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現代人は「頭」や「心」のことばかり気にして「からだ」のことをすっかり忘れてしまっています。子育てでも「からだ育て」よりも「頭育て」の方に熱心です。ゲームばかりやっていても、ちゃんと勉強しているのなら許されます。その結果「からだの育ち」が遅れてもです。学校でも、子どもの自由を奪い、椅子に固定し、先生が言ったことを覚えるだけの教育をしています。体育もルールによって体の使い方が決められたスポーツばかりやらされています。「体育座り」なんか、からだの専門家はみんな否定しているのに、学校ではそれが標準です。休み時間でも昔は普通だった「からだを使った遊び」も「ハラハラドキドキする遊具」も「危険だから」という理由で禁止されたり撤去されてしまいました。でも、それとともに子どものからだはさらに危険なことになってしまっています。社会も「バリヤフリー」とか「弱者に優しい社会」を目指すことで、からだを使わなくても楽に移動したり、様々なことが出来るようになりました。本来そのような機能を持った便利な機械やインフラは、老人や身体的不自由を負った人のためのものなんですが、今では子どもでも若者でも普通に使っています。目の前に老人が立っているのに、優先席に優先的に座っている若者もいっぱいいます。公園で、子どもたちが子どもらしく大きな声を出して、子どもらしく遊んでいるだけで「うるさい」と文句を言われるようになりました。放課後、校庭で遊ぶことも出来なくなったので子どもたちは家に帰ってゲームをするか、勉強をするか、習い事に行くしか出来なくなりました。その結果、子どもたちのからだも老人並みになってきました。体力も筋力も無く、疲れやすく、頑張りがきかず、体は固く、ちょっと転んだだけで簡単に骨を折ったりしてしまいます。手の使い方なんか老人たちよりも不器用です。でも、簡単で便利な機械が身近にいっぱいあるので、そのことが問題になることはありません。じゃあ、「それが今時の子どもだから」で済ますことが出来るのかというと、実際にはそんな簡単な話ではないのです。なぜなら、「からだの育ち」は「頭の育ち」や「心の育ち」と密接にリンクしているからです。現代人は忘れてしまっていますが、「頭の働き」や「心の働き」を支えているのは「からだの働き」なんです。そのため、「からだの育ち」が遅れた子は、「頭や心の育ち」も遅れてしまうのです。ただし、この場合の「からだ」は、スポーツで鍛えることが出来る「道具としてのからだ」とは別のものです。「感じ、考え、行動する主体としてのからだ」のことです。そして、この「からだ」が育つためには「自由」と「仲間」と「遊び」と「お手本」が必要になるのです。でも、これらのいずれも、現代の子どもたちの周囲から消えてしまいました。
2025.05.31
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「からだ」が満たされなければ「心」も満たされないのです。でも、現代人はこのことを忘れて「心を満たすもの」ばかりを求めています。でも、心だけを満たしても、その「満たされた」感覚はからだの中に定着していないので、蜃気楼のようにあっというまに消えてしまうのです。そのようなことを繰り返してもいつまでも満たされません。後に残るのは「喪失感」だけです。そしてその喪失感を埋めるために、また新しい「心を満たすもの」を求めます。その繰り返しで、次第に迷子になっていきます。そして私は、これが現代人の心の病の大きな原因の一つなのではないかと思っています。実際、山のような「愛しているよ」というラインやメールでの言葉より、たった一度の抱擁や優しく手を握ってもらった方が心が満たされるのです。でも、多くの人がこのことに気づいていません。そして、「満たされない心」に虚しさを感じて、「心を満たすこと」ばかりを求めています。でも、どんなに「心」を満たそうとして色々なことをやっても、「からだ」が満たされなければ「疑似的な満足」しか得ることが出来ないのです。それは「VR」の中でご馳走に囲まれて、山海の珍味を山のように食べてもお腹もふくれないし、心も満足できないようなものです。かえってお腹がすいてしまいます。私は先日、VRの中でエジプトに行ってきました。ピラミッドのてっぺんに立ったりしてすごく面白かったですが、でも、面白いだけで、からだは満たされませんでした。そして、からだが満たされないので充実感も感じませんでした。ですから、「頭の記憶」の中には残っていても「からだの記憶」の中には残っていません。そして「からだの記憶」の中に残っていないものはすぐに消えます。感覚や思考の土台にもなりません。私は45年近く前に、リュック一つで一年ほどヨーロッパやインドを歩いてきました。もう45年近く前のことなのに「からだの記憶」の中には残っています。秋風を感じるとスペインを想い出し、車のクラクションの音を聞いたり、ジャスミンの香りをかぐと瞬間的にインドにいたときのことを想い出します。それが「からだの記憶」です。虐待が連鎖してしまうのも、それが「頭の記憶」ではなく「からだの記憶」だからです。ゲームの中で勝てば「心の充実感」は感じるかも知れませんが、からだの充実感が伴っていないのでそれは一時的なものです。その時はどんなに嬉しくても、その嬉しさはすぐに消えます。そして喪失感だけが残ります。最初のうちはゲームが楽しかったからやっていたのでしょうけど、次第に慣れてそれほど楽しくなくなっても、やっていないと喪失感をじてしまうので、やめられなくなってしまうのです。そしてそのことが「〇〇依存」の増加につながっているのです。ゲーム依存、イベント依存、アルコール依存、買い物依存、スマホ依存、などなどです。「からだ」が満たされなければ「心」も満たされないのです。そして、心が満たされていない人は、心に余裕がないので、他者を受け入れることも、待つことも、感じることも、考えることも出来ません。そしていつもイライラしています。今、そんな人がいっぱいいます。VRの中で野原に行ってのんびりすれば一時的なストレスの緩和にはつながるかも知れませんが、リアルなからだが満たされたわけではないので、その効果は一時的なものです。私は、カウンセラーのところに行って色々と相談に乗ってもらうよりも、野原に行って昼寝をしたり、青空の下でおいしいお弁当を食べる方が悩みの解決にはつながるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?からだが求めている要求を満たしてあげれば心の要求も消えるのです。深呼吸するだけで心が軽くなったりするのです。問題は、その「からだの要求」を感じ取れない人が増えてきたことです。
2025.05.30
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人間には「外側を感じる力」と「内側を感じる力」の、二つの異なった「感じる力」を持っています。外側の世界のことを知るために必要なのは「外側を感じる力」です。そしてこの力はすべての生き物が持っています。この力が無いと環境に適応できないからです。「生きる」ということは「感じる」ということでもあるのです。「五感」と呼ばれるものがその「外側を感じる力」で、その五感に対応して目や、耳や、鼻や、皮膚や、舌といった感覚器官が存在しています。それらの感覚器官はすべて「内側」と「外側」を隔てている皮膚が変化して作られたものです。でも、「外側を感じる力」だけで生きている生き物たちは、その感じたことに反応して生きているだけで、能動的に「考える」ということはしません。というか出来ません。能動的に考えるためには「内側で起きていることを能動的に感じる力」が必要になるからです。バランス感覚のようなものは「内側を感じる働き」の一つで、多くの動物が持っていますが動物たちは内側で感じたことに素直に従っているだけで、それを能動的に認識することは出来ません。食欲や性欲も同じです。そして、「能動的に考える能力」の基礎になっている「能動的に自分の内側を感じる力」を持っているのは人間だけです。まただから、人間は「真・善・美」といった五感では扱えないものを感じることが出来るのです。ただし、その「内側を感じる力」の高さは人によって大きな違いがあります。「自分の感情に振り回されない人」、「待つことが出来る人」、「立ち止まって考えることが出来る人」、「周囲の出来事に振り回されない人」、「思いやりのある人」、「物事を深く考えることが出来る人」などは「能動的に自分の内側を感じる力」が強い人です。そのような人は「自分との対話」を通して周囲に振り回されずに、「自分らしさ」を保つことが出来るのです。その逆の状態の人、つまり自分の感情に振り回されてしまうような人はこの「内側を感じる力」が弱い人です。多くの場合、こういうことは道徳や人格の問題として考えられていますが、これは「心の問題」ではなく「感覚の問題」なんです。そして「感覚の問題」は「からだの問題」でもあります。人間でも幼い子どもたちはまだこの「能動的に自分の内側を感じる力」が非常に弱いです。だから「おしっこ大丈夫?」と聞いてもあまり意味がありません。自分の膀胱の中のおしっこの状態を感じることが出来ないのですから。おなかが痛いとき、頭が痛いときなどに、どの辺がどんな風に痛いのかを具体的に聞こうとしてもただ「おなかが痛い」「頭が痛い」を繰り返すだけです。「反省しなさい」などといっても、「能動的に自分の内側を感じる力」が育っていなければ反省は出来ません。目が閉じている状態の人に「ちゃんと見なさい」といっても無意味ですよね。目が開くのを待ってから言った方がいいですよね。この「能動的に自分の内側を感じる力」が目覚め始めるのが7~10歳前後なんです。そして、「能動的に自分の内側を感じる力」が目覚めることで、「自分の内側」と「外側」が分離して、外側で起きていることを客観的に見ることが出来るようになるのです。ただし、この年齢を過ぎてもこの能力の育ちが進まない子もいます。発達障害と呼ばれるような子はこの能力が低い傾向があります。だからゆっくりと動くこと、周囲に合わせて動くことが苦手です。発達障害でなくてもこの能力の育ちが後れている子もいます。そのまま大人になってしまう子もいます。そのような人は自分自身のことを客観的に見ることが出来ません。相手の立場に立って考えることも苦手です。その違いを生み出しているのが、それまでに「手やからだを使った意識的な活動」をいっぱいしてきたかどうかなんです。「物語体験」や、対話を通した「言葉体験」も非常に重要です。鉛筆でも筆でもなんでもいいですから、長くまっすぐな一本の線を引いてみて下さい。水平なまっすぐ、垂直なまっすぐ、斜めのまっすぐ。やってみれば分かりますが、結構難しいものです。きれいな円や螺旋を描くのも難しいです。このような行為が可能になるためには「外側に感じた感覚」と「内側に感じた感覚」をつなげる必要があります。内側と外側の対話です。からだの動きや手の動きを通して目で見た○と同じような○を描くためには、「外側に感じたこと」と「内側に感じたこと」を統合する必要があるのです。そしてそのような活動を通して「内側を感じる能力」が育っていくのです。この能力が育っていないと「あなたの考えを教えて下さい」と言われても、自分の内側を感じる力が弱いため、考えをまとめることが出来ません。また、待つのも苦手です。自分との対話が出来ない人は待てないのです。待たされるとイライラするのです。そして今、ゆっくりや、待つことが苦手な子どもや、大人や、お母さん達が増えて来ています。というか、そういう子や、大人や、お母さんが普通になってきてしまっています。
