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12/29 Tue身を清めて新年を「一年の計は元旦にあり」といいますが、私は「新年を迎えて一年の計を思いめぐらすのでは遅すぎる。一年の計は、もう前年の十二月一日に立てる心構えでなくてはならない」と、いつも申してまいりました。今年も、すでに十二月も押し詰まり、一年が終わろうとしています。みなさんは、この一年を振り返っての反省に立って、来年はどう精進しようといった計画を立てておられることと思います。これも、いつも申し上げることですが、かつての日本では、十二月に諸仏の名を唱えて年内の罪障(ざいしょう)を懺悔(さんげ)し消滅を願う仏名会(ぶつみょうえ)という行事が必ず開かれていたそうです。過ぎ去ろうとする一年を顧みて、自分はどのようなあゆみをしてきたかと厳しく自己反省をし、懺悔告白して新たに精進をお誓いしたわけです。どんなに時代が変わろうと、新しい年を迎えるのには、来(こ)し方を振り返り、身も心も正して新たな出発をすることが大切で、だから正月というのです。いつの時代にあっても忘れてはならない大切なことでありましょう。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.29
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私は76歳の時に翌年喜寿になる自分に宛てた水墨画を送ろうと思い立ち、その日より書画の勉強に励み喜寿の誕生日には予定どうり、水墨画を欄間に飾ることができました。 その後83歳の今日まで書画がとてもよい楽しみのひとつになっています。 今定年を控えて居られます、諸兄に日ごろから、あらゆることに興味を持ち、自分の将来の楽しみやりたいことを定め、意識を持って観ているといざやり始めるときに大いに役立ちます。
2009.12.28
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「幸福も不幸も人の心にある」といいます。どんな心が幸福を招き、どんな心が不幸を呼んでしまうのか......。 たとえば、みなさんは道場当番のお役で教会の掃除をし、庭の草取りの奉仕をしてくださいますね。そのときに、「みんなが修行する道場をきれいにさせてもらうのだ」と感謝の心になっていると、むこうから幸福が転がり込んでくるのです。 ところが、「いろいろ忙しいのに、何で私がこんなことをしなくちゃならないのか」とか、「こんなに私がやってあげているのに」といった愚痴の心になると、すぐに幸福は逃げ出していって出していってしまいます。 せっかく同じ奉仕作業をしてくださっても、自分の心次第で幸福をつかむか手放してしまうか、それが分かれてしまうわけです。 こんなもったいないことはありません。 道場のお当番のお役は、人にほめられたいとか、こんなに私はやっているのだと得意になる、その心の雑草を取り除く修行なのです。せっかく道場にきても、そこで自分中心を押し通していたのでは、なんにもなりません。「まず人さま」という心になると真実が見えてきます。それが幸福を招き寄せるのです。
2009.12.28
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12/28 Mon仏さまのはからい 今年も無事に年の暮れを迎えさせてもらえましたが、景気の停滞や、天災、病気などで、素直に「無事、この一年を過ごせました」と言えない方もおられるかもしれません。けれども、その苦労の多かった一年を、どう受け取るかが大事だと思うのです。仏さまは私たちのすべてをわが子として、「必ず私が守ってあげます」とお約束くださっています。そのお言葉を、信じきるのです。この一年、みなさんがどのような苦しみに遭い、どうがんばってきたか、そこから立ち上がるみなさんの懸命な努力を、仏さまはいつも見守ってくださっています。仏さまは、わが子がそれだけの力を具えているのを、信じきっておられるのです。親が子どもを強く育てるために、その願いとは違うように見えるものを与えることがあるように、仏さまは、いま私たちにいちばん必要なものをお与えくださいます。安穏無事とは、なにごとも起こらないことではなく、どんなことが起ころうと、それを乗り越える力を具えていることです。非情の試練とみえることが、その力をつけてくださる仏さまのおはからいだったと分かるときが、必ずきます。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.28
