全4件 (4件中 1-4件目)
1
最近は読む本が見つからない。世間に本はあふれかえっているが、これを読みたいと気持ちが沸き立つような本がない。本に責があるわけではない。私の意欲のせいだ。 先日も仙台市図書館で2冊の本を借りてきたのだが、二冊とも最初の5、6ページ、中ごろの数ページを読んだきりで返却しに行った。本が悪いわけではないのでタイトルは書かないが、まったく面白くないのである。読書の守備範囲が狭くて手の打ちようがない、そんな状況に手を焼いている。 それで、自分の本棚から一冊を選んで読み始めた。付箋がいっぱい貼られたままの本なのだが、確かな記憶がない。ジョルジョ・アガンベンの『言葉と死』(上村忠男訳、筑摩書房、2009年)である。読み始めて付箋のついている個所に進んでも、なぜ付箋を貼ったのか、よく思い出せない。たぶん、あまり理解していなかったのだろう。 本はタイトル通りに次のようなハイデガーの文の引用で始まる。死ぬ運命にある者たちとは、死を死として経験できる者たちのことである。動物はこのことをなしえない。しかしまた動物はことばを話すこともできない。死と言語活動とのあいだには本質的な関係の存在することが一瞬閃き出ているが、なおも思考されていない。 いかにもハイデガーらしい考えであるが、人間を動物から峻別して絶対視するような西洋哲学の大動脈たるヒューマニズム(人間中心主義)にはいささか辟易する気分だが、その辺りはジャック・デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(マリ=ルイーズ・マレ編、鵜飼哲訳、筑摩書房、2014年)がデリダらしくねちっこく論評していて、私としてこちらの本ではだいぶ楽しませてもらった。 せっかく読み始めた『言葉と死』だが、すっと腑に落ちるような話ではない。哲学といっても形而上学はどうも相性が悪い。そういう部分が多いのだ。ただ、人間が発する〈声〉は言述行為の中で言葉になる、という記述はよく理解できる。 例えば、「わたし」や「これ」という代名詞はこの言葉自体では何(誰)を指し示しているかわからない。「わたし」は私が発話(記述)行為の中で使うことではじめてこの私を指し示す意味を獲得する。 このことを「言葉は言述行為によってはじめて意味を獲得する」と一般化しても問題ないように思う。ハイデガー風に言えば、言述行為によって言葉を言葉として使用しうる存在こそが現存在(人間)である、ということになろう。 ただし、現実には公の席で「幅広く募っているが、募集はしていない」と声高に発する人間がいる。一見言述行為らしくは見えるのだが、〈声〉が言葉の意味を獲得していない。ただの音である。さすれば、人間のように見える彼は「現存在」ではない、と結論するしかない。 一冊のアガンベンの読書が、こんなささやかな皮肉にしか結果しないというのは、いかにもつまらないのだが………。勾当台公園から一番町へ。(2020/1/31 18:17~18:45) 勾当台公園に向かう道がしっかりと濡れている。降ってはいないのだが、歩道の一部に水たまりができているところもある。雨の降ったことにまったく気づかなかった。 野外音楽堂に着くと屋根のあるステージの上で集会が始まっていた。ベンチが濡れていることもあったが、そのころになるとだいぶ冷え込みが始まっていた。わずかな風が吹いても頬のあたりがとても冷たく感じるのだった。 集会の写真を1、2枚撮ったらもうデモに出発する時間となった。25人のデモは表小路を一番町に向かった。 一番町に入ってすぐ、旧知の人がデモの列に加わった。5年ほど前に仕事の関係で仙台を離れた人である。 「ちょっと時間が空いて、デモに出られると思って……」 仙台在住のころ東日本大震災の被害地でボランティア活動を立ち上げ、後を継いだ若い人も最近仙台を離れたが、たまたま時間が合って明日一緒にその被災地を訪れるというのである。一番町。(2020/1/31 18:46~18:57) 広島高裁によって伊方原発3号機の運転差し止めの決定を受けた四国電力は、ほんとうに原発を運転できる能力があるのか、そんな強い疑念を抱かせるニュースが続いている。 伊方原発3号機は12月26日から運転を止めた状態で二週間の定期点検に入っていた(運転差し止め決定で運転休止状態は続いている)。その定期点検作業中に考えられないほどの重大な作業ミスを犯している。 第1の重大ミスは、1月12日、四国電力は定期検査中の伊方原発3号機(同県伊方町)で、MOX燃料を含む核燃料を引き抜く際に制御棒1体を誤って引き抜いたと発表した(1月12日付け毎日新聞電子版)。しかも、核燃料体と一緒に制御棒を引き上げてしまったことをセンサーでは検出できず、引き抜いてから7時間ほど後に目視で発見したというのである。 