全30件 (30件中 1-30件目)
1
学校で習うようなすべての学問の「種」は、すべて、私たちの生活を支えている様々な文化の中にあるのです。というか、その「種」が萌芽して様々な学問が生まれたのです。「お料理」には、医学や、化学や、心理学や、文化人類学や、植物学、生理学などの種が入っています。食器などのことを考えてしまうと、さらに世界が広がります。「歌」には、物理学や、数学や、心理学や、医学や、文化人類学や、生理学などの種が入っています。「歌を歌う場所」のことまで含めると建築学まで範囲に入ります。「手仕事」には、数学や、植物学や、文化人類学や、化学や、民俗学などの種が入っています。「絵画」には、数学、化学、心理学、建築学、色彩学、論理学、生理学などの種が入っています。他にも入っていると思いますが、キリがないのでこれくらいにしておきます。私が言いたいことは、「身の回りのどんなに小さいことを取り上げても、それはすべての学問、人類の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史とつながってる」ということです。「学ぶ」ということはそれを読み解いていくことなんです。だから楽しいのです。子どもの遊びでも同じです。「泥団子作り」の中には、物理学、化学、数学、地学、生理学などの種が入っています。ですから「泥団子作り」を極めようとすれば、そういう学びが必要になるのです。「木登り」は、植物学や、物理学や、解剖学や、生理学や、スポーツ科学などの種が入っています。だから「木登り」を極めようとすればそういう学びが必要になります。これからの時期多くの子どもが夢中になる「虫取り」には、植物学、生物学、動物学などとつながっています。「飼う」となるとさらに多くの分野の学問とつながってきます。「電車」や「自動車」などの乗り物が好きな子も多いですが、「乗り物」の歴史は科学の歴史そのものです。人類の歴史とも強くつながっています。だから「たかが遊び」などと、「子どもの遊び」を馬鹿にしてはいけないのです。「遊んでばかりいないで勉強しなさい」などと言うのではなく、逆に「そんなに好きだったら徹底的に極めなさい」と言った方が子どもの成長につながるのです。「子どもが大好きな遊び」は「すべての学問への入り口」でもあるからです。実際、日本における植物学の祖、牧野富太郎はそうやって日本の植物学を構築したのですから。まただから子どもを「生活文化」や、「自然」や、「遊び」から切り離してはいけないのです。「生活文化」や、「自然」や、「遊び」から切り離された子ども達に勉強を教えても、その意味も使い方も分かるようにはならないのです。ただ暗記するだけですから、当然、「子どもの成長」にもつながりません。子ども達にまず伝えなければいけないことは、自分が産まれてきた世界の不思議、面白さ、奥深さ、楽しさ、そして怖さなんです。それを知るために子ども達は夢中になって遊ぶのです。だからそれらを奪ってまで子ども達に勉強を押しつけてはいけないのです。勉強を押しつけたら「勉強が嫌いな子」が育つだけです。
2025.06.30
コメント(0)
皆さんは「人間が人間になるために必要なこと」は何だと思いますか。確かに人は生まれたときから「ヒト」です。ただしこれは「種」としての「ヒト」であって、これだけでいいのならすべての教育や学びは不要です。宇宙人がやってきて「生まれたばかりの赤ちゃん」をさらっていき、食べ物だけを与え、動物園のようなところで一人だけで飼育したとしても、確かにそれは「ヒト」ではあります。でも、そのような育てられ方をしたら、「動物としての人間」は育ちますが、「人間らしい人間」は育ちません。でも今、それほど極端ではなくても、「飼育」に近い育てられ方をしている子ども達がいっぱいいます。そのような子ども達は「子どもの成長に必要な学び」を与えられることなく、調教のような形で「大人の期待通りに行動する訓練」ばかりやらされています。子どもが、「大人の指示」に従わずに、「自分の意思と判断で自分がやりたいこと」をやると、大人達はそれを「問題行動」として矯正しようとします。自分の心とからだを守るために「学校に行かない」という選択をする子も多いですが、その場合も、大人達はそれを問題行動と考え、矯正しようとします。どうしてそういうことになってしまっているのかというと、人間が「人と人のつながり」を失い、「人間らしい生活」をしなくなってしまったからです。「お金さえ稼げればいい」という価値観に支配されるようになってしまったからです。多くの人が「子どもが自立する」とは「お金を稼げるようになること」だと思い込んでいます。子どもを学校に行かすのも、「学校」が「お金を稼ぐことが出来るようになるために必要な場所」だからです。だから、多くの親が、「学校で子どもが何を学び、その結果どのように成長したのか」ということには興味がありません。興味があるのは、よい学校、よい会社に入るために必要になる「成績」のことばかりです。子ども達を比較し、競争させるのも、競争に勝たないと多くのお金を得ることが出来ないからです。歌や踊りは共有出来ますが、お金は共有出来ないですからね。まただから、「家事も手伝わず、子育てにも参加しないで、自分の好きなことばかりやっているお父さん」でも、「おれが金を稼いできているんだぞ」などと大きな顔をしていられるのです。お母さん達も「お金を稼いでいない自分」を卑下しています。「子育て」という「人間が人間らしく生きるためには絶対的に必要なこと」をやっているのに、自分がやっていることに誇りを持てずに、子育てから逃げたがってるお母さんがいっぱいいます。「ヒト」として生まれた子どもが、「人間らしさ」を学び、身につけ、「人間らしい人間」に育つために必要なのは決して「お金」や「お金を得るための能力」ではないのです。子どもが「人間らしい人間」に育つために必要なのは、「お金」という「共有出来ないもの」や「戦いに勝たないと得ることが出来ないもの」を得る能力を育てることではなく、歌や、踊りや、物語(言葉)や、手仕事や、絵を描くといった「みんなで共有出来るもの」を伝え、「つながり合い、支え合う能力」を育てることなんです。人類が文化を育て、人間らしさや、知性を育てることが出来たのは、この「つながり合い、支え合う能力」があったからなのです。決して「戦いに勝つ能力」があったからではないのです。そういうことは「文化人類学」や「自然人類学」を学べば自明のことです。本来、人間において「自立している」ということは、「お金を稼げること」ではなく、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動することが出来ていて、さらに、その能力を使って、仲間とつながり合い、お互いに支え合うことが出来ていることなんです。でも、現代の子ども達は、子育ての場でも、教育の場でも、「人間が人間になるために必要な学び」を得ることが出来なくなってしまっています。でも、そんなにも重大な問題なのに、そのことに気づき危機感を感じている人は多くありません。
2025.06.29
コメント(0)
多くの親や先生達が子どもに「勉強」を押しつけ、追い回し、子どもから「子どもの時間」を奪っています。「子どもの時間」とは「子どもが子どもとして満たされる時間」のことです。子どもの心とからだが活性化し、まるで光を放っているかのように生き生きとしている時間のことです。「子どもの時間」を生きている子ども達は光っているのです。でも、子どもとちゃんと向き合っていなかったり、「自分」を生きていない人にはその光が見えません。そのような人が見ているのは子ども達が「大人の期待」にちゃんと応えているかどうかだけです。そして、「大人の期待」に応えるように子ども達を追い立てています。でも、大人に追い立てられて「子どもの時間」を失ってしまった子ども達は、次第に「光」を失っていきます。それはつまり、「自分の意思で生きる力」を失っていくということでもあります。生命力や能動的な意思がその「光」のエネルギー源だからです。そして今、悲しいことに「光が弱くなってしまった子ども達」が増えています。そのような子ども達は自分の意思で行動することが出来ません。「自由にやっていいよ」と言うと大騒ぎするだけで、「何をしたらいいのか」を自分で決めることが出来ません。ストレス発散的な活動は出来ても、創造的な活動は出来ません。「光」を失うと、創造的な活動が出来なくなってしまうのです。その背景には「想像力の低下」があります。他の人とつながることもできなくなります。仲間と助け合うことも出来なくなります。そういう活動をするためには「光」が必要だからです。「目で見る光」ではなく「心で見る光」です。また、学ぶことへの興味も失います。色々な体験をさせてもそこから学ぼうとしません。実験をやらせても発見を楽しむのではなく、実験道具で遊ぼうとします。だから危険なことになってしまいます。でも、その「光」は消えてしまっているわけではありません。弱くなっていたり、その光の周囲に不要なものがいっぱい詰まってしまっているため、その「光」を、「感覚や思考や行動のエネルギー源」として使えなくなってしまっているだけです。そういう状態でいくら勉強をさせても、成績がアップしても子どもの人生にとっては全く無意味です。子どもの「光」を育てるために必要なのは、「頭だけを使った勉強」や、「成績のための勉強」ではありません。そういう勉強は逆に「光」を弱くしてしまうだけです。まただから子どもはそういう「大人が押しつけてくる勉強」からは逃げようとするのです。本能的に危険を感じて、「自分の成長を阻害するような活動」からは逃げようとするのです。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、子どもの「光」を守り育てるために必要なのは、様々な芸術的な活動や、創造的な活動なんです。自然と関わったり、「仲間と群れて遊ぶ遊び」も必要です。それらの活動は、子どもの頭と、心と、からだを同時に活性化してくれます。そして、それらを統合してくれます。それが「光」となって現れるのです。すると、思春期が近づいてきたときに勉強への意欲が目覚めるのです。追い立てられなくても自分の意思で勉強するようになるのです。
2025.06.28
コメント(0)

最近の子ども達は本当に「自分の絵」を描かなくなりました。自由に絵を描くことが出来なくなりました。絵を描くことが嫌いになりました。キャラクターなどを写して描くのは好きな子も多いですが、これは「自分の絵」ではありません。また写すだけなら、単なる機械的な作業なので、そこに、思考力も、感覚も、心の働きも必要ありません。必要なのは「キャラクターへのあこがれ」だけです。「だから何なんだ」と思う人も多いと思いますが、実はこれは「子ども達の内面の育ち」と大きく関係しているのです。当然のことながら、絵は白い紙に描きます。そこには何もありません。「無」です。ですからそこに描かれたものは100%描いた人の内面から出てきたものです。「頭の状態」だけでなく、「心の状態」や、「からだの状態」まで、絵の中には表れています。「描かれたもの」は「自分そのもの」なんです。「ただ一本の線」を描くだけでも、その人の心やからだの状態が表れてしまうのです。「絵を描く」ということは、そういうものを全部さらけ出すということでもあるのです。まただから、自分の内側が混乱していたり、自分に自信がないような人は、絵が描けなかったり、絵を描くことを嫌がったりするのです。ワークなどで「来週は絵を描きます」というと「えー、いやだ!」と言うお母さんは多いです。「文章を書く」ということにも同じような意味合いがありますが、でも、まだ「言葉」が未熟な子どもは自由に言葉を使えないので、文章を書くことは出来ません。それに文章が書けるようになるためには様々な体験や学びも必要になります。それに対して「絵」は赤ちゃんでも描けます。立ち上がることが出来るようになった子にクレヨンを与えると、クレヨンを画用紙に叩き付けるようにして絵を描きます。歩くことが上手になってくると「点」ではなく「線」が描けるようになります。言葉が話せるようになってくると「曲線」が表れ始めます。心(自我)が目覚め始めると「○」を描き始めます。そして、その「○」に目と手足が付いて、「頭足人」と呼ばれるこんな絵を描くようになります。子ども全員が描くわけではありませんが、世界中の、この発達段階の子ども達がこのような絵を描きます。ですから、子どもの絵は「子どもの成長を映し出す生理現象」であって「自己表現」ではないのです。だからどの子でも描けるのです。まただから幼い子どもたちは絵を描くことが好きなんです。ですから「子どもの絵」を「子どもの成長状態」を知る手がかりとして見るのはいいのですが、「絵」として評価してはいけないのです。「何で胴体がないの?」などと指摘するのはやめてください。絵の評価をすると子どもは「自分との対話」が出来なくなってしまうのです。そして絵が嫌いになります。そして今、そういう状態の子がいっぱいいます。また、子どもが「○」を描き始める頃になると、子育てが急に難しくなります。なぜなら「○」は「心の目覚め」のサインでもあるからです。それまでは子どもの世話をしているだけで済んだのに、この頃から「子どものからだ」だけでなく、「子どもの心」とも向き合わなければならなくなるのです。子育ての内容が、「子どもの世話」から「子どもとの人間関係作り」に変化していくのです。子どもの心が荒れると絵も荒れます。心が落ち着けば、絵も落ち着きます。思考力が育ってくると絵が複雑になってきます。そういうことが「子どもの絵」を見ているだけで分かるのです。問題は、絵を描くことに興味を持ち始めるこの時期の子どもに、テレビやスマホやタブレットなどの様々な電子機器や、簡単で便利で刺激的なオモチャを与えると絵を描かなくなってしまうことです。また、絵が描けなくなります。刺激に対して受動的になり、「自分との対話」が出来なくなってしまうからです。そして「自分との対話」が出来なくなってしまった子は「心の成長」が遅れます。待つことや我慢することも難しくなります。ですから子どもが幼い頃は、テレビやスマホやタブレットではなく、クレヨンと画用紙を与えてください。それだけで子どもは「話し相手」が出来て、退屈しなくなります。問題は画用紙以外のところにも描いてしまうことが多々あることです。でも、そこはお母さんの工夫でなんとかしてください。うちは「描かれて困るような壁」には模造紙を貼っていました。オモチャを与える場合は、自分で動かない、音を出さない、映像が出ないものを与えてください。そういう刺激があると「自分との対話」が出来なくなります。また、3歳頃から道具を使うことにも興味を持ち始めます。工作にも興味を持ち始めます。ですから「ハサミ」とか「ノリ」とか、紙や様々なガラクタを与えておけば、子どもは、テレビがなくても、スマホがなくても、タブレットがなくても退屈しません。絵を描くことは「自分の心との対話」でしたが、工作は「自分の思考やからだとの対話」を促してくれます。問題は、後片付けをしないことです。また、カーテンや自分の髪の毛を切ったりすることもあります。でもそれは「そういうことが起きないと伝えることが出来ない様々なこと」を伝える大切な機会でもあるのです。ケンカするから、「心やからだの痛み」や「優しさ」について伝える機会が生まれるのです。子どもの問題行動は、子どもと色々なことを考えたり、子どもに色々なことを伝えるよい機会なんです。だからただ禁止するのではなく、そのことを教材にして一緒に考える必要があるのです。子ども達の頭と心とからだの成長に必要なのは、「デジタル的な体験」ではなく、絵を描いたり、工作をしたり、からだを使って遊ぶような「アナログ的な体験」なんです。絵を描くことや、工作や、からだを使って遊ぶことに興味を持ち始める時期の子ども達にとって、テレビやスマホやタブレットは有害でしかないのです。
2025.06.27
コメント(0)
