全9件 (9件中 1-9件目)
1
今日は月一回の日曜昼デモだが、おそらく参加者は少ないだろう。デモと重なる時間帯にもう一つ重要なイベントがある。 「野党共闘で安保法制を廃止するオールみやぎの会」が主催する『# 激おこ! 参議院選挙勉強会@仙台』の集まりが座間宮ガレイさんを迎えて太白区中央市民センターで午後3時から開かれるのである。主催スタッフに金デモスタッフや常連さんが入っているので、二つのイベントは部分的に引き裂かれているのだ。私もデモ終了後に遅刻しながらでも参加しようと考えていたのだが、それも難しくなった。 29日(金)に高浜原発3号機を再稼働するという関西電力に抗議する集会を関電東京支店前で開くというので東京まで出かけた。東京から帰ると妻の風邪がさらにひどくなっていたうえに、翌日には111歳の義母が妻とまったく同じ症状になってしまった。 今日になったら息子まで熱があると言い出した。いつもなら、しょっちゅう熱を出す私を「またなの?」などとからかっている家族が全員そろって風邪をひき、私だけがぴんぴんしているというきわめて稀有な事態になってしまった。 家族の昼食に茸ソースのパスタを作って(もちろん、私も食べて)家を出たが、デモが終われば急いで帰らざるを得ないことになった。勾当台公園野外音楽堂。(2016/1/31 14:18)フリー・スピーチ。(2016/1/31 14:11~21) 会場に着いた時には予想どおり20人ほどしか集まっていない。それでもデモに出発するときには35人まで参加者が増えていた。 主催者挨拶も『参議院選挙勉強会』のことから始まった。集会終了後にデモに出ないで会場に向かえば時間的には間に合うので「どちらでもどうぞ」という案内だった。事の重要性を鑑みた主催者の苦衷の案内なのである。 挨拶はさらに高浜原発の再稼働にも触れた。29日には再起動が始まり翌朝には臨界に達してしまったのである。しかし、この再稼働は川内原発の場合とまったく同様に規制委員会の再稼働ありきの審査によるものである。九州電力は、川内原発の審査前には免震重要棟を建設すると言明していながら審査終了後には建設を取りやめると発表したが、規制委員会は遺憾の意を表明しただけで済ませている。また、各地の原発で不正なケーブル敷設が行われていることが発覚し、規制委員会は各原発に点検を要請したが、再稼働した川内原発と再稼働直前の高浜原発にはそれを免除したのだ。これらの事実は、規制委員会審査は再稼働のための儀式で、原発の安全性など最初から問題にしていないということにほかならない。 続いて、今後の脱原発関連の予定の話があった。3月11日にちなんだ大きな脱原発イベントが毎年開かれているが、今年は「脱原発みやぎ金曜デモ」が単独主催団体として3月27日(日)に行うことになったこと、そのために大勢のスタッフが必要なこと、今年はデモというよりパレードと呼べるような楽しいイベントにしたいのでアイデアをたくさん出してほしいなどという呼びかけがなされた。 また、昨年11月に開かれた『市民による女川原発の安全性を問うシンポジウム』の第2弾を国際センターの1000人規模の大会場で5月に開く予定であることも告知された。 勾当台公園から県庁前を。(2016/1/31 14:29、32) 勾当台通り、定禅寺通りを渡って。(2016/1/31 14:34、41) 風もなく日差しが暖かい好天のもと、35人のデモは勾当台公園を出発する。人数が少ないのは、デモとしては寂しいことだが、じつは写真へのおさまりがとてもいいのだ。 大人数のデモの時には、カメラで写しきれない人のことがとても気になる。全員を写さなければならない理由は全くないのだが、どことなく写っている人と写っていない人がいるというのは、気持ちの落ち着きが悪いのである。 一番町を南へ。(2016/1/31 14:41、41、42) 1番町に入ると、道の中に仮舞台を設営して和服姿の(なかには武士の装束で)10人ほどの人が節分の豆まきをしている。どんな形で豆をまくのか知らないが、拾うためらしい大勢の人が周囲を取り囲んでいる。私たちはそろりと舞台の袖を通り抜ける。 広瀬通りを過ぎて。(2016/1/31 14:48、49、51) チェルノブイリ事故では事故発生から5年目に甲状腺がんの発生が急増している。福島事故から間もなく5年が過ぎようとしている。福島で被曝した人々、とくに子供たちの甲状腺がんの多発が心配されており、現時点での発症数そのものが多発傾向にあるとする報告もある。 それに対して、あいかわらず、多発してはいないし、放射線の影響は考えられないと「何もなかった主義」の行政や行政サイドの専門家は主張し続けている。いずれ結果が明らかになることだが、最悪の場合は何もせずに甲状腺がん(ばかりではないが)の多発を座して待つことで、多くの人を犠牲にする可能性がある。 そうした心配が単なる杞憂に過ぎないとする論調の中で、福島事故による放射線被曝がチェルノブイリと比べればとても低いので心配することはないのだという言説がある。しかし、私には原発事故後の混乱した状態の中で人々の被曝量をきちんと測定していたとはとても考えられない。 実際、多くの避難者の被曝量検査がじつにいい加減になされていた事実が『見捨てられた初期被曝』 [1] で明らかにされている。甲状腺がんは半減期が8日と短いヨウ素131の内部被爆によるので、初期被曝量がきわめて重要である。その初期被爆の検査がいい加減に進められていたという事実を科学的検証も含めて明らかにした本である。 著者は「study2007」というツィッターアカウントを筆名として用いているが、原子核物理学者という職業上、放射線取扱業務や職場の放射線作業の安全管理にたずさわっていた様子がうかがえる方である。 私もまた、放射線取扱主任者(第1種)の資格で一時は職場の安全管理業務を担当していたことがあるので、書かれていることはよく理解できるし、信じられる。いくぶん科学的知識を要する個所もあるが、事故後の混乱期の中でいかに行政(行政サイドの医学者も)が福島県民の健康を守ることよりも行政手続きを優先していったかが手に取るようにわかる本である。青葉通りを東へ。(2016/1/31 14:55) 冬陽は傾いて。(2016/1/31 14:58) 冬の日の傾くのは早い。勾当台公園を出るときには、昼日中という感じだったが、30分も経たないで青葉通りを歩き終えるころには、もう夕方の雰囲気が始まっている。 日曜日はバスの本数が少なくなるので、一番町まで戻って地下鉄で帰ることにする。帰って、妻の介護の手伝いである。 明治生まれの111歳はとても骨太で、妻もしだいにその重さを扱いかねるようになってきたので、私の外出はあまり喜ばれなくなってきたようだ。そんな雰囲気をひしひしと感じながら一昨日は東京に出かけていったので、せめて今日だけは1分でも早く帰るのである。 [1] study2007『見捨てられた初期被爆』(岩波書店、2015年)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.31
コメント(4)
