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しばらくぶりのデモになった。暮れの28日、「御用納めデモ」と勝手に名付けて参加の予定だったが、急に札幌に出かける用事ができてダメだった。正月明けの13日の昼デモは、本格的な風邪引きの3日目で熱が下がらず、見送った。風邪も治ったし、18日の金曜日こそはと張り切っていたが、午後3時頃に5,6回くしゃみが出たと思ったら急に熱が出だして、家族とヘルパーさんに止められた。 それまでは、脱原発みやぎ金曜デモが始まってから全部参加していたのだったが、結局、連続3回の不参加となった。 しばらくぶりなので、少しは張り切って、少しはいそいそと家を出たのだ。勾当台公園の野外音楽堂に着くと、冷え込みが厳しくなるという予想のわりには集まっている。 さっそく写真に撮っておこうとしたのだが、バッグの中にカメラがない。ならば、携帯でと体を探ったが、スマホもないのである。デモンストレーション用のタブレットPCだけがバッグに入っているだけだった。ちょっと張り切るとこういうことになる。 〈3・11〉大震災で親族を亡くしたが後片付けなどで東京から通っているという人のスピーチがあった。こんなに寒いのに、初めてという人が5,6人もいて、3人ほどがスピーチをした。 遠くで見ていたのではっきりしないが、たぶん以前にも宮城金曜デモにも参加して、『ありがとう!さよなら!原子力発電所』を歌った東京の西村茂樹さん(と私は思ったのだが自信はない)が、3月10日の「原発ゼロ・大行動」の告知を行った。「原発ゼロ・大行動」のポスター写真をフェイスブックでシェアしていて、できれば参加したいと考えていたイベントである。 デモに出発する頃から、天気予報通りに冷え込みが厳しくなってきた。タブレットPCを操作するためにタッチパネル用の薄い手袋では手がかじかんでしまう。外套のポケットにたまたま入っていた毛糸の手袋でも凌げないほど冷えてきた。 しかし、寒くても元気に歩けるのだ。寒さをはね飛ばそうと、シュプレッヒコールはだんだん大声になっていくのだった。 デモ参加者は70人ほどだった。一団となって信号を抜けられるので意外とデモは早く進む。流れ解散場所には予想以上に早く着いて、帰宅するバスの時間までだいぶ間がある。 寒いのにバス停でぼーっと突っ立っているのは能がないと、家に向かって歩くことにした。寒さを凌ぐために、大股、急ぎ足でガンガン歩く。ほとんどペースを落とさず、自宅に帰り着くことができた。 寒い日のデモは、健康によいのである。
2013.01.25
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(「その1」からの続き) Photo H 松陰神社前駅傍の踏切。(2013/1/23 14:16) 松陰神社を出て南に進む道は、文字通り「松陰神社通り商店街」である。この道は「松陰神社前駅」の脇で東急世田谷線を横切る。踏切に差しかかるとちょうど電車が松陰神社通りを横切るところだった(Photo H)。 Photo I 環七通りを渡って右へ。(2013/1/23 14:29) 踏切を過ぎてすぐに左の細道に入る。住宅地の中のクランク状になった十字路を直進して100mほどで右折すると世田谷通りに出る。世田谷通りは、小さな会社の事務所ビルやマンションの並ぶ東京の平均的(平凡)な町並みである。緩やかにカーブする道を東に辿っていくと、環七通りとの交差点に出る。「若林」交差点である(Photo I)。 広い交差点を渡って環七通りの左の歩道を南に少し下って左の細道に入ったのだが、そこの道は地図と一致せず、少しうろうろして迷った。2,3度、右左に曲がりながら進むと、ここでも細い水路を埋め立てた(暗渠にした?)らしい遊歩道(Photo J)。を見つけたので、それを辿ることにした。 Photo J 埋め跡遊歩道。