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数日遅れになりますが、28日の日記を書きます。医師からも勧めがあり、祖父を外出させる事になりました。母は6月に外出させるつもりだったようですが、医師はそれでは遅いと・・・急ではあったけど、kazuが休みの28日に外出させる事を決め、それを母から祖父に伝えてもらっていたのだけど、祖父はこの日をとっても楽しみにしていたようです。病院近くの水戸街道が大渋滞していて、約束の時間から30分も遅刻して病院に着きました。祖父が怒っているかな~って心配していたけど、全然そんな事無く、私の顔を見たら目がキラキラと輝いていました。入院したのが3月。母はその時の服を着てくれば良いと思っていたらしく、夏物の服の用意がありませんでした。オシャレしたい祖父は、「冬服じゃいやだ!」と言い、なかなか着替えが進みませんでした。でも、家に帰ってから着替えるという約束で、冬服を着てもらいました。祖父は外出の事を母から聞くなり、「うなぎが食べたい!」と言っていたようです。普段食欲が無いのに、やっぱり好きなものとなると別なのね~。一旦祖父の自宅へ帰り着替えさせ、お腹がすいたと言うのでうなぎを食べるために出かけました。母が車椅子を押し、思い出の地を巡りながら、柴又帝釈天の方へ行きました。祖父の家から帝釈天までは徒歩15分ほどなのですが、子どもの頃から何度も同じルートで行っていました。今回ももちろん同じルートで、思い出話をしながら散歩しました。祖父の目も輝いていたけど、母もとても嬉しそうでした。外出させるのは不安だと言っていたけど、やはり本当は実の父との楽しい時間が欲しかったのでしょう。半ば強引に、私から外出をお願いしたのですが、それで正解だったな、と思えました。帝釈天前の、川千屋という老舗のうなぎ屋さんに入りました。他にもうなぎを扱っているお店はあるのですが、少々高くても、この辺で一番の店で食べて欲しかったのです。私はうなぎが嫌いですが、この日は祖父と同じものを食べました。祖父はおいしそうに、ゆっくりとうなぎを食べてくれました。うな重を頼んだのですが、うなぎは全て食べました。ご飯は一口しか食べなかったけど、うなぎを全部食べられたなんて、よっぽど好きなのでしょうね。川千屋に来て良かったなって思いました。それにしても我が娘、そのうな重がいくらなのかも知らず、ペロリと一人前食べました。う~ん、贅沢!その後、帝釈天に行きました。お参りをして、昔の思い出話を沢山しました。帝釈天は良く行っていたので、思い出は山ほどあります。帝釈天にも来て良かったと思いました。帰りはいつも柴又駅の方へ出てから帰っていました。なので今回も柴又駅に寄ってから帰りました。寅さん像ができていてビックリ!そこで祖父と子ども達と写真を撮りました。駅前のお店での思い出を話しながら、ゆっくりと祖父の家に帰りました。家に着いたら祖父はすぐに横になりました。疲れたのね。それでも祖父は嬉しそうな顔をしていました。しばらく休憩させてから病院へ帰りました。嫌がるかな、と心配していたのですが、やはり自分の体が弱っているというのはわかっていて、すんなりとベッドに戻ってくれました。祖父の体調は心配でしたが、あんなに輝いた顔が見れて、外出させて良かったです。あと、母が一生懸命祖父の介護をする姿を見て、母を改めて尊敬しました。なかなか異性である父親のおむつ替えをするのは勇気がいる事だと思います。それを嫌な顔ひとつせずに出来る母はすごいと思います。後になって、自分でも驚いてると母は言っていました。母は今回、祖父の世話をした事で、色んな意味での満足感が得られたようです。一日、とても良い顔をしていました。祖父のガンがわかり、悲しい気持ちでいっぱいでした。でも先日友人が、それでも祖父は幸せなのだと教えてくれました。今までは一人暮らしで寂しかったけど、今は病院で沢山の人に囲まれ、頻繁に家族が見舞いに来てくれるから、それで幸せなのだと。幸いにも祖父には痛みがありません。ガンの治療の薬は一切使っていないようです。痛みもなく、沢山の人に囲まれている祖父は、考えようによっては幸せなのかもしれない。そう考えると私の気持ちが少し楽になりました。もう治る事はない、先は長くないのだから、孫としてできる限りの恩返しをしよう。後悔しないように。そして祖父が幸せでいられるように。最期に祖父が幸せな人生だったと思えるように、私たちは努力しなければいけないのだな、と思います。
2005.05.28
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先日の日記でコメントを下さった方々、暖かいお言葉をありがとうございました。お返事できずに申し訳ありませんでした。また改めて、落ち着いた頃にお伺いします。今日、初めて担当医と直接お話しをしました。話しの結果は、母から聞いていた以上に悪かったです。先日は余命1年弱と聞いていたのに、今日は夏を越せるかどうか、と言われました。進行が早いようです。今は頭の中が真っ白で、何も手につかない状況ですが、なるべく落ち着きを取り戻し、今後のことについて、しっかり考えたいと思っています。
2005.05.19
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夕方買い物から帰宅して、車庫入れしていてもうすぐ決まり!ってところで母から携帯に電話があった。なんでこんな時に~って思いながら電話に出たら、しばらく母の声が聞こえない。電波悪いのかなって思いながらも、何せ車庫入れの途中だったから少々冷たく「お母さん!?」って声かけた。そしたら、電話の向こうで母が泣いていた。「yuka、こっちに来れないかな?すぐじゃなくても良いから」お父さんとケンカしたかな?それともお迎えしたばかりのハムスターに何かあったかな?どうしたのか聞いてもしばらく返事をしない。ようやく口を開いたら、祖父が悪性リンパ腫と診断されたと・・・3月から肝硬変・肝臓ガンで入院していた。でも、ガンはさほど大きくなく、もう80歳過ぎていて高齢だから進行も遅そうなので、しばらくしたら退院できると聞いていた。なので、安心ってわけではないが、そんなに心配はしていなかった。しかし、転移したのか元々あったのに気付かなかったのか、リンパ腫まであり、突然余命1年ないだろうと言われ、ある程度の覚悟はしていた母だったが頭が真っ白になったらしい。私も、まだ現実が理解できてなく、頭の中が混乱している。引っ越す前、祖父はしつこいほど電話をしてきた。決まって「いつ引っ越すのか?」「もう引っ越したか?」と聞いてきた。「引っ越したら一度くらいは泊まらせてくれ」「電話番号決まったら教えてくれよ」これも決まって毎回言っていた。その頃、私は祖父の電話が億劫になっていた。居留守使ったこともある。今振り返ると申し訳ない気持ちでいっぱい。祖父本人も、家族も、誰もその時期に祖父がガンだなんて、思ってもいなかった事だけど、何かのメッセージだったのかなぁ?今までの祖父との思い出が頭の中を回っている。孫である私や弟もかわいがってもらったが、ひ孫のnaru・taiもたくさんかわいがってもらった。もう、前のように公園で一緒に遊べないのかな?お正月は一緒に帝釈天に行ってたけど、来年も一緒に初詣行けるのかな?まだ来てもらってない我が家に、いつか泊まりにきてもらえるのかな?taiのランドセル姿を見るまでは死ねないと言っていた祖父。こっちに来て、ランドセル背負って登校するtaiを見て欲しい。いつも実年齢より若く見られていた祖父。きっと奇跡が起きて、元気になる気がする。母ともさっき、そう話していた。でも、もしもの事があった時にはそれは受け入れないと・・複雑だな。
2005.05.10
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