東急大井町線自由が丘駅で降りたのは、世田谷美術館分館の宮本三郎記念美術館で開かれている『画家と写真家が見た戦争』展を見に行くためなのだが、自由が丘駅から美術館経由で田園調布のあたりを歩こうという計画の一部でもある。 天気予報では一日中小雨が降るということだったが、駅を出ると大勢が傘をさして歩いているもののまだ傘を出すほどの降りとは思えず、そのまま歩き出すことにした。Photo A1(左) 自由が丘駅東の大井町線踏切。(2016/1/29 10:55)Photo A2(右) 道の向こうは東急東横線。(2016/1/29 10:59)Photo B 東急東横線沿いの道。(2016/1/29 11:03)Photo C 宮本三郎記念美術館。(2016/1/29 11:33) 大井町から乗った東急線を自由が丘駅で降り、駅の北側の道に出た。線路に平行な道を東に少し戻ると大井町線の踏切(Photo A1)に出る。ほとんどの人が傘を差し始めているが、もう少し我慢することにして踏切を渡り、右折して大井町線と平行する商店街に入った。 駅前商店街なのか駅裏商店街なのかよくわからないが、道は東急東横線の高架下を通っている。高架といっても道の上はホームになっていて自由が丘駅の一部のようだ。 東横線の高架をくぐって左折すると、道の向こうは上り坂になっていて坂の上に東横線が見えている(Photo A2)。その上り坂の途中で、傘を差した若い女性二人が互いの写真を撮り合っている。背景は1mほどの東横線の擁壁とその上の線路で、そんなロケーションでいいのかなと少し不思議に思いながら脇をすり抜けた。 線路沿いの道を歩きながら、地図に見える寺院を探したが見つけられない。その先の道から右折して宮本三郎記念美術館に行くことにしていたのだが、寺を探すのに気を取られて距離感を失い、曲がるべき道がわからなくなった。次の角を曲がると道は緩やかに下っていて、下りきったところに信号が見える。その信号の手前に美術館はあって、迷子にならずに済んだのだった。Photo D 八幡小学校の西北角。(2016/1/29 11:39) 美術館の入場者は私一人で、師岡宏次の写真と宮本三郎、向井潤吉、久永強の絵をゆっくりと眺めて、美術館を出た。細かい雨がすこし強くなっていて、ここから傘をさすことにしたのだが、雨が細か過ぎて傘の下まで入り込んでくる。カメラにもかかるので、ジャケットで覆うようにして歩いた。 美術館の前の道を西に出て信号のある交差点を左折する。上下1車線ずつの車道と両脇に1.5mほどの歩道があって、環八通りを越えて田園調布の中心に向かうまっすぐな道だ。その直線に飽きて、適当なところで左の横道に入って住宅地の坂を上ると、八幡小学校の西北の角に出た。八幡小の西の道を南に歩いて環八通りに向かう。Photo E1(左) 田園調布の放射状の道。(2016/1/29 11:49)Photo E2(右) 放射状の道に直行する半円の道。(2016/1/29 11:50)Photo F 田園調布の駅舎。(2016/1/29 11:57) 環八通りを1ブロックだけ西に歩き、「玉川田園調布」交差点を左折する。この先の田園調布一丁目は、東急東横線田園調布駅を中心とする半円状の道と放射状の道が交差する見事な構図で地図に載っている。 「玉川田園調布一丁目」交差点から駅へ45度の角度で向かう放射状の道の一つ(Photo E1)に入る。葉を落とした銀杏並木の道は、駅に向かって下っていく。途中で半円状の道の一つ(Photo E2)に入り、また放射状の道、半円状の道と繰り返して、駅に直角に向かう道から駅に出た。 道沿いの家々は、邸宅と呼んだ方がいいような立派な屋敷が続き、門札に外国名も目立つ。「外〇〇〇〇」というナンバーの車が車庫に入っている家もあった。放射状の道が駅前のロータリーに出る角には二つの大手銀行が小さいながら支店を構えている。駅舎はちょっと洒落てはいるが、想像以上に小さく可愛いものだった。Photo G 宝来公園。(2016/1/29 12:02)Photo H1(左) 田園調布4丁目の急坂を上り。(2016/1/29 12:07)Photo H2(右) 急坂を下り多摩川へ。(2016/1/29 12:09) 田園調布駅から南西に向かう放射状の道を上った。駅まで貫く3本の放射状の道はどれも銀杏並木の坂道で、駅に向かって下っている。 3ブロックほど坂を上がると道はほぼ平坦になる。向こうから急ぎ足で歩いてきたご婦人が私とすれ違ってすぐに引き返し、私を追い越して戻っていった。道の先の宝来公園の角を曲がって行ったが、すぐに見えなくなった。何か忘れ物でもしたのだろうか、雨の中で疾風のように消えてしまった。 宝来公園は、大正年間の田園調布の宅地開発に際し、武蔵野の景観を残すために公園としたと看板にあった。その公園横の道は急坂の下り坂で、吸い寄せられるように行きかけたが、看板に敬意を表して公園を通っていくことにした。とはいえ、冬の雨の日の暗い公園には当然のように誰もいなくて、いくぶん気持ちが沈むのだった。それでも園内には、小さな雨粒を浴びながら白梅と紅梅が咲いていた。 斜面に造られた公園を下って道に出ると十字路で、公園横を下ってきた道はそこから急に上り返している。少しばかり息を切らして登り切ると、その先は滑り止めが施されるほどの急坂が下っていて、ずっと向こうに多摩川が霞んでいる。 田園調布は大正年間の宅地開発で、自然の起伏をそのまま残している。仙台でも古い開発団地は自然地形を利用しているが、戦後の経済成長期以降の郊外団地は山を削り、谷を埋めて造られている。 私は地盤の固い旧市街地に住んでいるが、新出来の団地に住む友人の道向かいの住宅は宮城県沖地震で住めなくなり、耐え替えた家も東日本大震災で住めなくなったという。道のこっちは山を削った土地で、道向かいは谷を埋めた土地だったと友人が語っていた。工学的に片を付けることが必ずしも賢いわけではないのだ。Photo I 多摩川通り。(2016/1/29 12:14) 坂を下りきって丸子川という小さな川(堀?)を渡り、住宅地を抜けて多摩川に出る。堤防の多摩川通りを歩いてみたが、だだっ広い景色は雨に煙って遠目が効かず、直線道路を行く車のスピードとまき散らされる飛沫が嫌になって、すぐに住宅地に降りた。Photo J1(左) 丸子川沿いの道(1)。(2016/1/29 12:19)Photo J2(右) 丸子川沿いの道(2)。(2016/1/29 12:25)Photo J3 照善寺山門。(2016/1/29 12:24)Photo K1(左) 八幡神社の鳥居。(2016/1/29 12:26)Photo K2(右) 八幡神社。(2016/1/29 12:28) 丸子川に出て川に沿う道を歩くことにした。川を挟んで両側に道があったり、岸沿いに桜が植えてあったりして、天気が良ければいい散歩道だ。 少し行くと、丸子川の対岸(山側)に照善寺の山門が現れる。山門からちょっと覗いただけで、ふたたび川沿いの道だ。次は「八幡神社」の額が掛かる鳥居が現れた。神社を抜けて山手の道に出られそうなので、鳥居をくぐり境内に入った。由緒書きに、鎌倉時代には源氏の氏神である八幡神社が多く建立され、この神社もそのころの創建だとあった。Photo L1(左) ここから尾山台。(2016/1/29 12:34)Photo L2(右) 宇佐神社の鳥居。(2016/1/29 12:42)Photo L3 宇佐神社から見る傳乗寺。(2016/1/29 12:43) 八幡神社の裏の道に出て、丸子川に平行する道を西へ向かう。いわば丘陵の斜面をトラバースするような道だが、けっこうアップダウンがある。尾山台に入ってすぐに右折して田園調布雙葉中学校、高校の前の坂を上ってから、一段上の道をふたたび西に歩く。 変則的な十字路をクランク上に曲がってまた西に向かう道に入ると右手に鳥居と石段が見える。鳥居の横に「宇佐神社」の石柱が建っている。階段を上がると、木々を背後にさほど大きくない本殿があった。境内から道向かいの傳乗寺の本堂の大屋根や大銀杏の木が見える。Photo M1(左) 尾山台2丁目から等々力1丁目の急坂。(2016/1/29 12:53)Photo M2(右) 下りきって階段道を上がる。(2016/1/29 12:55)Photo N 階段道を降りて目黒通りへ。