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12/1 Tueピンチに内を固める 「この不況はいつまで続くのか。早く手を打ってほしい」という声が高くなっていますが、ここで腰をすえて「いまこそチャンス。いまだからこそできることを」と考えてみてはどうでしょうか。昭和の初めの大恐慌で松下電器がピンチに陥ったとき、社長の松下幸之助さんは、「どんなに在庫を抱えようと、社員の首は切れない。工場の従業員には給料を払って半日休んでもらい、店員全員で在庫を売り歩こう」と呼びかけて、危機を乗りきったそうです。そうして全社員が一丸となって難関を乗り越えたことで、考えられないような力が生まれ、それが松下電器の発展の原動力になった、と話しておられます。好景気で会社の業績が順調に伸びているときには、全社員が心を一つにするということが、できそうでいてなかなかできないものです。ピンチの時こそ、内を固める時です。じっくりと人育てに取り組み、互いに協力し合うことで社員同士の信頼感を培っていく。ただ手をこまねいて待っているだけでは、また次のピンチにさらされてしまいます。不況の時こそチャンス。バブルでゆるんだ体質のままでは発展は望めません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.30
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11/30 Monうなずく愛語「なんの反省もなく、よくも平気であんなことができるものだ」とあきれ返るような人が、みなさんのまわりにもいるかもしれません。「この人は、なんという人なんだろう」と、がまんできなくなることもあると思うのですが、もう一度、その人の身になって考えてあげてほしいのです。おそらくその人は、まわりの批判や攻撃に心を閉ざして、幾重もの鎧で自分を守っているのだと思うのです。それをさらに責め立て矯正しようとしても、聞いてくれるわけがありません。心の底から「これではいけない」と、自分がその気にならないかぎり、人は、どんなにうるさく言われても変わるものではないのです。大事なのは、どうしたら相手に本気になってもらえるか、そのための働きかけです。それは、ほんの一か所だけの心と心の触れ合いでいいのです。かたくなに自分を守っている人がいちばん求めているのは、本当の味方になってくれる人なのです。「愛語」とは、優しい言葉という意味ですが、上手なことを話せなくても、相手を信じきって、相手の訴えに心からうなずいてあげられたら、それだけで立派な愛語になるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.30
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苦楽にとどまらない人生には、悲喜こもごもあります。しかし、苦があるということは、裏を返せば楽があるということです。また楽にいつまでも安住していると、そこからいろいろな苦も発生してくることになります。苦にとどまることもできない。楽にとどまることもできない。常に変化しているんだということを教えられたのが、仏さまの説かれた「無常」です。その意味で、私たちは、いま苦しいからといって希望を失ってはならないわけです。逆に、いま救われて楽しいからといって、もう修行をしなくてもいいというわけにもいかないのです。やはり常に仏さまのご法の線に沿っていくことが、何よりも幸せを頂く本(もと)になると思うのであります。『佼成新聞』より
2009.11.29
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11/29 Sun互いにほめ合う夫婦豊臣秀吉は主君・信長の長所を見て、「うちの殿は偉い人だ」と心から思い、いつもそれを口にする。それに対して明智光秀は、信長の欠点を黙って見ていられず「天下人になられたら徳を具えていただきたい」と進言し、主人の欠点を直そうとして不興を買い道を誤ってしまった、という説を聞いたことがあります。これはさまざまな人間関係にあてはまるように思います。たとえば夫婦円満の秘訣も、そのへんにあるのではないでしょうか。いったん結婚した夫婦は、そう簡単に別れるわけにはいきません。とはいっても、夫婦として三百六十五日、朝から晩まで鼻を突き合わせている者同士、互いにアラを数えだしたら、きりがなくなってしまいます。そこを直してほしい、ここを変えてもらいたいといっても、夫婦の間柄では、なかなか素直に聞けないのですね。夫婦の相性とは、ただ気心が合うというだけでなく、互いにパートナーとして、より力を発揮できるようになることが大切です。そのへんの機微が、このあたりにある気がするのです。欠点を直そうとするよりも、互いによいところをほめ合う習慣をつけたほうが得策だと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.29
