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7/1 Wed本音で話す人瀬戸内寂聴さんとは以前に対談をさせてもらって、仏教を分かりやすく話される方だと感心したものですが、その話し上手の瀬戸内さんでも、講演などでみなさんがいちばん熱心に聞いてくださるのは、自分がどうして出家するようになったかという話だそうです。「整然と仏教の法門を説かなくては権威がなくなって法が立たない」などと考えすぎて理屈だけで法門を説いたり、人さまからの借り物の言葉で教えを説いても、聞く人の腹にしみわたりません。自分がどうしてご法に導かれるようになったのかを、ありのままに話させてもらうと、だれもが自分が抱えている悩みにあてはめて、ご法の大切さを分かってくださるのです。そうして赤裸々に自分を懺悔することができるようになるのには、ありのままに自分を見つめる正直さ、真摯さが必要で、その真摯さが人の胸をうつのです。「この人は嘘も駆け引きもない本音を話される人だ」と信じてしまうと、その人の前では自分をさらけだして話せるようになるのですね。みなさんが洗いざらい懺悔せずにいられなくなるような、そういう人にならないと人は救えないのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.30
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6/30 Tue悋気は損気ご主人の浮気がばれたら、奥さんは、それはただではおさまりません。「主人がこんなことをしているのに、腹を立てずにいられるものですか」と、狂乱状態になってしまう奥さんがおられるのですが、それでは、相手のペースに引き込まれて自ら六道輪廻の地獄にはまり込むことになってしまいます。そういう地獄にはまり込んで法座でご主人の不実を泣いて訴える奥さんに、「あなたはどれだけご主人を苦しめたら気が済むんですか」と教会長さんがピシリと言ってあげたひと言で、奥さんがハッと目を覚まされたという方がおられました。奥さんの、ご主人をぜったいに許せないという気持ちはよく分かるのですが、そうして責め立てていたのでは、ご主人は家へ帰りたくても帰れなくなってしまいます。ご主人は家庭を捨てるつもりはなく、当のご本人が、いちばん申し訳ないと思っているわけです。それに追い討ちをかけて責め立てるかわりに、「私のどこかに、主人をほかの人に走らせてしまう足りないところがあったのではないか」と自分を振り返る心になると、嘘のようにかたがついてしまうのです。そうした実例が佼成会の法座にはいくらでもあります。悋(りん)気は損気です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.29
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6/29 Mon腹をすえる「この不況で、お先真っ暗だ」といった弱気が、いちばんの大敵です。指導者とは、指さし導く人と書くように、困難に直面した時こそ「ここを乗り越えるのだ」「必ず乗り越えられるんだ」と、まず自分を奮い立たせることが大切です。リーダーは常に先行きを考えていなければならないのですから、人一倍心配や不安があって当然なのです。しかし、たとえば野球でも、監督が「このゲームはだめかもしれない」と思ったら、勝てる試合も勝てなくなってしまいます。監督が必ず勝てる、という信念を持っていてこそ、選手がピンチに力を振り絞るのです。安楽というのは平穏無事の楽しみではなくて、困難にも喜びを持って対せることなのですね。佼成会も今日にいたるまでには、さまざまな困難がありました。しかし、何がこようと逃げるわけにはいきません。「すべては私の責任だ。ようし、どこからでもこい」と腹をすえてしまうと、「次は何がくるか」と、両手を広げて待ち構える余裕ができてくるのです。リーダーの役目は、人びとに希望を与えることです。希望を持てば、人はへこたれるものではないのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.28
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6/28 Sun子を持って知る「信なしに法華経を行じようとするのは、手を使わずに宝の山に入るようなものだ」と日蓮聖人は仰せられました。せっかく功徳の宝庫であるご法の縁に触れながら救われずにいるのは、本物の信をつかんでいないからなのですね。どうしたら、その信をつかめるかです。「子を持って知る親の恩」という言葉があります。ご法の修行も、本当に法に入ったといえるのは、導きの子ができたときです。人をご法にお導きしようというのは、一筋縄でいくものではありません。いろんな方便を考えて、何度も繰り返し繰り返し話してあげなければなりません。「なんとしても分かってもらいたい」と、心から念じなくてはなりません。それこそ親がわが子のことを心配するように、あれこれ気を配っているうちに仏さまのお慈悲が身にしみて分かってくるのです。そうして一人の人を本当にお導きできたとき、自分もちゃんと法にかなった行ないができるようになっているのです。私が「一人が一人を導いて、みなさんにご法の親になっていただきたい」とお願いしているのも、この宝を自分のものにしてもらわなくては私の役が果たせないと思えばこそなのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.28
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ご法の習学が幸せへの道人間としていのちを頂いて何が一番幸福であるかを考えてみたいと思います。普通に考えますと、衣食住に不自由がなければ幸せであると、誰もが思うわけであります。しかし、私たちはそれで幸せかというと、決してそうではありません。人間の無上の幸福とは、やはりご法、真理に巡り遇うことだと思います。そのことが法華経にも説かれております。仏さまがこの世に現れた最大の目的は、仏知見(ぶっちけん)を開くことだと方便品に説かれており、そこには、真理・法に出遇うことが、人間としての無上の幸福だと教えられているのです。人間として生まれてきて私たちが願うことは、心が安定し、楽しく明るく人生を過ごせるということです。真理に出遇うことによって、そうした平安な日々を過ごすことができるわけですから、私たちがこうして教えに巡り遇えたということは、よく考えてみますと、無上の幸福をすでに頂いているということです。生きとし生けるものが幸せでありますように、救われますようにという願いを持たれたのが仏さまです。ご法に出遇うことができた私たちが悩み苦しむときは、せっかく頂いたご法というものを忘れて、自我丸出し、利己心丸出しのときであります。自分のことを第一に考えて、人のことを考えないときに、人と人の間が和にならず、対立してしまう。そこにどうしても苦悩が現れてくるわけであります。私たちはせっかく頂いたご法を忘れることなく、日々繰り返して、その有り難さを味わっていくことが大事です。方便品には、仏さまの精神、法華経の教えを本当に分かるためには、習学しなければ、私たちは全部を受け取ることができないという個所がございます。習学の意味するところは、ご法を日常生活に当てはめ、繰り返し学んでいくということです。朝夕のご供養を繰り返すように、私たちは自らの心を常にご法と照らし合わせ、繰り返し学んでいく。そのことによって、ご法を中心としてものごとを考える人間になることができれば、苦悩がありながらも、苦悩ではなくなります。ご法を自分に当てはめて、人さまを思いやることが日常生活の中で行われていく。それが仏さまの教えを会得する近道であります。それがまた幸せにつながるのです。『佼成新聞』より