(2016/1/29 13:00) 宇佐神社の本殿脇の階段を下りて元の道に戻り、再び西に向かう。目の前の十字路を大勢の若い人たちが横切って右手の坂を上っていく。地図を見ると、坂の下、丸子川の向こうに東京都市大学のキャンパスがあって、大学から東急大井町線尾山台駅へ向かう学生さんたちのようだ。 東京都市大学という名前は初めて聞いたが、かつての電気通信大学だという。電通大には同じ分野の先生が二人いて、研究会や国際会議で何度もご一緒したが、もう退職される時分だ。 十字路を右折して、少しの間、学生さんたちの後ろを歩いてからまた西に向かった。道は急激に下り(Photo M1)、南北に走る道と交差した先は階段道(Photo M2)になっている。 高い階段の上には神社や寺と相場が決まっていると思いながら上がってみると、普通の住宅地であった。そこを抜ければ、今度は下りの階段道で、そこを下れば目黒通りの広い道である。Photo O1(上) 等々力不動尊山門。(2016/1/29 13:03)Photo O2(下) 本堂。(2016/1/29 13:03) 目黒通りを等々力駅の方向に坂を上がって行くと、右手に小高い林があって「御岳山古墳」の石柱があった。世田谷区野毛から田園調布にかけて多摩川の左岸丘陵の山麓に50数基の古墳があって、その一つの帆立貝型の古墳で副葬品には内光花文鏡が含まれていたと説明されていた。 御岳山古墳を過ぎた坂上の信号を渡り、道向かいの等々力不動に入ってみた。「致航山満願寺」であるが、山門には「瀧轟山」の山号扁額が掛けられていた。雨の寺院に人影は見えず、山門脇の新しい白木の「節分追儺幸男幸女芳名」に掛けられた大勢の人の名前が雨に濡れていた。Photo M1(左) 等々力渓谷。(2016/1/29 13:15)Photo M2(右) ゴルフ橋。(2016/1/29 13:17)Photo Q 東急大井町線等々力駅。(2016/1/29 13:24) 等々力不動から駅の方に少し歩くと「等々力渓谷」の案内看板があった。雨の渓谷歩きにはさすがに逡巡したが、地図では渓谷路から等々力駅に出ることができそうなので、渓谷に降りることにして、住宅地を通り抜けた。 渓谷を流れる川は「谷沢川」という。「谷」で「沢」で「川」という三段重ねの念の入った名前で感心してしまった。 両岸は樹木の繁る斜面で渓谷らしい雰囲気だが、川そのものは三面張りの水路になっている。しかし、環八通りの下を過ぎたあたりから白波を立てて流れ落ちる箇所も現れてきた。 赤いゴルフ橋の脇の左岸の道を上れば、等々力不動からの道に戻る。そこから等々力駅は目と鼻の先で、駅近くの蕎麦屋さんで昼食をとって街歩きは終了である。街歩きMap。A~Qは写真撮影ポイント。地図のベースは、「ゼンリン いつもNAVI(PC)」。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.29
コメント(2)
8:05発の新幹線で仙台を出発したとき、雪がちらつき始めていた。白石市を過ぎるころにはうっすらと積もり始めていて、雪掻きのことが気にかかる。20cmくらいの積雪でおさまってくれれば助かるのだが……。 この29日にも高浜原発3号機を再稼働するというニュースが流れ、それに抗議するために関西電力東京支社前で抗議行動をするということをネットで知った。月1回の日曜昼デモを31日にするために今日の脱原発みやぎ金曜デモは休みになっていたので、東京に出かけ関電前抗議、首相官邸前抗議に参加する。 せっかくの東京というので、世田谷美術館分館宮本三郎記念美術館の『画家と写真家のみた戦争』という美術展を見にいくのも目的の中に入れていた。美術評論家の椹木野衣さんが『戦争画とニッポン』 [1] という本の中で戦争画について言われていたことが気になっていたのだ。 アメリカ軍によって接収されていた大量の戦争画が1970年に国立近代美術館に無期限貸与の形で返還されたあと、椹木さんたちがその公開を要請し続けたものの、「社会の国粋主義的な傾向に加担するからよくない」などということで実現しなかったという。敗戦後、芸術家たちの戦争協力への批判はかまびすしかったが、だからといって、その事実としての戦争画を隠してしまうことは「なかったこと」にしたい歴史修正主義にほかならない。しかし、「当時としてはどこに国粋主義などあるのかという思いだったのだが、今日ではにわかにその心配が高まってきた」という意味のことを椹木さんは語られていた。 安倍自公政権が成立してから、国会における絶対的多数を背景に秘密保護法、集団的自衛権を容認する安保法制など解釈改憲に踏み切ったばかりか、あからさまに憲法改悪を広言している。政権そのものが極右化していることをいいことにネット上での「国粋主義的」言説や、街中でのヘイトスピーチなどの「国粋主義的」行動があからさまになってきた。 このような「国粋主義的」強権発動をその権力の本質とする安倍自公政権によって、原発も再稼働されるのである。免震棟は作らなくてもよい、ケーブルの不正な敷設があっても再稼働する原発(川内、高浜)には目をつむるという規制委員会によって安全性の追求は次々に放棄されている。これもまた、それをよしとする強権的な政府の意図を背景としているのだ。 日本の政治は、まともに歴史を見ることがない、現実に起きたことから何一つ学ぼうとしない歴史修正(歪曲または無視)主義的思考にまみれているけれども、私は、戦争画が芸術家による戦争協力、戦争賛美であろうとも、かつてなされたこと、起きたことをまっすぐに見ておきたいと思ったのである。関電東京支社は富国生命ビルに。(2016/1/29 17:19) 10時過ぎから小雨が降り続いている。冷え込んできた夕方になって時々強い風が吹いて冷え込みを加速させている。暮れかかるころ、日比谷公園に向かった。 関西電力東京支社は、日比谷公園の西隣、国会通りに面している。 日比谷公園を抜けると、国会通りの向こうの歩道に5、60人くらいでもあろうか、集まって抗議の声を挙げている人たちが見えてくる。官邸前や国会前に行ったことはあっても、関電東京支社は初めてである。このビルの9階に関電支社が入っているという。 関電支社のある9階に向けて抗議。(2016/1/29 17:21) 車道寄りに並んだ抗議の人たちは次々と抗議のスピーチやコールを挙げている。富国生命ビルの玄関は5mほどの階段を上ったところにあって、最上段には制服姿の二人が抗議する人たちを見下ろしている。抗議は憤りに満ち。(2016/1/29 18:04、07) 「福一事故」のあとでは原発を再稼働することそのものが理不尽であること、再稼働の容認が免震棟建設やケーブル不正敷設を容認することで強行される不正そのものであること、高浜原発ではMOX燃料を使用するなど危険に危険を重ねる愚行であることなどを、抗議の声は訴え続ける。 埋めたい雨が降り続く。 (2016/1/29 18:01、08) 高浜原発は、今は再稼働以前の再起動状態に入って明日の朝には臨界に達するとみられる。それでも、私たちは福井から遠いこの地で反対・抗議を続けるしかない。一人が「私たちはけっしてやめない。反対の声を上げ続ける」と絶叫する。そうだ。それしかない。 18時20分ごろまで関電支社前にいた。仙台のデモの時より薄着だが、東京の日中では汗ばむほどだったので、寒さ対策は十分と思っていたが、かなり体が冷え込んできた。降り続く小雨を防ぐためにカメラをジャケットの中に入れていた。防寒ジャケットが半分ほど前開きなので冷え込むのだと、カメラをすっぽりとジャケット内に収めたが、じっと立ち尽くしたままでは一度冷えた体に体温が戻りそうにもない。 まだ抗議行動は続いていたが、18時20分ごろに首相官邸前に向かった。