中性子をよく吸収する制御棒は、核分裂の連鎖反応をコントロールする重要な役割を果たす。原爆と原発の違いは、制御棒のあるなしだけと言っても過言ではない。自発的に核分裂の連鎖反応が生じてしまう核燃料物質(ウラニウムやプルトニウム)の量を臨界量という。臨界量以上の核物質を臨界量以下のいくつかに分離しておき、瞬間的に一か所に集めると核分裂の連鎖反応が爆発的に生じる。これが原爆である。連鎖反応を引き起こす中性子を吸収する制御棒を臨界量以上の核燃料体の中に入れておけば連鎖反応は抑えられる。この制御棒を少しずつ引き抜いて臨界ギリギリの状態を維持するのが原発である。したがって、この制御棒が間違って引き抜かれてしまえば、物理的には原発は原爆と変わらない状態となる。 もちろん、原子炉は多数の核燃料体とそれに見合う多数の制御棒から成っていて、制御棒1体を引き抜いてもただちに暴走するわけではない。しかし、1体の制御棒が引き抜かれたことを検出できないシステムがもっと多数の制御棒が引き抜かれたことを検出できる保証はない。誤って引き抜かれた制御棒の数によっては、目視で発見する7時間の間に連鎖反応の臨界を超えてしまう可能性がある。その先に何が起きるかは、想像するだに恐ろしい。 第2の重大ミスは、1月20日に起きた。やはり、使用済み燃料プールから燃料集合体をクレーンでつり上げて点検用ラックに挿入する際、誤ってラックの枠に接触させてしまったのである(1月20日付け毎日新聞電子版)。そのとき、燃料集合体が落下を検出したという誤った信号が発せられたという。 一見、結果オーライのようだが、第1のミスと同様重要な問題をはらんでいる。機会や装置を設計するとき、「フールプルーフ」という考え方をする。無知(フール)な人間が操作を間違えても、危険が生じないように設計するという考えである。また「フェールセーフ」という設計原則もある。人間の誤操作ばかりではなく、装置自体の誤作動が発生しても常に安全側に制御できるようにしておくという考えである。 上の二つの重大事故はともに人間のミスで発生した。ところが、ミスが発生したとき安全性を確保するために設計されたはずのセンサーが働かない(第1の事故)、あるいは逆の信号を発した(第2の事故)のである。人間のミスと装置のミスが二重に発生していて、伊方原発3号機は「フールプルーフ」や「フェールセーフ」が実現されておらず、じつに危険なシステムと言わざるを得ない。 第3の重大事故は、一時的な全電源喪失事故である(1月26日付け中日新聞電子版)。東電1F事故が全電源喪失で生じたことを考えれば、どれほど深刻な事故であるかが分かるだろう。東電1Fでは補助電源も津波で使えなくなっていたが、さいわい伊方原発では補助電源が働いたので短時間で回復した。何よりも定期点検中であったことも幸いした。 この事故も、補助電源が働いたのだから安全性は十分というわけにはいかない。本来、原発は電源喪失を避けるため複数の送電系統から受電するようになっている。一系統からの受電ができなくても、残りの電源が働くはずのものである。じっさいに伊方原発は3系統から受電しているにもかかわらず、その内の18万7千V系統からの受電ができなかっただけで全停電が生じてしまったのだ。あきらかに3系統から受電した後の伊方原発内の電力システムに致命的な欠点があると考えられるのである。 伊方原発は、これらの1月中の事故だけでもでスリーアウトである。それに加えて、広島高裁による運転差し止めの決定が出され、こちらはもうレッドカードと言っていい。いい加減に諦めた方が身のためだ、と思うのは私のギリギリの親切心である。青葉通り。(2020/1/31 19:02~19:06) 一番町でデモに加わった知人か挨拶されたとき、ちょっとの間、顔が分からなくて戸惑った。暗くなった時ばかりではなく陽が射す日中も出会った人が誰か分からない時がある。右目に白内障が出てきたのである。その右目が利き目らしく、見えにくい目で見ようとしていると、眼鏡屋さんが教えてくれた。 1年ほど前から症状は出ていたが、軽度なので放っておいた。かろうじて免許更新はクリアしたが、もう限度だろうと3月に手術をすることにした。そう決めてしまうと、もう今は手術後が楽しみなのである。 きっと、世界はもっと美しく見え出すだろうし、ファインダーを覗く眼も確かなものになるだろう、なんてね………。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.01.31
コメント(4)
