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前回、
我々は、永遠の今を生き続けていると言いましたが、そのことを自覚する必要はあるのでしょうか。
結論から言うと、不要だと思います。
我々が何を考えても、考えなくても、また真理に到達しようとも、到達せずとも、永遠の今に生きる多次元的存在であるという事実は変わらないと思います。
ですから、最近巷でよく言われる「悟り」に到達することも、不要ということになります。
悟りについては、私は本文記事であえてふれないでおきました。
ですが、そろそろ私自身の考えというか物の見方をお話ししてもいいのではないかという時代に来ているように思います。
私は、いわゆる「悟り」も自我の働きに他ならないと考えます。
本来我々は多次元的に存在していることは何度もお話ししてきましたが、簡単にそれについてまとめると、我々はちっぽけな自分と、広い意味での「自分」(トータルセルフやそれを超えた進化した「自分」)とを同時に兼ね備えつつ、今ここに存在しています。
我々の現実世界での認識では、時空の中にいるちっぽけな自分しか感じられませんが、実は多次元的な視点からも含めてみれば、時空を超えたところでも「自分」が存在している、こいうことなんです。
時空を超えたところにいる進化した「自分」にも様々なレベルが同時に存在していますが、高度に進化した存在、たとえば私の言い方では「本来の自分」なんかは、誰もが我々が想定するであろう「悟り」のレベルに普通に到達しています。
つまり、見方を変えれば、我々はすでに誰もが「悟っている」のであって、そのことをとりたてて問題とする必要すらないわけです。
ではなぜ、「悟りを得た」という精神的現象とでもいうべきものを問題とするかというと、悟りを得ていないちっぽけな自分を感じていて、同時に、悟りを得た「自分」をも感じるに至ったためです。
ですから、悟るという現象そのものが、自我(ちっぽけな意味での自分)の働き、こういうことになってきます。
もちろん、何を求めるかは人それぞれですから、別に悟りを求めたからと言ってなんら問題はないわけですが、自分が悟ったということ、あるいは悟りとは何かということについて、それを自分以外の人に伝えるということに、スピリチュアル的にはあまり意味はない、こういうことになります。
別の表現をすれば、「悟り」とはあってなきがごときものだ、こういうことになろうかと思います。
我々から見て悟ったと思われる人物に、ブッダがいます。
別の表現をすれば、真理に対して目を開いた人物、こういう表現がぴったりです。
そういう見方でいえば、これからはブッダのような人物はたくさん出てくるように思います。
私自身の見方ということでお話させていただけば、今ここ、そしてとくに今後の地球上には、多数の優れた魂が「あえて選んで」転生してきて、そこでの体験を積んでいくと感じます。
それはなぜなのか?
一つには、今の特異な、変わり目を迎えた地球上で体験するためです。
いわゆる弥勒の世を迎えつつある今の地球上では、多次元的に見て進化に向かう変化が起こりつつあるからです。
かつて、何度かにわたり、ブッダを深くリーディングしたことがありました。
本文記事では確か触れなかったように思いますが、ブッダを深く見つめていくと、多数の弟子と共に丘のような草原で瞑想している姿が感じられてきました。
ですが、ブッダ自身が常にそうしていたかというと、どうやらそうではないということもわかってきました。
ブッダはむしろ、対話を重視していました。
弟子との一対一での対話です。
その対話の中で何を説いていたのかというと、「現世をいかにして喜びに満ちた心境で生きるか」といった、生き方論のような問答としていたというのを感じます。
私は仏教には全く詳しくはありませんが、原始仏教にそのようなものは残っているのでしょうか、よくわかりませんけれども。
今風のスピリチュアルな見方でいうと、現世をよりよく生きるための引き寄せの法則、こんな感じです。
もちろん、今の引き寄せの法則そのものだと言っているわけではありませんから、誤解なきように。
つまり、私が言いたいことは、ブッダが直弟子に教えたことは、今の仏教とはおそらく全く異なっていて、しかも瞑想を必ずしも必須としないで真理に到達する方法をとったということです。
別の言い方をすれば、ブッダはなにより「体験」そのものを重視した、こういうことになろうかと思います。
それは、数多くのすぐれた魂が今後地球上に転生してくることを考え合わせても、私自身は納得いくものだと考えています。
最初の話に重ねてみると、「悟り」とはあってなきがごときものだ、「悟り」よりも「体験」重視を、という今日の私が話したい真意はここにあります。
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