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朝は希望と誓願に目覚め 私はよく「朝は希望と誓願に目覚め、昼は努力・精進に生き、夕べには感謝に眠る」の語を引用いたしますが、"一日一生"の人生を充実させていくには、実に朝が重要なカギを握っているようです。 目が覚めたら、生かされていた――その喜びと感謝の笑顔で、家族や隣人に「おはようございます」とあいさつする。その日一日を明るく生きていく第一歩が、そこに記されるのではないでしょうか。 朝の目覚めがいいと、その日一日がめでたいよい日であるような気がします。人との出会いを大切にし、何ごとにも全力で向かっていこうとの精進の念が湧いてきます。 人生には失意や不安の時もあるでしょうが、一日一日、誰にも平等に、まっさらな朝が与えられている有り難さをかみしめていきたいと思います。『急がず、休まず』(佼成出版社)より
2009.02.28
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2/28 Sat三振覚悟の空振り南海ホークスの名監督といわれた鶴岡一人(つるおかかずと)さんが、こんなことを言われていました。「ここ一番というときにピンチヒッターに立てたバッターが、見逃しの三振をくったときほど監督として腹立たしいことはない。せめてバットを思いきり振って三振したのなら納得がいくが、バットを一度も振らないで三振する打者を見ると、『球は振らなきゃ当たらんのだ』と蹴飛(けと)ばしたくなる」というのです。このたびの米国大使館員人質事件の解決のために私が駐日イラン大使館に何度も足を運んで働きかけ、ホメイニ師が招集する「米国のイラン介入を討議する国際会議」出席のためイランを訪れることを決めたのも、それと同じ気持ちからでした。宗教者の私が、そういう国際会議に出席するのは場違いの感もしましたが、このままでは中東の危機がいつ大きな戦争になるかしれません。私たちが世界宗教者平和会議を推進しているのも、こういう危機回避の仲立ちをする使命が宗教者に与えられていると考えるからにほかならないのです。私は思い切って大きな空振りをする決心でイランの会議に参加し、その宗教者の無欲さが一つの成果につながったと信じているのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.28
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2/27 Friせちがらい世にもこのせちがらい世の中で人のことなどかまってはいられない、自分の得になることならするが、ちょっとでも損になることは知らぬ振りをする、というのが大方の人の生き方でしょう。せちがらい世の中とは、世渡りの難しい社会といってもいいでしょう。自分を第一にしなければ負け犬になってしまうと考えるのは当然かもしれません。とりわけ現代の社会はそれが顕著で、その中で「世のため、人のために奉仕する」といった生き方は一見、愚かなことのようにも見えるのですが、しかし、よく考えてみてほしいのです。人間は有史以来、物心両面の幸福をめざし、平和でありたいと願って必死に生きてきたのに、いまもってこの世界から争いはなくならず、不幸はあとからあとからふりかかってきます。いや、幸福を求めれば求めるほど、さまざまな形で新しい不幸が増えていくのです。その原因をよくよく突き詰めていくと、それが自分だけの幸福を求めた結果であることに気づかされるのです。理屈が達者で小賢(こざか)しさばかりが目立つこの世で、他のために尽くす大愚(たいぐ)に徹するのが仏道であり、そこにしか真の幸せに至る道はないのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.27
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2/26 Thu深く因果(いんが)を信じ人間にはだれしも欲があり、自分勝手を通したいエゴイズムがあります。ですから、どうしても目先の利害得失にとらわれ、因果の道理を忘れがちになってしまうわけです。正直なところみなさんも、うまく立ち回って甘い汁を吸っている人を見たりすると、因果の道理など本当に存在するのだろうかと疑問を抱いてしまうこともあると思うのです。仏さまの教えどおりに正直に人さまへの奉仕を先にする生き方をしていたのでは、この社会で自分だけ遅れをとるのではないか、と心がぐらつくこともあるかもしれません。それでつい、自分の欲を満たしたい、楽をしたいといった願いにひきずられ、立派な家に住み、ぜいたくな生活をしている人と自分を比べてうらやみ、ねたむといったことになってしまうわけです。そういう人に対して、経典には、きわめて大切な言葉が説かれています。「仏説(ぶっせつ)観普賢菩薩(かんふげんぼさつ)行法経(ぎょうぼうきょう)」の「深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし」という一節がそれです。仏教徒の私たちにとって、仏を信じ、因果を信じ、ひたすら菩薩道をあゆむ以外に、幸せに至る道はないのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.25
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私たち一人ひとりが心田を耕します。この世に生を受けたことの不思議、有り難さを知り、一人ひとりが「いま・ここ・わたし」を充実させて、毎日を楽しく生きる心を培います。■お釈迦さまの教えを学びます心のよりどころがほしいと思うことはありませんかお釈迦さまの教えと聞くと、ちょっと難しいと感じていませんか。でも、お釈迦さまは、だれでもすぐに理解できる当たり前のことを説いたのです。この世には、何一つとして固定したままとどまり続けるものはないという真理-無常の法-が、その核心です。人間として生まれ、栄華も絶望も味わったうえで、万人が苦しみや悩みから解放される道を求めた人間・ブッダが、これさえわかればだれでも人生を力強く歩めると説いた教えの源、無常の法とお釈迦さまの精神を、仏教経典中の白眉といわれる法華経を中心とした法華三部経を所依の経典として学ぶ。それが、仏教教団である私たちの教えの根本です。 ■みんなが仲よくできると信じています人と人とがいがみあう世の中に少し疲れていませんか高い山の頂をめざすとき、みんなが同じ道をたどるとは限りません。頂上へ向かうたくさんの道から、自分にもっともふさわしい道を選んで歩を進める――宗教もそれと同じと、私たちは考えます。考え方や表現方法が違っても「みんなの幸福」という一つの頂をめざすのが宗教本来の意義と受けとめ、異なる宗教の人とも、宗教をもたない人とでも、みんな仲よく手を携えることができると私たちは信じています。だから、地域の寺社はもちろん、世界の諸宗教とも積極的にかかわり、互いの持ち味を生かして社会の安寧をめざし、身近な人間関係においても、仏教の教えを基にみんなが調和していくあり方を学びます。 ■生活のなかで仏教を生かします日常の悩みから離れられる。そんな生活仏教を知っていますか信仰は、なんのためにするのでしょう。願いをかなえるため? ご利益を得るため? いいえ、そうではないのです。日常生活をいつも安らかな心で、楽しく過ごすためのよすがが、信仰です。ですから、私たちは特別な修行や出家を求めません。在家、つまり家庭や職場、地域社会で釈尊の教え・願いに添った実践をし、また苦悩が生じたときには、信仰の先輩や仲間と共に、真理・法にのっとった苦の受けとめ方や自助努力の方法をさぐっていきます。そのことにより、苦が苦と思えなくなるばかりか、苦は人生の糧だったと感じられる心の転換がはかれます。生活の場をいつでも安心で満たすのが私たちの教えです。 ■いまの自分を大事にします自分の存在価値に気づいていますかいまの自分に自信がもてない、そんな声をよく聞きます。アイデンティティーの喪失といった言葉もしばしば耳にします。けれどもそれは、自分の価値に気づいていないだけといえないでしょうか。私たちは、すべてのいのちを「かけがえのないいのち」と見て尊重します。一人ひとりの「いのちの尊さ」、つまり、自分が自分であることの意味と、自分本来の輝きに気づくことを大切にしているのです。そのいのちを最大限に生かすため、無常の法や仏教の精髄とされる法華経をとおして一人ひとりが自分の存在意義を見つけ、何があっても揺らぐことのない自立した自己に出会う――それが私たちの教えです。 ■あなたの悲しみは私の悲しみです寂しいとき、つらいとき、共に涙してくれる人がいますか人の幸せが自分の幸せにつながることを、あなたは知っていますか。いのちの尊厳を大事にする私たちは、自分だけが幸せであればいいとは考えません。みんなが幸せになってこそ、自分も幸せと受けとめます。しかし、それはけっして自己犠牲的な発想によるものではなく、他を思いやれる自分の尊さや心の豊かさに気づくと、人間としての生まれ甲斐が実感できて、ほんとうの喜びが得られるからです。だから、私たちは苦しみや悩みを共に分かちあい、人の喜び(幸せ)を自分の喜びと受けとめる――そんな共感の思いに立って、身近な「思いやりの実践」を心がけることを大事にするのです。 ■すべての人を仏と見ますダメな人はいない。そう信じるあなたへ私はダメな人間で、他の人は......と、他の人とひき比べて自分をおとしめ、寂しい気持ちにかられることがあります。でも、よく考えてみてください。大きくいえば、有史以来この宇宙に生まれた「私」という人間はただ一人です。絶対の一人なのです。だとすると、相対的な見方で他と比べる必要などないのではありませんか――。この世に必要があって生まれたあらゆるものを、私たちは仏のあらわれと見ます。それらすべてを私たちは尊び、私も、周囲の人も、みんな仏と見るのです。ムダなものは何一つなく、ダメな人間などいないと知ると、何もかもが有り難い存在と映る明るい世界が目の前に広がります。