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11/27 Fri亡き母への供養 私が、まだ牛乳屋の商売をしながら布教に歩いていたころのことです。亡くなった母の命日が六月二十二日で、その日は、わが家の命日にも当たっていましたので、毎月、「この日は特別にしっかりとご供養させてもらおう」と思っているのですが、その日にかぎって、あの信者さん、この信者さんから声がかかって、真夜中まで飛び回らなくてはならなくなるのです。恩師の新井先生にそのことをお話しすると、「庭野さん。お経をあげるだけが供養じゃないんだよ。苦しんでいる人をお救いするために飛び歩く供養のほうが尊いんです。お母さんやご先祖さまが、どれだけ安心し、喜んでくださっていることか」とおっしゃってくださいました。それが法華経を身で読む供養なのだと、そのとき新井先生に教えていただいたのです。そう聞かせていただいてから、毎日、休む間もなく人さまのために駆け回らせてもらっていると、母のうれしそうな顔が目の前に見えてくるような気がしたものでした。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.27
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11/26 Thu現代でも起こる奇跡『法華経』の「妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)」では、浄蔵(じょうぞう)・浄眼(じょうげん)という二人の王子が、父王の前でさまざまな不思議を演じて見せて、仏さまの教えに親を導く話が語られます。二人の王子は、自分の姿を瞬時にして巨大な姿に変えて見せたかと思うと、たちまち豆粒のような小さな姿に身を変える、といった不思議を見せます。そんなことができるものだろうか、と考えられるかもしれません。しかし、それはいまの時代でも同じなのです。子どもがいくつになっても親の目には幼い子どもに見えるのですが、そのわが子が、真実の生き方について堂々と信念を述べるようになったとしたら、どうでしょう。かと思うと、これまで親に反発ばかりしていたのが、素直に親の言葉を「はい」と聞くように変わったら、まさに信じられない奇跡と見えるのではないでしょうか。それが「大身を現じ、また小を現ずる」姿です。「ありがとう」という言葉、そして「はい」という返事がいちばん美しい日本語だといわれる人がいますが、青年部の練成や法座で、この素直さを身につけて親を教化できたといった話を聞かせてもらいました。こんなうれしいことはありません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.25
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11/25 Wed待つ心 人を育てるのにいちばん大事なのは、「待つ心」ではないかと思います。人が自分の欠点や癖を直すのは、そう簡単なことではありません。会社で上司が部下に、いろいろ注意を与えて、「こんな失敗は、二度と繰り返すのではないぞ」と言い聞かせても、そういっぺんに直るものではありません。よくお母さんが、子どもに向かって「分かったと言ったでしょう」「もうやらないと約束したでしょう」「何度言って聞かせたら、あんたは分かるんですか」と言って叱りつけているのを見かけますが、頭で分かったのと、実際にそれができるのとでは天と地ほどの開きがあるのです。たとえば、右の棚の物を左の棚に移すだけのような簡単にみえることであっても、長い間に身についたその人のやり方や癖は、なかなか抜けません。何度も失敗を繰り返しながら、次第に改まっていくものです。それを見守り、待ってあげる心の広さ、温かさを持たないと、人は育たないのですね。あなた自身、いまは悟りきったような顔をしていても、そうなるまでに、どれだけの人に見守られ、待ってもらってきたか、思いだしてほしいのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.24
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11/24 Tue終わりに残るもの 内科学の権威である日野原重明先生によると、六十歳で亡くなられた人の脳を開いてみると、ふつうの人なら四分の一、よほど使った人でも、まだ半分しか使っていないということです。半分以上は白紙のままなわけです。それをそのまま残したのでは、まことにもったいない。六十を過ぎると「あとは余生」と考える人が多いけれども、とんでもない。まったく新しいことに挑戦する出発の時だという心構えが大事だ、と日野原先生は言われるのです。私が、世界宗教者平和会議の実現に取り組み、明るい社会づくり運動を提唱したのは、六十歳を過ぎてからでした。ジェラール・シャンドリーという人が、「人の一生の終わりに残るものは、われわれが集めたものではなく、与えたものである」という言葉を遺されているそうです。その人の人生の究極の価値は、がむしゃらになって手に入れた地位でもなければ財産でもなく、どれだけ人さまに奉仕し、人さまに与え、遺すことができたかで決まるのだ、と言われているのではないでしょうか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.23