2009.06.26
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6/27 Sat人を引き寄せる魅力華やかに着飾っても、ただケバケバしいとしか見えない人と、質素な身なりでも、いかにも奥ゆかしく見える人とがいるものです。お釈迦さまが最後に残された経典に「慚恥(ざんち)の服は諸の荘厳に於て最も第一たり」というお言葉があります。慚恥とは懺悔(さんげ)の心といってもいいでしょう。いつも自分を省みる謙虚な心を持っている人こそ、どんな高価な衣服をまとうよりも、最高に美しく見えると教えられているのです。「桃李もの言わざれども下自から蹊(こみち)を成す」という言葉は、みなさんも、よくご存じでしょう。桃やスモモは自分を見せびらかそうとはしないけれども、美しい花、おいしい実をつけるので、おのずと人が集まってきて、そこに道ができてしまうのです。お互いさま、自然に人が吸い寄せられてくるような魅力を具えたいものです。そういう人の集まりになったら、どんなにかすばらしいサンガになることでしょう。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.26
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6/26 Fri習慣の力信仰者らしい人になる第一歩は、まず、朝起きたらご宝前のお給仕をして、お経をあげてお勤めをすることから始まります。それが、ごくあたりまえのことになって、毎朝、ちゃんとお勤めをしてから会社に出かける、家の仕事を始めるというように、信仰者としての生活の形をつくってしまうことが大切です。その形が整ってくると、自然にいつも気持ちが穏やかで、がんこを通して人に逆らったりするようなことがなくなり、だれとでも和やかに話ができるようになってくるのですね。形に心がついてくるわけです。よい習慣にせよ悪い習慣にせよ、いったんそれが身についてしまうと、無意識のうちに、それが自分の考え方や行動を決めてしまうようになってきます。自分の意思だけでは簡単に変えられない力になるのです。その習慣が、繰り返しによって形づくられていくわけです。信仰者の毎日の行は、そのよい習慣づけのためです。そこが分かると、教えどおりに具体的な行動を毎日積み重ねていくことがいかに大切か、分かってくるのですね。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.26
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6/25 Thu一期一会(いちごいちえ)この世のことは、あっというまに移り変わっていくものだと頭では分かっていても、それが身にしみて分かるのは、ある年齢になってからなのかもしれません。それまではつい、またいつでも習える、いつでも見られる、いつでも会えると、一日一日の大切さ、一つ一つの出会いのかけがえのなさに気づかずに過ごしてしまうことが多いのではないでしょうか。ある人が道元禅師に、「学道を心がけて何年にもなりますが、一向に悟るところがありません。なぜなのでしょうか」と尋ねたのに対して、道元禅師は、こう答えられています。「それは、本気か本気でないかの問題だ。本気になれないのは、この世の無常をわが身に実感していないからだ」と。家族の一人ひとり、毎日起こる出来事の一つ一つ、教会道場でのさまざまな人との出会いを、もういちど見直してみたいものです。同じ毎日、同じ人たちが、まるで違った感動をもって見られるようになってくると思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.24
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6/24 Wedおまかせする大安心信仰とは、神仏がいつも自分を見守っていてくださるのを信じきってしまうことです。仏さまがいつも見守っておられたら、どんな小さな嘘も、ごまかしもききません。ちょっと考えると窮屈のようですが、それが信仰のいちばんの功徳なのです。真っ正直に生きていれば、「あの人は、これっぽっちもごまかしのない人だ」と、だれからも信用され、大事な仕事をまかせられるようになります。そして、さらにありがたいのは、毎日起こってくるすべてのことを「仏さまのお手配」と素直に受け取れるようになることです。自分の浅はかな考えであれこれ才覚するよりも、すべてをお見通しの仏さまにおまかせして、自分の最善を尽くすほうが、どれほど安心か分かりません。まかせきれること、それが大安心です。私たちのほうから「ああしてもらいたい、こうしていただきたい」とお願いするだけでは、仏さまに請求書をつきつけているようなもので、本当の信仰とはいえないのですね。仏さまは、いまの自分にいちばん必要なものをお手配くださるのだと、ありがたく頂戴するのが信仰です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.23
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6/23 Tue頼りにされる喜び生活に必要なものは、なんでも近くのスーパーですぐに手に入る便利な世になって、独り暮らしのほうがよほど気楽だという若い人が増えているそうです。しかし、そういう生活で、人間にとっていちばん大事なものを失っていることに気づかずにいるのではないでしょうか。その大事なものとは、生き甲斐です。身近に自分に期待してくれる人がいて、その期待に応えている実感がないと、人は生き甲斐が得られないようにできているからです。結婚して夫婦二人の生活になれば、独り暮らしの気楽さはなくなりますが、互いに相手のために役立っているという確かな手ごたえが得られます。それが喜びになるのです。お母さんは、わが子が頼りにしてくれるからこそ、身を惜しまずに働くのが喜びになるのですし、お父さんは家族のためにという充実感で、毎日、会社でがんばれるわけです。ときには、めいめい考え方が違って意見が分かれたり腹が立ったりすることがあっても、相手がいればこそ、励まされ、力がわいてきて、互いに成長していけるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.22