2009.02.25
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「一食を捧げる運動」は「一乗」精神の社会発信、世界発信をめざします。 一食を捧げる運動とは食事などの一欲を節し、そのお金をさまざまな国の人道的援助、開発援助などに役立てていただく社会運動です。「一乗」精神の発信一食を捧げる運動は「すべてのいのちは、大いなる一つのいのちに生かされた同根の兄弟姉妹である」という仏教の世界観、すなわち「一乗」精神に基づいています。一食運動を通して、「一乗」精神から発するいのちの尊さ、人さまを思う心と生き方をお伝えし、弘めます。「一乗」精神に賛同する人びとが満ちあふれる世界の実現、人類総菩薩化を目指します。三つの精神同悲 食事などを抜き、意識的に空腹感を味わうことによって、飢餓にあえぐ人々の痛みを分かちあいます。祈り 苦境にいる人々の心の平安、すべてのいのちの平安を祈ります。そして自分自身のいのちを見つめます。布施 食事などで節した分を財的な支援とし、自分の持っているものを人のために捧げる
2009.02.25
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どんな人でも分かる教え『薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。ナニゴトノ不思議ナケレド』という北原白秋の詩があります。薔薇の木に薔薇の花が咲くというのは、当たり前のことといえます。しかし、なぜ薔薇の木に薔薇の花が咲くのか、なぜ人間から人間が生まれるのか、よく考えてみますと、これは非常に不思議なことです。私たちは普段、そうしたことをほとんど考えていません。不思議なことの中に不思議を見ない。見ているようでも、結局は見ていない生活をしています。ところが、関心を持ってよく見つめますと、一人ひとりのいのちそのものの不思議、有り難さ、幸せを、しみじみと分からせて頂くことができます。そのように仏さまの教えを頂きますと、まず有り難いとか、不思議であるとか、安心であるという心が頂けるのです。それは、人間が生きていく上で、一番大事な心です。それ以上のことは、もう必要ないとさえ思うのであります。釈尊の教えは、本当はそれほど難しくないのです。それを難しく話しますと、みなが深刻になってしまいます。釈尊は、どんな人でも分かる教えを説かれたのではないか、と私はとらえているのです。釈尊の教えは、なるべく日常の言葉を通して、平易な表現を通して、多くの方に分かって頂くようにする。それが本当の仏道、仏教の教えなのではないかと思っております。『佼成新聞』より
2009.02.25
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2/25 Wed理屈より実践浄土真宗の真溪涙骨(またにるいこつ)師は「人生語録」にすばらしい言葉を遺されています。「実践に理屈なし。問うの無用、答うるの無用。ただ『捧(ささ)ぐる』の一事あるのみ」というのもその一つです。なぜ善いことをしなければならないのかと問うのも無用、功徳を積みたいからと答えるのも無用、菩薩行(ぼさつぎょう)には理屈は不要だというのです。シンガポールで第一回アジア宗教者平和会議が開催されたその会議のさなか、私たちはベトナムからボートで逃れ出る難民の救援に取り組みました。雨期が迫っていて、放っておけば海の藻屑(もくず)となるのが目に見えていたからです。その宗教者の救援活動に対して、「ボートピーブルは体制からのはみだし者だから援助すべきではない」とか、「ボートピープルはベトナムの内政問題であって干渉すべきではない」と、国際通を自ら任じて講釈する人たちがいました。しかし、そうした高邁(こうまい)な理論を振り回すよりも、自分の目の前に救いを求め、懐(ふところ)に飛び込んでくる窮鳥(きゅうちょう)がいたら、なんとしてもそれを救おうと力をふりしぼるのが人の道なのではないでしょうか。宗教者の実践は、これあるのみです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.25
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生老病死があるがゆえに先日、東京の聖路加国際病院で理事長を務めておられる日野原重明先生の講演を聞かせて頂きました。来月には、もう95歳になられるそうですが、「75歳ぐらいになって初めて『新老人』だ」とおっしゃり、とてもお元気で、話し方もスムーズで、素晴らしいお話を伺うことができました。日野原先生は、キリスト教徒ですから、私たちの仏教的な表現とは異なりますが、人間は生まれながらにして「死の種」を宿して生まれてくるとおっしゃっていました。生まれた者は、必ず死する、ともいえると思います。また日野原先生によりますと、完全に健康な人はこの世に一人もいないということでございました。普通、病を持つことは不幸であるととらえがちですが、健康ではないがゆえに人間は、いかに生きるか、いかに老いるか、いかに病むか、いかに死ぬかということを考えるようになったというのであります。よく一病息災といわれるように、病気があるがゆえに養生して、むしろ長生きをするということは少なくありません。死のある人間がいかに生きるか、病を持つ人間がいかに病むか、老いていかなければならない人間がいかに老いるか、ということで、そこに求道と申しますか、真剣に道を求める気持ちが生まれてまいります。そして人生が有意義なものになってくるということなのであります。『佼成新聞』より
2009.02.23
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2/24 Tue猊下の励まし山田恵諦猊下に最後のお別れを述べさせていただいて、胸が締めつけられる思いでした。しかし、猊下が笑顔でうなずきながら聞いてくださっているお顔が目の前に浮かんできて、これまでに頂戴した数々のお言葉が、耳によみがえってまいりました。「比叡山の使命は、仏教によって世の人の幸せを願い続けていくことにあります。せっかく人間に生まれてきたのだから、みんなが幸せな人生をまっとうするように祈り、導く。これがすべての宗教の起こりです」「比叡山で修行された祖師方は、自分の派を興(おこ)そうとか、自分の悟りを広めよう、といった気持ちで布教されたのではありません。世の人の幸せをそっちのけにして、教えを広めることが中心になることから過ちが起こるのですよ……」そうした猊下のお言葉のひと言ひと言が、私にとって、なによりもの励ましでした。いまも、猊下は私どもを励まし続けてくださっておられるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.23
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先祖供養とは、この自分のいのちの本を知ることなのです。自分のいのちの根を知ることなのです。それによって生かされている有り難さに目覚めることが先祖供養の出発点です。(『躍進』 昭和54年4月号)生み、慈しみ、育てる----。無数の先祖の祈りがこめられたいのちのリレーの先端に、今の私たちがあります。3月はお彼岸の月。先祖供養を通して、いま一度、いのちの有り難さを見つめます。(『躍進』 平成21年3月号)「みんな集まってるね。あすこがほんとうの天井なんだ。ああっすこにいるの僕のお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見える原野を指して叫びました。(『銀河鉄道の夜』より)人様の幸せを考え、人様のために自分を忘れていると、いつのまにか自分も幸せになっているのです。じつは、これが幸せのいちばんの近道なのです。(『人生、心がけ』)
2009.02.23