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12/27 Sun本音で話す人瀬戸内寂聴さんとは以前に対談をさせてもらって、仏教を分かりやすく話される方だと感心したものですが、その話し上手の瀬戸内さんでも、講演などでみなさんがいちばん熱心に聞いてくださるのは、自分がどうして出家するようになったかという話だそうです。「整然と仏教の法門を説かなくては権威がなくなって法が立たない」などと考えすぎて理屈だけで法門を説いたり、人さまからの借り物の言葉で教えを説いても、聞く人の腹にしみわたりません。自分がどうしてご法に導かれるようになったのかを、ありのままに話させてもらうと、だれもが自分が抱えている悩みにあてはめて、ご法の大切さを分かってくださるのです。そうして赤裸々に自分を懺悔することができるようになるのには、ありのままに自分を見つめる正直さ、真摯さが必要で、その真摯さが人の胸をうつのです。「この人は嘘も駆け引きもない本音を話される人だ」と信じてしまうと、その人の前では自分をさらけだして話せるようになるのですね。みなさんが洗いざらい懺悔せずにいられなくなるような、そういう人にならないと人は救えないのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.27
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12/26 Sat悋気は損気ご主人の浮気がばれたら、奥さんは、それはただではおさまりません。「主人がこんなことをしているのに、腹を立てずにいられるものですか」と、狂乱状態になってしまう奥さんがおられるのですが、それでは、相手のペースに引き込まれて自ら六道輪廻の地獄にはまり込むことになってしまいます。そういう地獄にはまり込んで法座でご主人の不実を泣いて訴える奥さんに、「あなたはどれだけご主人を苦しめたら気が済むんですか」と教会長さんがピシリと言ってあげたひと言で、奥さんがハッと目を覚まされたという方がおられました。奥さんの、ご主人をぜったいに許せないという気持ちはよく分かるのですが、そうして責め立てていたのでは、ご主人は家へ帰りたくても帰れなくなってしまいます。ご主人は家庭を捨てるつもりはなく、当のご本人が、いちばん申し訳ないと思っているわけです。それに追い討ちをかけて責め立てるかわりに、「私のどこかに、主人をほかの人に走らせてしまう足りないところがあったのではないか」と自分を振り返る心になると、嘘のようにかたがついてしまうのです。そうした実例が佼成会の法座にはいくらでもあります。悋(りん)気は損気です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.26
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12/25 Fri腹をすえる 「この不況で、お先真っ暗だ」といった弱気が、いちばんの大敵です。指導者とは、指さし導く人と書くように、困難に直面した時こそ「ここを乗り越えるのだ」「必ず乗り越えられるんだ」と、まず自分を奮い立たせることが大切です。リーダーは常に先行きを考えていなければならないのですから、人一倍心配や不安があって当然なのです。しかし、たとえば野球でも、監督が「このゲームはだめかもしれない」と思ったら、勝てる試合も勝てなくなってしまいます。監督が必ず勝てる、という信念を持っていてこそ、選手がピンチに力を振り絞るのです。安楽というのは平穏無事の楽しみではなくて、困難にも喜びを持って対せることなのですね。佼成会も今日にいたるまでには、さまざまな困難がありました。しかし、何がこようと逃げるわけにはいきません。「すべては私の責任だ。ようし、どこからでもこい」と腹をすえてしまうと、「次は何がくるか」と、両手を広げて待ち構える余裕ができてくるのです。リーダーの役目は、人びとに希望を与えることです。希望を持てば、人はへこたれるものではないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.24
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12/24 Thu子を持って知る「信なしに法華経を行じようとするのは、手を使わずに宝の山に入るようなものだ」と日蓮聖人は仰せられました。せっかく功徳の宝庫であるご法の縁に触れながら救われずにいるのは、本物の信をつかんでいないからなのですね。どうしたら、その信をつかめるかです。「子を持って知る親の恩」という言葉があります。ご法の修行も、本当に法に入ったといえるのは、導きの子ができたときです。人をご法にお導きしようというのは、一筋縄でいくものではありません。いろんな方便を考えて、何度も繰り返し繰り返し話してあげなければなりません。「なんとしても分かってもらいたい」と、心から念じなくてはなりません。それこそ親がわが子のことを心配するように、あれこれ気を配っているうちに仏さまのお慈悲が身にしみて分かってくるのです。そうして一人の人を本当にお導きできたとき、自分もちゃんと法にかなった行ないができるようになっているのです。私が「一人が一人を導いて、みなさんにご法の親になっていただきたい」とお願いしているのも、この宝を自分のものにしてもらわなくては私の役が果たせないと思えばこそなのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.24