【ホームページを閉じるにあたり、2011年10月8日に掲載したものを転載した】 笹倉の秀嶺たまゆら明らみて時雨来たれば空に虹見ゆ 原阿佐緒 [1]笹倉山(大森山) 七ツ森湖(南川ダム)から七ツ森大橋越しの眺望。Mapのコースは、右(北)麓から登り、東(左手前)麓に下り、手前の車道を戻った時のもの。 仙台に住んでいると、北の方に低いけれども印象的な山々にすぐ気づく。ビルや丘の上からよく見える。国道4号線を北上し、仙台市を抜けた頃に左手にはっきりと見えてくる。「七つ森」と呼ばれる低い山群である。 笹倉山は、この七ツ森のうちのひとつとされているが、もともとは含まれていなかった。七ツ森は、七ツ森湖(南川ダム)の東側に連なっている300m前後の山群である。そのうちの一つ、一番低い「だがら森」をはずして、七ツ森から少し離れて(七ツ森湖と宮床ダムの中間)にある507mの独立した笹倉山を加えて、現在の七ツ森となっているということだ。 古い「七ツ森」は、鎌倉山、遂倉山、蜂倉山、大倉山、撫倉山、松倉山、そして「だがら森」で、たった一つだけ「山」の名辞をさずけられていない。山名が確定したのが、「七ツ森」構成の新旧交代の前か後なのかはわからない。 七ツ森は人里に近い山のならいで信仰の山でもある。七山それぞれに薬師如来が祀られていて、一日で七山すべてを登頂し、すべての薬師如来に参ると願うがかなうという信仰があった(今もある)ということだが、ある頃から、笹倉山一山でそれを代表できるということになったらしい。そのあたりが、「七ツ森」構成変化の理由ではないかと推測したりする。チベット仏教のマニ車のように、簡便だけれども深い信仰心が表明できればそれにこしたことはないということのようだ。 仙台に長いこと住んでいるが、七ツ森に足を運んだのはごく最近のことである。山歩きが好きだといっても、冬山、沢登り(イワナ釣りで少し似たことはやったが)、ロッククライミングのようなことは一切やらず、いわゆる夏山トレッキングしかやらない私の活動は春からということになる。 低い山で体を慣らしながらシーズンを始める。若いときは、一番近い1000mクラスの泉ヶ岳が最初の山と決めていたが、最近は300~500mくらいの里山 [2] から始めるようになった。冬を越した老体に自信がなくて心配なのである。その代わり、2月や3月で雪があっても歩けるので、長い体力回復期間がとれるというというメリットもある。 笹倉山に初めて登ったのは、2008年4月5日であった。若いころ、この辺は4,5回ほど来たことがある。七ツ森ダム(南川ダム)がまだ工事中のころ、ダムの上流側に2度ほどヤマメ釣りで入ったことがあるし、宮床地区の山林を日本春蘭の変異種を探して何度か歩きまわった(成果はなかったが)。 しかし、すっかり土地勘は失われていた。国道457号から七ツ森湖に向かう道に入ってすぐ道を間違えてしまった。Map A 笹倉山周辺と2010年4月9日のコース。地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。 道を間違えてうろうろしているときに、原阿佐緒の生地の看板を見つけた。そうだったのだ。情熱の歌人、原阿佐緒は宮床の生まれなのであった。冒頭の歌のほかに、もう一首、笹倉山を歌ったものがある。 笹倉の高嶺の霧の明りつつ晴れゆくなべに淋しあさあけ 原阿佐緒 [3] 原阿佐緒はアララギ派の歌人だが、同じアララギ派の石原純との恋愛スキャンダルの方が、彼らの短歌よりよく知られているようだ。石原純は理論物理学者で東北帝国大学理学部物理学科の教授であったが、この不倫スキャンダルで1921年に大学を辞した。 それから80年ののちに、同じ大学、同じ学部、同じ学科で、同じ職に就いた私から見れば、石原純は恐懼すべき大先達ではある。だからといって、実際のところ、特別な感情や思い入れがあるわけではない(理論物理学者として尊敬はしている)。情熱的な恋愛スキャンダルというのは、私の人生のカテゴリーには含まれないものである。 私と同年代の歌人は、 美しく生まれしゆえのおみなごの不幸語れば雪蛍舞う 道浦母都子 [4]と、原阿佐緒を偲んでいる。彼女もまた、美しく、激しく生きてきた歌人である、と思う。 さて、笹倉山である。初めてのときは、御門杉登山口(Map B のJ ポイント)から難波御門口に下る予定であった。ところが、頂上の薬師如来堂の裏手に回り、下り道を探したのだが、簡単には見つからない。そこにはカタクリが一面に咲いていて、うろうろ道を探すとカタクリを踏んでしまいそうになる。 カタクリの花を踏みつぶしてまで、下り道を探すのはどうしても躊躇してしまい、結局、もと来た道を引き返したのであった。Map B Map A の拡大図。Aの「難波御門登り口」から登り、Jの「御門杉登山口」へおりた時のコース。A~Jは写真撮影ポイント。 カタクリの群落に道を阻まれたのである。カタクリはけっしてめずらしい花というわけではないが、初春の山で見るのはいつでも楽しいし、美しい。好きな花のひとつである。インターネットで球根を購入し、我が家の庭でも毎年、春先に数輪は咲く。