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今日はブッダとの対話からです。
以下で話す内容は、客観的事実ではなく、リーディングによって得られた主観的事実です。
ですから、内容は現代仏教の教義に基づいたものではありませんのでその点ご注意ください。
ブッダは、かなり高いレベルに到達していると感じます。
たとえるならば、つかみどころのない雲のような存在です。
我々のようなパーソナリティのレベルをはるかに超越して、集合意識としての「自分」を見出しているようです。
ですから、以下の対話においても、以前何度かお話してきたような個別意識と集合意識の区別をつけた上でお読みいただければと思います。
(簡単に言うと、私は個別意識の視点に立脚して話しているのに対し、ブッダは集合意識の視点に立脚して話しています。)
会話はすべて変性意識下で行われていますが、途中に挿入してある注釈は、コンタクト終了後にネットで調べたものを付け加えたものです。
「あなたが生前、中心的に教えた手法は?」
「弟子の家に招かれたそこで直接説法をした。」
「大勢の前で教えるということは?」
「あまりなかった。多くは弟子との問答だ。」
「あなたの中心的な教えとは?」
(ここでブッダは、三法印もしくは四法印と思われるような印象を投げかけてきました。)
三法印についてはこちらを、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%95%E5%8D%B0
四法印についてはこちらをご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%B3%95%E5%8D%B0
「具体的には?」
「移ろいゆく世の中で現実を見つめて生きること。」
「今の仏教の教えはあなたの伝えるところからすればどうですか?」
「当たらずとも遠からずだ。ダンマパダいう名の聖典を参照するとよい。」
(一般的には、「ダンマパダ」という聖典は、「法句経」という呼び名らしいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8F%A5%E7%B5%8C
なお、ダンマパダをわかりやすく訳した文章を紹介したブログがありました。
http://76263383.at.webry.info/
)
「人はなぜ悩むのでしょうか?」
「悩んでいる自分を見出すからだ。悩みではなく、喜びを見出しなさい。」
「ここのフォーカスレベルは?」
「F49」
(このF49というのは、ブッダのパーソナリティが到達したレベルだと感じます。集合意識としてのブッダは、これよりはるかかなたまで認識力が及んでいるようです。この辺のパーソナリティ、集合意識の言葉の意味がわからない方は、過去ブログをご覧ください。)
http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200902180000/
http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/201008210001/
「あなたは今何をしているのですか?」
「修行している。」
「どこで?」
「君と同じように、私にとっての現実世界だ。」
「あなたと私のレベルの差はどのくらいですか?」
「レベルの差はない。レベルの差が有ると感じるのは、レベルの差が有ると考えるからだ。本来はレベルの差なんかはない。私も君と同様に、現実世界で生きる人間なのだ。」
「人生を思い通りに過ごす方法は?」
「ありのままの自分でいること。」
「しかし、それは難しいのでは?」
「難しいと思うから難しいのだ。ありのままを受け入れて真実となる。これがすなわち仏法である。仏法とは、釈迦牟尼仏のことである。釈迦牟尼仏とは、仏法のことである。」
(釈迦牟尼仏というのは、後世の人がつけた釈迦の別名のようですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
上の文脈では、単に「悟った者」くらいの意味で言っているように思われます。なお、言葉使いをあまり問題にせずに内容にご注目ください。)
「もう少しわかりやすく言うと?」
「つまり、ありのままを見つめて初めて真実となる。
『真実』とは、有ってなきがごとき空虚なもの。
そこに真実を見出しても無駄だ。
今を見つめなさい。
そこにこそ真実味がある。