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11/23 Mon迷いを断つ猛稽古 大事な試合やテストなどを前にすると、「大丈夫だ」という心と、「いや、ひょっとすると」という不安と、二つの心がせめぎ合うのですね。そして、一度不安に捕まってしまうと、それにどんどん引きずられてしまいます。日蓮聖人は「異体同心なれば万事を成ず」と教えられたあと、一人の心であっても二つの心があると、争い合ってなにごともうまくいくことがない、とおっしゃっておられます。どうしたら、この二つの心の葛藤をなくせるかです。お相撲さんの世界では、不安を克服するには「稽古しかない」といいます。自分の限界にいどむ稽古によって、「これだけ稽古したのだから、ぜったいに大丈夫だ」と、自分の相撲をとりきる精神力ができてくるというのです。早朝から全身砂まみれになり、土俵にはいつくばって、もう動くこともできなくなるほどの猛稽古は、技を身につけるのはもちろんのこと、心に迷いが芽生える余地をなくすためでもあるわけです。常精進によってこそ、人生の不安や迷いをなくすことができるのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.22
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11/22 Sun人生の師を得る よい師を得ることは人生の大事ですが、とりわけ青年時代にどんな師に出会うかは、その後の人生を大きく変えてしまうほどの、大事中の大事といえましょう。人生のお師匠さんであっても、絵や音楽などの習い事の先生であっても、心の底から敬服し、惚れ込んだお師匠さんにつくと、その言葉から考え方、一挙手一投足にいたるまで真似をしたくなってきます。目の前に実際にいるお師匠さんばかりではありません。その人の著書や、経典として残された言葉などを通して出会った師であっても、同じです。親鸞上人は、法然上人をわが師と思い定められると、「このお師匠さんについて地獄に堕ちてもかまわない」とまで決意されてしまいます。そういう師に出会うことができたら、人生のどんな岐路に立っても、迷うということがありません。学ぶという言葉は「真似ぶ」という言葉が語源だといいますが、それに徹しきってこそ、そこから自分の本然のものが輝きだしてくるのだと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.22
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11/21 Sat仏の子の自覚仏性開顕と簡単にいいますが、どうしたら仏性を開顕できるのかです。まず、「私は仏の子だ」と自分に言い聞かせて、心からそう思い込んでしまうことです。すると、もう怠けてなんかいられません。腹が立ったなどと、ふくれているわけにもいきません。心理学のある先生が、「善い結果を考えると善い結果が、悪い結果を考えると悪い結果がもたらされる。潜在意識が、心に思った結果につながるチャンスを捕らえるからだ」と言われています。「外相整えば、内証おのずから熟す」という言葉があります。森田療法という、神経症の治療法の創始者である森田正馬さんが用いた言葉ですが、装いを整えて威儀を正すと、それだけで「みっともないことはできないぞ」という心になってくるものなのです。「私は仏の子なのだ」という自覚を持つと、どんな無理なことを言う相手に対しても、笑顔で、「この人にも教えを分かってもらわなければ」という慈悲心で接することができるようになってくるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.20
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11/20 Fri希望があれば疲れない 『法華経』の「化城諭品」には、宝の山に向かう隊商のリーダーが、疲れきったメンバーの行く手に幻の城を浮かび上がらせて、みんなの気力を奮い立たせる物語が出てきます。これは、みんなに希望を抱かせる手段だともいえましょう。「前途は厳しいんだぞ。こんなことでどうする」と叱咤ばかりしていたのでは、だれもついてこなくなってしまいます。リーダーといえども、これからのすべてのことについて百パーセントの確信を持っているわけではありません。しかし、「こっちへ進もう。必ず未来は拓けるのだ」と言いきるその迫力が大事なのです。行く手に苦しいことが待っていることもあります。将来のために、あえて不利なことを甘受しなくてはならないこともあります。ときには、回り道をしなければならないこともあります。しかし、希望を持って自分の意志で歩き始めると、勇気を持ってそれに耐え、それを受け入れ、乗り越えていくことができるのです。「希望があれば疲れない。希望を持って生きる人は老いることがない」という言葉があります。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.20