官邸前の最前線。 (2016/1/29 18:39) 第1のグループ。 (2016/1/29 18:39、19:10) 富国生命ビルから首相官邸前まで1kmほどある。出来るだけ体を動かそうで大股かつ急ぎ足で歩いた。そのせいで冷え込んだ体に幾分か体温が戻ってきた。官邸前の抗議の列の先頭にたどり着いた時にはほとんど寒さを感じなくなっていた。 第2のグループ。 (2016/1/29 19:09~11) 雨と寒さで以前に来た時ほどの人出ではないが、抗議の列の前の方ではいつものような大きな声が上がっていた。そういえばフェイスブックで「雨が降ったから人が減ったなんて言われるのが悔しいからぜったい官邸前に行く」という投稿を見かけた。しかし、主催者の悪天候への配慮もあって、今日の抗議行動は官邸前だけで、国会正門前は中止になっていた。 私のように以前から計画を立てていて、朝のうちに新幹線に飛び乗った人間はその慣性力に逆らえず、悪天候とはいえ参加するしかないのだが……。 グループの中で。 (2016/1/29 18:54~17:14) 官邸前で上がっていたコールも、今日は高浜原発再稼働への抗議の声がほとんどである。一通り写真を撮り終えた私もコールの列に加わる。 車の出入り口で分断された抗議の列の先頭に見知った顔が見える。以前にFB友の目良誠二郎さんから紹介していただいた「NONUKES MORE LOVE」のグループの人たちだ。その中の何人かにはFB友になってもらっている。その中に入れてもらってコールに声を合わせていると、グループの人がつぎつぎ入ってくる。目良さんもカメラを抱えてやってきた。 「高浜原発、ただちにやめろ」、「やめられないなら首相が辞めろ」などと声を上げているうちに19時30分になった。抗議は20時まで続くけれども、仙台の雪掻き人は早めに引き上げたのである。 [1] 椹木野衣、会田誠『戦争画とニッポン』(講談社、2015年)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.29
コメント(2)
東京メトロ銀座線の終点、浅草駅から地上に出るとすっかりと晴れ上がった上天気である。この空の下を歩いてから地下鉄に乗ったはずなのに、この時に気づいたというのは変なことだが、地下から地上へという落差がそうさせるのかもしれない。 早朝に仙台を出て、上野の東京都美術館で『ボッティチェリ展』を見てからの街歩きだが、仙台を出たままの服装で館内に入ったら、暑さで気持ち悪くなってしまった。 季節を2か月ほど巻き戻すように脱ぎ捨てた服でザックがパンパンに膨らんで、ただの散歩なのに傍目には山登りのように見えるだろうと思いながら、まったく起伏のない墨田区の街を歩くのである。Photo A1 吾妻橋西詰から。(2016/1/27 12:09) Photo A2(上) 吾妻橋から下流、駒形橋方向。(2016/1/27 12:10)Photo A3(下) 上流、水上バスと東武線橋梁。(2016/1/27 12:11) スカイツリーへの案内が地下鉄のアナウンスで流れたとき、この辺りはスカイツリーの地元だということを思い出した。吾妻橋の上の賑わいはそのせいだろう。スカイツリーは、浅草から東急線で一駅だが、吾妻橋からも1km弱でとても近い。 隅田川をのぞき込むと、水上バスというのだろうか、平たい船はまもなく出船するらしく、船の後部から沸き立つ波が少しずつ大きくなっている。Photo B1(左) 観光案内所脇の道。(2016/1/27 12:18)Photo B2(右) ずっとこんな道。(2016/1/27 12:24) 吾妻橋を渡り終えて、東詰で右斜めに分岐する道に入った。時代劇でよく耳にする「本所」という地名に惹かれて南へ向かうのである。分岐する角に吾妻橋観光案内所があって「スカイツリー周辺ガイドマップ」をいただいた。スカイツリーが真ん中に位置する地図だが、亀戸駅がかろうじて左下隅に入っているので役に立ちそうだ。 しかし、街並みは変化がない。普通の民家に3階から5階くらいまでの事務所ビルやアパート、マンションが混在し、時々商店が現れる路が続く。まっすぐな道ばかりで、街は方形に区切られていて、左に曲がっても右に曲がってもほぼ同じ風景である。ときどき目につくのは、民家の前の鉢植えガーデンである。歩道と車道の境に高低を塩梅してたくさんの鉢植えが並べられているところがあるが、箇所は少ない。 この辺りは、関東大震災でも東京大空襲でも甚大な被害をこうむったところで、道はまっすぐに付け替えられただろうし、同じ時期にいっせいに家々を建てたのだろうから、どこも時代的変遷という意味では似てしまうのであろう。これもまた、この街の歴史の所産ということだ。 南北に走る細い道から春日通りに曲がるあたりに源光寺という寺があって、門の脇に「無門堂」の案内があった。「墓地を継承、お祀りする継承者がいない方の為に、〔……〕墓地内に永代供養合祀墓「無門堂」を建立しました」とあって、なぜかほっとする気分になる。 わが家の墓所にも放置された墓が散見されるが、町内に空き家がどんどん増えていることと相まって、これからますます継承者がいない墓が増えるだろう。こういう施設なり施策なりが必要なことは言うまでもないが、多くの墓が宗教と強固に結びついていて行政は立ち入ることができないという困難もある。葬送、埋葬はごくごく私的な行いだが、すべての人間に例外なく訪れるという意味ではすぐれて共的な側面もあるのだが……。Photo C 外出小学校と若宮公園。(2016/1/27 12:32)Photo D 冬のシンビジウム。(2016/1/27 12:35)Photo E 野見宿祢神社と総武線高架。(2016/1/27 12:44) 春日通りから左折してふたたび南北に走る道に入る。この辺りはとっくに本所で、時代劇の地名でインスパイアされた街歩きだったが、そんな時代の面影はもちろん見つけられない。 細道に入ってすぐ外出小学校があり、道向かいは若宮公園である。公園内にはたくさんの自転車と若いお母さんたち、子どもたちがいる。お母さんたちは三つほどのグループに分かれておしゃべり(たぶん)に夢中である。風体怪しい身としては、公園の写真を撮るどころではなく、急ぎ足で通り過ぎるのである。 この道の道端ガーデンに立派なシンビジウムの鉢植えがあって、今を盛りと咲いている。1月の外気の中で咲くシンビジウムなど仙台では想像できないが、東洋ランの血が入ったシンビジウムも多く、寒さに強いものもあるのだろう。そういえば、ブログ友のなかに房総でオープンガーデンをやっている人がいて、冬に地植えのシンビジウムが咲いているという記事を読んで、狭い日本のその広さに驚いたことがあった。 南に歩き続けて、遠くに総武線の高架が見えだす頃、北斎通りに出る。通りの向こうに見える社は、野見宿祢神社である。野見宿祢という名前からものすごく古い神社かと思ったが、明治18年建立とあった。境内に2基の石碑があって歴代横綱の名前が記されている。 Photo F1(上) 大横川親水公園(1)。(2016/1/27 13:00)Photo F2(中) 大横川親水公園(2)。(2016/1/27 13:04)Photo F3(下) 大横川親水公園(3)。(2016/1/27 13:06) 野見宿祢神社から北斎通りを東へ、地図の帯状緑地「大横川親水公園」に向かう。7~10階建てのマンションが目立つ道である。三ツ目通りを越えて800mほどの距離である。 親水公園を北に歩くと正面やや右にスカイツリーが見える。水管橋が並走する清平橋までは両脇に植栽のある広場のような公園である。清平橋は関東大震災の復興事業の一つして架けられたというプレートがあった。 