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6/22 Mon慈眼を具えるお釈迦さまがご在世当時のインドに、コーサラ国という大国がありました。その国の王さまが、あるとき「私がつらつら考えてみるのに、どう考えても自分より愛しいものはない。そなたはどうか」とお妃に尋ねたのですが、お妃も、考えてみるとやはり自分がいちばん愛しい。それで、お釈迦さまにおうかがいしてみることにしたのです。その王と王妃に対して、お釈迦さまは、「自分がいちばん愛しいと知ったら、人もまた自分がいちばん愛しいと分かるはず。だから、人を害してはならない」と教えられたのでした。私たちはふだん、自分の立場からしかものごとを見られないのですが、そこで一度踏みとどまって、相手の立場に立ってみる。相手の立場に立って考えてみる。すると、同じことが、まるで違って見えてきます。目からウロコが落ちたように、相手の心、ものごとの本当の姿が見えてくるのですね。人さまの立場に身を置き換えて見直すことができるようになることが、「慈眼」を具えることだといってもいいと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.22
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6/21 Sun生かされている恩返し仏教の教えの基本が、すべての存在は他との関係(縁)なしにはありえない、という縁起観であることは、みなさんもよくご存じのとおりです。その教えをどう実践に移していくかです。まず、自分が今日一日を無事に過ごせるのはだれのお陰であるのか、どれだけの人の助けをいただいているか、その縁起を知ることが報恩行の出発点です。私たちは仕事が順調に進んでいるときには、すべて自分の力、自分の努力の結果だと思い込んで得意になっているのですが、それが、どれだけ多くの人の後押しによってなっているか、毎日、振り返ってみる習慣をつけてしまうことが大切です。朝夕の経典読誦のご供養は、その行の一つなのですね。いつも、まわりの人たちへの感謝を忘れずに、その感謝の気持ちを素直に表わしていく生き方と、自分を過信して得意になったり、努力が報われないと恨んだりする生き方とでは、天地の開きが出てしまいます。先祖供養も、親孝行も、菩薩行も、すべて今日の自分をあらしめているものへの恩返しの行なのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.21
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6/20 Sat能力の違いとは私が地方の教会道場をお訪ねすると、若いお嬢さん方がお茶を運んできてくださるのですが、緊張して手が震え、ついお茶をこぼしてしまう人が、ときどきおられます。そのときに、「ありがとう」と、ひと声かけてあげると、スッと緊張がほぐれて、本当にうれしそうな笑顔を見せてくださるのです。そのときの私のたったひと言を忘れずにいてくれて、何年も経ってから、涙を流してお礼を言ってくださる方がおられます。仕事で大きな失敗をした人の場合も、同じだと思うのです。大目玉を覚悟している人へのひと言の励ましが、人を生まれ変わらせることがあるのですね。人の能力の違いは、自分から本気でやる気になるかならないかの違いだといいます。自分からやる気になってくれさえすれば、もう、まわりがなにも言う必要はありません。その本当にやる気を起こさせるのは、頭で分かったというだけではなく、その人の感情が納得し、心が納得したときなのですから。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.19
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ご法の習学が幸せへの道人間としていのちを頂いて何が一番幸福であるかを考えてみたいと思います。普通に考えますと、衣食住に不自由がなければ幸せであると、誰もが思うわけであります。しかし、私たちはそれで幸せかというと、決してそうではありません。人間の無上の幸福とは、やはりご法、真理に巡り遇うことだと思います。そのことが法華経にも説かれております。仏さまがこの世に現れた最大の目的は、仏知見(ぶっちけん)を開くことだと方便品に説かれており、そこには、真理・法に出遇うことが、人間としての無上の幸福だと教えられているのです。人間として生まれてきて私たちが願うことは、心が安定し、楽しく明るく人生を過ごせるということです。真理に出遇うことによって、そうした平安な日々を過ごすことができるわけですから、私たちがこうして教えに巡り遇えたということは、よく考えてみますと、無上の幸福をすでに頂いているということです。生きとし生けるものが幸せでありますように、救われますようにという願いを持たれたのが仏さまです。ご法に出遇うことができた私たちが悩み苦しむときは、せっかく頂いたご法というものを忘れて、自我丸出し、利己心丸出しのときであります。自分のことを第一に考えて、人のことを考えないときに、人と人の間が和にならず、対立してしまう。そこにどうしても苦悩が現れてくるわけであります。私たちはせっかく頂いたご法を忘れることなく、日々繰り返して、その有り難さを味わっていくことが大事です。方便品には、仏さまの精神、法華経の教えを本当に分かるためには、習学しなければ、私たちは全部を受け取ることができないという個所がございます。習学の意味するところは、ご法を日常生活に当てはめ、繰り返し学んでいくということです。朝夕のご供養を繰り返すように、私たちは自らの心を常にご法と照らし合わせ、繰り返し学んでいく。そのことによって、ご法を中心としてものごとを考える人間になることができれば、苦悩がありながらも、苦悩ではなくなります。ご法を自分に当てはめて、人さまを思いやることが日常生活の中で行われていく。それが仏さまの教えを会得する近道であります。それがまた幸せにつながるのです。『佼成新聞』より
2009.06.19