(2013/1/23 14:39) この遊歩道はやはり小川を埋めた跡らしく、道と交差する場所には必ずといっていいほど「ごうのはし」とか「すいどうばし」などかつての橋の名前が表示されている。緩やかに右に曲がっていく道を進むとやや広い道に出るが、道の向こうにも続いている遊歩道をさらに辿ると右手に小さな公園が現れる。たくさんの親子が遊んでいる中を、上は紺、下はオレンジのユニフォーム姿の5,6人がジョギングしながら通り抜けていく。 公園を過ぎて右折すると消防署がある。先ほどのユニフォーム姿のジョギングは署員の訓練中だったのだろうと思っていたら、どこかを周回してきたのらしく同じ集団がやってくる。通りすぎるとき「こんにちは」と大きな声で挨拶されて、慌てて挨拶を返したのだった。 Photo K 正蓮寺前の道。(2013/1/23 14:58) 世田谷警察署のところで左折して、首都高の高架下をくぐって行く。地図に正蓮寺という寺を見つけたので、そこを通って三軒茶屋駅に向かおうと思ったのだが、曲り道を一つ間違えてしまった。当てずっぽうに右、左していたら偶然に正蓮寺(Photo K)を見つけた。 Photo L 細い道の商店街(三軒茶屋)。(2013/1/23 15:02) Photo M 横浜ラーメンのお店。(2013/1/23 15:18) 正蓮寺前の緩やかな坂道を登っていくと、賑やかな商店街に出る。三軒茶屋駅方向を見ると道はY字になっていて、左は細い道だがやはり商店街のようなので、左の道(Photo L)を選んだ。そこに住む人びとの本が、街だ。自由な雑踏が、本だ。夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。 長田弘「世界は一冊の本」部分 [2] 小さな商店街だが、その一軒一軒は物語がぎっしり詰まった本なのであろう。その傍を通りすぎるだけの私が読むことのできない本なのではあるが。 その細道商店街が終わるあたりに「横浜ラーメン」の店(Photo M)があって、小腹を満たしたくて入った。横浜ラーメンというのはこってり系らしいのだが、味は薄め、油は少なめ、麺は普通というように注文できるのだった。それで、あっさり系好みの私もおいしく食べられたのである。 三軒茶屋歩きは「横浜ラーメン」で仕上げとして、そのまま東急田園都市線で渋谷に向かった。 それで街歩きは無事終了のはずだったが、渋谷駅に着くと人身事故があって山手線は内回り、外回りとも運転休止となっていた。再開の予定が立たないとのアナウンスである。不幸中の幸いというべきか、ホテルを赤羽にとっていたので埼京線で帰ることができたのだが、埼京線ホームまでたどり着くのが大混雑で一苦労、乗った電車は私のこれまでの人生で初めてのぎゅうぎゅう詰め(田舎暮らしなので当たり前だが)だったのである。これも「街歩き・東京」である。街歩きMap 地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。 [1] 「佐藤佐太郎秀歌」(角川書店 平成9年)p. 128。[2] 長田弘「詩集 世界は一冊の本」(晶文社 1994年)p.149。
2013.01.23
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午前中に戸越銀座付近を歩き、東急池上線、JR山手線、東急田園都市線と乗り継いで三軒茶屋にやって来た。三軒茶屋も戸越銀座と同様に、なぜかその名前はなじみ深いのだが、理由は分からない。ともに東急沿線なので、東急の宣伝戦略とマスコミがタイアップしてきたのだろうかなどと疑ってみる。かといって、東急が開発した新地でもなさそうだが。 三間茶屋駅北口に上がると、そこは世田谷通りと茶沢通りの交差点である。交差点脇でザックから地図を取りだし、「GARMIN GPS」の立ち上げをしていると、「あぶないっ」という男の声と2,3人の女性の悲鳴があがった。驚いて顔を上げると、広い交差点の真ん中を1歳半くらいの幼児が走っているではないか。