2025.05.29
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多くの人が「考える」ということと「感じる」ということを別のこととして考えていますが、実は、「考える能力」が育つためには、まず「感じる能力」が育つ必要があるのです。なぜなら、「感じたこと」を判断するために「考える」という能力が必要になるからです。これは進化の面から見ても明らかなことです。「考えるための脳」が出来てから「感じるための神経や感覚器官」が出来たのではなく、その逆に、感じたことを統合的に処理するために脳が生まれたのですから。それはつまり、「違いを感じることが出来ない人には考えるという作業自体が必要ない」ということでもあります。AとBの違いが分からない人には、「どっちを選んだらいいのか」などと考える必要がないのです。憂鬱質の人が色々と悩んだり、細かいことにこだわるのは「違い」に敏感だからでもあります。そしてそれが憂鬱質の才能でもあります。でも、「感覚的な違い」に鈍い人は、その憂鬱質の才能を短所として扱おうとします。「どっちの道に進んだらいいのか」ということを考えるためには、その道の違いが分かっている必要があります。その違いを知るためには感覚を働かせる必要があります。これは算数や数学の問題を解くときでも同じです。算数で、「数」や、「量」や、「早さ」や、「重さ」や、「比率」などの問題が出てきた時、日常生活の場で「数」や、「量」や、「早さ」や、「重さ」や、「比率」の違いを感覚的に感じることが出来ない子は、問題を読んでもイメージがつかめないのです。幾何の問題でも、図形を見ていて何も感じることが出来ない子は補助線を引くことが出来ません。また、感覚の働きが鈍い子は問題の文字を読むことは出来ても内容が理解できません。「理解」という作業にも感覚の働きが必要だからです。実は、「納得する」というのは感覚的なことなんです。絵に描いて考えようとしても、絵に描くことが出来ません。感じていないものは絵で描くことが出来ないからです。モネが「光」を描くことが出来たのは、「光」を感じることが出来たからです。言い換えると、「風」を感じることが出来るのなら「風」の絵を描くことも出来るのです。子どもに「この棒を真ん中で切って」とか「凧や飛行機を作るときには左右を同じにして」と指示しても、「真ん中」を感じることが出来ない子は「真ん中」を探ることが出来ません。そして適当に切ります。定規を持ってきて計ろうとする子もいますが、その子が知っているのは「知識としての真ん中」であって「感覚としての真ん中」ではありません。だから応用が利きません。そういう子は「コンパスがないと円が描けない」などと言います。左右対称に作ってある見本を見せても、好き勝手に切った自分の形との違いが分からない子もいます。緑にも色々な緑があります。青にも色々な青があります。その違いを感じることが出来る子は、色の使い方に悩むでしょうが、その違いを感じることが出来ない子は悩みません。それはつまり、考えないと言うことです。繰り返しますが、「考える能力」が育つためには、それ以前に「感じる能力」が十分に育っている必要があるのです。幼い子どもの「何で?」「どうして?」という疑問が生まれるのは、子どもの感覚が広い世界に向かって働き出したからなんです。子どもたちが「何で?」「どうして?」と聞いてくるのは、知識が知りたいわけではなく、感覚的に納得したいからなんです。「なんで空は青いの」と聞いてくるのは「光の散乱が・・・」という話が聞きたいからではないのです。でも問題は、狭い部屋の中でオモチャや機械といった人工的なものばかりに囲まれ、お母さんの指示に従うだけの生活をしている子は「感じる能力」が育ちようがないと言うことです。そのような「感じる能力」が育っていない子に勉強を教えても、暗記で処理するようになるばかりです。でも、暗記で覚えたことは応用が利きません。
2025.05.28
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人は誰しも考えていますが、その「考え方」も、「考える内容」も人それぞれです。気質が違えば、「考え方」や「考える内容」が違います。またその人が属している「文化」や、「生活環境」や、「使っている言語」や、「性別」や、「年齢」によっても「考え方」や「考える内容」は異なっています。日本語を使っている人と英語を使っている人、津軽弁を使っている人と関西弁を使っている人とでは考え方も感じ方も違うのです。だから、正解が一つしかない算数の問題などを解く時にも、子どもによって解き方が一人一人違うのです。その違いは単に算数能力の違いによってだけでなく、もっと別の要因の影響も受けているのです。よく「心を割って話し合えば分かり合える」などと言う人がいますが、あれは幻想に過ぎません。心を割って話し合うことで妥協点を見つけることが出来るだけです。分かり合えるわけではありません。海の近くで育った人が、海を見たことがない人に「海について」伝えようとしても伝わるわけがないのです。「愛」に触れ、囲まれながら育った人が、「愛」とは無縁な状態で育った人に「愛」について語っても伝わるわけがないのです。それに対して、AIにはそのような「考え方の個性」はありません。なぜなら、AIは0と1を使って演算しているだけで考えていないからです。AIによる違いは、与えられたデータや、性能や、設計思想の違いによって生まれているだけです。人間の場合、どうしてそのような「考え方の違い」が生まれて来るのかと言うと。人間は「物語」に従って感じ、考え、行動する動物だからです。そしてその「物語」は、「気質」や、その人が属している「文化」や、「生活環境」や、「使っている言語」や、「性別」や、「年齢」の影響を大きく受けています。だから、それらの要素が違うと「考え方」や「考える内容」も異なってくるのです。だから、我が子に「自分の頭で考えることが出来る人間」に育ってほしいのなら、子どもに「どういう物語を伝えるのか」ということが非常に重要になってくるのです。「人目を気にして生きる物語」を伝えれば、子どもはその物語に沿って感じ、考え、行動するようになります。「この世は競争だ」という物語を伝えれば、子どもはその物語に沿って感じ、考え、行動するようになります。「この世界は美しい」という物語を伝えれば、子どもはその物語に沿って感じ、考え、行動するようになります。「この世界は楽しい」という物語を伝えれば、子どもはその物語に沿って感じ、考え、行動するようになります。「世界にあるものはすべてつながっている」という物語を伝えれば、子どもはその物語に沿って感じ、考え、行動するようになります。その考え方の違いは、「生き方」においてだけでなく算数の問題を解くときにも表れます。皆さんはどういう物語の世界を生きていますか?どういう物語の世界を大切にしたいと考えていますか?どういう物語を子どもに伝えたいと思っていますか?子どもの「自分の頭で考える能力」を育てたいのなら、同時に物語も伝える必要があるのです。私は、レイチェル・カーソンという人が書いた「センス・オブ・ワンダー」という本が好きですが、あの本には、彼女が大切にした物語が提示されていますよね。子育てや教育においては、「知識」を覚えさせることよりも「物語」を伝えることの方が大切なんです。
2025.05.27
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人間にとっての「考える」ということは「自分自身と対話する」ということです。カラスやサルや犬などの動物たちも考えますが、それは「相手との対話」によるものであって、「自分との対話」によるものではありません。「相手との対話」によって考えることが出来るのは、カラスやサルや犬などと言った高等な動物だけではありません。植物も、ミミズも、昆虫も、生きているものは全て、自分の周囲にいる相手や周囲の環境と対話しながら生きています。ただしその「対話」は「言葉」ではなく「感覚」という働きを通しての対話です。この「感覚という働きを通した対話」を使えば、人間でも花や、木や、空や、宇宙と対話することが出来ます。そして、幼い子ども達はまずこの「感覚という働きを通した対話」を使って、自分が生まれてきた世界のことを知ろうとします。この対話能力は生まれつき持っている能力だからです。だから花が好きな子は花と、虫が好きな子は虫と、動物が好きな子は動物と対話しようとします。そしてその「対話」を通して「花のこと」「虫のこと」「動物のこと」を知ることが出来ます。(でも、機械との対話に夢中になってしまった子は機械以外の存在との対話には興味を感じなくなってしまいます。そして世界が閉ざされます。)大人でもこの能力は持っているのですが、なぜか人は大人になると「言葉による対話」にばかり依存するようになって「感覚を使った対話」を楽しまなくなります。そのため「花の声」「生き物たちの声」「空の声」「山の声」を聴くことが出来なくなります。「幼い子ども達の心とからだの声」も聴くことが出来なくなります。でも、大人になっても「感覚という働きを通した対話」(言葉に依存しない対話)が出来る人もいます。そのような人は謙虚に生きることが出来ます。幼い子ども達との「言葉に依存しない対話」を楽しむことも出来ます。人間がまだ自然の中で暮らしていた時代は、この「感覚という働きを通した対話」が非常に重要でした。この能力がないと獲物をつかまえることも、作物を育てることも出来ないからです。でも、人間が「自然」の中ではなく「人間が創り出した人工的な社会」の中で生活するようになってくると、「感覚という働きを通した対話」よりも「言葉を使った対話」の方が重要視されるようになってきました。環境を構成する要素が「自然」から「人間」へと変化したからです。それでも生活の中に機械が入り込む前は、人間は「人間との対話」においても「言葉」だけでなく「感覚を使った対話」も同時に行っていました。だから「言ったこと」だけでなく「言いたかったこと」も同時に読み解くことが出来たのです。言葉が苦手な幼い子ども達の「言葉化されない言葉」も聴きとることが出来ました。でも「人と人の間」に機械が介在するようになってくると、人は「文字化できる言葉」だけで対話をするようになりました。そして「感覚の働きを使った対話」が急激に消えました。そして「言葉を持たない存在の声」を聴きとる能力も低下しました。環境破壊が起きたのはその結果です。それと同時に「自分と対話する能力」も低下しました。「自分の中の声」は「感じる働き」によってしか聞き取ることが出来ないからです。そしてそれが「考える力の低下」とつながっています。その状態の人は、自分のことなのに「自分が何を考えているのか」ということもよく分かっていません。だから、やってしまってから「これは私がやりたかったことではない」と気づいたりするのです。また、幼い子どもが「考える力」を育てるためには「子どもの言葉に耳を傾けてくれる大人」の存在が不可欠です。「言葉を押し付けて来るだけの大人」に育てられた子は「考える力」を育てることが出来ません。それは、幼い子どもは「子どもの言葉に耳を傾けてくれる大人」に話を聞いてもらうことで、その相手を内化して「自分自身と対話する能力」を育てているからです。いつもお母さんに話を聞いてもらっている子は、「心の中のお母さん」にも話しかけることが出来るようになります。それが「内化する」ということです。また、描いたり、歌ったり、踊ったり、創ったりというような表現活動を通しても、子ども達は「自分と対話する能力」を育てることが出来ます。