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自己中心という「我」をはずすと、 相手のことが良く見えてきます。 自他の相対的な差ばかり気にして 競うことの愚かしさに気づきます。 相手もまたかけがえのない 存在であることに気づき、 人を拝むことができるようになります。 そうなると、みんなと一つになれます。『心田を耕す』より
2009.02.23
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2/23 Mon国際法による秩序イランの石油はほしいが、さりとて米国の機嫌を損(そこ)ねてもまずいというので、日本は板ばさみになって苦しみました。こちらを立てればあちらが立たずというケースは、狭(せま)くなった地球上では、これからも頻繁(ひんぱん)に起こると思われます。昨年の暮れ、イランの首都テヘランで米国大使館がイランの大学生によって占拠され、大使館員が人質として拘束(こうそく)されるという事件が起こりました。この米国大使館占拠事件に対して日本政府が事態に即応できずに静観したのも、現在の日本が全石油輸入量の一割をイラン石油によっていることが原因の一つだったと思われます。しかし、世界には国際法というルールがあります。みんなが交通ルールを守り、信号どおりに行動すればこそ全体の安全と秩序が確保できるように、国際法も世界の国々がそれを守ってこそ平和が保たれます。米国大使館の占拠は明らかにルール違反であり、国際正義にもとる行為です。このような無法行為が世界中に広まれば、世界の秩序は崩れさってしまいます。それを黙視して自国の小さな損得勘定に走るか、平和を守る国際正義に立つか、道はおのずから明らかです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.23
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2/22 Sun力による恫喝(どうかつ)の愚かさ先ごろ、私はソ連のブレジネフ書記長に対して、ソ連軍のアフガニスタン侵攻の非なることを訴え、即時撤退を要望する抗議文を送りました。それは螳螂(とうろう)の斧(おの)の譬(たと)えのように微々たる影響力しか持たないかもしれません。しかし私たちは、力による制圧は決して人びとの支持を得られないことを知ってもらうために、くじけることなく訴え続けなければならないと思うのです。これは、一方の側に立って相手を非難するというのではありません。武力によって人びとを抑えつけ、苦しめ、他の幸福を奪ってまで自国の安定をはかろうとしても、それはむなしい努力に終わることを分かってもらうためなのです。この一年間に世界の何人もの権力者が、暴政のためにその地位を追われています。なんとはかない権力の末路ではありませんか。それは、力による恫喝や脅迫によって望みを遂げることが不可能であることを如実に物語るものです。かりに一時的には権力によって人びとを従わせることが可能のように見えても、長期的に見れば、自分を孤立させ破滅に導くものであることを知らなくてはなりません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.22
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2/21 Sat善因(ぜんいん)は必ず善果(ぜんか)に善因は善果をもたらし、悪因(あくいん)は悪果(あっか)を招くという考え方をすべきです。しかし、現在の世の中を見ていると、必ずしもそのとおりになっていない場合があるように思う人も多いかもしれません。目の前のことだけを見ていると、「善因を積んでも少しも善いことがなく、悪いことをして平気で大手を振って歩いている人がいるじゃないか」と納得できないこともありましょう。たとえば政治の世界でも、何億というお金を受け取っても収賄(しゅうわい)罪に問われることがなかったり、清潔な選挙をした候補が落選して不正行為をした候補が当選するといったことが、あまりにも多いのは事実です。それで、善因善果、悪因悪果といっても、もうひとつ説得力がないようにも思えるのですが、五年、十年という長い年月をとおして見ると、その因果の道理のとおりになっているものです。ですから私たちは、まず道理がきちんと通用する健全な社会をつくる努力と同時に、時の経過によって必ず善因は善果に、悪因は悪果となって現われることをいつも忘れずに毎日を送ることがなによりも大事だと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.20
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急がず、休まず今こそ仏教的なものの見方を-庭野日鑛会長による智慧と慈悲のメッセージ 一番の基本は家庭「この世界は明るい一粒の珠である」というような表現をされた方がおられます。開祖さまも、私たちは一つの大きな乗り物に乗っているのだと教えてくださいましたが、本当に(この世界は)明るく美しい珠であります。そして、人間一人ひとりの心までが明るく美しくなればそれに越したことはないわけですが、なかなかそこまでには至っておりません。せめて、私たち信仰を持つ者が、皆そのような気持ちになって、心を一つにして明るい世界を築いていくことが大事です。その基となるのは、やはり各家庭にあると思うのです。ご宝前を中心にした家庭生活を営まれることが、世界の平和にとって最も大事なことだと思います。ご宝前を中心として、それぞれの親子関係、夫婦関係が営まれますと、その人は社会にあっても必ず人さまを尊重して、争いのない社会を築けるよう努力するようになります。それが、平和な国家、世界につながると思うのです。つまり、私たちが、開祖さまから頂いた教えを実践すれば、まさにその通りになるわけです。一心に仏さまをお参りできることは、本当に有り難いことでございます。私たち人間がこの世に生を受けて一番大事なことは、やはり、仏さまに手を合わせることができる人間になるということ。これ以上大事なことはないと思います。『佼成新聞』より
2009.02.20
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「恥を知れ」という校訓大妻学園に、「恥を知れ」という校訓があります。最初は、なんという校訓なのだろうと思ったのですが、これは本当に大事なことです。大妻学園の創立者であられる大妻コタカ先生の言葉によりますと、「これは決して他人に対して言うことではなく、あくまでも自分に対して言うことです。人に見られたり、聞かれて恥ずかしいことをしたかどうかと自分を戒めることなのです」ということであります。今日、女性だけでなく、男性も「恥を知れ」ということは大事です。単に欧米のものがいいというのではなく、日本には、伝統の中に、いろいろと良いものがあります。ですから、ぜひ皆さんには、本当の日本人として、これからの人生を歩んでいって頂きたいと念願しております。『佼成新聞』より
2009.02.20
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感動したインタビュー記事『yakushin(躍進)』2007年4月号に、ルバング島から帰られた小野田寛郎さんのインタビュー記事が載っております。小野田さんは、84歳を迎えたのだそうですが、考え方が素晴らしいと思います。「あまり年は考えないようにしています。今何歳かではなく、あと何年自分の体がもつかが本当の年だと思うんです。つまり、今までどれだけのことをやってきたというのではなく、今から死ぬまでに何ができるかが問題だと思うのです」。84歳になっても、まだまだ前向きなんですね。また小野田さんは、「動物の世界では、一匹一匹が自分のえさを取ってくるのであり、だれも面倒をみてくれるわけではありません。その点、人間だけがお互いに助け合っているわけですから、人のために何かできる生き方をするのが理想的ですね。老いたから何もしないのではなく、例えば小学生の登下校時に交通整理をするとか、一緒に歩いてあげるだけでも人の役に立てるわけです」とおっしゃっています。年をとってからでも、なるべく自らのいのちを人のために役立つように、と考えられ、前向きな姿勢で生きておられることがひしひしと感じられて、本当に素晴らしい方であると、感激して読ませて頂きました。『佼成新聞』より
2009.02.20