母親らしい若い女性と祖母でもあろうか中年の女性が同時に追いついて連れて戻ってくる。さいわい信号切り替わりのタイミングがうまい具合になっていて車は走っていなかったのだが、背筋をしびれが走るような光景だった。お母さんに強く叱られるのではないかと、それも心配したのだったが、そんなこともなくきょとんとお母さんの顔を見上げているので、それにも一安心したのである。 Photo A 茶沢通りを北へ。(2013/1/23 13:22) 気を取りなおして、茶沢通りを北に歩き始める(Photo A)。ここでも、当面の目標は神社(太子堂八幡神社)である。写真に見るように、戸越銀座と較べれば時代の新しい商店街が続いている。 最初の信号がある交差点で左折して細道に入る。道なりに右に折れていくと、川を埋め立てて作ったらしい広い遊歩道に出たので、その道を辿ることにする(Photo B)。 Photo B 茶沢通りを北へ。(2013/1/23 13:29) 東京にはこんなふうに小川を埋め立てて遊歩道にしている場所が多い。街歩きをしていて、しばしばそんな道を見つける。水源林を失った小川は水量が極端に減ってしまう。水量が減った小川は水質が悪化してどぶ川になってしまう。どぶ川よりは遊歩道の方がよい、ということなのだろう。埋立てて成りたる広き舗装路のむかうに満つる虚しさは何 佐藤佐太郎 [1] 遊歩道を少し行くと、親子連れがいる。2歳くらいの女の子が、座り込んでいる大柄な猫に近寄っていく。お母さんがその姿をカメラに収めようと構えている。その二人と1匹を後から写そうと離れたところからカメラを向けると、お母さんが私に気づいてフレームから逃げ出してしまった。そのタイミングで猫が歩き出し、女の子に近寄っていくと女の子は後ずさりするのだった(Photo C)。「傍に寄っていくくせに、向こうから来ると逃げるのよね」と、お母さんが笑っている。それにしても上品な色合いの猫であった。 Photo C 大猫と腰が引ける女の子。(2013/1/23 13:31) 遊歩道をもう少し進んで右折、北上すれば太子堂八幡神社に出る。人通りのない住宅地の道だが、二人連れの女子高生が歩いている。近くに高校があるのかと地図を見たが、それらしいものはない。西に1kmほど離れたところに国士舘高校があるのだが、少し遠い気がする。 Photo D 太子堂八幡神社。(2013/1/23 13:36) 太子堂八幡神社は大きくはないが、雰囲気のいい神社である。周囲を椎や樫のたぐいの常緑の大木が囲み、いわば神社の森らしいのだ。私の生まれ故郷の八幡神社は杉の古木に囲まれていた。北国なので椎や樫のような常緑樹は大木に育たないのである。 Photo E 太子堂八幡神社西側の道。(2013/1/23 13:39) 八幡神社らしく、源義家につながる由来記が掲示されていた。境内を通り抜け、西隣の細道を南に下る(Photo E)。二つ三つの細道の十字路を越えると丁字路にぶつかり、民家の向こうは東急世田谷線の線路が走っている。 少しばかり線路に平行に進んでからY字路を右に折れる。道の向こうに鳥居が見えて来る。若林稲荷神社である。朱塗りの鳥居で、社殿は緑の屋根、朱塗りの柱で、八幡神社と較べるととても華やかな神社なのだった。 神社の前を左折して環七通りに出る。環七通りの「若林踏切」手前を右折して松陰神社に向かおうとしたのだが、期待していた線路沿いの道がない。踏切を越えてから右折して再び線路を越える。その踏切を渡り終えた途端に警報機が鳴り出し、若林駅に電車が入ってくるところだった(Photo F)。明るい緑青色のおしゃれな一両編成の電車である。 Photo F 若林駅に停車中の東急世田谷線の電車。(2013/1/23 13:57) 若林駅の踏切からところどころ道脇に雪が残る道をまっすぐ進んで、丁字路を左に折れると松陰神社(Photo G)である。宗教心も信仰心もまるでないのに、なぜか今日は「お年寄りの神社巡り」風の街歩きである。