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6/19 Fri情こそ第一徳を具えた人というと、完全無欠の人格者でなくてはならないように考えます。しかし、必ずしもどこからつついてもボロの出ないといった人でなくてもいいと思うのです。むしろ、あまりどこもかしこもきちんと整いすぎた人は、人間的魅力に欠けるように思えます。いつも自分を守る姿勢で、ちょっとのミスもおかすまいととらわれすぎると、冷たい人間に見えてしまうのです。自分の腹の中を正直に打ち明ければ、ときには間違うことがあっても、人はついてくるものなのですね。私など、いつもまったくのあけっぴろげなものですから、「ちょっと内緒にしておいてもらわなければならないことも、開祖はなんでも話してしまうので困る」と、ときどきお小言を頂戴してしまいます。人間的魅力というのは、ただ頭がいいというだけ、敏腕だというだけでは具わらないのではないでしょうか。知・情・意といいますが、とりわけリーダーには情が大事だと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.19
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6/18 Thu頼りになる一灯江戸時代の有名な儒者だった佐藤一斎に、「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一灯をたのめ」という言葉があります。時代の流れが大きく変わるときは、真っ暗闇の夜と同じで、何か手がかりが欲しくなります。それで、あれこれ新しい情報を求めるのですが、結局、それに振り回されるだけに終わることが多いのです。目先の動きに目を奪われて、長期的な見方ができなくなってしまうからです。変動がはげしいときほど、頼める一灯を持たなくてはならないのです。日蓮聖人は、「木の根が深ければ枝葉は枯れず、水源に水があれば流れはかれない。薪がなくなれば火は絶え、大地がなくては草木は生長することができない」と教えておられます。どっしりした基礎を持たなくては、いくら最新情報を集めてみても、何をどう変えればいいのかさえ分からなくなってしまいます。行く先ばかりを見定めようとあせらず、まず足元を定めなくてはなりません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.18
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6/17 Wed自己流でむだ骨にせっかく教えの縁に触れながら、救われないでいる人がいることほど悲しいことはない、といつも私は申し上げるのですが、せっかくお役をやってくださっているのに、なかなかスカッといかない人がいます。その人をよく見ていると、いつまでも自分の考えだけにこだわっているのです。相撲の大鵬親方は、現役時代に三十二回も優勝を飾った名横綱ですが、その強さの秘密は、素直さだったといいます。「今日の相手はこの手が得意だから、こう組んでいけ」と教えられると、「はい」と答えて、必ずその手で組んだそうです。これが簡単そうで、なかなかできないのですね。いざ本場所の土俵に上がると、勝ち星欲しさで自分の得意の手で組みたくなってしまう。それで結局、相手に組ませてもらえずに負けてしまう。その失敗を繰り返すわけです。信仰も同じで、仏道をあゆもうと決めたら、お師匠さんのお言葉どおり実行することに徹していけば、すぐにでも功徳がいただけるのに、大事なときになると自己流を振り回して、せっかくの精進をむだ骨に終わらせてしまうのです。こんなもったいないことはありません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.17
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2009年06月12日「佼成福祉の基本理念」発表このほど、教務局(社会貢献グループ)より「佼成福祉の基本理念」が発表されました。また、これに併せて「超高齢社会における今後10年間の社会福祉の取り組み」が示されました。これは「超高齢社会」などの社会情勢と布教現場のニーズを踏まえた上で、本部と各教会が共通の理念を認識し、布教の推進にあたって社会福祉資源を活用し、物心一如の救済を図っていくことをねらいとしたものです。社会貢献グループが庭野日敬開祖、庭野日鑛会長の法話を依りどころとし、これまでの立正佼成会の福祉の取り組みを精査してまとめ、理事会により承認されました。概要とともに沼田雄司教務局長のメッセージを紹介します。 【基本理念構築の背景】 総人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が21%を超えた社会は「超高齢社会」と定義されます。日本は平成19年1月の時点でこの数値を超え、世界に先駆けて「超高齢社会」に突入しました。年金、医療、介護、相続、夫婦、家族、教育など、社会福祉の領域は拡大し、国民の大半が社会福祉に深くかかわり、あるいは関心を持ちながら暮らしています。その中で、各教会で展開される布教伝道に寄与し、多くの会員が救われる手だての一つとして、社会福祉を生かしていくことが求められています。社会貢献グループでは、このような社会情勢と布教現場の現状と課題、要請などをリサーチし、教えをもとに各教会が持ち味を生かして社会福祉活動を推進し、本部がそれを効果的にサポートすることを目的に「佼成福祉の基本理念」を策定しました。教会を中心として、本会が行う福祉の方向性、枠組みが明確に示されました。【本会の社会福祉への取り組みの経緯】「人を救い、世を立て直す」という庭野開祖の精神に基づき、仏教を生活に生かすことにより、人を救済し、平和に貢献することを目的に本会は創立されました。草創期より「貧・病・争」に代表される個人の苦に対して仏教の法門により解決を与え、人間らしい尊厳ある生き方へと導く「法座」を中心に布教、活動が展開されました。昭和40年代には社会貢献の重要性が一層認識され、宗教協力、明るい社会づくり運動など社会的、国際的な平和活動にも取り組むようになりました。法座を中心とした信仰活動の中に社会性を持った相談、課題が増加し、庭野開祖は教会幹部の人間救済力を充実させることを目的に社会科学を導入。昭和47年には人材育成の一環として「社会福祉講座」が開始され、26年間で約3000人が受講しました。そこでの学びは布教現場で活用されました。その後、平成11年に各教会に社会福祉専門担当者が設置され、その育成のために「社会福祉専門担当者教育」が実施されました。各教会では福祉相談、友愛訪問、社会福祉学習会・講演会、ボランティア活動なども行われています。また、本会は、昭和20年代以降、今日までさまざまな社会福祉事業を行っており、佼成育子園、佼成病院、妙松苑、各種研究所、佼成病院扶友センターなどを通して、社会貢献を志してきました。