原阿佐緒にもカタクリの歌があった。 汗ばみてわがのぼりゆく墓地下の土手に咲きつづくかたくりの花 [5] 児の手とりかたくりの花今日も摘むみちのくの山は春日かなしき [6] この「児」は、テレビドラマ「7人の刑事」などに出演していた俳優、原保美であろう。渋くて良い俳優さんであった。 また道を外れてしまった。 反対の難波御門口から登れば、道に迷うことはないと考えて、2回目の笹倉山は2010年4月9日であった。2時間くらいの行程なので、ゆっくりと家を出た。家で朝食を食べてから山に出かけるというのは、たぶん初めてではないか、記憶にない。近郊の山であれば、明るくなるころに登り始め、朝食を食べて降りてくるというのがほとんどいつものケースである。最初の笹倉山は、朝食前に歩き終わってしまい、家に帰って朝食弁当を食べたのである。 「難波御門登口」からしばらくは杉林である。道に迷わないようにと、こちらからチャレンジしたのに杉林に入ってすぐ迷ってしまった。冬のあいだの杉林の手入れのためか、作業用の道が何本か造られていた。登山道と較べれば、小型ブルで均した作業道は立派(?)なのである。しかも切り払った杉の枝が敷き詰められていて小さな登山道は簡単に見落としてしまうのであった。2回ほど行きつ戻りつして、20分ほどで杉林を抜けた。Photo A 登山口、しばらくは杉林である。(2010/4/9 8:40) 杉林を出れば快適な雑木林である。まだ葉が出ていないので、見通しが良くて気分がよい。早春や晩秋の山歩きで、見通しの良くなった林を歩いているとき、必ず思い出すことがある。 ずっと若かったころ、季節季節には山菜や茸取りを生業としている人に、山を案内してもらって茸取りをしたことがある。その人が、「山を覚えるには、冬が一番だ。」と教えてくれた。葉が落ち、見通しがよいときに山の地形を、その細部をたたき込んでおけ、ということだ。 その後の私は、山菜も茸も採るものの、山道の脇で少し採れれば十分なので、真剣に山を覚えようという気にはならなかった。冬は冬でやりたいことがあり、雪山を歩かないのである。それでいて、明るい林の中では、ずいぶん前に亡くなったあの山人を思い出し、申し訳ないような切ない気分になる。Photo B 杉林を抜けると、明るい雑木林。まだ花は少ない。(2010/4/9 9:07) 林の中は、まだ下草もほとんど生えておらず、すっきりとしている。Photo B のポイントを少し行くと、小さな尾根になって、笹倉山の頂上部が眺められる。写真も撮ったが、杉の混じる雑木林越しで、良い写真にはならなかった。新緑が萌え出すと、頂上は見えなくなるだろう。 10分ほどのクマザサの道を抜けると、小さな花が見えた。オウレンである。下草がない早春の林に中では、こんな小さい花でもよく目立っている。造りが繊細で可憐な花であるが、もう少し季節が進み花々が多くなれば、私なんかの注意力ではきっと見過ごすような気がする。Photo B' オウレン(黄連)。(2010/4/9) 頂上近くになり、カタクリが一面に咲いているのではないかと期待したが、葉ばかりで花はほとんどなかった。前の時は、歩くのが憚れるくらい咲いていたのに。 頂上の薬師如来のお堂に着いた(Photo C)。このお堂の後ろから登ってきたのである。お堂の後ろは開けた感じの林で、まえの時にはカタクリの花がたくさん咲いていたところである。 記念写真を撮ろうと、連れ(犬のイオ)のリードをはずしたが、何か気になるのがあるらしく、こちらを向いてくれない(いつもはカメラを向ければポーズをとるのだが)。Photo C 頂上の薬師如来堂。(2010/4/9 9:36) 頂上には「大森薬師瑠璃光如来」と大書された紫地の旗が立っていた。笹倉山は大森山とも呼ばれる。たぶん、旧名称であろう。もしかしたら、七ツ森に加えられたときに、名称の整合性(7山すべてに倉をつける)のために変えられたのではなかろうか(根拠のない推測だけれど)。 周囲には、輪郭が崩れた石仏が数体あり、それぞれにお供えがされている。風化している石仏には、長い長い時間の人々の信仰心が積み重ねられてきているようなふしぎな雰囲気がある。欠けてしまった部分のその欠如こそ、信仰の証であるかのように。仙台産の昔の石は風化しやすいのだと、墓石屋さんに聞いたことがある。神社の狛犬にも同じように風化してしまったものを見かけることがあるが、風化仏のような敬虔な感覚は生じない。Photo D 頂上から四阿に下る道。四阿の先は「国見ヶ崎」見晴台である。(2010/4/9 9:40)Photo E 少し下ってから四阿をふり返る。(2010/4/9 9:40)【左】Photo C' カタクリ。【右】Photo F' イワウチワ。 頂上をすぎて少し下ると、四阿(あずまや)が見えてくる。とても短いけれど、快適な尾根道である。