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感想 ネタバレ有赤壁の戦い凄すぎる。北方三国志を読んでいてよかったと心の底からふるわせられるようなそんな戦いだった。1ページ目から、臨界点であり赤壁の戦いに向かって突き進んでいるのがわかる。やってくれたぜ! という気持ちでいっぱい。 「私は、なんとかなる、という気がしている。理由はない。しかしここを乗り切れば、道は平らになる気がするのだ。いままで、おまえたちにはずいぶんとつらい坂ばかり、登らせてきたと思う」 「つらい坂ではありましたが、兄上が先頭で登られたので、われらも続いて登ったのです。平らな道であろうと、坂であろうと、われらはただ兄上についていくだけです」 「そうだったな。おまえたちは、いつも私についてきた。そして私は、坂道しか選ぼうとしなかった」絶対に負けられない戦いと散々あおって緊張感を高め、曹操軍二十万を何度も強調し、その果てに赤壁の戦いがあった。それで燃え上がらないはずがないだろ・・・。 「会議の決定を伝える。われらは、これより曹操と開戦する。それが、唯一の私の道だ。降伏は、死ぬことである。命があってもなお、男は死するという時がある。誇りを、捨てた時だ」 孫権は、剣を振りあげ、渾身の力で振り降ろした。文机が、きれいに二つになった。 「私の決定を伝えた以上、これから先、降伏を唱える者は、この文机と同じになると思え。私は、わが手で、この乱世を平定する」 声があがり、やがてどよめきになった。 「ふるえる者は、去れ。立ち尽くすものは、死ね。これより、戦だ。男が、誇りを賭ける時ぞ」孫権かけえええええ。周喩ではなく、やはり最後は殿にしめてもらわねばなりませぬ。今までどちらかというと穏健だった孫権が、まるで曹操かなにかみたいにはっぱをかけるのがすさまじくいい。思わず読んでいてキャラに感情移入しているのか、展開に感情移入しているのかはあいまいだが、あまりの燃え展開に沸き起こった感情をどうやって発散すればいいのかわからずに声に出して読んでいたぐらいだ。 いつまでたってもこんな風に、興奮しながら本を読んでいるからちっとも内容の細かい事が頭に入ってこないのだ、と思ってもそれでいい、という気もする。虚人たち、のようなのめり込むような小説でなければ多少の分析や解説も出来るかもしれないが、こんな風にのめり込んでしまったら冷静な分析なんか出来るはずもない。細かい伏線も頭に入ってこないし状況描写や容姿描写もすっ飛ばしてしまう事が多い、それでも、まったく後悔はしていないが。 火の手があがっても、いいころだった。風が、急に強くなってきた。いまだ、いまだ。周喩は、口に出して呟いていた。周喩がここまで特殊な存在になったのは何故なんだろうか。この赤壁の戦いの策も、他の三国志だと孔明の策、というようになっていたような気がする。ひょっとしたら違ったかもしれないが。そこをあえて周喩が考えついた事にして、さらに孔明もそれを最初から見抜いていたということで非凡さをアピールする、とか。周喩の存在感が圧倒的だ。孫権がかすむぜ。周喩だけじゃなく、自分もいまだ、いまだ、といっていた時はさすがにアホかかぁ! と叫び声をあげそうになったがそれでもやっぱり読み返したら自然といまだ、いまだ、といっている自分がいてもうだめだこれ。いや、しかし今までずっと負け続けだったのだ。曹操に、劉備が、それがここでこの反撃。このときの気持ちといったらたとえようもないほどだ。あえてたとえるのならば、甲子園決勝で、あと一点とれば勝てるという場面で三塁を蹴るかどうかの判断をくだし、手を必死に振り回し続ける三塁コーチャーの気持ちだ。説明しづらいのだが、というか野球のルールに詳しくないから、コーチャーという名称すら曖昧なのだが、たぶんコーチャーというのは甲子園の場合補欠がやるのだろう。補欠君にとって、甲子園優勝というのはもちろんうれしいだろうが、自分は別に闘ったわけではない、だけれども、コーチャーとして手を振りまわしている間は誰よりも充実感があるのではないか、といつも思いながら手を振り回すコーチャーを見ていた。自分が主要人物として参加しているわけではないこの三国志という世界に、わずかながらでも参画していられる、と感じられるあの一瞬だった。かといって読者が物語に参加していないという意見ではない。読者は読者の集合意識として物語に参加している、という意見ではある。現に読者はこう望むだろうという予測はある程度作り手にもあるだろう、そういう場合読者の集合意識として物語世界に参加しているといえるのではないか。負けて弱気になったとたん今までと変わらず世話をしてくれていた許?の大切さに気付いて親しくなった曹操に少し笑った。いや、今までも大切にしてはいたのだろうがやはり弱気になったのだろう。それにしても曹操、よく負けるなぁ。さらに後継問題で悩む。方臘のように息子を片方簡単に殺すぐらいの度量を見せつければいいのに。 「曹仁の、援軍が来るな」 「来ます。しかし、劉備軍が、すぐ後ろにまで迫っています」 「そうか、間に合わぬか」 「間に合います。ただ、私はここでお別れしなければなりません」 「おまえが、張飛と趙雲を止めるか?」 「はい」 「死ぬな、虎痴。おまえが死ねば、私は虎痴と呼ぶ者がいなくなる」 「はい」涙がとまらんわぁぁぁぁ。許?かっこよすぎる。ただここで死ねばもっとかっこよかったが呆気なく生き残ったのはどうかと思うな! ただ、私はここでお別れしなければなりません、って割と映画とかでありがちなセリフだがありがちなのにはやはりそれなりの理由があるというわけか。関羽が四十九なのにあと十年は闘えるとかいってて吹いたわ。十年戦ったらもう五十九ですけど・・・。まぁ童貫元帥も六十なのに闘ってるしな。とりあえずここらで終了。
2008.08.29
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あらすじ今のところまだ何でもない彼は何もしていない感想 ネタバレ有久しぶりに筒井康隆でも。ものすごいツボにハマった作家というのが何人かいて、そういった人達の本は、ハマった故に読むのをためらってしまう。たとえば神林長平でも、恐らく日本のSF作家の中で今のところ一番好きな作家であるが、著作を半分読んでいるかどうか怪しい。もうかなり歳をとっている事もあるし、これから先、いったい何作品書けるかどうかもわからない。そんな中どんどん読んでいったら読む者が無くなってしまうじゃないか、という理屈。筒井康隆も同じで、面白くてしょうがないのだがどうも読む気がしない。読めば読むほど面白いものが減っていってしまう。ってそんな事いってたら何にも読めなくなってしまうような気がしなくもない。それからこれはある程度作品数があるからこそできることでもある。飛浩隆レベルに寡作になってしまうと、これはもうとっておこうなんていう思考が出来るはずもなくただただ渇きがあるのみである。ゆえに出た瞬間に読む。どういうタイミングで読まずにとってある作品を崩していくのかというと、それはもうフィーリングである。 突然ハッ 虚人たちを読もう、と思い立って読むのである。特にこの虚人たち、虚航船団と似たようなものだろうと勝手に分類していたので期待もひとしおであった。いつか読もういつか読もうと長年温めていた作品なのだ。虚人たち、面白いか? と訊かれたら答えに屈する。読んでみろ、という他ない。凄かったか? と訊かれたら有無を言わさず凄かったと答えるだろう。読んでいて小説じゃなくて論文を読んでいるようだと考えながら、いやでもこれは小説だろうと思い返していやでもと自分の中で否定と肯定がせめぎ合っていた。ストーリーに当然必要である感情の起伏みたいなものが存在しない。場面の盛り上がりも存在しない。何故なら登場人物は最初から自分がそういった世界のキャラクターであることを割り切っているからであって、いうならばこれは自分の夢の中で、自分の夢なのだ、と自覚している事に等しい。夢ならば、親が死のうが金がなくなろうが仕事をクビになろうが、関係無い。だから盛り上がりもない。もちろん本人が楽しもうという気持ちがあるならば何だって盛り上がるものだがこの主人公にはそれもない。そんなものがはたして小説といえるのかどうか。ただキャラクターにそういう感情の起伏が無い代わりに、自分が一方的に感情を起伏させられた感がある。はたしてこの意味のわからない小説はいったいどうなるのか、ちゃんとした終わりを迎えられるのか、とよくわからない心配だが、それでも感情の起伏という意味ではそれ程違っていない。ちゃんとした終わりを迎える事が出来るのか心配でハラハラドキドキした、というのを考えればサスペンスといえなくもない。最初、設定が物語の中の登場人物だと自覚したキャラクターが出てくるという事を聞いて、ああなるほど、それでまたいつものドタバタで物語をぶっ壊そうとするのだろか、という気持ちで読み始めたのだがまるっきり当てが外れた。てっきり自分が虚構の存在だと気づいてしまった主人公が苦悩するような小説だと思っていたのに、書かれていたのは説明不可能な話だった。自分が物語の登場人物だと自覚する話は最近の映画にもあったし、ゲームでもForestというやつはそうだったがこの虚人たちのような形式は、多分筒井康隆がはじめてだろう。というか誰もこんなことをやろうとは思わないだろう。面白くないことの理由の一つとして、ストーリーに起伏というものが全くないという事が一つで、あと一つは必要以上の持ってまわった言い回しの連続である。読点が一切なく(たぶんこれは思考の垂れ流しに本来読点などないからだろうか)恐らく時間を一切省略しないで、思考の流れを最初からありのまま書いているので必要以上に余計な描写が増えているのだろう。よくライトノベルが持ってまわった言い回しをしていてかっこいいとでも思っているのかという批評があるけれど、それを最初から最後までやっているわけである。ただ、読点を省略するだけじゃなく。←これも本当は思考には存在しないんじゃないかと思ったが、そんなこといったら思考に文字を使うのかお前は? という疑問に行きあたってしまってしかしそんなこといったら何にもならないじゃないかという疑問も当然のことながらこれだから概念的なものは難しいっていうか概念的っていう意味も知らずに勝手に書きやがってあほか みたいに、今のは思考をほとんど省略せずに書き続けていったものだが、(シュルレアリスムとは何か、で読んだがこれは自動記述というらしい、続けると狂うらしい、こええ)永遠に思考を続けようと思えば続けられる訳で、。←これもいらないんじゃないかと思ったがやはりどうでもいいことだろう。人生はゲームだ、小説だ、とよくいうけれども実際問題そんなこと無くて、ゲームならや小説なら~あれから三年がたった~なんてかっ飛ばされるようなところでも現実じゃどんなにめんどくさくても三年ちゃんと過ごさなくちゃいけなくて、ゲームや小説じゃ省略されるような事でも本当の現実じゃ全部一つ一つ自分でやっていかなくちゃいけないのだという事を思い知らされた。人生はゲームなんかじゃないな。虚航船団の時もそうだったのだが、改行が一切ない。虚航船団の時は確か何故改行が一切ないのだろうなんていうことを考えなかったように思う。考えていたとしても、もう忘れてしまった。だけれども虚人たちを読んでいてやっとわかった。というか正確にはわからされたか。ちょうど100ページのところから、約15ページにわたって空白の記述があった。これは意識を失った時間ということだが、それならば何の意味もなく15ページもの空白を作るはずがないと思い、そこで初めて気づいた。というか気づくのがあまりにも遅すぎたというべきか。この本にはひょっとして1ページごとに時間が設定されているのではないか、と思い、のちに30分程眠っていたようだ、という記述があったことから1ページ2分換算なのだろうと思い読み進めていた。 が、どうも途中から8分経過した、と書いているのにその間のページ数が約9ページあったことがあったりして、1ページ2分換算どころか、1ページごとに時間が設定されていたのもただの自分の思いすごしかと思ったものだが今さっき調べてみると原稿用紙1枚分が1ページとして書かれているらしい。なるほど、それならばずれるのもうなずける。そして意識が途切れない限り思考というのは続くわけだから何も起こっていない時ですら描写はありつづける。それを読むのが、地味につらかった。 描写するに価しない時間などというものは人間が意識を持つ限りあり得ないしある時間的間隔を持った意識の空白さえその時間的間隔ゆえに意味を持つ筈ではないか。むしろ無意味なのは本人がすべてを眺めわたしたというわけでもない風景の細密描写による現像焼付引伸ばしでありその為に時間までがおそるべき長さに引きのばされてしまう事であろうと彼には思える。そのように入念な観察が風景に対して終始一貫なされるものではないし極端な場合の如く会話と会話の間隙ほんの数秒の間に周囲の山川草木を一挙にあげつらうなど甚だしい暴挙と言わねばらならんのではあるまいか。こういった小説の技法批判というか、やり方そのものにケチをつけるための小説といった方がいいのかもしれない。たくさんこういった批評が書かれていたけれど、そんなこといったってどうしようもないというものがほとんどで記憶に残らなかった。ただ読んでいて面白いものではあった、たしかにたしかに、とうなずかざるを得ない。世界観の疑問ところで、この世界の意味がよくわからなかったのだが、途中で三人称視点で描写されていると思われる男が出てきたりと、割と意味がわからない。一つの作品としてじゃなくて、色々な作品の世界が混ざっている世界と考えた方がいいのだろうか? それともあれは一種のクロスオーバーが起きていたと考えるのが正しいのだろうか。絶望先生 「かかわりあうことが厭なんだ。今死んだあの中年の給仕はながいながい苦難に満ちた人生の幕をそこでおろしたわけだけど彼がわざわざおれたちのテーブルに倒れ込んできて死んだのはおれたちの中に観客の姿を認めたからじゃなくて否応なしにおれたちに助演させようとしたんだぜ。もし関わり合っていればあの男の厖大な数の出来事を含んだながい旅路の果てに立ちあい臨終を見届けた二人の親子づれというのでそこに重要なあるいは象徴的な意味を持たされかねなかったんだ」これとドンピシャのネタが絶望先生にあったなぁ。絶望した! ドラマに強制的に参加させられる社会に絶望した! みたいな感じで。これに対してオヤジ、しかし現実にはありえることだろうと言っているが何でオヤジ現実の事をそんなに知っているかのように話すのだろうか? ア・プリオリな概念として現実の事をほとんど承知していると書いていたような気がするが そもそも悲しみや苦しみを頒ちあうことはわれわれにはできないことなのだろうと彼は思う。だがそういう言葉が不自然でなく使用される以上現実の人間にはどうやらそういうことができるらしいと思い彼は現実の人間たちの虚構的な思いこみの強さやほとんど幻想的ともいえる想像力を羨む。強烈な皮肉だよなぁ。違和感を感じたのは現実の人間とこの親父がそこまでかけ離れた存在かどうかというところだが、まぁ皮肉だと考えれば納得できる。どうにもこの作品内における現実の位置付がよくわからない。この物語のキャラクターが現実というのを意識しているのは確かだけれども、現実についていったいどういった思いを持っているのかがわからない。現実に行きたいのか、行きたくないのか、どこまで現実を認識しているのか、現実と対比して自分の事をどう思っているのか。とりあえずこれにて終了である。 彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。事件が終れば彼にはもうするべきことが何もない。するべきことのない彼はすでに何でもない彼である。
2008.08.29
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感想 ネタバレ有つ、ついに孔明殿が降臨なさった・・・。自分の興奮ぶりはそれはもう凄まじいものであった。50ページ以降ようやく孔明が出てくるのだが、早く出て来い早く出て来いと念じ続けて、一心不乱に読んでいたため50ページまでの内容をほとんど覚えていないというていたらく。やっぱ孔明反則すぎるな。いや、それにしても桃園の近いがなかったから、三顧の礼もひょっとして無くなるんじゃないか、という疑念をもっていたが、さすがに三顧の礼は書いてきた。よかったよかった。いや、別に無くてもよかったのだけれど。繰り返されることの安心、というものもある。一つひとつのエピソードが結構あっさりと流されていく印象がある。だから時の流れが速く感じるのかな。その中でも、孔明を迎え入れる話については結構念いりに書かれていたような気がしないでもない。いや、そうでもないかな? 一回目と比べて二回目と三回目はかなりあっさりだったな、そういえば。特に三回目はほとんど会話もしないで 「闘います、私は」 孔明は言っていた。 「劉備玄徳様のもとで、天下万民のために、闘います」 「まことに?」 「二言はありません」となっているし。読んでいる最中はやっと孔明が加入した! という嬉しさでいっぱいで何も考えなかったが、今こうして読み返してみると少々唐突すぎる感があるような・・・。期待がでかすぎた、というのは自覚している。なんにしても孔明がついに加入したのだ。これほどうれしい事はあるまい。これから、孔明の天下三分の計が始まる。孫家について周瑜がいい男すぎる。義に生きる、という生き方そのものはほかの登場人物にも、関羽とかに限らずこの北方三国志にはもはやありふれたものといっていいぐらいあふれているのだが、何故か周瑜が一番かっこよく読める。何故だろう。孫堅、孫策、孫権と親子三代にわたって忠節をつくしているからかな。よくわからぬ。そんな周瑜が突然酷い事をしたものだからびっくりした。 ようやく歩くようになったころ、川に放り込んだのだ。そうしていると、数日で周循は泳ぐようになった。いやいやいやいや、鬼畜すぎるだろ、拷問だろそれは。何故中国の親子関係は子どもにこんなに非情な事をあっさりとやってのけるのだろうか。ライオンは子どもを谷に突き落とすというがそれにしても歩けるようになったばかりの子どもを川に放り込むって・・・。絶対に助けられるという鉄の自信があってそうしているのだろうがやられた方はたまったもんじゃない。しかしかなり小さい頃の話だから、きっと覚えていないだろう。覚えていなくても泳ぎが身についているのだからそれはそれでありなのかもしれない。曹操についてついに曹操軍二十万が動き出した。袁尚もたおし、袁家を根絶やしにする。華侘のキャラが思いのほか曹操にとって重大なもののように書かれていたのに、あっさりと殺したのは驚いたな。というか殺された後、そういえばこんなやつが殺されるエピソードがあったな、と思いだした。というか今思いだした。北方三国志、キャラの書かれ方が全く違うのでキャラがうまく当てはまらない事が多々ある。この曹操もよく悩む。息子を殺してしまったことを悩み、部下が死んでも役に立たずに死んだとしか思えない自分に悩み、頭痛に悩み、劉備に悩み、天下を早くとらないと民が疲弊してもう限界だ、と悩み、ただこの悩みが全部、天下を平定すれば無くなる悩みである。だからこそこんなに攻めを急いで居るのかもしれない。残念ながらこのあと何年も闘いは続く事になる。
2008.08.28