教団では平成9年3月、教団基本構想『一人ひとりの心田を耕す佼成会』が示され、それを基に「高齢社会への取り組み」をプロジェクトとして推進。平成17年に教務部に福祉開発グループが設置され、平成21年次、組織改変によりその業務が教務局社会貢献グループに移管されました。【基本理念と今後10年間の取り組み】基本理念は、仏教と社会福祉の共通点である人間主義(ヒューマニズム)を念頭に置き、法華三部経と庭野開祖、庭野会長の法話の内容に即して、4項目が掲げられました。また、高齢者、児童、障がい者ら幅広い社会福祉の各分野の重要性を認識した上で、昨今の社会状況を踏まえ、布教現場の現状に応えるため、今後10年間は「高齢会員の救護(くご)」に重点を置いて人材育成を中心とした活動に取り組んでいくことが示されました。具体的な取り組みに関しては、各教会の布教方針や地域性を尊重。本部の活動項目と教会の活動の手引、参考例なども提示されました。〈佼成福祉の基本理念〉●仏性を礼拝し、心田を耕す菩薩道としての福祉●物心一如の智慧と自他一体の慈悲による福祉●いのちを尊び、個性を大切にする福祉●安らぎと希望を与える福祉 〈超高齢社会における今後10年間の社会福祉の取り組み〉1. すべての高齢会員を長年にわたって修行されてきた人生と信仰の先輩として敬い、出会いを大切にしてまいります。2. 高齢会員一人ひとりが生涯に渡り、み教えをもとに菩薩行が継続でき、生きがいと希望が持てることを目指します。3. 高齢会員を取り巻く各階層が、共に支え合い、安心して信仰活動ができるサンガづくりを目指します。4. 「斉家」をめざし、高齢会員とその家族の救済を推進いたします。5. 社会福祉専門担当者および福祉活動に携わる方々が、高齢会員とのふれあいを通し、自らの心田を耕し、自己の人格向上を図るための信仰活動を支援いたします。沼田教務局長コメント私たちが生活する社会の情勢を見たとき、実際に社会福祉のサービスや制度を活用しなければ直面する生活課題を具体的に解決できないことが多々あります。特に日本は長寿社会になり、介護保険制度に代表されるようにさまざまな行政サービスが整備され、充実してまいりました。こうした背景の中、各教会においては社会福祉の制度やサービスに関する情報を提供・活用し、布教ラインのサポートをしていくお役として社会福祉専門担当者がおられ、ご活躍頂いております。その一方で、社会福祉が包含する領域は多岐にわたるために活動も多様化し、どのように取り組んでいけばよいのか、その目安となるものを求めている専門担当者の方もおられます。そこで、これらのご要望にお応えし、教会の皆さまが福祉を通して信者さんの救護に取り組んで頂けるよう、このたび「佼成福祉の基本理念」および「超高齢社会における今後10年間の社会福祉の取り組み」を策定いたしました。この基本理念と今後10年間の取り組みは、各教会でさまざまに取り組まれている活動の方向性を示すとともに、本部と教会が共通理解を持って信者さんの救護に取り組んでいくことを明確にさせて頂きました。また、ここで示した方向性とは、幅広く社会福祉の活動を普及していくということではなく、会員の皆さまが安心して布教活動のできる、その一助となることを願いとしています。すなわち社会福祉を縁として自らの心田を耕し、仏さまの教えにひれ伏し、仏さまの教えをお伝えしていく私たちになるということです。今後は、この基本理念と10年間の取り組みが、信者さんの救護に寄与できるよう皆さまとともに協力して取り組んでまいりたいと思います。(2009.6.12記載)
2009.06.16
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6/16 Tue頼み方次第どんなに万能な人であっても、一人の力には限りがあります。十人の力、百人の力を借りなくては大きい仕事はできません。それは百も承知でも、人にまかせ、人に頼むのが苦手という人が多いものです。嫌な顔をされたり、気兼ねしてやってもらうより、自分でやってしまうほうが気が楽だ、と一人で仕事を背負いこんでフウフウ言っている人がいますが、それを見てまわりが同情してくれるかというと、「あの人は、なんでも自分でやらないと気が済まない人だから」といった見方しかしてくれません。人の力を借りるのは、相手の人に「私は信頼されているんだ。人の役に立てるんだ」という喜びを与えてあげることにもなるのですね。大事なのは、頼み方です。頼み方ひとつで、人を発奮させる材料にもなれば、押しつけられた、とやる気をなくさせることにもなってしまいます。松下幸之助さんは「私は学校を出ていないから、人がみんな頼もしくみえる。わしはやれんが君ならできるはずだと相談すると、みんな一生懸命になってくれるんですよ」と話されています。信頼して人にまかせるのも礼拝行なのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.16
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6/15 Mon五分五分の心の争い教会のご命日の説法会にうかがわせてもらうと、信者さんのすばらしい体験を聞かせてもらえます。ご主人がサラ金に手を出して「もう、ぜったいにやらない」と何度も約束しながら、またしても借金していたことが分かり、愛想が尽き果ててしまった奥さんが離婚を決意された。その奥さんと一緒に教会を訪ねたご主人が、教会長さんの法座の結びで、借金癖がピタリと直ってしまったという説法を聞かせてもらいました。はたから見ると反省のハの字もない人にみえても、「もう、こういうことはやめなくてはならん」という反省の心が働いているのです。しかし、それと一緒に自分の弱さに引きずられる心も首をもたげて、五分と五分で争っているわけです。そこのところで、「これではいけない」という心のほうがちょっと優勢になっただけで、奇跡のような心の大転換が起こるのです。ご主人のそうした心の転機のきっかけについて、奥さんは、「それまで私は、なんとかして主人を変えよう変えようとしてきましたが、教会長さんは主人を拝んでくださったんです。それで主人の目が覚めたのです」と説法してくださったのでした。すばらしい悟りではないですか。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.15