平成5年に立てられたことを示す立派な扁額が、四阿につり下げられている。 四阿の先は、「国見ヶ崎」という展望の良い突端になっている。東南に開けた展望は、大和町、富谷町から仙台市へと広がっているのだが、前回も今回も晴天の春霞で遠くは霞んでしまっている。眼下の宮床ダムはよく見える。 雑木林を下っていくと、「亀の子岩」と呼ばれる大石がある。半分朽ちかけた説明板があり、「祈願の甲斐あって戊辰戦争から無事に生還した人が……」ここで何かをしたらしいのだが、それが何かは朽ちた部分に書いてあったようだ。まさかいくら何でも、この大きな岩を担ぎ上げて薬師如来に奉納したということはあるまいと思うが、信仰心の薄い私には、こういう領野での想像がうまく働かないのである。 道は、葛籠(九十九)折りの急坂(姥坂)にさしかかる手前で分岐し、北の小高い峰(眺子ノ石展望台)に続いている。その坂道にはイワウチワが一面に咲いていて、少し心が浮き立つような道である。 低山のイワウチワ、高山のイワカガミはどちらも目を引く花である。中間にはオオイワカガミが生えていることがある。オオイワカガミは「秋田から新潟の日本海側の山地に生えている」とされているが、宮城の山にも生えている。 若いころ、日本春蘭の変異種を探して里山を歩きまわっていたとき、小山の尾根伝い前面にイワウチワが群生しているのを見て感動したことがある。ここよりずっと仙台に近い里山である。しかも、その小山を下り、谷あいに出たところで、斜面いっぱいに咲いているヤマブキソウ(山吹草)を見つけて驚いた。イワウチワと山吹草の大群落が小山の尾根と裾にあったのである。 10年ほど後に感動の再現とばかりに見に出かけたのだが、住宅地に開発されてしまって、小山の位置さえ確認できないのであった。そういえば、イワウチワもヤマブキソウも、自治体によっては絶滅危惧種、危急種に指定されているのである。Photo F 北の峰(眺子ノ石展望台)に続く道にはイワウチワの群生。(2010/4/9 8:40)Photo G 北に突き出た峰(眺子ノ石展望台)からの眺望。七ツ森の山々と七ツ森湖(南川ダム)が一望できる。(2010/4/9 10:16) 北に突き出た眺子ノ石展望台はごつごつとした岩山で、松が生えている。岩山に松、というのは水墨画に典型的な景色で、盆栽好きなどには耐えられない風景ではある。 その峰から七ツ森湖(南川ダム)とその東に展開する七ツ森を一望で眺められる(Photo G)。春霞で煙って見えるが、七ツ森の配置がよくわかる。 七ツ森もつい最近登ったのだが、じつは、写真まん中手前の蜂倉山だけはまだ登っていないのである。3山程度を組み合わせて一日の歩きとしたいのだが、蜂倉山はコースの都合上、はじかれてしまうのである。(これは余分なことだが、七ツ森には私の好きな山菜はそんなに多くないようだ。) 眺子ノ石展望台から引き返し、九十九(つづら)折りの姥坂の急坂を下るのであるが、坂の上に「姥坂の石」という大石がある。道の脇に誰かがポンとおいたような風情の石である。 姥坂は急坂であるが、手すりがあって歩きやすい。Photo H 九十九(つづら)折りの姥坂をふり返る。しかし、連れ(イオ)は坂道をふり返っているわけではない。ポーズをとった姿勢からなにかの音がした斜面を見上げたところ。(2010/4/9 10:23) 姥坂を下ると、すぐに麓に広がる杉林に入る。緩やかで、静かで申し分のない坂道だが、やはり山歩きでは杉林は少し気が滅入る。むかし、斜度は小さいものの、眺望も変化もないブナの原生林を4~5時間歩きつづけたときとは別の種類の気落ちがある。 山菜の時期の杉林には、アイコ(ミヤマイラクサ)、シドケ(モミジガサ)やウルイ(オオバギボウシ)が生えていたりするし、秋にはスギエダタケやスギヒラタケが確実に採取できる場所であって、それなりに楽しい。雑木林の茸狩りが不調の時には、わざわざ杉林を探して帳尻合わせをするほどのものではある。 しかし、単純に歩くことだけという楽しみでは、シチュエーション設定に幾分わがままが出てきてしまうのである。Photo I 麓の杉林。手入れもされ、道も申し分ないのだが。(2010/4/9 10:32) 杉林のなかに「日本刀「葉山丸」作刀の地 七ツ森観光協会」という白木、墨書きの表示が立っている。ということは、このあたりにはかつて人家があったということか。少なくとも刀工一族の家はあったのではないか。 いや、問題はそういうことではない。日本刀「葉山丸」がまったくわからないのである。日本刀の知識が全然ない。「葉山丸」がどれほどの名刀なのか、あるいはまた歴史的遺物なのかも皆目見当がつかないので、「ほぉー、すごい」と反応したものか、「どうってことはない」と無視するのか、悩むのである。街中なら、ふつうに無視するのだが。