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Praying for a Resolutionto the Israeli-Palestinian ConflictRev. Yasutaka WatanabeChair, Board of Trustees Rissho Kosei-kaiIsraeli-Palestinian relations have deteriorated to a precarious level. Many nations and many1048578; organizations,including the UN Security Council, have called upon both sides to immediately cease military operations, but the hostilities show no ign of ending.Rissho Kosei-kai has expressed its concern about the Israeli-Palestinian problem through its participation in Religions for Peace (WCRP) and other peace organizations,while also promoting exchange and dialogue among religious leaders in the Middle East.Rissho Kosei-kai is also continuing to lend support to people in the area who are dedicated to the peace process and provide humanitarian aid to children in harm's way through such activities as the Donate-A-Meal Program, the Niwano Peace Foundation, and the A Little Bags of Dream Campaign. As a result, people on both sides of the conflict are coming to see that coexistence is actually what theymost strongly desire, and this gives us the impression that conflict resolution is a very real possibility.The military operations now in progress, which threaten to dash the hopes of these people, must have come about through political rivalries and a host of delusions. Weexpress our heartfelt condolences to the victims of the conflict, while praying fervently that the violence end and a way is found to bring about a resolution through dialogue. The twentieth century has been called "the century of warfare." People around the world have earnestly vowed to make the twenty-first century "the century of coexistence." However, at this very moment, fighting continues in many countries and areas of our world--not only between Israel and Palestine, but in several parts of Africa, and in Afghanistan, Tibet, Sri Lanka, the Philippines, and Iraq. We are still unable to shake off the "legacy of defeat" of the previous century. Regarding this state of affairs, we must put the question to ourselves: Has there been any substantial change in the human heart and in human behavior? Buddhism teaches us the spirit of the One Vehicle: since we human beings are all fellow passengers on the same one vehicle, we should be broad-minded and accepting of one another, and work together. Buddhism also teaches us the "mind aspiring to peace" which means that when we are aware that our own lives are drous, something to be grateful for and revere, we in turn must revere the life of all existence. In order to aspire to peace, we must overcome the anger and resentment in our hearts and cultivate love, compassion, and onsideration for others; I believe that only then will human beings be able to truly live gether in harmony.From a religious perspective, the world's problems are our own problems. Regarding a resolution to the Israeli-Palestinian problem, Rissho Kosei-kai, as a member ofReligions for Peace, will continue to work hand in hand with the world's religious leaders. At the same time, each and every one of us must deeply reflect on whether the seeds of conflict do not lie buried in our own hearts, and be diligent about becoming true "people of peace." Indeed, the heartfelt prayer of members of RisshoKosei-kai is that conflict disappear from every region of the world immediately and that the light of hope reach people discouraged by grief and despair.Praying for a Resolutionto the Israeli-Palestinian ConflictRev. Yasutaka WatanabeChair, Board of Trustees Rissho Kosei-kai
2009.02.20