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12/23 Wed人を引き寄せる魅力 華やかに着飾っても、ただケバケバしいとしか見えない人と、質素な身なりでも、いかにも奥ゆかしく見える人とがいるものです。お釈迦さまが最後に残された経典に「慚恥(ざんち)の服は諸の荘厳に於て最も第一たり」というお言葉があります。慚恥とは懺悔(さんげ)の心といってもいいでしょう。いつも自分を省みる謙虚な心を持っている人こそ、どんな高価な衣服をまとうよりも、最高に美しく見えると教えられているのです。「桃李もの言わざれども下自から蹊(こみち)を成す」という言葉は、みなさんも、よくご存じでしょう。桃やスモモは自分を見せびらかそうとはしないけれども、美しい花、おいしい実をつけるので、おのずと人が集まってきて、そこに道ができてしまうのです。お互いさま、自然に人が吸い寄せられてくるような魅力を具えたいものです。そういう人の集まりになったら、どんなにかすばらしいサンガになることでしょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.22
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12/22 Tue習慣の力信仰者らしい人になる第一歩は、まず、朝起きたらご宝前のお給仕をして、お経をあげてお勤めをすることから始まります。それが、ごくあたりまえのことになって、毎朝、ちゃんとお勤めをしてから会社に出かける、家の仕事を始めるというように、信仰者としての生活の形をつくってしまうことが大切です。その形が整ってくると、自然にいつも気持ちが穏やかで、がんこを通して人に逆らったりするようなことがなくなり、だれとでも和やかに話ができるようになってくるのですね。形に心がついてくるわけです。よい習慣にせよ悪い習慣にせよ、いったんそれが身についてしまうと、無意識のうちに、それが自分の考え方や行動を決めてしまうようになってきます。自分の意思だけでは簡単に変えられない力になるのです。その習慣が、繰り返しによって形づくられていくわけです。信仰者の毎日の行は、そのよい習慣づけのためです。そこが分かると、教えどおりに具体的な行動を毎日積み重ねていくことがいかに大切か、分かってくるのですね。
2009.12.21
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12/21 Mon一期一会(いちごいちえ)この世のことは、あっというまに移り変わっていくものだと頭では分かっていても、それが身にしみて分かるのは、ある年齢になってからなのかもしれません。それまではつい、またいつでも習える、いつでも見られる、いつでも会えると、一日一日の大切さ、一つ一つの出会いのかけがえのなさに気づかずに過ごしてしまうことが多いのではないでしょうか。ある人が道元禅師に、「学道を心がけて何年にもなりますが、一向に悟るところがありません。なぜなのでしょうか」と尋ねたのに対して、道元禅師は、こう答えられています。「それは、本気か本気でないかの問題だ。本気になれないのは、この世の無常をわが身に実感していないからだ」と。家族の一人ひとり、毎日起こる出来事の一つ一つ、教会道場でのさまざまな人との出会いを、もういちど見直してみたいものです。同じ毎日、同じ人たちが、まるで違った感動をもって見られるようになってくると思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.21
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12/20 Sunおまかせする大安心信仰とは、神仏がいつも自分を見守っていてくださるのを信じきってしまうことです。仏さまがいつも見守っておられたら、どんな小さな嘘も、ごまかしもききません。ちょっと考えると窮屈のようですが、それが信仰のいちばんの功徳なのです。真っ正直に生きていれば、「あの人は、これっぽっちもごまかしのない人だ」と、だれからも信用され、大事な仕事をまかせられるようになります。そして、さらにありがたいのは、毎日起こってくるすべてのことを「仏さまのお手配」と素直に受け取れるようになることです。自分の浅はかな考えであれこれ才覚するよりも、すべてをお見通しの仏さまにおまかせして、自分の最善を尽くすほうが、どれほど安心か分かりません。まかせきれること、それが大安心です。私たちのほうから「ああしてもらいたい、こうしていただきたい」とお願いするだけでは、仏さまに請求書をつきつけているようなもので、本当の信仰とはいえないのですね。仏さまは、いまの自分にいちばん必要なものをお手配くださるのだと、ありがたく頂戴するのが信仰です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.20