神社や寺は、古くからその地に住み暮らした人々の象徴だからと、街歩きの目安にしているのだから当然なのだが。 Photo G 松陰神社。(2013/1/23 14:02) 吉田松陰が安政の大獄で刑死したあと、高杉晋作らによって千住小塚原回向院からこの地に改葬されたということである。墓は、徳川幕府によって一度は破壊されたものの明治になって木戸孝允らによって再建された。安政の大獄に連座した幾人かは同じ墓域に埋葬されていて、その詳細な説明板が松陰の墓所に掲げられていた。 松陰神社の駐車場脇にあるトイレを使わせてもらった。中に「参拝は済まされましたか。最近、参拝をしないでトイレだけ使う人がいて困る」という旨の張り紙があった。神道信仰はしていないが、敬意を表して帽子を取って一礼はする程度の私が許される範囲に入るのかどうか分からないが、趣旨はもっともである。 東京のコンビニのことは知らないが、東北のコンビニでは「トイレだけでもお使いください」と宣伝しているところが多い。もちろん、トイレを使うことが買い物のきっかけになればという魂胆である。宗教施設でもトイレを使うことが信仰に触れる契機になる、などと考えるということはないのか。そんな余計なことを考えてしまった。 (「その2」に続く) 街歩きMap 地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。
2013.01.23
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(「その1」からの続き) 戸越銀座は後回しということで、左折して戸越公園に向かう。途中、地図にある「西教寺」を探したが見過ごすところだった。私にはやや大きな民家にしか見えなかったのである。西教寺前を過ぎて左折、直進すれば戸越公園である。公園の入口には、立派な武家屋敷の門が残されている。熊本藩主細川家の下屋敷跡だという。 Photo F 戸越公園内。(2013/1/23 11:37) 戸越公園は真ん中に池のある日本庭園風の美しい公園(Photo F)で、そのせいか、園内には「この場所には犬を入れるな」式の掲示がたくさんあって、あげくの果てに犬が入っていい箇所を記した立派なマップまで掲示されていた。犬がらみの事故かなにかがあって、こんなに神経質に規制しているらしいと推測されたのだが、犬好きには何となく居心地が悪いのだった。 Photo G 全部がオナガガモ。(2013/1/23 11:41) 公園内の池には水鳥がたくさんいる。近寄ってみると、すべて雌雄のオナガガモばかりなのだ(Photo G)。冬鳥として渡ってくる鴨なのだが、人慣れしていると見えて、目の前を悠々と泳いでいる。私の自宅の前を広瀬川が流れていて、この時期にはオナガガモもいるのだが、こんな近くで見ることはとてもできない。 池の水はとてもきれいで、鴨が潜って水底の何かを啄む姿がよく見える。都会の池でこんなに水のきれいなところを私は見た記憶がない。ただ、あまり水が澄んでいると、餌の量は大丈夫なのだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。 Photo H 造園工事中の「文庫の森」。(2013/1/23 11:47) 戸越公園を出て、国文学研究資料館を回るようにして戸越銀座に向かうことにする。資料館前の広い庭地は、「文庫の森」の全面的な造園工事で入ることができない(Photo H)。戸越公園のすぐ脇にもう一つ立派な公園ができるのだ。それはそれで結構なことだと思うが、吉本隆明がこんなことを書いているのを思い出した。この余儀ない子供たちの〔街路や入り組んだ露路からなる子供たちのメタフィジカルな〈公園〉からの〕後退に呼応するように、都市公園は、いくらかの罪亡ぼしの意味もふくめて〈新たな部分〉をつけくわえた。この〈新たな部分〉は、極彩色に塗られたコンクリート製の築山であったり、円筒形の飛び石であったり、動物の模像であったり、セメントの樽でつくったような太鼓橋であったりする。