世の中には「生きているだけで命には価値がある」と言う人がいますが、でも、その「生きているだけの価値」は自分では実感できません。そして「自分で実感できない命」は自分には価値がありません。親は子に「生きていてくれるだけで」と思うかもしれませんが、子ども本人は「生きているだけ」では生きがいも、喜びも、存在価値も感じないのです。だからせっかく生まれてきたのに自殺する人がいるのです。大事なのは「他者にとって価値があるのかどうか」ではなく、その本人が「生きているということに喜びと価値を感じることが出来るかどうか」ということなんです。周囲から見たら、どんなに悲惨で、悲しく、苦しい人生でも「生きていること」に喜びと価値を感じている人もいます。そういう人は自殺なんかしません。「命の価値」は「人が決めるもの」ではなく「自分が決めるもの」なんです。私は「命とは可能性である」と考えています。「生きようとする意思が生み出す可能性」です。ですから、自分で「自分の可能性」を感じることが出来る人は、「生きていること」に喜びを感じることが出来るのではないかと思っています。「死」を選んでしまう子は「自分の可能性」を感じることが出来なくなってしまっていたのでしょう。どんなに学校の成績がよくても、それが「自分の意思でやった結果」でなければ、親にとっては「子どもの可能性」かもしれませんが、子ども本人にとっては「自分の可能性」ではないのです。親や周囲の大人の指示や期待に従って生きるだけの人生は「自分の人生」ではないからです。「反抗期」と言われる時期は子どもが「自分の可能性」を確認しようとする時期でもあります。親に守られ、親の指示や価値観に従って生きてきた子どもが、「自分の人生」を「自分のもの」として「自分の意思」で生きようとする時に、「自分の人生を支配しようとしてくる大人」に反抗するのです。まただから、あえて「大人が否定するようなこと」をやり始めるのです。ですから、「子どもの自立」という視点から見たら、「反抗期」は「喜ぶべきこと」なんです。でも、多くの大人達がその状態を「困ったこと」として考え、押さえ込もうとしてしまいます。「不登校」もまた「自分の人生を自分の手に取り戻そうとする行為」の一つなのかも知れません。そんな時、幼い頃から、自分の意思に基づく様々な遊びや活動を通して「自分の可能性」に気づくことが出来た子は、その状態を乗り越え「自分の人生」を自分の足で歩き始めることが出来るでしょう。また、反抗期もそれほど強く出ないでしょう。でも、幼いときから自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動することを否定されて育ってきた子は、反抗はしてもその先の「自分の人生(可能性)」を見つけることが困難になってしまうでしょう。親が否定しなくても、簡単で便利な「依存するオモチャ」「依存する遊び」「依存する機械」ばかり与えられ、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する機会」を与えられずに育った子も同じ状態になります。そのような子に対して、周囲がいくら「あなたには素晴らしい可能性がある」と言っても何の意味もないのです。「可能性」を知るから「やりたいこと」が生まれ、「やりたいこと」があるから「自分の命」に価値が生まれるのです。幼い子どもたちがその「自分の可能性」気づくためには、好奇心が強く、「やりたいこと」がいっぱいある幼児期に、自由と、時間と、仲間と、自然と、お手本となるような素敵なお兄ちゃんや、お姉ちゃんや、大人と出会う必要があるのです。そして、それが「群れ遊び」の場だったのです。また、野菜や生き物を育てることも「自分の可能性」に気づくきっかけになります。種をまいて水をあげ世話をするだけで花が咲いたり実がなったりするのですから。逆に、自分が世話をすることをやめたら枯れてしまったりします。このような体験は子どもが「自分の可能性」に気づく大きなきっかけになるのです。絵を描いたり、何かを創ったり、踊ったり、歌ったりということも「自分の可能性」に気づく大きなきっかけになります。ただし、小さな子どもたちはほとんどみんなこういう活動が大好きですが、その時期に「受け身的な生活」ばかりをしていると、次第にこのような活動への好奇心や興味を失っていきます。
2025.06.26
コメント(0)
現代人は「社会が与える価値」しか分からなくなってしまっています。「自分には価値がない」と考える人がいるのもその表れです。専業主婦や、子どもや、何らかの生産活動に参加できない人に対して「価値がない存在だ」と考える人も多いです。でも、「社会」というものは「人間の脳の中にしか存在していない概念」にすぎません。しかも、他人と共有することで初めて存在として価値を持つ概念です。それは「お金」の価値と同じです。「だから大切なんだ」と言えばその通りですが、でも、無人島に流されたら一気に消えてしまう程度の価値であることも事実です。また、その価値を信じていない人には価値がない価値でもあります。「東大はすごい」と思っている人には「東大卒」はすごい価値ですが、「東大」に価値を感じていない人にとっては、「東大卒」は何の価値も持っていません。現代人はみんなそんな不安定な価値にしがみついて生きているのです。でも、人間は「社会」というものが生まれるずーっと前から、もう一つの異なる「価値」を大切に生きて来ました。子どもたちは今でもその価値の世界を生きています。それは、「社会によって与えられる価値」ではなく、「自分(自分たち)で創り出す価値」です。ピカピカの泥団子は、大人には「価値がないもの」かも知れませんが、それを作った子どもにとっては非常に価値があるものです。それを作れる子も「すごい子」です。自分で見つけた「きれいな小石」も、「大好きなお母さんを描いた絵」も、「お金には換算出来ない特別な価値」を持っています。大人でも、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と判断で生きている人にとっては、「自分の人生」も「自分自身」も「価値のあるもの」です。でも、他人の評価を気にしながら生きている人は「自分の価値」を社会の評価に依存しています。また、他の人が一生懸命に作ったものにも価値を感じません。そのような人は、何らかの社会的価値のある仕事をしていれば「自分にも価値がある」と感じるのでしょうが、無職であったり普通の仕事をしているだけでは「自分には価値がない」と感じて苦しくなります。そして、「自分に価値を感じない人」は、他の人にも価値を感じません。「自分に価値を与えてくれない他者」に価値を感じるわけが無いのです。むしろ、「他者の価値」を積極的に否定します。「他者」を否定することで「自分の価値」を創り出そうとするのです。人をイジメたり、犯罪を犯すことで「自分の価値」を創ろうとする人もいます。自分には無関係な有名人が、自分には無関係な事件を起こしただけで、口汚くののしることで自分の価値を作ろうとする人は多いです。「自分を否定した社会」を否定することで「自分の価値」を創ろうとすることもあります。でも、最初から「社会によって与えられる価値」に依存していない人は、社会を否定する必要がありません。自分の手を使って何かを創り出している人は、「自分が創り出したもの」に価値を感じます。そして、その「価値を創り出した自分」にも価値をかんじます。「山登り」が好きな人は「山」に価値を感じます。そして同時に、「その山に登っている自分」にも価値を感じます。他者を肯定する人は、その他者によって肯定されるのです。木に触れる人は、木によって触れられるのです。赤ちゃんを抱く人は、赤ちゃんによって抱かれるのです。風に触れる人は、風に触れられるのです。アニマルセラピーというものがありますが、動物を抱くことで、動物に抱かれるのです。だから、癒されるのです。だから、自分が大切にされたいのなら、他の人を大切にするのです。自分の価値を創りたいのなら、他の人の価値を認めてあげるのです。このようにして、自分の価値は自分で創ることが出来るのです。それが本当の「自分の価値」です。成績が良いとか、偉いとか、お金持ちだとか、良い子だという「他人の評価によって与えられる価値」は、ビンのラベルの価値であって、中味の価値ではありません。
2025.06.25
コメント(0)
多くの親が、我が子が「頭のよい子」に育つことを願っています。学校もまた子ども達の「頭」を育てようとしています。だからみんな、子ども達の頭にばかり働きかけるような子育てや教育ばかりを行っています。でも実際には、「頭」にばかり働きかける子育てや教育は、「頭の育ち」を阻害してしまうのです。子どもを椅子に縛り付けて勉強ばかりさせても頭はよくなるどころか、かえって悪くなってしまうのです。それは多くの親や先生達がもうすでに体験しているはずのことです。でも大人達は、それを勉強を押しつける「自分たち」のせいではなく、まじめにやらない「子どもたちのせい」にしています。どうして「頭」にばかり働きかけても「頭」が良くならないのかというと、「頭の働き」は、「頭」のために存在しているのではなく、「感覚」や、「心」(意識・感情・魂)や、「からだ」の働きを処理するために存在しているものだからです。そのため、「頭」に働きかけたいのなら、「感覚」や、「心」(意識・感情・魂)や、「からだ」に働きかけるしか方法はないのです。コンピュータのCPUに働きかけたいのなら、キーボードや、WiFiや、カメラやマイクなどの様々なインターフェイスに働きかけるしかないですよね。怒鳴っても、叩いても、CPUは働きませんよね。それと同じです。ただし、子ども達の「感覚」や、「心」(意識・感情・魂)や、「からだ」に働きかけるといっても、ただ刺激を与えればいいって話ではありません。「喜びを持って受け入れることが出来るような刺激」でなければ、子ども達は、自分の「感覚」や、「心」(意識・感情・魂)や、「からだ」を守るために拒否してしまいますから。そして、一度拒否する回路が作られてしまうと、子どもの成長に必要な刺激まで反射的に拒否するようになってしまいます。さらにその刺激は素朴でデリケートである必要があります。まだ刺激を処理する能力が弱いからです。「耳の育ち」を促すためには、「スピーカーからの音」を聞かせる前に「風の音」や、「水の音」や、「鳥の声」や、「人の声」といった「自然の音」と触れ合わせる必要があるのです。それらは人類が何万年も前から聞いてきた音なので安心するのです。「お母さんの優しい声」と出会うことも非常に大切です。そしてその「耳の育ち」が「頭(脳)の育ち」につながって行きます。耳から入った情報を処理しているのは「頭」だからです。ただし、「耳に心地がよい音」でないと拒否されてしまいます。また、「聞こうとしなくても聞こえてくる音」ではなく「聞こうとしないと聞こえてこない音」に意識を向けさせるも大切なことです。感覚を能動的に働かせることで、脳も能動的に働くようになるからです。そのためにはお母さんからの言葉かけも必要になります。「ほら、いい匂いがするよ」と語りかけることで、子どもは能動的に嗅覚を働かせようとします。その時、嗅覚とつながっている脳の働きが活性化します。そして、子どもの「感覚の世界」だけでなく「心の世界」も広がります。「ほら、空が赤くなってきたよ」とか、「ほら、あの雲くじらさんみたいだね」とか、「この葉っぱ面白い形をしているね」などと語りかけることで、子どもは能動的に視覚を働かせようとします。すると、「視覚」とつながっている脳の働きが活性化します。そして、すでに頭の中やからだの中に蓄えられている情報と照らし合わせようとします。またその過程で「心の世界」も広がります。思考能力が育つのはその結果に過ぎません。味覚を育てるときも「人工的に作られた刺激が強い味」ではなく、「素朴で舌に心地がよい味」から体験させてあげる必要があります。そしてここでも「オクラさんおいしいね」とか「インゲン固いね」などという語りかけが必要になります。そして、その語りかけのおかげで子どもは口の中で起きていることに意識を向けることが出来るようになります。このような働きかけは、テレビやスマホやゲーム機には100%出来ません。その結果、テレビや、スマホや、ゲーム機ばかりを相手にして遊んでいる子どもは、脳が活性化しないまま成長することになります。このような状態の子に勉強を押しつけても、暗記だけで切り抜けようとします。でも、いくら立派な知識を山のように暗記しても、それは子どもの成長を支える栄養にはなりません。いっぱい知識を持っていても、それを使いこなせません。むしろ知識に束縛されて自由に感じ、考え、行動することが出来なくなります。
2025.06.24
コメント(8)
便利な機械を使えば、「小さなもの」を大きくすることが出来ます。「遅いもの」を早くすることも、「単純なもの」を複雑にすることも、「近くにしか届かないもの」を遠くまで届けるようにすることも出来ます。AIを使えば、「アイデアだけのもの」に「形」を与えることも出来ます。でも、どんなに便利な機械を使っても「元」(種)がないものを創り出すことは出来ません。「無」から「有」を創造することは出来ないのです。「種」がなければ野菜や果物を育てることは出来ないし、「卵」がなければ生き物は生まれないのです。それが出来るのは神様か、魔法使いか、自然だけです。今、科学はそれに挑戦しようとしていますが、たぶん間違いなくそれは失敗します。小さくは成功するかもしれませんが、その小さな成功が人類の命の状態を狂わせてしまうでしょう。世界平和も実現できず、豊かな自然も維持できないような人間が、何億年という命の知恵を超えることが出来るとは思えないからです。強力な技術であればあるほど危険になります。そして、強力な技術であればあるほど、欲が絡みます。そして、人類は「欲望のコントロール方法」を知りません。だから、こんなにも科学技術が発展したのに、世界平和も実現できず、豊かな自然も維持できないのです。「欲望のコントロール」という点では、人類はまだ原始人と同じレベルなんです。そのことは忘れない方がいいと思います。赤ちゃんは何十万年、何百万年、何億年と受け継がれてきた「命の種」を受け継いで生まれてきます。そして、その「種」の質は一人一人違います。それは「ミカンの種」と「リンゴの種」が違うのと同じです。その質の違いには気質の違いも関係しています。またその「種」は「可能性」でもあります。その「質の違い」を理解することなく、ミカンの種をリンゴのように育てようとしても無理です。リンゴの種をミカンのように育てようとしても無理です。どんなに便利な機械を使っても無理です。またその種には、芽を出す「臨界期」があります。その臨界期を過ぎてしまっていたら便利な機械を使っても芽を出させることは出来ません。また、種の種類によって臨界期も違います。ただ、大人達には、子どもがどんな種類の「種」(可能性)を持って産まれてきたのか分かりません。だから子どもを狭い世界に閉じ込めずに、色々な体験や環境や学びと出会わせてあげる必要があるのですが、実際には、「大人が決めたたった一つの生き方」の中に子どもを閉じ込めています。今の日本の子どもたちには、「幼稚園(保育園)に行き、学校に行き、おとなしく椅子に座って勉強する」という「大人が決めたたった一つの生き方」だけしか与えられていません。そして、そのレールから外れただけで大人達は大騒ぎします。でも、その生き方が合っている子もいるでしょうが、実際には、ほとんどの子が、我慢して「大人が決めた生き方」に合わせているだけのような気がします。その結果、「自分が持って生まれてきた種」が芽を出す機会を失ってしまっている子どもたちがいっぱいいます。エジソンも、アインシュタインも、現代日本に生まれていたら「大人が決めたレールに乗ることが出来ない発達障害児」として扱われていたでしょう。10才頃までの子どもたちは、様々な体験や学びを通して、「自分がどんな種(可能性)を持ってきたのか」ということに気づく時期なんです。その気づきが発芽を促すのです。でも、ほとんどの子どもたちが「自分が持って生まれてきた種に気づく機会」を与えられずに大人になっています。私にはそれがもったいないのです。子どもたちもお母さん達もみんな、素敵な才能や可能性を持って生まれてきているのです。私はその可能性を感じるのです。でもみんな、そのことに気づかずに自分を否定し、自信を失ってしまっています。もったいない、もったいない。