自分の内側にあるものを一度外に出してみることで、自分との対話がしやすくなるからです。そのため、アーティストと呼ばれる人はみんな「自分自身との対話能力」が高いです。考えがまとまらない時に、それを図式化したり、カードに書き出したりしてあれこれ動かしてみると考えがまとまることがありますが、それも同じです。自分の考えを実際に音声に出して自分の耳で聞いたり、文字に書いて自分の目で見たりするだけでも思考は進みます。ただし、「自分と対話する能力」と、「人間の特性としての思考能力」(論理的に考える能力)は同じものではありません。確かに、思考するためには「自分と対話する能力」が必要不可欠ですが、それだけでは「主観的な思考」だからです。アーティストと呼ばれる人が得意なのもこの「主観的な思考」です。それが「客観的で論理的な思考」になるためには、具体的な他者との具体的な体験を通して、自分の中で論理的な対話を行う必要があります。と書くと難しそうですが、要は「論理的に考える能力を育てるためには、「思い通りにならない相手とどううまく関わるのか」ということを考える体験が必要だと言うことです。自分とは異なった価値観を持った相手と出会う体験です。「自分とは異なった価値観を持っている相手」に「自分の価値観」を押しつけても対話は出来ません。だから「相手も共有することが出来る共通の論理」を探してそれを使う必要があるのです。「科学」もその「相手も共有することが出来る論理」の一つです。日本人同士なら「日本語」もまた「相手も共有することが出来る論理」の一つになります。議論という方法も「相手と共有することが出来る論理」を身につけるために役に立ちます。工作などもそのような活動の一つです。それはつまり、「不自由と出会い、その不自由をどう乗り越えるのかということを考えるときに、論理的(客観的)に考える能力が育っていく」ということです。
2025.05.26
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最近の子ども達と接していて感じるのは「考える力(想像力)が弱い」ということです。まただから「闇バイト」のような、ちょっと考えればヤバイということが分かるような犯罪に軽い気持ちで手を出してしまうのでしょう。イジメも同じです。相手の苦しみや悲しみを想像することが出来ないから、平気で他の子をいじめることが出来るのです。そしてまたそれを「イジメ」として認識することが出来ないのです。これは子どもだけに起きている現象ではありません。大人でも同じです。薬やワクチンやマスクや消毒薬には良い面もあれば悪い面もあるのです。だから、状況に応じて自分の感覚や心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断して使い分ける必要があるのです。でも、多くの人が何かを信仰するように思考停止して医者や国の言うことをそのまま信じてしまっています。それは、薬やワクチンやマスクや消毒薬を全否定する人も同じです。だからこの両者は会話が成り立たないのです。「正解」を求め、「正解」にすがるような人は自分の頭で考えていないのです。でも、人生に正解など存在していません。存在していないものにすがって生きていたら迷子になってしまいます。子育ても行き詰まります。でも今、「正解」を求める人が多いのです。「親ガチャ」「子ガチャ」という考え方も、自分の頭で考えない人の発想です。カスハラを繰り返す人も自分の頭で考えない人です。子育てでも多くの人が「正解」を求めています。その正解に囚われることで、「子どもが苦しむようなこと」や「子どもの成長を阻害するようなこと」でも、「これは子どものためなんだ」と思い込み、虐待にまでなってしまっている人もいます。「学校に行く、行かない」ということは、子ども一人一人の状態や事情に合わせて個別に考えるべきことなんですが、多くの人が社会的な常識を正解として受け入れ思考停止してしまっています。その「思考力の低下」は、造形活動の場で子ども達と接しているとすごくよく分かるのです。ちょっと考えれば簡単に分かるようなことなのに、全然考えようとしない子が多いのです。というか、「考えるということはどういうことなのか」ということ自体が分からないような子が増えてきたのです。また、やってみなくても分かるようなことでも、やってみてから「あれ! どうして?」という反応をすることも多いです。それは例えば、犯罪を犯したら警察に捕まるのは当たり前なのに、警察に捕まってから「あれ! なんで?」と反応するようなものです。椅子を作るときに足の長さをバラバラに切ったら、出来上がった椅子がガタガタするのは当たり前なのにそれが分からない子が多いのです。見るからに触れたら簡単に壊れてしまうようなものに触れて壊してしまったのに、「壊れるとは思わなかった」と言う子もいます。ちゃんと測らず、適当に切ったのに「長さが合わない」と言って来る子もいます。「いや、それは当たり前だろ」と思うのですが、最近の子は私の想像を超えて来ます。その原因は想像力の欠如です。弓矢をやらせると「飛ばない」と言ってくる子がいます。それで「どうやって飛ばしているの?」とやって見せてもらうと、矢を弦につがえることなくただ矢と弦を一緒に持っているだけだったり、弓を逆向きに持っていたりします。それでは飛ばなくて当たり前だし、それで飛んだら魔法です。でも、子ども本人はなんとなく弓を飛ばすような格好をするだけで矢が飛んでいくと思い込んでいるのです。これは子どもだけではありません。お母さんたちに弓矢を渡しても同じようなことが起きます。想像力がある子なら、飛ばし方を教わらなくても、ちょっと見て、触れてみればどうやって飛ばしたらいいのかがすぐに分かるのですが、それが出来ないのです。数回失敗を繰り返して方法が分かる子もいれば、何回失敗しても分からなくて放り出してしまう子もいます。このような状態の子どもたちにとっては、因果の論理で成り立っている算数や数学や物理を理解するのは非常に困難だと思います。私が教室を始めた頃、子どもに知恵の輪などを与えると、一生懸命に、「あーでもない、こーでもない」と試行錯誤していました。でも、最近の子に知恵の輪を与えると、自分で試す前に「どうやって外すの」と聞いてきます。造形の場では、そのような、「自分の思い込みが通じない体験」を通して、自分の頭で考える能力が育って行くのですが、幼児期に手やからだを使って考えるような活動をしてこなかったような子は、「自分の思い込みが通じない」と分かった時点でその活動を放棄してしまうことが多いのです。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、文中にも書いていますが、幼い頃から手やからだを使って遊んできたような子は、造形などの場で「思い通りにならないこと」と出会っても、自分の頭で考えて何とかしようとすることが多いのです。どうして、手やからだを使って遊んでいる子にそのような能力が育っているのかというと、「手やからだを使った遊び」は自由度が高いので、自分の頭で考え、色々と工夫することで楽しく遊ぶことが出来るからです。というか、おもちゃや、ゲームや、遊具といった「遊ばせてくれるもの」がないようなところでは、自分の手や、からだや、そこにあるものを使い、自分の頭で色々と考えて工夫しないことには楽しく遊べないのです。何もないところで楽しく遊ぶためには、自分の頭で考えて工夫するしかないのです。でも、自分の頭で考えて工夫すれば、無尽蔵に楽しいことを発掘することが出来ます。それに対して、人工的に作られたゲームやおもちゃには「遊び方の正解」が与えられています。その「決められた遊び方」の中での工夫は可能ですが、遊び方をゼロから考えるような自由度はありません。レゴは比較的自由度が高いおもちゃですが、それでも、レゴのルールには従う必要があります。レゴに絵を描いたり、のこぎりで切ったり、接着剤で貼ったり、投げて遊んだり、角をヤスリで削ったりしたら叱られます。自分の頭で考える能力が育っていなくても、学校という「やることが決められている場」ではそれほど不自由を感じないかも知れません。でも、自分の頭で考える能力が育っていない子は、学校を出て「自分がやることは自分で決めなければならない」という状態になったら、急に不自由を感じて身動きがとれなくなってしまう可能性が高いのです。今日、ネットのニュースを見ていたら、以下のような記事を見かけました。29年間で中3の正解率が2割も減った「数学者が異常を感じた設問」 背景にある教育の歪みの正体とは
2025.05.25
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最近の子ども達は、あきれるくらい不器用です。ヒモを結べないのは当たり前。輪ゴムをつなぐことも、包丁やナイフやノコギリやトンカチを使うのも全く下手です。弓矢を飛ばしたり、コマを回したり、竹とんぼを飛ばしたり、紙飛行機を作って飛ばすことも下手です。紙飛行機は空気(風)に乗せてあげるように押し出さないと飛ばないのですが、ボールを投げるような感覚で投げてしまう子が多いのです。粘土でも、綺麗に丸い球や、サイコロのような四角い形を作れません。球の形もサイコロの形も知っているのですが、いくらやっても、球やサイコロに近づかないのです。本人にもどうして出来ないのか分かりません。そういう子は、手の感触で粘土と対話しながら形を作るのではなく、頭でむりやり丸くしようとするのです。「粘土との対話」が出来ないのです。それはつまり「手との対話」が出来ないということでもあります。「自分の手」との対話が出来ないから、「包丁やナイフやノコギリやトンカチなどとの対話」も出来ないのです。だから、思い通りに包丁やナイフやノコギリやトンカチなどを使うことが出来ないのです。そして、力づくで従わせようとします。だからケガをしたり、すぐに疲れます、上手く行きません、イライラします、そしてすぐに諦めます。「対話」が出来る子は「対話」を通して「どうしたらいいのか」を探ることが出来ます。だから、そう簡単にあきらめないのですが、「対話」が出来ない子は目を閉じて歩いているようなものですから、頑張りたくても、頑張ることが出来ないのです。目を閉じて山に登ろうとしている子に「頑張れ」と言っても無理ですよね。無理して登らせたらケガをします。そして今、その「自分の手との対話」「自分のからだとの対話」が出来ない子が非常に多いのです。でも、お母さんたちも、世の中の大人たちも、子どもたちのそのような状態を知りません。「そのような能力が育つ遊び」をさせてこなかったからその能力が育たなかったのだし、また、そういう遊びの場での子どもの姿を見る機会がなかったから「その能力が育っていない」ことにも気付かないのです。小さい時から歩かないで育った子は大きくなっても歩けません。「2才になったから、3才になったから歩ける」ということではないのです。そんなことちょっと考えれば当たり前のことなんですが、今、その「当たり前」が分からない人が多いのです。そして今「歩き方」や「走り方」が下手な子が多いです。そういう子は、おかしな歩き方、おかしな走り方をするのです。当然、すぐ疲れます。このような事を言うと、「今の時代、人間の代わりに色々なことをやってくれる便利な機械がいっぱいあるから、手やからだの使い方が不器用だっていいじゃない」という人も多いのではないかと思います。でも、「自分の手やからだと対話する能力」が育っていない子は、「自分との対話」も苦手なんです。そして「自分との対話」が苦手な子は「他の人との対話」も苦手なんです。話すことは出来ても聞くことが出来ないのです。そして今、子どもだけでなく大人でも、そのような状態の人がいっぱいいます。クレイマーと呼ばれる人は、自分の意見や都合を一方的に押し付けるだけで、相手の言葉に耳を傾けません。子どもに対して同じような子育てをしているお母さんもいます。一見、全く関係がないように見えますが、クレーマーと呼ばれる人の増加と、手やからだを使った遊びの消滅は関係しているのです。というか私にはそうとしか思えないのです。実際、手仕事など「手を使った活動」が得意な人で、一方的に自分の意見を押し付けてくるような人は、私の周囲にはいません。逆に、人の言葉に耳を傾けるのが苦手な人は「手を使った活動」も苦手なような気がします。