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感想 ネタバレ有これほんとに十巻で終わるのかどうか・・・。長くなる分には何の問題もないのだが。三巻である。まだ梁山泊は準備の段階だ。主な出来事としては方臘の信徒がついに行動を開始し、童貫の軍がついに動き出し、王進の元から張平と花飛麟が出てきて、楊令がついに梁山泊の頭領におさまった。こうして羅列してみると、全てが動き出したな、という感じはする。次の巻あたりから大きく動き出すのは、と予測させるに十分な内容だ。これから起こるであろう事を羅列してみるか。方臘軍と童貫軍との戦いがまずある。それから武松の呉用救出。これによってどうなるかわからないけれど、ひょっとしたら方臘軍と梁山泊がなんらかの形で連携をとるのではないか。方臘が梁山泊入りするという展開は全く見えない。さらに聞煥章建国の策がどうなるかで全く展開が変わってくる。ただ、もし仮に聞煥章建国が成立してしまったらこれ、もはや十巻なんかで収まるはずがなさそうに思う。三国志並の入り乱れ方になってしまうのではないか。宋、金、梁山泊、燕国の四つ巴に等しい事になってしまう。そんな事を想定していたらとても十巻とはいわないだろうから、燕国が建国されることはなさそうだなぁ。とすると聞煥章がどうなるのか、死ぬか、まさか梁山泊入りすることはあるまい。死ぬのか?まぁよく考えてみても、根も葉もない想像であるからして、これぐらいでやめておこう。二巻か、三巻で呉用が死ぬのではないか、と書いたけれどそんなことはなかった。呉用がこれからどうなっていくのかも非常に気になるところである。しかし、一番予想外だったのはやはり方臘だろう。 「おまえは、俺の息子だ」 「はい」 「だから、教えてやっている。死ななければならない、理由をな」 「えっ」 方臘が、方天定に歩み寄った。次の瞬間、方天定の首は宙を舞い、階に落ちて転がった。ゲェー! 息子を殺しやがった。このへんがこええところだよな、中国の常識。子が親を敬うのは当然として親は別に子どものことを好きにしていいっていうそういう感じのあれが。それでも殺すとは思わんかった・・・。大抵こういうやつがだんだん火種になっていくのに、それを殺してしまうとは。そういう決断力というか描写を含めて、方臘のキャラ付がだんだん凄まじいものになっていく。呉用が方臘に心酔するのも時間の問題か、それとも武松が間に合うのか、楽しみだ。最期の言葉が えっ ってのもかわいそうな話だよな・・。まさかこんなにでかくなっていくとは思わなかった。そして聞煥章の新しい国を作ろうというその思いのほかでかかった野望にびっくりだわさ。てっきり李富にかわって青蓮寺のトップに躍り出ようとかいうぐらいの事だと思っていたのに、さすがにタダじゃ終わらせないか聞煥章。聞煥章と扈三娘の長い長い長い伏線はいったいどうなるのだろうか。楊令が子午山に戻っていったときの話が非常に泣ける。というか子午山の場面になると本当に心が洗われるような気分になる。誰がいってもそこに行けば精神も体も鍛えられるという、それでいて世間の毒々しさもない。あるいみ天国といっていいようなところだからだろうか。 「この山から、降りるのではなかった。何度も、そう思ったのでしょうね。しかし、おまえはいつも、ひとりであってひとりではなかった。おまえはそれを、受け入れたはずです。思いだしますよ、おまえが一度だけ、私に語ってくれた事を。肌身離さず持っていたもののことを」 「王母様」 「持っていますか、いまも?」 「はい」 楊令の手が、襟の中に入った。出てきた掌の上に、小さな袋がひとつ載っている。鄭天寿!! お前の死は無駄死になんかじゃないぞおおおお。山田を見返してやったな! ところで、鄭天寿、いい味を出しました。小者に急に正確づけが始まると末期も近いという読み方のいやらしさ。七人目の犠牲者であります。小説史上に残る犬死にであります。*山田とはこのセリフを言った編集者鄭天寿犬死じゃなくてよかったなぁ。やはり過去があるというのは面白い。どのキャラクターにも過去がある。しかし実際のところ、死に方だけをみたら完全なる犬死にである。あれほどサクっと死んだのはやはり鄭天寿だけだろうな。サクっと死んだって意味わからんが・・・。 「宋江殿より託されたこの旗は、聚義庁の入口に掲げる。長く、苦しい闘いが続く。その闘いのすべてを、この旗が見守るだろう。この旗にむかって、恥じること無き自分であろう、と私は思う」 また、声があがった。 聚義庁の屋根に、『替天行道』と大書した、真新しい大きな旗が掲げられた。ついに楊令きた!!!これで勝つる!楊令伝で、キャラクターが死んでいった者たちの事を思い出して語る場面があるたびに、その場面を思い出して涙が出てくる。鄭天寿のように、早くに死んでいった人たちも思い返すから反則である。そしてついに旗があがった。やはりこっからどんぱちかね。動きだすのかね、物語が。非常に楽しみである。
2008.08.27
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感想 ネタバレ有まだ二巻である。ところでこの表紙のお方はどなたですかね。梁山泊の高年齢化がすさまじいのう。このままいつのまにか老人小説になっていそうだ、っていいすぎだけど。何人か年齢が書かれていた。ちょっと書いてみよう。呼延灼が四十九ぐらい、童貫が六十、史進が三十八、燕青が四十、張清が三十八、李俊が四十五。みんな歳をとったもんだなぁ・・・。童貫なんて六十っすか。とっとと定年退職しろよ。いったいいつまで指揮をとるつもりなんだろうか。まぁこんなじじいが存在したら死ぬまで闘いをやめなさそうだけどな。はた迷惑なじじいもいたもんだ。史進が思いのほか若かった。あと十年、戦えるか闘えないかというところだろうな。童貫もあと十年はさすがにきついだろう。五年が限度ではないか、と勝手に思っている。五年以内に、決着はつくのではないだろうか。楊令伝、ほとんど童貫vs楊令の構図になっているように思う。ってことは童貫が死んでまでだらだらと続くという事はないだろう。なぜなら童貫には子がいない。楊令のように続く事はない。本当の戦いはまだ、始まっていない。今はまだひたすら準備をしているところだ。何をするにも、大事なのは準備だ。全ては準備が必要だ。というのをひたすら書いていたように思う。方臘もそういっていたしな。アサシンクリードだって、暗殺するより調査する時間の方が長いしな。それにしても、である。方臘の考えが思いのほかしっかりとしている事に驚いた。一巻の時点じゃたいしたことなさそうだったのに。それから一巻であれほど皆に嫌われている、と地の文で書かれ続けていたのに一転して、呉用はみんなの憎まれながらも間違ったことはやっていない、と認められるようになってきた、でも嫌われているのはそのままだが。これから先どうなるのか全く予測が出来ない。呉用は死ぬのか、死なないのか。方臘の反乱も全然ダメダメ、からひょっとしたらっていうかこれ結構いい線まで行くんじゃね?というレベルまで引きあがってきた。まったく、何一つ予想がつかない。 「王になってみたいという思いは、めしを食いたいという思いに似ている。めしは、一日に三度食らう。一生に一度、食らってみたいというめしがあっても、悪くあるまい」王になってみたいなんて思った事ないが(そりゃそうだ)、似たような感覚を持っている。なんとなくわかる、というぐらいだが。楊令の考え方が面白い。 「新しい国家を夢みて、闘うしかない、と俺は思い定めました。その間、俺は痛いほど生きていられると。ほんとうに新しい国家ができてしまったら、俺はそれを、後ろから来たやつらに投げ渡してやりますよ。もう、俺の夢ではなくなっているのですから」あまり書かれない英雄のその後、というものがある。革命家にとって必要なものが何かはわからないが、それが国を運営していくのに必要ないものであるのは、確かであるように思う。革命に成功した後、政治に携わってうまくいった例というのをあまり聞かない、というか全く聞いた事が無い。そりゃ探せばあるだろうが。失敗した例ならば、日本の西郷、キューバ革命のカストロ、ゲバラなどがいる。そういやグレンラガンは英雄のその後、を書いた作品としても面白かったなぁ。あれも革命の英雄として扱われながらも、牢に入れられたり処刑されそうになったり、結構悲惨な目にあっている。ただ、この水滸伝時代じゃ革命をしたらそのトップに立っている人間はまず間違いなく国を作るという段階になっても、トップで居続けるというのが当然、という感覚があると思う。それどころかどいつもこいつも革命に成功したら自分が帝になるのが当然、という態度でもある。そんな中で、最初から退く態度を見せている楊令の凄さ、というものを感じた。呉用が命からがら梁山泊から逃げだす時のエピソードで、たった一文だが妙にひきつけるものがあった。 取調べなどなく、一度名を訊かれただけだった。晁江、と名乗った。晁蓋と宋江と本当に親しくしていた呉用だからこそ泣ける。阮小五も死んでしまい、そういえばもうずいぶん長いこと呉用は一人だったな。本当にみんなに嫌われているようで誰とも親しくしている描写がない。明らかに梁山泊の中で特異だ。 「そりゃ、死に方からいえば、摸着天の死に方は、勇敢そのものだった。だがな、梁山泊軍の古い兵があいつのことを忘れないのは、きちんと生きたからだ。やるべきことを、きちんとやった。摸着天の訓練を受けた兵も、まだ相当残っている。ああいう死に方でなかったとしても、その兵たちは、摸着天杜遷を忘れねえさ」死に方をといているわけではない。生き方か。生き方に焦点をあてた話をこれまでしてこなかったように思う。今までの水滸伝は、いかに死ぬか、という話だった。と思う。ここでは生き方をといている。Amazonのレビューを読んでいてなるほど、というものがあった。水滸伝は死に方を書いた小説で、楊令伝は生き方を書いていく小説ではないだろうか、というものだ。自分も全くその通りだと思う。
2008.08.26
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感想 ネタバレ無どこが、とはいわないが雰囲気がガラっと変わった印象を持った。完全に水滸伝とは別物として考えた方がよさそうだ。今までの話が、原典があるゆえのどこか予定調和的な世界だったという事から解き放たれたからかもしれない。全く別の視点で持ってこの作品に望む必要がある、と思った。どこが、とはうまく説明出来ないが、作品が全く違うように感じるのだ。ハードカバーなのだが、この表紙に書かれているムサい男が楊令なのだろうか・・・。どうみても二十一歳じゃない、少なくとも三十は超えているおっさんに見える。火傷のあとがあるから間違いないのだろうが、イメージを崩されたという気持ちが強い。絵でイメージを崩されたといえば、何よりひどいのは扈三娘である。絶世の美女、というような設定で書かれているにも関わらずあの絵! なんだありゃ?化け物か? 昔の中国はああいう女性が美人だったんです! といわれたら全く反論できないが。 いや、かといってもっと現代風のかわいらしい感じの、萌えという感じではないんだけどそれでも現代風にデフォルメされた絵を書かれても正直かなりがっくりきただろうからどうしようもないといえるかもしれないが・・。それから史進の絵もひっでぇ・・・。なんか剣二本持ってたっている姿、服装もあいまって変態にしかみえない。ていうか史進、武器棒なのに何で君剣をもっとりますか。一巻である。これでもかというほど一巻でもある。物語は所詮まだプロローグである。北斗の拳だったら、19XX年、世界は核の炎に包まれた・・・とナレーションが入ったところである。まだまだこれから。楽しんでいこう。今回の全十巻という構想ははたして守られるのだろうか。しかし、水滸伝を読んでいる間からずっと気になっていたのだがこいつらいったい何歳になるまで闘い続けるのだろうか。ひょっとして、闘うという行為については基本的に年齢はあまり関係ないのか? 老いで弱くなっていくというのはもちろん当然あるのだけれども、こいつら現役で闘い続けすぎなような・・・。史進とか、君何歳だよ、オリンピック選手だったらとうに引退してるよ。林冲が確か四十代半ばだったから、史進は三年たった現在、もうすぐ四十代に入るところか? おっさんじゃないか、そろそろ引退したらどうだ? というか林冲、四十すぎてまだまだ駆けまわってるって結構凄いな。自分四十すぎてそんな駆けまわる自信ないっす・・。王進も何歳だかわからん。少なくとも林冲よりは歳上だろう。ってことはもう五十超えてるんじゃないか? 五十超えてなお武道に励んでるのか・・・。まぁ塩田剛三もかなり歳がいってからもずっと武術を極めようとしていたようだし、あながち特別なことでもないのかもな。感想 ネタバレ有まだ王母様が生きている事に驚愕した。多分今七十超えたぐらいではなかろうか。まぁ生きてるか。それぐらいだったら。健康的な生活をしているみたいだし。そしてもっと驚いたのが、張平が思いのほか強くなっていることである。あまり武の方面を強調されていなかったので、たぶん武術の才能はないんだろうな、と勝手に想像していたのだがとんだ思い違いであった。張平と立ち会った時の花飛麟のセリフは小物すぎる。 「まさか。虎でもかわせなかった、私の打ちこみを」かませ犬のセリフテンプレートなんてものがあったら確実に入っていそうだな。 「私は、弱い。弱すぎる。馬麟殿の言う通りだ」花飛麟の慟哭。こうやって自分の弱さを嘆くような男の描写に弱い。こういうところは前の水滸伝と変わっていない。自分が弱いという事を自覚することが、強さへの第一歩である、みたいな。この楊令の苦しみ、みたいなものはある意味王道的展開であるともいえる。過去を受け入れるために苦しむ万能主人公というような構図。ただ水滸伝そのものも充分に王道的展開だとは思っていたが、どうも方向性が変わってきているように感じられる。たぶんそこが、水滸伝と楊令伝が全くの別物だと感じた元だとは思っているのだが、よくわからない。一つ気になったのが、呉用の存在である。呉用が生きていたことにもびっくりだが、その呉用に関するエピソードが多すぎる。これはひょっとしてあれかな、死亡フラグってやつかな。水滸伝じゃ五巻で楊志が死んだ。十一巻じゃ晁蓋が死んだ。どうも定期的に重要な人物を殺していく傾向がある。全十巻を予定されている楊令伝だ。二巻か、三巻あたりで呉用を殺してくるかもしれない。それも反則的なやり方で。みんなの憎まれ役をかってでながら、実は誰よりも梁山泊の事を考えていた、みたいな死に方で。それが出来るのは今のところ呉用しかいないのではないか。くどいほど呉用は確かに重要な存在だったが、今はもう用済みでうるさいだけだ、みたいな事をいろいろなキャラクターに語らせる。これが死亡フラグじゃなくてなんだというのだ。しかし痛いのはこっちの心である。呉用がどれだけの貢献を梁山泊にしてきたかを読んで知っているだけに、今こうして厄介者扱いされている呉用が不憫でならない。 燕青は、腰を降ろした状態から、侯真の頭上を越えるように跳躍した。なっ!?座ったままの姿勢!膝だけであんな跳躍を! どこからどう読んでもJOJOである。しかしこいつら、子供世代が大勢でばってくんのはいいんだが、子供だからっていって出来がいいのはどうかと思うぞ。秦容も多分これから梁山泊入りするだろうし、花飛麟、侯真は言わずもがな、どいつもこいつも子供だからっていう理由で強すぎる。もっとなんていうかこう、宮崎駿に対する宮崎五郎みたいな存在はいないのか? ああ、いるけど活躍しないから書かれないのか、ってまだ一巻やんけ! 批判するのはやすぎるやんけ!秦容と花飛麟のコンビはこれから先あるのかなぁ、あったら最高だが。往年の秦明、花栄の名コンビ復活であるな、子供で。そんな展開になったら泣くわ・・。童猛の活躍というか描写が結構されていたが、どうも替天行道に書いてあった 童威と童猛は区別がつかんので、どちらかを殺してしまいましょう。のセリフが頭に浮かんできて、ここに書かれていたのはひょっとしたら童威だったかもしれないと思うと悲しいやら不憫やらでもやもやした感情がわき起こってくるわけである。こいつ、コインの裏表のような運の要素で生か死か決められたキャラクターなんだなぁと想像すると悲しくなってくる。いや、実際には違うかもしれないのだけれどね。
2008.08.25
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続き第四章、時間を逆行する反粒子だが、意味が全くわからない。何で時間逆行するんだ・・・?未来から過去へと行く反粒子があれば、すべての説明がつくのである! と書かれていたけれど、意味がわからないが・・・。まあいいか。このあたりは難しすぎるなぁ、ファインマン図形とかいうの見ても何にも感想が湧いてこない。反物質とは全くの別物だよな・・。と思ったけど関係しているようだ。 反粒子(はんりゅうし)とは、通常の粒子と比較すると、質量とスピンが等しく、電荷など正負の属性が逆の粒子を言う。電子の反粒子は陽電子であり、同様に陽子には反陽子、中性子には反中性子がある。(中性子は中性であるが反中性子は構成粒子であるそれぞれのクォークが反粒子であるため反粒子が存在する)反粒子が通常の粒子と衝突すると対消滅を起こし、すべての質量がエネルギーに変換される。逆に、粒子反粒子対の質量よりも大きなエネルギーを何らかの方法(粒子同士の衝突や光子などの相互作用)によって与えると、ある確率で粒子反粒子対を生成することができ、これを対生成と呼ぶ。数学的取り扱いにおいては、粒子が時間軸を過去に向かって進んでいるものを反粒子である、と解釈することもできる。(CPT定理) (Wikipediaより)対生成・・・?まず反粒子がなんなのかWikipediaを見てもよくわからんな。まぁ要するにどんなものにも反対のものがあってそれとぶつかるとすげえエネルギーになるのか。質量よりも大きなエネルギーを何らかの方法で与えるってのもよくわからんな、滅茶苦茶小さいだろうに。そしてそれがどうやって過去に向かって進んでいるのと関係しているのかがわからん。第五章、マクロの世界を支配するエントロピーの法則は面白い上に分かりやすい。グラフとかわけのわからない図が出てこないからだろう。情けない話である。生物と無生物のあいだよりよっぽどうまく生命というものを説明していた。この本のタイトルが生物と無生物のあいだでもいいぐらいだ(言いすぎ)ただウィルスが生物なのか無生物なのかは、わからないが。とりあえずここから先重要なエントロピー増大の法則についてのわかりやすい解説。 たとえば、あなたの書斎がきれいに整頓されている場合、そこには「秩序」がある。このときあなたの書斎のエントロピーは小さい。しかし、あれこれ仕事があって整理がおぼつかないと、書斎は乱雑になってくる。秩序がなくなってくる。エントロピーが増大しているのである。エントロピーを小さくするためには、整理整頓という大仕事をつぎ込まなければならない。それが面倒で放っておけば、乱雑さはますますひどくなる。つまり、エントロピーはますます増大する。これが、きわめて不正確であるが、もっともわかりやすいエントロピー増大の法則である。時間論を語る上でエントロピーの増大が、こんなに重大な意味を持っているとは知らなかった。というかそもそも、エントロピーの増大なんて言葉を知っていただけで、意味なんて全く知らなかったのだが。なんとなくエンゲル係数とにたような意味を持っていると勝手に思っていた。はずれもいいところである。第五章はほとんどエントロピー増大の説明だった。第六章、主観的時間の創造から今までのまとめに入る。エントロピー増大の法則によって、世界は基本的に崩壊に向かっていくという。まぁこれは当然の事、と考えられるのかもしれないが、何故それが当然なのか、というのが面白い。世界が崩壊から秩序の保たれた状態へ戻って行くという事が何故起こらないのか、まだその問いには答えられないらしいが、面白い問いだ。 ここで悟ったようなことをいうが、われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには、空間的拡がりや、時間的経過というものはない。(省略)実在とは、時間や空間を超越した何かなのである。確かに宇宙だけで見ればその通りだけれども、人間の自意識というものを通して宇宙を見るとそこに空間的拡がりと時間的経過が生まれるというのが面白いところだ。ここで語られている意識というものがあるが、これを生物と無生物のあいだにでいっていることと基本的に同じだが、こちらの方がわかりやすい。基本的に物質はエントロピー増大の法則によって崩壊に向かっていっているのだが、生物はそのエントロピー増大の法則に逆らう。たとえば石は放っておけばただ崩れるだけである。もし仮に、石が意志をもっていて(ギャグである)崩れないように、自己増殖すればそれは自己複製する遺伝子だかなんだかの、生物と無生物による生命の定義と等しい。つまり言っている事は同じか。崩壊を食い止めようとする力が働けば、それは生物である、ということだろうか。 生命とは秩序であり、かつ、その秩序を持続させる「意思」をもった存在である。エントロピー増大に逆らうために生物というものが生まれたならば、エントロピーが次第に減少していく世界では生物は生まれないのか?という当然の疑問を持ったのだが、生まれないらしい。 エントロピー減少が成立する世界では、世界全体がひとりでに秩序に向かうから、そこには自然選択というような進化の圧力が働く必然性がまったくないということである。エントロピー減少の世界で、エントロピー減少を食い止めようとする意識が生まれない理由がよくわからないのだが。秩序も無秩序も結局人間が考え出したものなんだからあり得そうな話だが。秩序が世界が向かうべき当然の場所、というわけでもないだろうに、だったら秩序も無秩序も同義じゃないのだろうか。自然選択というものがいまいち分かっていないのに書くようなことじゃないんだが。付録が思いのほか面白い。ただのおまけ的な要素なのに、いや、それだからこそ面白いのか。付録3、多元並行宇宙、俗にいうパラレルワールドである、について語ったところ。 ぼくの意見では、並行宇宙は存在しない。その理由は、本文で展開した時間の創造の仕組みに関係している。 ひと言でいえば、並行宇宙が存在するとしたら、そのような宇宙では「意思」が進化するための自然選択の圧力がなくなるからである。確率的に可能なあらゆる事柄が、実際に起こるのだとすれば、そこには秩序を維持するために未来を決定するという「意思」が生まれてくるはずはない。あーなるほど。並行宇宙なんてものがあるならば、そのどこかにはちゃんとした秩序を持った世界があるはず、だからわざわざ秩序をたもたせようという意思が生まれてくるはずがない、何故なら意思なんて生まれなくたって、無限に平行する可能性の中には意思なんてなくたって、どんなに確率が低くてもちゃんとした秩序が保たれている世界があるのだから、というような理屈か。非常に面白いが非情である。今までパラレルワールドが数々の名作を生み出してきたというのに、それだけで夢を駆逐されたらたまらんのである。パラレルワールドがなかったら量子論がおかしくならね?という問いにもちゃんと反論しているが意味がよくわからなかった。たとえばサイコロをふって、一が出る未来と六が出る未来、のように世界が分裂するのが量子論だと言われていたが、どうもサイコロがふって一が出たらそれはそれで確定で、他の未来などなく、量子論は関係していない、という理屈らしい、どうしてそうなるのかはよくわからん。付録4 タイムマシンあらかじめパラレルワールドが無いとしたうえで、もし仮に過去に人間がいったらそこは違う世界の過去であるとしている。何故なら現在にいたるまでの道のりはすでに確定している事で、それを変更する事は絶対にないから。それから、矛盾を生じさせない、という点だけでいえば物質だけなら過去に送れるという話があったが、それも別の世界の過去に送れる、というだけであろう。ここまで書いて何だが、パラレルワールドというのを先に否定しているので暗にタイムマシンなんてありえないといっているのであろう。永くなったがここで終わり・・。