ネットで検索しても、「ネットで検索してもよくわからない……」というブログが見つかるばかりなのだった。Photo J 終点、御門杉登山口。これから車道を歩いて難波御門口まで戻る。(2010/4/9 10:38) 8時40分に難波御門登り口を出発して、10時38分に御門杉登山口に到着。犬との朝の散歩時間のちょうど2倍、快適な散歩というところか。十分な年なので、このような山歩きで満足できたら、平穏で健康的な人生になるとは思うのだが。 さて、これから車道を難波御門口まで戻るのである。アスファルトの硬い反作用を気にしながら、それでも途中でバッケ(フキノトウ、蕗の薹)を五つほど摘んだ。 幼いころ母が作ってくれた「バッケ味噌」は、じつはあんまり好きではない。天ぷらはそれなりにおいしいが、朝の味噌汁に細かく刻んだバッケをほんの少し放したのがじつに良い。もうひとつ、「バッケの漬物」は抜群である。ただし、自分では作れない。ときどき、京都から取り寄せている。 何たることか。山歩きは漬物の話で終わるのである。[1] 「原阿佐緒全歌集」(至芸出版社 昭和53年) p. 106。[2] 宮城県の里山は、「みやぎ里山文庫」というたいへん有用なHPがあり、利用させていただいている。また、宮城の山全般は、「マルゴ」さんという方が作っているHP「あの山に登ろう」が山の様子がよく分かってとても参考になる。[3] 「原阿佐緒全歌集」(至芸出版社 昭和53年) p. 54。[4] 道浦母都子歌集「花眼の記」(本阿弥書店 2004年) p. 155。[5] 「原阿佐緒全歌集」(至芸出版社 昭和53年) p. 201。[6] 「原阿佐緒全歌集」(至芸出版社 昭和53年) p. 59。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.01.30
コメント(6)
私はあまり夢を見ない。というよりも、人並みに夢を見るのだろうが、あまり覚えていないということだ。日々の出来事の起伏があまりなくなった老年では、記憶に残るほどの印象の強い夢をあまり見なくなったということだろう。 夜の雪が降りやんだ朝、川岸の自宅から河岸段丘の上のバスの通る広い道に上がって行った。雪は30センチほど積もっていて、歩道には踏み固めた狭い筋ができていて、自転車を曳いて歩いている女性がいる。見知った顔で、挨拶しかけたとき、彼女のあまりの美しさに驚いた。びっくりするほど美しいと思ったのである。 驚いて目が覚めた。4日ほど前の夢である。二十歳のころに知り合った女性だった。話をしたのは数度だけで、それっきりのことだった。それから50年以上会うことも見ることもなかった人だ。その人がどこでどんなふうに暮らしているか、知る由もない。ほとんど思い出すこともない人をなぜ夢に見たのかよくわからないのだが、夢の中のその人の美しさに驚いて目が覚めた、そのことに目覚めた後であらためて驚いたのである。 たしかに50年前も美しい人だと思っていたが、同じ顔の夢の中の人は別の次元に遷移したかのような新鮮な感じの強烈な美しさだったので驚いたのである。目覚めた後では、どんな美しさだったのかもうわからない。ある人の美しさにびっくりした。びっくりするほど美しい人に出会った。そんな感覚的な経験があったということだけが残っている。しかし、この夢と私の現実とを関係づけるようなことは何一つ思い浮かばない。 たとえば、野の花であれ、庭の花であれ、毎年毎年見慣れたそれなりに美しい花を、ある日突然、この世で初めて見るほどの美しさだと感じる瞬間があるかもしれない。ふだん道で会えば何気なく挨拶をかわし、通り過ぎれば次に会うまでとくに思い出すことのない知人を、ある日突然、その人と知り合えていることが奇蹟的に貴重なことだと気づく瞬間があるかもしれない。短い夢のアナロジーを現実のなかに見出すとすればそういうことになるだろうか。 4日前の夢がそのような未来の瞬間の予兆であれば、これからの私の暮らしも期待するに足る。しかし、いくぶんこの世の暮らしに倦みかけている老年には期待感が高まる予感はあまりない。勾当台公園から一番町へ。(2020/1/24 18:23~18:45) 集会が半ば以上も過ぎたころ、ようやく勾当台公園の野外音楽堂に着いた。福島原発事故で入院患者とともに避難せざるをえなかった医師の講演会の告知と、「脱原発県議の会と市民との意見交換会」の報告をなんとか聞くことができた。 脱原発県議の会は、さきごろ県議会で否決された女川原発の再稼働の是非を問う県民投票条例をあらためて県議会に発議するという。それは、県知事や女川原発立地自治体の首長の再稼働可否の判断に影響を与えることができる重要な動きで、県議会の傍聴も含めて再稼働反対の動きを強めたいというスピーチだった。 集会も終わり、いつにも増して暗く感じる冬の夜の街へ30人の脱原発デモは出発した。