2025.05.24
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私が造形教室を始めたのは、長女が5才で、長男が3才の頃です。どうして「造形教室」だったのかというと、それまでの様々な「子どもに関する、人間に関する学び」を通して、「そのくらいの年齢の子には手を使った活動が必要である」ということを知っていたからです。現代人にとっては手は「道具」に過ぎません。脳が感じ、考えたことを出力するための道具です。ですから、「脳が育てば自然に手も使えるようになる」と考えています。でも成長過程にある幼い子どもたちにとってはその流れは逆なんです。手を使った活動を通して、子どもたちの「感じ考える能力」が育っているのです。手を使った活動(対話)を通して入力を行っているのです。(AIも同じことをしています)人間の能力は、放っておけば自動的に育つように出来ているわけではないのです。人間の能力の多くは、日常的に使うことで育つように出来ているのです。DNAに書き込まれているのはその能力への可能性だけだけであって、その能力自体は書き込まれていないのです。「言葉の学び」でも同じです。言葉を介した様々な活動を通して、人は言葉を使い、言葉で考えることが出来るようになるのです。考える能力もその過程で育ちます。「考える能力」が育ったから言葉が話せるようになるのではないのです。でも困ったことに、今、そこのところが分かっていない人が増えてきているのです。幼い子どもに話しかけることも、子どもの言葉に耳を傾けることもせずに、「言葉が話せるような年齢になったら子どもは自然に話せるようになる」と思い込んでいる人がいっぱいいるのです。それで言葉の発達が遅れて小児科を訪れる人もいるみたいです。ある小児科の先生の本に書いてあったことですが、「うちの子、言葉の発達が遅いんですけどどうしたらいいでしょうか?」と相談に来たお母さんに、先生が「お子さんが小さいときにいっぱい話しかけをしましたか?」と聞いたら、「言葉が理解できない赤ちゃんに話しかけることにどういう意味があるんですか?」と言い返されたそうです。このお母さんは、「言葉が話せる年齢になったら、子どもは自動的に話せるようになる」と思い込んでいたのでしょう。そして、「言葉の使い方」だけでなく、「心の使い方」、「頭の使い方」「感覚の使い方」「からだの使い方」、「手や指の使い方」などでも、「大きくなったら自然に使えるようになる」と思い込んでいる人がいっぱいいるのです。でも、実際にはそんな魔法のようなことは起きないのです。そして、大きくなっても自分の能力を使えない我が子を見て「ちゃんと感じろ」「ちゃんと見ろ」「ちゃんと考えろ」「なんでこんなことも出来ないんだ」「なんでこんなことも分からないんだ」と叱ります。そういうものが育つために必要な環境を与えてこなかったのに・・・。「考える能力」が育っていない子は「考えるとはどういうことなのか」ということが分かりません。だから、「もっとしっかり考えなさい」と言っても、何を言われているのかすら理解することが出来ません。「感じる能力」が育っていない子に「もっとしっかり感じろ」と言っても、何を言われているのか理解することが出来ません。そして、子どもたちの成長の出発点にあるのが「言葉の体験」と「手を使った活動の体験」なんです。このどちらがかけても、子どもの成長には困難が生じてしまうのです。人類が「知性を持った人間」になったのも、「言葉の体験」と「手を使った活動の体験」があったからです。
2025.05.23
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現代社会では、子ども達は「消費者」として扱われています。実際、子どもをターゲットにしたおもちゃや、あそび場や、イベントや、様々な教室がいっぱい存在しています。そして、そういう場で子ども達は「お客様」扱いされています。そして、子ども達もまた「お客様扱い」をされることに慣れていて「お客様扱い」を求めます。うちの教室でも、材料を無駄に使っているので注意すると「材料費払っているんだからいいだろ」などと言う子もいます。また「手伝ってくれて当たり前」的な事を言う子も多いです。子どもによっては「代わりにやって」などと図々しことを言う子もいます。うちも月謝をもらってやっている教室ですが、お金だけを目的にして活動しているわけではないので、そういう要求にははっきりと「NO」と言います。すると「いじわる」などと言われます。(私の活動は、もともと我が子に、「仲間と共に一緒に作ったり、遊んだりという体験」をしてもらいたくて始めたものです。近くにそういう場がなかったのと、以前からそういう活動をしたかったので自分で作ってしまったのです。)でも、最近の子ども達の造形能力の初期値があまりにも低いので、最初は、求められれば教えます。待っていても永遠に出来ないことが予想できるからです。同じものをまた作りたいという場合は、二度目は出来るだけ自分でやらせます。やってみたけど分からなくて前に進めない所だけを教えます。三度目は、原則として解決できるまで自分で考えさせます。でも、お客様感覚の子は私が教えたことを聞いていません。私がやって見せても見ていません。そのため、何回同じことをやっても、最初から躓きます。最近、「能動的に見る、聞く、感じる、考える、やってみるという能力」が育っていない子が本当に多いのです。これらは「お客様」には必要がない能力ですからね。お客様に必要なのは「注文(要求)」と「お金」だけです。大人はそのお金を自分の意思で働いて稼いでいるので、消費者であると同時に生産者でもあるのですが、子どもは受動的に親から貰っているだけなので完全なる消費者です。そのため、消費者としての体験しか出来ません。昔の子は「お手伝い」をしましたが、最近の子はあまりお手伝いもしないみたいです。簡単で便利が機械がいっぱいあるので、お手伝いを必要とする場面がないからなのでしょう。また、子どもが「手伝いをしたい」と言っても、手伝われると余計に手間と時間がかかってしまうので、「テレビでも見ていて」「ゲームでもやっていて」などと、子どもにはやらせないお母さんも多いです。でも、家でよくお手伝いをしているような子は、造形の場でも能動的に動けるのです。昔の子どもたちは「能動的に見る、聞く、感じる、考える、やってみるという能力」を遊びの場で育てていましたが、実は「お手伝い」でもそのような能力が育っていたのです。ただし、大人の指示や命令に従わせるだけのお手伝いでは、その能力は育ちません。それにそれは「労働」であって「お手伝い」ではありません。「お手伝い」では「共に」という意識が必要になるのです。「震災の復興のお手伝いに行く」という場合も同じですよね。「現地の人達と共に」という意識がなければ「お手伝い」にはなりませんよね。お手伝いの場では、子どもを「労働力」としてではなく「仲間」として扱うのです。すると子どもは、何でもかんでも受け身の消費者ではなく、自分の意思で能動的に活動する生産者としての意識も持つことが出来るようになるのです。「子どもの群れ」や、「機械や道具に依存しない遊び」がほぼ全滅してしまった現代社会では、「お手伝い」だけが唯一残された「能動的に見る、聞く、感じる、考える、やってみるという能力」を育てる場なんです。ですから、面倒くさがらず、子どもが失敗しても、汚しても、のんびりやっていても、温かい目で付き合ってあげて下さい。そうすると、子どもはやがてお母さんの強力な協力者になってくれますから。
2025.05.22
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4月から、Zoomで、「ゆりかご」という子育てについて色々お話しする講座をやっています。毎月、第四金曜日、10:00~12:00 2000円/回5/23日が二回目になります。23日は、気質など、子どもを理解するために必要な様々な要素についてお話しさせていただきます。ご興味のある方はkodomotachihe@yahoo.co.jpまでお問い合わせください。
2025.05.21
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私は、子どもが自信や自己肯定感を育てるために必要なのは「成功体験」ではなく「やりきる」という体験だと思っています。「成功した」とか、「失敗した」とか、そんなこと関係がありません。それが大人から見て「素晴らしい活動」であるか「くだらない活動」であるか」ということも関係ありません。泥んこでグチャグチャするだけの遊びでも、それが「やりたいこと」ならば、それをやり切ることで子どもは自信を得ることが出来るのです。そもそも、子どもの遊びには「成功」も「失敗」もありません。あるのは「楽しいか」「楽しくないか」だけです。成功とか失敗とか、そういう結果や評価にこだわるのは大人だけです。結果の如何に関わらず、内容の如何に関わらず、本人が自分の意思で取り組み、そして気が済むまでやり切った子は、そこから「自分の成長に必要な何か」を学ぶことが出来るのです。そして、やり切ることで「次のステップ」に進むことが出来るのです。なぜなら、それが「自分の成長に必要なこと」だからこそ、夢中になって取り組むことが出来るのですから。お腹が空いている子は、食事を美味しく食べることが出来ます。そして、食べたものを消化吸収するのも早いでしょう。それと同じようなことです。でも、「そんなことしていないで勉強しなさい」とか、「危ないからやめなさい」とか、「汚いからやめなさい」とか、「うるさいからやめなさい」とか、「片づけないんだからやめなさい」とか、大人の価値観による様々な理由で「やりたいこと」を止められた子は、「やり残したこと」が「しこり」となって固まり、子どもの成長を阻害する「詰まり」になってしまうのです。ちゃんと排泄するから、食欲がわき、ご飯を美味しく食べることが出来るのです。いま「意識の中に詰まっているもの」を出し切るから新しいものが入ってくるのです。私がそのことに気付いたのは大人のワークをしている時です。話したいことがある人に、話し切るまで話をさせると、こちらが特別に何も言わなくても、勝手に次のステップに進んでしまうのです。M.エンデが書いた「モモ」という物語にも同じようなことが書かれています。悩み事がある人が、モモという女の子の所に行って、ただ話をしているだけで、モモは何も言わないのに「どうしたらいいのか」が分かってしまうのです。気質の勉強会では「木」の絵を描いたりもします。ただし、「木の形」を描くわけではありません。「木」の中で自分が一番気になるところを描き切ってもらうのです。すると、根っこばかりを延々と描き続ける人も、幹だけを延々と描き続ける人もいます。