清平橋の下をくぐった向こうは、流水のある文字通りの親水公園になっている。浅いけれども結構な速さで流れている小川が分岐していて、中洲の道を歩いていくと蔵前橋通りに架かる法恩寺橋に出る。Photo G 法恩寺。(2016/1/27 13:14)Photo H 本所消防署。(2016/1/27 13:25) 法恩寺橋の西詰から蔵前橋通りに上がり、橋名の由来になった法恩寺を見に左の横道に入る。法恩寺の塀越しに三重塔(鐘楼になっていた)が背後のスカイツリーと並んで見えている。法恩寺は太田道灌によって創建された古刹だという。 三重塔と山門とスカイツリーを1枚の写真に収めたが、たくさんの電線も一緒に写っている。16本まで数えられたが細い線がもう少しあるようだ。どっかにカラスかトンビが絡まってはいないだろうかと心配するほどの線である。 法恩寺から東に歩いて四ツ目通りに出る。すこし北上して右折するとピラミッドのような斜面壁をもつ本所消防署の建物が目に飛び込んでくる。このビルは背後の方形のビルやピラミッドに突き刺さったような円形のビルと一体になっている。この建物には左右に玄関が二つあって、一つは本所消防署、もう一つは本条防災館の看板があった。 Photo I1(上) 栗原橋から横十間川下流。(2016/1/27 13:32)Photo I2(下) 栗原橋。(2016/1/27 13:33) Photo J1(上) 亀戸天神社の脇参道。(2016/1/27 13:38)Photo J2(中) 亀戸天神社。(2016/1/27 13:41)Photo J3(下) 太鼓橋と藤棚。(2016/1/27 13:42) 亀戸天神社経由で亀戸駅まで歩くように、本所消防署から栗原橋に出て横十間川を越える。 裏手から亀戸天神に入ろうと細道に入ったが、途中で方向を失ってしまった。右、左、右と曲がったあたりで亀戸天神の方角が一瞬分からなくなったのだが、そこから5mほどの左手が神社の裏口だった。 境内の西側の道(脇参道と呼んでおく)を通って本殿の前に出る。さすがに結構な人出である。境内には池があって朱に塗られた太鼓橋が二つ架けられている。池の周りには広く藤棚がしつらえてある。天神様なのに梅ではなく藤の名所らしい。Photo K 明治通り(亀戸十三間通商店街)。(2016/1/27 13:59)Photo L JR総武線亀戸駅。(2016/1/27 14:03) 亀戸天神を出ると蔵前橋通りである。蔵前橋通りを東に100mほど歩いて、右手の常緑広葉樹(樹種はわからない)の並木の道を歩く。ここも事務所ビルとマンションの道である。 常緑広葉樹の道から左に折れるとすぐに明治通りに出る。歩道にアーケードのある商店街で、亀戸十三間通商店街と記された「迎春」の旗がたくさん吊り下げられていた。 その商店街を南下すればJR総武線亀戸駅である。駅前のバス発着場付近まで来ると、高架駅に到着した下り電車が止まっていた。ずっと墨田区を歩いていたつもりだったが、横十間川のこちらは江東区である。街歩きMap。A~Lは写真撮影ポイント。地図のベースは、「ゼンリン いつもNAVI(PC)」。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.27
コメント(4)
暗さで気が付かないような小雪がちらついている。シンサレートのインナーを着込んだので寒さ対策は十分だろうとこれまでのジャケットを羽織って家を出てきたのだがが、次第に冷え込んできて、ダウンのジャケットにすればよかったと思い始めたころに勾当台公園に着いてしまった。 すでに野外音楽堂前に集まっていた4、5人と挨拶を交わしたが、すべて「冷え込みますね」、「寒いですね」という言葉の挨拶だった。 小雪ちらつく勾当台公園野外音楽堂。(2016/1/22 18:12、20) フリー・トーク。(2016/1/22 18:14~25) 中にはベンチに座っている人もいるが、ほとんどの人は立ったまま寒さをしのいでいる。私は私で、写真を撮るふりをして周りを歩き回る。じっとしているより少しは寒さがしのげる(という気がする)。 最初のトークは、毎回、杖を突きながら元気にデモを歩く人の「カンパ」の話である。 週に一度通っているリハビリ施設で知り合った86歳のご婦人に自分で書いた短編小説を読んでもらったという。その小説は私もコピーを頂いて読ませてもらったのだが、脱原発金デモのこと、亡くなった愛犬にそのデモのことなどを語りかけるというストーリーである。そこに、金デモが参加者のカンパでもろもろをまかなっているという一節も書かれている。 その小説を読んだ老婦人に「とてもデモには出られないので、せめてカンパだけでも」とお金を託されてきて、たった今、カンパ箱に入れました、という話だった。この冷え込みで40人くらいしか集まっていないが、そのみんなから何とも言えない声が上がった。気持ちが暖かくなる話で、励まされるし、元気も出てくる。 続いて県会議員の大内真理さんが、「脱原発をめざす宮城県議の会」の活動の一つとして、元原子炉技術者の後藤政志さんを招いて開催された勉強会について話された。59人のうち20人もの県議が参加している「脱原発をめざす宮城県議の会」の今後の活動が期待されるし、何らかの形で将来原発を止めるという点に関しては県議の半数以上が賛成だという話も聞いたことがある。 一方、次のトークは、女川原発の立地自治体である女川町議会では、原発に反対する町議は3人だけで、原発に関する請願などは全く通らないという苦しい状況の中で頑張っているという話で、「私たちが頑張らねば。頑張りましょう!」という締めくくりだった。 また、河合弘之弁護士が監督した映画『日本と原発』の自主上映会の告知があった。3月14日、岩沼市の公民館で2回の上映を行うということである。 勾当台公園→勾当台通り→定禅寺通りの信号待ち。(2016/1/22 18:38、42、48) 集会の30分の長さが寒さを我慢する限界と思われるほどで、司会者の「デモの準備にかかりましょう」という合図の後、みんなの動き出しがいつもよりきびきびと早かったのは私の気のせいではないだろう。 寒さしのぎに両手の鳴子をびゅんびゅん振っている人もいるし、「新兵器のデモアイテムです」と超小型のマイクとスピーカーを装着した人もいて、人数の少ない割には意外に賑やかにデモは出発した。 雪の残る一番町。(2016/1/22 18:50、51、53) 日の当たるところの雪はほとんど溶けてしまっているが、一番町には除雪した雪を積み重ねた山があちこちに残っている。デモの列は雪山を避けてうねって進むのである。 広瀬通りを越えれば、アーケードに覆われた雪のない一番町となる。 広瀬通りから青葉通りへ。(2016/1/22 18:56~19:00) あるフェイスブック友だちの投稿で、赤坂憲雄さんが1月17日付の福島民報に「山や川や海を返してほしい」という文章を寄稿していることを知った。学習院大学教授で福島県立博物館館長でもある赤坂憲雄さんは、慶応義塾大学教授の社会学者、小熊英二さんとの共編著の『辺境から始まる』 [1] があるが、『東北学へ』シリーズなどを著されている民族学者である。 政府も福島県も、そして、それぞれの市町村さえも、放射能汚染地となった故郷から避難した人々を躍起になって帰還させようとしている。日本の国民は1mSv/年以下の被爆に抑えられるように法で守られているというのに、福島の人たちは20mSv/年まで被爆してもいいのだ、というあまりにも不当な差別のもとに帰還が進められている。 赤坂さんはそのことに異を唱えているのである。 福島の外では、もはや誰も関心を示さないが、どうやら森林除染は行われないらしい。