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以前、盛んにへミシンクをしていた頃、とにかく私は高い境地というのを求めていました。
いわゆる、「すべてなるもの」(創造主)とはどのような存在なのか。
また、その存在は、いかなる目的を持って万物を作り出したのか。
その答えは意外なものでした。
万物を創造した目的は、自分自身を知るためだったと言われたのです。
これは確か、どのへミシンク本においてもそういった情報がもたらされる前に独自に私に降りてきたメッセージでした。
万物を創造した目的が、自分自身を知るためだったなんて、意外だと思いませんか?
我々は、どこまでいっても、自分自身を見つめる旅をしていくのかもしれませんね。
もちろん、今この瞬間においてもです。
そのことを意識する、しないにかかわらず。
でも、考えてみると、我々は今見ている世界が、自分自身の内面世界の投影だと信じられないのと同様に、自分自身を見つめる旅人であることに気づくことは非常に難しいといえます。ある意味。
ですが、大切なのは、それに気づくと気づかないとにかかわらず、「今を生きる」ことではないでしょうか。
どんな人生であろうと、その人の人生です。
他人が口出しできるものではありません。
また、どんな体験であったとしても、それはその体験した当の本人にとっては真実です。
現実世界においても、非物質界においても。
もっとも、普通の人は、夢での体験以外では非物質界での体験を覚えていませんけどね。
ですが、信頼できる高次からの情報によれば、一人の例外もなく、私達は今この瞬間においても、多次元的に存在しています。
つまり、現実世界で生きるのと同時に、非物質界や、過去生、未来生において存在しています。
つまり、我々にとっては常に、「今ここ」しか存在しないわけですが、あらゆる合意された信念体系の影響によって、過去、現在、未来という時間軸という幻想にとらわれています。
ですから、場合によっては過去、未来への思いにとらわれることによって悩むわけです。
我々は、自分自身を知るために「今ここ」に生きているわけですが、自分の気持ちにできるだけ素直になって、今を生きられたら最高だなと思いますね。
自分をいつわって生きるということに我々は時として慣れてしまっています。
自分の気持ちを欺いて、様々な自分自身で作り出したルールに縛られながら。
あるいは、他人のルールに同調しながら。
もちろん、社会生活を営む上では、ある程度そういったルールに乗っかることは必要だとは思います。
ですが、たいていの人は、感覚が麻痺してしまっていて、それが行き過ぎてしまえば、過労によってうつになったり体調を壊したり、自殺したりする人も中はいます。
今はもう、すべてが分離から統合へと向かいつつある時代です。
それは、地球だけではなく、宇宙規模において。
そして、人間だけではなく、動植物や、他の知的存在にとって。
新たな時代は、どこか別のところにあるのではなく、我々の心の中にあります。
あとは、我々自身が、その世界を望むかどうかにかかっています。
すなわち、調和の世界へと進むか、それとも、破滅の世界へとすすむか。
すべては我々の選択次第です。
我々の意識の自由度は、我々の予想以上に大きいです。
意識の自由度は、即座に認識の変化をもたらします。
内面の変化によって、世界の美しさが実際に変化します。
我々の認識によって、世界が変化して見えるのは、世界は我々の認識次第で実際に変わっていることを意味しています。
少なくとも多次元的視点から見れば。
ですから、自分自身を見つめる作業というのは、とても重要なわけです。
神前に向かう、普段通りの日常生活の中で人とのやり取りの中で自分自身の神的部分を相手に見る、自然の中に浸る・・・いろいろあると思います。
そのどれもが貴重な体験の場であり、どれもが真実への道につながっていきます。
そして大切なのは、今を生きること。
これに尽きるのではないでしょうか。
「すべてなるもの」に思いを巡らせながら、そんなことを考えていました。
<写真はWikipediaからです(Credit&Copyright 663highland)>