2025.06.23
コメント(0)
(Noteの方にも同じ記事をアップしています。Noteの方は煩わしい広告がないです)現代人は簡単で便利な機械があれば何でも出来ると思い込んでいます。最近はAIという人間の代わりに考えてくれる道具も生まれたので、さらに出来る範囲が広がったと思っています。でも、実際には「自分の手で作れない人」は、「便利な機械」を使っても作れないのです。自分の頭で考えることが出来ない人は、AIを使っても何も分からないのです。便利な機械を使えばさらに大きなもの、さらに複雑なもの、さらに効率的に、さらに早く、さらに固い材料などを使って作ることが出来るようにはなりますが、それは「自分の手でも作ることが出来るもの」の延長上にしかありません。小さなものを大きくすることは出来ても、無から有を生み出すことは出来ないのです。はさみやナイフを使って、紙や、段ボールや、割り箸で「家」が作れない人は、高価な機械や木材を使っても「家」を作ることは出来ないのです。「本棚が作りたい」、「箱が作りたい」と言う子に、「どういう本棚が作りたいの?、どういう箱が作りたいの? 設計図は描ける? この紙で模型は作れる?」と聞いて、ちゃんと設計図が描けて、模型を作れるような子なら、高価な木を与えても、ちゃんと作ることが出来ます。でも、絵も描けない模型も作れないような子に、高価な機械や高価な材料を与えても無駄です。でも、困ったことに、出来ない子に限ってそのことが分かっていないのです。そして「そんなことやって見なけりゃ分からないじゃないか」などと言います。そして「いいから材料を出して」などと言います。「機械があれば何でも出来る」というのは幻想に過ぎないのです。繰り返しますが、自分の手が使えない子は、機械も使えないのです。「手で作るのが面倒だから機械で作る」などと考えるような子は、機械を使っても作れないのです。自分の頭で考えることが出来ない子はAIを使っても何も分からないのです。でも多くの人がそのことを分かっていません。そして、「手が使えない状態の子ども」、「手を使うことを学ぶ時期の子ども」に、「手を使わなくても色々なことが出来るような便利なオモチャや機械」を与えてしまっています。でも、子どもの成長にとって「手やからだの使い方を学ぶ時期」というのは、「手や指やからだでの活動を通して対象と対話し、頭の使い方や感覚の使い方を学ぶ時期」でもあるのです。手やからだを使って色々と活動することで感覚や思考力を育てているのです。人の脳は手やからだを使うことで進化してきたのですから。そんな大切な時期に、「ヒモを巻かなくても回せるコマ」とか、「電池を入れれば走る車」とか、「指先一つで何でも出来てしまうゲーム」とか与えてしまったら思考力や感覚の育ちに問題が生じてしまうのです。そして、ゲームの中の世界のように「便利な機械があれば何でも出来る」と妄想するようになってしまうのです。でも、その妄想にはお金が必要です。そしてお金があっても、妄想は妄想のままです。自分の命とからだが存在している現実の世界では、何も実現することが出来ません。
2025.06.22
コメント(0)

私はサバイバル系のyoutubeを見るのが好きで、最近は「週末縄文人」という動画をよく見ています。普通のサラリーマン二人が、「週末だけ縄文人の生活を体験する」という番組です。場所はそのうちの一人が買った山です。「自分の山」ですから何でも出来るわけです。そこでゼロから火を起こし、ゼロから家を作り、ゼロから食糧を確保し、ゼロから道具を創るということにチャレンジして、その様子をyoutubeにアップしているわけです。サバイバルに挑戦する人がまず最初に取り組むのが「火起こし」です。「火」がないと夜は寒いし、獣を遠ざけることも出来ないし、食べ物を食べることも出来ないし、水も飲むことが出来ませんから。ほとんどの場合、何の処理もせずに「その辺に流れている生き物が住んでいるような川の水」をゴクゴク飲んだら病気になる可能性が高いです。でも、最初にやるその「火起こし」がとにかく大変なんです。「火起こし」にチャレンジしているサバイバル動画は多いですが、ほとんどの人がものすごく苦労しています。みんな「方法」は知っているのです。でも、その方法通りにやってもそう簡単に火が付かないのです。私は子ども達によく「火起こし」を体験させますが、でも、「ファイヤースターター」を使ってしまいます。マグネシウムの棒をこすって火花がバッチって出るあれです。棒を両手で挟んでやる「きりもみ式」なんかは100%ムリです。「弓切り式」や「ひもぎり式」や「舞錐式(まいぎりしき)」といった道具を使う方法もありますが、子ども達は力が弱いので、これらの道具を使ってもせいぜいちょっと煙やにおいが出る程度で火が付くところまでは出来ません。(こういう道具を作る子はいますが、でも火は付きません。)それに対して、ファイヤースターターは慣れれば子どもでもマッチのように簡単に火が付きます。でも、初めて体験する子ども達は結構苦労します。何回も何回も失敗しないとコツをつかむことが出来ないからです。コツをつかんで火花が出るようになるとそれだけで喜びます。さらに火が付くと歓声が上がります。大人でも大喜びします。以前、「土器を作ろう」ということで粘土で色々と作って、直径数メートルはある大きなたき火で野焼きをしたことがあります。でも、半数以上は割れました。たき火の中から「ボン ボン」という破裂音が聞こえてくるのは悲しい限りでした。朝早くから、薄暗くなるまで一日かけて焼きました。火が落ちた夕方頃から雨が降ってきましたが、子ども達は雨具を着て、もうもうと水蒸気が上がる中、焼け落ちた灰の中から自分が作った作品を探しました。割れてしまったかけらも大切そうに集めていました。森の中でその辺にあるもので家づくりをしたこともあります。それは親子での活動だったのでお父さん達が活躍してくれたのですが、それもまた大変でした。ノコギリも麻ヒモもあるのでなんとかなりましたが、昔の人はそういうものを使わずに家を建てたのですからね。週末縄文人の人は、鋭利に割れた石を使って木を切っていました。それだけでものすごく苦労していました。私たちは「自分は何でも出来る」と思い込んでいますが、実際には、自分一人では何にも出来ないのです。便利な機械や道具があるから何でも出来るように勘違いしているだけなんです。テレビなどで原始的な生活をしている人たちを見て馬鹿にする子もいますが、実際にはその原始的な生活をしている人の方が、便利な機械や道具に依存して生活している現代人よりもいっぱい知っているし、色々なことがいっぱい出来るのです。私たちは「裸の王様」と同じ状態なんです。本当は何も知らないし、何も出来ないのに、何でも知っているし、何でも出来ると思い込んでいるのです。そして困ったことに、自然の中で自分の感覚と、頭と、からだを使って遊ばなくなってしまった現代の子ども達は、その状態がさらに加速しています。うちは自由に色々なものを作ってもいい造形教室ですが、それでもノコギリも使えないし、電気のことも知らないし、ペンチも使えないし、設計図も書けない子が「ラジコン飛行機を作りたい」などと言ってくるのです。飾るものではなく、本当に空を飛ぶやつです。「ゲーム機が作りたい」と言ってきた子もいました。「じゃあ、段ボールを使って作ろうか」と言ったら「本物が作りたい」と言うのです。私はそういう子には、「そういうものが作りたかったら、大きくなってそういうものを作る会社に入ったら」と言うのですが、話を聞くと「欲しい」だけであって「作りたい」わけではないみたいなのです。チョコチョコって簡単に作れると思っているのです。それで「君にはムリだから違うのにした方がいいよ」と言ったら「先生がちゃんと教えてくれたら僕だって作れる」と言い切った子もいました。そういう子は社会に出たとたんに、「自分は何も出来ないんだ」という現実と出会うのでしょうね。
2025.06.21
コメント(0)
私は、造形活動や、劇遊びなどの表現活動や、自然の中で子ども達と遊ぶ活動などを通して40年近く子どもやお母さん達と関わってきましたが、その間に子ども達も、お母さん達も大きく変わりました。具体的に言うと、「絵が描けない」、「自由工作が出来ない」、「異年齢や大勢で群れて遊ぶことが出来ない」(大騒ぎは出来ても有機的につながり合って遊ぶことが出来ない)という状態の子ども達がすごく増えてきたのです。増えてきた、と言うより、いまではそういう子ども達の方が普通になってしまいました。そういう子は「自由にやっていいよ」と言っているのに指示を求めてきます。もしくは大人に絡んできて大人と遊ぼうとします。お母さん達は、優しいんだけど繊細で、自分に自信がなく、子どもに振り回されている人が多くなりました。自分に自信がないのでどうしたらいいのか分かりません。だから、子どもを導くことが出来ずに、逆に子どもの要求に合わせることで子どもの成長を支えようとしています。でも、子ども達は、自分が生まれてきた世界のことを何も知りません。だから不安でいっぱいです。だからお母さんがしっかりと道を示す必要があるのに、そのガイド役であるはずのお母さんが逆に子どもに従ってしまっているのです。これでは親子共々迷子になってしまって当然ですよね。逆に、一方的に大人の価値観を押しつけ、子どもを支配することで子どもを育てようとしている人もいます。そういう人は「これはあんたのためなんだから」と言います。ガイドであるはずのお母さんが、支配者になってしまっているのです。いずれの人にも共通しているのが「子どもと対話することが出来ない」(会話と対話は違いますからね)、「自分自身の生き方がしっかりとしていない」「論理的に考えることが出来ない」「自分のからだと対話する能力が低い」「他者とつながれない」「自分がやっていることの意味を考えようとしない」ということです。また能動的に感じ、考え、行動することが苦手なので、「待つこと」や「見守ること」が苦手です。「見ているだけ」は出来るのですが、「見守ること」が出来ないのです。「退屈」も苦手です。だからスマホを手放せません。自然の中のような何もない状況の中で、指示も何も与えられずに「自由にやっていいよ」と言われるのが一番苦手です。幼い子どもたちはそういう状況でも遊びを探し出したり、創り出したりするのですが、お母さんの方がそういう状況に耐えられないため、子どもをそのような場に連れ出したりはしません。また、自然が豊かなところに行ったとしても、お母さん同士でおしゃべりをするだけです。そして、子どもが遊んでいる姿を見守ったり、子どもと一緒に遊ぼうとはしません。そのため、子どももやがてそういう場で遊びたがらなくなります。そしてこれは子どもも同じ状態です。対象や自分と対話する能力が低いから絵が描けないのです。論理的に考えることが出来ないからマニュアルがないと工作が出来ないのです。自分の価値観(やりたいこと)がはっきりとしていないから何をしたらいいのか分からないのです。また、簡単に周囲に流されてしまうのです。そのような子は「退屈」に耐えられません。だからすぐに刺激を求めます。幼い頃から日常的に強い刺激にさらされ、簡単で便利な機械やオモチャに遊んでもらっている子は、能動的に感じ、考え、行動する能力が育ちません。そのような能力がなくても楽しく遊べるからです。でもだから、強い刺激や遊んでくれるオモチャがない状態ではすぐに退屈してしまうのです。でも、能動的に感じ、考え、行動することが出来る子に「退屈」は存在しないのです。オモチャがなくても遊べます。お母さん達はオモチャを選ぶとき「遊び方が分かるおもちゃ」を選びます。子どもも「遊び方」が分かるオモチャなら、すぐに遊び始めます。そして子どもが一人で遊べていると「これは良いオモチャだ」と判断します。でもそこに落とし穴があるのです。幼い子どもたちが育てなければいけないのは「オモチャで上手に遊ぶ能力」ではなく、木の枝や、石や、木の実や、葉っぱや、泥んこや、水や、布といった「オモチャではないもの」をオモチャとして遊びこなせる能力なんです。その能力があるから退屈しないのです。家全体を遊園地に変えて遊んでしまう子もいます。(問題は後片付けしないことです)というか「退屈」があるからそのような能力が育つのです。どうか子どもたちに「退屈」を与えて下さい。問題は、最近のお母さん達は、子どもよりも先に「退屈」に耐えられなくなってしまう可能性が高いということです。
2025.06.20
コメント(0)
簡単で便利な機械や道具は、私たちに「自由な時間」を与えてはくれますが、その一方で「自分の時間」は奪われてしまいます。M.エンデが書いた「モモ」という小説に出てくる「時間泥棒」は実在するのです。子ども達は「ゲーム機」という簡単で便利な機械で遊ぶことで、「仮想空間の中で遊ぶ自由」を得ることが出来ますが、「自分の成長に必要な時間」は失います。「生きているという実感を感じる時間」も、「自分の命やからだが存在している現実世界と関わり、現実世界での生き方や、現実世界の面白さを学ぶ時間」も失います。その結果、ゲームの世界の中から出てこれなくなってしまう子もいます。そういう子と話をしていても話が通じません。「現実世界」を共有出来ないからです。そのような子は、現実世界もゲームの中の世界と同じように扱えると思い込んでいるみたいです。でも、思い通りやろうとして「現実の壁」に突き当たるとすぐに挫折します。「現実の世界」のことを知らないので試行錯誤も出来ません。子どもと買い物などに行くときに、歩いて行けば時間がかかりますが、子どもとお話ししたり、色々なものを発見したり、「子どもとの信頼関係を築く時間」を得ることが出来ます。そしてその時間は子どもにとっても「自分の成長につながる大切な時間」になります。そしてその時間は「命が生きている時間」でもあります。だから、子どもの心とからだの中に残っていきます。「想い出」としても残ります。自転車や車を使えば簡単で便利で、時間の有効活用が出来ますが、その「命が生きている時間」を失うことになります。そのため「想い出」として残りません。「子どもの成長を支える時間」も失います。またそれは同時に「空間」を失うことでもあります。家からお店までの空間が消えてしまうのです。「便利な機械」という「どこでもドア」を使えば、簡単に色々なところに行くことは出来るのですが、本来その過程にあった「時間」と「空間」を失うことになってしまうのです。それはつまり、「命の価値や生きていることの意味」を失うということでもあります。またそれは、子どもの「論理的な思考能力」の育ちを阻害することになります。この現実世界を支配している論理は、「思い通りにならない時間」と「思い通りにならない空間」の中にしか存在していないからです。先人達はその「思い通りにならない時間」と「思い通りにならない空間」を克服するために色々と考えたのです。様々な科学技術もその結果生まれたものです。そして、子どもたちはその過程を追体験する必要があるのです。なぜなら、その過程を体験しないと、科学が宗教になり、科学に支配されてしまうからです。「不便な時間と空間の体験」があるから、便利な機械や道具の意味が分かるようになるのです便利な機械を使えば、沢山の「あそこに行った」、「これをやった」という記録を残すことは出来ます。でもその「記録」に中身はありません。やったことを記録する大量のインデックスは出来るのですが、インデックスだけで肝心の中身がないのです。それはまるで「目次だけの本」のようなものです。皆さんは「目次はいっぱいあるけど中身がなく、目次だけの本」のような人生を送りたいのですか。それとも、「目次は少ないけど中身がいっぱい詰まった本」のような人生を送りたいのですか。お子さんにはどちらの人生を望みますか?