環境省が、生活圏から離れ、日常的に人が立ち入らない大部分の森林は除染を行わない方針を示した、という。それでいて、いつ、誰が「安全」だと公的に宣言がなされたのかは知らず、なし崩しに「帰還」が推し進められている。 わたしは民俗学者である。だから、見過ごすことができない。生活圏とはいったい何か。人の暮らしは、居住する家屋から20メートルの範囲内で完結しているのか。もし、そうであるならば、民俗学などという学問は誕生することはなかった。都会ではない、山野河海[さんやかかい]を背にしたムラの暮らしにとって、生活圏とは何か、という問いかけこそが必要だ。 〔中略〕 除染のためにイグネが伐採された。森林の除染は行われない、という。くりかえすが、生活圏とは家屋から20メートルの範囲内を指すわけではない。人々は山野河海のすべてを生活圏として、この土地に暮らしを営んできたのだ。汚れた里山のかたわらに「帰還」して、どのような生活を再建せよと言うのか。山や川や海を返してほしい、と呟[つぶや]く声が聞こえる。 家に閉じこもった生活でしか20mSv/年以下が保証されないのだ。20mSvという数字そのものが福島に住む人々の将来的な健康を無視した数字なのに、普通に暮らせばそれ以上の被爆が実質的に想定されるのだ。 何よりも、赤坂さんが指摘するように、現在の帰還政策は、人間が「ある場所」で生きることの意味をまったく考えていない非人道的な措置なのだ。 青葉通りを東進。 (2016/1/22 19:01、09、11) 一編の詩がある。東京電力福島第一原発の過酷事故のために富岡町から避難せざるをえなかった女性の詩 [2] である。「富岡のそらへ」 佐藤紫華子そーと吹いてくる風に誘われてすゝきの穂がたなびいている北へ 北へなつかしい富岡の空へ向かって!あの空には思い出がいっぱい私達の心をのせて雲は両手を広げ茜色に染まる空へと走って行く…… 森も、山も、川も、私たちが暮らす故郷である。空も、雲も、私たちの故郷には欠かせない。放射能にまみれた森や川、放射能を降らせる空と雲の下で生きることを強制する社会とは何か。私(たち)もその社会の一員であることの意味を考える。考えながら、原発に反対してデモを歩く。 小雪のちらつく街のデモを終えて、地下鉄東西線を国際センター駅で降りて地上に出ると、川内は一面の雪景色であった。地下鉄でたった5分の距離でこんなにも天候が違うのだ。この雪も私の暮らす故郷そのものの一部をなしているのだ。[1] 赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年)。[2] 佐藤紫華子『原発避難民の詩』(朝日新聞出版、2012年) p. 110。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.22
コメント(8)
今年最初の「19日行動」である。2015年9月19日未明に参議院で安保関連法案が強行採決されたことから、その日のことを忘れずに安保関連法の廃止を求めていく行動日である。 もちろん、午後6時から仙台市役所前の市民広場で開かれる「とりもどそう! 立憲主義、民主主義、平和主義/安保関連法(戦争法)の廃止を求める市民集会」(「19日行動」)に出かける予定でいた。 ところが、昼食の準備をしていたとき、ふらっと倒れそうになるほどの突然の発熱である。いや、発熱していたことに気づかないで昼食の準備を始めたらふらっとしたということなのだが、なんとかカニ雑炊を作りあげて家族に食べさせ、外出する妻を車で送り届けた。それぐらいをやっておかないと、私の外出は止められてしまうのである。 3時間ほど休んでも熱は下がらなかったが、出かけることにする。しょっちゅう風邪をひくので、体を動かして直すという逆療法をときどきやっているが、今日はそのやり方である。それで治ることもあり悪くなることもあって、つまり、とくに効果があるわけではないのだが、そういう理屈でもつけないと外出できないのだ。 集会風景@市民広場(仙台市役所前)。(2016/1/19 18:01~06) 集会挨拶。(2016/1/19 18:01~25) この「19日行動」は、「19に行動市民連絡会」、「安保法制廃止みやぎネット(発足準備会)」、「野党共闘で安保法制を廃止するオールみやぎの会」の三団体の共催である。 市民広場にはたっぷり雪が残っているが、ステージ前だけ丸く雪掻きがしてあって、そこにびっしりと人が入り込んでいる。主催者発表では200人余りが参加しているという。 集会では、民社党参議院議員の桜井充さん、共産党の参議院選立候補予定者の岩淵彩子さん、社民党からは小山勇朗市議会議員、オールみやぎの会の森田真理さん、憲法九条の会の後藤東陽さんなどがそれぞれの挨拶の中で、戦争のできる国を目指す憲法改正、TPPや貧困(格差)など国民の生活を壊そうとする安倍自公政権の政策をためるための、共闘や連帯の必要性、決意を次々に話された。 市民広場から一番町へ。(2016/1/19 18:29~37) 一番町(定禅寺通り~広瀬通り)を行く。(2016/1/19 18:36~40) アピール行進は、市民広場から定禅寺通りを越えて一番町を青葉通りまで歩き、左折して青葉通りを仙台駅方向に進み、仙都会館前で流れ解散となる。 定禅寺通りから広瀬通りのあいだの一番町には全天型のアーケードはない。そのため、一昨日から昨日にかけて30cmほど降った雪がそこかしこにけっこう残っている。除雪は各店舗がそれぞれのスタイルでやったりやらなかったりということらしい。 広瀬通りに出ると車道から除雪した雪が寄せられていて、電動車椅子の参加者が高さ20cm、幅1mほどの雪の山を越えられない。カメラを抱えてデモの列の周りを遊動的に走り回っている私が車いすの後ろを押すのである。 一番町(広瀬通り~青葉通り)を行く。(2016/1/19 18:43~47) 広瀬通りから青葉通りまでは全天型のアーケードなどで、足元を気遣わなくてすむアピール行進は快適に進む。 青葉通りに出れば車道を歩くことになる。除雪された雪が側道に残っているけれども、あまり車道中央部にはみ出ないように気を付けてほしいという主催者の注意があった。そのためか、車いすの参加者は青葉通りの手前でデモの列から離れていった。 青葉通り(一番町~国道4号~仙都会館前)。(2016/1/19 18:48~57) 東2番丁通り(国道4号)の地下歩道をくぐってデモの先回りをした。200人余りの列が1回の青信号で渡り切れるのかどうか心配だったが、ぎりぎりで全員が渡ってくる。 側道に残る雪は、日中の暖かかさのため、びちゃびちゃの水混じりである。雪が排水を妨げるこんな状態が歩行者には最悪であるが、アピール行進の列はやや車道中央寄りの雪のないところを歩くことができた さて、2月の「19日行動」は街宣のみで、次回の集会・アピール行進は3月19日(土)の予定である。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.19
コメント(8)