2008.08.25
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感想 ネタバレ有いつも思うのだが、新書を選ぶ時、常にタイトルで選ぶ。これだったら時間はどこで生まれるのかが、気になったから選んだのだ。そしてその答えが知りたいから選んだのだ。だから、一行目にその答えを書いておいてほしい。これだったら、ページをペラっとめくったら 時間はどこで生まれるのか、それは~~~である。今からそこに至る過程を説明しよう、という感じで始めてほしいのである。なんという傲慢な態度。作者だったらコメント荒らしするレベルである。ただ、本書には大満足である。しかし、理解度ていったら恐らく二割、理解出来ていたらいい方だろう。その二割でも十分に面白いと感じられた。新書というのは手頃に頭が良くなった気分にさせてくれるものだなぁと読んでいて思った。良く考えてみたら、自分は時間の事なんて今まで全く勉強したことがなかった。多少知っている事といえば、生物の時間間隔というのは星の自転速度で決まる、という事ぐらいだ。これだってSFから得た知識で、正しいものかどうかすらわからない。いわば知識0の状態から、10でも100でもどっちでもいいがこの本を読んだ事によって急激に知識があがったのである。こりゃ読んでいて頭がよくなったという錯覚に陥っても仕方あるまい。ただその場合気をつけなきゃいけないのが、一冊本を読んだ程度でその分野に自分は精通していると思い込むことだな。自分も気を抜くと一冊しかその分野の本を読んでいないのに、それについて全てを知っているかのように思ってしまう事がある、利己的な遺伝子利己的な遺伝子と生物と無生物の間で何回も書いたが、あれがいい例である。全ての価値は比較する事によって生まれる、というような事が書いてあったのはどの本だったか、とりあえず一冊だけ読んでその価値を決めてしまうようじゃいかんよなぁ、というような自戒である。そういういわゆる知ったかぶりの態度は恐らくかなり痛々しいものであろう。特に自分、この本の事を二割しか理解していないと自負している(自負って使い方あってるのか?)一見関係あるのかないのかわからないような、最初の方の記述がラスト付近、六章七章で一斉に回収されていくのはまるで伊坂幸太郎の伏線のようだった。というかラスト30ページは今までわからなかった事がなるほどおおおと声をあげてしまうほどに理解出来て、次々と頭の中で整理されていくのは純粋にうまいと感じた。いや、っていうか純粋におもしれえよ!とりあえず、さっき自分が書いた、タイトルの答えがすぐに知りたい、というものをとりあえず自分だけは実践しよう。時間はどこで生まれるのか、それは意識というものが存在した瞬間に生まれるのである。哲学的要素もふんだんに盛り込まれていた。特に、哲学の一番わかりやすくておもしろい部分である、見る人によって赤は違う色かもしれない、というようなところの話も面白い。色というのは電磁波で、人間が色として認識出来ない電磁波を、赤外線と紫外線と呼ぶとか。モンシロチョウは紫外線が見えるから、モンシロチョウ同士にはお互いの羽に模様が見えるが人間は紫外線のレベルの電磁波は感知できないから見えないとか。全体的にいっていることは非常に難しいというか、専門用語が多いというか、単純に自分の知識が足りてないだけなのだけれども・・・。それでも最後の方は本当にきれいにまとまってくるから凄い。ただやはりもうちょっと理解するためにちょっとずつ進んでいこう。ミクロな世界じゃ何でもありなんだよ! というような話を何回も繰り返される。それも何でかよくわからない。たぶん量子論とか原子があまりにも小さいからとかそんなような理由なんだろう。それから非常に重要な時間のA系列 B系列 C系列の事も忘れないように一応書いておこう。A系列とは主観的な時間である。常に「現在」という視点に依存する時間のことをいう。B系列とは歴史年表のような客観的な時間である。C系列とはただの配列のことである。最初はC系列の、ただの配列ということの意味が全く分からなかった。正直読み終わった今もわかっていないが、最後の方で一枚の絵にたとえられていたことから、恐らくただ並べてあるみたいな感じなのだろう。二章でいきなり意味のわからない図を使った説明をされる。正直なところ、この図を使った説明、ぜんっぜん意味がわからなかった。というか空間と時間を相対的に考えるのがまず難しい。時間が実数であり、空間が虚数であるというのはなんとなく理解できたが、何故今現在の私が干渉され、干渉する事が出来る絶対過去と絶対未来が円錐形をしているのかがいまいちわからない。相対論の説明 たとえば、高速道路を時速100キロで走る車があったとしよう。この時速100キロという速さは、歩道橋の上に立っている人から見た速さである。同じ高速道路を同じ方向に、時速70キロで走っている車から最初の車を見ると、時速30キロに見えるはずである。この考え方を適用すると、光の速さというのは動いている人間の速度と相対して光の速さも変わってくる事になる。だが、光の速さは不変だという。その理由は動いている人の座標軸は時間軸だけじゃなく、空間軸もかたむくという、正直、意味がわからない。せめて自分がグラフなんて毎日もてあそんでるぜ?みたいな理系学生だったらもう少し理解度が期待できただろうが、しがない文系学生だった自分にはそんな次元の理解はとうてい無理なのである。空間軸が斜めになるというのは、光の速度がかわらない事を説明するには空間軸が斜めになるしかない、という事から導き出されているのだろうか。それプラス色々な要因から空間軸が斜めになるしかないと結論されたのか。しかしいきなり空間軸が斜めになるといわれたって、え?ななめって?どういうこと?地面が傾くの?というぐらいの感想しか持てない。自分が今感じている現在というものが、グラフ状じゃ点としてあらわされるのではなく、広がりを持ってあらわされるというのは面白い話だ。確かに認識するために脳を情報が伝達する時間があるのだから、それが伝達している間をイマとして定義するならば現在は広がっているということになるのだろう。実際にあなたが今見ている風景は何秒前の風景です、みたいな話を読んだ事がある。でもその場合眼に取り込んだその瞬間を現在とするならば、現在というのは点になるのではないだろうか、よくわからんけれど。 現在、「一秒は、セシウム一三三原子の基底状態の二つの超微細エネルギー準位の間の偏移に対応する放射の九一億二六三万一七七〇周期の継続時間」と厳密に定義されている。わ、わけわからんちん。な、なに?日本語かなほんとに?超微細エネルギー準位ってなに?ギャグなの?他に気になった場所は、時間という概念が人間にとってア・プリオリであるというところだ。ア・プリオリというのが何なのか、三割ぐらいしか理解していないがそれでも書くならば本能というか生存に必要なもの、というか元々知っていたものみたいな意味か?犬や猫には未来という概念がないらしい、人間が未来という概念を知る事が出来たのは、それが必要だったからだろう。仮に時間という概念が無かったらどうなるのだろうか。きっと三時間後にはまたお腹が減るだろうから、今食べるのを我慢して三時間後のために残しておこう、というような事は出来なくなるだろう。過去という概念がないのはうまく想像できないが、過去の経験から学ぶ事が出来なくなるのだろうか。人間に時間という概念がなかったら今もウホウホ原始人のような生活をしないとならないだろうな。ここまで自分で考えたこと。 もっとも、われわれの祖先は一万年ほど前までは、時間という概念を持っていなかったと思われる。彼らは他の生物同様、獲物や来襲者の「動き」といった刹那刹那に生きていたのであり、そこから時間概念が生まれるためには、もっと余裕のある生活(農耕など)が必要だったに違いない。それゆえ、時間は人間の理性が生み出した後発的な概念であり、よりプリミティブには、「動き」こそが生き延びる条件だったのである。プリミティブってなんだ?調べていたら原始的なさま、というような意味らしい。それにしても時間という概念が後発的な、身につけた概念だとしたらア・プリオリの本能みたいな意味は違うってことになるのかな? それと概念っていうのは子孫に受け継がれるもんなのか?よくわからんな。簡単な思考実験で時間や空間が実在ではないと示す事が出来るらしい。 一個の光子の立場から考えてみよう。もし光子が意識を持っているとすると、それはどのような世界を体験するだろうか。相対論が正しいとすれば、光速に近づくにつれて、空間の縮と時間の遅れは極限に達するから、宇宙空間を飛んでいる光子は、一瞬のうちに宇宙の果てに到達する。つまり、光子にとって、宇宙の大きさは0であり、流れる時間もまた0である。つまり、光子にとっては時間も空間も存在しない。光子にとっては無であるような世界の中に、われわれは広大な空間と悠久の時間を見ているのである。うーむ、ロマンだねぇ。光速で移動すると確か収束点がみえて、まわりはレインボーになるらしい、何でそんな事がわかるんだろうなぁ?体験したわけでもないのに。一つよく理解出来たことといえば、量子論だろう。SFを読む以上量子論は避けては通れない道である。必然、量子論についてはSFだけでなくちゃんとした本も合わせそれなりに読んでいるので全くの無知ではない。ゆえに完全についていけなかったというのは二章だけで、あとは五割ぐらいの理解度で何とか付いていくことができたのである。もう一万文字を超えてしまいそうなのでとりあえずここまで。それにしても一万文字制限、うっとうしいことこのうえない。やはり移転するべきか。
2008.08.24
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感想 ネタバレ有ついにラストで孔明への引ききたああああ。それにしてもこの徐庶と諸葛亮孔明へのバトンタッチは素晴らしいなあ。徐庶の有用さを十分にアピールしたうえで、あえて曹操の方へ仕官させて、しかしその徐庶をして自分より才に恵まれた男という事でいやがおうにも孔明への期待感が高まる。 「私より、はるかに才に恵まれた男で、臥龍と呼ばれています。つまり、まだ雲を得ていないということです。その雲に、おなりなされよ、劉備様」 「して、その臥龍の名は?」 「諸葛亮、字は孔明。劉備様自ら、お訪ねになるとよいと思います。それほどの男であるのです」初めて三国志を読んだ時は、なんで徐庶いっちゃうんだよおおおおと絶叫し、孔明がどれほどの男かとわくわくしながら読み進め、いざ孔明の実力を読んだ時はそれはもう嬉しくてうれしくて転げまわらんばかりだった。実際、今も大して変っていない。よく考えたら北方三国志、漢気の物語である。劉備はその誇りで闘い呂布もその誇りで闘う。策で闘う孔明は、北方三国志には実はあまりあっていないのかもしれんなぁ。孔明も誇りに似たようなものは、もっているか。北方三国志で、呂布がかっこいい関羽がかっこいい張飛がかっこいい劉備がかっこいいという話はよく聞くが、孔明がかっこいいという評価を聞いた事が無い気がする。あまりにも人の口に孔明の名前があがらんので、ひょっとして北方三国志には、孔明が出てこないのではないかと疑ってしまったぐらいだ。まぁ遂に孔明が出てくるようでよかったよかった。これで今まで不遇だった劉備も、ついに反撃にうってでれるわけですね。袁尚視点来るかと思ったら来なかった。このまま何事もなく駆逐されていくのだろうか。というか話全然おぼえてないなあ。記憶力の危機。まだ物語が本格的に動き出した、っていう感じじゃないなぁ。曹操がした事といえば、劉備とちょっとやり合い孫家の兄弟げんかを見守り頭痛に苦しんでいただけだし、劉備も劉備で同じ場所からずっと動いていないし、孫策もほとんど動いてない。って動きだけ言ったらこんな感じだが実際もっといろいろあったがな。この曹操の頭痛設定、今後一体どうなっていくんだろうか。 「徐庶殿か。私も、流浪を夢見ることが時々ある。羨ましい話だ」 「なにもかも、放り出す。その決心さえできれば、難しいことではありません」 「なにもかも、放り出せる。たったひとつのことを除けば」 「なんです、そのひとつのこととは?」 「志」このシーン、三巻での呂布と曹操のやりとりとそっくりだなぁあああ。呂布を思い出したよ・・・。やっぱりこの二人、そっくりである。志と誇りは違うであろうが、でも劉備志だけじゃなくて、誇りも持ってるんだよなぁ、その点が呂布と違うところか。
2008.08.23
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感想 ネタバレ有孫家ほんとに不遇っぷりが半端ないわ・・・。ここまで情けない孫家可哀そうだな。孫堅流れ矢で死んで、孫策もこれからって時に女に骨抜きにされて暗殺されるってどんだけぇー。というか何回か三国志を読んでるにも関わらず、自分の三国志への把握度が本当に低い事に、これを読んでる最中に気づいた。孫策が死ぬのと呂布があんなに速く退場するの忘れてた。というか呂布があれだけかっこよく死んでいったのに対して、孫策の死に方は間抜けすぎる。こいつのエピソードで覚えてるの、女を奪いに行った話しかないぞ。不憫な孫策、まぁよく考えたらこいつ、別にそんな大した役割じゃないもんな、最強の称号を与えられている呂布と比べるのは、酷な話か。孫権がいったいどうなっていくのか全く予測できんな。孫堅と孫策に続いて、しょぼい死に方をしたらおもしろいのだが・・・。今のところそれもなさそうだ。孫権には成長してもらって呉をおさめてもらわんとならんからな。抜け目ない袁紹が好きになりかけていたにも関わらず、曹操のなんだかよくわからん策にハマって負けてしもうた。なんというか曹操の勝ち方、納得いかない。恐らく一個や二個じゃない数の策を、袁紹に対して仕掛けていたであろう事は琴の女を送り込んだことからもわかっていて、数撃てば当たる戦法で一つの奇策があたったであろう事は予測出来るが、それにしても運の要素が強すぎる。ほぼ負けじゃないか。いや、しかし北方世界じゃ男は死ぬべき時が来るまでほとんど死なないらしいから当然か。もっとスカっとかってほしかった、という気はする。だが、リアリティというものにこだわるのならば、三十万の軍を擁する袁紹に曹操が勝てる要素は全くないわけで、それを勝たせるためには、運という要素が絶対に必要になってくるものな。また理解できないのが、劉備が曹操が勝つかもしれない、と予測するのはありだとしても、孫策まで曹操が勝つ方に賭けていた事かな。そんなに人間を把握するほど孫策と曹操って接触してたかなぁ?袁紹も結構抜け目ないやつなのになぁ。関羽が曹操にくだって、顔良の首を討って恩を果たすところは、三国志屈指の名シーンだと思うわけで。少し影が薄くなりがちだった関羽がまた復活してきたな。それにしても一巻からもう十数年経過してるんだなぁ。二十年ぐらい経過してたかもしれんが。とんでもなく早い時の流れ、と思ったがどっかで十年単位で飛んだような気がする。ええい、孔明はまだか。北方三国志の終わりはどこなのだろうか。このペースで時が進んでいったらみんな6巻で死にそうなぐらいなんだが・・・。今回は特に震え立つようなセリフは無かった。ところどころ気に喰わない箇所もあるが、それを補って余りある名シーンの多さは何物にも代えられないものだ。平均的に面白い、というよりも突出したある一点が面白い作品という事になりそうだ。あくまでも、自分の中では。視点によって面白い場所と面白くない場所があるのが、その理由なのだが。眼が止まった場所ならば、ある。 「凡人にはできぬことを、平然とやってのける。いや、それでこそ曹操なのだ。曹操と袁紹の戦の行方も、私には見えた気がする」そこにシビレるあこがれるぅ。
2008.08.22
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感想 ネタバレ有うわぁぁぁ 後半100ページの勢いが凄まじい。正直いって泣いた。呂布の描写の厚さでどう考えてもこの巻で死ぬと確信してから涙がとまらねええええ。何しろ何しろ格好良すぎる。死ぬの早すぎるだろおおお。それから一、二巻で地味に影の薄かった劉備の視点が増してきている。そしてだんだん孫家の視点が空気化・・。正直張魯とかどうでもいい感じなんだけど早く死なないかな・・・。劉備の精神が不安定すぎる。すぐに切れるわ、妙に自身があるのかと思いきや不安でいっぱいだわ。ただ、かくあるべき、という姿というか一本芯が通っているというか、そういう所は全く何の迷いも見せずに決断するからそういったところと別のところでの妙に弱気な劉備を読んで、そのギャップに驚く。自分が読んだ三国志の劉備は本当に徳の将軍といった感じで、公孫讃が死んだ時も涙を流してたような気がするのに、北方版じゃ我が強い男だった、とかいって死んで当然だ、みたいな対応だしな。やはり天下を狙おうってんだから生半可な心構えじゃいけねえっていう気分にさせてくれる。劉邦みたいにしたたかな男じゃないとな。ただこの劉備、決してしたたかってわけじゃないとも思うのだが。曹操に従ったのはいいものの、曹操との宴のあとがっくりと膝をついて唇から血を出すほど噛み締めて耐えている劉備の描写とかほんとに鳥肌がたった。 「大兄貴、曹操の手を借りなければならないことが、無念だったのですか?」 「いつか、この手で、曹操を殺す」こいつあ猛犬だぁああ。時代が現代なら速効で刑務所行きだな・・・。よかったなこの劉備戦国時代に生まれる事が出来て・・。呂布のかっこよさは異常。ここまで散々赤兎との友情を書いてきて、というか二巻分しかないのだが全てが呂布のためにあったのではないかというぐらいだ。戦に行く前に、李姫から首に赤い布を巻いてもらう所から完全にもう呂布無敵モード。もはや全ては呂布のために!とでもいうべきか。呂布が劉備の守る城を攻めてきた時の、曹操の使者とのやりとり 「私は城を出る」 「なんと。この期に及んで、逃亡しようというのですか、劉備殿は」 劉備は、剣の柄に手をかけた。逃亡などという言葉は、いまここにはない。斬り殺す。そう思った時、張飛がその武将を殴り倒していた。 「われらは、城外に陣を敷く。呂布の騎馬隊を、正面から迎え撃つ。攻められて、城でふるえているのは、男ではない」張飛が激情しやすい劉備に代わって相手を打ち倒す役目をになっているというのは新鮮だ。ただその分関羽の影が薄くなってきている気がする。関羽の役割がうまく見えてこない。それにしても、張飛の死に方が原典のままだとすると非常に悲しい話だ・・・。 「呂布の騎馬隊の手並みを、見てやろうではないか。呂布ほどの男が、騎馬全軍を率いてきたのだ。迎え撃たなくては、この劉備の男が廃る」これだよ。これが劉備ですよ。いざ決定する前は色々と迷うものの、いったん事が始まってしまったら男はこうなんだよぉ! といって明らかに無謀な事を何の迷いもなく男だから、という理由でやってしまうそのアホさ。さすが劉備玄徳、徳の将軍の殻をかぶった虎だぜ。この一連の流れを読んだとき、笑いが止まらなかった。わはははははと笑っていた。なるほど、面白すぎると人は笑うんだなと当然の事を考えた。 散るか、劉備。呂布は、赤兎の上で呟いた。見事な花だ。それは認めよう。そして、散らせるのが、この呂布奉先だ。乱世の花。俺が散らせるのも、宿運というやつではないか。劉備と呂布の戦い、滅茶苦茶面白い。十年前の作品でもなんら色あせる事はない。ゲームだったらこうはいかんよなぁ。十年たったらゲームじゃロートルだ。小説は、割と現役の時間が長い。だからいつまでも残りつづけるんだろうなぁ。呂布が矢で曹操の鎧を射り、命を一つ貸しだといって赤兎の治療をさせる場面が泣ける。 「頼む、呂布殿。私に降伏してくれ」 曹操は、劉備の言う事を聞く気はないようだった。 「私と呂布殿が一体になれば」 「やめろ、曹操。男には、守らねばならないものがあるのだ」 「なんなのだ、それは?」 「誇り」 「おぬしの、誇りとは?」 「敗れざること」成玄固が、劉備と呂布が似たところがあるといっているが、この自分の誇りを絶対に曲げないところが似ていると言っているんだろうな。劉備も絶対に自分の信念は曲げなさそうだ。なにしろ天下の呂布の騎馬隊に真っ正面からぶつかっていくバカだからな。呂布の最後が、陳宮をかばって死んだというのも面白い話だ。やはり最後まで軍人であったという事か。軍人だから、命を賭けて陳宮を助けるのは、当然という理屈だろう。特に大した男でもないから、という理由で陳宮を見捨てたりするようなのは軍人じゃないという事か。というか、呂布は全く変わる事が無かった。呂布というイメージでありつづけた。戟を矢で射た時の呂布のセリフ、おい、俺は呂布だぞ、から始まって呂布だったらここは当てるだろう、というイメージのまま、それを体現し続けたのだろう。常に俺は呂布だぞ、という自負を持って生きたのだとそう感じさせる描写だった。赤兎と語り合うシーンが、いくつあったかは忘れてしまったけれど、そのどれもが良かったなぁ。最期の方に孫策と周癒が結婚相手をさらう話があるが、まるでオチのような扱いである。孫家が可哀そうになってきたな。オチの扱いしか与えられていないぞ。