気づけば今日はいつもの二本の旗竿がない。一本は先週の日曜昼デモからの受け渡しがうまくいかなくて持ってこれず、竿がひび割れたもう一本は修理担当スタッフが今日はお休みだとスタッフの一人が苦笑いしながら教えてくれた。一番町。(2020/1/24 18:23~18:45) 世界では国家の脱原発や原発の廃炉が相次いでいて喜ばしいニュースに事欠かないが、原発にしがみつく時代遅れの自公政権の日本では原発関連のいいニュースは多くない。その中で久しぶりにいいニュースがあった。1月17日付け中国新聞デジタルは、次のような文章で広島高裁の原発差し止めの決定を伝えている。四国電力伊方原発3号機の運転差し止めを求めて山口県東部の住民3人が申し立てた仮処分の即時抗告審で、広島高裁の森一岳裁判長は17日、住民側の申し立てを退けた2019年3月の一審山口地裁岩国支部決定を取り消し、運転を差し止める決定をした。 森裁判長が差し止め決定の判断をした根拠の一つは、伊方原発沖600メートルの断層帯を「十分な調査をしないまま活断層が存在しないとした」ことである。また、阿蘇山の噴火が起きた場合の降下火砕物の想定が過小だった判断した。 伊方原発3号炉を新規制基準に適合するとした原子力規制委員会の審査は、四国電力の主張を前提に行われたもので、審査の過程には「過誤ないし欠落があった」と判断して、「原子炉は、原告らが生命、身体などに重大な被害を受ける具体的な危険があるので、保全の必要性が認められる」という決定を行ったのである。 正月早々、原子力規制委員会の審査の過程がどのようなものか、その実態の一端を明らかにするニュースも流れた(1月4日付け毎日新聞電子版)。 2018年12月、原子力規制委員会は関西電力に求める原発の火山灰対策を決める公開の会議を開いて、「関西電力に火山灰想定の再評価を命じる」という案を採決した。会議には、この1案のみがあたかも他の案がないかのように提案されされ、審議、決定したのである。 しかし、この公開会議の前に非公開の事前会議があり、そこでは大山噴火の火山灰想定が過小に評価されていると認定して「速やかに文書指導で変更申請を促す」という案も出されていた。この案は、実質的には規制委員会が関西電力の申請は基準不適合だと判断するものだった。 関西電力の申請が新規制基準に不適合だという判断は原発の再稼働を不可能にする。そのためか、その案は事前会議の後に抹消され、その案が存在したという議事録も作られなかった。いかにも安倍政権下の御用機関らしい隠蔽工作である。基準不適合という案がなぜ否定されたのか、国民は知ることができないのだ。広島高裁決定が述べるように、規制委員会の審査の過程には「過誤ないし欠落」がつきまとうのである。それも意図的に………。青葉通り。(2020/1/24 19:01~19:07) 今年の冬デモは、寒さに悩むことがない。昨年も暖冬だったが、デモのときに寒かったか、温かかったか、印象にあまり残っていない。 奥羽山地の山並みを眺めても、積雪の少なさは瞭然である。春、雪代は少ないだろう。積雪が、一定量の保水を担っている日本の風土には、雪の少ない冬はその冬の暮しやすさと裏腹な困った春の予兆でもある。 普通に寒い冬、普通に暑い冬という凡庸な季節こそが望ましいのである。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.01.24
コメント(6)
昨年の正月は、7日に仙台城址の坂道で転んで左手首を骨折して、かなり落胆しながら終わった。今年の正月は、義母の喪に服していたため、年賀状も届かず静かに過ぎた。 たしか正月7日だったと思うが、なにげなくテレビを見たときのドラマで7、8歳の子どもが親に棄てられるシーンが流れていて思わずスイッチを切ったことがあった。幼い子供がからんだそのような場面は若いときから苦手で、自分の心の脆弱性をそれなりに悩みつづけて来たのである。 私も5歳のとき父親に棄てられた子どもだが、母親と6人の子どもがまとめて棄てられたのでテレビのシーンとは全く事情は異なる。いっそう貧しくはなったが残された家族の結束感が強まり、私たちの幸福感はむしろ増したのである(そういう父親だったということだが)。ましてや、私は年の離れた末っ子だったので、いっそう母や兄姉たちに甘やかされて幸せだったのである。 だから、私の心の脆弱性はその生い立ちによるものではない。いや、生い立ちのよるものだとしても父が関与したことどもによるのではないだろう。むしろ、父親に棄てられたことで結束が増した家族に守られて育てられたことで、そのような家族(幸福)を失うことへの怖れが、子どもの不幸なシーンへの忌避感を生み出すのだろう。 そんなこと考えて今年の正月は終わった。