とても寒い夕方だ。けっこう着込んだので体はそんなに冷えないのだが、顔や手が冷たくなる。とはいえ、仙台の冬としてはたいしたことはないのだ。12月から正月にかけて、雪も降らず、温かい冬を過ごしているので、ちょっとした寒さに体が驚いているだけなのである。 来週から本格的な寒波がやって来るらしいので、今日の寒さは体馴らしとしては手ごろというべきだろう。冬は冬らしく厳しく寒く、夏は夏らしく激しく暑いのが良い。暖冬の冬は冷夏の兆し、そんな年が何度かあって、夏のアユ釣りが絶不調だったという経験が身に染みついている。 集会風景(勾当台公園野音)。(2016/1/15 18:11、16) フリー・トーク。(2016/1/15 18:09、26) こんな寒さは仙台では普通だと強がりを言ってみるものの、勾当台公園野音での集会でじっとしていると寒さが少しずつ体に侵入してくる。 主催者代表挨拶は、九州電力川内原発では免震棟を建設しないというニュースで始まった。川内原発には免震棟がない。1号機、2号機の規制委員会の審査は、将来的に免震棟を建設するということを前提に新規制基準をクリアしたとして再稼働を容認した。大事故を起こした東京電力福島第一原発には免震棟があって、それがなかったら状況はもっと絶望的だったと東京電力に言わしめたほどの重要な施設である(もっとも、免震棟があって助かったのは、現場に残らざるを得ない東京電力の社員だけであって、放射能をまき散らされた住民の安全には何の役にも立っていないのだが)。 免震棟を建設しないという九州電力の判断に、規制委員会は遺憾の意を示しただけで何の対応もしていない。再稼働に支障がある案件であっても「いずれなんとかします」とさえ言っておけば規制委員会は承認し、あとでそれが実施されなくてもそのまんまなのだ。つまり、審査なんか何の意味もないということだ。規制委員会の審査などというのは再稼働するためのおためごかしの儀式に過ぎないということである。規制委員会が、国民の健康や安全のために何事かをなしうると期待するのは難しい。 続いて福島市から参加された岩淵友さんが福島の現状を訴えながら、宮城の脱原発運動への連帯の意志を話された。岩淵さんは、コーラーも引き受けられて、張りのある声でこの後のデモをリードされた。 また、学生さんの有志が鎌仲ひとみ監督の映画『小さな声のカノン』の自主上映を計画しているという告知があった。2月6日(土)の午前、午後の2回の上映を東北福祉大学三条キャンパスで行う予定だという。告知された学生さんは、福島の出身で放射能の被爆問題は全く他人ごとではないのだと話された。 勾当台公園→表小路→定禅寺通り→一番町。(2016/1/15 18:37、38、44) 一番町に入る。(2016/1/15 18:45、47、49) どういうわけか、夜がことさら暗く感じる。勾当台公園を出て県庁前を行く時も、国道4号を渡るときも、表小路から定禅寺通りを渡るときも、絞り優先に設定したカメラではシャッター速度が遅くなりすぎてゆっくり歩くデモ人の動きについていけない。 濃い闇というのは夏のイメージのように思っていたが、とくに物理的に根拠があるわけではない。冬でも暗い夜は、やはり暗いのである。 総勢50人の一番町。(2016/1/15 18:47~48) 今日のデモの参加者は50人。私の記憶力や注意力の問題かもしれないが、あまり記憶にない顔が何人もいる。こうして、人は入れ替わり立ち代わりしてデモは続くのだ。 デモ参加者の延べ人数が膨大なものになることはわかるが、1度でも参加した人の数(つまり、脱原発デモ経験者)はどれくらいになるのだろう。それもかなりの数になるのではないかと思うのだ、どうだろう。ぶらんどーむ一番町。(2016/1/15 18:56、57) 東二番丁通り(国道4号)。 (2016/1/15 19:08) 今日の一番町はいつもよりずっと人が少なくて、そのせいかとても広い道のように感じられた。歳末商戦も忘年会もない街で、冬らしい寒さの夕べは人通りも少なくなるということなのだろう。電飾だけがやけに目立っている。 1月14日の河北新報ネット版に「〈女川原発〉5km圏 ヨウ素剤配布進まず」という記事が掲載されていた。宮城県が女川町と石巻市の原発5km圏内の住民にヨウ素剤の配布を促しているが、問題が多すぎるとして市も町も配布に踏み切っていないという記事である。 ヨウ素剤は、原発事故時に飛散する放射能のなかで短半減期のI-131の甲状腺への蓄積を抑制して甲状腺癌の発生を少なくするために事故直後に服用しなければならない。しかし、ヨウ素剤が役に立つのは甲状腺癌に対してだけであって、その他のもろもろの急性障害、晩発性障害、低放射線の長期被爆障害には何の効果もない。事故が起きれば、ヨウ素剤によって助かる人も確実にいるだろうが、全体の被害を見れば福島やチェルノブイリ事故の被害規模とそれほど変わらないだろうことは自明である。5km圏内どころの話ではない。 記事の中で、とくに目を引く記述があった。配布を渋る市、町の動きに対して、県原子力安全対策課の発言に次のような一言があったという。「議論は重要だが、原発は今そこにある。住民の安心のためには早く配った方がいい。」 「原発は今そこにある」と言うのである。この危機認識はきわめて正しい。今そこにあって、すぐにも事故が起きる可能性があるから早く配ってほしい、そういう意味の発言である。 しかし、事故の危険のある原発が「今そこ」にあるのなら、ヨウ素剤を配るかどうかなどとのんびり議論している場合ではないだろう。出来るだけ急いで住民を非難させなければならない。それが無理なら、事故が起きないように原発の再起動を諦めさせたうえで、廃炉にするよう東北電力に求めるのが県民の生命、財産を守るべき県のやることだろう。 ヨウ素剤を配ることや、避難計画を立てることで守れるものなどたかだか知れている(ないよりまし、そんな程度だ)。廃炉にすることで守れる土地や人間とは比ぶべきもない。 ダイエー前。 (2016/1/15 19:09~10) デモに出かける前に、頼んでいた本が届いた。堀内和恵さんの『原発を止める島』である。上関原発建設計画が持ち上がってから30年以上にわたって反対を続けてきた祝島の人々の苦闘のルポルタージュである。中には、映画監督の纐纈(はなぶさ)あやさんや鎌仲ひとみさん、写真家の那須圭子さんたちの祝島に寄り添う活動の報告も含まれている。 表紙裏には次のような惹句が書かれている。日本では、一七ヵ所の地で原発が建設されてきた。だが、それをはるかに超える二九ヵ所の地で原発を止めてきた。この事実を知る人は少ない。瀬戸内海に浮かぶ人口約五〇〇人の小さな島、祝島。ここには、三〇数年もの間、原発を止めてきた人びとがいる。祝島から、優しい風が吹いている。堀内和恵『原発を止める島―祝島をめぐる人びと』(南方新社、2016年)南方新社 Tel: 099-248-5455 Fax: 099-248-5457 e-mail: info@nanpou.com URL: http//www.nanpou.com/ 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.15
コメント(5)
2015年の最後の金デモが12月20日にあって、それから1月8日まで20日ほどデモはない。そのあいだ、年の暮れ、正月とそれなりにやらねばならぬことはたくさんあるが、なぜかとても退屈だった。 暮れの大掃除は私が担当する。私一人でやるのである。妻と一緒にやるよりはるかに早く完了する。一人でやる分には、ごまかしは自在なのである。あっという間に終わり、妻は大掃除が終わったと(信じて)満足する。こんな大掃除で退屈はまぎれようがない。 次に、正月料理の買い出しに登山用のザックを担いで出かける。毎年の決まった買い出しなので、B5版に印刷したメモを渡されるので、チェックしながらザックに放り込むだけの仕事である。いくぶん肩にズンと来るが、退屈はまぎれない。買ってきた材料で、おせち用の煮しめを大鍋一つ作る。煮しめとだし巻き卵はずっと私の担当で、料理しているときはいくぶん集中して、さすがに退屈しない。 妻がキントンや膾などのこまごましたものを作っている間に、かまぼこやハムなどを切りながら時間をつぶし、最後にお重に並べるのも私の仕事だが、このあたりですっかり飽きてしまって、退屈は極まっている。 正月三が日はもっと退屈である。