2025.06.19
コメント(0)
現代人が簡単で便利な機械の普及で失ったのは「時間の体験」です。それは「動きと物語の体験」を失うことでもあり、「記憶」を失うことでもあります。そしてまただから、簡単で便利になったのに、「充実感」は失われ、記憶も残らないのです。それまで一時間かけてやっていたことを、ボタンをピット押すだけで出来るようになったら59分以上得したことになりますよね。でも本当は59分以上損してるのです。何を損しているのかというと、「感覚と思考とからだの体験」と「記憶」です。だから何も学べないし、充実感も感じないし、記憶にも残らないのです。結果だけがすべての大人にとってはそれでもいいのでしょうけど、「感じ、考え、行動する能力」と「想い出」を育てている最中の幼い子ども達にとっては、これは致命的なんです。それらの能力が育つために必要な材料が消えてしまうのですから。「感じる能力」が育つためには「感じる体験」が必要です。「考える能力」が育つためには「考える体験」が必要です。「行動する能力」が育つためには「行動する体験」が必要です。「想い出」が育つためには「物語の体験」が必要です。「物語の体験」とは「過程の体験」のことです。それが「想い出」として残っていくのです。「ザリガニを何匹捕まえた」という結果ではなく、「どのようにしてザリガニを捕まえたのか」という過程が記憶として残っていくのです。ですから、「自分で森の中に入ってカブトムシを捕まえた記憶」は残りますが、「カブトムシを買ってもらった記憶」は残りません。それが「世話をした記憶」とつながれば、「買ってもらった記憶」も残りますけどね。また、それらの体験は「子ども自身の意思に基づく能動的な体験」である必要があります。「大人に押しつけられた体験」は子どもの内側に入って行かないからです。だから子ども達には、便利や機械や道具に依存しない「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分のからだを使って色々なことにチャレンジする遊び」が必要なんです。そのような遊びが「子どもの能力」を育てるとともに、「子ども時代」を充実させてくれるのです。でも今、子育ての講座などで、お母さん達に「子どもの頃の想い出」を聞いても、あんまり覚えていない人が多いのです。悲しいことに、「子ども時代」が消えてしまっている人が多いのです。だから、子どもの気持ちが分からないし、子どもと視点を共有できないし、子どもに共感できないのです。そういう状態のお母さんにとって「子育て」は「義務」であり「苦しい労働」に過ぎません。そのようなお母さんに育てられている子どももまた苦しいでしょう。でも、便利な機械がそれほど普及していなかった時代に育った人や、子どもの頃それほど便利な機械に依存しない生活や遊びをしていた人に「子どもの頃の想い出」を聞くと次から次へと「想い出」が出てくるのです。便利な機械に依存しない生活や遊びをしていた人の方が、「子ども時代」が充実していたようなのです。現代人は「結果」ばかり大切にして「過程」を無視しますが、人の記憶は「過程」によって創られるのです。「充実感」をもたらしてくれるのも「結果」ではなく「過程」です。なぜなら「過程」はそのまま「物語」でもあるからです。山登りでも、頂上に立ったから充実感を感じるのではなく、長い時間をかけて自分の足で登ったから充実感を感じるのです。山登りが好きな人は「頂上に至るまでの物語」が好きなんです。感じる能力、考える能力、行動する能力が育つのも、ちゃんと過程を体験するからです。「人生」の中身は「どう生きたのか」という過程です。「何歳まで生きたのか」という長さではありません。そして「充実した人生」を送って来た人は死を恐れないのではないかと思います。「生まれてきた目的」を達成したのですから。それに対して、「空っぽの人生」を送ってきた人ほど死を恐れるのではないかと思います。ちなみに自殺をする人は「死」にあこがれがあるわけではなく、「生きていること」に意味を見いだせないからなのではないかと思います。「自分の人生は空っぽだ」ということに気づいてしまったのでしょう。そのような人に「命の大切さ」を説いても無意味です。「空っぽの人生を維持するための命」に価値を感じることは困難だからです。そしてこれは勉強でも同じです。大切なのは「1+1=2」という式を覚えることではなく、「1と1と足すと2になる過程」を体験することなんです。その過程の体験があるから「1+1=2」を理解することが出来るのです。理解することが出来るから「1+1が2なら、2+1は3だよね」と自分の頭で考えて導き出すことが出来るのです。また、色々と応用することも出来るのです。それに対して、結果を覚えただけの子は自分の頭で考えることが出来ないので応用できないのです。大きい子などが木登りしていると、小さな子も登りたがります。そんな時、大人がヒョイと持ち上げてあげれば子どもは喜ぶでしょう。でも、自分で登りたいとは思わなくなるでしょう。便利な機械がやっていることはそういうことです。初めて「☆」の形を見た子に、この形を描かせようとしても難しいと思います。でも、鉛筆や筆を持たせ、一筆書きで「☆」を描かせれば「☆が出来る過程」を体験することが出来ます。すると、自分で「☆」を再現できるようになるのです。目で見て写すのは難しくても、自分の身体感覚の記憶を使って再現することは出来るのです。そのためには「その結果に至るまでの過程」を体験させる必要があるのです。「色々な学者達が発見した結果」だけを学ばせる方が効率的かも知れませんが、「色々な学者がその結果に至るまでにたどった過程」を再体験させる方が、子どもの能力は育つのです。幼稚園や小学校は、みんなが学者や芸術家になって、「発見する喜び」、「創造し、表現する喜び」を体験する場であるべきなんです。でも実際には、「出来上がったもの」を覚えるだけの場になってしまっています。そこに喜びはありません。
2025.06.18
コメント(0)
文字が覚えられない子、考えることが苦手な子、勉強が嫌いな子はいっぱいいます。一般的に、そういう子は「頭の悪い子」として扱われます。でも私は「本当に頭が悪い子」はいないのではないかと思っています。確かに「得手、不得手」「得意、不得意」はあります。音楽や絵などの芸術的な分野やスポーツなどではそれがはっきりとしています。そのような子ども達は「イメージ能力」に優れています。音楽の才能がある子は「音」を自在にイメージすることが出来ます。絵の才能がある子は「色や形」を自在にイメージすることが出来ます。スポーツの才能がある子は「動き」を自在にイメージすることが出来るのでしょう。確かに生まれつきそのような能力に優れている子もいます。そしてこれには気質も関係しています。でも、生まれつきそのような能力に優れていなくても、「学び方」を工夫してあげれば、その子の能力に応じた才能は育てることが出来るのではないかと思うのです。そして実際、子ども達は「遊び」という形で、本能的に「自分に合った学び方」を模索しています。「遊び」が楽しいのは、遊びの場では、子ども達が「自分に合った学び方」をしているからでもあるのです。だから子どもは「遊び」を通して成長することが出来るのです。(ただし、ゲームなどのような受け身的な遊びは別です)でも大人達は、その「子どものやり方」を否定して、「大人のやり方」を押しつけようとします。「遊びなんてくだらないことをやめて勉強しなさい」と追い立てています。でも子どもは、大人の「お仕事のような勉強のやり方」では学ぶことが出来ないのです。「身体感覚やイメージの働きとつながっていない学び」は出来ないのです。だから、頭だけを使うような勉強を押しつけられた子は勉強が嫌いになるのです。「身体感覚やイメージの働きとつながっていない学び」は、いくら勉強しても頭に入りません。「からだの中に入ってこないような学び」は「頭の中」にも入ってこないのです。結果「頭の悪い子」として扱われることになります。でもそれは、その子本来の能力ではないのです。本来、子ども達はみんな「学ぶこと」が大好きなんです。「遊び」は、その「学びたいという欲求」の表れです。でも、実際には、多くの子どもたちが、大人に管理された狭い環境の中に閉じ込められ、自由を奪われ、簡単で便利な機械を与えられ、一緒に遊ぶ仲間もいない状況で暮らし、勉強を押しつけられています。毎日そんな状況の中にいたら、「学ぶ楽しさ」を知ることもなく、そのまま成長することになりますよね。それで結局「頭の悪い子」という状態になってしまうのです。
2025.06.17
コメント(0)
簡単で便利な機械は、現代人の生活の多くを小手先で処理できるようにしてくれました。確かに、からだ全体を使ってやるよりも、機械を使って指先だけでやる方が遙かに楽だし、効率的です。しかも疲れません。今、学者達が考えているのは頭の中にチップを入れて、考えただけで機械を動かせるようにすることです。究極の省エネですよね。でも、このような便利な機械は、子ども達の頭と心とからだの成長には非常に有害なんです。からだの使い方とは関係がないと思われている「文字を書いたり」、「計算したり」、「論理的に考えたり」ということにも悪い影響が出ます。「文字を書いたり」、「計算したり」、「論理的に考えたり」するためにはイメージする能力が必要になります。何らかの意図的な行為を行うためには、まず心の中で全体像をイメージする必要があるのです。(コンピュータにはその能力は必要ありません。というか出来ません。)そのイメージに合わせて思考したり、感覚を働かせたり、指先やからだを動かしたりするのです。そうでないと頭と心とからだが統合されないからです。文字が書けない子は文字の形をイメージすることが出来ないのです。何回も何回も繰り返し書かせれば、からだが慣れて多少は書けるようになるかもしれませんが、「苦手」という状態が改善されるわけではありません。応用も利きません。また、「計算したり、論理的に考えたりする能力」の育ちにもつながりません。ただし最初はイメージが必要ですが、その繰り返しで頭とからだの中に回路が出来てしまうと、イメージしなくても自動的に処理できるようになります。すると「文字の形」が固定します。「田中さんの文字」「佐藤さんの文字」という風に、形の個性化が起きるわけです。ナイフやノコギリを使うときにも、けん玉やコマで遊ぶときもイメージ能力は必要です。そのため、イメージ能力が低い子は、なかなかナイフやノコギリが使えるようになりません。けん玉やコマで遊ぶことを楽しめません。そして、最近の子ども達はその「イメージ能力」が非常に低いのです。それは工作の場だけでなく、コミュニケーションや人間関係の場でも、からだを使った遊びの場でも表れています。それが思考力の低下や不器用さにもつながっています。学習に障害がある子もイメージ能力が低いと思います。そのような子は、昔の子だったら「やらなくても分かるようなこと」が分からないのです。じゃあ、やってみて結果が出たら分かるのかというと、結果が出ても、どうしてそういう結果になったのかということが理解できません。因果関係を理解するためにもイメージ能力が必要だからです。そのため、何回失敗しても失敗を繰り返します。闇バイトに手を出して捕まっても、「闇バイトに手を出したことがいけなかったんだ」とは考えずに、「やり方が悪かったから捕まったんだ」と捕まることになった直接の原因しか分からないのです。実は、そのイメージ能力が育つためにはからだ全体を使った活動が必要になるのです。からだ全体を使って行った活動が身体感覚の中に組み込まれ、その身体感覚がイメージを創り出しているからです。実は、人間においては「頭の働き」を支えているのは「からだの働き」なんです。例えば「○」を描くような場合、からだが慣れていれば指先だけで描くことが出来ます。でも、「○」を初めて描くような子にとっては指先だけで描くのは非常に困難なんです。その時「○」をイメージできる子はそのイメージを指先に伝えて「○」を描くことが出来ます。でも、イメージできない子は何をどうしたらいいのか分からないのです。そんな時は、指先を鉛筆に見立てて、空中に、からだ全体を使って大きな○を描いたり、お習字などで大きな紙に大きな○を描いたり、みんなで手をつないで輪になってぐるぐる回ったり、腕をグルグル振り回したりして「形としての○」ではなく「動きとしての○」をからだで体験する必要があるのです。イメージ能力の育ちには、からだ全体を使った「動きの体験」が必要になるのです。幼い子どもは「△」の形を描くのが苦手です。でも、「いち に さん、 いち に さん」と繰り返しながら△の上を動くような活動をすると、「△」が「静的な形」ではなく「動的な動き」に変換されるのです。すると身体感覚の中に「△」が取り込まれ、その身体感覚があるから「△」をイメージしたり、描けるようになるのです。字が書けないからといって、いっぱい練習させるのは苦しいだけで無駄です。計算が出来ない場合も同じです。イメージ能力が育っていない子に、いくら「ちゃんと考えろ」と言っても無駄なんです。子どもを苦しめるだけです。指を使ってでも、からだを使ってでも、ものを使ってでも、絵を描いてでも、計算ということをからだでの活動を通して、身体感覚とつなげてあげる必要があるのです。すると「計算するということがどういうことなのか」ということをイメージできるようになるのです。頭の中だけで考えることが出来るようになるのはその後です。子どものからだを椅子に固定して、頭の中だけで処理させようとするのは無駄だし、有害でしかありません。
2025.06.16
コメント(0)
本来、子育てや教育に、難しい理屈や知識は必要がないのです。なぜなら、幼い子ども達は自分の周囲にいる大人達を見て、周囲の大人達と関わり、周囲の大人達を模倣しながら育つものだからです。実際、子育てをする動物たちはみんなそのやり方で子育てをしています。また、偉人、聖人、天才と呼ばれるようなすごい人たちの親のほとんどは、「教育に詳しい偉い学者」ではなく「普通の大人」です。シュタイナー教育を始めたR.シュタイナーの父親は、鉄道電信オペレーターとして働いていた普通の大人です。モンテッソーリ教育を始めたM.モンテッソーリ教育の親も普通の親だったようです。マリアが生まれたモンテッソーリ家は典型的な中産階級に属していました。経済的には比較的豊かであったものの、女性の教育にはあまり熱心でなかった父を持つ当時の典型的なイタリアの家庭でした。(google検索)だから子どもの成長にトラブルが生じているのなら、子どもの周囲にいる大人の生き方や生活に何か問題があるのです。子育てや教育で一番大事なのは、「親や子どもと関わる大人がどう生きているのか」ということなんです。「子どもに対してどういうしつけや教育をするのか」ということではないのです。子育てや教育で大事なことがあるとすると、「子どもを否定しないこと」と「色々な世界と出会わせ、色々な体験をさせて、好奇心を刺激してあげること」ぐらいだと思います。意外なことに、あの大天才A.アインシュタインは幼い頃、「5歳になっても満足に言葉も話せない発達が後れた子」だったそうです。そんなA.アインシュタインがどのようにして知の世界に目覚めたのかというとそこに親の関わりがあったようです。でも、特別なことをしたわけではありません。アインシュタインの父と母の功績アインシュタインが5歳の時、両親から受け取った2つの贈り物があります。一つは羅針盤(コンパス)で、もう一つがヴァイオリンです。 羅針盤は、彼が5歳のころ病気にかかり一日中ベッドにいた際、父からもらっています。アインシュタインは、彼が唯一書いた自伝である「自伝ノート」に、その時のことを以下のように書いています。(https://ori-ori.jp/2007026)この思考世界の展開はある意味では”驚き“からのつづけさまの飛翔である。4歳か5歳のときに父から羅針盤を見せてもらった際、私はそのような性質の驚きを経験したhttp://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/Staff/KLS_PaperJ/KLS2017JNc.pdfアインシュタインの人生において、初めて彼の好奇心に火をつけたのは羅針盤でした。その後まもなく、アインシュタインは、有名なピアニストであった母からヴァイオリンを贈られました。この二つの「贈り物」と「渡したタイミング」がアインシュタインの父と母の一つの大きな功績と言えるでしょう。(https://ori-ori.jp/2007026)最近「子どもを愛せない」というお母さんやお父さんが増えてきていますが、愛せなくても否定しないようにすることは出来るはずです。また、「色々な世界と出会わせ、色々な体験をさせて、好奇心を刺激してあげること」も出来るはずです。もっともこういうことも「大人の生き方」に含まれていますけどね。愛するとか愛さないというのは感情の問題だからどうしようも出来ませんが、「親として我が子の成長に責任を持つ」というのは「大人としての生き方」の問題ですよね。また、子どもに色々な世界と出会わせ、色々な体験をさせて、好奇心を刺激してあげるためには、親自身が色々な体験を喜び、自分の人生を前向きに、好奇心を持って生きている必要がありますよね。