2008.08.22
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感想 ネタバレ有まさに、群雄割拠というべきか。勢力が多くてめまぐるしく視点が変わる。どうにも慣れない、というか慣れないというわけではないんだが。最終的に蜀、呉、魏の戦いになっていくのがわかっているだけに、脇キャラの視点があまり面白くないと感じてしまう。その点水滸伝じゃ一人一人のキャラが非常に面白くてどの視点も楽しかったのだが、これは単純に原作を知っているかいないかの違いだけだろうか。曹操と呂布の視点が多くて、劉備の視点が少ない。それにしても呂布の描写の厚さは凄まじいな、こりゃ間違いなく近いうちに死ぬな、とつまらない予測をしてしまうが、楊志のような死を見せてくれるのだろうか。あれだ、それにしてもどうしても水滸伝と対比してしまう。仕方ないといえば仕方がないのだが、これからは少し抑えていくかな。赤兎馬と語り合う呂布の描写が何回か出てくるが、老いを感じさせる話だったり戦争の話を延々と語ったり、感じいる描写だ。普通三国志で呂布というと、ほとんど喋らず他人の言う事を聞いて戦に出ていき闘うだけ闘う、というあるいみ機械的なイメージなのだが北方三国志じゃ完全に一人の人間として描写されている。赤兎っていう名前はどこから出てきたんだろうなぁ。兎っていうイメージじゃないだろう、赤虎だったらまだ納得いったものを何故兎なのだろうか?調べてみたけれど、焼酎しか出てこない。赤虎でも赤雷でも、もっといい名前があったように思うんだがなぁ。ひょっとして、品種名だったりして、とも思ったけどそれだったら別に名前をつけるよな。 呂布は、陽を浴びて輝く、沖の海面に眼をやった。赤兎が、そばへ来て躰を寄せる。 「天下は、あれほど遠いかな、赤兎?」 赤兎の体が、かすかに動いた。 「俺とおまえで、天下を取ろうか。どうせ、いつかは死ぬのだからな」すっげーいい終わり方。黄布の軍百万を曹操軍がわずか三万で打ち破る場面がある。正直いって、百万という軍勢がいったいどれほどの数なのか、まったく想像する事が出来ない。百万も人間がいたらどうやってそいつらは飯を食ってるんだ?バキで同時に四人相手に出来たら地球上の人間を相手にしても負けない(数字はかなり適当)とかいう話があったが、百万もいたって、百万全員が同時に攻撃できるはずがないんだから、そういった間隙をついたということなのだろうか。百万を想像する力が足りないからそれを三万で打ち破るのも想像できない。というか人数の規模が凄いなぁ、これだよこれ。日本じゃそんなに人間がいないからなぁ。曹操と劉備の呂布の視点がいまのところ一番面白い。だんだん絞られてきて、視点の数が少なくなってきたらもっと面白くなってくるだろう。呂布が反則級に強すぎる。逆に、曹操の負けっぷりが笑える。あれ、こんなに負けるキャラクターだっけ?という感想を持ちながら読んでいた。とにかく呂布にぼっこぼこにされる。え?そんなにふるぼっこにされんの?曹操マジダッセェと思いながら読むものの、呂布+五百騎の恐ろしさは読まないと伝わらない。そりゃ曹操も尻尾巻いて逃げるわ。そして劉備である。退かぬ媚びぬ顧みぬじゃないが、我が道をいくっぷりがすさまじい。何がどうなってやがる。二巻っていうのはシリーズものじゃ結構微妙に位置にあると思う。一巻はいうまでもなく重要だが、二巻っていうと話をあとにつなぐためのツナギ的な要素が強いんじゃないか。ここじゃまだキャラ設定を説明するってぐらいのノリで軽く読んだような気がする。
2008.08.21
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感想 ネタバレ有自分にはこの作品を批判する資格がない。あまりにも内容が微妙すぎて最後の2,30ページほっとんど読んでいない。まぁいいだろ。そういえば同名の新書が岩波かどっかから出ていた。あっちはどうなんだろうなぁ。 文章のうまさと内容の面白さは比例しないという事を知った。ここで書かれてある事のほとんどは、すでに利己的な遺伝子の中で、この本の何倍もわかりやすく書かれている、と感じる。だからこそ自分はこの本を読んでも、あまり面白くなかった。しかしちまたじゃ大絶賛なんだなぁこの本。特にその文章力について、各所でべた褒めである。難しい事をわかりやすく書いてある、という評価も目立つ。帯の美辞麗句がとてつもなくウソ臭い。知っている人間でもよしもとばなな、高橋源一郎、内田樹、森達也、そうそうたる顔ぶれである。読んで思ったのだが、まったくわからなかった。いや、全体として言いたい事はわかるのだが説明過多というか。一行で済むような事を無駄な文章力を使って脚色して何ページにもわたって書いているというか、ひとつだけじゃなくて、最初から最後まで、全部そんな感じなのである。生物と無生物のあいだ、というタイトルは読む気にさせるに充分な魅力的なタイトルだったけれど、本の中で言っている事とあまりつながってこない。というか、全体的にまとまりがない、と感じる。最終的な結論に行きつくために、この論は必要なのか?という疑問で読んでいる間頭がいっぱいになった。各章のはじめに、何故か筆者の暮らしていた街の描写が入る。まったく、意味が、わからない。読んでいる最中に久しぶりにぶち切れそうになった。まったく意味がないのである。およそ三ページにもわたってニューヨークの町を描写したかとおもったら、そのあとニューヨークの話なんて無かったかのように本論に入って言った時には殺意すら覚えた。意味ないのかよ!ほんとにまったく意味がわからないのだがなんでそんな関係ないことを書く必要があるのだろうか。確かに絶賛されているように文章力はあるのかもしれないが、必要ないところでその文章力を発揮されても全く困るのである。さらにわかりやすいわかりやすいと評判だがラスト40ページぐらいは本当に読むのが苦痛だった。数学を勉強する時に、一番最初の勉強をサボると、そのあと全然理解できなくなってしまうという現象があるがまさにそんな感じだった。あまりに読むのがだるくなって数ページ流して読んだら意味のわからない語句が頻出していてそのまま読み進めても全く理解できなかった。サボるな!ちゃんと読め!といわれても仕方ない所業であるが読みたくないんだからしょうがない。っていうか面白くないわぼけぇ!というか、すでに利己的な遺伝子の中でほぼすべて理解出来ていることだったのだ。より理解しやすい方法で学んだあとに、何故わかりにくい方法で復習しなければならないのか、とそういう意識があった為に、これほど面白くないというネガティブな意見を持ってしまったのだろうと思う。恐らく利己的な遺伝子を読む前に出会っていたら、大絶賛していた可能性もある。タイミングっていうのは全く重大なのである。それにしてもくどい、説明がくどいし、意味があるのかないのかよくわからないエピソードの挿入がくどい。利己的な遺伝子の中で、一章でまとめ上げられてしまいそうな内容なのに一冊まるまる使っているという感じ。本の中で何人もの偉大な科学者の話が出てくる。ほんとうに意味があるのか?このエピソードの挿入は?と問いかけたくなるものだらけである。前に読んだ本に、ただの有名な科学者マニアの人間が書いたようなものがあったが、それと似たような空気を感じた。ただやはり面白い話もあるのである。本当に唯一の欠点は利己的な遺伝子を先に読んでいたという事だけである。 結局、私たちが自然に対して何かを記述できるとすれば、それはある状態と別の状態との間に違いがある、ということでしかない。何故こんなに生物は大きいのか、という問いに対しての説明はなかなか面白いものであった。 生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が高くなる。粒子の数が増えれば増えるほど平方根の法則によって誤差率は急激に低下させうる。生命現象に必要な秩序の精度をあげるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。そういえば、またどうして面白くないかと感じたかというネガティブな意見に戻ってしまうのだが、どうもゴールがよくわからない。プロローグにて、生物を無生物から区別するものは何か、というものをゴールに設定していたようだが、中で語られているという事といえば物凄い小さい話なのである。まさかDNAの成り立ちから説明させられるとは思わなかった。そして関係は確かにしているのだろうが、あまりに視点が小さすぎる。うどんを作るために麺から作ろう!とかじゃなくてうどんを作るために原子の仕組みを調べよう!といっているようなものだ。何が一番不満かというとタイトルと内容があっていない。進化論に対して、私は違うと思う、と書いてありその後当然何故違うと思うのかが書かれているのかと思いきやスルーしてそのまま次の話題へ行ったりほんとうに何がしたいんだろうか。さらにいえばエピローグ、必要なのは最期の二ページぐらいなもので、その前の作者の小さい頃の体験談というものは必要とは感じなかった。そしてそして、最後のオチである。まさかこれがオチ?と目を疑うような思いであった。本を投げ捨てようかと思った。 私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。なんだそりゃああああ。だったらプロローグとエピローグだけ書いてろバーカ!この本の270P近くはなんだったんだよ!いったい何のためにここまで読んできたと思ってんだ。文章力が凄いとかいうのは自分にはわからないのだが、やたら脚色されているような文章で非常にサムい。こういうのを凄い文章力というのかーと唖然とする思いだ。少し笑ったところ よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでになたの内部には存在しない。お変わりありまくりなのである、笑った。
2008.08.20
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感想 ネタバレ無十九巻もある水滸伝を読み終わった次の瞬間に同作者の三国志を読み始めるとは完全に中毒です。いやいやしかし北方謙三には本当に感謝せねば、ほぼ十年間も眠っていた自分の歴史小説への情熱を再びイグニッションしてくれたのだから!小学生の頃に三国志を読んだのは覚えている。誰が書いたものかは忘れたが。それから何年か前に宮城谷昌光の三国志を読んだ記憶がある。それから蒼天航路も、横山三国志も読んだ。いったいどれだけ三国志が好きなのかと。これで小説では三度目の三国志である。そういえばゲームでもやったな。いったいなにがそんなに人を惹きつけるのだろうか。いや、面白いからだろう。読んで思ったのは三国志こんな話じゃないよなぁという感覚である。水滸伝を読んだときには何も感じなかったが三国志を読むことによって、同時に水滸伝の凄さも味わっている気がする。なるほど、北方版になってしまうというのは、こういうことだったのか。なんというかまるで歴史小説を読んでいる気がしない。時代を感じさせない。いい事か悪いことかはわからないが、滅茶苦茶おもしろい。劉備がかっこいい。呂布がかっこいい。ていうかみんなかっこいい。というかこの感想、水滸伝と全く一緒だ。単純に文章だけでいえば水滸伝の方が断然わかりやすかったように思う。特に合戦のシーン。なんだか三国志だと、ごちゃごちゃしていて少しわかりづらい。どうなっているのか想像力をかきたてられる感じがしない。って勝手なこといっているなという感じであるがそれはしょうがないのか、先に書かれた方だから、まだ洗練されていなかったか、単純に自分の勘違いという事もありえる。というか確率的にいえば2:8で自分の勘違いの線が濃い。だがそれでも面白さが水滸伝と全く引けをとっていないと思うのはやはり、長年連れ添ってきたキャラクター達とのなじみの深さであろう。名前を知っている数々のキャラクターが出てきて、北方謙三に動かされ喋らされる、それを読んでいるだけでたまらなく面白いのである。もはや反則ではないか。ってまだ一巻しか読んでないんだけどな。この先の展開を全く知らないのだが、孔明が気になるなぁ。あの天才軍師がいったいどうやって北方謙三にアレンジされて登場してくるのか。小学生のころ読んだ三国志で、劉備や関羽や張飛が死んだあと、一人孤独に闘い続け、敵を罠にはめ続け、自分の死すら罠に使った孔明を読んで、滅茶苦茶感動、もしくは泣いた覚えがある。北方謙三によって孔明がどうなるのか今からわくわくが止まらん。間違いなく面白い。だが残念なのは、この三国志を読み終わった時に自分はどこへ行けばいいのか、じゃなかった何を読めばいいんだ! 水滸伝、三国志ほど満足させてくれる物語はどこにあるんだ!SFでも読むかな。ネタバレ有 「ならば、去れ。私は、賊になるつもりはない。男には、命を捨てても守らなければならないものがある。それが信義だ、と私は思っている」劉備のセリフだと思えんな。なんでこんな漢とかいてオトコと読むようなキャラクターになってしまっているんだろう。最高すぎる。そういえば読んでいて全く気付かなかったが、桃園の誓いがないなまぁそれはいいか。あまり必要とも思えんしな。 「進むぞ。?県に未練を残すな。われらは、大義のために闘う。命は、この劉備玄徳が預かる。死のう。ともに死のう。生きて、生き抜いて、闘い尽くしたあとに、ともに死のう。それを、男子の誇りと思える者だけが、われに付いてくるがいい」劉備・・・立派になっちゃって・・・。見当違いもはなはだしい話だが、何故かこんな立派な劉備を読んでいて泣けてきた。なんだか出来そこないの自分の子供が立派になって帰って来たみたいなそんな意味のわからん感情がわき起こってきたが自分にすら意味がわからん。 「私も、負けた。完膚なきまでに、負けた。この姿を見れば、それはわかろう。しかし、私は闘って負けた。そして諸君は、闘わずして負けたのだ。私は、闘わずして負けた諸君に、訣別を告げる」ぎゃぁぁぁぁ面白すぎんだろぉぉ。ちなみに曹操のセリフである。もうこのセリフを読んだ瞬間に、自分の心の中にあるわけわからんメーターが猛烈に限界を振り切って一回転も二回転もしてさらにひゃっほぉぉぉと叫んで清水の舞台から飛び降りるかのごとくベッドの上でごろごろと転げまわり声に出して三回ほど朗読しもう一度読み直し今こうして書きながら首を激しくシェイクしながらもう一度読んでいるのである。(誇張表現)悶えた。身が悶えた。面白くて。三国志、なんだかよくわからないけど、面白いねやっぱり。水滸伝は基本的に百八人の英雄を書いていく物語だった。一人一人に視点があたり、宋と梁山泊という二つの立場しかなかった。それはそれで、もう絶賛としか言いようがないほどに面白かったのだが三国志は乱世である。梁山泊のような存在がいくつも立ち上がり、おれがおれがと天下を奪いに走る。そういった意味で、視点の移動がまた水滸伝とは全く別物になっている、と感じる。どっちがすぐれているとかじゃなくて、物語にあっている。それにしても最期の最後であっさりと孫堅死んだな。思わずえぇぇぇぇと声に出して言ったぐらいだ(誇張表現)まぁ十三巻だからな、二週間かからんだろ。
2008.08.19
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感想 ネタバレ有ついにここまで辿り着いた。二十巻目の極致である。ついでに水滸伝全十九巻を振り返ってみようと思う。まず最初に気に喰わなかったところである。原本から比べて、圧倒的に現実感が増したのは、原本を読んでいないからわからないのだが、解説などを読む限りではかなり確実性のある話だろう。なにしろ原本じゃ、妖術が乱れ飛ぶ摩訶不思議な話だったそうだから。それでもおかしいな、と感じるところは、北方水滸伝にも多数あった。それは全十九巻にまで及ぶ話なのだ、おかしなところが出てくるのも、当然だという気もする。たとえば替天行道の中身が書かれていないところだ。ただこれは自分の中では、しょうがないと納得出来るだけの理由もある。だれしもがこの書を読んで、心を突き動かされるような感情を持たされているところだ。この世に、誰ひとり例外なく感動させられる話があるだろうか。たぶん、無いだろう。森博嗣の言葉を引用すると 大砲の弾が落ちた場所(作品の価値)は、そのまま動かない。永遠にそこにある。しかし、人の位置は常に変わる。自分も変わるし、大勢の人たちもそれぞれに変わる。ようするに、大勢の人がいる方へ自分が動こうとしていれば、人の評価を聞いて、作品に関する自分の評価を変更する、という行動になるわけだ。すなわち、違っているのは、自分がどこへ向かいたいのか(そもそも動きたいのか)、という方向性なのかもしれない。一人一人立ち位置が違うのであって、その位置が違う全員に感動を味あわせる物語がいわゆる王道であろう。恐らくいろんな人間がいる中の中心的位置にある物語の事を王道的展開、といって万人受けする話として受け入れられるのだろうと思う。だから誰しもが同じ感情を持つ本なんていうのはまず書くのは不可能だろう。替天行道というものを、最初から出さないか、それとも中身をもっと普通のものにしてしまうしか書く方法はなかったのだ。不満点といえばそこだ。何故かけない、存在しないものを主軸にしてしまったのか、という事だ。それによって書かれない宋江の根本というものが見えなくなってしまった。他の不満点といえば、童貫がなかなか出てこない理由がしょぼかったり兵站があまり書かれていないなどという細かい点があるが、全体を俯瞰してみるとほとんど気にならない点である。という事はたった一つ替天行道の事がひっかかるということになるが、これも仕方がないことだと受け入れている。つまり水滸伝サイコー!という事で。水滸伝、108人の英雄達の名前を一人一人書いていって、それぞれ思い出を語ってもいいぐらいだ。たださすがにやめておこう。読み返さない気がする。 不満点しか書いてないが、文字数の関係上これ以上書くわけにはいかない。いや、というか水滸伝については良く考えたらもう今まで充分すぎるほど書いてきたのである。これ以上書くというのは、正直蛇足であろう。ここでやめておけば替天行道からそれていない。替天行道の話に戻ろう。面白かった部分と、面白くなかった部分の差が激しい。面白かった部分は、担当編集者山田が出てくるところ全般と、北方謙三が一人で語っているところ全般。他には、文庫版で解説を担当していた人たちと北方謙三の対談だったり、文庫版の解説とほとんど同じ内容が書かれているだけである。