朝の餅は私が準備するが、夕方はご飯を炊くので妻が作る。もうたまらなく退屈なのである。義母の介護もあって、体を動かす機会はけっこう多いのだが、心は退屈なのである。 それで本を読む。デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』を読み終えた。ついでに、デリダの『マルクスの亡霊たち』、『ならず者たち』の再読もした。ルロワ=グーランの『身振りと言葉』は、680ページのうち620ページまで読み進んだ。ほかに、詩集を2冊、全詩集を1冊。 それでようやく1月8日の金デモにたどり着いた、そんな感じである。 集会風景(元鍛冶丁公園)。(2016/1/8 18:14) フリー・トーク。(2016/1/8 18:12~22) 元鍛冶丁公園に着いたのは時間前だったが、けっこう人が集まっている。みなさんデモを待ちかねていたのではないかと思ってしまうほどの出足の良さなのである(私のように退屈していたなんてことはないだろうが)。 フリースピーチは年初めのデモらしく、情勢分析から決意の表明に続く挨拶で始まった。続いて、福島から参加された方が、政府の無策のまま放っておかれる福島の現状を怒り、そのアピールをしたくて仙台のデモにやってきたと話された。 次に、「ふくしま共同診療所報告会」の告知があった。ふくしま共同診療所は、放射線被爆の影響をできるだけ過小評価しようとする福島県や福島県立医大に対して、「内部被爆・低線量被爆」のに危険から福島の人々の健康を守るべく設立された。その医療の現場から福島の実情を報告する会が、診療所医師の杉井吉彦さんを講師に、1月31日(日)午後2時から仙台市黒松市民センターで開催される。 ただし、おなじ1月31日には、月1回の脱原発日曜昼デモが午後2時から勾当台公園で、「オールみやぎの会」主催の「激おこ!! 参議院選挙勉強会」が太白区中央市民センターで午後3時から開かれる。 宮城県議会議員の遠藤いく子さんが、「脱原発をめざす宮城県議の会」の結成からこれまでの経過、活動への決意などを話され、そのなかで保守系会派の中にも隠れ脱原発派の議員がいることなども明かされた。県議の会では、さっそく女川原発の設計にも携わった元原子炉技術者の後藤政志さんを招いて勉強会を開くということだった。 最後に、現在行われている電力自由化の公開ヒアリングへの参加の呼びかけがなされ、自由化後には既存電力会社からの乗り換えを希望する人は半数を超えるという東京のアンケート結果の話題などが提供された。乗り換え理由の第1は安い電力料金だが、2番目に原発による電力の拒否が挙げられていることは注目してよいだろう。 元鍛冶丁公園を出発。(2016/1/8 18:32、33) 一番町に入って。(2016/1/8 18:36~40) 決して暖かくはないが、厳しい寒さというわけではない。暮れから正月を暖かく過ごしたせいもあって寒く思えるが、仙台としては「凡庸な寒さ」というところだ。そのせいなのか、今年初めてのせいなのか、出発したデモがあげるコールの声は、冬デモにしては伸びやかだ。 一番町に出ると、相変わらず電飾がきらめいている。昨年までのことは忘れてしまったが、イルミネーションは歳末だけだと思っていた。「仙台光のページェント」が歳末のイベントで、街のイルミネーションはずっと続くらしいのだが、いったい、何を契機に終らせるのだろうか。そんなことが気になる。 ぶらんどーむ一番町。(2016/1/8 18:43~44) サンモール一番町。 (2016/1/8 18:45、46) 広瀬通りを越えてぶらんどーむ一番町に入ると、暮れと少し雰囲気が違う。植木のブルーのLEDが増えているような気がする。中央通りを過ぎたサンモール一番町の電飾の特徴は植木のブルーのLEDだったが、それよりやや大きめのLEDが新たに飾られているようだ(あまり自信のない記憶だが)。 東二番丁通りを越えて。 (2016/1/8 18:54、55) 先史学者で社会文化人類学者でもあるアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』は、人類の発生から現在までの進化の過程を生物学的、社会学的、文化論的に説き起こした大作であるが、そこで解明されている人類の進化は興味深く、かつ悲劇的である。ルロワ=グーランは、1964年の著書の中ですでに次のように述べている。 現在でも、適応は終っていない。進化は新しい段階、脳を外化する段階に及びはじめ、厳密に生活技術の観点からすれば、転換はすでに行われている。〔……〕時間・空間の縮小、行動リズムの増大、一酸化炭素や産業公害への不適応、放射能の浸透性などは、長いこと人間のものと思われてきた環境に、人間が生理的に適応できるかどうかという奇妙な問題を提示している。十全に進歩を利用しているのは社会だけだ、ということにならないかどうか、自問してみることもできよう。個人としての人間は、すでに時代遅れの有機体であって、小脳や喚脳、手足のように役には立つが、人類の下部構造として背景に退き、〈進化〉は人間よりも人類に興味をもっているのではなかろうか。その上このことは、人類という種と動物種の同一性を確認するに他ならない。動物種については、種の到達点だけが考察の対象になるからである。 [1] ヒューマニズム(人間中心主義)は、完全に沈黙せざるを得ない。人間が作り出した一酸化炭素や産業公害や放射能によって、個別の人間ではなく、人類が適応可能かどうか問われている。いまや、個人の私(たち)は時代遅れの有機体に過ぎないという。つまり、一酸化炭素や産業公害、放射能へ私たちの身体的適応は絶対に追いつかないということだ。 一酸化炭素(地球温暖化)の問題も放射能(原発、原水爆)の問題も、その反人類的な本質は明らかにされているにもかかわらず、資本主義を是とする国家群は解決を拒否している。産業公害もまたインドや中国の大気汚染を見る限り、地球規模の解決の見通しは立っていない(国家権力群は解決しようともしない)。この国家権力群は、ネグリ&ハートに倣って《帝国》と呼ぶと概念的にはすっきりと納まるようだ。 青葉通り、最後の信号。 (2016/1/8 18:57) 人類の進化と適応が重大な危機に直面していることを、ルロワ=グーランの記述で辿っているとき、息抜きで読んだはずの詩集の中に、人類どころか地球そのものの墓碑銘が記されていた。〈墓碑銘〉太陽が滅び進化のはてに赤色巨星となり白色矮星と化した その億年の大昔太陽系の惑星((地球))に人類という生物が住み他に比類なき智能を具有し 火星を探査し月に資源を漁り宇宙を往来するほどの科学の粋を極めたが文明から精神を欠落して五蘊皆空を悟らず権力者のムレが互いに国家を樹てて領土と富を諍いそして遂に夢魔の生きものと化し漂える宇宙の塵となった 「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている」(部分) [2] 「そして」なのか「だから」なのかは措くとして、私たちは五蘊を駆使して、原発に反対し、その国家の政策に反対し、今年初めてのデモを歩き、そのデモを終え、明日のさらなる行動へと繋げるのである。 [1] アンドレ・ルロワ=グーラン(荒木亨訳)『身ぶりと言葉』(筑摩書房、2012年) pp. 400-1。[2] 尾花仙朔『晩鐘』(思潮社、2015年) pp. 126-7。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.08
コメント(6)
読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2016.01.01
コメント(13)
全9件 (9件中 1-9件目)
1