2025.06.15
コメント(0)
毎月、茅ヶ崎で「からだの会」というものをやっています。(月一、月曜日)体操でも、ヨガでも、武術でもありません。ただ「からだの面白さ」や、「からだの使い方」を色々と試したり、楽しんだりしているだけです。(会員募集中)そこで今やっているのが「大きく動く」ということです。現代人は出来るだけ小さく動こうとします。その方が省エネだし、合理的だし、楽だからなのでしょう。昔の子どもの遊びは「からだ全体」を使っていましたが、最近の子どもの遊びは「手だけ」「指だけ」「目だけ」です。大人もまた、「手だけ」「指だけ」「目だけ」を使って仕事や家事をすることが多くなりました。スマホなんかも指先だけで操作します。でも、人のからだは、現代人の生活ではあまり使われていない足や、胴体や、皮膚感覚や、内臓やからだの内側の働きがお互いにつながり合い、助け合うことで、「わたし」という存在を支えています。からだのどの部分も切り離せないのです。普段使われていない小さな一部でも、それを切り離したら全体が狂うのです。そのため、必要がないと思われている、足や、胴体や、皮膚感覚や、内臓やからだの内側の働きなどでも、普段から大切に使っていないとからだ全体の調子が狂ってしまうのです。元気も無くなります。心が傷つきやすくなり、意識や感覚の状態も狂います。そして、正常な判断が出来なくなり、自分の心やからだに害のあるようなことでも平気でやってしまうようになります。皆さんもご存じの通り、最近自傷行為や自殺をする若者が増えてきたそうです。そしてそれらは「心の問題」として扱われています。でも実は、これは「心の問題」ではなく「からだの問題」なんです。だから「生活が困難で必死になってからだを使って生活しなければならない国の子どもたち」よりも、日本のように簡単で便利な機械に満たされ、「からだを使わないでも楽に生活できる国で育っている子どもたち」の方が「心の状態」も「からだの状態」も不安定で病みやすくなってしまっているのです。悩みが多いから自殺するのではなく、心とからだが悩みに耐えられなくなるから自殺するのです。私が子どもの頃は、周囲の大人は100%戦争経験者でした。そして、戦争に行った人も、行かなかった人も、筆舌に尽くしがたい苦しみを体験してきました。親や兄弟や仲間が死んだ人もいっぱいいました。でもみんな必死になって生き延びようとしていました。人は、苦しいことがあったから死ぬのではないのです。心の力が萎え、その苦しみを支えきれなくなった時に死を選ぶのです。そしてその「心の力」を支えているのが「希望」と「からだの働き」なんです。「生きているという実感」は「からだを使った体験」を通してしか得ることが出来ません。ゲームなどの仮想空間の中でいくら走り回っても、戦っても、勝っても、「生きているという実感」は得られないのです。「命」を支えているのは「頭」ではなく「からだ」の方なんですから。だからこそ、思春期前の子ども達には「頭育て」よりも「からだ育て」の方が必要なんです。というか「からだの成長」が「頭の成長」の基礎になっていくのです。「からだの体験」が思考能力の基礎になっていくのです。(その辺はシュタイナー教育でもモンテッソーリ教育でも共通しています。)そして、他者と共有できる感覚や思考は、「他者と感覚や体験を共有できる世界」の中でしか学ぶことが出来ません。その「他者と感覚や体験を共有できる世界」とは、「リアルなからだが存在している世界」のことです。それが昔の子ども達の「からだを使った遊び」のもう一つの意味でもあったのです。そんな、現代人が忘れてしまっている「リアルなからだが存在している世界」と出会う簡単な方法の一つが、「からだを大きく使ってみる」という方法です。歌舞伎のように大げさに動き、声を出すのです。実際、子どもはこうやって遊んでいますよね。無駄に大きく動き、無駄に大きな声を出し、無駄に動き回っていますよね。だから鬱陶しいし、うるさいのですけど・・・。先日「からだの会」でやったのは、「棒」の代わりに長さ1.8mの「布」を使ったチャンバラです。固い「棒」は小手先でも動かせますが、「柔らかい布」はからだ全体を使わないと振り回せませんから。それに当たっても痛くないので思いっきり振り回せます。これは心の元気にも必要なことで、大きく考えて見ることで、目先のことに囚われなくなるのです。
2025.06.14
コメント(0)
(去年アップしたものに多少手を入れて再アップしています)思春期を過ぎて、価値観や判断の基準が「自分」ではなく「社会」になっていくとき、自分の中にしっかりとした羅針盤が育っていない子は、大人になってから迷子になってしまいます。自己肯定感が低い人もそのような人です。そもそも「自分で自分を否定する」なんておかしなことなんです。否定しているのは誰なんですか?否定されているのは誰なんですか?そのような状態の人は「私」が統一されていないのです。自分自身の価値観や視点がしっかりと育っていないので、他者の価値観や視点を基準にして自分の状態を評価してしまっているのです。そのため、「二人の自分」に振り回されてしまい、「私は私」という生き方が出来なくなってしまっているのです。だから身動きがとれなくなってしまうのだし、自己肯定感も低くなってしまうのです。でも、子どもの頃に「人間を超えた普遍的な世界」と出会っている人はそのような状態にならないような気がするのです。普遍的な世界と出会った人は、他者の価値観や視点に振り回されなくなるからです。宗教にもそのような働きがあります。でも今、宗教を信じる人はどんどん減ってきています。それに宗教もまた変化します。信じている人にとっては普遍的であっても信じていない人にとっては「他者の価値観や視点」の一つに過ぎません。それに対して、「物理学の法則」や、「形の世界」や「数の世界」は人間を超えた世界とつながっている普遍的な世界です。「自然」や「宇宙」はその原則に従って存在し働いています。「物理法則」や「形の世界」や「数の世界」だけではありません。「色の世界」や「音の世界」や「動きの世界」もまた宇宙の根源とつながった普遍的なものです。そのため「色の世界」で遊ぶことが出来る人。「音の世界」で遊ぶことが出来る人。「動きの世界」で遊ぶことが出来る人は、それほど「自分の生き方」で迷うことはないのではないかと思っています。シュタイナー教育では「濡らし絵」のような「色の世界と出会う活動」を取り入れています。その「濡らし絵」を普通のお絵描きと同じようなものと考えている人がいますが、その両者は全く異なったものです。「お絵かき」は自己表現ですが、濡らし絵は「色と対話するためのもの」なので、自己表現ではありません。だから自由に描くのではなく、対話の作法にのっとって描く必要があるのです。(そのため、対話が苦手な子は「自己表現としてのお絵かき」は好きでも、「濡らし絵」のような活動は苦手なのではないかと思います。)音や動きに対しても同じだと思います。シュタイナー教育ではまず「聴く」というところから入っているのです。「色を聴く」「音を聴く」「動きを聴く」といったような感じです。そして自分の本源的な所(魂?)と対話して、そこで感じたことを形として現わしていくいくのです。(と私は理解しています。違っていたら誰か指摘してください。)ただし、シュタイナー教育を受けなくても、お習字や茶道や武道などでも同じような学びをすることが出来ます。(指導者の考え方にもよりますけど・・・)別に、シュタイナー教育だけが唯一の方法ではないのです。同じような効果を得る方法は世界中にあるのです。まただから、シュタイナー教育を受けていなくても素晴らしい人間は世界中にいるのです。そもそも、R.シュタイナー自身がシュタイナー教育を受けていないのですから。そして、思春期の子どもたちは特に「普遍的な世界」との出会いを必要としているのです。でも、多くの現代人は「普遍的な世界」には興味がないようです。だから、思春期が来たら急に迷子になってしまう子が多いのではないでしょうか。
2025.06.13
コメント(0)
この世界は「変化するもの」と「変化しないもの」で出来ています。基本的に「目に見えるもの」は簡単に変化しますが、その「目に見えるもの」を支えている世界は変化しないか、変化しにくいです。物理法則や数学的な世界は永遠に変化しません。また、宇宙のどこに行っても同じです。ロケットを飛ばせるような宇宙人なら、宇宙中の宇宙人が人間と同じ物理学と数学を学んでいるのです。それってすごくないですか。「また「変化するもの」であってもその変化にかかる時間は様々です。川の流れや海の波は常に変化していますが、波の下に入ると動きは見えなくなります。そして、深くなればなるほど動きはゆっくりになります。黒潮は速い場所では毎秒2m以上、時速で7.2km(小走り程度)に達します。深層海流は表層海流に比べて非常にゆっくりと流れ、時速約3.6mです。グーグル検索という状態のようです。多くの場合、表面の変化は早いですが、深いところに入れば入るほどその変化は鈍くなるのです。子どもの動きは速いですが、その成長はゆっくりです。人類の進化はもっとゆっくりです。だから「子どもの成長」も「人類の進化」もその過程をリアルタイムで確認することは出来ません。動き続けているのですが、目で確認することは出来ないのです。ちょっと風が吹いただけで、木々の枝葉は簡単に揺れますが幹はそう簡単に揺れません。大地はもっと揺れません。でも、何億年という時間の中では大地もまた大きく動いています。地球もやがて崩壊します。でも人間は「目に見える変化」や「五感で感じることが出来る変化」を認識するのは得意ですが、「ゆっくりと変化するもの」や、物事の内側で起きている「目には見えない変化」を認識するのは得意ではありません。そもそもそういうものの存在にすら気づいていない人も多いです。カエルをお湯の中に入れると熱さにびっくりして逃げまずが、水の状態からゆっくりと加熱していくと、その変化を感じることが出来ないため、ゆであがってしまうそうです。(やったことはありませんが・・・)でも、基本的には人間も同じです。古代人を現代社会に連れてきたら違和感を感じて逃げ出すでしょうが、生まれたときからその変化の中にいる現代人は、社会の状態がどんなに歪んでいても、成長の過程や日々の生活を通してその「歪み」を受け入れてしまっているため「歪み」を感じることが出来ません。でも、人間の「心とからだの基本構造」は何十万年も前からそれほど変わっていないので、その「社会の変化に伴う歪み」は「心とからだの不調」として表れます。心が忙しい人や、自分のことしか考えていないような人は「目に見える世界」しか見ようとしないし、「五感で感じとれる世界」しか感じようとしません。だからいつも対症療法だけで問題を解決しようとして、問題をこじらせてしまうのです。ただしこれは気質も関係していて、憂鬱質の子(人)は「目に見えないもの」や「変化しないもの」を感じ取る能力が高いです。お母さん達は「子どもがやっていること」には気がつきますが、その内側で働いている「子どもの感情」や、ゆっくりと進んでいる「子どもの成長」には気づきません。だからいつも「子どもがやっていること」や「目先のこと」に振り回されてしまうのです。社会は常に変化しています。コロナの時はあっという間に社会全体が変わりました。そして、ほとんどの人がその社会の変化に合わせて生きているため、その社会の変化に振り回されました。そして目には見えない「子どもの成長」を阻害したり、お金にはつながらないけど、「心とからだの安定」を維持するためには必要な様々な文化的活動を「不要不急」と決めつけ、否定しました。でもそれは、子どもの中、社会の中に「目に見えない傷」として確実に残っています。その傷は目に見えませんが「子どもの成長」や、「みんなが幸せに生きる社会」の構築には負の要素として働くでしょう。「子どもの問題」の背景には、「目には見えない大人の問題」が大きく働いているのですが、大人達はそれを「大人の問題」と切り離して「子どもの問題」としてしか考えようとしません。その「つながり」は目では見ることが出来ないからです。そもそも「大人の問題」が存在していることにすら気づいていない人が多いです。「心の目」では観ることが出来るのですが、物事の表面しか見ようとしない人は、その「心の目」を働かせることが出来ないからです。また、社会はコロコロ変化しますが、でも、「自然」はそう簡単に変化しません。ですから、コロナ騒動の時も、「自然」とつながることが出来る人たちは、それほど「社会の変化」に振り回されませんでした。真・善・美とか、宇宙とか、霊的な世界とか「変化しない世界」と向き合っている人たちも振り回されませんでした。でも、そのような人は社会全体から見たら少数派です。(なぜか私の周りには多いですが・・・)「目に見える問題」の背景には「目に見えない問題」が横たわっているのです。「心とからだ」や「子どもの成長」が不安定になってしまったのは「変化しない世界」とのつながりを失ってしまったからです。子育てが苦しくなるのは、「子どもの成長」の本質を見ようとせずに、「目の前の子どもの一挙手一投足」に振り回されてしまうからです。「目に見える世界」にばかり意識を向けて、「心の目でしか観ることが出来ない世界」に目を向けないからです。だから子育てに迷ったり、人生に迷ったりしたときは、自然の中に入って自然を感じて見る必要があるのです。
2025.06.12
コメント(0)