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2020/1/10 18:22~18:33) 仙台はまだ一度だけうっすらと雪が降る日があっただけで、たまに薄氷が張るていどの気温だ。昨年と同じように暖冬で終わりそうな雰囲気である。そんな気温のせいか、今年のデモ初めである今日も元鍛冶丁公園にはそれなりのデモ人が集まっている。 規制委員会の審査が終わって、今年は女川原発再稼働の動きが強まるだろうなどというスピーチなどの後に、いくつかの講演会や新年会の案内・告知が続く集会が終わって、40人のデモは一番町に向かった。 デモには暖冬がありがたいのだが、デモの写真を撮り続けている私には心中ひそかに雪降りの日を待っているところもある。5年ほど前だったと思うが、雪が降り続くなか2、30センチほど積もった雪を踏み分けるように進む1枚の脱原発デモの写真がネットに掲載されていて、とても感動したのだった。雪中デモなんてデモ人には迷惑な話で、とても口に出せないが、そんな1枚を撮ってみたいのである。一番町。(2020/1/10 18:35~18:45) 最近、「反社」という言葉が世間を駆け巡っている。総理大臣主催の「桜を見る会」に反社会集団(暴力団)関係者が政府(たぶん安倍首相本人)に招待されて参加していたというニュースが発端である。 「反社」を政府主催に公式行事に招待するまでの政治家と「反社」の交際そのものも大問題だが、それを野党に質された後の総理府による招待者名簿という公文書の破棄や隠蔽、ひいては記録されていなかった廃棄記録が今年度分だけ記録していたという公文書の捏造疑惑、さらには安倍事務所主催の前夜祭での公職選挙違反に相当する飲食の供与など、安倍政権や総理府は「反社」集団の様相を呈している。 「反社」というほどではないにしろ、原発をめぐる電力会社のニュースも目をひいた。 一つは、「原発裁判初の和解勧告 東電拒否」(1月8日付けNHK NEWS WEB)(1月8日)というニュースである。福島市など県の中通りに住む住民52人が福島事故による被曝の恐怖に対する慰謝料の増額を東京電力に求めた裁判で、東京電力は福島地裁の和解案を拒否したというのである。 単に被害者の増額要求を拒否したということではなく、裁判所という公的な第3者が妥当と考えた慰謝料を拒否したということはきわめて深刻である。東電は原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)というこれまた第3者公的機関による和解案を拒否するケースも際立っていて、東電は自ら進んで賠償をする意志はないようだ。裁判による判決の強制力以外に賠償を求める手段はないようである。 ところが、東電の和解勧告拒否が明らかになった1月7日に、東電の小早川社長が内堀福島県知事に面会して「最後まで賠償を行う方針を変えずに丁寧に取り組んでまいります」としれっと表明したのだという。一方で賠償を拒否し、一方で賠償すると(口先だけで)主張する。「反社」とまではいわないが、少なくとも親社会的とは言えないのは明らかである。「非社会性」とでも呼ぶべき言動である。 これも東京電力だが、「福島第1廃炉「ゴール」示さぬロードマップ 消えた「原子炉施設の解体」」(12月28日付け毎日新聞電子版)というニュースもあった。 政府と東電が福島第1原発の廃炉工程表「中長期ロードマップ」を改定したのだが、そこには取り出した「燃料デブリ」をどうするのか、建屋や施設の解体はどうするのかといった具体的な最終案が示されていなくて、廃炉の「ゴール」はどうなるのか不明なのだという。ロードマップなのだが、ロードの先は闇のなかで行きつく先が分からないのである。NAVIを開いたら経路の線はあるものの地図は書き込まれていなくてどこに着くかわからないルートのみという状態である。いや、先に道があるかどうかも分からないということか。 廃炉を実現する行程を明確に示せないのに、「廃炉します」と主張するのは福島の被害者を宥めるための詐術としか思えない。これもまた、東電が(政府も)どんどん「非社」、「反社」に近づいているようにしか思えないニュースではある。青葉通り。(2020/1/10 18:48~18:55) デモ初めは終わった。今年はどんな年になるのだろう。女川原発2号機の再稼働をめぐって県知事や石巻市長、女川町長の判断が示されるだろう。現時点では、県民や市民、町民の考えを尊重するするそぶりを見せてはいるが、再稼働を問う県民投票条例に反対した経緯を考えれば、県知事の動向は予断を許さない。 緊張が続く年になるだろう、きっと。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.01.10
コメント(10)
全4件 (4件中 1-4件目)
1