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クニさん
釈迦本人が、悟りに到達するには瞑想が必要だとおっしゃったわけではありませんよね?
私には仏教については詳しくありませんし、仏教どころかどの宗教についてもよくわかっていません。なので、これについて話す資格はないのかもしれませんが、あくまで一人の探究者の話としてお聞きいただければと思います。
いままで様々な高次に話しを伺ってきましたが、共通するのは、「現実世界での経験を重視しなさい。」ということでした。つまり、「ありのままの自分を受け入れる。」ということです。ポジティブな面、ネガティブな面、中立的な面、すべての面において、喜怒哀楽を想いのまま表現し、そこで得た経験こそが何よりもかけがえのないものなんだということです。
いかなる人生をおくるかは本質的なものではないようです。ブッダのように妻子を捨てて悟りの道を探求するような、いわゆる我々の常識とはかけ離れたことをする人もいれば、マザーテレサのように、初めは教師を務めていたのが、あるとき貧しい人を助けたいという一念から修道女の道に入り、無私の行為を生涯にわたって貫いた人もいます。
逆に、まったく無名の、それでいて平凡な人生を貫いていながら、高い境涯に到達したという人もいるらしいです。そのことはセスが述べています(悟りとは何かについてはここでは深入りしません。)。
その人にとっておかれる環境というのは様々ですから、どれが一番正しくて悟りへの道に直結しているのかなど誰にもわからないわけですし、そんな人生などおそらく存在しないんだ思います。要するに、たとえどんな人生を送ろうとも、乞食であろうと総理大臣であろうと僧侶であろうと、それは悟りへの本質ではないのではないかということです。
そうなってくると、当然、瞑想するかどうかも、本質的とはいえなくなります。貧しくて日々の生活に追われ、瞑想さえできない人もいるからです。ですが、セスによれば、そういった人であっても、高い境涯に達することが可能だというのです。
セスはこのように述べています。
「わたしは歴史に記されるような、際立った人格存在を演じたことはありません。
しかし、日常生活での親密で打ち解けた細部であるとか、何かを達成するためにごく当たり前に払われる努力、あるいは愛への渇望などといった体験を積みました。
父が息子に、あるいは夫が妻に、妻が夫に対して抱く筆舌に尽くしがたい思い入れについて学び、また無謀にも、密度の高い人間模様のなかへみずから身を投じたこともあります・・・
かつてわたしは12人の子をもつ母親であったことがあります。
無学でお世辞にも美しいとは言えず、とりわけ晩年になってからは手に負えない癇癪もちになり、耳触りな嗄(しわが)れ声でよく毒ついていました。
6世紀のエルサレム近郊でのことです。
子供の父親は何人もいました。
とにかく子供を食べさせるために、私は何でもしたのです。
その時の名はマーシャバといいました。
わたしたちは住めそうな場所であればどこにでも住みました。
家の軒先にうずくまって暮らし、しまいには全員で物乞いをしました。
しかし、その転生での物理的人生には、ほかの転生と比べて際立った特徴がありました。
それは深く鋭敏な感受性です。わたしは一切れのかちかちのパンでさえ、それ以前の転生で食したどれだけ砂糖をまぶしたケーキよりも、はるかに美味しく感じることができたのです。
子供が笑うと、わたしは喜びに圧倒されました。
極貧の暮らしにもかかわらず、朝はいつも嬉しさに凱歌をあげました。
誰ひとり眠っている間に飢餓に打ち負かされることなく、みな生き延びることができたからです。
あなたがたが自分で個々の転生を選ぶように、わたしもその転生を故意に選択しました。
なぜなら、それ以前の転生を経てきた結果、わたしは人生に満ち足りて倦み始めており、それまで如何に衝撃から過度に守られていたかを自覚したからです。
もはやわたしは明晰なる判断のもと、現世のもたらす豪奢な体験や喜びに意識を向けることは二度とありませんでした。
子供を怒鳴ったり、時には自然のもたらす悪天候に憤怒して喚き散らしたこともありましたが、わたしは存在そのものの荘厳さに打たれており、修道士であったどの転生よりも深く真の霊性を学んだのでした。
これは極貧が真実への近道であるとか、艱難辛苦は霊性を高めるという意味ではありません。
同じような状況でともに辛酸をなめても、そこからほとんど何も学ばない人もいます。
これはあなたがた一人ひとり、これまで体験されてきた人生の状況は、自分の弱点や美点がどこにあるかを前もって知った上で選択したということなのです。
わたしの人格のゲシュタルトのなかで、あなたがたの言葉では「その後」、わたしがもっと裕福な転生を送っていた時でも、マーシャバは―例えば、成人しても内なる子供が存在しているように―過去での生活とその時点での生活とを対象させられるよう、あふれるほどの感謝をもってわたしのなかに存在していました。
彼女は、わたしが自分のそうした利点をうまく使えるよう促してくれたのです。」
このように、セスの話からもうかがえるように、我々の人生において何が絶対ということはなく、唯一あるとすれば、喜怒哀楽を通したその人の体験から得られる学びこそが真の霊性に結びつくのだということのようです。
そういった趣旨から、貴重な人生の中で瞑想をひたすらすべきなのか、それとも、カタチにとらわれるのではなく、与えられた環境の中で現実から目をそらさないのか、そういった選択が我々にはゆだねられているのではないでしょうか。
ご質問の答えになっているかどうかはわかりませんが、そのようにご理解いただければと思います。