へ進軍し各地の北京政府軍を撃破して?州に駐屯した。粤軍は孫文により結成されたが中国国民党に合併吸収され粤軍の大将達も国民党の中で力量を発揮する。1912年の辛亥革命に参加した蒋介石は後に孫文に認められ国民党内右派の代表として頭角をあらわしていく。同じく辛亥革命に参加した毛沢東は孫文の元で蒋介石と共に革命に参加するが、孫文の死後、共産党に入党し頭角をあらわす。
2011.03.01
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