ときには、貝殻やかたつむりのような形をしたコンクリート製の宇宙船である。つまり都市組織工学に結びつけられた建築設計家たちは、超モダンでちゃちな〈枯山水〉を、〈公園〉のなかにしつらえて子供たちに提供しはじめたのである。しかし子供たちが欲しいのはコンクリートつくりの極彩色の〈枯山水〉ではなくて、街路と入りくんだ露路とから成立っている〈街衢〉そのものの占有である。 [2] 下町の路地裏が子どもたちの遊び場であり、世界であるということを、深川あたりの下町で幼年期をすごした思想家が語ると「〈街衢〉そのものの占有」などという表現になるのだ。最近はとくに、かつての原子力発電所をめぐる吉本隆明の言説に大いに不満を持っているのだが、何をどう語っていても、私は吉本隆明の文体がずっと今でも好きなのである。 Photo I 戸越銀座に向かう道。(2013/1/23 11:57) 国文学研究資料館の西脇の道を北上すると、そこにも地図にない神社があった。戸越八幡神社である。境内に立派な石碑があって「戸越」の地名の由来が記されていた。『八幡宮出現由来記』に「江戸越えて清水の上の成就庵ねがいの糸のとけぬ日はなし」という和歌があって、江戸を越える村という意味で「トゴエ」と呼ばれていたことがその由来ということだ。 八幡神社から少し東に歩いてから、戸越銀座に出る路地に入る(Photo I)。1月だというのに、左手に壁には蔦が這い、緑の木々に囲まれた民家がある。こと植物に関しては、仙台とは大違いである。東京の街歩きをするようになって、今日のように冬日に歩くことも何度かあった。そんなとき、自宅では鉢植えにして冬には温室(無加温だが)に取りこんでいる花木が、東京では庭に植えられている。それを見て、仙台といえども軒下だったら外でも耐えられるのではないかと試してみて、大きく育てた花木を3鉢ほど枯らしてしまったのだった。左:Photo J 戸越銀座(眼鏡屋、カメラ屋、電気屋さんのある角)。(2013/1/23 12:00)右:Photo K 戸越銀座(第2京浜の交叉点)。(2013/1/23 12:08) さて、戸越銀座である。テレビなどで何度か見たり聴いたりした商店街である。通りに出てすぐ「鹿児島らーめん」の看板がある。そろそろ昼食にしても良い時間だが、仙台から東京に出て来て、昼食が鹿児島ラーメンというのはなんとなくしっくり来ないので通りすぎる。 いろんな店が並ぶ商店街だが、基本的に地元の住人のための商店街なので、旅人とも観光客とも言い難い中途半端な私のような人間には用事のある商店というものはない。店としては、せいぜい、昼食をとるところを探すくらいである。 Photo L 典型的な商店街、戸越銀座。(2013/1/23 12:03) 長い商店街である。第2京浜を越えると東急池上線の踏切がある。踏切を過ぎて少し歩けば、何となく商店が少なくなって、戸越銀座歩きもおしまいという気分になる。最後に昼食をとることにして、「けんちん蕎麦」を食べた。残念ながら、具とだし汁に関していえば、私が作るけんちん蕎麦の方がおいしい。ただし、自宅ではおいしい蕎麦そのものを入手できない。かといって、蕎麦の手打ちまで手を広げるような自殺行為はしたくないのである。街歩きMap 地図のベースは、「プロアトラスSV4」、歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。 [1] 「池澤夏樹詩集成」(書肆山田 1996年)p.73。[2] 赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年)[3] 吉本隆明「修景の論理」『情況』(河出書房新社、昭和45年)p.129-130。
2013.01.23