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12/19 Sat頼りにされる喜び 生活に必要なものは、なんでも近くのスーパーですぐに手に入る便利な世になって、独り暮らしのほうがよほど気楽だという若い人が増えているそうです。しかし、そういう生活で、人間にとっていちばん大事なものを失っていることに気づかずにいるのではないでしょうか。その大事なものとは、生き甲斐です。身近に自分に期待してくれる人がいて、その期待に応えている実感がないと、人は生き甲斐が得られないようにできているからです。結婚して夫婦二人の生活になれば、独り暮らしの気楽さはなくなりますが、互いに相手のために役立っているという確かな手ごたえが得られます。それが喜びになるのです。お母さんは、わが子が頼りにしてくれるからこそ、身を惜しまずに働くのが喜びになるのですし、お父さんは家族のためにという充実感で、毎日、会社でがんばれるわけです。ときには、めいめい考え方が違って意見が分かれたり腹が立ったりすることがあっても、相手がいればこそ、励まされ、力がわいてきて、互いに成長していけるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.18
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12/18 Fri慈眼を具える お釈迦さまがご在世当時のインドに、コーサラ国という大国がありました。その国の王さまが、あるとき「私がつらつら考えてみるのに、どう考えても自分より愛しいものはない。そなたはどうか」とお妃に尋ねたのですが、お妃も、考えてみるとやはり自分がいちばん愛しい。それで、お釈迦さまにおうかがいしてみることにしたのです。その王と王妃に対して、お釈迦さまは、「自分がいちばん愛しいと知ったら、人もまた自分がいちばん愛しいと分かるはず。だから、人を害してはならない」と教えられたのでした。私たちはふだん、自分の立場からしかものごとを見られないのですが、そこで一度踏みとどまって、相手の立場に立ってみる。相手の立場に立って考えてみる。すると、同じことが、まるで違って見えてきます。目からウロコが落ちたように、相手の心、ものごとの本当の姿が見えてくるのですね。人さまの立場に身を置き換えて見直すことができるようになることが、「慈眼」を具えることだといってもいいと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.17
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自分を愛し、敬いなさい二宮尊徳先生の詩にこんな詩がございます。『ちちははも その父母も 我身なり 我を愛せよ われを敬せよ』。私たちは、直接は父母から生んで頂きました。そして、私たちのいのちは、祖父母、ご先祖さまにつながっております。ご先祖さまから頂いたわが身であるということを通して、自分というものをしっかりと愛しなさい、敬いなさいとおっしゃられているのです。私たちがこの世に誕生するということは、決して簡単なことではないといえます。二宮尊徳先生が教えてくださるように、私たちの体は、わが身であってわが身ではない、ご先祖さまのいのちがずっと伝わっているわけです。また、そうしたことを教えてくださるのが仏さまの教えであります。私たちのいのちは、宇宙全体の一切合切のお陰さまで今ここに存在するのであり、これは本当に有り難いことなのです。『佼成新聞』より
2009.12.17
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12/17 Thu生かされている恩返し仏教の教えの基本が、すべての存在は他との関係(縁)なしにはありえない、という縁起観であることは、みなさんもよくご存じのとおりです。その教えをどう実践に移していくかです。まず、自分が今日一日を無事に過ごせるのはだれのお陰であるのか、どれだけの人の助けをいただいているか、その縁起を知ることが報恩行の出発点です。私たちは仕事が順調に進んでいるときには、すべて自分の力、自分の努力の結果だと思い込んで得意になっているのですが、それが、どれだけ多くの人の後押しによってなっているか、毎日、振り返ってみる習慣をつけてしまうことが大切です。朝夕の経典読誦のご供養は、その行の一つなのですね。いつも、まわりの人たちへの感謝を忘れずに、その感謝の気持ちを素直に表わしていく生き方と、自分を過信して得意になったり、努力が報われないと恨んだりする生き方とでは、天地の開きが出てしまいます。先祖供養も、親孝行も、菩薩行も、すべて今日の自分をあらしめているものへの恩返しの行なのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.16
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12/16 Wed能力の違いとは 私が地方の教会道場をお訪ねすると、若いお嬢さん方がお茶を運んできてくださるのですが、緊張して手が震え、ついお茶をこぼしてしまう人が、ときどきおられます。そのときに、「ありがとう」と、ひと声かけてあげると、スッと緊張がほぐれて、本当にうれしそうな笑顔を見せてくださるのです。そのときの私のたったひと言を忘れずにいてくれて、何年も経ってから、涙を流してお礼を言ってくださる方がおられます。仕事で大きな失敗をした人の場合も、同じだと思うのです。大目玉を覚悟している人へのひと言の励ましが、人を生まれ変わらせることがあるのですね。人の能力の違いは、自分から本気でやる気になるかならないかの違いだといいます。自分からやる気になってくれさえすれば、もう、まわりがなにも言う必要はありません。その本当にやる気を起こさせるのは、頭で分かったというだけではなく、その人の感情が納得し、心が納得したときなのですから。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.15