でもそうやって描きたいところだけを夢中になって描いていると、やがて、「もういい」(満足した)というポイントが訪れるのです。そして、そことつながっている他の部分を描きたくなるのです。根っこばかり描いていた人が根っこを描き切ると、幹が描きたくなったりするのです。幹ばかり描いていた人は、根っこや枝が描きたくなるのです。出し切ることでこだわりが消え、意識を占有していた「小さな世界」が消え「より大きな世界」の存在に気付くのでしょうか。昔の子ども達は「自分の意思とアイデアで自由に活動できる場」で、「時間」も「大人の目」も気にしないで、仲間と一緒に夢中になって遊ぶことが出来ました。だから「遊びきる」ことが出来たのですが、最近の子ども達にはそのような場も時間もないし、あそびを共にする仲間もいません。今の子ども達は、大人の目がある場でしか遊べません。そして、大人によって行動を評価されています。「遊び」でさえ、大人の価値観に合ったものは肯定され、価値観に合わないものは否定されています。「(他者に迷惑をかけない限り)自由な遊び」は子どもの権利なのに、大人の許可がないと遊べなくなってしまっているのです。洋服を汚しただけで叱られます。色々なものを触れるのも「不潔だからやめなさい」と止められます。大きな声を出すと「うるさい」と叱られ、走り回ると「じっとしていなさい」と叱られます。そんな今の子ども達が、自由に遊ぶことが出来るのは「ゲームの世界」の中だけです。でも、ゲームの中では遊びきれないのです。そのゲームに飽きたら新しいゲームを買うことは出来ても、自分の成長のステップを前に進めることは出来ないのです。ゲームの中には「楽しいこと」はあっても、「子どもの成長に必要なもの」は存在していないからです。だから成長できずに、(困った意味で)「子どものままの大人」が増えてしまったのではないかと思います。
2025.05.21
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あとよく分からないのが、巷でよく見聞きする「成功体験」という言葉です。この言葉もまた、「子どもに色々な体験をさせてあげよう」という文脈で使われているような気がします。最近、自己肯定感が低い子、自分に自信がない子、生きる希望を持てない子、ゲームなどの一時的な快楽ばかり求める子、どう生きたらいいのか分からない子が増えています。これは子どもだけではありません。大人たちも同じです。子育てをしていても「自分が何をしているのか」よく分かっていなかったり、「自分がやっている子育てに自信が持てなくて悩み、迷っている人」がいっぱいいます。そのような状態の人は当然「頑張る」ということも出来ません。「自分がやっていることの意味」が分からなければ「頑張る理由」が生まれないからです。また、「どこをどう頑張ったらいいのか」ということも分かりません。「方法」は「目的」に応じて生まれるものだからです。そして、頑張ることは出来ないのですが、やめることも出来ないので、子どもも大人も苦しみの中でひたすら耐えています。でも、そのような状態では「子どもの成長を支えるような子育て」は出来ません。子どももまた、「自分の成長につながるような体験」が出来ません。そのような状態に対して「それは成功体験が少ないからだ」と説明する人がいます。そして、「子ども達にもっと成功体験を与えよう」と言っている人もいっぱいいます。でも、この「成功体験」も、昨日書いた「体験格差という言葉で語られる体験」と同じ質のもののような気がします。ちなみに、「子育て 成功体験」と入れて、Googleに検索させてみたら、AIは以下のように答えてくれました。大体こんな感じなんでしょう。AI による概要子どもの「できた!」という成功体験は、自己肯定感を育み、自信と前向きな気持ちを育む上で重要です。成功体験を積み重ねることで、子どもは自信を持って新しいことに挑戦し、困難にも立ち向かうことができるようになります.成功体験を育むための具体的な方法小さな目標を設定し、達成感を味わえる機会を増やす:子どもが達成しやすい目標を設定し、達成できた際には、言葉で褒めたり、一緒に喜びを分かち合ったりすることで、成功体験を実感させましょう.子どもが興味を持つ分野で、成功体験を積む機会を作る:子どもが好きなこと、興味のあることに取り組むことで、より多くの成功体験を味わうことができます.失敗を恐れずに、挑戦する姿勢を育む:失敗をしても、それを学びの機会と捉え、次への挑戦を促す言葉かけを心がけましょう.過程を褒め、自己肯定感を育む:結果だけでなく、努力や過程を認めて褒めることで、自己肯定感を高めることができます.家族で協力し、子どもの成長を応援する:家族みんなで子どもの成長を応援し、成功を祝うことで、子どもはより自信を持って行動できるようになります.成功体験のメリット自己肯定感の向上:成功体験を積むことで、子どもは自分の能力を信じ、自信を持つことができます.前向きな姿勢:成功体験を重ねることで、失敗を恐れずに新しいことに挑戦する姿勢が育ちます.困難への挑戦:成功体験がある子どもは、困難に直面しても、粘り強く立ち向かうことができるようになります.コミュニケーション能力の向上:成功体験を語ることで、自己表現能力が向上し、コミュニケーション能力も高まります.これを読むと、昨日の「体験格差」と同じ視点ですよね。「大人が期待する効果、目的に合わせて、大人が管理、指導して子どもに、子どもの成長につながるような有意な体験を与える」ということですよね。また、大人主導だから商売としても成り立つのでしょう。でも、成功体験を得るためには、まず、その活動に自分の意思で能動的に取り組む必要があります。そして、自分の意思で能動的に取り組むためには、その活動の中に「自分にとって意味のある目標」を見つける必要があります。やりたくもないことをやらされて成功して褒められても、少しもうれしくありませんから。「大人が課題を与え、上手く出来たら褒める」という、犬の調教のような成功体験で子どもが学ぶことが出来るのは、「こうすれば大人は喜ぶんだ」という「大人の喜ばせ方」だけです。犬は「人間を喜ばせる方法」を学ぶことで、美味しいものをもらったり、可愛がってもらったりすることが出来ます。そして、人間に飼われている犬にはそれ以外の能力は必要ありません。でも、人間の子どもはやがて親の保護から離れて自立しなければなりません。でも、「大人が課題を与え、上手く出来たら褒める」という方法では、「大人に依存する能力」ばかりが育ってしまって「自分の意思と能力で自立する能力」が育たなくなってしまうのです。成功体験が子どもの成長に有意に働くためには、その活動が「子ども自身が選んだもの」である必要があるのです。「子ども自身が選んだもの」だから、その活動に能動的に取り組むことも、色々と工夫することも出来るのだし、自分の意思で能動的に取り組んだからこそ成功した時には嬉しいのです。また、失敗したとしても、失敗からも多くを学ぶことが出来るのです。問題は、多くの場合「子どもがやりたいこと」と「大人がやらせたいこと」が一致しないことです。「子どもがやりたいこと」は大人から見たら、「役に立たないこと」「くだらないこと」「困ったこと」ばかりです。棒を振り回す、水たまりで遊ぶ、木に登る、崖に登る、石を拾う、大きな声を出して走り回る、などなどです。それで大人たちは、そういう「無駄なこと」を止めさせ、「大人たちにとって意味と価値のある活動」をさせるために、「課題を与え、上手く出来たら褒める」という方法を使おうとするのでしょう。「子ども達にもっと成功体験を与えよう」というような文脈で語られる「成功体験」も同じようなもののような気がします。繰り返しますが、それは犬の調教で使われる方法と同じものです。でもこの成功体験は子どもの成長も自立も支えてくれません。「見せかけの自己肯定感」は育つかもしれませんが、この「自己肯定感」は、自分の心とからだの中に根拠がないのでもろいです。ちょっと失敗しただけで、ちょっと上手く行かなかっただけで簡単に崩れてしまいます。学生時代は自信満々の優等生だったのに、会社に入ってちょっと叱られただけで挫折してしまう子もいます。子どもが生まれる前は「子どもはしつけ次第でなんとでもなる」という自信を持っていたのに、実際の子育てが始まると、「思い通りにならない子ども」、「思い通りにならない自分」という現実にぶつかり、あっという間に、それまでの自己肯定感が崩壊してしまうお母さんもいっぱいいます。 でも、「大人の期待に応えることによって得た自己肯定感」は簡単に崩れてしまうのですが、「自分の心と感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断することで生まれる自己肯定感」は、そんな簡単に崩れないのです。でも、そのような自己肯定感が育つためには「やりたいことを思いっきりやってみる体験」が必要になるのです。大人から見たらどんなにくだらないこと、意味が無いことであっても、また、失敗しても成功しても、「やりたいことを思いっきりやってみる体験」が、簡単には崩れない自己肯定感を育ててくれるのです。
2025.05.20
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最近、「体験格差」という言葉をよく聞きます。またこれは「親ガチャ」という考え方ともつながっています。Googleで検索したら以下のように書かれていました。少し長いですがそのまま引用させてもらいます。(改行など一部手を入れてあります)<AI による概要>「体験格差」とは、子どもが学校外で経験できる機会(習いごと、旅行、レジャーなど)に、家庭の経済状況や環境によって差が生じている状態を指します。具体的には、低所得家庭の子どもたちが、経済的な理由や親の働き方、その他の事情で、他の子どもたちが当たり前に経験できるような活動を、十分に経験できない状況を指します。体験格差の具体的な内容経済的な要因:経済的な状況によって、習い事の費用や旅行の費用が負担できず、体験の機会が限られる。親の働き方:両親が多忙で、子どもを体験活動に連れていけない、あるいは子どもが家事や介護をしなければならない状況。親自身の経験:親自身の体験活動の経験が少ないため、子どもに体験活動の重要性を認識していない場合。地域環境:地域の資源や施設が不足しており、体験活動の機会が限られる。体験格差の影響子どもの成長への影響:体験活動は、子どもの能力開発、コミュニケーション能力の向上、社会性を育む上で重要であり、体験格差は子どもの成長に悪影響を及ぼす可能性がある。社会的な影響:体験格差は、社会的な不公平感を生み、貧困の連鎖を助長する可能性がある。教育格差との関連:体験格差は、教育格差と密接に関連しており、教育を受ける機会の不平等を生み出す可能性がある。体験格差の解消に向けた取り組み経済的な支援:低所得家庭の子どもたちに対して、習い事費用や旅行費用を助成する。親のサポート:多忙な親をサポートし、子どもと体験活動を楽しむ時間を確保できるようにする。地域資源の活用:地域資源を活用し、子どもたちが体験活動に参加できる環境を整える。啓発活動:体験格差の現状を広く伝え、社会全体で解決策を検討する。と、まあこんな感じです。一見もっともな感じもするのですが、でも、国全体が貧しかった昭和20年代生まれの私には、この考え方に「ちょっと待てよ」と引っかかるものを感じるのです。私が子どもの頃は習い事をしていない子もいっぱいいました。特別な時しか旅行に連れて行ってもらえない子もいっぱいいました。地域に子どものための施設なんかありませんでした。私の家の周辺には公園すらありませんでした。