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Coming to terms with BuddhismRissho Kosei-kai has several important practices, including “Sutra Recitation,” “Michibiki (introducing others to the Dharma), Tedori (guiding the members), “Hoza”(Dharma Circle) and “Dharma Study.” We took up the topic of “Sutra Recitation” in the December issue. This month, our theme will be the second practice, “Michibiki -Introducing Others to the Dharma”.In Rissho Kosie-kai, the essence of “Michibiki” is “to share the Buddha’s teaching with those around us, and for those who have heard the teaching to practice what they have learned.”Right now, is something troubling you? Or do you wish you were more like someone else? In such cases, Rissho Kosei-kai recommends the “Michibiki” practice.When you are worried about yourself, you should take care of others. It may seem like a strange way to deal with your problem, but this is how Rissho Kosei-kai recommends you handle the situation.This is because the things that cause problems for those who we have introduced to the Dharma, are essentially the same things that cause our own problems. Asyou are taking care of such people, you will be able to see yourself more clearly, as strange as it may sound. Actually, the teaching which you’d like to share with them is the same teaching you should apply to your own life.In Buddhism, there is a teaching that states, “Shohomuga -Nothing has an ego.” This teaching means “everything in this world is connected to all other things,so nothing is separate from anything else.” Even people who do not appear to be connected to us have an inseparable relationship with ourselves in the Buddha’s eyes.People who are troubled; people who wish they were more like someone else… Trust me; you will benefit by taking care of these people and listening to theirproblems. This may well be the shortcut that leads to happiness, both for ourselves and others.“Michibiki -Introducing Others to the Dharma”Information from Hawaii!!~The Shortcut to Happiness~2 0 0 9Volume 41Rissho Kosei-kaiBuddha's Wisdom Changes Your Life 2
2009.02.20
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2/20 Fri生かされている者同士すべての宗教は「汝(なんじ)の敵を愛せよ」と教え、「すべてに慈悲を」と説いています。その教えが人間にとってなによりも大切なものであることはだれもが知っているのですが、その教えを、みんながすぐに実践できるのであれば、この世界は、とうの昔に平和境に変わっていたはずです。世界の宗教者が集まる会議では「神はただ一人だが、呼び名は多い」といった言葉をしばしば聞かされます。神といい仏といっても、究極のところは「天地のすべてのものを存在させている大いなる生命」といえると私は考えるのです。そして、真実の信仰とはその大生命に生かされていることを実感して、その大生命の法則に随順(ずいじゅん)して生きようと努力する、その生き方にあるといえると思うのです。ですから、拝めばお金が儲かるなどといったものでは、決して真の信仰とはいえないわけです。この社会、世界のすべての人たちが、大生命にともに生かされている同士なのだと心の底からうなずけるようになって初めて、隣人への愛、生きとし生きるものへの慈悲心がわいてきて、それが実践行へとつながっていくのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.20
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正法を耳にするは難く法句経に「人の生を受くるは難く、やがて死すべきものの、いま生命あるは有難し」という有名な一節があります。この一節には、続いて「正法を耳にするは難く、諸仏の世に出づるも有難し」という非常に大事なことが教えられています。私たちは、それこそ無限の因縁によって、人間としていのちを頂いたわけです。これは「有り難い」というような言葉では、とても言い尽くせないほど不思議なことであります。そして、人間としていのちを頂いた者が、正法に出遇う、仏さまのご法に出遇う。これこそ、私たちがこの世に生を受けた目的といってもいいのであります。ご法に出遇うことによって、私たちは、このいのちがいかに有り難く、不思議であるかということに、気づかせて頂くことができます。そこに気づくと、今度は、このことを人さまにもお伝えしたいという気持ちになり、いわば人に尽くす人間に生まれ変わることができるのであります。宗教の世界は、本当に大きな功徳を頂ける世界です。しかも限られた人だけではなく、体験を通して仏さまの教えの尊さに気づいた人は、皆がそのような功徳を頂ける世界なのであります。『佼成新聞』より
2009.02.19
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2/19 Thu親のうしろ姿の教化(きょうけ)私の家には孫が四人、一緒に暮らしております。まだ小学校や幼稚園に通っている子たちですが、私がご宝前(ほうぜん~仏壇のこと)でご供養をするときには、孫たちも一緒にすわって、読経(どきょう)するのです。なにしろ大家族ですから、それは賑(にぎ)やかで、家族全員がそろったかどうか点呼をとる、といった愉快で和(なご)やかな情景が生まれるのです。朝早くからの毎日の読経供養は、まだ小さな子どもたちにはかわいそうかなとも思いましたが、そうして家族がそろって仏事を行じ、読経の席に連なる敬虔(けいけん)な雰囲気(ふんいき)の中に身を置くことが全人(ぜんじん)教育の一つになると私は考えているのです。また、その毎日の行が、子どもたちの忍耐力をつけさせることにも役立つと思うのです。といっても、私の家でそうしているからといって、みなさんのうちでもそうしなくてはならないと、嫌がる子どもを叱りつけて無理やりすわらせるといったやり方では、逆に反発をつのらせるだけで、本当の教化にはなりません。やはり、親が毎日行じるそのうしろ姿を見せて、次第に感化していくことが大切だと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.19
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1兆人を超えるご先祖さま私たちには、一体どれくらいのご先祖さまがおられるのでしょうか。人は、まず父母二人から生まれます。その父母を10代さかのぼりますと、1024人という先祖の数になるのだそうです。20代さかのぼると104万8500人。30代さかのぼると10億7000万人というようなすごい数のご先祖さまがおられることになります。そして40代さかのぼると、もう1兆人を超えるのです。そうした数の先祖のお陰さまで、私たちは、今ここにいのちを頂いて生きている、生かされているということができるわけです。仏さまは、私たちのいのちが、宇宙のあらゆる事柄の因縁、因果によって存在すると教えられています。ですから、私たちのもととなるご先祖さまを大事にすることは、人間として本当に大切なことなのであります。『佼成新聞』より
2009.02.18