その部分はほとんど焼きなおしといっていいぐらいで、読み飛ばしてもいいレベルの話ばかりだった。何しろ繰り返しが多すぎる。どいつもこいつも同じ話しかしない。北方謙三は凄い!何故ならあれほど滅茶苦茶だった原典水滸伝を徹底的に解体して自分流に作り直したからだ!この一文から北方水滸伝を褒める解説が並ぶ。全員そんな感じだ。一人ならまだしも何人も同じ話をさせられると、意味がない。と感じる。自分がやりたいのは、あのシーンのあのキャラクターは最高にかっこいい!と諸手をあげて喝采を叫ぶ!といったそういうノリのいい話なのだ。決して読み終わった瞬間に、あそこはどうなっていてあそこと関連していて、この物語は何を象徴している、なんてアホな話を聞きたいわけではないのである。ただ自分と同じ感想を持っている人間を探していて、同じ感想を持っている人間と面白かったなぁ!と叫び合いたいだけなのだ。それ以外は決して求めていない。原典水滸伝がどれほど滅茶苦茶な物語だったのかなんてのはどうでもいいことで、いま自分が読んだ北方水滸伝がどれほど凄かったのか、というのを比較して語るのではなく北方水滸伝だけを単体で話し合いたいのだ。これは何もこの作品に限ったことではない。すべての作品に共通する事だ。解説というと必ず何かと比較する。それが非常に煩わしい。山田という担当編集者の事は全く知らなかったが、物凄い面白い人間だな。いちいち手紙が面白すぎる。 童威と童猛は区別がつかんので、どちらかを殺してしまいましょう。編集者が言うことなのか・・・!?いや、作品に対する意見を言うとしては正しいのだろう。ただ、そんな事でいいのか、紛らわしいから殺すとか。まぁ確かに印象に残っていないぐらい影の薄い兄弟ではあったが。元気のいい植物を残す、みたいなやり方でどんどん削っていったんだろうか。 ところで、鄭天寿、いい味を出しました。小者に急に正確づけが始まると末期も近いという読み方のいやらしさ。七人目の犠牲者であります。小説史上に残る犬死にであります。確かに自分もこれを読んでいた時なんという犬死、と思ったけれど、なんとか補正をかけて意味のある死だったと思ったのだが、それというのも楊令伝という存在をすでに知っている未来を見ているからであって、楊令伝を想定していない時ならば鄭天寿、完全なる犬死である。 燕青が、楊令を初めて見て、若き日の盧俊義にそっくりなのにぶったまげたりして。ってどういうことだ?ひょっとして楊令の父親って盧俊義なのか?っていうかこの文を読むとそうとしか考えられないのだが山田という人間がいまいちつかみきれないのでこれも冗談なのだろうか。本気か冗談かいまいち区別がつきかねる。まぁ盧俊義がオヤジというのも微妙にあり得る話なのかもしれんが・・・。いやでもないだろ。 でも文学ではなく、小説、物語という言葉でいいたい。読んで難しいことなんか考えなくてもいい、読んでいる時間だけ楽しんでもらえればいい。酒みたいなもので、栄養にはならないかもしれないけれど、酔っていい気分にはなれる。だから、美味くて心地よく酔える酒をどうやって作ろうかという事だけ考えているんですよ。これは面白い。というか自分の小説の読み方そのものである。ただこういうのって、読者の心構えであって、作者の心構えじゃないんじゃないかなぁ?正直いってただのエンターテイメント小説なんて、基本的に言ってる事はあまり幅が広くない。知識を増やそうなんていう目的で本を読むならもっと学術書かなんか読めばいい話で、エンターテイメント小説をいくら読んだって別に頭がよくなったりしない。本を一か月に百冊読んだからと言って、本を一か月に百冊読んだ、という称号以外に付随してくるものはない、と思う。気になったのは、北方謙三が小説のキャラクターが勝手に動き出す、といったたぐいの発言をしている事だ。自分は別に小説を書いた事が無いからそれがいい事なのか悪いことなのか、まったくわからないが、それは作家としてはどうなのだろう。作品を制御する力が無いという事にならないのだろうか?完全に作品を自分の制御下において、最初から最後まで自分の思惑通りに書ききる作家と、キャラクターが勝手にうごきだし、計算外の動きをしてもそれをそのまま書ききる作家、どちらが優れているのだろうか。あるいはただのタイプの違いなのだろうか。そういう気もする。それにしても山田面白いなぁ。特に中国にいったときの話と、山田と北方と大沢三人の対談のところでは山田、面白すぎる。もはや山田のための替天行道であるといってもいいぐらいだ。それだけに、他の部分、かつての解説をした人間との対談などなど他のところが、ほとんどページ数の水増しといってもいいような目的のために使われているのが残念ではある。 とにかくYは、これは自分のものとなんでも囲い込む。かわいそうな男なのだ。うまいものは、常に段階の世代に取り上げられ、残りものを食って大きくなった事が、トラウマになっている。この北方謙三と山田のやりとりは面白い。特に両者がほぼ同時期になんのしめしあわせもなしに、団塊世代に対するまるで正反対の話を書いているところなど面白すぎるのである。 私が食べすぎていると、Yが非難しはじめる。帰国したら奥さんに言いつけるからね、と反則技まで出した。しかし、私は食いすぎていない。そう見えるだけなのである。たとえば、魚が一尾出てきたとする。私は、頭をごっそり取る。負けじと、Yが身をごっそり取る。頭には、実は身は少ない。食うのに時間もかかり、皿には骨が大量に残る。Yの皿はきれいだが、それはすべて腹に収めているからだ。愚かな男なのである。減量中の私が、戦術転換をしたことに気付かず、ひたすら最初に皿に取った量にこだわっている。Yの顔も腹も丸くなり、私は変わらない。大艦巨砲主義の、旧帝国海軍の発想から、Yはぬけられないのであった。ひどい言い草である。かわいそうな男である、とか愚かな男なのである、とか山田という人間をこき下ろすために人生を尽くしているかのような表現である。 ウンコの処理を気にする霹靂火・秦明のリアリズム。 その細密描写はしない北方謙三のアンチ・リアリズム。思えば自分がひっかかっている描写の差異というのは全て上から来ているのだという事にこの文を読んで気づいた。ちゃかしたような文章だがひどく的を射ている、と感じた。ウンコの処理を気にしながらも、重要だ重要だと叫びながらもそれ以外の事をしない、兵站が重要だ重要だと叫びながらもそれ以上書かない、そういった踏み込まないところが、全てにおいてひっかかっていたのだ。ひっかかっていながらも、何にひっかかっているのか気になって気に喰わない気分になっていただけで、何にひっかかっていたかさえ理解できれば特に追及しようという気分にはならないのであるが。なんというかこんなところで終わると非常に、なんというかまだまだ書き足りない。水滸伝について、もっと語りたい。書きたい。だがそれは本当に意味のないことなのだろう。何しろ今まで充分に書いてきた。もう改めてここに新しく書きなおす意味はないのである。だからここですっぱり水滸伝は終わりである。自分の中でも。さよならである。さらば、水滸伝。
2008.08.18
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ついに、完結。字数制限に引っ掛かったため改行少なめで。読み終わった瞬間に終わったぁ・・・と実感にひたり数分放心状態。いやぁ死ぬ前に読めて良かった。思えばここまで結構長かったな。どれぐらいの時間を水滸伝にかけたかわからぬ。一冊二時間ちょっとで読んだとしても、40時間はかかっている計算になる。それだけの間水滸伝には楽しませて貰った。まったく感謝という他ない。ひょっとしたら作者が途中でまとめきれなくなってしょうがなく楊令伝を出さざるを得なくなったのではないか、という疑問もあったが、やっぱりそれはなさそうだ。自分がまだまだ書ける、と実感を得て、出来るだけ壮大な物語を書きたい、という言葉を現実のものにしているのだろう。楊令伝が全十巻予定だが、もしその通りにいったら全部で二十九巻の物凄い量の物語になる。もちろん水滸伝のようにオーバーする事も考えられるのでもっと増える事もあり得る。いったいいつから楊令伝を出そうと考えていたのかはわからないけれど、本格的に次世代を意識した引き継ぎ、というようなテーマが出てきたのは十二、三巻あたりからだったように思う。主要キャラクターの子供が生まれ、きっと新たな梁山泊の主力メンバーになっていくのであろう。たくさんの人間が死んだ。間違いなくこの巻が一番多くの死者を出している。死者名簿が見れないのでわからないけれど、確実に二十人以上は死んでいる。これで108星のうち生き残っているのは30~40というところだろう。もし次世代に受け継がれていくとしても、果たして指揮を出来る人間がいるのかどうか。李俊と張清ぐらいしか残ってないんじゃないか。ああ呼延灼も生き残っているか。それに年齢の関係もある。~そして三年後~なんてやっていたら戦力外になるような人間はひょっとしたらあらかた殺させておいたのだろうか。秦明しかり、林冲しかり。確かに林冲が生き残っていたとしても、三年たったら馬は歳で使い物にならなくなり、林冲自身もどんどん弱くなっていっただろう。作中でもいってたように、老いる前に死んで幸せだったかもしれんな。やはり。さすがに二十人以上も死ぬと、ほっとんど描写されないキャラクターも出てくる。結構悲惨なやつもいる。凌振とかもあれだったけど、まぁ大砲バカらしい最期で非常に良かったといえばいいのかもしれんな。それから、やっぱり長く続いた物語のラストだからしょうがない話ではあるのだが、今までの伏線といっていいのかわからないが伏線の回収がかなり駆け足になってしまっている感があった。それはどうしようもないことなのだろう。王英と扈三娘の話だったり、凌振の大砲の話だったり。死ぬ時の描写を与えられながらも、何一つ出来ずに死んでいった奴もいた。あいつは非常にかわいそうだった。何しろ影が薄いもので名前すら忘れてしまった。石勇だったようなきがするのだが。黄信もなかなか最悪なやつであった。最初から最後までなんか愚痴ばっかり言ってる北方水滸伝の中じゃ例外的に男らしくないやつだった。死に方も敵に囲まれてめった刺しというなんら新しいものでもなし。ひょっとして北方謙三黄信に何か個人的な恨みでもあるんじゃないんすか?といいたくなるような微妙な最期だった。しかし途中見せ場があった事を考えればまぁ恵まれたキャラともいえる。 「いつか、私の存在は生きる。梁山泊にとって、生きる。私は、そう自分に言い聞かせて、いまじっとしている」 「虫のいい話じゃねえか、唐昇。叛乱ってのはよう、はじめたらもうやめられるわけはねえんだ。おまえは、梁山泊の背中に隠れて、食わして貰ってるだけさ」 「いずれ、生きる。必ず、生きる」きっと楊令伝で反撃の狼煙があがるのは北なんだろうなぁ。それを思うと未来を信じて今じっと耐えている唐昇が異常にかっこよく見える。童貫との戦い、全体としてはずっと押されまくっていたが、ことvs童貫戦だけを見れば結構いいところまでいっている。ほとんど楊令のおかげで。思えば宋側も童貫を失ったら負けの可能性がかなり大きくなってくるわけでその意味じゃお互いに賭けをしているようなものだったな。童貫が死んだらその代りを務める人間がいない。だから本当にきわどいところだったといえる。もし仮に楊令伝とかいう構想がなかったら梁山泊勝ちになっていても全くおかしくなかった。キューバ革命をモチーフにしているというのならば当然最後は勝つのだろうという気はしている。花栄の弓が強すぎて、微妙に現実感が湧いてこない。あるいは梁山泊メンバーの中で一番非現実的な能力を持っていたかもしれない。というか次から次へと指揮官を弓で撃ち落とすってそりゃあんた反則だろーが。 「済まんな」 花栄は言った。 「なにがだ、花栄?」 「きれいに殺して、やれなかった」 自分の口もとが、微笑むのがわかった。趙安運が良すぎるっていうか何故死なないのだろうか。いや、まだ彼にはやる事があるというんだろう。ただ何故二回ともわざわざ重傷を負わせる必要があるのか。運がいいというレベルではないのである。いつも皮一枚生存する。花栄は最後までかっこよかったなぁ。きれいに殺して、やれなかったってそりゃあんた最期の最後まで獣みたいにかじりついていってたからな。読んでいる間に鳥肌が立ったわ。ほとんど誰も見ていないのが残念だが誰かが見ていたら朱全におとらない死にざまとして評判になっただろうに。全く大砲の話が出てこなかったのでひょっとして大砲ってそのまま忘れられていくのか・・・!?と心配だったがちゃんと書かれていて安心した。まぁ思ったより大した威力じゃなかったんで拍子ぬけといえばぬけたのだが。 「三発だ。三発で、ほぼ燃える。四発撃ち込めば、どうあがいても消すことはできんぞ。見えるか、魏定国。俺とおまえの、瓢箪弾だ。ついに、完成したぞ」 凌振は、半分泣きながら、手を打って踊っていた。こいつはこいつで真っ直ぐな男だった。あまりにも真っ直ぐすぎて読んでいてバカだなぁとしか思えなかったがこうやってただひたすら大砲をうてる事を喜んでいるとむしょうに泣けてくる。しかも、俺は大砲に触るだけで大丈夫かどうかわかるんだ!みたいに得意げにいってたのに、結局最後は大丈夫じゃないところまで大砲を打ち続けて大砲と一緒に爆発しちまうんだから全く笑ってしまう。まぁ大丈夫じゃないと知りながら梁山泊のために打ち続けた可能性もなきにしもあらずだ。その可能性を信じてやろう。李逵も死んでしまった。まさか死ぬとは思えなかった。読んだあとも、え?死んだの?マジ?という感じで信じられなくて二回ぐらい読みなおした。どう考えても死んでいる。しかも水の中で。いや、死ぬならば水の中だろうという考えは確かにあったが、ここでか?ここで死ぬのか?あまりにもあっさりと死んだ。本当にあっさりと死んだ。 敵はどこなのか。板斧を構えたまま、李逵は相手を捜した。なにか、おかしい。すべてがぼやけて見える。それに、息ができない。李逵は、板斧を振るった。手応えはない。 どうしたのだろう。いつもなら、跳びあがれる。しかし、いくら蹴っても、そこに地面がない。 あっ、大兄貴。李逵はすぐそばに、魯達の姿を見て、そう言った。 父上も、小兄貴も、しっかり生きてますぜ。それに俺も。魯達が、さらに近づいてくる。なにも言ってくれない。そういえば、魯達は死んで、喋る事は出来ないのだ、と李逵は思った。大兄貴を殺した奴は、俺の板斧で首を飛ばせないしな。なにしろ病ってやつだからな。 次に李逵は、旅に出る事を考えた。宋江も武松も、そして魯達も一緒だ。 大兄貴。呼びかけようとしたが、魯達はいなくなっていた。李逵、没。まぁ李逵も花栄に勝るぐらいの反則キャラクターだったからな。林冲や王進の強さとは、また別次元の強さとして書かれていたけれどいったいそれがどんな強さなのか全くわからなかった。説明出来ない強さというやつだ。恐ろしいほどの活躍をした。そういうキャラクターはやはり死ななければならないのだろうか。許貫忠も重要なキャラになりそうだとは思っていたが、楊令伝での重要なキャラクターになるようだ。ここでは呉用と少し話しただけである。 「生きている人がいる。それは数多い。しかし、死んだ人間の多さは、無限に近いと思います。無限の死の上に、数多い人の生はあるのではありませんか?」 「なにを言いたい?」 「死は、無意味であると。だから、私は自分で死ぬことが出来ないのです」王英と扈三娘のくだりは本当に意味がわからんな。こんなちょっとだけエピソードを入れるぐらいならむしろ無かった方がいいぐらいだ。安道全も死んだ。こいつなら病気がある限り逃げて、生き延びて病気の人間を助けるかと思ったが、よく考えたら目の前にある病気を放置して逃げるような男じゃなかった。安道全。 人生の終りの十数年を、この男とともに生きることができた。それだけで充分すぎる、と薛永は思った。このコンビも、もう見る事が出来ない。たかだか小説のキャラクターが死んだだけ、と斬って捨てるような事が出来ない。思いのほか、のめり込んでいる。宋江の元に走る楊令を待っている宋江が、二巻の時の宋江とかぶる。 「なぜか、信じていた。おまえがここへ来るに違いない、と信じて、ここで待った」二巻の終りでもそういって、林冲を待っていたんだった、結局宋江は最初から最後まで何一つ変わっていない。ずっと宋江のままだった。十巻ぐらいからほとんど何の出番もなく、結局最後までほとんど空気だったし、それどころか最終巻じゃ戦に出たがってやたらと邪魔だったが。というかどう考えても死にたがってる感じだったしなぁ。そりゃ自分は何もできずに長年の友がどんどん死んでいけば死にたくなるのも当然だという気はする。それでも最期のこの引き継ぎという役目を終えるまで待っていたんだろうと思うと感慨深い。二回目だが、何しろこのセリフ、林冲の時とほとんど同じなのだ。二巻のあのシーンを思い出して、ついでにいろいろな事も思い出して泣いた。 「旗だ。はじめて梁山泊に掲げたのが、この小さな旗だった」 楊令は頷いた。差し出されたので、それを受け取った。 「この旗が、おまえの心に光を当てる」 受け継がれていく替天行道の志。反乱がおきるから国が荒れるのではなく、国が荒れているから反乱がおきるのだ。宋という国が変わらない限り、梁山泊の志が消える事はない、とそういう事を言っていたような気がする。 「この楊令は、鬼になる。魔神になる。そうして、童貫の首を奪る。この国を、踏み潰し、滅ぼす。いつの日か、おまえの眼の前にこの楊令が立っていると、童貫に伝えろ」完全に復讐の鬼になったなあ、楊令。それでいいのだろうか。元々腐っている宋という国をなんとかしようという志ありきで始まったのに、楊令によってただの復讐劇になってしまうのではないだろうか?それを正してくれる人間が残った梁山泊のメンバーの中にいるのだろうか。王進がいる限り大丈夫なようなきもするが。誤った道を進む楊令をまたぼっこぼこにするとか。でも王進も結構歳いってるきがするんだがなぁ。というか、もうどんどん梁山泊の人間も老いぼれていく。せっせと作中で子どもを産ませていたが、いったい何人ぐらいいるのやら。楊令伝を読んでみないとわからんなぁ。
2008.08.17