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旅人というのはつまり一番だまされやすいたぐいの人間で、もう少し先に何かあると思って一生でも歩きつづける 池澤夏樹「帰ってきた男」部分 [1] この街歩きを旅だと思ったことはないが、「もう少し先に何かある」と思って歩くことはある。ときどき、歩くことに飽きてしまったとき(東京だからといっていつでも楽しいわけではない)、無理にそう思おうとしていることもあるが。 最近の著作で赤坂憲雄と小熊英二に辺境と名指されたその東北 [2] で生まれ育った私が、圧倒的な情報を送りつけてくる中心としてだけ認識してきた東京の街を歩いてみたいと思ったのは、ただ単に、一度も足を踏み入れたことのない東京のさまざまなエリアの地名をなぜかよく知っているという知識のアンバランスをなんとかしたいと考えたからだった。それで、東京のいろんな場所を歩いたのだが、特に知識のアンバランス状態がどうにかなるということはなかった。そして、東京街歩きは、次第にハイライトのない観光旅行のようになり、今は、普通の散歩の感じになっている。 Photo A JR大崎駅。(2013/1/23 10:56) 今日は、大崎から歩き始めて戸越銀座へ向かう。出発地はJR大崎駅(Photo A)。まずは、居木(いるぎ)神社に向かう。神社とか寺は、たいていの場合、その土地における人々の長い暮らしの象徴のようなもので、初めての土地の街歩きの良いランドマークなのである。だから、地図を見るときは、神社、寺、そして道の曲がり具合が私には大事なのだ。 大崎駅西口に降り、東口の方に少し行って右折する。シンクパークプラザの北側の道を進んで坂道にかかったあたりで、右の細道を道なりに辿り、さらに細い道に左折すると居木神社に出る(Photo B)。 Photo B 居木神社。(2013/1/23 11:03) 居木神社の鳥居脇に「居木橋(いるきばし)遺跡」の説明看板には、「いるぎ」と「いるき」と読み分けてある。居木橋遺跡は貝塚を伴う縄文遺跡で、当然だが貝塚は石器、土器、獣骨、魚骨、貝殻などが堆積しているのだが、貝殻の中にヒダリマキマイマイ(かたつむり)もあって、我が先祖はフランス人のようにかたつむりを食べていたらしいのである。 居木神社の境内を西に抜け、子どもたちの声が聞こえる方向に辿っていくと、そこは大崎幼稚園である。 Photo C 戸越方向の反対の細道、。(2013/1/23 11:10) 大崎幼稚園の角を左折した道をまっすぐ行けば東急池上線の戸越銀座駅に出てしまうので、二つ目の細道を左折する(Photo C)。細道に入ってすぐ、右手の更地にテントが張ってあり、人が集まっている。どうやら新築のための地鎮祭らしい。最近、私の住む仙台の町内でも、更地になって新築されるのはたいていアパートである。代替わりしても子どもは余所で暮らしを立てていることが多いのか、新築して住み続ける例は少ないようだ。空屋で放っておかれる家も多いという。都会の庶民の暮らしの中ではとっくの昔に「家制度」的伝統は失われているのだろう。 やや左へカーブする道なりに進むと信号のある道に出る。「百反通り」という案内板がある。当面の目的地は戸越公園として、百反通りを東に2ブロックほど進んで右折する。100メートルも歩くと左手に私の地図には載っていない神社があった。三木小学校の西隣に当たるあたりで、鳥居脇に大きな布袋様(だと思う)の立像がある貴船神社である。 Photo D 西品川保育所から三ツ木通りへ下る道。(2013/1/23 11:21) 貴船神社から西品川保育所前の小さな十字路を直進して坂道(Photo D)を下っていくと交番があって、少し広い道に出る。「三ツ木通り商店街」というピンクの旗が街灯にぶら下がっている。三ツ木通りを西に進むと向こうに「戸越銀座」の看板が見える(Photo E)。三ツ木通りは戸越銀座の通りにそのまま連続するらしい。 Photo E 三ツ木通り商店街。(2013/1/23 11:24)街歩きMap 地図のベースは、「プロアトラスSV4」、歩行軌跡は、 「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。(「その2」に続く)