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2/18 Wed大衆が大衆に説く時代その昔、日本の僧たちは中国に渡って懸命に修行をし、その熱意に応じて中国のすぐれた僧が、これまた命がけの航海をして日本にやってきて仏教を伝えてくれました。そうして仏教が日本に伝えられた当初は、専門家の僧が同じ専門家の僧に法を説いたわけで、在家で仏法を聞くことができたのは、ごく一部の貴族階級だけでした。当時の仏教は限られた人たちのためのものだったのです。これに対して、「釈尊は一切衆生(しゅじょう)の教化(きょうけ)を願いとされているのに、ひと握りの知識階級だけのための仏教でいいのだろうか」という反省が生まれ、鎌倉時代の祖師方の仏教が説かれるようになりました。法然(ほうねん)上人をはじめ、道元(どうげん)禅師、親鸞(しんらん)上人、日蓮(にちれん)聖人などの祖師方は、一般大衆に仏の救いを伝えるためにそれぞれの方法で法を説かれたのでしたが、それから七百年が経過した現在、その祖師方の教えを伝える各宗派も当時のような活発な教化活動が行なわれていないのが実情ではないでしょうか。現代の社会で、お釈迦さまの教えを広く人びとに伝える新しい仏教が求められるのは当然のことなのです。大衆が大衆に説く時代、まさしく普門示現時代の到来です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.17
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2/17 Tue一病長寿昔から一病息災といって、何か一つ持病を持っているほうが長生きできるといいます。いつも自分の体調に気をつけて健康第一に、自分のペースを守って暮らし、暴飲暴食などしない。つまり、病気とのバランスを上手にとった生き方でこそ長生きできるわけです。先日、私のところに健康について書いてほしいという原稿の依頼があって、病気との平和共存の暮らし方、とくに心のバランスの大切さについて書かせてもらったのですが、それから数日後の「サンケイ新聞」に、中国にも「無病短命、一病長寿」という言葉があることが紹介されていました。その記事によると、持病があるために保険への加入を断わられた人たち二十万人の追跡調査を生命保険協会が行なった結果、一病息災こそ長生きの秘訣(ひけつ)であることが実際に証明されたというのです。無病で健康であれば、それがいちばんかもしれません。しかし、そのために自分の体を過信し、健康への感謝を忘れた生活になりやすいものです。健康へのおごりが健康の敵になりがちなのです。忘れてはならないことでしょう。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.17
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2/14 Sat目に見えない縁私たちが自分だと思っているこの肉体も、人さまが作ってくださるさまざまなものによって支えられています。それは体だけではなく、心もまた同様です。数えきれない人と出会い、語り合い、学び合ったその知識と体験によって、それを縁として自分の心がつくられているのです。私をつくっているその出会い、縁が、私たちの思議(しぎ)を超えた、まさに甚深微妙(じんじんみみょう)なはからい、結果をもたらします。自分だけではなく、この世に存在する一切のものが、そういう縁によって生じ、変化しているわけで、それをお釈迦さまは「縁起(えんぎ)」として説かれ、これこそが最も大切なものであると教えられたのでした。ただ、その縁は目に見える紐(ひも)で結ばれているといったものではなく、そのために私たちは、すべてが縁によってあらしめられていることに、なかなか気づけません。それで、つい目に見える物やお金のほうを信じて、それをいちばん大事なもののように考えてしがみついているのですが、縁が見えるようになると、出会うさまざまなことを、心からありがたいと拝める感謝の生活が始まります。その感謝こそ幸せのもとなのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.13
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世の中に「入学」したことの意味物事が一瞬も止まらずに変化するとは、物事が自分の思いどおりにいかないことがある、いや、ほとんど思いどおりにならないということでもあります。それを自由に思いどおりにしようとするところに、周囲との摩擦が起こり、苦しみが生まれます。それは、本来は水のように、さらさらと流れていくべき自分が、氷のように固まってしまい、人と争いを起こしてしまうような状態といえるかもしれません。これからの人生には、楽しいことばかりではなく、そうした困難も多く待ち受けていることでしょう。そのときに、「物事は変化するのだ、それを自分の尺度で善しあしをいうところに苦しみが生まれるのだ、出合った問題を通して自分を見つめてみよう」という気持ちになると、とても楽になれます。そのように、わが心をやわらかく耕し、何事からも学んでいこうという姿勢を持つことが、人生の意味を究める上で大切なことであり、この世の中に「入学」したことの意味であるといえましょう。『佼成新聞』より
2009.02.13
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2/13 Friお釈迦さまへの直参(じきさん)なにごとも伝統を守り、それを踏襲(とうしゅう)するのは大切なことですが、それは宗教の場合も同じです。ただ宗教は芸能などとは違い、生きている人間を実際に救わなくてはなりません。人は、その時代、その環境の中で生活しています。その人たちを実際に救うのには、その時代、その社会環境に応じた手段が必要です。これまで大事に守られてきた教えであっても、そのままでは、時の経過とともに時代の人びとを教化(きょうけ)する力が弱くなっている場合もあります。宗教の宗は、時代を超え、所を超えて不変なよりどころとなる根本の真理のことであり、教は、その真理をその時代、その人に応じて説くことです。この、時代に対応し、人に応じて説く大切さを忘れてしまって、いたずらに人びとが宗教から離れていくのを嘆くようなことがあってはなりません。私が、お釈迦さまのみ心に直参する大切さをいつも強調しているのも、そこなのです。直参するとは直接教えを聞くことです。常に自分のあり方を法に照らしてみて、これでよいのかと問いかけ続けるのが、お釈迦さまのお心に直参することです。それによって教えが常に新しい教化力を保っていくのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.12
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胸の中を思いやりでいっぱいに「最高の幸福は、真理に巡り合うことである」という言葉があります。私たちは、すでに法華経を通して、釈尊の真理に巡り合えているのですから、もう幸福を頂いているわけであります。法華経には、仏知見を開くことが一番大事であると説かれています。そして、仏知見という智慧を人さまにお伝えすることこそ、本当の慈悲であると教えられています。そのような実践を共々にさせて頂くことが大事であろうと思います。人間の最高の境涯、最高の心というものは、いつも胸の中が、慈悲、思いやりでいっぱいになることです。釈尊は、まさにそうした道を歩まれたわけであります。私たちも、人さまにご法を伝えるという慈悲の心、現代的にいえば思いやりの心を、胸の中にいっぱい持って生きていくことが理想です。お互いさまに、思いやりいっぱいの人間にならせて頂きたいと思います。『佼成新聞』より
2009.02.12
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VIOLIN斎藤アンジュ玉藻×イヴ・アンリPIANOヨーロッパで活躍「高い品位・伝統の上に立つ斬新」と各地で聴衆を魅了する二人の顔合わせ(バロックヴァイオリンを除く)日本人ヴァイオリニスト初ライプツィヒ バッハフェスティバル出演決定-曲目-バッハ:無伴奏パルティータ第2番「シャコンヌ」付ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」ラヴェル:ツィガーヌショパン:バルカローレ ノクターンop.48 no.1 ワルツop.64 no.2イヴ・アンリ:加賀YUZEN(新曲開発プロジェクト「RYU」の初曲)使用ピアノ:ショパンの愛した「プレイエル」この若さでこの構築力 彼女の音楽は生命力をもたらすショパンフェスティバル(ノアン)芸術監督斎藤アンジュ玉藻(Vn) イヴ・アンリ(Pf)デュオリサイタル3 2009/6Fridayin 金沢北國新聞赤羽ホールS席/¥5,000、 A席/¥4,000●お問い合わせ●チケットアスペン 03-5467-0081チケットぴあ 0570-02-9999 [ Pコード:312-505 ]紀尾井ホールチケットセンター 03-3237-0061e+(イープラス) http://eplus.jp/( 6:00pm シンポジウム「日欧音楽交流の意味するもの」)3/9 2009Mondayin 東京7:00pm 開演 6:30pm 開場衣装協力 小松精練株式会社 衣装デザイン 協 力 ユーロピアノ株式会社 協 力 株式会社エムアンドケイ特別協賛 reve et espoir 寿観光株式会社Produced by RYU ProjectTEL : 076-260-35557:00pm 開演 5:30pm 開場TEL : 03-5276-4500http://www.tamamo-ange.com/index.html