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12/15 Tue情こそ第一徳を具えた人というと、完全無欠の人格者でなくてはならないように考えます。しかし、必ずしもどこからつついてもボロの出ないといった人でなくてもいいと思うのです。むしろ、あまりどこもかしこもきちんと整いすぎた人は、人間的魅力に欠けるように思えます。いつも自分を守る姿勢で、ちょっとのミスもおかすまいととらわれすぎると、冷たい人間に見えてしまうのです。自分の腹の中を正直に打ち明ければ、ときには間違うことがあっても、人はついてくるものなのですね。私など、いつもまったくのあけっぴろげなものですから、「ちょっと内緒にしておいてもらわなければならないことも、開祖はなんでも話してしまうので困る」と、ときどきお小言を頂戴してしまいます。人間的魅力というのは、ただ頭がいいというだけ、敏腕だというだけでは具わらないのではないでしょうか。知・情・意といいますが、とりわけリーダーには情が大事だと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.14
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12/14 Mon頼りになる一灯 江戸時代の有名な儒者だった佐藤一斎に、「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一灯をたのめ」という言葉があります。時代の流れが大きく変わるときは、真っ暗闇の夜と同じで、何か手がかりが欲しくなります。それで、あれこれ新しい情報を求めるのですが、結局、それに振り回されるだけに終わることが多いのです。目先の動きに目を奪われて、長期的な見方ができなくなってしまうからです。変動がはげしいときほど、頼める一灯を持たなくてはならないのです。日蓮聖人は、「木の根が深ければ枝葉は枯れず、水源に水があれば流れはかれない。薪がなくなれば火は絶え、大地がなくては草木は生長することができない」と教えておられます。どっしりした基礎を持たなくては、いくら最新情報を集めてみても、何をどう変えればいいのかさえ分からなくなってしまいます。行く先ばかりを見定めようとあせらず、まず足元を定めなくてはなりません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.13
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12/13 Sun自己流でむだ骨に せっかく教えの縁に触れながら、救われないでいる人がいることほど悲しいことはない、といつも私は申し上げるのですが、せっかくお役をやってくださっているのに、なかなかスカッといかない人がいます。その人をよく見ていると、いつまでも自分の考えだけにこだわっているのです。相撲の大鵬親方は、現役時代に三十二回も優勝を飾った名横綱ですが、その強さの秘密は、素直さだったといいます。「今日の相手はこの手が得意だから、こう組んでいけ」と教えられると、「はい」と答えて、必ずその手で組んだそうです。これが簡単そうで、なかなかできないのですね。いざ本場所の土俵に上がると、勝ち星欲しさで自分の得意の手で組みたくなってしまう。それで結局、相手に組ませてもらえずに負けてしまう。その失敗を繰り返すわけです。信仰も同じで、仏道をあゆもうと決めたら、お師匠さんのお言葉どおり実行することに徹していけば、すぐにでも功徳がいただけるのに、大事なときになると自己流を振り回して、せっかくの精進をむだ骨に終わらせてしまうのです。こんなもったいないことはありません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.12
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12/12 Sat頼み方次第 どんなに万能な人であっても、一人の力には限りがあります。十人の力、百人の力を借りなくては大きい仕事はできません。それは百も承知でも、人にまかせ、人に頼むのが苦手という人が多いものです。嫌な顔をされたり、気兼ねしてやってもらうより、自分でやってしまうほうが気が楽だ、と一人で仕事を背負いこんでフウフウ言っている人がいますが、それを見てまわりが同情してくれるかというと、「あの人は、なんでも自分でやらないと気が済まない人だから」といった見方しかしてくれません。人の力を借りるのは、相手の人に「私は信頼されているんだ。人の役に立てるんだ」という喜びを与えてあげることにもなるのですね。大事なのは、頼み方です。頼み方ひとつで、人を発奮させる材料にもなれば、押しつけられた、とやる気をなくさせることにもなってしまいます。松下幸之助さんは「私は学校を出ていないから、人がみんな頼もしくみえる。わしはやれんが君ならできるはずだと相談すると、みんな一生懸命になってくれるんですよ」と話されています。信頼して人にまかせるのも礼拝行なのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.11