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6/14 Sun難信難解法華経は難信難解(なんしんなんげ)の法といわれます。何が難しいのかというと、説かれている教えをそのまま信じきってしまうことが難しいのです。それを裏返せば、信じることができさえすれば「なるほど」と、だれにもすぐに分かるのが法華経の教えだということになりましょう。法華経の教義を、初めから終わりまで理屈だけで理解しようとして万巻の書を読み、知識を詰め込んでも、教えの神髄はなかなかつかめないのですが、経典に示されたとおりに一つでもいいから実行してみると、ちゃんと結果が現われてきます。なによりもまず実行です。その実行へ踏みださせてくれるのが、お師匠さんの導き、サンガの見守りなのです。「師匠のない仏教はない」といいます。自分ではかなり修行したつもりでいても、独りよがりになっていることがよくあるのですね。深く学んだつもりが、逆に知識を鼻にかけて我見を増長させることになっている場合もしばしばあります。自分一人では、そこになかなか気づけません。お師匠さんにいちいち指摘してもらって初めて自分の思い込みを離れて見られるようになり、利害打算を離れた無我の修行ができていくのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.14
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6/13 Sat相手の美点を見る眼だれしも、自分がほめられることほどうれしいことはないのに、人をほめるのは、あまり好きではないようなのですね。「どうしたら開祖のように人の欠点を見ず、よいところだけを見られるようになるのですか」と、よく尋ねられるのですが、人の欠点ばかりが見えてしまうというのは、相手と張り合う気持ちが強すぎるからではないかと思うのです。弱みを見せまい、負けてなるものかと、自分を守ることで精いっぱいなのではないでしょうか。私は、そういう無理ながんばり方をしないのです。自分よりすぐれた人には、すぐにシャッポを脱いで教えを請う。みんなが仏さまの子ども同士なのですから、張り合ってみてもなんの意味もないのですね。そういう考え方で、自分をがんじがらめにしている自己防衛の心から解き放たれると、おのずと心のゆとりが生まれ、相手の美点が見えるようになってくるのです。それが慈悲の眼です。たとえばお姑さんとお嫁さんが、この心のゆとりを持つことができたら、毎日がガラリと変わってしまいます。人を心からほめられるようになる秘訣は、そこにあると思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.13
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6/12 Fri自灯明・法灯明冷戦構造がくずれて、「こんどこそ世界に平和が実現する」と期待した矢先、世界のあちこちで紛争が噴きだしてきました。大国も政治不信に大きく揺らいでいます。これまで冷戦構造によって、世界ががっちりと締めつけられてきたそのタガがはずれたことで、自分たちの民族、自分たちの国の権威を一挙に回復しようとする意識の高まりともみられますが、うっかりすると、混乱と無秩序が世界を覆いかねません。お釈迦さまは、「自分をよりどころとし、他人をよりどころとしてはならぬ。法をよりどころとし、他をよりどころとしてはならぬ」という「自灯明・法灯明」の教えを説かれました。本当の自分をよりどころとするということは、自分一人だけポツンと存在しているのではなく、周囲の社会とのつながりによって生かされている存在である自分に気づくことです。その全体の中で、自分はどういう役割を担っているのか、それを自覚することこそ自己の尊厳を知ることでありましょう。個人も、国も、そこのところをかみしめなくては、新しい世界は開けないと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.11
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仏教徒にとっての師匠はただ一人仏教徒としての立場というものが、道元禅師の言葉を借りるとよく分かります。一例を挙げますと、道元禅師は、お釈迦さまを「慈父大師釈迦牟尼佛」と呼ばれています。慈父とは、慈しみ深い父親ということです。大師は、偉大な師の意味ですから、教えの親であり、親としての師であると、そのように道元禅師はとらえているわけです。道元禅師は中国に渡って、如浄禅師という方から法を継承されたと伝えられております。その如浄禅師は仏の化現であり、仏が姿を変えてこの世に現れた如浄禅師を通じて、ただ一人の師としての釈尊に学ぶということ、それが「慈父大師釈迦牟尼佛」という短い言葉の中に説かれています。ちょうど父親が一人であるように、人にとっての真の師匠というべきものは釈尊一人であるという意味合いが込められている。これは、仏教のあり方を私たちにも深く教えてくださるものだと思います。 『佼成新聞』より
2009.06.10
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6/11 Thu樹上の鳥カ禅師「悪をなさず、善行を積んで、心を浄める。それが仏教の要諦だ」と鳥カ[カはあなかんむりに「果」]禅師に教えられた白楽天という人は、中国・唐代の大詩人で、中央政府の役人でした。地方に左遷され、それを解かれて杭州の長官に赴任したときに、木の上で坐禅を組む高僧のことを聞いて訪ねていったのでした。白楽天が、樹上の鳥カ禅師に「そんな高い所で危なくはないですか」と問いかけると、鳥カ禅師はすかさず「お前さんのほうこそ危ないだろう」と答えます。その答えは、政治の世界はいつ足をすくわれるか分からない。本当の安心は、どこにいようが教えを求め続けるところにあるのだ、という意味に解釈できるのではないでしょうか。地位も財産も、人の本当のよりどころとなるものではありません。頼みにできるのは、自分の心、自分の信心です。その「信」さえしっかり持つことができれば、どんな人に対しても、どんな事態に直面しても、心にゆとりを持って、そこに意味を見いだし、それを成長の糧としていくことができます。この心こそが功徳の源泉です。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.10
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6/10 Wed監督の“独り野球”プロ野球の監督をしてこられた人が、「新任の監督というものは、どうしても早く動きすぎてしまう。私もそれでいくつも試合を落とした苦い経験がある」と、テレビで話されていました。新監督として早く結果を出したい、一つでもよけい勝ち星が欲しいと考えるのは無理もありません。それで自分の野球をしようとして選手を起用し、交代させるのですが、選手は監督の考えていることが、すぐには理解できない。それで監督の頭の中だけの“独り野球”になってしまうわけです。監督のほうは「なんと下手くそな選手だ」と選手を責める。選手は「野球を知らない新米監督」と心の中であざける。お互いに違った土俵で不信感をつのらせてしまうのです。監督が考えていることを選手が腹の底から納得してプレーができるようになるには、それだけの熟成期間が必要です。早く油をとろうとして一気に搾って油を汚してしまう「油を圧(お)す殃(つみ)」の戒めは前にもお話ししましたが、功をあせって「油を圧す殃」をおかし、あたら人材をつぶしてしまったのでは元も子もありません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.09