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11/19 Thuすぐれたリーダー 私はこれまで数えきれないほどのたくさんの人にお会いしてきましたが、初めからまったくやる気がないというような人はいない、と言いきっていいと思うのです。もし、やる気をなくしている人がいたとしたら、何かでやる気が抑えつけられてしまっているのです。すぐれたリーダーとは、どうしたらみんながやる気になるか、そこを具体的にアドバイスしてあげられる人だ、といっていいでしょう。ディズニーランドが大変な人気で、連日、満員盛況だそうですが、来場者に喜んでもらえるように、じつに細かな気くばりがされているのだそうです。たとえば風船売りのお嬢さんは、子どもと目線が合うように、しゃがんで風船を渡すように訓練されている。それで親御さんが、自分の子どもが本当に大事にしてもらえたと感動して、わざわざお礼を言いにきてくださる人もいるそうです。すると、売るほうもうれしくなります。自分の仕事にやりがいと誇りを持つわけです。「進め」「がんばれ」と号令をかけるよりも、だれもが本来持っているやる気を何が抑えつけているのか、そこまで心を届かせて、それを取り除いてあげる慈悲心が大切です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.18
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11/18 Wed二つの礼拝行 法華経には、石を投げつけられようが杖でたたかれようが、一心に相手を拝み続ける常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の礼拝行が説かれています。そしてもう一つ、自分に仇をなす相手をもお師匠さんと拝む「提婆達多(だいばだった)が善知識」の礼拝行が説かれます。この二つの礼拝行を忘れずにいれば、信仰者として合格だと思うのです。「こうなってほしい」「ああなってほしい」と、自分にとって都合のいいことばかりを願っていると、それがことごとく裏目に出て、いつもしかめっ面でいなくてはならなくなってしまうことが多いのです。あれこれと心配ばかりしていると、その心配したとおりの結果になりがちなのですね。ですから、どんなことが起ころうと、どんな人に出会おうと、「これが自分の修行課題なんだ」と心を決めてしまうのです。そう心が定まると、自分のほうの都合で、いい悪い、好きだ嫌いだ、と選り好みするのでなく、なにごとも向こうさま次第の考え方ができるようになってきます。やってくるものは、なんでも真正面から受け止めて全力を尽くせばいいのだ、と腹がすわってきます。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.17
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11/17 Tue心が通い合えば いくら言葉を尽くしてみても、言葉だけでこちらの思いを相手に本当に分かってもらうのは至難なことです。いわんや、こっちの思いどおりに相手を動かすことなど、できるものではありません。私たちは、まったくの白紙の心で人の言うことを聞くことができないのです。自分の育った環境や経験によって、私たちの感じ方や考え方が決まってしまっているからです。ですから、まず心と心を通い合わせることを先にしなければならないのです。「あの人は、本当に私の心を分かってくれる人だ」という信頼感が生まれると、あとは、多少言葉が足りなくても、少々強く言い放っても、素直に聞けるのです。佼成会の草創期の幹部さんと信者さんの関係は、まさにそれでした。信頼感といっても、どこから見ても難癖のつけようがないといった完全さが必要なわけではありません。たとえば、いつも威厳をとりつくろっていた父親が思わず流した涙で、子どものかたくなな心が溶けてしまうこともあるのですね。どこか一か所が通じ合うと、人と人の心は一つに溶け合ってしまうのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.17