子どもは日常的に家事を手伝わされていました。今でも、経済的に豊かではない国で暮らしている子どもたちはみんな同じ状態でしょう。じゃあ、そんな時代の子ども達は体験不足だったのかというとその逆でした。経済的に豊かな現代社会の子ども達よりも、よっぽど色々な体験をいっぱいしていました。それは「お金が必要な体験」ではなく「お金が必要ない体験」でした。「親や大人の支援が必要な体験」ではなく、「子ども達が自分たちの意思で、自分たちで発見し取り組んだ体験」でした。「人工的な施設が必要な体験」ではなく、「どこででも出来る体験」でした。昔の子ども達にとっては町全体が遊び場だったのですから。高価な知育玩具はありませんでしたが、自由に切ったり、貼ったり、つないだり、絵を描いたり、集めて並べたり、振り回したり、投げたりして遊ぶことが出来る木の枝や、葉っぱや、木の実や、水や、土や、自由に走り回れる野原や、路地裏などがありました。新聞紙、空き箱などの家庭の中の不用品でも遊びました。また、それらを使って遊ぶ活動を一緒に楽しんでくれる仲間がいました。また、自由に遊ぶ時間もありました。そして、時には危険でも、泥だらけになっていても、自由に遊ぶ子ども達を温かく見守ってくれる大人たちもいっぱいいました。確かに子どもの成長には多様な体験が必要なのは事実です。でも、子どもの成長に必要なのは、「与えられた体験」ではなく、「自分たちで発見し、自分の意思で能動的に取り組むことで得ることができる体験」なんです。それは「お金では買うことが出来ない体験」です。子ども達の体験不足を補うために必要なのは「お金」そのものではなく、「お金至上主義の価値観」、「お金がないと何も出来ない」という思い込みに縛られた大人たちの「意識改革」なのではないでしょうか。
2025.05.19
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最近は、子どもも大人も、メンタルが弱い人がすごく多いような気がします。心とからだの逞しさが乏しく、優しいのだけど傷つきやすいのです。先日来から、「最近の子ども達の問題」を色々と書いていますが、みんないい子です。みんな大好きな子ども達です。でも、傷つきやすく苦しんでいる子がいっぱいいるのです。それで問題行動を起こしてしまう子もいます。そのことに気付いてほしくて、その状態を変えたくて、「今の子はこういう状態なんですよ」ということを書いているのです。問題は、お母さんたちもまた同じ状態だということです。というか、子ども達はそんなお母さんの状態を引き継いでしまっているだけなんでしょう。我が子を他の子と比較してしまうのも、勉強やしつけに追い立ててしまうのも、子どもらしさを肯定できず、他の人の目を気にして大人の価値観を押し付けてしまうのも、我が子の育ちに寄り添うことが出来ないのも、待つことが出来ないのも、子どもを「みんなと同じ」、「みんなと一緒」という型にはめようとしてしまうのもお母さんの精神が不安定だからです。精神的に不安定だから自己肯定感が低くなってしまうのです。昔は、「他の人は他の人、私は私」という「肝っ玉母ちゃん」が結構いたように思うのですが、最近は、そのようなお母さんにあまり会いません。最近のお母さんたちは、優しいのだけど、小さなことばかり気にして、ちょっとの出来事にふらふらして、ちょっとのことで簡単に傷ついてしまいます。そのようなお母さんは、自分に自信がないため、常に周囲の人の顔色を窺って「正解探し」をしています。そして、自分の意見を抑え、自分がやりたいことを我慢して、みんなから排除されないように、白い目で見られないように、必死になって「自分らしさ」を隠して生きています。そして子ども達も、そのメンタルの弱さを引き継いでしまっています。どうしてそうなってしまっているのかということですが、その背景には「からだの育ち」の遅れと共に「感情の育ち」の遅れがあるからなのです。からだの基礎が育つ幼児期に、からだを使わない生活をしていればからだは育ちませんよね。そのことは理解していただけますよね。そして実は、同じ時期に、からだの育ちと共に感情も育っているのです。感情の状態はからだの状態と密接にリンクしているからです。それはつまり、「からだの育ちが未熟な子は、感情の育ちも未熟な状態になってしまう」ということです。子ども達はからだを思いっきり使って、思いっきり遊ぶ過程で、からだだけでなく感情も育てているのです。遊びも含めた日々の生活の中で、思いっ切り笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだり、心の底からハラハラ・ドキドキ・ワクワクするような体験が「子どもの感情」を育ててくれるのです。そして、そのためには「からだの活動」が必要になるのです。からだの活動と共に体験した感情だから、からだの中に残っていくのです。ただし、同じようにからだを使っていても、スポーツでは感情の育ちを支えることが出来ません。スポーツでは、感覚の偏り、からだの使い方の偏り、意識の偏りがあるからです。また、楽しむよりも勝ち負けの方に意識が向かってしまいます。テレビを見ていたり、ゲームをしたりしても、ハラハラ・ドキドキ・ワクワクは感じるかも知れませんが、それは「からだの体験」ではなく「頭の体験」なので、「自分の感情」としてからだの中に残らずすぐに消えてしまうのです。だから、またその刺激が欲しくなるのです。そして中毒になって行きます。子どもも皆さんも、くすぐられれば笑いますよね。でも、くすぐられない状態で同じように笑うことが出来ますか?出来ませんよね。木登りしたり、崖を登ったり、野山を走りまわっている時に感じるハラハラ・ドキドキ・ワクワクと同じ感情体験をゲームの中で体験できると思いますか。からだを動かさないで感じることが出来ると思いますか。その違いが分からない人は、幼児期に、仲間と共に、木登りしたり、崖を登ったり、野山を走りまわったりしてハラハラ・ドキドキ・ワクワクする体験をしてこなかった人なのではないかと思います。ゲームの中で豪華な料理を山ほど食べても、心もからだも満たされませんよね。そんな感じです。以前、私がやっている「ポランの広場」という親子遊びの会に体験参加した人が、「久しぶりに子どもの笑顔を見た」と言っていました。多くのお母さんが、「我が子の本当の笑顔」を知らないのです。思いっ切り笑っている時には、子どもの顔が光っているのです。顔だけではありません。からだ全体が光っているのです。そんな我が子の笑顔、みなさんは見たことがありますか。
2025.05.18
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いま、生命力が低下し、筋力も体力も気力も低下し、姿勢が悪く希望を語らない「老人のような心とからだの子ども達」が増えてきています。それは、子どもたちが「感覚や心やからだを使った活動」をしなくなったため、「感覚や、心や、からだの育ち」が遅れ、それに伴って起きた必然的な現象です。そのような子どもたちは、感覚も、心も、からだも育っていないため、それらの働きによって支えられている集中力や、我慢する力や、頑張る力や、生きる気力も弱いです。また体験の不足が想像力の育ちを阻害し、「考える力」や「好奇心の低下」をもたらしています。そのため、本来は憂鬱質ではない子も、憂鬱質が強くなってしまっています。憂鬱質という気質は、自分を守ることを優先的に考える気質だからです。そのため、自分を守る能力が低下すれば不安が強くなり憂鬱質が強くなるのです。でも、「自分を守る能力」が低下することで生まれる憂鬱質は、本来の憂鬱質の人の特徴である「心の豊かさ」は持っていません。憂鬱質の短所は持っていても、長所は持っていないのです。ちなみにADHDの子はよく多血質と間違われますが、ADHDの子は、多血質の短所は持っていても、長所は持っていません。どうして、今、そのような「老人のような状態」の子ども達が増えてきているのかと言うと、理由は簡単です。子どもたちが、年齢相応の「感覚や心やからだを使った活動」をせず、日常的に「老人のような生活」をしているからです。赤ちゃんの時も、話しかけられもせず、(必要なとき以外)触れられもせず、ベッドで寝かされ続けている赤ちゃんがいっぱいいます。保育園はそのような状態です。原則として、保育園は「子どもを預かる場所」であって、「子どもの育ちを支える場所」ではないからです。そこのところはちゃんと理解しておいた方がいいです。積極的に子どもの成長を支えるような環境を整え、そのような働きかけをしている保育園や幼稚園もありますが、少数です。そういう園を選ぶお母さんが減ってきたからなのでしょう。自分で動けるようになっても、バリアフリー的な「安全で安心な環境」の中で、テレビやおもちゃなど手軽に遊べる遊びでばかりを与えています。それとも遊びに付き合うのが面倒くさいからなのでしょうか。十分に歩ける年齢になってもベビーカーに乗せられて移動している子も多いです。しかも、背骨がくにゃッとした状態で乗っています。自分の姿勢を支えるだけの筋力や意思が育っていないのでしょう。大きな声を出すことも、思いっきり走り回ることも、高い所に登ることも、高い所から飛び降りることも、石を投げることも、棒を振り回すことも、土や水で遊ぶことも、ケンカも許されていません。そういうことが可能な場所が生活の周囲にないし、一緒にそのような遊びをする仲間もいません。また、「そのような活動を大切だと考えるお母さん」も減りました。そして、そういう遊びをやっていると白い目で見て非難してくるお母さんは増えました。子どもと一緒に公園で裸足で遊んでいたら他のお母さんに文句を言われたお母さんもいました。理由は「うちの子が真似をするからやめてください」というものだったそうです。いまでは、そういう「危険で、不潔で、乱暴な活動」から子どもを遠ざけ、「清潔で、安心で、安全な環境」の中に子どもを閉じ込め、テレビや、ゲームや、おもちゃなどの「人工的なもの」で遊ばせる方が「子どものため」だと考える人が増えてきました。そのような人は、ちょっとしたケガ、ちょっとした病気で大騒ぎします。昔の子ども達が普通にやっていた「からだを使った様々な遊び」も「危険だから」という理由で禁止されています。また実際、からだが育っていない今時の子どもは、昔の子が普通にやっていた遊びでも簡単にケガをします。そもそも「遊ぶ時間」も「遊ぶ空間も」ないし、「遊ぶ仲間」もいません。公園の遊具も、危険なものは取り払われ、安全で安心なものばかりになってきました。近くの幼稚園の園庭は人工芝で覆われています。当然土に触れることも、水で思いっきり遊ぶことも出来ません。親は洋服が汚れないので喜ぶかもしれませんが・・・。多くの保育園、幼稚園などでは先生が遊びを主導して、子どもが「遊びの主人公」ではなく、「遊びのお客さん」になっています移動は自転車や、ベビーカーや、車です。基本的に歩きません。ですから、お散歩の途中で遊ぶことも、色々な発見をすることも出来ません。そのため、最近の子はちょっと歩いただけですぐに疲れます。歩かないし、からだを使った遊びもしないので、当然筋力も育ちません。姿勢も歪みます。ということで老人のような状態になってしまうのです。最近の子はちょっとトンカチやノコギリを使っただけで「腰が痛い、肩が痛い、疲れた、面倒くさい」と言って騒ぎます。で私は「おじいさん おじいさん 肩でも揉もうか」と言ってます。
2025.05.17