移ろいゆくものの中に自らを置き、その中で様々な体験を積むことこそ最も価値のあることである。
そこにこそ真実がある。」
「瞑想や引き寄せの法則など不要だと?」
「不要だ。それ自体に特別な意味はない。意味があると思うのは、そこに意味を見出すからだ。」
「あなたはなぜ弟子に対して説法をするという手法をとったのですか?」
「それが最も(自分の考えを)伝えやすかったからだ。
物事は常に二極性を持っている。
極端であってはいけない。
中庸を目指すことだ。」
「中庸とはなんですか?」
「中庸とは空である。」
「空とはなんですか?」
「空とは実相である。」
「実相とはなんですか?」
「実相とは真実である。」
(「実相」とは、「現実のありのままの姿」という意味のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
の「成道」を御参照ください。)
「真実とはなんですか?」
「真実とは自分自身である。」
「そうすると、中庸とは自分自身ということですか?」
「そうだ。いかなる手法をとったとしても、真実にたどり着くには自分自身を見つめる以外にはない。」
「自分自身を見つめるとはどういうことですか?」
「あなた自身を見つめることだ。あなたの心だ。」
「心とはなんですか?」
「あなたの精神だ。肉体ではない部分だ。」
「それは日常生活の中でも可能ですか?」
「可能だが、あえて苦行に走らないことだ。」
「なぜですか?」
「苦行は本質から遠ざける。」
「本質とはなんですか?」
「悟りだ。」
「悟りとはなんですか?」
「真実への道だ。」
「真実とは相対的なものではないんですか?」
「もちろんそうだ。だが、あなたにとっての真実を求めることが大切なのだ。」
「私にとっての真実?」
「そうだ。それはあなたにしかわからない。だから、自分自身を見つめなさいと言っているのだ。」
「わかりました。」
「あなたの意識レベルはどのくらいですか?」
「大日如来と同レベルだ。人類の集合意識全体と同化しつつある。」
「この会話は真実ですか?」
「そなたは私自身なのだ。真実も何もない。」
「私はあなた自身?」
「そうだ。」
つまり、ブッダは、「真実」という空虚なものを最初から追い求めるのではなく、移ろいゆく現実世界の中で生き抜きなさいと言っているのです。
そこにこそ、本当の真実があるのだということが言いたいようです。
限りある人間世界での言葉に変換されていますから、真意が伝わりにくいかもしれませんし、私自身十分にわかっているわけではありません。
ですが、そのような趣旨の会話であるとご理解いただければと思います。
(もちろん、内容自体は私の主観的事実にすぎません。)
それは、リーディングをしてみて感じたんですが、仏陀は死後の世界についての話を生前しなかったということです。
ですから、ダンマパダを素人なりに拝見いたしますと、なるほど釈迦が言いそうなことだと思えるものも確かに含まれてはいますが、はたしてブッダがそのようなことを言っただろうかと思えるものも少なからずあります。
おそらくそれは、残されている仏典のすべてがブッダの死後数百年を経て編纂されているという事情によるのかもしれません。
つまり、弟子のそのまた弟子の、そのまた弟子の・・・言ったことが、あたかもブッダの言葉として伝えられているという事実です。
そうはいっても、確かにダンマパダを読むと、ブッダの香りが伝わってきます。
ぜひ興味ある方はお読みください。
なお、ブッダのいう、瞑想や引き寄せの法則それ自体に意味を見出さないという姿勢は、近い考え方とすれば、セスの考え方に似ているかもしれません。
どんなに言葉を尽くしても語りつくせるものではありませんし、真意は伝わらないがゆえに、瞑想や引き寄せの法則は、言葉だけが独り歩きをしている印象を受けます。
あるいは、引き寄せの法則の代わりに、セスのように現実創造のプロセスを詳細に説明する手法を用いたとしてもです。
その原因は、我々の理解力不足にあります。
だからかもしれません。
ブッダはそれらについては何も語らず、現実世界をいかにして生きるかという点を重視したわけです。
死後世界についても語らなかったと感じます。
また、ブッダは、弟子に対して説法をするという手法を主にとっていたらしく、瞑想を指導したことはなかったと言われました。
ただし、ブッダ自身は、自らの修行時代に瞑想を確かにしていました。その様子(光景)も知覚しました。
それは、一人ではなく、複数の人々と共に瞑想に励んでいる様子です。
もしかしたら、この点が誤解されて後世に伝わっているのかもしれません。