道もないような山を歩いているときには、地図とコンパスは必需品です。それがないと簡単に道に迷ってしまいますから。そのコンパスは「人間の都合」に合わせてではなく「自然の都合」に合わせて方向を指し示してくれます。だから道に迷わないで済むのです。多数決で方向が決まってしまうようなコンパスだったら簡単に遭難してしまうのです。科学を支えているのもまた「時代や場所や文化によって変化することがない普遍性」です。そのため、「どんな状況でも変化しないもの」を使って、科学を支えている「時間」、「空間」、「重さ」というものの絶対的基準を決めています。「重さ」は、昔は「キログラム原器」を使っていたそうですが、今ではより変化しないプランク定数、電荷素量、真空中の光速などの基本的な物理定数に基づき、原子の質量に基づいたものへと変更されているということです。長さには「メートル原器」というものがあったそうですが、これもまたより正確さを確保するために「クリプトン86元素が一定条件下で発する橙色の光の真空中波長」を使うようになったそうです。時間もまた原子の周波数などを、絶対的な基準としての物差しに使っています。これらの「物差し」を使えば、宇宙のどこに行っても同じ時間、同じ長さ、同じ重さを計る(量る・測る)ことが出来るのです。科学の正確さは、これらの「変化しない物差し」によって支えられています。時代や文化や地域が変わるごとに「物差し」が変わっていたら、科学は成り立たないのです。そして実は、これは人間の思考においても基本的には同じなんです。人間は一人一人異なった感覚や思考の物差しを持っていて、それに合わせて異なった感じ方、異なった考え方をしているのです。でも、「自分の物差し」だけを基準にして、感じ、考え、行動していたら他の人とつながれません。社会がバラバラになってしまいます。簡単に戦いが発生します。かといって、人間は一人では生きられません。生まれることも、成長することも、生活することも出来ません。唯一死ぬことだけは一人でも出来ますけど・・・。ですから、人間が人間らしく生まれ、成長し、生きていくためには他の人とつながる必要があるのです。そのため「自分の物差し」を矯正するための「他者と共有する物差し」が必要になるのです。それが倫理や道徳や法律や常識といったものです。でも、これらの物差しは「人間が決めたもの」ですから、時代や文化や地域が異なっていれば物差しも異なっています。日本人の物差しと中国や韓国の人の物差しは異なっています。また、ヨーロッパやアメリカの人たちの物差しも異なっています。「気質の違い」は「物差しの違い」でもあります。「子どもの物差し」と「大人の物差し」も異なっています。だから話が通じないのです。「昭和の物差し(常識)」と「令和の物差し(常識)」も異なっています。この違いを超えて対話したり、助け合ったり、つながりあったりするためには、「人間が決めた物差し」以外の、もっと普遍的な「物差し」が必要になるのです。そして、人々が自然とともに生きていた頃は、「自然」こそがその「普遍的な物差し」だったのです。ですから、昔の人達は「自然」を「物差し」として感じ、考え、生活していました。「時計の時間」ではなく「お日様の時間」を基準にして生活していたのです。そしてそれが人間にとっても「ちょうどいい物差し」だったのです。なぜなら人間もまた自然の一部だからです。また、人間が生活を依存している自然界もまた「お日様の時間」を物差しにしています。そのため、それを無視していたら狩りも農耕も出来ません。でも、科学の進歩に伴い「自然」を物差しにしなくても生活できるようになりました。科学を使うことで、人間の都合や欲望に合わせて自由に活動することが出来るようになったのです。夜中でも明るく出来るし、真冬にでも夏の作物を育てることが出来ます。その結果、「人間の感覚や思考や行動の歪みを調べる物差し」が「人間が決めた倫理や、道徳や、法律や、常識」だけになってしまったのです。でも、最初に書いたとおり、その「倫理や、道徳や、法律や、常識といった物差し」は、社会や文化の歪みに応じて変化してしまうのです。自然界を破壊する行為でも法律に違反していなければ正当化されてしまうのです。「子どもの成長」は自然現象なので、本来は、それをコントロールするのではなく、それに従わなければいけないはずのものなんですが、社会的な「倫理や、道徳や、法律や、常識といった物差し」に合っていれば、「子どもの成長」を阻害するような行為ですら「正しい行為」として扱われてしまうようになったのです。マスクをしろ、群れて遊ぶな、おしゃべりをするな、手をつなぐな、歌うな、接触するな、というような「子どもの成長にとっては全く不自然な要求」を子どもに押しつけることさえ正当化されてしまいます。戦争になれば人を殺すことすら正当化されます。子どもたちに「命の大切さ」を訴えながら、「在来種の命は大切だけど、外来種は殺してもいい」というような活動をしています。「木を一本切ったら一本植えれば、プラマイ0でOK」というおかしなこともしています。でも、「自然という物差し」を失った人たちは、そのおかしさに気づきません。そして人々は「自然」を「物差し」ではなく「資源」としてしか見なくなりました。そして、「物差し」を失った人間の感覚や思考が狂い始めています。それは「心とからだの狂い」や「社会の狂い」としても表れています。でも、まだ「自然」を物差しに生きている子どもたちには、大人のその「人間中心の論理」が理解できません。
2025.06.11
コメント(0)
昨日NHK(BS)で「牧野富三郎と南方熊楠が向き合っていた自然」を扱った番組を見ていました。牧野富三郎は植物学者と呼ばれますが、植物だけを観察し研究していたわけではありません。なぜなら、どんな植物でも、その「種」だけで個々に生きているのではなく、他の様々な植物や、昆虫や動物や、そのほか様々な「命あるもの」や「命がないもの」とつながって生きているからです。だから(たとえば)「タンポポ」だけを研究しても、「タンポポの全体」は分からないのです。タンポポを守ることも出来ません。南方熊楠は牧野富三郎とは研究対象が違いましたが、南方も同じような視点で粘菌などの研究をしていました。南方は「生態系そのものを守る」という視点から神社(鎮守の森)の役割を強く主張していました。これはすべての植物に言えることです。植物だけではありません。虫や動物やそれ以外の自然界に存在するすべての命は、お互いにつながり合うことで生命を維持することが出来ているのです。(実際、植物たちはお互いにコミュニケーションを取り合っているようです。)森は「森」自体で一つの生命体なんです。「地球」はそれ自体で一つの生命体なんです。(それをガイアという言葉で表現した人がいます)西洋的な考え方では「自然は様々な生き物の集合体」に過ぎませんが、実際にはこの世界にはたった一つの生命しか存在していないのです。その生命体の中の揺らぎが、それぞれの場所に適応しながら別々の形態として現れ、それが別々の生き物として認識されているだけであって、元々は「一つ」なんです。それは人間の手や、足や、脳や、腸や、肺などといった臓器が別々の臓器として認識されているのと同じです。それらは物理的には切り離すことが出来ますが、切り離されたら生きていくことが出来なくなってしまうのです。「個」が集まって「全体」が形成されるのではなく「全体」があるから「個」が存在することが出来るのです。それは、全く未分化の、たった一つの受精卵から私たちの様々な臓器が創られることを見れば分かります。でも人間は「木」ばかり見て「森」を見ません。「臓器」は見ても「人間」を見ません。病院には胃腸科、泌尿器科、神経科などからだの様々な部位を扱う「科」が存在していますが、丸ごとの人間を扱う「人間科」は存在していません。だから西洋医学では対症療法しか出来ないのです。そして人間もまた自然の一部であり、自然とのつながりの中でその正常性を維持することが出来るのです。セックスも、妊娠も、出産も、子どもの成長も自然現象です。草花の受粉と人間のセックスも基本的には同じものです。「人間だけが特別だ」と考えるのはキリスト教がもたらした妄想に過ぎません。確かに人間はすべての生き物の中で特別な存在です。なぜなら「すべての生き物を破滅させる能力」を持っているのは人間だけだからです。でも、「人間の命」も「他の生き物の命」と同じものなんです。「他の命とのつながり」の中でしか正常性を保つことが出来ないのです。そもそも、「他の命」とつながらないことには妊娠も出来ないのですから。出産や子育てにも「他の命とのつながり」が必要になります。「子どもの心とからだ」が正常に育つためにも、「他の命とのつながり」が必要になります。「食べ物」や「空気」もその一つですが、もっとダイレクトに「他の命」とつながる必要があるのです。幼い子どもはお母さんとつながっていないと生きることが出来ません。お母さんとの関係がゆがんでいると成長にも歪みが生じます。色々な大人とのつながりがないと言葉を覚えることが出来ません。人間らしさも学ぶことが出来ません。さらに、子どもの成長に必要なのは「人間とのつながり」だけではありません。「草花や様々な生き物たちとのつながり」も必要です。土や水や火といった「命を支えてくれているものとのつながり」も必要です。人工的な社会の中で暮らしている人間もまた、それらのものとつながっていないと、命の働きに歪みが生じてしまうのです。命の働きに歪みが生じると、「元気」(生命力)が足らなくなります。また、感覚や考え方にも歪みが生じます。そして、心とからだにとって害のあることでも平気でやるようになります。また、子どもが「自分」を知るためにも自然とつながる必要があります。人間が「自分」を知るためにも、社会が「自分」を知るためにも「自然」とつながる必要があります。「自然」とつながっていないと、人間は自分が何者であるのかを忘れ、欲望に導かれて自滅への道を進んでしまうのです。
2025.06.10
コメント(0)
多くの人が勘違いしているのですが、AIはデータの処理能力に優れているだけで、少しも賢くありません。AIは「賢い人」が書いた文章を読ませれば賢くなり、「賢くない人」が書いた文章を読ませれば賢くなくなり、「右翼的な人」の文章を読ませれば右翼的になり、「キリスト教徒の人」の文章を読ませればキリスト教的なことを言うようになり、「仏教徒」の文章を読ませれば仏教的なことを言うようになります。ただし、実際にそうなるわけではなく、「そうなったように」見えるだけです。なぜならAIは与えられた情報を色々と操作して新しい情報を作り出しているだけなので、AIからの情報は「AIが読む込む情報の質」に依存してしまうからです。AI自身が自分自身の体験を通して、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断して導いた情報を人間に提供しているわけではないのです。ですから、AIは「AIが読み込む情報」を作り出した人たちの価値観を反映するような情報しか与えてくれないのです。それはつまり、情報元の間違いを指摘するような情報は与えてくれないと言うことです。戦争に賛成する人たちが書いた文章ばかり読まされたAIは戦争を肯定することしか言わなくなるのです。そしてそれを読んだ人が「ほれ、AI先生も同じようなことを言っている」と、AIが言っていることを引用して自分の意見を強化するような文章を流すと、AIもその文章を読んでさらに戦争を肯定するようなことを言い出します。そして、その流れが繰り返されると、どんどん偏りやゆがみが強くなっていきます。AIには「人間が生きているリアルな世界」との直接的なつながりがないので、それが偏った情報や、嘘の情報であっても、与えられた情報の中に論理的な矛盾が存在していなければ、それを疑うすべがないのです。だから、AIに依存しすぎるのは危険なんですが、実は同じようなことが民主主義という政治システムでも起きているのです。国民が賢ければ、選挙でも正しい判断が出来て、賢い人が政治家になり国民を導くことが出来ます。でも、国民が、自分自身の体験を通して自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断することをせずに、学校や、国や、メディアの言うことだけを頼りに判断するようになると、論理が閉ざされ、歪みが強化され、システムが狂い始めるのです。賢くない国民が賢くない政治家を選び、賢くない政治家が賢くない情報を流し、それを賢くない国民が鵜呑みにして政治家を選ぶようになってしまうからです。そうして悪循環が始まり、状態は悪化していきます。戦争もそのようにして始まります。ここで言う「賢い」とは、「勉強が出来る」とか「たくさん情報を持っている」とかそういうこととは全く関係がありません。自分自身の体験を通して、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動できているかどうかということです。つまり「情報が作り出している仮想世界」ではなく「命やからだが存在しているリアルな世界」とつながって生きているかどうかと言うことです。でも、現代人は「命やからだが存在しているリアルな世界」とのつながりをどんどん失っています。自分自身の体験を通して学び、感じ、考えるのではなく、学校やメディアが与えてくれる情報だけを元に学び、考え、判断しています。「こういう科学的エビデンスがあります」などと言われるとそのまま信じてしまいます。でも、科学の世界では「嘘のエビデンス」も簡単に作れるのです。人間が生きていくときに大事なのは、「そのことに科学的エビデンスがあるかどうか」ではなく、「自分自身の実感として正しいか正しくないのか」なんです。情報によって判断するのも大事ですが、もっと大事なのは自分の体験と、感覚と、思考による判断です。これが出来る人は自分の人生でも子育てでも迷子にならないのです。学校では、実際にノコギリで木を切ることが出来なくても、情報として「木の切り方」を知っていればそれだけで点数をもらえます。実際には出来なくても、やったことがなくても「やり方」を知っていれば学校ではOKです。でもそれは、「現実の世界」とつながっていない「ゲームの中の世界」と同じ状態です。最近は、実験ですら実際にやらせないで動画で見せるだけのところもあるようです。でもそれは実験ではありません。失敗の可能性を排除したら実験とはいえないのです。また、学校では、先生が言っていることと同じことを言っていればよい点数を得ることが出来ます。そして今、「命」にすら「リアル」を感じることが出来ない子どもや若者達が増えてきました。情報だけに依存して、命やからだが存在しているリアルな世界とのつながりを失った社会は非常に危険なんです。そのような社会では情報の歪みが増幅され、AIも人間も簡単に暴走してしまうのです。
2025.06.09
コメント(0)
お母さん達に「いっぱい子どもと遊んでください」と言うと「遊び方を知りません」と言われます。ほとんどのお母さんが「子どもの育て方」や「子どもの育ち方」や「子どもとの関わり方」を知りません。知っているのは、赤ちゃんが生まれたとき保健所などで教えてくれる「赤ちゃんの世話の仕方」だけです。保健所では「子どもの育て方」は教えてくれません。また教えられても、まだ当事者ではないので理解できないし、子どももお母さんも一人一人違うので、その通りになんか出来ません。その現実と出会うのが、子どもが「イヤダ イヤダ」と言い始める頃からです。実際、多くのお母さんが「思い通りにならない子ども」を目の前にして、「自分の子育て」に不安を感じながら子育てをしています。そして、ネットや育児書に「正解」を求めたり、大人の視点からの思い込みで子どもに「正解」を押しつけたり、周囲のやり方を見て真似したり、ネットやテレビに流れている情報に踊らされて子育てをしています。その結果、「子どもの成長」につながらないどころか、「子どもの成長」を阻害するようなしつけや教育を「子どものためなんだ」と勘違いしてやってしまっているお母さんがいっぱいいます。これは断言できるのですが、「目の前にいる子ども」をしっかりと見ずに、「子どもの言葉」に耳を傾けずに、「子どもの気持ち」に寄り添わずに、大人の視点や方法論だけで子育てをしていたら「子どもの成長」は歪んでしまうのです。これは、人間の子どもだけでなく植物でも動物でも「命あるもの」を育てるときに必要になる第一原則です。造形の場でも必要な感覚です。「みんなと同じ子育て」をしていれば安心するのでしょうが、子どももお母さんも一人一人違うので、「同じ子育て」をしているつもりでも「同じ結果」にはならないのです。でも、そのようなお母さんは、「子どもの成長」に問題が起きていても気づきません。もともと、ちゃんと「子ども」を見ていないのですから。「なんかおかしい」と気づくのは、子どもが思春期を迎えることになって様々な問題行動を起こすようになってからです。具体的な行動には起こさなくても、今、「死にたい」「殺したい」とつぶやく子どもは珍しくありません。リストカットを繰り返す子どもの相談を受けたこともあります。新しいことと出会うと「出来ない」「分かんない」「ムリ」といって、挑戦もしないで放り出してしまう子もいっぱいいます。入社一週間で「ムリ」と判断して退社してしまう若者も多いようです。造形活動なんかでも、そのような子は「知っていること」はやるのですが、「知らないこと」には手を出しません。そもそも「手の出し方」すらも知りません。「失敗してもいいからやってごらん」と言っても、最近の子は「失敗」を恐れるので、チャレンジすらしようとしないのです。そして「どうやったらうまく行くの?」と正解を聞いてきます。そういう状態になるような子育てや教育を受けてきたのでしょう。でも、そのような子育てを受けてきた子は自分の人生に希望を持てなくなってしまうのです。社会に出て行くのが怖くなってしまうのです。家庭や学校では「言われたこと」だけをやっていればOKです。でも、学校の外の社会でそんなことをしていたら簡単に闇バイトに引き込まれてしまいます。職場でも「使い捨て」として扱われるだけです。四六時中「予想外のハプニング」が起きる「子育て」なんか怖くて出来ません。皆さんは我が子にそのような状態になって欲しいですか。多分、なって欲しくないですよね。じゃあどうしたらいいのかということですが、「みんなと一緒」「みんなと同じ」「正解に頼る子育て」「大人の常識」などというものを捨てて、目の前にいる子どもと真剣に向き合うことです。「みんなと違うこと」を恐れないことです。元々、子どももお母さんも一人一人違うのですから、「子育てのやり方」も一人一人違うのは当たり前なんです。「みんなと同じではない」というのは、少しもおかしなことではないのです。というか「みんなと同じ」という方がおかしいのです。子育てに正解など無いのです。だから本に書いてあるような「子どもの育て方」なんか知らなくていいのです。「子どもの育て方」は「目の前の子ども」が教えてくれるので、直接、子どもから学べばいいのです。昨日おとといと「型破りな教室」という映画の紹介をしましたが、その中の先生のように、皆さんは「型破りな子育て」をやってみませんか。「みんなと一緒」「みんなと同じ」を大切にする日本では、「人と違うこと」をするのには勇気がいります。周囲からも白い目で見られたりバッシングを受けたりもするかも知れません。でもその行為が、子どもと真剣に向き合い、子どもの言葉に耳を傾け、子どもの気持ちに寄り添った結果なら、子どもが思春期を迎える頃になってから報われますよ。