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11/16 Monご恩報じ 八十八歳の誕生日を全国の会員のみなさんに祝っていただいて、私がなによりもうれしかったのは、みなさんが現在の幸せを報告してくださる、その喜びの笑顔でした。人さまの喜びのお手伝いができる幸せを、あらためてかみしめさせていただきました。私の生まれ故郷は、一年の半年近く三メートルもの豪雪に埋もれてしまうのですが、その雪の下で、村の人たちは助け合って暮らしていました。私の家は十二人もの大家族でしたが、ついぞ、いがみ合うといったことはありませんでした。小学校に入ると、校長先生が神仏を拝む大切さを教えてくださいました。そして、ご法を通して出会うことができた数えきれない方々のご恩によって、今日の私があります。「自分の受けた恩を一つ一つ数え上げたら、お返しできたことのあまりの少なさを思わずにいられない」とおっしゃる方がおられます。山のようなご恩をいただいて生かされてきたこの命を、一日も長く生きて、ご恩報じをしなくてはと思う一日一日です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.16
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11/15 Sun三つのお陰さま私の米寿の誕生日を、たくさんのみなさんにお祝いしていただいてしみじみと思うのは、「お陰さま」のありがたさです。「お陰」とは、目には見えない陰の力、はたらきのことです。振り返ってみますと、この世に生を授けてくださった両親をはじめ、育ててくださった恩師や先輩の方々、修行を共にしてくださった会員のみなさん、力を貸してくださる世界の宗教界の先生方……。そうした数えきれないお陰さまを頂戴し、仏さまのお見守りをいただいて、今日この日を迎えられた幸せを、かみしめずにはいられません。自分の力、多くの人びとの力、そして神仏のご加護の三つが一つにならないと、どんな小さなことも成るものではない、と山田恵諦猊下はいつも教えてくださっておられます。「幸せとは、ありがとうと言えること」と言われた方がいました。私は毎日の日記の最後に、「今日も楽しく一日を終わらせていただくことができた。ありがたいお手配だった」と書かせてもらうのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.15
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11/14 Satわれの力にあらず 九十歳の私の誕生日をみなさんにお祝いしていただいて、あらためて思うのは、「われの力にあらず」の一事です。この時代に、この国に生を享け、数かぎりない人びととの出会いによって頂戴できた力によって、今日の私があります。人ばかりではありません。まわりのあらゆるものに生かされて、こうして毎日を過ごせる自分を思うと、お会いする一人ひとりの人に、周囲の一つ一つの物に、心から合掌せずにいられません。幼いころ祖父のひざに抱かれて、「世のため人のために役立つ人間になるんだぞ」と言い聞かされた言葉が、年とともに、重みを増してくる思いです。まだがんぜない子どもの私に、その言葉の意味が本当に分かるわけはありません。しかし、それを繰り返し繰り返し言い聞かされているうちに、その言葉が体にしみついて、いつのまにか、それが私の人生の方向をきめてしまったように思うのです。心から「ありがたい」と言えることが、どんなに幸せなことか......。道元禅師がおっしゃられた「万法に証される自分」を知ると、なすべきことは報恩行ただ一つです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.13
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11/13 Fri後押しされる幸せ 私は、初めから宗教者になろうと考えていたわけではなく、ただ、さまざまな苦しみを抱えている人を救う教えはないものかという探究心と、私のような者でも人さまのお役に立てるならという、ただそれだけの気持ちでした。ですから立正佼成会を創立してからも、みなさんのお布施で生活する気持ちにはなれず、当初は、あくまでも働きながら布教をするという姿勢をくずさなかったものです。私が三十七歳のときに最初の本部道場が建てられて、そのとき、会員のみなさんから「会長が牛乳配達をしていたのでは困る」という声が出、それでようやく牛乳店をやめてご法一筋の生活に入ったのですが、それでもまだ、会員のみなさんのお布施で生活するのを潔しとせず、「仏飯(ぶっぱん)を頂戴(ちょうだい)するからには不惜身命(ふしゃくしんみょう)の心構えでなくてはならない」という決意にいたるまでに、かなりの葛藤(かっとう)を重ねたものでした。六十八歳の誕生日を迎えてあらためて振り返ると、私はみなさんに背中を押されて宗教者にしていただき、平和のために世界を飛び回れる最高の日々を送らせてもらっているわけで、感謝以外のなにものもありません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.13