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6/9 Tueほめて認めるコーチ日本プロサッカーリーグの最高責任者である川淵三郎さんは、かつての東京五輪で日本代表選手として活躍した人です。川淵さんの話をうかがうと、自分の選手時代を含めて、これまでの日本のコーチ法は「何度言ったら分かるんだ」と、いわば否定的指導で選手をしごき上げる方法だったといいます。しかし、スポーツも勉強も、繰り返し繰り返し練習を続けていかなくては上達は望めません。「それには、積極的支援のコーチのほうが大事だ」というのです。それを川淵さんはクラマーという監督に教わったそうです。クラマー監督のコーチ法は「いまのシュートはすばらしいぞ」とほめて、「でも、こうすると、もっと楽にシュートが打てるんじゃないか。一緒に練習しよう」という教え方だったそうです。子どもにいきなり、「将来のためにがんばるんだ」と言っても効き目はありません。子どもは将来のことまで順序だてて考えることができないのです。それよりも、自分を認めてくれる人が目の前にいることのほうが大事で、そういう人がいると、ほめられたい一心でがんばる。そうして一つずつ力がついてくると、おもしろくなって本気になっていくのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.09
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6/8 Mon「なるほど」の教えドイツの著名なジャーナリストとして活躍されたロルフ・イタリアンダーさんが先ごろ亡くなられましたが、イタリアンダーさんは、来日して全国の佼成会の教会を回って実際に会員さんの話を聞き、「佼成会の仏教は、だれもが『なるほど、なるほど』と納得して救われる教えだ」と言っておられました。そもそもお釈迦さまの教えは、人間の本質を見通して、人が幸せになるにはこう生きるしかない、という道を示されたものです。人間の本質をつかんだ人の話は、だれもが「なるほど、そのとおりだ」と納得せずにいられないのです。「人はこうあるべきだ」といった説き方だと、「しかし……」とかわされることもあるのですが、この世の成り立ち、人間の本質をズバリととらえて、これ以外に人の生き方はない、と心の底から納得してもらえば、もう、だれも逃げようがありません。それで、教えのとおりに実行してみると、「なるほど、本当に幸せになるにはこれしかなかったのだ」と、もう一つ納得がいくわけです。人を行動に踏みださせるのには、心からの「なるほど」が必要なのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.07
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6/7 Sunもう一つの力新横綱の曙関は、横綱に昇進した初土俵で黒星を喫してしまった夜、何度も負ける夢を見て、汗びっしょりになって目が覚めたといいます。同じように、現・北勝海親方も新横綱の土俵で負けて、「このまま連敗したら引退しなければならん」という思いが胸をよぎったというのです。しかし、そのとき先輩横綱の千代の富士関(現・九重親方)に、「力があるから横綱になったんだ。強気でいけ」と言われて、ようやく平常心を取り戻すことができたといわれています。自分の才能への自信、積み重ねてきた努力によって得た自信が、一つのつまずきでガラガラとくずれてしまうことがあるのですね。それに、もう一つのものが加わらないと、本当の自信にならないわけです。山田恵諦猊下は「自分の努力、まわりの援助、それに神仏のご加護が加わらなくては事は成らぬ」とおっしゃっておられます。背後で自分を見守り、押しだしてくれる力を感じたとき、自分が蓄えてきた力を百パーセント出しきることができて、信じられないようなことが可能になるのです。自分のすべてをまかせられる帰依の対象を持つことによって、考えられないような不思議が起こるのは、そこなのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.07
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6/6 Satピンチに内を固める「この不況はいつまで続くのか。早く手を打ってほしい」という声が高くなっていますが、ここで腰をすえて「いまこそチャンス。いまだからこそできることを」と考えてみてはどうでしょうか。昭和の初めの大恐慌で松下電器がピンチに陥ったとき、社長の松下幸之助さんは、「どんなに在庫を抱えようと、社員の首は切れない。工場の従業員には給料を払って半日休んでもらい、店員全員で在庫を売り歩こう」と呼びかけて、危機を乗りきったそうです。そうして全社員が一丸となって難関を乗り越えたことで、考えられないような力が生まれ、それが松下電器の発展の原動力になった、と話しておられます。好景気で会社の業績が順調に伸びているときには、全社員が心を一つにするということが、できそうでいてなかなかできないものです。ピンチの時こそ、内を固める時です。じっくりと人育てに取り組み、互いに協力し合うことで社員同士の信頼感を培っていく。ただ手をこまねいて待っているだけでは、また次のピンチにさらされてしまいます。不況の時こそチャンス。バブルでゆるんだ体質のままでは発展は望めません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.05
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6/5 Friうなずく愛語「なんの反省もなく、よくも平気であんなことができるものだ」とあきれ返るような人が、みなさんのまわりにもいるかもしれません。「この人は、なんという人なんだろう」と、がまんできなくなることもあると思うのですが、もう一度、その人の身になって考えてあげてほしいのです。おそらくその人は、まわりの批判や攻撃に心を閉ざして、幾重もの鎧で自分を守っているのだと思うのです。それをさらに責め立て矯正しようとしても、聞いてくれるわけがありません。心の底から「これではいけない」と、自分がその気にならないかぎり、人は、どんなにうるさく言われても変わるものではないのです。大事なのは、どうしたら相手に本気になってもらえるか、そのための働きかけです。それは、ほんの一か所だけの心と心の触れ合いでいいのです。かたくなに自分を守っている人がいちばん求めているのは、本当の味方になってくれる人なのです。「愛語」とは、優しい言葉という意味ですが、上手なことを話せなくても、相手を信じきって、相手の訴えに心からうなずいてあげられたら、それだけで立派な愛語になるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.05