2025.06.08
コメント(0)
私は、教育で一番大切なことは「知識を与える」ことではなく、「学ぶ喜び」と「学び方」を教えることだと思っています。昨日取り上げた、映画「型破りな教室」の主人公であるファレス先生がやったこともそのようなことです。先生は知識は教えませんでした。本当かどうかは分かりませんが、生徒に聞かれても「自分は無知だから分からない」と答えていました。そして、「だから一緒に調べよう」と子どもたちに提案していました。そんな、ファレス先生の型破りな授業を通して「学ぶ喜び」と「学び方」を知った子どもたちは、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え始めます。そして自分の意思で行動し、学び始めます。そのことで、子どもたちは「自分の人生を自分の意思で生きていく力」を得ることが出来ました。そのことが元で悲劇も起きてしまいますが、でもほとんどの子どもたちにとって、それは非常に大きな希望になりました。幼い頃からどこに向かっているのかも分からない自動車に乗せられ、退屈しないようにテレビやゲームやスマホを与えられ、車の外の世界に関心を持つ機会も与えらないまま、簡単で便利で快適な環境の中で、ただただ受け身的に育っていたのに、ある時、急に車から降ろされ、「ここから先は自分の力で歩いて行きなさい」などと言われても、無理に決まっているのです。そうですよね。そこにあるのは「希望」ではなく「絶望」です。でも、多くの親や先生や学校が、これと同じようなことをしているのです。心当たりありませんか?大人達は「これをやっていれば大丈夫」「大人の言うことを聞いていれば大丈夫」と言い続けて子どもに「希望」を持たせようとしています。でも、思春期が近づき、「大人の視点」を得た子ども達は、それが「何の根拠もない嘘」であることに気づいてしまうのです。それは、子ども達が成長とともに「サンタクロースの真実」に気づくのと同じ原理です。でも、サンタクロースの場合は、「サンタクロースの愛」が「親の愛」に変換されるだけなので、子どもは「裏切られた」とは思いません。でも、「勉強していれば大丈夫」という言葉が嘘であることを知ったとき、そこには「大人に裏切られた」という感覚と、「自分の未来に対する絶望」しか残らないのです。最近、子どもや若者達の事件が多いような気がするのですが、自分の人生に「希望」を感じているような子は犯罪など起こさないのです。「道徳心」が育っているから犯罪を起こさないのではないのです。自分の人生に「希望」を持つことが出来るから犯罪には手を出さないのです。なんでそんな簡単なことも分からない大人が多いのでしょうか。どんなに熱心に「道徳教育」を行っても、子どもに「希望」を与えることが出来なければ、犯罪に手を出す子どもが増えてしまうのです。そのようなことも映画の中では描かれています。でも、子ども達に希望を与えるためには、大人達が希望を持って生きている必要があります。子ども達に知識ではなく「学ぶ喜び」と「学び方」を伝えるためには、大人達が「学ぶ喜び」と「学び方」を知っている必要があります。「絵に描いた餅」で子ども達をだますような子育てや教育をしている人は、自分の人生に希望を持っていないのでしょう。「学ぶ喜び」も「学び方」も知らないのでしょう。そのような人は、子どもが困ったことや犯罪を犯すと自分の責任は棚に上げて子どもを責めます。子どもが学校に行けなくなると、学校を「魅力がない場所」にしている先生や学校の責任は無視して、子どもや親を責めています。ちなみにファレス先生が「おかしな授業」を始めたら、それまで学校に来ていなかった子ども達も学校に戻って来ました。映画「ブータン 山の教室」でも描かれていましたが、本来「学校」は「子ども達が行きたくなる場所」なんです。そこには「希望」があるからです。そうだったはずなんです。でもなぜか今では「行きたくない場所」になってしまっています。「絵に描いた餅」ではなく、子どもの血肉になるような「本当のお餅」を与えてあげてください。そしてそれと同時に「お餅の作り方」も伝えてください。
2025.06.07
コメント(0)
昨日は『型破りな教室』という映画を見てきました。公式サイトには以下のような説明が書かれています。麻薬と殺人が日常と化した国境近くの小学校。子供たちは常に犯罪と隣り合わせの環境で育ち、教育設備は不足し、意欲のない教員ばかりで、学力は国内最底辺。しかし、新任教師のフアレスが赴任し、そのユニークで型破りな授業で、子供たちは探求する喜びを知り、クラス全体の成績は飛躍的に上昇。そのうち10人は全国上位0.1%のトップクラスに食い込んだ!アメリカとの国境近くにあるマタモロスの小学校で2011年に起きた実話を描いた本作は、本国で300万人を動員し、2023年No.1の大ヒットを記録。更にアメリカでも限定公開かつスペイン語作品にも関わらず初週5位の快挙をとげ、絶賛の嵐は北米まで広がった。『コーダ あいのうた』に続いての教師役ながら、新たな魅力を発揮したエウヘニオ・デルベスにも注目。面白かったです。そして改めて「教育に本当に必要なことは、理論や方法や技術やお金などではなく、子どもを愛し信じる心と、教育者としての教師自身の生き方なんだな」ということを強く感じました。理論や方法はその結果に過ぎません。でも人は結果ばかり見て原因を見ません。そして結果ばかり見て、「同じようにやれば同じ結果を得ることが出来るはずだ」と勘違いして、それを方法論として子どもたちに押しつけようとしています。でも、原因の方が整っていないので、同じ結果にはなりません。また、子どもたちは「自分自身の成長」を実現するが出来ません。成功した例を真似して同じことをやっても無駄なんです。それはシュタイナー教育でも、モンテッソーリ教育でも同じです。シュタイナーがやったことを見て、シュタイナーが言ったことをいくら勉強し覚えても、それを「方法論」としてしてしか捉えていないのなら、すべては無駄になります。むしろ有害です。大事なことは、「シュタイナーが何を言ったか」ではなく「シュタイナーがその言葉を通して何を言いたかったのか」を考えることです。「シュタイナーが何をしたのか」ではなく「その行為を通して何をしようとしていたのか」ということを考えることです。つまり、シュタイナーと視点を共有し、同じ位置に立つことが大切なんです。「シュタイナーの言葉」や「やったこと」はそれを知る手がかりに過ぎません。これは子どもに対しても同じです。「子どもが何を言ったのか」ではなく、「その言葉で子どもは何を言いたかったのか」ということや、「子どもが何をやったのか」ではなく、「その行為を通して子どもは何をやりたかったのか」ということを考えることが大切なんです。それはつまり、大人が子どもと視点を共有し、同じ位置に立つということです。でも大人たちは「子どもの言葉や行動」ばかりを見て、それに振り回されています。このようなことを禅宗では「指月」という言葉で説明しています。グーグル検索では以下のような説明が出てきました。<AI による概要>禅の「指月」とは、仏教の教えに由来するたとえ話で、言葉や教えは真理や目標を示す手段に過ぎず、それらに執着すると本質が見えなくなるという教えです。月を指でさし示すのに、月を見ないで指を見るようなことはしないように、言葉や教えに固執すると、その指し示すものに気づくことができないという教えです。映画の中では「教育者であろうとする主人公」と「職業教師」との対立もありました。そして、「子どもの成長」ではなく「テストの成績を上げること」だけを求めるお役所の人との対立で、子どもの立場に立って教育者として生きることの困難さも描かれています。あと面白かったのはこの先生は偉い先生でも、教育に関する色々な知識や技術に詳しいわけでもなく、むしろ落ちこぼれの先生だったことです。校長先生に「どうしてあんなことやっているんだ」と聞かれると、スマホで「教育者としてのあるべき姿」を語っている偉い先生の動画を見せ「私がやりたいのはこれです」と説明します。それは「教育では、きっかけを与え、働きかけ、あとは子どもたちが動き出すのを待つことが大切です」というような内容の動画です。それは、「教える方法」ではなく、「子どもが自ら学び始めることを支えるための方法」です。主人公はそれをそのまま愚直に行おうとしていたのです。彼は難しい知識も、理論も、技術も知らないのです。でも、やりたいことを実現するために色々なことを考えました。動画の情報を手がかりにして、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の判断で行動しようとしたのです。だから結果として、「教育の当たり前」を全く無視した「型破りな授業」になってしまったのです。その授業で大切にしていたのは「知識」ではなく「実感」です。知識と出会ったら、それを単に「知識」として覚えるのではなく、みんなでそれを確認する方法を話し合い、実際に体験しようとしていました。浮力について学ぶときにはみんなで知恵を出しあって色々と実験していました。先生や校長先生にお願いして、水槽の中に沈んでもらったりもしていました。これらはすべて子どもたちの発案によるものです。知識を現実の世界の中で確認することが出来たとき、それは子どもたちにとって驚きであると同時に、学問への興味をかき立てるきっかけになりました。でもそういう授業が可能だったのは、先生が最初に「どんな意見でも、感想でも、疑問でも、否定しないからどんどん言ってくれ」と言っていたからでもあります。最初に先生が、「子どもたちが自分の意見を言いやすい状況」を作っていたのです。疑問があるとみんなで知恵を出し合って考えました。一人の疑問をみんなで共有し、みんなで考え、どうやったらそれを確認できるかということをみんなで工夫したのです。その結果「哲学に興味を持つ子ども」や「科学に興味を持つ子ども」が生き生きとしてきました。そういう視点で見ると、「黙って先生の言うことを聞き、言われたとおりに勉強し、行動しろ」「教科書に書いてあること、先生が言うことをそのまま覚えろ」と求める学校教育は、その正反対を行っています。それが「勉強が嫌いな子」「学校に行けない子」の増加につながっているのではないでしょうか。ちなみに、映画が始まる前に「M.モンテッソーリ」の映画の予告編が流れていました。これもまた面白そうなので見に行きたいと思っています。M.モンテッソーリがやったのも「型破りな教育」です。R.シュタイナーが始めた教育も同じです。「型破りな教育」をお手本にして型どおりにやろうとするのは矛盾ですよね。それは「自由への教育」ではないですよね。
2025.06.06
コメント(0)
最近の大人たちはみんな「本当に大切なこと」を忘れてしまっているような気がします。私には、みんな「目先にぶら下がっているニンジン」ばかりを追いかけて迷子になってしまっているようにしか見えないのです。子育てや教育で一番大切なことは何なんでしょうか?いっぱい知識を覚えさせることですか?いっぱい勉強させることですか?よい成績を取ることですか?競争に勝つことですか?ちゃんと学校に行かせることですか?お母さんや大人の言うことに素直に従うようにしつけることですか?これらはみんな「大人が子どもに期待すること」であって、「子ども自身が望んでいること」ではないですよね。「子ども自身の成長を支えるもの」でもないですよね。多くの大人たちが「子どもの大人化」ばかりを求めていて、子ども自身が「生まれてきてよかった」とか、「この世界は楽しくて面白い」と実感できるような学びを与えようとしていません。私は、子育てや教育の本質的な目標は「子どもの希望を育てる」ということなのではないかと思っているのですが、実際にはみんな「子どもの希望をつぶすようなこと」ばかりやっています。不登校など、子どもに関する様々な議論を読んでいても、みんな「大人の視点」だけで議論しています。「どうやって子どもたちに大人の期待に応えてもらうか」という議論ばかりです。私は、子どもの心とからだ、そして人間性と魂の成長に必要なのは「知識の量」ではなく「知識の質」だと思っています。そして「知識の質」は点数化できません。それは芸術作品と同じようなものだからです。また、「大人の期待に応える能力」ではなく「自分自身の思いを実現する能力」も必要です。そして、そのために必要なのは、「頭で覚える勉強」ではなく「からだで学ぶ勉強」です。「人に勝つ能力」ではなく、「人とつながる能力」です。「人」だけではありません。「自然」や、「自分自身」や、「見える世界」だけでなく「見えない世界」ともつながることが出来る能力です。つながることが出来るからこそ、その相手から学ぶことが出来るのですから。そして学ぶことが出来るから「希望」を持つことも出来るのです。「友達」とつながることが出来ない子は「友達」から学ぶことが出来ません。「大人」とつながることが出来ない子は、「大人」から学ぶことが出来ません。「自然」とつながることが出来ない子は「自然」から学ぶことが出来ません。「見えない世界」とつながることが出来ない子は「見えない世界」から学ぶことが出来ません。そのため、自分の世界を広げることが出来なくなります。ちなみに「言葉や心が作り出している世界」も「見えない世界」です。「因果関係や物理法則」といったものは「見えない世界」の存在です。「見える世界」は「見えない世界」の表面に現れた波に過ぎません。だから「見えるもの」「比較できるもの」ばかりに心が囚われていると、その背後にある「本当に大切なこと」が見えなくなってしまうのです。どんなにいっぱい本を読んで知識を集めても、直接その相手とつながって得た学びでないと、子どもの成長にはつながりません。図鑑で「カブトムシ」のことを調べても、当然のことながら「図鑑に書いてあること」以上のことは学べません。また、その学んだことは「頭の中」だけにしか入りません。でも、実際に森の中に入って、自分で探して、自分で捕まえて、自分で餌をやっているカブトムシからは、文字化や点数化できないほどの多様で多くの学びを得ることが出来ます。文字化や点数化できる知識なんて大したことはないのです。でも学校では「文字化された知識」「点数化できる知識」しか学ぶことが出来ません。そして、そのような学びしかしてこなかった子は、知識の量や点数で相手のことを評価する癖が付いてしまうため、直接その相手とつながることが出来なくなります。「自分」とつながることが出来ない子は、「自分自身との対話」を通して「自分」から学ぶことが出来ません。そのため、「自分が何を求めているのか」「自分が何のために生きているのか」ということが分からなくなります。そして「自分」に振り回されることになります。知識の量とか、学校の成績とか、学校に行っているとかいないとかいう問題は、子育てや教育を考える上での本質的な問題ではないのです。そのことを忘れた「子どものための議論」は、本質的には「大人のための議論」であって、子どものためにはならないのです。子どもにとって本当に必要なのは、「子どもの希望を育てるような子育てや教育」なんです。それが出来れば、子どもは自分の意思で自分の人生を喜びとともに生きていくことが出来るのです。勉強も、大人に追い立てられなくても自分の意思で始めるのです。また、そのような子育てや教育を行うためには、「子どもたちが希望を持てるような家庭や社会」を作り出す必要があります。お母さんやお父さん自身が希望を持って生きている必要があります。