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12/11 Fri五分五分の心の争い 教会のご命日の説法会にうかがわせてもらうと、信者さんのすばらしい体験を聞かせてもらえます。ご主人がサラ金に手を出して「もう、ぜったいにやらない」と何度も約束しながら、またしても借金していたことが分かり、愛想が尽き果ててしまった奥さんが離婚を決意された。その奥さんと一緒に教会を訪ねたご主人が、教会長さんの法座の結びで、借金癖がピタリと直ってしまったという説法を聞かせてもらいました。はたから見ると反省のハの字もない人にみえても、「もう、こういうことはやめなくてはならん」という反省の心が働いているのです。しかし、それと一緒に自分の弱さに引きずられる心も首をもたげて、五分と五分で争っているわけです。そこのところで、「これではいけない」という心のほうがちょっと優勢になっただけで、奇跡のような心の大転換が起こるのです。ご主人のそうした心の転機のきっかけについて、奥さんは、「それまで私は、なんとかして主人を変えよう変えようとしてきましたが、教会長さんは主人を拝んでくださったんです。それで主人の目が覚めたのです」と説法してくださったのでした。すばらしい悟りではないですか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.11
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12/10 Thu難信難解法華経は難信難解(なんしんなんげ)の法といわれます。何が難しいのかというと、説かれている教えをそのまま信じきってしまうことが難しいのです。それを裏返せば、信じることができさえすれば「なるほど」と、だれにもすぐに分かるのが法華経の教えだということになりましょう。法華経の教義を、初めから終わりまで理屈だけで理解しようとして万巻の書を読み、知識を詰め込んでも、教えの神髄はなかなかつかめないのですが、経典に示されたとおりに一つでもいいから実行してみると、ちゃんと結果が現われてきます。なによりもまず実行です。その実行へ踏みださせてくれるのが、お師匠さんの導き、サンガの見守りなのです。「師匠のない仏教はない」といいます。自分ではかなり修行したつもりでいても、独りよがりになっていることがよくあるのですね。深く学んだつもりが、逆に知識を鼻にかけて我見を増長させることになっている場合もしばしばあります。自分一人では、そこになかなか気づけません。お師匠さんにいちいち指摘してもらって初めて自分の思い込みを離れて見られるようになり、利害打算を離れた無我の修行ができていくのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.09
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12/9 Wed相手の美点を見る眼だれしも、自分がほめられることほどうれしいことはないのに、人をほめるのは、あまり好きではないようなのですね。「どうしたら開祖のように人の欠点を見ず、よいところだけを見られるようになるのですか」と、よく尋ねられるのですが、人の欠点ばかりが見えてしまうというのは、相手と張り合う気持ちが強すぎるからではないかと思うのです。弱みを見せまい、負けてなるものかと、自分を守ることで精いっぱいなのではないでしょうか。私は、そういう無理ながんばり方をしないのです。自分よりすぐれた人には、すぐにシャッポを脱いで教えを請う。みんなが仏さまの子ども同士なのですから、張り合ってみてもなんの意味もないのですね。そういう考え方で、自分をがんじがらめにしている自己防衛の心から解き放たれると、おのずと心のゆとりが生まれ、相手の美点が見えるようになってくるのです。それが慈悲の眼です。たとえばお姑さんとお嫁さんが、この心のゆとりを持つことができたら、毎日がガラリと変わってしまいます。人を心からほめられるようになる秘訣は、そこにあると思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.08