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昨日、他者とつながりながらも依存せず、自立して生きていくためには「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」も必要です。そうでないと「自分らしく」生きることが出来ないからです。と書いた通り、単に「自立して生きる」だけでなく、さらに「自分らしく生きる」ためには、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が必要になります。でも、この能力を育てるのが難しいのです。なぜなら、この能力が育つためには、「子ども自身が、自分の意志に従って能動的に、自主的に感じ、考え、判断し、行動する体験」が必要になるからです。それはつまり、大人だけがいくら頑張ってもこの能力は育たないということでもあります。大人に管理された空間のなかで、大人に与えられたもので、大人に与えられた課題をこなしているだけの生活では育たないということです。だからといって、自由に遊ばせているだけでも育ちません。「自由を楽しむ能力」が育っていない子にとっては、「自由」は退屈なだけですから。退屈だからゲームを求めたり、イジメという遊びを始めてしまったりするのです。森の幼稚園のような、子どもを自由に遊ばせるような場でもイジメは起きています。実際、お子さんを森の幼稚園に通わせているお母さんからそのような相談も来ます。でも、多くの森の幼稚園では大人が子どもの活動に介入することを極力避けようとしています。そのため、我が子がいじめられていてもただ黙って見ていることしか出来ません。それが苦しいというのです。でも、「見ているのに黙っている大人」を見ている子どもたちは、「自分たちがやっていることが肯定された」と思い込んでしまうのです。かといって、大人がずかずかと子どもの中に入って行って、大人の判断で「子どもがやっていることの善悪」を裁くのも違います。子ども自身が自分たちでその判断が出来るようになって欲しいのですから。(ただし、時には本気になって叱ることも必要だと思います。子どもたちの行為の善悪を裁くためではなく、大人の想いを伝えるためにです。)「じゃあどうしたらいいのか」ということなんですが、そこで必要になるのが「物語の体験」なんです。大人から色々な物語を聞き、自分でも色々な物語を考え、物語の世界の中で遊ぶ体験を通して、子どもは「自分の視点だけでなく他者の視点でも、ものを感じ考える能力」が育つのです。「優しさ」や「思いやり」といったものはその延長上にしか育たないのです。また、「物語の体験」は「言葉の体験」でもあります。特に「目では見えない世界を表す言葉」や、「五感では感じることが出来ない感覚を表す言葉」や、「感情や心の中のことを表す言葉」と出会い、そのような世界の存在を知り、その世界のことを表す言葉が使えるようになるためには、「物語の体験」が必要になるのです。ただし、そのような「言葉の体験」をし、そのような言葉を学ぶためには「アニメ化された物語」ではだめです。絵がなく「言葉だけで語られた物語の体験」が必要になるのです。アニメでは「言葉の体験」以上に「映像の体験」の方が影響が大きいからです。実際、人類は何万年と「言葉」だけで物語を語り繋いできました。その物語を通して、大人たちは「自分たちが大切にしていること」を子ども達に伝えてきたのです。でも、「物語を語り継ぐ」という伝承が途絶えてしまった今の時代に、それを行うのは難しいですよね。ですから、絵本でもいいです。「絵本でもいいです」などというような言い方をすると、絵本が大好きな人は反感を持たれるかもしれませんが、絵本は、「絵」があることによって「普遍性」や「子どもが想像で補う部分」が損なわれてしまっているのは事実です。絵本は、特定の個人が感じたり、考えたり、想像したことを表現した「作品」なんです。だから作者の名前が書かれているのです。でもそれ故に、想像力や言葉の育ちが未熟な子どもたちによっては、絵本が「物語」の世界への入り口としては有効に働くのです。でも、絵本以上にもっと大切にしてほしいのは、お母さんたち自身が「自分の言葉で語る物語」です。だからといって、昔の物語を覚える必要はありません。自分で物語を作って語ってしまえばいいのです。「自分が子どもの頃のこと」を語る、「自分が体験したこと」を語る、「知識として知っている雲のことや、水のことや、川のことや、山や森のことや、生き物や命のこと」を自分の言葉で語れば、それは立派な「物語」になるのです。それに絵をつければ絵本になります。そしてその「物語」が、子どもたちが「能動的に感じ、考え、行動する力」を育てることにつながっていくのです。
2025.05.16
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(昨日からの続きです)あと、他者とつながりながらも依存せず、自立して生きていくためには「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」も必要です。そうでないと「自分らしく」生きることが出来ないからです。また、この能力が無いと「赤信号、みんなで渡れば怖くない」現象で、気づかないうちに困ったことになってしまいます。実際、今、社会はそういう危険な状態になってしまっています。みんな「みんなと一緒、みんなと同じ」ばかりを大切にしていて、その「一緒にやっていること」の意味も、価値も、重要性も、危険性も考えようとしていないからです。「みんなが乗っている電車」の行き先のことなど考えないのです。とにかく「みんなと一緒」「みんなと同じ」なら安心してしまうのです。でも、「みんなと一緒」「みんなと同じ」ということばかりを大切にしている社会は、「自分の頭で考える論理」や、「自分の感覚で感じる真・善・美」ということを大切にしないので、不安や、欲望や、感情に流されやすいのです。そのような社会では、「自分らしく生きる」ということも困難になります。また、多くの場合、その「みんな」は「自分と利害を共有する少数の人間だけ」です。その少数の人が「権力を持った人たち」なら、さらに被害は大きくなります。その権力者を持った人が正解を示したら、みんながそれに従ってしまうからです。今の日本もそのような状態になっているような気がします。先の戦争もこの現象の結果だったようです。開かれた議論があったわけでも、誰かが「戦争します」と決めたわけでもなく、権力を持った少数の人たちが「みんなと一緒、みんなと同じ」を大切にして、同じことを考え、同じことを言い、同じことをしていたら、共鳴現象によって感情が増幅してその勢いで戦争が始まってしまったのです。同じような共鳴現象でイジメが起きることがあります。「あいつちょっと目障りだよな」という誰かの一言に、みんなが同調して同じことを言い、同じことをやっているうちに、ずるずると抜けられなくなってしまうのです。イジメをしている子の中にも「こんなことヤダ」と感じている子もいると思うのですが、それが言えないのです。「みんなと一緒」「みんなと同じ」という原理で動いているグループでは、その流れに反するようなことを言う子は排除されてしまうからです。また、「みんなと一緒」「みんなと同じ」という原理で、考え、行動しているグループには特定の責任者がいません。そのため、そのような状態を変えようと思っても、話し合いが出来ません。状態を変えることも出来ません。みんな「人のせい」にしてしまうからです。そうして「赤信号、みんなで渡れば怖くない」原理で、どんどん危険な方に進んでいってしまいます。このような原理で成り立っているグループや社会では、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」を持った子や、持った人は「異分子」として排除されてしまいます。危険を感じるのでしょう。幼児期に、仲間や自然と関わりながら様々な体験をしながら育ったような子は「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が、そのような体験をしていない子よりも優れています。そのため、「みんと一緒、みんなと同じ」を強制してくる場には違和感を感じ、苦しくなってしまうことが多いような気がします。
2025.05.15
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多くのお母さんたちが、我が子に「自立した人間」に育ってほしいと願っています。それはそれでいいのですが、問題は「自立した人間」になってもらいたくて、何でも自分一人でやらせようとするお母さんが多いことです。でも人間は、見るだけでなく、他の人と実際に一緒にやりながら真似て学ぶ動物です。つまり、「他の人とのつながり」を通して学び成長する動物なんです。また、人間は「他の人とのつながり」の中でないと安全も、安心も、お金も、食べ物も手に入れることが出来ません。つまり、「他の人とのつながり」がないと、人間の社会の中では自立して生きて行くことが出来ないのです。それが「自然の中で、自然を相手に暮らしている動物」と、「人間が創り出した社会というものの中で、人間を相手に暮らしている動物」の大きな違いです。ですから、子どもが自立して生きて行くことが出来るようになるためには、「上手に他の人とつながることが出来る能力」を育てる必要があるのです。そのため、「将来自立した人間になるために、今から何でも自分一人で出来るようにしつける」という育て方をしてしまうと、逆に「自立できない人間」に育ってしまう可能性が高いのです。自然を相手に生きている野生動物なら、「何でも自分一人で出来る能力」があれば自立して生きて行くことが出来ます。でも、人間の場合は「上手に他者の助けを借りる能力」がないと、自立して生きて行くことが出来ないのです。そのことを実感するのが災害などが起きたときです。ただし、「上手に他者の助けを借りる能力」だけが育っても、他の人とつながることは出来ません。なぜなら、助けを借りるばかりでは、相手と対等の関係を築くことが出来なくなってしまうからです。そして、相手と対等の関係を築くことが出来なければ、自立して生きていくことは出来ません。その「相手と対等な関係を築くことが出来る能力」を育てるためには、「助けが必要な時には助けを求めることが出来る能力」と同時に、「助けを必要としている人を助けることが出来る能力」の両方を育てる必要があるのです。「助けることが出来る能力」と「助けを求めることが出来る能力」の二つの能力が揃っているから、他者の助けを借りながらも相手に依存しないで自立して生きて行くことが出来るようになるのです。人々の生活を支えている「人と人のつながり」もこの二つの能力によって支えられています。そのどちらが消えても、「つながり」は崩壊してしまうのです。でも今、その「つながり」から切り離された環境の中で育っている子がいっぱいいます。「つながり」から切り離された環境の中で子育てをしているお母さんがいっぱいいます。子ども達はゲームの中で「存在しない相手」とつながろうとしています。youtubeを見たり、SNSなどを通してつながった気になっています。でも、そのつながりは、寂しさや退屈を紛らわせてはくれるかも知れませんが、「子どもの自立」を支える働きはしてくれません。むしろ依存させてしまうことで、自立を阻害してしまいます。「つながる能力」が育っていないお母さんは、他の人とつながりたくてもつながれません。公園などで出会ったお母さんたちと「ママ友」になっても、「苦しみを打ち明け、助け、助けられる関係にまではならない」と聞きます。多くの場合、情報の交換や共有が出来るだけなのではないのでしょうか。会社でも、何でも自分一人でやろうとする人は大きな仕事が出来ません。また、部下を使うことも出来ません。その結果、一人で苦しんでいるお母さん、一人で苦しんでいるお父さん、一人で苦しんでいる子どもたちがいっぱいいます。そんな状態から抜け出すためには、「助けを求めるちょっとした勇気」と「助けを求めている人を助けようとするちょっとした勇気」が必要になるのです。