2025.06.05
コメント(0)
人間は「頭の記憶」と「からだの記憶」の二つの働きに支えられて生きています。でも、この二つを持っているのは人間だけです。人間以外の動物たちは「からだの記憶」だけで生きています。この二つの違いは「頭の記憶」はランダムにアクセスできますが、「からだの記憶」は必要に応じてしか使えないということです。また「頭の記憶」は消えやすいですが、「からだの記憶」は一度定着してしまうとなかなか消えません。また、「頭の記憶」は想い出そうとしなければ出てきませんが、「からだの記憶」は無意識の働きが管理しているので、必要に応じて勝手に出てきます。だから、考え事をしながらでも、歩いたり、話したりすることが出来るのです。怒らないようにしようと思っているのに怒ってしまったり、日々の日常生活を支えているのも「からだの記憶」です。「頭の記憶」は他者とコミュニケーションを取ったり、新しいことを始めるときや試験などの時には必要ですが、それ以外の場での必要度はそれほど高くありません。「言葉の使い方」は「からだの記憶」の中に書き込まれていますが、話すときに使われる情報は「頭の記憶」の中に書き込まれています。そして、「頭の記憶」は体調が悪かったり、年をとってくるとランダムにアクセスすることが困難になってきます。そのため「あれ」「それ」「これ」という指示代名詞が増えてきます。記憶そのものが消えてしまうのではなく、からだの機能が衰えてくると、頭の記憶につけられた検索タグを読み取る能力が低下してしまうのです。痴呆症になって、我が子の顔や名前までも忘れてしまっても、「からだの中に書き込まれた我が子の記憶」が消えてしまったわけではありません。ただ、「頭の記憶」を読み出せなくなってしまったしまっただけです。ですからちょっとした感覚刺激や感情刺激で蘇ることがあります。若いときに好きだった音楽を聴くことで、若い頃のことを想い出すこともあります。それは「からだの記憶」が「頭の記憶」を呼び覚ますきっかけになるからです。「頭の記憶」に、検索タグが付くようになってくるのが大体三歳頃からです。だから、この頃から「頭の記憶」が始まります。ただし、幼児期の記憶には、時間、空間、因果関係といった客観的な情報のタグはついていません。幼児期の子どもの「頭の記憶」についているのは、感覚や感情の働きとつながった、「うれしい」、「楽しい」、「美味しい」、「快・不快」などの検索タグだけです。だから論理的に考えることも話すことも出来ません。ついさっきのことでも楽しくなければ簡単に忘れます。でも、何日も前のことでも「からだの記憶」に書き込まれた「楽しかったこと」はいつまでも忘れません。「怖かったこと」「痛かったこと」も忘れません。それが「いつ」のことだったのかは簡単に忘れてしまうのですが、「からだの記憶」に書き込まれた感覚や感情の記憶自体は消えないのです。時には大人になっても消えていないことがあります。だから自分が受けた子育てをそのまま我が子に対して繰り返すのです。「根拠がない安心」や、「原因が分からない不安」などは、幼児期にからだの中に書き込まれた「からだの記憶」のせいかもしれません。どうして、幼い子どもたちの「感覚や感情の記憶」は消えにくいのかというと、幼児期においては「感覚や感情の記憶」を育てることが、すごく大切なことだからです。「からだの記憶」の中に書き込まれた「感覚や感情の記憶」が、その子の人生の方向性を決めてしまうことすらあります。なぜなら人は、「からだの記憶」に従って感じ、考え、行動しようとする傾向があるからです。ですから「肯定的なからだの記憶」を育てることが出来た子は、自分を肯定するような方向性で感じ、考え、行動しようとします。それに対して、「否定的なからだの記憶」が育ってしまった子は、それが嫌でも、苦しくても、なぜか自分を否定するような方向で感じ、考え、行動しようとしてしまうのです。その状態を変えるためには、「肯定的なからだの体験」を通して「否定的なからだの記憶」を書き換える必要があるのですが、大人になってからそれをやるのは非常に困難だし、苦しいです。これは「健康なからだを育てる方法」と「病気を治す方法」の違いとも似ています。子どもたちは、嬉しくて、楽しくて、気持ちがいい状態で思いっきりからだを動かして遊んでいれば、「健康なからだ」は勝手に育っていくのです。また、「気持ちがいい」という状態を知っている子は「からだに悪いこと」が感覚的に分かるようになります。なぜなら「からだに悪いこと」は気持ちが悪いからです。でも、それとは反対の状態で育ってしまった子は、からだが弱くなり、病気に罹りやすくなります。そして、子どもの健康を維持するために、「注射」などの「子どもが望まないこと」をする必要が出てきます。また、専門家の治療も必要になります。また困ったことに、からだは「一度作られてしまったからだの状態」を維持しようとするので「からだの状態」が悪くなってしまった人は、「からだに悪いこと」を求めてしまうのです。からだを動かす喜びを知らないで育った子は、からだを動かさないで出来ることを求めるのです。ゲームなどは最適です。アルコール中毒の人はアルコールで苦しんでいるのに、やめたいと思っているのに、アルコールを欲がりますよね。それは「からだの記憶」がアルコールを求めるからです。ですから、幼児期に「嬉しい」「楽しい」「気持ちがいい」などの感覚や感情とつながった「肯定的なからだの記憶」を書き込むことが出来た子は、放っておいても自分の力で「自分の成長に必要なこと」を求め、体験し吸収し、成長することが出来るのです
2025.06.04
コメント(2)
「からだ」がないと、感じることも、考えることも、行動することも、誰かや何かとつながることもできません。美味しいものを食べることも、お料理を作ることも、子どもと遊ぶことも出来ません。「からだ」あっても、健康を害していたり、年をとって「からだの機能」が低下していたり、からだが成長する時期に「からだの成長に必要なもの」を得ることが出来ないまま育ってしまった場合でも、「からだを使った活動」に障害が出ます。ちなみに多くの人が「からだの成長に必要なもの」は「食べ物」だけだと考えていますが、いくら栄養のあるものを食べさせても、日常的に「からだを使った活動」をしていなければ「食べたもの」がからだの中で「からだの活動を支える要素」として定着することはありません。そのまま排泄されるか、「からだの調子を狂わせる不純物」としてからだの中に留まるだけです。というようなことは以前にも書きました。が、今日は別の側面から「からだ」について考えてみます。実は、「からだ」には「アンテナ」としての機能もあるのです。昨日も書いたとおり、人と人がつながるためには、見たり、聞いたり、感じたり、考えたり、行動したりするための「からだ」が必要です。ですから「からだ」の調子が悪くなれば、これらの活動に支障が出ます。このことは多くの人が分かっていると思います。あまり知られていないのは、「見えるか見えないか」ではなく「何を見るか」という点でも「からだ」の影響が大きいということです。これは「何を聞くか」「何を感じるのか」「何を考えるのか」「どういう行動をするのか」という面でも同じです。「からだの質」が違うと「見たいもの」も「聞きたいもの」も「やりたいこと」も違ってくるのです。また、同じものを見たとしても「見えるもの」が違ってきます。リンゴを見たときに「色」を中心に見る人、「形」を中心に見る人、「種類」を中心に見る人、「熟し具合」を中心に見る人など色々な人がいると思いますが、そのような違いが「からだの質の違い」によって起きるのです。お腹がすいている人は「美味しそうに見えるもの」に興味を示すでしょうね。テレビで戦争を見て「悲しさ」や「怒り」を感じる人もいますが、「面白そう」「楽しそう」と感じる人もいます。そのような違いの背景には「からだの質」の違いも影響しているのです。その人が生まれ育ってきた生活環境や人間環境や食生活が「からだ」の中に定着し、その結果そのように感じるようになってしまった、ということもあるのです。「この世界は美しいものに満ちている」と言う人もいますが、「この世界は醜いものに満ちている」と言う人もいます。この違いの背景には「からだの違い」も大きく影響しているのです。「アンテナとしてのからだ」の状態が異なっているから、異なった周波数のものに焦点が合ってしまうのです。「類は友を呼ぶ」という諺がありますが、これもアンテナの状態(からだの状態)が似ているもの同士が集まってくるということです。また、「何を食べるのか」ということもアンテナ(からだ)の状態に大きく作用します。肉を多く食べている人と、野菜を多く食べている人とでは「からだの状態」が違います。それはつまり「アンテナの状態」が違うということです。ですからその両者は、「見えるもの」、「聞こえるもの」、「感じるもの」も異なっています。古来から霊的な世界とつながろうとする人たちは肉よりも野菜を好みます。でも、競争や戦いにワクワクする人は野菜よりも肉を好むのではないでしょうか。「あの人とは気が合う」という場合は、食べ物も似ているのではないでしょうか。と、ここまで書いたことは「アンテナを構成している材質」の話です。あと大事なのは「アンテナの形」です。つまり、「姿勢」です。人間は二本足で立っています。ですから、姿勢のバリエーションが大きいのです。胸を開いてまっすぐに立つことも出来れば、猫背になって下を向いて立つことも出来ます。四足歩行をしている動物たちにはこのような「姿勢のバリエーション」はありません。「姿勢を変える」ということは「アンテナの形を変える」ということです。すると、受信できる周波数が変わるのです。同じ音を聞いていても、姿勢を変えると「音の聞こえ方」が変わってきます。同じものを見ていても、姿勢を変えると「ものの見え方」が変わってきます。また、姿勢ではありませんがお化粧や洋服を替えてもアンテナの状態が変わります。マスクをしてもアンテナの状態は変わります。私の実感では、マスクをすると感覚全般の働きが鈍くなるような気がします。このようなことはご自身でも確認できることですから、是非、ご自身のからだを使って実験してみてください。面白いですよ。ちなみに、最近の子どもたちの「からだ」というアンテナの状態は不純物が多く、形状もよくありません。ですから、雑音ばかりを拾って、うまく自分の成長に必要な情報をキャッチすることが出来ません。
2025.06.03
コメント(0)
昨日はNoteの方だけアップして楽天の方のアップを忘れていました。ということで以下の記事は昨日の分です。この後、今日の分としてもう一つアップします。*****************皆さんは〝からだ〟を通してこの世界とつながっています。ですから〝からだ〟が機能を停止すれば「あの世」に還らなければなりません。また皆さんは、「お母さんの“からだ”」と、「お父さんの〝からだ〟」が交わることで生命を得、そして「お母さんの〝からだ〟」の中で産まれてくる準備を整え、「お母さんのからだ」を通して産まれてきて、「お母さんのからだ」から出てくるお乳で育ったはずです。最近は母乳を飲ませない人もいるみたいですけど、でもそれは動物としては不自然なことです。そして「からだ」から出てくる声を聞いて言葉を覚え、からだを通して声を出し、他者と話し、歌を歌い、愛をささやいたのではありませんか。感情は「からだが感じているもの」が心に投影されたものです。からだから切り離された感情などというものは存在しません。相手の「手」で自分の手をにぎられたら心がウキウキしませんでしたか。からだを抱かれたら、心まで抱かれた気になりませんでしたか。なぜなら「手」は「頭の道具」ではなく、その人の「心の働き」と密接につながっているからです。「頭の道具としての手やからだの機能」は、「手やからだ」本来の機能ではないのです。「手やからだ」を自分の感情や意識通りに動かせるようになるためには、「遊び」や「生活の場」などでの様々な体験や、言葉の学びを通して、自分の「手」や「からだ」を「心の働き」とつなげてあげる必要があるのです。「道具としての手やからだの使い方」を学ぶのはその後です。なぜなら「頭」は直接「手やからだ」を動かせないからです。じゃあ、頭はどうやって「手やからだ」を動かしているのかというと、イメージの働きを使ってまず「心」を動かすのです。「手」が動くのは「心」が動いた結果です。「サトリ」という妖怪はその「心の動き」を察知することで「からだの動き」を予測することが出来るのです。ですから、「心の働き」と「手」がつながっていなければ、いくら頭が手に「こう動け」と命令しても、手は言うことを聞いてくれないのです。だからイライラするのです。子どもも同じです。心でつながっていれば言葉が通じますが、心がつながっていなければ言葉は通じません。いくら説得しても、叱っても、心がつながっていなければ子どもはお母さんの言葉を受け入れません。見かけは言われて通りにやっていてもそれは見せかけだけです。<続きます>
2025.06.03
コメント(0)
皆さんは頭がボーっとしているときなど、からだを動かすだけでスッキリしたりしませんか。ちょっと深呼吸したりするだけで、不安が消えたり、気持ちが落ち着いたりしませんか。悩み事があるときは座り込んだり、頭を抱えてジーっと考え込むより、歩いたり、手仕事や家事をしながらなんとなく考えたほうが、ズーッと考えが進んだりしませんか。下を向くのではなく上を向いたほうが心もからだも楽になりませんか。算数やほかの問題を考える時も、頭の中だけで考えるよりも、文字を書いたり、絵を描いたり、手を動かしながら考えたほうが答えが見つかりやすくなりませんか。ちなにみ勉強ができない子ほど、頭の中だけで考えようとする傾向があるような気がします。子育てでも、工作でも同じです。だから簡単に迷路にはまってしまうのです。どうしたらいいのか分からなくなったら、とにかくからだを動かして「新しい何か」をやってみることです。その問題とは関係がなくても大丈夫です。子育てで悩んだら、歌を歌ってみる、新しいお料理に挑戦してみる、片づけをしてみる、などなど、からだを使って「新しいこと」に挑戦すると「視点」が変わるので、迷路から抜け出しやすくなるのです。最近の子は、「こうすればうまく行くはずだ」という思い込みでやり始めたのに思い通りにいかないとすぐに手を止めてしまいます。そうして「できない できない」とか「わかんない わかんない」とか、「先生やって」などと言います。それで「とにかく色々とやってみな、色々とやっているとどうしたらいいのかが見つかるから」と言うのですが、その「手を動かして色々とやってみる」ということが出来ない子が多いのです。やろうともしません。最近の子は、予め「どうしたらいいのか」ということを教えてもらっていないと動けない子が多いのです。マニュアルや指示書がないと動けないのです。また、好奇心も低く、失敗を怖がるので「知らないこと」(新しいこと)には手を出しません。そのため、「未知のもの」と出会ったりすると、頭とからだがフリーズしてしまうのです。「自分で考えて自由にやってもいいんだよ」と言っても、「考える」ということ自体がうまくできない子が多いのです。「考える」という能力が育つためには、「感覚と、言葉と、からだと、行動の自由と仲間」が必要なんですが、それを奪われた環境で育っている子が多いからなのでしょう。とにかく、「考える」という能力が育つためには「束縛」だけでなく「自由」が必要なんです。かといって「自由」だけでもだめです、「自由」と「束縛」(不自由)の両方が必要なんです。でも、最近の子は「感じ、考え、自分の意志で行動する能力」や「言葉」を必要としない環境の中で育っています。まただから感覚の育ちも、心の育ちも遅れてしまうのです。そしてこれはお母さんたちも同じです。というか今の若いお母さんやお父さんが子どものころからこの傾向が一気に進み始めたのです。子育てでも勉強でも行き詰ったら、とにかくあれこれやってみることです。また、自分のからだと向き合うような学びを始めてみてください。そうすれば、人やモノに頼らなくても、自分で解決策を見つけることが出来ますから。
2025.06.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1

![]()
