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ビギナーさんからのご質問です。
スピ本などでは、自殺した人は、転生後、また自殺する前に似た環境に追い込まれ、その場の行動を試される。と書いているものがあります。
もし、同一魂の転生はあるという前提に立つと、例えば、非がなくていじめにあって自殺した人などは転生後も理不尽な苦痛を味わうことになるので、それは変ではないかな?と。あるいは、いじめをした側は、何のおとがめなく転生して普通の転生人生をおくることになるのは、それも変ではないかな?と思いまして、imimiさんにうかがう次第です。
まず、一点目についてからです(転生後、再度同じ状況に追い込まれるか否かについて)。
結論から言えば、そうとも言えるし、そうでないとも言えます。
「自分」次第ということになります。
ここでいう「自分」というのは、我々が今「自分である」と認識している「自分」とは別の自分であるとお考えください。より広い意味での「自分」です。スピ界には、この点をまだ十分に認識されていない方もおられるように思います。ですから、ご指摘のような問題が生じるのです。
加えて、転生というのは、転生するか否か、そしてどのような転生をするかということに関して、すべて自己責任であるとされています。すなわち、自分ですべて決められるのです。
ただし、それを決められる「自分」(=I/There=トータルセルフ=インディビジュアリティ)というのは、数千のパーソナリティを包含する我々からみて神のような「自分」です。ですから、非常に厳しい目を持っています。我々のようにエゴから生じる甘えを一切許さないのです。
(トータルセルフを大きな1個のダイヤモンドと見た場合、パーソナリティはダイヤモンドの1つ1つの面ということになります。1つ1つの面もダイヤモンドの別側面をそれぞれが表しているということになります。ですが、ダイヤモンド全体でより広い意味での「自分」を表わしています。これが、トータルセルフとパーソナリティとの関係です。)
ですから、我々の甘っちょろいエゴからすれば考えられないことですが、自らの進化・成長のために、あえてきつい課題を自らに課し、厳しい転生を選択することがあります。
ですから、仮にトータルセルフの視点からみて、自殺したパーソナリティが直面した問題のうち、当時抱えていた問題に再度チャレンジする必要があると判断した場合、あらたに転生した際に、自殺したパーソナリティと同じ状況に直面させる場合が考えられます。
それは、自殺した「自分」(=パーソナリティ)も、あらたに転生した「自分」(=パーソナリティ)も、より大きな「自分」(=トータルセルフ、インディビジュアリティ)からみれば同じ自分の一部であり、自分自身に他ならないからです。
そうやって、我々は、今の我々の「自分」からは想像もつかないレベルにおいて切磋琢磨しています。
これには一人の例外もないとされています。
ですから、仮に自殺した人がいた場合、その人は転生した際に再度同じ状況下で学ぶことがあるとされるわけです。
このように、転生の問題を考える際には、「自分」とは何かをより厳密に広くとらえることが必要となります。
これは、同一パーソナリティの再度の転生がないという考え(私のような考え)を考慮に入れたとしても、結論的には一緒です(「私のような考え」と言いましても、厳密には「私が最も信頼を置いている高次の考え」という意味です)。
つまり、私のような考えからすれば、再度転生した際に前回の転生で自殺した状況と同じ状況に直面するのは、その当時とは別のパーソナリティということになります。
つまり、「自殺したパーソナリティ」と「転生後のパーソナリティ」は別物だということです。
このように考えても、トータルセルフの視点からみれば、両者は同じ「自分」の一部であり、なんら問題はありません。
つまり、この問題の根底は、我々は「自分」というものが全く理解出来ていないということから生じているように思います。
今自分であると感じている自分だけがすべてではないということですね。我々の認識を超えたより大きな「自分」があるということです。そのように信頼できる高次が伝えてきているわけです。
なお、ビギナーさんがおっしゃるような、同一の魂(パーソナリティ)の転生(=再生)は、通常の魂ではまず存在しないとお考えください。