2009.02.12
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2/12 Thu責任の転嫁(てんか)教室で子どもが行儀悪くしていたら教師が叱るのは当然です。その子がきちんと行儀を守れるようにしつけるためですが、イギリスでは、同じ叱るのでも(体罰を含めて)、行儀の悪い子ども自身よりも、むしろ静かに授業を受ける権利を持つほかの生徒たちのため、という考え方が強いというのです。先日の「佼成新聞」にも、イギリスの教育事情を視察してきた方の話が紹介されていましたが、ある幼稚園に行ってみると、遊び時間には大騒ぎしていたその子どもたちが、食事の時間になると大きな声をだす子など一人もいない。隣同士で話すのも小さな声で話すのです。見学に行かれた方が、「たいへん立派にしつけられましたね」と感心して幼稚園の先生に言うと、先生がけげんな顔をして、「これは家庭のしつけで、別に幼稚園で教えたことではないのですよ」と答えられたといいます。日本では、子どもが学校で何か問題を起こすと、父母は学校側の責任にし、学校側は家庭の無責任さを非難するといったことが多いのではないでしょうか。考えさせられることです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.11
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2/11 Wed国連への三つの提案かつてアインシュタイン博士が、国連が正しく機能することを願って三つの提案をしたのを、哲学者の谷川徹三(たにがわてつろう)先生が紹介されています。まず第一に、国連は安保常任理事国の拒否権を抑えるため、総会の決議を最優先させなければならないこと。第二に、国連代表を政府任命ではなく国民の中から選出すること。これによって国家エゴの追求を改めさせることができる。第三に、国連総会を常時開くこと。これによって世界中のどんな事態にもすぐ対応することができる、というものでした。いまから三十年も前の提案ですが、いまもって傾聴(けいちょう)に値する卓見(たっけん)だと思います。私も国連軍縮特別総会で世界宗教者平和会議を代表して、世界の指導者に「危険を冒(おか)してまで武装するよりも、むしろ平和のために危険を冒すべきである」と要望しました。そしてワルトハイム国連事務総長との話し合いを通して、国連が真に世界平和に役立つようになるためには、世界の各国が勇気を持って国家エゴを放擲(ほうてき)し、国連の改革に取り組まなくてはならないと痛感させられたのです。それを私は叫び続ける所存です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.11
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2/10 Tue敵の姿でわが非を知る自分の顔にゴミがついていても、鏡に映してみないとそれが分かりません。そして、それに気づいたら鏡に映ったゴミではなく、自分の顔のゴミを拭き取らなくてはならないわけです。日蓮(にちれん)聖人は「亀鏡(ききょう)なければ我が面(おもて)を見ず、敵なければ我が非(ひ)を知らず」と教えられました。亀鏡とは自分を照らして見る鏡、手本のことです。そういう鏡を持たないと自分の顔が見られないように、自分の非を見せてくれる敵があって初めて、自分を正すことができるという意味です。みなさんは法座で、「相手は自分を映して見せてくれる鏡」と教えられていると思うのですが、そういう受け取り方ができるようになってこそ、相手の至らないところを見ても、ただそれを責めるのではなく、その姿で自分の姿をあらためて振り返って見、まず自分を改めずにいられなくなってくるのです。一億総評論家時代といわれるほど、さまざまなことに対して批判を言い立てる人が多い昨今ですが、他の欠点を批判する前に、自分の足元を見直し、お互いに「自分の非を教えてくれる善知識(ぜんちしき)」と受け取れるようになってこそ、この社会が平和で住みよい社会に生まれ変わっていくのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.09
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にこやかな顔で一切に向かいなさい日本は、60年を超える平和な時代を過ごしてまいりました。また世界の中でも豊かな国の一つであり、世界一長寿の国であります。にもかかわらず、多くの人々が、不平不満で生きているというのが、現状のようであります。不平不満を持っているということは、深い意味では、自らのいのちに対して、不殺生戒をおかしていることにあたると教えられています。不平不満というものをなくし、明日に向かって真剣に生きていく人間になるためにも、仏さまの教えに基づいて、しっかり生活させて頂くことが大事であります。 その意味で、私たちが、ご法を頂いて、しかめっ面をしていたのでは、次の世代の人たちが、法燈継承はしない方がよいと思ってしまいます。道元禅師は、『ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切に向かふべし』といっておられます。柔らかな容顔、つまり、にこやかな顔で一切に向かいなさい、ということであります。私たちが、自らのいのちを有り難く、感謝して受けて、不平不満をいわない。そして、いつも柔和忍辱を胸に、笑顔をもって精進させて頂く。そうした姿によって、法燈が継承されていくのだと思います。『佼成新聞』より
2009.02.09
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2/9 Mon慈悲を伴う正義正義という言葉は、だれの耳にも心地よく響きます。それだけに、正面からそれに反対することはできないのですが、過去の歴史を見ると、その正義が悪用されて恐ろしい殺戮(さつりく)が行なわれてきたのを見逃すわけにいきません。正義の戦いだと思っていたものが、じつは侵略にすぎなかったり、一つの正義にとらわれて罪のない人びとの命を平気で奪うといったことが現実にあったのです。正義という言葉ぐらい、あやふやなものはありません。十人の人がいれば十の正義があり、十の国があれば十の正義があると言われます。その正義を信じて、自分のほうこそ正義で、相手は不正義だと争い合い、ついには戦争に至ってしまうのですが、そのはざまで苦しむのは一般市民です。「だから、正義を守ることよりも平和を守ることのほうがより大切なのだという考えを徹底させなければならない」と主張する学者もいます。正義という言葉には、敵対するものを力で押さえつけるといった感じがつきまといます。仏教学の権威の中村元(なかむらはじめ)先生は「正義には慈悲が伴わないと危険だ」と強調されています。慈悲を伴う正義であってこそ世界の平和に有効な働きができるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.08
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2/8 Sunエゴイズムの克服中世がローマン・カトリックによる絶対支配の時代だとすれば、近代は科学的な合理主義が絶対とされた時代といえましょう。近代の社会は、科学こそ人間に幸福と豊かさをもたらしてくれるものと疑うことのなかった社会ともいえます。ところが最近になって、「果たして科学万能主義で人間が幸福になれるだろうか」という疑問が、顕著に表に現われてくるようになりました。そうした疑問を抱かせる原因はさまざまありますが、地球上の資源が有限なのに人口は増加する一方という難問を抱えて、地球を管理する必要性が痛感され、世界共同体の建設といった意識が芽生えはじめたのも一因でしょう。現実にそうした社会体制が出来上がるのには百年から二百年はかかりましょうが、そこに至るためには、人間のエゴイズム、国家のエゴイズムをどのようにして超克(ちょうこく)するか、その関門を突破しなければなりません。その意味で、まず宗教界が宗派エゴを捨てて互いに協力し合い、その姿をもって、人びとにそれを示さなくてはならないと思うのです。そうした大きな観点に立つことができなくては、人類全体の幸せを考える宗教者とは、とても言えません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.08