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12/8 Tue目覚めたる者仏教とは、いうまでもなく仏さまの教えですが、それともう一つ、仏になるための教えともいえると思うのです。仏さまの教えによって仏になる、それが仏教です。仏になるとは覚者(かくしゃ)になることであり、覚者とは、つまり「法に目覚めた者」ということです。信仰を一生懸命やっていると、想像もしていなかったような好結果をいただくことがあります。そうしたときに「ああ、信仰はありがたい」と歓喜しますが、それはまだ本当の喜びとはいえません。自分の願いがかなった喜びの、いわゆるご利益(りやく)信仰ですから、よい結果が出なくなると、「なんだ。信仰しても、なんの功徳もないじゃないか」と、不満を抱く人間に逆戻りしかねないのです。ご利益が頂けた頂けなかったと、その結果に一喜一憂(いっきいちゆう)するのではなく、この世のあらゆるものごとが縁起(えんぎ)によって生滅(しょうめつ)していることを知り、自分の毎日に起こるすべてのことが、その大法則にのっとっていることを理解する。その真理に目覚めた者になってこそ、不退転(ふたいてん)の常精進(じょうしょうじん)ができるようになるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.07
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12/7 Mon自灯明・法灯明冷戦構造がくずれて、「こんどこそ世界に平和が実現する」と期待した矢先、世界のあちこちで紛争が噴きだしてきました。大国も政治不信に大きく揺らいでいます。これまで冷戦構造によって、世界ががっちりと締めつけられてきたそのタガがはずれたことで、自分たちの民族、自分たちの国の権威を一挙に回復しようとする意識の高まりともみられますが、うっかりすると、混乱と無秩序が世界を覆いかねません。お釈迦さまは、「自分をよりどころとし、他人をよりどころとしてはならぬ。法をよりどころとし、他をよりどころとしてはならぬ」という「自灯明・法灯明」の教えを説かれました。本当の自分をよりどころとするということは、自分一人だけポツンと存在しているのではなく、周囲の社会とのつながりによって生かされている存在である自分に気づくことです。その全体の中で、自分はどういう役割を担っているのか、それを自覚することこそ自己の尊厳を知ることでありましょう。個人も、国も、そこのところをかみしめなくては、新しい世界は開けないと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.07
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12/6 Sun樹上の鳥カ禅師「悪をなさず、善行を積んで、心を浄める。それが仏教の要諦だ」と鳥カ[カはあなかんむりに「果」]禅師に教えられた白楽天という人は、中国・唐代の大詩人で、中央政府の役人でした。地方に左遷され、それを解かれて杭州の長官に赴任したときに、木の上で坐禅を組む高僧のことを聞いて訪ねていったのでした。白楽天が、樹上の鳥カ禅師に「そんな高い所で危なくはないですか」と問いかけると、鳥カ禅師はすかさず「お前さんのほうこそ危ないだろう」と答えます。その答えは、政治の世界はいつ足をすくわれるか分からない。本当の安心は、どこにいようが教えを求め続けるところにあるのだ、という意味に解釈できるのではないでしょうか。地位も財産も、人の本当のよりどころとなるものではありません。頼みにできるのは、自分の心、自分の信心です。その「信」さえしっかり持つことができれば、どんな人に対しても、どんな事態に直面しても、心にゆとりを持って、そこに意味を見いだし、それを成長の糧としていくことができます。この心こそが功徳の源泉です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.06
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12/5 Sat監督の“独り野球”プロ野球の監督をしてこられた人が、「新任の監督というものは、どうしても早く動きすぎてしまう。私もそれでいくつも試合を落とした苦い経験がある」と、テレビで話されていました。新監督として早く結果を出したい、一つでもよけい勝ち星が欲しいと考えるのは無理もありません。それで自分の野球をしようとして選手を起用し、交代させるのですが、選手は監督の考えていることが、すぐには理解できない。それで監督の頭の中だけの“独り野球”になってしまうわけです。監督のほうは「なんと下手くそな選手だ」と選手を責める。選手は「野球を知らない新米監督」と心の中であざける。お互いに違った土俵で不信感をつのらせてしまうのです。監督が考えていることを選手が腹の底から納得してプレーができるようになるには、それだけの熟成期間が必要です。早く油をとろうとして一気に搾って油を汚してしまう「油を圧(お)す殃(つみ)」の戒めは前にもお話ししましたが、功をあせって「油を圧す殃」をおかし、あたら人材をつぶしてしまったのでは元も子もありません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.05