(シルバーバーチによれば、3~4度は例外的に再生するとしていますが、それは、トータルセルフ内の数千のパーソナリティを考慮に入れた場合、極めて例外的なものとなることは明らかです。
「個々の分霊の地上への降誕は一回きり、つまり自我の本体としては再生はあっても、分霊としては再生はないと考えてよいでしょうか」という質問に対し、
シルバーバーチは、「
それは、成就すべき目的が何であるかによります。同じ分霊が二度も三度も降誕してくることがありますが、それは特殊な使命がある場合に限られます。」
と述べています。)
>例えば、非がなくていじめにあって自殺した人などは転生後も理不尽な苦痛を味わうことになるので、それは変ではないかな?と。あるいは、いじめをした側は、何のおとがめなく転生して普通の転生人生をおくることになるのは、それも変ではないかな?と思いまして
仮にそれが、前回自殺したパーソナリティが直面していた問題をクリアすべきであるという選択肢だった場合、新たに生まれたパーソナリティも全く同様の状況下に置かれる時がきます。ですが、これは、より広い意味での「自分自身」の選択ですので、理不尽であるということは全くありません。
同様に、いじめをする側についても同じことが言えます。前世でいじめをしたからといって、現世で何もないかということそんなことはなく、逆に現世ではいじめられることによって逆の立場を学ぶ可能性があります。セスがそのことについてふれていたように思います。
ただし、それも絶対ではなく、どのような選択肢を選ぶかは、大まかには広い意味での「自分」(=トータルセルフ、インディビジュアリティ)、狭い意味では現実に直面する「自分」(=パーソナリティ)の自由意思によって選択がなされます。
つまり、いじめをする側についても、前世でいじめ、現世ではのほほんと暮らせるかというと、必ずしもそういうわけではないのだということです。
すべては、より広い意味での「自分」が全体の進化・成長のためにどのような判断をするかにかかっていると言えます。
ですが、信頼できる高次の情報、たとえばセスの話からすると、より広い意味での「自分」(=トータルセルフ)は、非常に厳しい目を持っていて、生ぬるい人生ではもはや何の成長も期待できないと判断した場合、二度とそのような人生を選ぶことはないといいます。
ですから、仮に自殺された方が直面していた状況が、全体の進化・成長にとって克服すべき不可欠なことであった場合、より広い意味での「自分」(=トータルセルフ)は、今度の転生においても再び前回直面していた状況を選ぶ可能性は高いように思います。
この辺はある意味、我々の価値観とは真逆(あるいは対照的)であると言っていいと思います。つまり、我々は小我(エゴ)からみますが、トータルセルフは大我からみるということです。
要するに、我々には、何が全体の進化にとって最善か否かは、限られた視野・能力ゆえにわからないとみるのが適切であるように思います。
いじめるのが悪い、いじめられるのが悪いという単純な問題を超えたところに、このような深淵な問題が潜んでいます。
もっとも、いじめに限ってみれば、いじめるほうが悪いという見方でいいのだとは思いますよ。我々は二元性の世界で生きていますから。
一方的に戦争をしかけるほう(破壊者)が悪いというのと一緒ですね。
一方的に戦争をしかけられるほう(被破壊者)といったら変ですけど、相手の国又はその被害者が悪いということには二元性の世界では間違ってもなりませんから。
ただ、それとは別のところに、我々が個人レベルあるいは国家レベルで同じことを何度も繰り返している事情には、いままでお話ししてきたようなより広い意味での全体にとっての進化との関係で深い問題があるのだということです。
それは個人レベルではいじめかもしれませんし、国家レベルでは戦争かもしれません。
する側、される側を超えたところで、全体の進化との関係でより深い問題があるということです。
そういった我々の理解を超えたところに、全体の演目があり、それをより広い意味での「自分」が演じているわけです。
通常は、「自分」と言えばトータルセルフを指しますから、舞台でどのような演目をするか、またどんな役を演じるかは、「自分」同士の協議によって決められるように思います。
そうやって、様々な「自分」が、その時々に与えられた役を演じきることで、全体の進化に貢献していきます。
ですから、時空を超えた多次元的なトータルな視点からみれば、すべて帳尻が合っており、いわゆる人間的な不公平というのは一切存在しない、こういうことになるんだろうと思います。