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2/7 Satコンセンサスをつくり出す一枚岩の団結というと聞こえはいいのですが、それが、えてして有無を言わせぬ自由なき団結である場合が多いものです。これに対して、保守党内の派閥抗争はいつも非難されますが、むしろ、さまざまな意見が許されるのは党内民主主義が機能している証拠、といった見方もあります。この世の中は百人百様、それぞれに考え方も好き嫌いも異なって意見が百出し、それを一つにまとめていくのは至難なことです。かつて「一人でも反対者がいるかぎり、それはやらない」と言いきった知事がいましたが、一人も反対者がいないなどというのは、理想ではあっても現実にはありえないことです。全員一致でなければ何もしないというのは、何も決断しないための逃げ口上と言われても仕方がないでしょう。「全員賛成、意義なし」では、全体主義になってしまうわけです。「あなたの見事なリーダーシップの秘訣(ひけつ)はなんですか」と問われて、「コンセンサスにのっとって政治をするのはリーダーシップではない。コンセンサスをつくりだすのが政治的リーダーシップです」と答えた政治家がおられましたが、まさに至言です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.07
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蓮の花の上にいるが如く「脚下照顧」という言葉がありますが、足元を見つめますと、「一日は一生の縮図」といわれますように、つまらない日などないわけであります。毎日毎日が大事な日ばかりです。本当に毎日毎日が素晴らしい、その一歩一歩が素晴らしい、と気づけることが、仏さまから頂く大きなご守護ではないかと思います。仏さまは、蓮の花の上におられるお姿で描かれます。しかし、いつもそうしておられるわけではありません。一歩一歩を大事にして、真剣に生きると、また一日一日が非常に大事なものとなっていく。ちょうど綺麗な蓮の花が咲くように、その日その日が大事なものとして分からせて頂ける。そうしたことを象徴して、蓮の花の上に仏さまがおられるのだと教えて頂いております。私たちもぜひ、蓮の花の上にいるような気持ちになって一歩一歩体験を積んでまいりたいものであります。 『佼成新聞』より
2009.02.06
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2/6 Fri正定聚(しょうじょうじゅ)の力仏教では、この社会を構成する人びとを、正定聚(しょうじょうじゅ)・邪定聚(じゃじょうじゅ)・不定聚(ふじょうじゅ)の三つの種類に分類します。正定聚とは、いつも正しい行ないをして仏の境地をめざして努力している人たちです。自他の仏性(ぶっしょう)を開顕すべく精進している人たちの集まりともいえましょう。それとまったく反対に、いつも邪心(じゃしん)を持って悪をなす人びとの集まりが邪定聚です。そして、その二つのグループの中間でどちらにも属さず、正定聚の影響力が強くなるとそちらに従い、邪定聚の勢いが強まるとそれになびくといったように、心や行動が定まらない人たちが不定聚です。数からいうと、正定聚と邪定聚はごくわずかで、大多数の人たちが不定聚に属していると仏教では教えるのです。ですから、この社会をよくするためには正しいことに心を定めた正定聚の力を大きくしていくことが大切なのです。すると大多数の不定聚の人がそれに従い、社会全体が大きくそちらに動きます。間違っても邪定聚を増やしてはならないのです。社会正義に名を借りて不満や嫉妬(しっと)を正当化するような主張に引きずられない、そういう人を増やさなくてはならないのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.05
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【新ルールにより大きく変わった点】全種目21点3ゲームで2ゲーム先取のラリーポイント方式*ラリーポイント方式とは、サーブ権に関わらずラリーに勝った方にポイントが入るルール 20-20になった場合、2点差がつくか、30点を先に取ったほうが勝ちとなる 各ゲームで一方のポイントが11点になった時に1分間を越えない休憩時間を設ける ゲーム間は2分間を越えない休憩を設ける 単複ともにラリーに勝ったほうが次のサービスを行う シングルスのサービスは今までどおり ダブルスのサービスは以下のように変更される ・サービス側がラリーに勝った場合同一サーバーが左右を変えてサービスを行う。・レシーバーがラリーに勝った場合はレシーバー側が次のサービスを行うが、自分達の得点が偶数なら右から、奇数なら左から、その位置*にいるプレーヤーがサービスを行う。*その位置とは、その直前のラリーのサービスを受けた位置のこと。・セカンドサービスは無し。・見方を変えると、サービスで得点した場合は左右を交替し、サービスが戻ってきた時には前回と異なるプレーヤーがサービスを行うことになる。
2009.02.03
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2/3 Tue真珠貝の心 節分には、「福は内、鬼は外」と唱えて豆まきをしますが、その鬼はどこにいるかというと、自分の心の中にいるのですね。みんな、自分の見方、考え方の癖で苦をこしらえているのですが、それに気づかずに、あの人のせいだ、この人のせいだと、まわりのせいにしてカッカし、イライラしている。それでニョキニョキと角が生えてしまうのです。その鬼になっている自分が見えないのです。ですから、いつもそばについていてくれて、「ほら、それが鬼の心ですよ。その心が不幸を呼んでしまうのですよ。見方をこう変えると福の神がくるんですよ」と教えてくれる、いわば人生のコーチが必要なのです。そういうコーチがいないと、自分の心に住みついた鬼をなかなか追いだせないわけです。幸福を呼ぶ心とは、たとえば真珠貝が異物が自分の中に入ってきてもそれを幾重にも包んできれいな真珠にしてしまうような心だ、と教えてくださった方がいます。おもしろい譬えではないですか。鬼の心を真珠貝の心に切り換えさせてくれるのが、サンガの仲間同士の磨き合いです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.02.03
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妻に「ありがとうをためらわずに言おう」「ごめんなさいを恐れずに言おう」「愛してるを照れずに言おう」全国亭主関白協会会長 天野 周一氏より
2009.02.02
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ホ・オポノポノ人はだれでもが、潜在意識のなかにある過去の否定的な記憶によってさまざまな問題を招いている。著者は、ハワイの伝統ヒーリング「ホ・オポノポノ」の継承者。抱えている問題を解決するには、すべて自分の責任をと受け止め,自己の心に向かって「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています」の四つの言葉を語り続けることだという。「すると無意識下にあるトラウマ(負の記憶)が浄化され、その人本来の行き方が見えてくる」と著者はかたる。真に自由で豊かな生き方とは何か。セラピストとして世界でも有名な著者が、ホ・オポノポノの癒しを通してその問いに答えてくれる。著者 イハレアカラ・ヒューレン四六判上製/248頁/徳間書店/定価1500円(税別)
2009.02.02
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習慣が心を育む まず着替えてから行動をする、形から入る、楽しくなるまで繰り返す。「良いことを、心を込めて、繰り返す」リズムのある暮らし三つの実践1.笑顔で朝の挨拶をする2.呼ばれたらはっきり返事をする3.イスを入れる、履物を脱いだらそろえる今を大切に;目の前の人や、ものを大事にする。いま・今日を大事にする習慣をつける。「老いない脳」を作る10の生活習慣1.週に2,3回以上、1回30分以上運動をする2.食生活のバランスに気おつけ食べ過ぎない3.ストレスをうまく受け流す4.人とのコミュニケーションのある生活5.好奇心を持て新たな生活をする6.学習習慣をつける7.目標を持つ8.自分に報酬を与える9.本を読む習慣を維持する10.意識的に段取りをする夫婦中が良くなる3つの習慣1.夫婦を生かす「ありがとう」2.会話フェース・トウ・フエイス3.思いやりの言葉かけ できそうにない人は、「相手があと1ヶ月の命だとしたら」と想像するのです。きっと優しい言葉が自然と湧いてくる来ると思いますよ。
2009.02.01
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