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12/4 Friほめて認めるコーチ 日本プロサッカーリーグの最高責任者である川淵三郎さんは、かつての東京五輪で日本代表選手として活躍した人です。川淵さんの話をうかがうと、自分の選手時代を含めて、これまでの日本のコーチ法は「何度言ったら分かるんだ」と、いわば否定的指導で選手をしごき上げる方法だったといいます。しかし、スポーツも勉強も、繰り返し繰り返し練習を続けていかなくては上達は望めません。「それには、積極的支援のコーチのほうが大事だ」というのです。それを川淵さんはクラマーという監督に教わったそうです。クラマー監督のコーチ法は「いまのシュートはすばらしいぞ」とほめて、「でも、こうすると、もっと楽にシュートが打てるんじゃないか。一緒に練習しよう」という教え方だったそうです。子どもにいきなり、「将来のためにがんばるんだ」と言っても効き目はありません。子どもは将来のことまで順序だてて考えることができないのです。それよりも、自分を認めてくれる人が目の前にいることのほうが大事で、そういう人がいると、ほめられたい一心でがんばる。そうして一つずつ力がついてくると、おもしろくなって本気になっていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.04
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雨は雨ではないという見方「雨は雨ではない。あれは地球の中心に向かって移動する水滴の群れだと考えてみる。そうすれば好きとか嫌いとか、良いとか悪いとかという人間の価値観念から解放されて自由になる。だいいち気が楽になる」と、こんなことをおっしゃる方がいます。私たちはどうしても感情的にものごとを見てしまいがちですが、雨をそのように考えれば、自然現象ですから別に良くも悪くもありません。そのように、ちょっと考え方を変えるだけで、私たちの気持ちがずいぶんと楽になることがあると思うのです。たとえば、好きか嫌いかという見方をすれば、人間同士では、相手をなかなか好きになれないこともあります。人と人とが仲良く平和になることが人間にとって一番幸せなことだといわれます。見方を変えることを通して、お互いに心を解放していけば、日常生活のいろいろなことを苦にせずに、また人とも仲良くしていけるのです『佼成新聞』より
2009.12.02
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12/3 Thu「なるほど」の教え ドイツの著名なジャーナリストとして活躍されたロルフ・イタリアンダーさんが先ごろ亡くなられましたが、イタリアンダーさんは、来日して全国の佼成会の教会を回って実際に会員さんの話を聞き、「佼成会の仏教は、だれもが『なるほど、なるほど』と納得して救われる教えだ」と言っておられました。そもそもお釈迦さまの教えは、人間の本質を見通して、人が幸せになるにはこう生きるしかない、という道を示されたものです。人間の本質をつかんだ人の話は、だれもが「なるほど、そのとおりだ」と納得せずにいられないのです。「人はこうあるべきだ」といった説き方だと、「しかし......」とかわされることもあるのですが、この世の成り立ち、人間の本質をズバリととらえて、これ以外に人の生き方はない、と心の底から納得してもらえば、もう、だれも逃げようがありません。それで、教えのとおりに実行してみると、「なるほど、本当に幸せになるにはこれしかなかったのだ」と、もう一つ納得がいくわけです。人を行動に踏みださせるのには、心からの「なるほど」が必要なのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.02
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12/2 Wedもう一つの力新横綱の曙関は、横綱に昇進した初土俵で黒星を喫してしまった夜、何度も負ける夢を見て、汗びっしょりになって目が覚めたといいます。同じように、現・北勝海親方も新横綱の土俵で負けて、「このまま連敗したら引退しなければならん」という思いが胸をよぎったというのです。しかし、そのとき先輩横綱の千代の富士関(現・九重親方)に、「力があるから横綱になったんだ。強気でいけ」と言われて、ようやく平常心を取り戻すことができたといわれています。自分の才能への自信、積み重ねてきた努力によって得た自信が、一つのつまずきでガラガラとくずれてしまうことがあるのですね。それに、もう一つのものが加わらないと、本当の自信にならないわけです。山田恵諦猊下は「自分の努力、まわりの援助、それに神仏のご加護が加わらなくては事は成らぬ」とおっしゃっておられます。背後で自分を見守り、押しだしてくれる力を感じたとき、自分が蓄えてきた力を百パーセント出しきることができて、信じられないようなことが可能になるのです。自分のすべてをまかせられる帰依の対象を持つことによって、考えられないような不思議が起こるのは、そこなのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.12.01
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