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私はブログの中で、キリスト意識とサナンダ意識という二つの表現をとることがあります。
一般的には両者は同じ意識を指すとされているようですし、私自身も自分のブログではほぼ同一の意味として使ってきましたが、あくまでも我々の限られた認識のもとで見ると、厳密には両者は異なっているように感じられます。
もちろん、この感覚は主観的なものです。
私にできる唯一のことは、自分の体験に基づいて語ることだけですので、今回はその辺の違いなんかについてお話ししたいなと思います。
最近の私の感覚では、キリスト意識は人レベルの意識ではなく、高度に進化した集合意識として認識します。
時空を超えた存在ではありますが、我々自身の別側面の姿であり、広い意味での「自分」自身の姿です。
また、時空の観念に照らして考察してみれば、未来において高度に進化した我々の集合意識体、こういった表現も工夫次第でできます。
まあ、何と表現しようと、言語を超越した世界に存在する我々自身の姿であり、名前(キリスト意識という)などはもちろん問題とはならない、我々からみれば神のように進化した存在です。
私がキリスト意識を感じるとき、人の姿としては感じません。
光り輝く巨大な球体として把握します。
もちろん、この認識自体が本質的なものではないことは言うまでもありません。
へミシンク的に考察すれば、キリスト意識が存在するのは、フォーカス49以上の領域、I/Thereスーパークラスターに匹敵する集合意識体です。
これとは別に、サナンダ(意識)と呼ばれる存在がいます。
以下はあくまでも私自身の体験に基づいた認識ですよ。その点お忘れなく。真実は他にも無数にある可能性があります。
サナンダ(意識)には、個性があります。
時空を超えた領域(非物質界)においてサナンダに会うと、その圧倒的な存在感にまず驚かされます。
アセンテッド・マスターは、数キロ先までオーラが届くと言われることがあるみたいですが、まさにサナンダから発せられるそのオーラと言いますか存在感にはそれを思わせるものがあります。
外見は白人の西洋人に見え、いわゆるイエス・キリストとは別人です。
ですが、共通しているのは、イエス・キリストにも個性があるように、サナンダにも個性がある点です。
両者の進化レベルの違いは私にはわかりませんが、両者は別個の個性を持ちつつ、かつなんらかの関連性があるように感じられます。
この、イエス・キリスト、サナンダ(意識)と、キリスト意識とは異なる枠組みであり、どちらかというと、キリスト意識の中にイエス・キリストがいて、サナンダがいる、そういったようにも思えます。
人間はこうやって、物事を分離して把握する習性がありますから、上のように見てきました。
イエスとサナンダ、そしてキリスト意識が同一魂に由来するとしても、私にはそれらは全く別個のものとして感じられる。
それはまるで、日本の様々な神々が究極的には「ひとつなるもの」に由来しつつも全く別個の神々として感じられるのに似ているのかもしれませんね。
たとえば、アマテラスという神がいますが、アマテラスは天御中主神と同一存在ではないかという記事を読んだことがあります。
ですが、私には両者は別個の存在として感じられます。
アマテラスについては、私自身は人間の想念が生み出したものという見方をとりますが、ちゃんと実体を伴って感じられます。
それは、太陽意識に確かに由来します。
太陽意識の中で広告塔のような役割を果たしています。
それに対して、天御中主神は、もはや人間の姿をもっていません。
私には、巨大な白い球体として把握されます。
ですが、ちゃんと意思をもっていて、高次の存在を介してコンタクトをとることができます。
ですが、人間的な要素はなく、進化レベルでみれば、アマテラスよりもさらに高次元の存在であるように感じます。
他方で、以前、九州のある神社を非物質的に見た時、男アマテラスとでも言うべき奇妙な存在と出会ったことがありました。
アマテラスと同魂なのですが、かなり異質なエネルギーを持っています。
また、外見も異なっていて、私には古代中国の皇帝を思わせる姿で感じられてきました。
その男アマテラスは、ムー大陸から続く意識の系譜と深いかかわりがありました。
つまりは、太陽神の系譜を引き継ぐものなのですが、今なお、別次元において、我々が知るアマテラスの世界とは別の世界に存在していると感じます。
このように、高次元のエネルギーを見た場合、そのレベルに応じた違いもさることながら、我々の限られた認識でもってみるがために、同一魂でありながら全く別の存在として認識するということがあるわけです。
前半で見たように、ときとしてそれはイエスとサナンダとして認識するかもしれません。
また、後半でみたように、アマテラスと天御中主神、そして男アマテラスとでも言うべき存在として認識するかもしれません。
我々の限られた認識ゆえ、分離して物事を把握するしかないわけですから、こういった見方もやむを得ないところがあります。
いずれにしても、大切なことは、「自分自身で体験してみること」、これに尽きます。
人から言われたことを鵜呑みにしていても、その人の「認識」を借りてくることはできませんから、あまり意味がないのです。
一般には、神々をどのように知覚するか、またはしないかはどうでもいい話で、大切なのは、自分自身の「中に」いる神々に気付くことです。
もっといえば、自分自身が神々であることに気付くことです。
森羅万象すべてが自分自身である、これは驚き以外の何物でもありません。
でもこれは、「わかったつもり」の知識によってではなく、「自分自身の体験によってしか」得られない感覚です。
その体験というのは、何も遠くにあるのではなく、今見えている自然現象の中にあります。
つまり、自然を見つめるというのは、自分自身を見つめることに等しいわけです。
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