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11/12 Thu正直一本やり 心から信じられる人を一人でも持つことができたら、その人生は成功だといえるのではないでしょうか。信仰はそのためのものだ、といってもいいと思うのです。仏さまがすべてをご照覧だと信じられることが、信仰のいちばんの功徳だと思うからです。世間一般では、人さまには見せられないところが半分でも通る場合もあるかもしれませんが、心に仏さまを持っている人は、百パーセント正直一本やりでいくしかありません。ちょっと人をごまかして、うまいことをしてやろうといったことはできないかわりに、善いことをすれば、だれが見ていなくても、だれが分かってくれなくても諸仏諸天善神がご照覧だ、と努力する張り合いが持て、すべてをおまかせできて心がぐらつきません。私のこれまでの人生を振り返ってみても、いちばんの幸せは、仏さまを信じきって疑うことなく今日までこれたことに尽きると言いきることができます。そのお陰さまで、出会う人出会う人を、なんの心配もなく信じることができたのだと、あらためて思わずにいられないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.11
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11/11 Wed下がれば立てられる お釈迦さまは、お弟子さんや在家の信者がどんな質問をしても、「善哉(ぜんざい)、善哉。よくその質問をしてくれました」とおほめになられ、相手が納得するまで、丁寧にお答えくださっておられます。「そんなことが分からないのかね」というような顔はなさらない。ですから、お釈迦さまにお会いしただけ、お声を聞いただけで、心が晴れ渡ってしまうのです。見ていると、お役をいただいてすばらしくよくなる人と、その反対になってしまう人がいるのですが、その違いは、自分が教えてやっているのだ、という気持ちになってしまうか、みなさんから教えていただけるのだという気持ちになるか、その違いにあるように思うのです。自分の言うことを、みんながなんでも「はい」「はい」と聞いてくれると、つい得意になって、自分の悪い癖が丸出しになってしまうことがあるのです。ご法のお役は、人さまの仏性を拝ませてもらう行なのです。「何度言って聞かせたら分かるんだろう」というような気持ちが起きたら、自分が天狗になりかけている証拠です。信者さんのお陰で仏さまのお慈悲をかみしめさせていただけるのだという心が、下がる心なのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.10
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11/10 Tue大切な連れ合い 家庭がうまくいっていないご主人が、法座で「奥さんにありがとうと言えるようになる」ことを約束したのですが、そのひと言が、なかなか言えない。「おれが女房を養ってやっているんだ」という気持ちがあって、「なんで自分のほうから」というこだわりで、その言葉が出てこないわけです。けれども、法座にすわるたびに「もう、奥さんにありがとうと言えましたか」と確かめられて、ある日、思いきって「ありがとう」というひと言が言えたのですね。すると、それがきっかけで、奥さんの苦労がいろいろ見えてきたというのです。朝早くから起きだして食事を作り、下着まで洗濯してくれて、夜は、どんなに遅く帰っても、起きて待っていてくれる。心から「ありがたいな」と思えるようになったのですね。私たちは、さまざまな人や物のお陰で暮らしていながら、ふだん、それが自分にとってどれほど大切な存在であるかが、まるで見えていないのです。相手のありがたさ、相手の尊さを思い知って、心から合掌するのが供養です。その真心の供養ができると、まわりのすべてに感謝せずにいられなくなってきます。これが信仰の原点です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.10
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11/9 Monどっしりと構える私が東京に出てきたばかりのころ、縁日で占い師に「あんたは刺激がないとだめな人だ」と言われたことがありました。それから私は、困難な問題にぶつかると「いよいよおもしろくなってきたぞ」と、自分に言い聞かせるようになったのです。ふだん、なんとか事が運んでいるときは、これまで続けてきたことを大きく変えるのは、できそうでいて、なかなかできないものなのです。ところが、崖っぷちまで追い詰められてしまうと、嫌でも変えずにいられなくなるわけです。会社でも組織がガッチリと整ってしまうと、みんなが、このままではいけないと気づいていても、いろいろと差し障りがあって、これまでのやり方を変えることがなかなかできません。むしろ不況の時こそ、体質改善の絶好のチャンスなのです。「この難関を乗り越えなくては」と、みんなが心を一つにして取り組むことができます。これが「提婆達多(だいばだった)が善知識」と拝む法華経の考え方です。ピンチをチャンスにしてしまえるようになったら、もう怖いものなしです。よいことがきても悪いことがきても、「いよいよおもしろくなってきたぞ」と、どっしり構えていられます。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.09