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感想 ネタバレ有もう十八巻も読み終わってしまった。残りあと一巻・・・。といっても楊令伝があるのであれだけれど。もうだいぶ長いこと読んでいて、あれだな。読んでいる間、ずっと水滸伝の世界が頭にあるような感じで、武将が飛びまわっておった。途中から読むのがもったいなくなったりしながらここまで読み進めてきた事を思うともう後戻りはできないなぁというところ。解説の夢枕獏はどう考えても水滸伝読んでねえ!結局最初から最後まで全部自分の話じゃねぇか!水滸伝に一言も触れてないぜ。読んでない事がわかるっていうのは水滸伝、確か巻数がかなりありましたよねぇ、という本人のセリフからわかる。一度でも読んでいれば全十九巻という事は絶対に忘れないだろう。その後解説を書くためにひょっとしたら読んでいるのかもしれないが、物凄い忙しさをアピールしていたので恐らく読んでいないだろう。というか読んでたらこんな必死にネタを絞り出すような事を書かねえ!夢枕獏の話になってしまうが、ユーモアのセンスとシリアスのセンスは表裏一体なんだろうな、という気がする。ギャグを描いている人間が、シリアスをかけないというのは全くの間違いで、シリアスよりずっとギャグの方が難しい。というよりも、どうもシリアスとユーモアっていうのはプラスとマイナスが違うだけで根本的に働いている力というか、方向は同じなのだろうと思う。だから全く逆のように見えても、基本的に同じなのだ。夢枕獏の解説を読んでいて、どこか夢枕獏の他の作品と通じるセンスを感じる。まぁ全十九巻、十九個の解説があるのだ。一つぐらいそういうのがあっても、もちろん面白い。というか結構解説、内容がかぶっているのが多い。締切の都合などがあって、事前に他の人の解説が読めないなどという理由があるのかもしれないが。正直読者からしたらあまり意味のない解説が多かったように思う。その中でも、水滸伝とは全く関係がないけれども笑わせてくれた夢枕獏の解説が一番良かった、と言ったらあれだろうか。ていうか単純に自分が夢枕獏ファンなだけの話なのだが。あと面白い解説といえばロックンローラーの古川だか吉川さんだろう。薬でもキメてんのか?と疑ってしまうような解説だった。ロックンローラーは薬をキメないといけないという暗黙のルールでもあるのだろうか。この巻で、楊令が梁山泊に入る。一人一人の将に会いに行き、話をする楊令の行動が、まるでゲームやアニメのラストバトルに行く前に入る過去の仲間たちとの回想シーンのようでなんとも切ない。これによって楊令に梁山泊の全てが引き継がれていくのだろう。楊令の存在がもはや梁山泊といっていいぐらいだ。多少納得いかないのが、楊令の用兵がうますぎることである。全く戦場に出た事が無いのに、それだけ強いのはいったいどういうことなのだろうか。戦を立ち合いに見立てて、楊令は立ち合いが強いから用兵もうまいのだ、というような説明がつけられているが、まだ楊令は立ち合いでも、確かに強いのだろうが林冲にもまだ勝てないぐらいなのだ。そこまで用兵をうまくつかえていいものだろうか。さらに林冲の騎馬隊を受け継いで、林冲を同レベルにはうまくやるっていうのは更に納得がいかない。林冲をなめてんのか?あぁん!?と怒りが込み上げてくる思いだ。林冲より弱くてさらに経験が少ない楊令が林冲と同じレベルで騎馬隊を扱えるだと・・・!?まぁ実際に出来るんだろうから仕方ないが、何故出来るのか、という事に少し納得がいかない気がする。あぁ、それにしても終わりが近づくというのはなんてひどいんだろうか。どんどんキャラクターが死んでいく。前巻、十二人死んだのに比べればまだ少ないが、この巻でも八人の死者が出た。それも梁山泊の主力メンバーからだ。それにしても未だに公孫勝が前の巻で死ななかったのが納得いかない感じである。どう考えても公孫勝が死ぬ場所はあそこしかなかったのではないか、と読んでいてずっと思っている。何故林冲が死んで公孫勝が生き残っているのか。なんとなく、この二人は死ぬのならほぼ同時期か、もしくは同じ戦場で死ぬのだろうと思っていた。何か覆された気持である。信じられないのは、林冲の死だ。まさか、まさかである。戦場で倒れるところが、まったく想像できなかった。というのもずば抜けた勘というものを何回も描写されており、兵を退くタイミングを間違える事が無かった。ただ、死に方はこれ以外になかった、という気はしている。というか随分前から林冲がこういう死に方をする事は、作者の中では決まっていたことだったのだろう。水滸伝九巻で林冲が 女一人救えなくて、なんの志か。なんの夢か。と言っているが、まさに雇三娘を助けるための台詞だったのかもしれない。というか、しきりに雇三娘に厳しく当たって、女だから容赦をしないと言い続けていたのはあるいはこういった状況になった時に、自分は雇三娘を見捨てて逃げていくことなど絶対に出来ないという思いがあったからこそ、厳しかったのかもしれない。どんなに男として扱ってくれと言われても女だという事は変わらないのだから。そう考えれば林冲の騎馬隊に雇三娘が配属されてきた時点でこの終わりは決定されていたようなものだ。林冲が死に向かうシーンで涙を流すな、という方が無茶であろう。 「言うことを聞け、扈三娘」 「百里風なら、まだ逃げられます」 「頼むから、乗って逃げてくれ。生涯に一度ぐらい、女を助けた男になりたい」 「林冲殿」 「俺は、女の命を救いたいのだ。女の命も救えない男に、俺をしないでくれ」 扈三娘が、馬に飛び乗るのを、林冲は眼の端で捉えた。駆け去っていく。 気づくと、郁保四がそばにいた。 「行け」 「林冲騎馬隊の旗持ちは、いつも隊長のそばにいます。時には、ついていけないこともありますが」 「この馬鹿が」 扈三娘は、もうかなり駆けただろう。 目前にいる騎馬隊は、数千だった。横にも、背後にも回っている。一騎も、扈三娘を追いはしなかった。 「俺でも、女を助けられる」 呟くように、林冲は口に出した。助けられる。救える。過去に女房を助けられなかったトラウマがここで解消されたなー。あるいはここから生き延びられれば、林冲の弱さを克服した最強の男になったかもしれないのだが。女を救ったという事よりも、命と引き換えに女を救った、という事が大事なのかもしれない。それにしても郁保四のかっこよさは異常じゃ。特に語る事はないけれど、かっこよすぎる。 脚に力を入れると、百里風が前へ出た。 よく、闘ったよな。百里風に語りかけた。俺たちが行くところに、敵などいなかった。しかし、もう疲れた。なにもない。白い世界も悪くないかもしれんぞ。 林冲は、自分が笑っているのを感じた。林冲、没。しかしこの世界に林冲がもういないというのは何とも不思議な感覚である。魯達がいなくなったのとはまた別の不思議な感覚である。魯達はじょじょにフェードアウトしていった感があるが、林冲は一巻から死亡するシーンまで常に第一線で、梁山泊軍で誰よりも強い男として書かれ続けてきた。誰にも負ける事無く最強の座を維持し続けて、そのまま死んだ。だからだろうか。あぁーしかし死んでしまうとはな・・・。秦明も死んでいった。それにしても秦明の最後は微妙だったと言わざるを得ない。ここまで梁山泊を支えてきた将の一人であるというのに。まだまだこれからだろーというところで死んでしまった。それも全身に矢を受けるという実に微妙な方法で。もう少し何とかならなかったのか秦明・・・。それから自分のずっと懸念だった馬桂暗殺の事実が李富に伝わる展開があったが、もしかりにバレたとしてもここまで憎悪の炎を燃やしてきた李富が迷うなんていう事はないだろうな。それはもうずっと前からわかっていたことだが。ここにきてその話を回収してくるのか、という感じである。扈三娘とブンカンショウがどうなるのかもまだ全く書かれていないし、それは楊令伝に持ち越しなのだろうか。
2008.08.16
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感想 ネタバレ有ついに童貫がその実力を表す!童貫の実力が圧倒的すぎてもうなんかこいつが主人公でいいのではないかという感想を持つ。というか、時として大きすぎる力はあきらめを産むのだと知った。好きな武将が殺されてもまぁ童貫だし仕方ないか、といってあきらめる事が出来るようになった。というか童貫が圧倒的鮮やかさで梁山泊を打倒するのを読んでみたい気もするのである。まぁ一番読みたいのは梁山泊と宋が共に外敵と闘う展開なのであるがそれはありえないな。この巻の終りで、108星のうち46人が死んでいる。戦死者名簿を見るだけで一つ一つの描写が頭の中に浮かんできて泣かずにはいられん。しかしこの十七巻が、今までで一番死んだ人数が多かったのかも知れんな。全部で十二人も死んでいる・・・。もうなんか、こんなに一気に死んでしまうといちいち怒る気にもならん。ただ、あぁ・・・という気持ちが残るだけである。孫立(病尉遅)びょううつち。董平(双槍将)そうそうしょう。侯健(通臂猿)つうびえん。 盧俊義(玉麒麟)ぎょっきりん。関勝(大刀) だいとう。 単廷珪(聖水将)せいすいしょう。鄒淵(出林竜)しゅつりんりゅう。 ?旺(花項虎)かこうこ。劉唐(赤髪鬼)せきはつき。 楊林(錦豹子)きんびょうし。孔亮(独火星)どっかせい。 魯達(花和尚・魯智深)かおしょう。ろちしん。たくさん死んだなぁ。それだけ童貫が強かったという事か。それにしても納得いかないのはこんなに最期まで童貫が出てこなかった事だ。ウルトラマンのスペシウム光線みたいなもので、最初からそれ出せよ、という気分である。もちろん弱らせてからじゃないと使えないとかいう理由があるのかどうかしらないが、何かしらの理由はウルトラマンにもあるだろう。童貫にだってその理由はある。相手を強者と認めないと自ら出動しないとかいう設定が。ただそれだけじゃ納得いかないわけで。何故一個人の武将によってそんなアホな事が決められてしまうのか。この点に関しては設定が苦しいのではないかと読みながらずっと思っていた。敵が強い方が燃えるから、とかいうわけわからん理由で戦場に出てこないとしたらそれまでに散っていった宋の何万という兵の命はどうなってしまうのかと。高?が実は裏ボスじゃないかと思っていたが、侯健とのやりとりを見る限りほんとに小物っぽいな。それにしても女のために残ったせいで、女は首を斬られ自分は股裂きで殺されるとは。この股裂き、あっさりと描写されているが中国の中で一、二を争う残酷な処刑法として有名じゃなかったか。死ぬほど苦しいらしいという話をよく読んだ事があるのだが、ここでの侯健は恐ろしいほどに達観している。小物っぽく思えた侯健も最後には立派な梁山泊の一員として洗脳されていたな。こうもみんながみんな死に対して達観しすぎているともうこれは洗脳じゃないかと疑いたくなってくる。盧俊義の死に様も見事だった。 「われらはみな、梁山泊の民。いまは、力を合わせて宋と闘っている。やがて、勝つ。私は信じているが、それを見る事はできん。私の寿命が、月用としているからだ。多くの者が死んだ。それ以上に多くのものが入山してきた。激しい闘いは、これからも続く。ともに闘えないのは無念であるが、わが魂魄はこの梁山泊にある」中略 「さらば、梁山泊のわが同志たち」演説終わった瞬間に死ぬとか並の人間じゃないな。さすがにたくさん梁山泊に貢献してきただけあって死に様も異常に待遇が良かった。一将校とは違うぜ!軽く驚いたのが?旺の死にざま。 「俺の命だ。受け取れ」 ?旺は叫んだ。血が、口から噴き出し、?瑾の寝台に降りかかった。 「?旺殿。命を、確かに貰いました」 ?瑾が、はっきりした声で言った。?旺は頷いた。 いま、自分は笑っているかもしれない、と思った。輸血ですらねぇぇぇぇ。だが魂魄で生きる梁山泊の人間なら可能なのかもしれない。血をぶっかけることによって命を分け与えるというおよそ人間業じゃない荒事が・・・!。ふはは!ジョースター家の血はなじむ、実に!なじむぞフハハハハハ!ということですね。?瑾は吸血鬼だったのか。なるほど・・・。他にあった出来事といえば案外あっさりと呂牛が捕らえられた。しかも拷問されて何でも喋るうううと叫んでるし、何か今までのかっこつけていた呂牛像があるだけに失望である。まぁ自尊心が強かったと作中でも書かれているし、かっこつけは完全に見栄をはっていたんだろうな。実は水滸伝の中で一番痛々しいキャラはこいつかもしれぬ。孔亮の死にざまも異常にかっこよかった。 致死軍。悪くはなかった。思う存分、暴れたのだ。孔亮の名は残らなくても、致死軍を誰も忘れはしない。ただの青州の暴れ者が、宋という国をふるえあがらせた。これぐらいで、もういいだろう。 抱き起こされた。 「済まん、独火星」 燕青の声が聞えた。頷いたつもりだが、首が動いたかどうかはわからなかった。魯達の死に方が今までのどんな人間の死に方よりもやべえええ。腹を自分からかっさばいて腸と取り出して楊令に見せつけながら死ぬとか・・。いや、そりゃあんたはいいかもしれないけどそんな死にざまと腸を見せつけられた楊令はきっとトラウマになると思うんだが・・・。ただこれで最強戦士楊令が誕生したな。楊志に育てられ、林冲にぼこぼこにされ、秦明を親代わりに育ち、王進に色々教えられて、さらに魯達に梁山泊が何なのかを教えられて育ったんだからな。これで最強にならなかったらウソだよ。いや、それにしても凄まじい最期だった。魯達。思い返せば物語の始まりも魯達で始まったのだった・・。その頃は魯智深だったが。それが志半ばにして死ななければならなかったことを考えると非常に無念である。宋江の魯達に対する思いも泣かせてくれる。 友が、いなくなった。 土に還ったなどと、言いたくなかった。魯達は、いなくなったのだ。宋江の人生から、永久にいなくなった。 人が死ぬというのは、そういうことだろう。 それにしても最近の宋江の空気っぷりは凄いな。もうほんとに居る必要が無いレベルにまで昇華されてしまった宋江。最近じゃ出てくる事も少なければ、出てきてもほんの一瞬あたりさわりのない事を喋ってすぐに消えてしまう。死んでいった人間一人一人について書いていきたいところなのだがどんどん死んでいくのでそんな事をしている力が足りない。というかめんどくさい。公孫勝が高廉の軍を襲ったシーンは、もうこれは確実に公孫勝死ぬな、と思ったものだった。何しろ公孫勝はすでに袁明を暗殺するという大役を終えていて、死ぬにはちょうどいいところだと思ったんだが、しかし生き延びて、高廉の部隊を壊滅させた。本来ならここで公孫勝の出番は終わりのはずだ。相手が梁山泊にあたえた暗殺という方法を相手にもくらわせ、さらにライバルだった高廉の部隊を壊滅させた。本来ならここで表舞台を去るはずだ。なのに生き残った。劉唐が死んで。ならばこの先、あと二巻しかないがまだ出番があるのだろうか。楽しみである。
2008.08.15
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感想 ネタバレ有ついに十六巻まで来てしまった・・・。もうどうしようもない。あと少しでこの物語が終わってしまうと考えると非常に憂鬱である。死を意識する事によってはじめて生の実感を得るという言葉があるが、物語にもそれは適用されるものかもしれない。この長い話が終わりに近づいて、終わりを意識するにつれて必然的に今までの事を振り返る事になる。終わりを意識するにつれて今までの内容を思い返す事になった。そうすると沸き起こる感想はただひとつ、異常に面白い、というだけだ。本当にどうしようもなく面白い。王道の中の王道という感じがする。ここでぐだぐだと一巻ずつ感想を書いていて、途中で全部読んでからまとめてやればよかったのではないか?という事も考えたが、今一度一巻から感想を読みなおしていたらやはり書いていて良かった、と思った。一つひとつのシーンが頭によみがえる。楊志の死、晁蓋の死、楊令の成長。あげればキリがないほどの名場面で溢れている。必死に目の前の巻だけを読んでくればよかった今までと違って、あと残り三巻にまでなるとどこでどうやってこの話が終わるのかを考えるようになってくる。どんなにでかい戦いがあったとしてもあと二つが限度だろう。はたしてそれがどのように起こって、どういう結末を迎えるのか。そういう事を考えるようになってきた。それにしてもこの巻は思いがけない攻撃を喰らった感じだ。まさか軍対軍が日常化している中でこんな一対一の名勝負が読めるとは思わなんだ。描写の技術なんて何一つわからないのだが、どう思ったかは書ける。今まで読んだどんな戦闘描写よりも想像しやすく、緊迫感が伝わってきて、そして面白い。もちろん洪清と燕青の戦いだ。公孫勝と袁明の戦いでもあるが。あれほどの実力を示されていた樊瑞を一瞬で倒したのも、このときのための前振りだったのだろうか。思うにあれまで洪清の実力はどうも凄いらしいと書かれているだけで、対して描写されていなかった。あの前振りがあったからこそ、この洪清と燕青の名勝負の緊迫感が実現されたのであろう。そう考えると樊瑞の死にも、もちろん意味はあったことになる。まぁ壮大なカマセ犬という事になるが、ストーリーには重要なかませ犬がいつの世も必要なのだという事か。一対一の戦いの間、こちらまで息が詰まる思いだった。緊迫感が伝わってくる。闘いの終結に泣いた。こういう泣かせ方もあるのか、と感動したぐらいだ。 構えて、むき合う。燕青は眼を凝らしていた。洪清の構えは、静かだった。ふっと、そこに引き込まれていきそうなほど、静かだった。 燕青は近づき、洪清の躰をそっと地に横たえた。洪清はかすかに笑っているような表情をしていた。 「失礼なことを申しました。老いておられるなど、とんでもないことでした」 洪清は、相変わらず微笑んでいた。開いたままの眼を、燕青は指先で閉じた。それにしても袁明を追い詰めた時に悠長に会話をしている公孫勝が笑えるんだが。今まで徹底的に冷酷非道な致死軍だったのにこんなときだけ会話をする余裕を与えるとは。北方世界じゃなかったらあばよとっつぁーん!とかなんとかいって逃げるか、会話をする余裕を与えたのが命とりだったな!とかいいながら懐から出した剣か何かで公孫勝が殺されているところだ。ただ北方水滸伝ではそういった事は起こらないのだろう。追い詰められた時に最初に発した袁明の言葉が、「長い、闘いであったな、公孫勝」というのはかっけぇなぁ。 「冷たい喋り方をするのう。癒せぬ傷でも負っているのか、公孫勝?」 「生来のものです」 「いい国を目指せ、公孫勝。梁山泊が、そうやって闘えば、宋もまたいい国になる」 「袁明殿、おさらば」 剣は、たやすく袁明の胸を貫いた。しかし中国の古い歴史といえば暴君を抱えて国がどうやって生き残るか、という話が圧倒的に多い気がする。あるいは名宰相が国を立て直していく話か。宮城谷昌光の作品はほとんど読んだがそこからの影響を受けているだけかな。この宋という国も君主は割と最悪な感じだがそこが語られる事はほとんどないな。
2008.08.14
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感想 ネタバレ有もう十五巻なのにまだ童貫出動しないんだけど・・・!?あれか?童貫さんあれなのか?おまえは秘密兵器の上に最終兵器だから!絶対に最期まで出てくるなよ!と言っておきながら結局出番はないというオチなのか!?ラッキーマンのスーパースターマンオチですね、わかります。十五巻で何がヤバいって小李広の花栄がヤバい。なんかもう反則とか販促とかそんな段階を通り越してる。やばい。それからなんか知らないけどバタバタキャラクターが死んでく。ヤバい。マジヤバい。何がヤバいってお気に入りのキャラが次々と死んでいって怒りが込み上げてくる物のどこにこの怒りをぶつけていいのかわからない。作中でお気に入りの人間を殺した奴かもしくは北方謙三にぶつければいいのか。ばたばたと死んでく。あまりにもあっさりと死んでいくからひょっとしてここでこの物語は終わってしまうのではないかという錯覚にとらわれたぐらい死んでいく。宋清 楽和 穆弘 欧鵬 李応 朱武みんな死んだぞ!何故だ!何故なんだ! 穆弘も李応も朱武も物凄い描写を与えられていたのに最期あんなにあっさりと死んでいったのは何故だ!朱武なんて2行ぐらいしか描写が無かったぞどういう事だ北方ぁぁぁぁぁ李応も、「死ねば土。そう思い定めている。どこからでもいいぞ、来い」なんていう滅茶苦茶かっこいいセリフを吐いてた時が懐かしいぜ。確かに役には立ったが、死にざまとしては地味すぎる。穆弘も、関勝、呼延灼と比べれば地味だったとはいえ物凄い活躍をして梁山泊に貢献し続けたのに、結局超安程度に殺されてるんじゃ世話ねーぜ・・・。しかも相打ちならまだしも、相手は紙一重で生き延びているとは。確かに戦に定評のある穆弘、自分で眼をえぐりだしたヤバい男穆弘というような特徴があるぐらいで、李俊みたいに船の知識があるとかそういった特別な特技が無いのが弱かったか・・・。だから死んでしまったのか・・・。ところで特別な特技って意味かぶってね?ひょっとして地味なヤツから殺されていくのか?いやでも楽和なんて、梁山泊にただ一人しかいない音楽という癒しを提供してくれる存在だったのにあっさりと死んだぞ?宋清だってとてつもなく地味だったのに兵站とかいうある意味戦で一番重要な任務をこなしていたのに・・・。兵站を重用視する佐藤大輔が読んだら怒るぞ。いやむしろ怒ったのは自分だよ! 兵站を手に入れるのは大変だ大変だって大変だって書くだけで全く描写してねーじゃねーか!何がどう大変なのかわからんよ!欧鵬も欧鵬だよ!最後のセリフが 「すげえものを見た。人間業じゃねえ。ほんとに、すげえものを見た」ってどういうことだよ! ただのびっくりする役かよ! 花栄は声をあげた。ふと足もとを見ると、欧鵬が倒れていた。すでに、息はしていなかった。そして何事もなかったように死んでるううううう。しかも気付かれてねえええええなんてこったあぁぁぁぁぁ。まぁこいつらはいいよ。それなりに喋って死んでいったんだから。悲惨なのは朱武さね。ほんとに地の文で二行だけだよ、朱武が死んだ描写は。いったいどうなってんだよ。今まで梁山泊に貢献してきた朱武なのに死ぬ時は二行かよ。しかも敵に一太刀あびせたとかならまだしも、まったく相手にならずに一瞬で殺されるってどういう事だよ。もうちょっと頑張ってほしかったよ。いかん、お気に入りのキャラを大量虐殺されて気がくるっとる。この巻あたりから、というか前の巻からだったかもしれないが、ちゃくちゃくと次の世代への継承が行なわれている気がする。張平が子午山に預けられたのがその筆頭だし、超林の加入もそうだし、色々な子供が梁山泊に誕生しているのもそうだ。すべては楊令伝への布石だろうか。この張平が今後どんな活躍をするのか全く読めないが、楊令伝にて楊令の片腕のような存在になるのだろうか。期待が高まる。十四巻が大人しかっただけに十五巻は本当に激しかったなぁ。梁山泊がいったいどんな秘策を用意しているのかとわくわくしながら読んでいたが、まさか北京大名府を落とす作戦だったとは・・・。本当にギリギリセーフという感じ。
2008.08.13