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教会をオアシスに漢字の「休」という字があります。普通は、何もしないことが休むことのように思いがちでありますが、この字には、実は大切な意味合いがあります。字から判読しますと、カンカンと照る暑い大地を旅人が歩いていく。途中に木陰があって、そこでホッと一息ついている。そのような意味が「休」という字だということです。心も体も休まるという意味合いがあり、何もしないことが休むことではないのだというのです。誰が来ても身も心も休まる、本当に救われますと言われるような教会が大切ではないかと思うのです。『佼成新聞』より
2009.06.03
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6/4 Thu互いにほめ合う夫婦豊臣秀吉は主君・信長の長所を見て、「うちの殿は偉い人だ」と心から思い、いつもそれを口にする。それに対して明智光秀は、信長の欠点を黙って見ていられず「天下人になられたら徳を具えていただきたい」と進言し、主人の欠点を直そうとして不興を買い道を誤ってしまった、という説を聞いたことがあります。これはさまざまな人間関係にあてはまるように思います。たとえば夫婦円満の秘訣も、そのへんにあるのではないでしょうか。いったん結婚した夫婦は、そう簡単に別れるわけにはいきません。とはいっても、夫婦として三百六十五日、朝から晩まで鼻を突き合わせている者同士、互いにアラを数えだしたら、きりがなくなってしまいます。そこを直してほしい、ここを変えてもらいたいといっても、夫婦の間柄では、なかなか素直に聞けないのですね。夫婦の相性とは、ただ気心が合うというだけでなく、互いにパートナーとして、より力を発揮できるようになることが大切です。そのへんの機微が、このあたりにある気がするのです。欠点を直そうとするよりも、互いによいところをほめ合う習慣をつけたほうが得策だと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.03
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6/3 Wed人間関係の大もと自分を産み育ててくれた親の恩に比べられるものは、ほかにありません。それを、ごくあたりまえのことのように考えたり、うっかりすると、親を恨んだりしている人がいるのです。しかし、心の奥の奥では、だれしも親の恩を感じない人などいないはずです。何かが、その気持ちを素直に表に出すことを妨げているのです。この、親の恩をかみしめることが信仰の出発点であり、幸せへの出発点だといってもいいでしょう。親に心から感謝できるようになると、夫婦同士でも、互いに感謝できるようになってきます。子どもやご近所の人と対するときも、また会社の上司や仲間を見る目も違ってきます。人間としての軌道に乗ってくるわけです。親への感謝ができなくては、ほかのだれともうまくいくはずがありません。親への感謝が人間への信頼感を生み、それが社会の絆にふくらんでいくのです。最近、アメリカでも家族が見直されているそうです。家庭がくずれると社会の秩序までバラバラになってしまう、という苦い体験からの知恵だと思うのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.03
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6/2 Tue亡き母への供養私が、まだ牛乳屋の商売をしながら布教に歩いていたころのことです。亡くなった母の命日が六月二十二日で、その日は、わが家の命日にも当たっていましたので、毎月、「この日は特別にしっかりとご供養させてもらおう」と思っているのですが、その日にかぎって、あの信者さん、この信者さんから声がかかって、真夜中まで飛び回らなくてはならなくなるのです。恩師の新井先生にそのことをお話しすると、「庭野さん。お経をあげるだけが供養じゃないんだよ。苦しんでいる人をお救いするために飛び歩く供養のほうが尊いんです。お母さんやご先祖さまが、どれだけ安心し、喜んでくださっていることか」とおっしゃってくださいました。それが法華経を身で読む供養なのだと、そのとき新井先生に教えていただいたのです。そう聞かせていただいてから、毎日、休む間もなく人さまのために駆け回らせてもらっていると、母のうれしそうな顔が目の前に見えてくるような気がしたものでした。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.02
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6/1 Mon現代でも起こる奇跡『法華経』の「妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)」では、浄蔵(じょうぞう)・浄眼(じょうげん)という二人の王子が、父王の前でさまざまな不思議を演じて見せて、仏さまの教えに親を導く話が語られます。二人の王子は、自分の姿を瞬時にして巨大な姿に変えて見せたかと思うと、たちまち豆粒のような小さな姿に身を変える、といった不思議を見せます。そんなことができるものだろうか、と考えられるかもしれません。しかし、それはいまの時代でも同じなのです。子どもがいくつになっても親の目には幼い子どもに見えるのですが、そのわが子が、真実の生き方について堂々と信念を述べるようになったとしたら、どうでしょう。かと思うと、これまで親に反発ばかりしていたのが、素直に親の言葉を「はい」と聞くように変わったら、まさに信じられない奇跡と見えるのではないでしょうか。それが「大身を現じ、また小を現ずる」姿です。「ありがとう」という言葉、そして「はい」という返事がいちばん美しい日本語だといわれる人がいますが、青年部の練成や法座で、この素直さを身につけて親を教化できたといった話を聞かせてもらいました。こんなうれしいことはありません。庭野日敬著『開祖随感』より
2009.06.01
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