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11/8 Sun二本柱の土台 ひと突きふた突きで土俵の外へ相手を吹っ飛ばしてしまうお相撲さんが、ちょっとしたつまずきで自信をなくすと、真っ暗闇のトンネルに入ったように、何も見えなくなってしまうことがあるといいます。手も出なければ足も出なくなってしまう。大事なのは、負けが込んでもあくまでも自分の相撲をとり続ける精神力で、それには、「これだけ稽古をしてるんだから、大丈夫なんだ」という心の支えが必要だというのです。それは相撲だけではありません。どんな仕事でも、ふだん自信にあふれていても、その自信が土台から突きくずされるといった場面に、人生では幾度もぶつかります。そういうときに、自分で自分を信じる、いわば一本柱の土台がいかに心もとないものか、思い知らされます。「自分にできる精いっぱいの努力をしたのだから、あとはおまかせしていれば、必ずお守りいただけるのだ」という、もう一つの支えができると、二本の柱でしっかりと立った土台ができてきます。そうなると、ちょっとやそっとのことで大きくくずれる心配はまずありません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.08
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11/7 Sat歩を生かす 将棋の大山康晴名人が亡くなられてしまいました。だいぶ前に対談でお話をうかがったことがありましたが、そのとき大山さんは、「アマチュアの方は飛車や角を大事にするが、歩を使いこなせてこそ高段者です」「怖いのは味方の駒のじゃまです」と、おっしゃっておられました。自分の持ち駒でいちばん駒数が多いのが歩です。その歩を本当に生かせず、それが味方のじゃまをするようになったら勝負は負けだというのです。それで思いだしたのですが、本田技研の創業者の本田宗一郎さんは「歩を生かす名人」といわれたものです。本田さんは、「会社は、社員みんなが幸せになる手段。会社がのしかかって、みんながその陰に隠れて、おもしろくもない仕事をするんじゃ寂しいじゃないか」というのが持論で、めいめいに、おもしろくてしようがないという仕事を見つけださせることに専念されたそうです。一人ひとりの生き甲斐を引きだし、一人ひとりを燃え立たせることが第一なのです。その力の結集が会社やサンガの力になっていくわけです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.06
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11/6 Fri最高の安心 銀行に預けたお金の利子で暮らせるようになったら、もう将来なんの心配もない、と考えがちです。そんな身分になれたら、どんなに幸せだろう、と考えるのですが、働かなくてもお金の心配がまったくないということほど、怖いことはないと思うのです。それが、いちばん人間を変えてしまうのです。それも、悪いほうに変えてしまう場合がほとんどです。バブル経済でも、お金があり余って、それを元にして、もっともっと増やそうと考えて足をすくわれてしまった人が多いのではないでしょうか。「負う」という字は、人が財を持って、それを頼みにしている意味を表わしているのだそうです。お金だけを頼みにするようになってしまったら、その人生は「負け」になってしまうわけです。伝教大師が「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」と教えられたのも、そこのところなのです。自分の本業に全力を尽くして、それで人さまのお役に立たせてもらう。その働きの中にこそ、最高の安心と幸せがあるといえましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.05
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11/5 Thu悲鳴を聞き分ける 「お母さんなんか死んでしまえばいいんだ」とわが子に言われたら、親は動転してしまいます。しかし、それが追い詰められた子どもの親に助けを求める悲鳴なのですね。言葉と心は、必ずしも一つではないのです。「頼みもしないのに、なんで私なんか産んだのよ」などという言葉でカッとなるようでは、親として、まだ駆けだしです。子どもがどんな思いでそんな言葉を親に投げつけるのか、考えられる心のゆとりを持つのが親の愛情です。そのゆとりがないと言葉のどぎつさに引っかかって、怒りだしたり、目の前が真っ暗になったりしてしまうのです。そんな言葉がどうしてわが子の口から出てきたか、その心の奥の奥を見通せるようになるのが「真観」です。会社帰りのサラリーマンが帰宅の途中で一杯やりながら会社の批判をし、上役をこき下ろしている姿をよく見かけますが、これも、悲鳴なのかもしれないのです。観世音菩薩がどんな人も救うことができるのは、そうした人びとの悲鳴の中から、本当の願いを聞き取る力を具えておられるからです。私たちも、そういう力を身につけたいものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.04