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感想 ネタバレ有大決戦の前の準備という雰囲気が強い十四巻。十三巻で、どの巻にも一か所は鳥肌が立つ場面がある!と書いたばかりだが特に鳥肌が立つような場面はなかった。というか良く考えたらこれまでも鳥肌が立たない巻はあったように思う。その場のノリだけで書いてしまうのは良くない事だな毎巻、一番活躍する人間の絵が一番最初に書かれているのだが、今回書かれていたのは張清だった。 あれ?こいつ死んでね・・・?と思ったら死んでいたのは張青だった。似たような名前のやつが多すぎるな。ていうかこれ英語表記になるとどうなるんだろう。この張清、活躍どころかほとんど出てこなかった。というかこいつ初登場だっけ?張を名に持つキャラクターが増えすぎて意味がわからなくなってきた。どうもこの巻は本当に大したことがないようで特に活躍するような人間もいないから張清を書いたということなのだろうか。でも樊瑞や燕順がかわいそうだろう、それは。樊瑞なんて、ものすごい暗殺という役割を与えられていながら相手にたった4名の損害しか与えられずに死んでいくとは。しかしその死の描写は本当にあっさりとしていたな。死んだ事に次の巻の戦死者名簿を見るまで気がつかなかったぐらいだ。 また夜が来た。はらわたは、毀れ続けている。はらり、となにかが落ちた。はらわたからの音が、大きくはっきりと聞えた。 ここだろう、と樊瑞は思った。まさかここで死んでいたとは。いや、確かに言われてみればわかるのだがそれにしても・・・。そのあとの描写が全くないわけだし。ひょっとしたら暗殺に成功するかもしれないと思わせるぐらい樊瑞の凄さが書かれていたからそれだけにこの結果は可哀そうともいえる。ただ暗殺を生業とした男がこうやって静かに死んでいくというのもまた面白いかなという気はする。 「わからんな。数え切れないほど、死んでいく人間を見てきた。死ぬとはどういうことなのかと、考え続けてもきた。医者なりに、結論を出しているような気はする。しかし、どこか違うとも思ってしまうのだな」 「なくなるよ、安道全。おまえも俺も、俺のまわりの全部も。そして、それが心地よいような気もしている」北方謙三が書こうとしているのはこの伝えようのない感覚なのだな、という事は何度となく書かれているから、わかる。言葉で伝えられないものを必死に伝えようとしているのだろう。それが「死」だったり「志」だったりするわけか。それを一つの死によって伝えようとするんじゃなくて、怒涛の死亡ラッシュで伝えようとしてくるのが面白いといえば面白いし、またそれが微妙な点でもあるのかもしれない。あまりにも命が安すぎる。命は確かに万人が等価だが、それは百万円持っている、という意味での等価でしかなくて、本当の価値は百万円持っている事よりも、それをどう使うかでしかない。百万円ギャンブルに使って全部無くす人間もいれば、元手に株をして増やす人間もいる。逆もまたしかり。そういった命の使い方、みたいな事をこの108人を使って試しているのだろうか。張横と張平の描写も大量にあったし、張横と張清の間に何か関係性があったっけ・・・?張青の死にざまはもっと評価されてもいいと思うのだが。史文恭を止めようとしたけど失敗したけれども、一太刀喰らわせたわけだし。いろいろなところで語られながらも、決して描写されない高?が地味に怖いな。RPGだったら真のボスといって現れてきそうなところだが。フハハ!実は私こそが蔡京を裏で操っていたのだ!お前らは宋を倒すのには童貫を倒さないとならないと思っているかもしれないがそんなことはないぞー!梁山泊よかかってこい!梁山泊の勇気が宋を救うと信じて! 北方謙三先生の次回作にご期待ください。聞煥章を読んでいて思ったのだが、一番最初に出てきた時は完璧超人といってもいいぐらいの凄さを見せつけたのに、その後はあまり凄さを見せつけていないような気がする。足も失ってしまったし・・・。もうちょっと大物っぷりをみせつけてくれてもいいものではないかと。うまくかけないのだが、特定の事をやらせたいがために出てきたキャラクターという感じを受ける。そのせいかその特定の事以外でのこいつがやけにいらない人間とかしているような・・・。まぁそれはおいといて。地味に染み入るシーン。 「もう泣くな、平。おまえがなにをやろうと、私はおまえの父だ」確かにいい父かもしれないが、しかしあまりにも言葉数が少なすぎる。言葉で言わないと何も伝わらないだろうが。とは思うが犬なんかも言葉はわからなくても、家族の接し方で誰が家族の中で一番偉いか見極めてリーダーと認める、というし言葉よりも行動で示せばいいという考え方もあるのかもしれない。ただ、旅に出て行く時に私は行くぞ、とだけ言い残していくのはどうなんだろうか。どこで、何を、目的を、期間は、せめてそれだけ言い残していけばいいんじゃないだろうか。ただ、やはりこういう無条件の信頼というのは親として必要なものであるのかもしれないと思う。しかし最近のニュースなんかを見ていると、モンスターペアレントみたいな息子は何も悪くない!と癇癪気味に叫ぶだけの親もいるが、あれはあれで息子に絶対の信頼をおいている、という意味では間違っていないのかもしれない。親が子を愛するのは、顔が整っているからとか性格がいいからじゃなくて自分の子供だから愛する、っていうのは世界を肯定する哲学でもいっていたことだがまさにその通りなのだろう。信じるってのは確かに素晴らしい事かも知れんが、モンスターペアレントとの境目がわかりづらいなぁ。ゴールデンスランバーに出てきたオヤジだって一歩間違えればただのバカだぜ。 「上だけ裸なら、まだわかる。なにも着ていなかったとはな。自分の姿を想像してみろ、史進。棒と一緒に、玉まで振り回しくさって。わしは話を聞いた時、これがわれらの隊長かと、恥ずかしさで身が縮んだぞ」思えば水滸伝で初めて笑ったかも知れぬ。ただこれから始まる今までで一番でかくて長い戦いの事を思えば、これから先ずっと息が詰まる展開になるだろうから、ここらでちょっと息を抜かそうという意図があったとしてもうなずける話だ。もしそういう意図のもとでこういう話を挿入したのなら見事に策にはまっていることになる。地味に大砲バカがいい味だしてた。というか、火薬と大砲を合わせる、という概念が組み合わさったところはなにか人類が初めて火を起こした時のような感動があるな。発明というにふさわしい。これが完成した時の場面を思い浮かべると顔がにやけてくるような気がする。 「俺は、錦毛虎燕順だ。臆病者の手並みは、よく見せて貰った」このかっこいい名乗り上げの三行後に体中矢だらけにされて死んでるんだから笑ったぜ。そんなことするから矢だらけになって死ぬんだよ。
2008.08.12
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感想 ネタバレ有十三巻てなんか不吉やん。十二巻にて、ようやく関勝が加入して、戦う準備が整ったな、と考えていたがまさにその通りで、本格的にこの巻から宋との戦いが始まったな。今までは完全に人数を揃えるためだけに準備して、後手後手に回っていた感じだったがこれからはついに、宋を攻めるために軍を展開していくのだろう。そのせいか、恐らく宋攻略に最も大事であろう水軍の描写が多かったように思う。ずっと水軍だ。ただ考えてみるに、水軍対水軍ってのは案外地味だよなぁ。日露戦争の時の海軍の戦いは本当に派手で現実の話か?と疑うような面白さなのに。東郷平八郎に秋山真之の二人はカッコよすぎる。海軍同士が大砲をどかんどかん撃つだけが戦争じゃないな。さらによく考えてみたら、どうも派手さが足りないというのは単純に数が足りないからだろう。梁山泊側にはまだ千船もないみたいだし、それで派手さを要求されても梁山泊だって困るだろう。なんだかどんどん負け色が強くなってきたように思う。というか、冷静に考えて勝てる要素がなかなか見つからない。確かに一癖も二癖もある武将が集っているが、現実的に考えて兵力が圧倒的に足りない上に、宋側に強力な武将が控えている。っていうかお話の王道として、冷静に考えて簡単に反乱が成功しそうなストーリーだったら緊張感も何もないな。やはり圧倒的負けぐらいでちょうどいい。恐らくこれから幾度か宋軍と決戦するのだろうが、水軍が一番大事な事には変わりがない。大砲の使い手が出てきた時は軽く織田信長の再来かと胸が高鳴ったものだがそれきりほとんど何の描写もなくスルーされておる。せめて凌振には大砲バカらしい最期を願いたいものだが。朱全←(漢字が出せないからこれで)と孔明と李忠が死んだわけだが存在をすっかり忘れていたぐらいなので何の感慨もわいてこない。朱全の死にざまってもう誰か別の人がやってなかったっけ?という無粋な感想を抱いた。つってもかっこいいのだけれども。 「秦明、老体に鞭を打って走ったか。間に合ってくれた。俺は、闘い続けることができたのだ」 返事をしようと思ったが、秦明は声を出せなかった。 「林冲」 「おう、朱全」 林冲はしっかりと声を出した。 「おまえにだけは、あやまらなければならん。俺は、おまえより先に死ぬ。悪く思うな」 「いいさ、闘い抜いた」 「さらば」す、すげぇな・・・。まるで電池が切れるように死んだな・・。こういうのを読んでいると自分でも真似したくなるから困る。死ぬ三日前ぐらいに読んでいたら、たぶん死ぬ時に恥ずかしげもなく「さらば」とかいって死んでのけてみせられる気がする。それにしても本当に感動するのは林冲がこのあと呉用に向かって朱全が死にながら戦っていた、と淡々と説明するところだな。まるでわかってもらえないのはわかっているがどうしても言わずにはいられないのだ、というよういなそんな雰囲気の描写が恐ろしくうまい。恐ろしい男だった。まるで普通に生きている自分は死んだ方がいいんじゃないかと錯覚してしまうような。というか北方水滸伝を読んでいるといつもお前は屑だなぁげらげらげらと笑われているような気分になるな。なんという卑下・・。孔明も妙に印象に残る死に方をしていった。船に押しつぶされて、即死していてもおかしくないのに立ち上がって退却の合図を出して死んだ。なるほど、言葉が無くても行動で示せばいいのか。これは新しい。 「泣くな」 童猛はひと塊になっている八名のそばに立ち、声をかけた。 「泣いたら、孔明が生き返るのか?」 「でも、隊長は」 「言うな。おまえらは、よくやった。あの空の赤さを見たか。あれだけ、空を赤く染めたのだ。胸を張れ。孔明も、それを望んでいるに違いないのだ」北方謙三が書いた小説じゃなかったら、別に孔明がそんな事望んでたかわかんねーじゃねーか、と否定的な難癖をつけたかもしれないがどう考えても孔明はそれを望んでいただろうな。わかりやすいといえばわかりやすい。非常にシンプルだ。それにしても孔明という名前をつけられたら普通頑張って軍師になろうとしないのだろうか。中国に孔明さんがたくさんいるのかどうかわからないけれど、自分が孔明っていう名前だったら頑張って軍略を学ぶような気がしなくもない。いや、でもそれは酷な話か。知り合いにケンシロウという名前のやつがいるが、やつはケンシロウという名前だからといって北斗真拳を極めようとは決して思わないだろうからな。ケンシロウと名付けたアホな親は、その妹にユリアと名付けようとしてさすがに止められたらしい。危ないところだった。
2008.08.11
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感想 ネタバレ無久しぶりに水滸伝以外の感想も。全く悔しいのは、ハードカバーで読んだために文庫の解説を読めなかったこと。さらにいえば自分の読書力が全く足りていない事か。何も考えずに、深読みも何もせずにただぼんやりと読んでいただけであった。それでも十分に楽しませてもらった事を考えれば素晴らしい小説であるといえよう。とりあえず最初の文章を読んだ時点でまともな小説ではないな、という感想を持った。書いてある事がむちゃくちゃなのである。そう思っても当然という気もする。さらにいえば、最初の100ページほどは本当に何が書いてあるのか全くさっぱりちっともわからなかった。全く違う世界観のところに放り込まれたかのように右往左往して、理解しようと思えば出来たかもしれないのに完全にその努力を放棄して理解できないものは理解できないものとして置いといてしまった。ラスト20ページぐらいを読んでいて、ひょっとしてこれは理解しようという努力さえすればもっと面白かったのではないか、と考えたがもう後の祭りだった。完全に自分の中でこの小説は、意味がわからない事が面白いただのアホ小説という烙印を押されてしまい、恐らくその評価はもはや覆らない。ファーストインプレッションというやつだ。わざわざ横文字で書かなくても第一印象だ。その後いくらかして、この小説が精神病者の闇を書いた作品だという評価を持っている事を知る。全く寝耳に水、という感じであった。正直いって自分の中でこれはギャグ小説のような立ち位置でもって迎え入れていたのだから。私小説だともいわれているが、高橋源一郎という人間を過分にして存じ上げないもので全くわからない。しかしそれでも、それでもだ。面白いという言葉に嘘はない。読んでいて気が狂いそうになった小説はこれが初めてだ。現実に影響を与える小説が面白い小説の定義だとしたら間違いなく面白い小説だった。ただひとつ間違いがあるとすればその定義はおかしいということだけだが。現実に影響を与えるような小説をなんというのかといったら、「凄い」小説だろう。まったく間違いなく凄い小説ではあったわけで、そう言われると面白いかどうかというのはわからない。だがつまらないという事は断じてあり得ないという事だけはわかるが。一気に全部読んだら頭をかきむしるんじゃないかという気分だった。それでもそんな内容なのは前半部だけで、後半部はやはり先程書いたように内容がもっと真面目になっていき、ストーリーとしての体裁を持っていたように思う。正直前半部にはストーリーがあるのかないのかすらわからずに読み進めていた。どの文章に意味があって、どの文章に意味がないのか、という事を問いつづけるような文章だったように思う。そしてこのタイトルにどんな意味があるのかさっぱりわからない。あるいはこういう事を言いたかったのだろうか。意味がない事に意味がある。思えば全編を通してそんな感じだったように思う。読んでいて日本の作家だという事を頻繁に忘れたが、大量に出てくる日本人特有の固有名詞に現実に引き戻される。何度考えてもこれを日本人が書いたというのが納得がいかない。だがそれもおかしな話で、なんで日本人が書いたというのが納得いかないのかがわからないのだけれども。こういう気が狂ったようなものは日本人は書かないとでもいう先入観があるのだろうか。そんな先入観ゴミ箱に突っ込めばいいのだ。一回しか読んでいないのにここに感想を書くのが本当に心苦しい。恐らくたくさんの馬鹿をさらすことになっているだろう。感想 ネタバレ有 「ヘーゲルの大倫理学」がこの突発性小林秀雄地獄に見舞われるようになったのは大阪刑務所付属病院の精神病棟に収容中の時かららしい。 高速で落下する「ヘーゲルの大倫理学」の顔は宇宙戦艦ヤマトの波動砲で撃ち抜かれたダース・ヴェーダのように官能的だった。素晴らしい意味のわからなさ!もはや何もかも意味がわからない。ヘーゲルの大倫理学が人名っていう時点ですでに意味がわからないし、宇宙戦艦ヤマトの例え話も意味がわからない。だがなんとなくすげぇ!というような事は伝わってくるそんな文章だ。と思う。最初の方はずっとこんな調子で真面目に考えるのもバカバカしい、という文章の羅列だ。精神病者を書いた、といってあぁだから意味がわからないのね、と納得してしまうのも、正直どうかと思うわけで。しかし自分がここで、この作品について何かを書くというのは、決定的に間違っている事を書くということで、間違っているというのがわかっているのに書くというのはこれ、おかしな話じゃなかろうか。あるいは何も書かない方がいいのではないだろうか。書こうと思ったらそれこそいくらでもある。それは謎があるからで、意味がわからないところがあるからで、それをわかるようにいくらでも書き連ねていったらいいのだ。でもそんな事したら恐ろしくグダグダになりバカをさらしほんのちょっとで済む時間が大幅に増える事になる。それで利点といえば、自分の中である種の決着がつくだけだ。いや、決着がつくことが大したことないというつもりはないのだけれどもそれにしても意味はあまりない。何しろ量が半端ない。パラパラっと読み返しただけで、もう一度考え直したい要素で溢れかえっている。ここにそれを一か所ずつ書きあげていくぐらいならもう一度読み直した方がよほど有意義な気がするのだ。よっていつかまた文庫で買ってきて、解説を読みながら本編をもう一度読み直しこの感想を書きなおす事にしよう。
2008.08.10
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感想 ネタバレ有衝撃の十一巻から続いて激動の十二巻であります。意味は特にない。巨星、落つ、から梁山泊の立て直しがはかられる。といっても基本的に宋江がいるから大丈夫といえば大丈夫だが。このための二人首領体制だったわけだし。それにしても、晁蓋がいなくなったことをいい事に自分の案を全面に押し出して作戦を方針だてるのかと思いきや、晁蓋の意志を汲んだ方向に動くとは、やはり晁蓋は死んだ方がよかったのかもしれんな。対立し続けるよりは。この巻でようやく、関勝が仲間になった。思えば初登場から何巻たったか。なかなか仲間にならないので、ひょっとしてこいつはもう梁山泊入りしないのではないかと思ったぐらいだ。しかしその分、じらした分、物凄い活躍を見せてくれるであろう事は想像しやすい。呼延灼もいるし、関勝も加わったし、晁蓋がいなくなってもこれだけの人材がそろったというのは面白い話である。ついでに宣賛や魏定国も仲間になったしな。特に宣賛は相当使える軍師のようだ。なんだか段々SRPGでもやってるような気分になってきたぞ。恐らく宣賛はいきなり一軍入り出来るぐらいのスペックを持っているだろうな。十二巻にしてようやく戦力が充実してきた感がある。という事は、次の巻から本格的に宋との闘いが始まるのだろうか。もう増える人間はいないように思う。童貫が仲間になるはずはないし、李富が謀略に気づく気配も全くない。でもいつか気づくと思うんだがなぁこの巻で主に扱われていたのはほかに、盧俊義と燕青だろう。これも梁山泊第一といっていいぐらいの主従関係である。拷問されても何もしゃべらない盧俊義に、命をかけて助け出そうとする燕青。あらすじだけかくと非常にシンプルだがそこに込められた思いと、実績がすさまじい。まさに人でない偉業を達成した燕青だ。死域だ。 「心と躰の状態で、そういう域に入る事があるらしいのだが、通常は四刻ほどで死にいたるという。それが、燕青の場合、二日近くは続いたのではないか、と安道全は言っている。およそ考えられないことで、燕青の回復の方を、安道全はむしろ心配している」燕青が盧俊義を背負って五十二の人と地名を暗唱しながら梁山泊への道のりを歩く場面は本当に鳥肌が立った。絶対に一つの巻に一か所は鳥肌が立つような物凄い場面がある。だからこうやって感想を書くと毎回似たような感想になってしまうのだが全くしょうがない話である。
2008.08.10