2013.01.23
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青葉区立町の割烹「魚長」のしだれ柳の冬姿を見に行った。秋に同じ立町にある「芦立畳店」の薄を見に行ったときに「魚長」を探しそこねていたので、地図で確認して出かけた。 ただし、秋に探しあぐねてしまったのは結果的には問題がなかった。その頃、しだれ柳はしっかりと夏姿のままであっただろう。見たかったのは葉をふるい落とした姿だったのだから。 秋になれば落葉するものとなんとなく思っていたが、柳というのは寒くなってもなかなか葉を落とさない樹木なのだった。12月半ばになっても、広瀬川の河原の柳はたくさんの葉を残している。近くに寄れば、たしかに葉が散っているのが見えるだが、ほんの少しだけ散って、全体としては長い時間を掛けて裸木になっていくようである。 いつか見に行かなくてはと思いながら、暮れになり正月になってしまい、すっかり忘れてしまっていた。正月も開け、大崎神社のどんと祭(14日)のニュースが流れる頃は本格的に風邪をひいて寝込んでいた。熱でぼんやりしながらも布団の中で時間を持て余していたとき、「魚長」のしだれ柳を見に行くのだった、と思い出しのだ。 割烹「魚長」のしだれ柳(左:2012/5/9 14:37、右:2013/1/19 11:32)。 割烹「魚長」に入ったことはないが、店はビルの中で、その玄関脇、ビルに張り付いてしだれ柳が1本立っている。この柳が気になったのには、理由がある。 4年ほど前、東京上野の国立博物館で「皇室の名宝」展を観た後、谷中、千駄木、根津、本郷、お茶の水と歩いたことがある。上野寛永寺の門前近くの茶道具専門店「東寿堂」の店先に1本のしだれ柳が立っていて、その風情に感心したことがあった。そのとき、冬姿になってもしだれる枝の具合は美しいのではないかと思ったのだった。 その1ヶ月後、同じように上野の東京都美術館で「ボルゲーゼ美術館展」を観てから、根岸、入谷、千足、浅草と歩いたことがあって、その時も「東寿堂」のしだれ柳を見て通ったのである。ところが、その冬姿は、長く枝垂れた枝のほとんどは伐られていて、手入れ後の姿であった。 そうか、そうなのだ、毎年の美しい夏の柳を見るためには毎年の丁寧な手入れが欠かせないのだ、と感心した。まして、この木は狭い店先の立木である。この場所に調和しつつ、しだれ柳らしく美しく存在し続けるためには、人の手が必要なのである。 上野寛永寺前、「東寿堂」のしだれ柳(左:2008/11/12 11:18、右:2009/1/19 11:22)。 上野「東寿堂」のしだれ柳に感心してからしばらくののち、仙台市内を散歩していて「魚長」のしだれ柳を見つけたのである。やはり、家やビルに張り付いて生える樹木としては、しだれ柳がふさわしいと思えるのだった。その柔らかな肢体は、ビルと調和しようとして嫋々とたゆたっているようなのだ。 しかし、良く見ると柳の枝の中を数本の電線が通っている。いつか折り合いが付かなくなるのではないか、と不安になる。そのとき、上野「東寿堂」のしだれ柳の冬姿を思いだし、こちらはどうなっているのだろうと疑った。これが、今日の散歩のそもそものはじめであったのだ。 「東寿堂」と「魚長」の冬姿はまったく違っていた。「魚長」のしだれ柳は、幹の中段付近に太枝を切った跡があるもののほとんど自然の姿であった。自然の姿のままで美しいというのはとても望ましいことだが、いずれ人間の都合とバッティングするのではないか、と心配になる。 ビルばかりになる街中で残りうる樹木としてしだれ柳の可能性は高い、という発見の喜びと心配をない交ぜにしながら散歩を終えた。 また、夏姿を見に来るのである。
2013.01.19