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11/4 Wed親の生きる姿 「習う」という字は、ヒナ鳥が飛び立とうと、親を真似て二つの羽を繰り返し繰り返しばたつかせている形であることは、前にお話ししました。子どもが巣立って社会で生きていくには、知識だけでなく、生活の知恵をしっかりと身につけなくてはなりません。動物はみな、親を真似てそれを身につけていきます。ですから、親から引き離されて育った動物は、年ごろになっても恋人を見つけられなかったり、子どもを産んでも育てられなくなったりするというのです。人間の子どもも同じです。いい学校、いい会社へ入るためだけの勉強で追い立てられて、いつまでも子ども扱いで一から十までお母さんが面倒をみるといった過保護で育ったら、自分一人では何もできない青年ばかりが増えてしまいます。子どもがどんなに心配でも、親はいつまでもそばについていてあげるわけにはいきません。一人立ちさせる教育こそ大切なのです。親がどんな問題にも毅然と対して、信念を持って生きる姿をわが子に示し、その親の姿を通して、子どもに自分で生きていく力をつけさせるのが家庭教育ではないでしょうか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.04
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11/3 Tue和顔施は人のためならず 心がどれほど体に影響するか、案外知らずにいる人が多いのではないでしょうか。庭野平和賞を受賞されたノーマン・カズンズ博士は、膠原病にかかったときに、「どんな患者も自分の中に主治医を持っている。それをどう引きだすかだ」というシュバイツァー博士の言葉を思いだして、「笑う治療法」で病気を克服されたのだそうです。笑うと、血液の流れがよくなって、ウイルス感染から細胞を守るインターフェロンが働きだし、不快な顔になると、とたんにその流れが止まってしまうことが、最近の医学で分かってきたそうです。無理に笑うのでも、効果があるといいます。確かに、どんな苦しいときであっても笑顔をつくると、心が明るくなってくるのですね。いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしている人がいますが、こっちが笑顔で接していくと、表情が和みます。布施の一つに笑顔で人に接する「和顔施(わげんせ)」があるのはご存じでしょう。和顔施は、何がなくても、だれもが、いつでもできる布施行です。その布施で相手が心も体も健康になり、自分も健康になれるのですから、まさに「和顔施は人のためならず」です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.02
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11/2 Mon惚れ込んだ人のひと言 「この人こそ、と本当に惚れ込める人を持っていることが人生最高の幸せだ」と言う人がいますが、そのとおりですね。その人が話すひと言ひと言に、「そのとおりだ」とうなずかされる。その人の顔を見、声を聞くだけで、うれしくて、生きる力がわいてくる......。「私もあの人のようになりたい」と、知らず知らずのうちに、ものの言い方から考え方まで似てくるのです。信仰でもそうです。みなさんの多くは仏教の教義もさることながら、導きの親御さん、支部長さん、教会長さんの姿に引きつけられて、ご法に導かれたのではないでしょうか。その人が説いてくださる教えだからこそ素直に聞くことができて、だんだん仏教の深い教えに引きつけられてきたのだと思うのです。会社でも、部下に好かれることが上司の第一条件だといわれます。心から好きになると、その人に言葉をかけてもらうだけでもうれしい。失敗して注意されても、「ようし、この人の期待に応えなくては」と発奮する。いちいち指示される前に自分から動かずにいられなくなる。慕われる人になると、黙っていても人さまをお救いできるのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.11.02
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