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ネタバレ有衝撃の第十一巻・・・!最初はこの巻も大人しめだなーなんて思いながら読んでいたのだが、すべては最期までの布石だったとは・・・。三万で宋と対決すべきだ、という晁蓋と、十万まで待つべき、という考えの宋江。どちらも正しいともいえるこの選択。お互いに、ひかない相手だと知っていて、ひかない相手だからこそ信頼できる間柄というところか。 仕方がないことだった。晁蓋も自分も、考えを大きく変えることはできない。どこまで歩み寄れるか、ということに尽きるのだ。 友ではないか。 すべてを語り合い、ともに生き抜いてきた、無二の友ではないか。 宋江は、そう考え続けた。ここで自分の考えを引っ込めるような人間なら、そもそも二人の首領という特殊な立場にたっていない。しかしこの晁蓋が三万で行くべき、期を熟した、と肌で感じているところが正しさをうかがわせる。結末は梁山泊負けという事を知っているだけに、このタイミングで挙兵していたらあるいは・・・と歴史のIfを想像してしまうのも仕方のないことかもしれない。すでにフィクションとして存在しているものの、さらにIfというのも面白い話だが。この巻でついに晁蓋が死亡する。全19巻という事と、首領が二人、という事を考えると半分だから展開的に首領一人殺しておこうか、というような考え方もできるがその代りといってはなんだが、面白い人間関係の対立もだんだん出てきた。人数が増える事によって描写されない人間の数が圧倒的に増えてきたが、その分一人一人の密度が濃い。人と人が関係しあって、さらにそれが力になっていくのだと読んでいて実感できる。やはり最初に感じたように、水滸伝は人間関係の物語でもある。対立や主従関係、友譲や命の恩人、兄貴と弟分、さまざまな関係性がここには書かれている。杜興のエピソードも面白い。しかしやはりなんといってもここで特筆すべきは晁蓋の死ぬ場面であろう。正直、突然の急展開に読んでいて驚きを隠せなかった。あまりにもあっさりと、突然に死ぬのでまるで現実の死のようだった。いや、フラグというようなものはもちろん大量にあったのだが、作中の人物が何度も語るように、晁蓋が死ぬところがまるで想像できなかった、ということに尽きる。この男がそんなにあっさり死ぬように思えない。宋江ならまだしも。それにこの描写力・・・。死んだことが無いから真に迫っているとか、現実っぽいなんて口が裂けても言えないが、最高レベルで、フィクションとして面白い。エンターテイメントとして面白い。なんだ、これは、と読みながら考える。リアルとかリアルじゃないとか、現実的だとか非現実的だとか、そういう事じゃなくてただただ、「正しい」かもしくは「アリだな」という感覚を持った。これ以外にない、という感覚か。ものすごい説明が難しい。感覚を文章にするのがこんなにも難しいとは。バカボン風にいえばこれでいいのだ、か。技巧をこらしたシーンではない。ジェイムズティプトリージュニアがたった一つの冴えたやり方や、輝くもの天より堕ちなどで書いたような、美しい死のシーンではない。物語に吸い込まれるようなそんな描写だ!わけわからん なにかが、ふわりと自分に寄り添ってくるのを感じた。やさしげで、触れると心地良さそうで、包み込まれるとかぎりなく安らかになれる。しかし、冷たい。 この冷たさが、死なのか。 そう思った瞬間、憤怒にも似た思いが晁蓋を包み込んだ。 立って、両断してやる。 「去ねっ」 立とうとした。やわらかなものは、しっかりと晁蓋を包み込んでいた。うーむ。凄まじい男だな、晁蓋。死を自覚した瞬間に、死を両断しようとするとは。そんな男今までどこにもいなかった。何気ない描写だが、立って、両断してやるってのは滅茶苦茶すげえ。何故そんな表現が思いつくのか。漢だなぁ。漢だよ。死に包まれていると知って、今までの人生疲れたな・・・死ぬのもいいかな・・・なんて、全く思いもしないでぶっ殺してやる! と奮起できる人間なのか。すさまじい。この一言に尽きる。読み終わった瞬間に意味がわからなくなって十二巻を取りに走ったのはいい思い出だ。今までで一番びっくりして、今までで一番感情を突き動かされた感がある。毒に身体を犯されて、物を考えられるのに死ぬのか・・・?と自分が死ぬかもしれないと考えるまでの過程がほんとに凄い。
2008.08.10
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感想 ネタバレ有濁流の章。読んだのがもう一週間ぐらい前なので全然思い出せない。さて、最終的に一番大きな出来事は呼延灼との戦い、そして呼延灼の加入か。このあたりから脇キャラがぽこぽこ死んでく。まるで何の役目も描写も与えられず死んでいった穆春とかを考えると涙が止まらん・・・。まぁお前兄の影としていただけだしな・・・。良く考えてみたら、兄弟で梁山泊入りしている奴らは基本的に兄の方が優れてるな。宋江しかり、穆春しかり、朱富しかり。 「高?を、どう思う?」 「まさに、人間の屑ですな。開封府にはそういう屑が集まっていますが、その中でも屑と呼ぶのに最もふさわしい男でしょう」ここまで言われる高?という男に惚れた。この漢ばかりが集まってる北方水滸伝でこれほどまでに一身に屑という評価を受けるとは並大抵の屑ではあるまい。まえに人間的な弱さがこの物語には決定的に欠けていると書いたが、あるいはそれは高?がになっているのではないか。ところで呼延灼の武器は双鞭だという話だが、そろそろ苦しくなってきたんじゃ・・・。元々108人という人数が多すぎるから武器でキャラをかきわけようとかいう画力の足りない漫画家のような発想から、一人一人得意な武器が違うとか言う設定が出来たんだろうが、鞭で戦うってのはどうにも想像しづらいな。まぁ面白いからいいんだけれども。一瞬で首を落とす双鞭っていったいどんな凄い鞭なんだろう。いや、無知だからあんまりこんなこと言わないほうがいいのかもしれない、鞭だけに・・・。実は世界には首が切れる鞭が存在するのだろう。凌振とかいう熱血大砲バカが加入した。なんかだんだんキャラ設定いい加減になってないかなぁという感想を抱く。かといって面白くないわけじゃないのが面白いのだが。
2008.08.09
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さぁさぁさぁ、折り返し地点も近くなってきました九巻でございます。感想 ネタバレ有何があったかなぁー。索超が出てきたり林冲が危険な目にあったり晁蓋が自分から戦場にでるようになったりっていうのが主なところですかねぇーさすがにもう九巻ともなると、書く事が無くなってきた代わりに経験が積み重なりもうなんかダラァーンと長年の親友と酒でものみながらゲームしているようなダラダラ感が出てくるわけだけれども、ひょっとしてこれが中ダルミってやつなのかしらん。ただそれはあくまで感想を書く上での中だるみなのであって、断じて作品の中身が中だるみしているわけではない。それだけははっきりとさせておこう。恐らく最初から最後までこの物語は北方水滸伝でありつづけるだろう。一見何も起りそうになかった十一巻でさえ驚愕の出来事が最後で起こったし。しかしこの巻の帯はひどいなぁ。林冲愛する妻を救うために敵地に!みたいな感じの帯だったが、一巻を読んだ時点でその帯を見た時に、妻生きてんのかよ!と壮絶なまでに突っ込んでしまった。そうか、それで実際には妻が死んだ描写が全くなかったのか、と納得しかけたところでやっぱりブラフでしたってそれこそがっかりだよ!あぁガッカリだよ!でも圧倒的なまでに強い林冲にも、そういった弱さがあるという事を書くにはこれ以上ないほどのイベントであったな。水滸伝最強キャラランキングでも林冲が一位のようだし。やはりそこまで強い人間はいないということか。王進をのぞいて。 女一人救えなくて、なんの志か。なんの夢か。死んだあともこれほど大事にされる女の名前が全く思い出せない。ただやっぱり林冲かっこういいなぁ。晁蓋がやられそうになった時突っ込んできたのも林冲だし、どんなピンチにもこの一人!万能林冲発売中!みたいな。しかもどんなにピンチになってもお話の魔力が林冲を守ってくれるという。原典があるからだが。水滸伝とは関係なしに、ストーリーに介入する読者側の意思、というテーマで考えてみるのも面白いかもしれない。読者に望まれて死ぬべきだったキャラクターが死なないとか、読者が望むであろう展開に行くというのは、物語である以上当然あることで、それを許すのは作り手の怠慢であるなんていう狭い考え方ではなく、それすらもストーリーというものの一部として取り上げていくのが本当の物語というものではないのか。本来読み手がいてこその物語なのだから。関係ないお話終わり。なんかもう梁山泊がみんなやられちゃったあとみんなの敵はこの私がとる!とかなんとかいって王進が巨大化とかなんかしたりして一人vs国 ドガーン!みたいなキャッチコピーがついて王進が宋を倒す話があったりしたらおもしろそうだけど絶対にあり得ないな。いかん、なんかおかしいな。 「ここで逃げたら、俺が俺でなくなる。やれるところまで、おまえと一緒にやらせて貰うぞ、豹子頭林冲」 「馬鹿な男だ」 「おまえもな」オマエモナー 索超男すぎる。ここで逃げたら、俺が俺でなくなる。うひゃー。もうなんかうひゃー。うひゃー。万の言葉を尽くして語りたい気もするが、なんというか、うひゃーだけで気持ちが全部あらわせているようなきがする。うひゃー。 「俺はよ、魯達を女真の地からひとりで連れ戻した。誰にも出来ない事をやってのけた、とみんな言ったもんさ。その時、俺はこれが男だと思った。誰にでもできねえことをやってのけて、人に語られるのがな。いままでも、俺の名を聞くと、魯達を救いだしたあのとう(楽天じゃ変換できない)飛か、と梁山泊の兵はみんな言う。そんなとき、俺は男だって思えるのよ」そして今まさに、八方塞がりの中から重要人物を助け出そうと、誰にも出来ないことをやってのけようとしているそこにしびれるあこがれるぅ!格好いいぞぉぉとう飛ぃぃ。でもお前の名前は別に語られる事はないからなぁ!でも悲しむんじゃない。一応死ぬシーンが書かれているというだけで君は立派なキャラクターだ。中には全く描写がないまま死んでいく人間もたくさんいるんだ。その中で君の描写はキラキラと光輝く太陽のように北方水滸伝という物語の中で屹然と立っているぞ。まぁ語られる事はないけど。解説より 百八人だ。百八人の北方謙三もどきが、これでもか、これでもかと男の生きざまを説き、死に様を見せつける。百八人分のナルシズムに翻弄されるのだ。読んだときまさにその通り!と腹を抱えて笑ってはいないけれどうんうんと頷くぐらいはしたような気がする。実際のところこれでもかこれでもかと男の生き様を見せつけられて、なんというか自分はなんていう人間の屑なんだ、と自己嫌悪に陥る方向に向かっている気がする。あとは何回も繰り返される男の思想によって、一回ならまだしもそれが何回も繰り返されるので、なんだか洗脳されるかのように頭の中から思想がこびりついて離れない。みんな立派すぎてあまりに自分が屑過ぎて本当にもう誰にあやまっていいのやら、生まれてきてごめんなさいというのは親に失礼だし今まで真面目に生きてこなくてすいませんすいませんと水滸伝に向かって土下座したいぐらいである。
2008.08.05
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第八巻。感想 ネタバレ有なんかだんだん書く量が少なくなってきたような・・・!?この巻では解珍、解宝の親子が出てくる。ジャイアントロボの中で、ほんの数秒しか出てこないとはいえその圧倒的な存在感をしかと目に焼き付けたものだが、まさか親子という設定だったとはしらなかった。ジャイアントロボだとどうみても兄弟だったからな。主に、祝家荘vs梁山泊の戦いが繰り広げられる。相変わらずどの男も格好いい。ただそれが不安でもある。格好いいのは、当然いいのだが、そう何度も強調されるとさすがに飽きるのではないかと。確かに変わらないことというのはそれだけで魅力的だ。世の中、何もかも変わらざるを得ないものばかりだ。変わらないものなんて、ひとつとしてないといっていい。その中で変わらない作風で最初から最後まで一貫して書ききる、というのは素晴らしい。いや、それはシリーズを始めたものならば誰もがそうするべきと考えるだろう。シリーズの途中で作風が変わったり、主張する事が変わったりしたら興ざめである。そういう事ではなくて、今は確かにこんなに楽しいけれど、次第にまたその展開かよ、と鼻で笑うようになってしまうのではないか?というのが今唯一の心配なのだ。まぁそんな心配をしている暇があったら一行でも多く読め、というのが正解だろうな。ただこのシリーズを読んでいる途中で、そんな事も考えたという記録を残したかっただけだ。読み終わった時には笑い飛ばせるのを願っている。しかしこの作品、くどいほど同じ思想を強調する。死ねば土になるだけ。死んでも、誰かに覚えてもらえればそれでいい。などなど。 「これは、鄭天寿の命だ。私が本営に戻った時、おまえの熱はもう下がり始めていた。だから、この蔓草が役に立つ事はなかった。これが、鄭天寿の命だとしたら、情けないほどのどうでもいい命でもある。しかし、ひとりの、この世でただひとりの人間にとっては、無上に大切な命だ」病気の子供のために薬草を採りに崖にのぼり死ぬってこれなんてありがちな展開?ただこうやって楊令が子どもながらに、人の命を背負って生きていく自分、というものを明確に意識しながら生きていくというのは非情だけれども、これから先人の上に立つものとして生きていく上で重要なのだなと思う。楊令伝という続編があるのを知っているから考えることではあるが。 心の底が、ふるえていた。 いままで、こんなふうな感じを味わったことが、李応にはない。 これが、生きているということではないのか。危険を求めながら、しかし生きている。命のかぎり生きている。そういうことなのではないのか。この男、李応のことだが、描写は少なめだがその存在感が異常に強い。鮮烈なイメージを植え付けていく男だ。ところでこの8巻で、ついに馬柱がむごたらしく殺されるわけだが、李富の対応があまりにも不自然すぎる。今までの冷静沈着な描写はいったいなんだったのかと思うほど簡単に物事を梁山泊のせいにしすぎる。女に没頭しすぎるからこうなる、というような解が与えられているのかもしれないが、それにしてもここだけは納得いかねぇ。いくらなんでも無条件に、梁山泊のせいだと信じるのはおかしいのではないだろうか。さらに、自分の事は梁山泊側には全くバレていないはずだ、とどの口がそう言わせるのだろうか。いつだって全ての条件を考えていくのがやり方だったはずなのに、何故そこだけ盲目的に自分の事は知られていないと信じているのか。ここだけは後々まで引きずる事になりきがする。あるいはこれは、李富が梁山泊側に寝返るフラグだろうか?バレないはずがないとおもうのだが。 「死ねば土。そう思い定めている。どこからでもいいぞ、来い」やばかっこいい。さすが李応だぜ。きっと壮絶な死に方を決めてくれると信じている。最初はキャラに期待していたが、最近はもう死に方を求めるようになってきた。どうせみな死ぬのだ、どうせなら、壮絶に死ぬ方がいいだろう。でもよく考えたら、どうせみんな死ぬなんてのは自分らにも当てはまるわけで、よくよく考えてみれば同じ死ぬなら派手に死んだ方がいいというのは全くもってその通りだというきがする。座右の銘にでもしようか「どうせ死ぬなら派手な方がいい」なんか頭のイカれたジジイになりそうだな。 「歩きませんか、宋江殿。この祝家荘の中を。何人もが死にました。ひとりで歩くには、肩が重たすぎます」 「そうだな」 宋江が笑った。 月が出ている。呉用もかっくいいなぁ。闘わないのだが、それ故に死を受け入れる度量を持っているというべきか。同じ事は宋江にも言える。この二人が揃うとよくわからん化学反応が起こりそうだ。
2008.08.03
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感想 ネタバレ有まだ七巻か。今回の主な出来事は、宋江脱出、雷横死亡、時遷死亡、阮小五死亡、他にもまだあったかもしれないが、こんなところか人数が増えてくるにしたがって頭も混乱してくる。しかし見事なキャラの書き分けというところだろうか。一人一人の主張がうまくかみ合っている感じがする。たとえば名言的な事をいったキャラがいたとして、そのキャラが矛盾した行動をとっているような事がない。まぁ当然かもしれないが、それが108人もいるというのだから把握するのも大変だろう。もう何人か死んで100人ぐらいになっているかもしれないが。というかまだ108人そろったかそろってないのかもわからないが。 「志がどうあるべきかなど、ひとりひとりで違う。おまえは土を捨て、闘いを選んだ。大事なのは、それなのだ。闘いぬく事が出来るのか。自分が選んだ事を、やり遂げられるのか。志は、難しい言葉の中にあるのではない。おまえのやることの中にある」宋江のセリフだが、パっとみたかんじ晁蓋がいったような感じがする。何故だろう。七巻まで読んで、多少気になる点も出てきた。塩の道塩の道と凄く大切そうに何回も繰り返して書かれているものの、その実態が全く描写されていなかったりまたしても同じく、替天行道と何回も大切そうに書かれているのにその中身が全く書かれていなかったりと。 よく見ろ、これが梁山泊の雷横だ。挿翅虎と呼ばれた、雷横だ。空を飛ぶ虎。そう呼ばれるわけを、いまから見せてやる。 俺はまだ立っている。雷横は思った。男は、決して倒れたりはしないのだ。雷横格好いい。ほっとんど名前も覚えていないようなキャラだったのに・・・。それにしても時遷の死と比べるとあまりにもかっこよすぎる。というか、戦えるキャラは必然的に格好いい死に方を迎える事が出来るなぁ。闘えないキャラは、なんというか地味な死に方をせざるを得ない。時遷なんか、女を追い詰めて殺そうとしたら後ろからグサリ、だもんな。いいところの見せようもない。せめて死ぬ間際に少し喋れれば格好いいセリフをいって死ねたかもしれないのに、後ろからグサリじゃそんな事も無理だ。ていうか死に際のセリフが「なんなのだ」で終わる時遷はひょっとして梁山泊でトップ10には入るぐらい微妙な死に方をするのではないか。いや、まだ7巻でこんなこというのもなんだが。読み終わった時は複雑な気持ちになったものだ。結構重要な人だったんだけどなぁ・・・。宋江が今までやってきたことは割と悪い方向に向いているような・・・。いや、宋江システムによって仲間が増えているのはわかるのだが無駄に危険な目に会いすぎではないかと。もう少し自重しろと。晁蓋に戦に出るなという資格はこやつにはないな。
2008.08.02
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この壮大な物語、まだ六巻であるというのだから驚きを隠せない。もう三十巻分ぐらい読んだような気分である。感想 ネタバレ有何か、この水滸伝で大切な事を挙げるとすれば、それは食事の描写がそこかしこにちりばめられている事だろうか。読んでいてそんな事を考えた。とにかく、ちゃんと食事の事がしっかりと書かれている。さすがに一から水滸伝を作りなおしただけはある。意味のないところに意味を持たせ、裏の裏まで考えて、塩の道を作りだしたり、各キャラクターにしっかりと意味を持たせたのと同じように、生活に必要な描写も洗いざらい書き出したのだろう。食事だけに関わらず、生きていれば絶対にせずにはいられない排泄物の処理の話なども、書かれている。本当に至れり尽くせりである。もう一つほかに考えた事といえば、当然書かれるべきである、弱さというものはいったいどこに出てくるのだろうか。この水滸伝に出てくるキャラクター、誰ひとりとして命を惜しみ、逃げ出すような人間がいない。それはいい。だが、それだけで物語というものは成り立たないのではないか。弱さを担う部分が必要なのでは。最初それは、女性に担わされているのかと思った。馬桂を読んでいてそう思ったが、それも違う気がする。済仁美に限らず、そんなに弱さを押し出すような女性は書かれていない。弱さはないのだろうか。まぁまだ全部読んでいないのに書くような事でもないのかもしれない。全部読み終わった時に、総括として書こう。さて、第六巻である。おもな出来事といえば、秦明の加入、他にも王定六、陶宗旺、欧鵬の加入などなど。特に王定六、このあとまた注目されることがあるのかどうかはわからないが、とりあえずこの巻だけでいえば目覚ましい活躍であった。たくさん書かれた文章でないにも関わらず、存在感を見せつけてくる。陶宗旺も物凄い活躍をするし、まぁそのあと活躍するのかどうかはわからないのだけれど・・・。こうして考えてみると、面白いキャラクターはこんなにもたくさんいるのに、その一人一人に焦点を当てて語れないというのが、水滸伝最高の落ち度かもしれない。百八人は多すぎるのではないか、と中国の歴史に真っ向から喧嘩を売るような発言だが。それにしても魯達、自分の腕を焼いて食ったとか凄い奴もいたもんだな。しかし良く考えてみると、中国の話にゃもっと凄いやつがごろごろしていたような気もする。そういう意味じゃ日本だって負けていないし、自分の腕を食うのはひょっとしてそんな大したことないのか?と思わせてしまう中国の物語がこええ。しかし、どんなに林冲が強い強い天下無敵!といわれようが、一巻の一番最初で王進にボコボコにされていたのを読んでいるのがいつまでもひっかかって、そんなに強いという印象を持つ事が、なかなかできなかった。それほどに王進の存在感というのは強いものだ。時には一回も出てこない巻さえあるというのに。この最後の終わり方、何気に今までの巻で一番好きかも知れない。誰にも負けないたった一つの自分だけのプライドを守りきった男、というのが、あらわれている。まるでエアマスターのジョンス・リーのように・・・。誰だってその道じゃ負けたくないって事があるよなぁぁぁぁぁ。 「長く走ることについちゃ、俺は誰にも負けねえんだよ。雷横とか言ったな。おまえ、そう思わねえか?」 「思う。おまえより走れる者は、この世にいないだろう」中略 腹が減っていたが、眠くもなってきた。 まず食って、それから眠る。王定六は、そう決めた。 躰が、まだ走っているように揺れていた。結果的にこの王定六の速さが、林冲を二日早く宋江の元に駆けさせ、それによって宋江も助かったと考えると王定六のやったことは本当に凄いことなのだ。ただ、王定六だけが凄いのではなくて、他にもみなが死力を尽くしてこその結果なのだが。
2008.08.01
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