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昨日(1月14日)は、1日中雪が降り続き、正午頃と午後3時半くらいに雪かきをしなければならなかった。仙台で大雪になる時はたいてい湿った重い雪で、雪かきはけっこうたいへんなのである。 かといって、本格的な雪かき道具を揃えるほどには雪の降る回数もその量もたいしたことはない。じつに中途半端で地域で、さらに中途半端な道具でやる雪かきは手際よくやれないのだ。 雪かきに一緒に出たがるイオは、リードに繋げば雪かきに邪魔で、放せば狂ったように雪を蹴散らして町内を駆け回る。それで、雪かき専用(じつは山歩き用)の長いリードに繫ぎ、雪かきをする。 進行方向にイオがいて邪魔なときは長靴で尻をこづくと前に進む。こづく、進む、雪をかく。これを二,三回繰り返せば、イオもコツを呑みこんでスムーズに仕事がはかどるようになる。 昨日、雪かきの後で。 (2013/1/14 11:53) 雪かきを終えて、広瀬川の堤防に出て、踏み跡のない広場で遊ぶ。全力疾走、雪に鼻面を突っ込み探索する、その繰り返し。 12年前の12月1日、イオが生後3ヶ月で我が家にやってきた2日後、12月には珍しい大雪で、広瀬川の堤防から放り投げるとイオの背丈ほどの雪の中を駆け上がってくるという遊びがお気に入りだった。それ以来、積雪のときの外出のはしゃぎ方は尋常ではないのである。 結局、昨日は昼の雪かきから四回も散歩を強要されてしまった。 広瀬川・大橋(左手の山稜が仙台城趾)。 (2013/1/15 6:23) 今朝は4時半頃から攻勢が始まったが、何とか6時までしのいでから散歩に出発である。雪道の散歩は、足許を確かめることに気がいって、散歩の気分がいちじるしく損なわれる。ひたすら歩く、そんな感じになる。 ただし、イオが連れだとほとんど前に進まない。雪の下の匂いの確認にいつもより時間がかかるためである。雪が地面に匂いを覆い隠した分だけ、かすかな匂いに執着するらしいのである。 仙台城(青葉城)跡から大橋を渡り、西公園(桜ヶ丘公園)に入る。 西公園:ドイツトウヒ、ヒノキ、サワラなどの下道。 (2013/1/15 6:33) 西公園の中でも西公園通りの沿った遊歩道は、道脇の大きなドイツトウヒやヒノキが防いでくれて積雪が少なく歩きやすい。雪にはドイツトウヒやモミの木がよく似合う。この道で、ヒノキとサワラの区別を勉強したのだが、すっかり忘れてしまった。その当時の樹種の名前を書いた木板も今は見えない。 この道の左手に桜の木がたくさんある。周りの木々のせいか、春の花見の時期でも何となく暗い感じがする場所である。 西公園:桜の木々。 (2013/1/15 6:33) 西公園の北端から定禅通りを眺めると、欅の幹にはまだ「SENDAI光りのページェント」の電源ボックスが括りつけられたままになっている。今は、イルミネーションの代わりに雪が枝枝を飾っている。 定禅寺通りの雪のページエント(西公園北口から)。 (2013/1/15 6:39) ふたたび西公園に入って、広瀬川沿いの道を歩く。公園の北側に模様部分がすかしになったこけしの塔がある。ドイツトウヒを背景にしてくすんでいるのだが、今日は頭に雪を被った分だけ目立っている。 西公園:ドイツトウヒに囲まれるこけし塔。 (2013/1/15 6:42) 西公園:広瀬川沿いの道。 (2013/1/15 6:42) 広瀬川沿いの道には、大きな雪玉が転がっている。完成されなかった雪だるまのためだったのだろうか。道には数人分の踏み跡があって、さほど難儀をしないで歩くことができる。 景色の写真ばかりでイオの写真はまったく撮っていなかったことに気付いた。それに、雪を漕ぐのはたいへんなので、これまでずっと踏み跡ばかり歩いてきた。最後に、踏み跡のない彫刻の前までイオを連れていく。飛びはねるように進むイオは、やはり楽しそうに見える。彫刻の前で記念写真を1枚。 西公園:雪をまとう彫刻の前で。 (2013/1/15 6:49)
2013.01.15
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