2025.05.14
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また、「誰でもいいから」という事件が起きてしまいましたね。千葉市の路上で女性刺殺、中3の少年を殺人容疑で逮捕…「誰でもいいから殺してやろうと思った」「読売新聞 ニュース速報」最近、この「誰でもいいから」という事件が多いですよね。ここのところ立て続けに起きているような気がします。このように考え、このような行動をする人には「守るべき大切な人」や、「大切なもの」や、信念として「大切なこと」がないのでしょうね。自分の人生や命すら「守るべきもの」ではないのでしょうね。そんな「守るべきもの」がない人は無敵です。説得という方法では、そのような人を止めることは出来ません。やりたいことは何でも出来てしまいます。人類の滅亡につながるような核のボタンですら、躊躇無く押してしまうでしょうね。自分の人生すら「大切なもの」でない人に、「警察に捕まるぞ」と言っても無意味です。自分の命すら「大切なもの」ではない人に、「死ぬぞ」とか「死刑になるぞ」と言っても無意味です。「お母さんやお父さん」が「大切な人」ではない子に、「お母さんやお父さんを悲しませるな」と言っても無意味です。むしろ悲しませたいかも知れません。「大切な人」や「大切なもの」や「守りたいもの」を持っていない子どもに「道徳教育」など無意味です。「大切な人」がいない子に「戦争の悲惨さ」を説いても無意味です。かえって「面白そう」などと思うかもしれません。だから、このような事件や、このようなことを考える子どもを減らしたいのなら、子どもたち一人一人の「大切なもの」を育ててあげる必要があるのです。そしてその「たいせつなもの」を育てるためには、子ども達を「多様なつながりの世界」の中に連れ出してあげるしかないのです。「大切なもの」は、「つながりの世界」の中でしか見つけることが出来ないからです。なぜなら、それが「大切なもの」になるためには、それが「自分と世界をつなぐもの」になる必要があるからです。「自分と世界をつなぐもの」だからこそ、「大切なもの」になるのです。その「つなぐもの」によって、自分の存在価値が生まれるのです。生き物を育てている人は、「自分が大切に育てている生き物とのつながり」によって、「世話をしているものとしての自分」の存在価値が生まれてくるのです。スマホが大切なのは、スマホが「自分を仲間や社会とつないでくれるもの」だからです。そして、仲間とのつながりによって「自分の存在価値」が生まれています。「存在価値」と呼ばれるものは、「つながり」の中にしか存在できないのです。人は皆「自分にとって大切なもの」を介して「自分が生きている世界」とつながっています。「お金」が大切な人は「お金」を介して世界とつながっています。「美しいもの」が大切な人は、「美しいもの」を介して世界とつながっています。「命」が大切な人は、「命」を介して世界とつながっています。「仲間が大切な人は」は、「仲間」を介して世界とつながっています。そしてその「つながり」がその人の存在価値を生み出しています。自分が大切にしているものを守るために「自分という存在」の存在価値が生まれるのです。ですから、「大切なもの」や「大切な人」や「大切な考え方」を持っている子は、最初に書いたような事件は起こさないのです。問題は、いまその「大切なもの」や「大切な人」や「大切な考え方」を持っている子がどんどん減ってきている、ということです。子どもたちに「大切なものは?」と聞くと「ゲーム」や「お金」と答える子が非常に多いのです。それ以外に「大切なもの」が無い子が多いのです。そんな、「つながりから切り離されて育っている子」にとっては、世界の全ては「自分にとってどうでもいいこと」になってしまうのです。
2025.05.13
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心でもからだでも、緩むためにはつながる必要があるのです。つながりによって支えられるから緩むことが出来るのです。それは一人の人のからだの中でも同じです。腕が緩むためには腕が胴や足などといった他の部分とちゃんとつながっている必要があるのです。(物理的にではなく感覚的にです)そのつながりが切れた状態で、腕だけを緩めようとしても無理なんです。さらに言えば「大地とのつながり」や「周囲の空間とのつながり」も重要です。一人で頑張っているお母さんはガチガチです。でも、話し相手や、助けてくれる人や、いつも笑顔で話しかけてくれる人などが傍にいて、その人たちとつながることが出来ると、お母さんの心とからだは緩むのです。すると、心とからだに余裕が生まれて、前を向くことが出来るようになります。マッサージやセラピストなど必要がなくなるのです。今、「学校に行きたくない子どもたち」や「行きたくても行けない子どもたち」や「学校が苦しい子」が増えてきていますが、そのような子どもたちは、心だけでなくからだもガチガチです。手とか足とか胴体もちゃんとつながっていません。ですから、からだの動きもぎくしゃくしています。体温や免疫力も低くなってしまっているみたいです。そんな「学校に行きたくない子どもたち」や「行きたくても行けない子どもたち」が増えてきた背景には、「つながることが苦手な子ども」「つながることを嫌う子ども」「つながり方を知らない子ども」が増えてきたことも関係しています。「学校の問題」の背景には「子どもの問題」もあるのです。その「子どもの問題」の背景には「家庭の問題」があり、「家庭の問題」の背景には「社会の問題」があります。ですから、学校を改革するだけでは学校や教育の問題は解決しないのです。小さいときから一人で遊んでばかりいた子は、当然のことながら他の子とのつながり方を知りません。また、他の子が傍にいるだけでストレスを感じるようになってしまう子もいます。そのため、悪意は全くないまま、他の子が持っているものを取ったり、突き飛ばしたりしてしまうこともあります。他の子が傷つくようなことを言ったりやったりしてしまうこともあります。そんな状態の子を叱っても、「何で叱られているのか」ということ自体が分かりません。その逆のパターンもあります。小さいときから大勢の人に囲まれて育った子はつながることが得意かも知れませんが、そういう子が「つながりを拒否する子」や「つながり方を知らない子」が多い場に入れられたら苦しくなってしまうのです。でも、社会を変えることは出来なくても、家庭を変えることはお母さんやお父さんの自覚で出来ます。お父さんとお母さんが価値観を共有し、また、他の同じ価値観を持った人とつながることでお母さんやお父さんが緩むことが出来ます。すると子どもも緩みます。心とからだが緩めば活動的にもなります。つながりが消えた家庭、学校、社会で暮らしている人の心は常に緊張状態にあるため、頭と心とからだだけでなく、手足や胴体もバラバラなんです。そのため、すぐに疲れてしまうのです。また、目先のことに振り回されているので、自分がやりたいことを見つけることも出来ません。疲れやすい人は、自分の「心とからだ」、「手や足や胴体」がバラバラになってしまってはいないか、一人だけで頑張っているのではないかということを少し自己観察してみてください。
2025.05.12
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私が長いこと武術的な学びをしていて気づいたことがあります。それは「脱力」と「ゆるめる」の違いです。30代の頃に学んでいた太極拳では、空気椅子のような状態でズーと立っている「たんとう(站椿功)」というのをよくやらされました。当然、きついのでからだを固めて頑張ります。すると、先生が「頑張るな」と言うので、「休んでいいのかな」と思って立ち上がると怒られるのです。からだを固めていると「もっとゆるめろ」と言われます。でも、その状態で脱力したらそのまま床に倒れてしまいます。からだを固めて頑張らなければ維持できないような姿勢のまま、「頑張らずに、からだを緩めていろ」というのです。全く意味不明でした。最近までやっていたシステマ(ロシアの格闘技)でも、「腕立て伏せのような状態のままからだをゆるめる」という似たような練習をさせられました。太極拳の動きの中には途中動きを止めてポーズのようなことをするポイントがあるのですが、そこで止めると「止めるな」と叱られるので、止めないで流れのままに動いていたら「ちゃんと止めろ」と叱られました。それで「どうしたらいいんですか?」と聞いても「自分で考えろ」と言われるばかりです。今ではその意味が分かりますが、当時はただ頭が混乱するばかりでした。その後、野口体操で「脱力」ということを学びました。この場合の脱力も、ただ力を抜くのではなく、からだ全体を「一つにつながった流体」のようにするのです。それは例えば、指先を持たれて揺らされると、その揺れがからだ全体に広がっていくような状態です。このようなことは、ただ力を抜くだけでは出来ないのです。普通の場合は指先を動かしても、その動きは肩で止まります。「腕」と「胴」がつながっていないからです。日常的に緊張が強い人は、動きが肩までも行かず、手首や肘で止まってしまうかもしれません。「ゆるめる」ためには、その「流れを阻害するもの」を取り除く必要があるのです。一般的には、その「流れを阻害するもの」を「緊張」というのですが、でも、ただ緊張を取り除くだけではつながらないのです。それに、「緊張」それ自体はマッサージなどである程度緩和することは可能ですが、それが効いているのは施術を受けたしばらくの間だけの話です。その緊張を創り出しているのはその人の意識やからだの使い方なのですから、日常生活に戻った途端に、緊張も元に戻ってしまうのです。からだ全体をつなげるためには、「緊張」を取り除くだけでなくさらに「腕と胴をつなぐ回路」を開いてあげる必要があるのです。その回路で全身をつなぐのです。そして、自分の意識と意思の働きで回路を維持し続けるのです。そして、からだとの対話を通してその回路を維持していると緊張が生まれなくなるのです。マッサージなどしなくてもよくなるのです。対話がないから緊張が生まれてしまうのです。ですから、「緊張」という障害を取り除くことに意識を向けるのではなく、自分のからだとの丁寧な対話を繰り返すことの方に意識を向けていると、「緊張」は自然と消えていくのです。そして再発しなくなります。「緊張を取ろう」と意識すると、逆に緊張が強まってしまうのです。「緊張」は「つながり」を消し、対立を生み出します。そんな時、その流れを阻害している「緊張」を取ろうとする人が多いのですが、必要なのは「対話」なんです。「対話」がないから「つながり」が消え、「つながり」が消えるから双方が出会う場で「緊張」が発生するのです。「緊張」は現象であって、それ自体には実体がないのです。ですから、緊張を取り除くことに意識を向けても何も変わらないのです。これはからだの中の緊張でも、親と子の間の緊張でも、先生と生徒の間の緊張でも、国と国の間の緊張でも同じです。対話が途絶えているから緊張と対立が生まれてしまうのです。ですから、自分を否定しているような人のからだはガチガチです。否定している相手とは対話などしませんからね。対話がない家族、対話がないクラスも緊張でガチガチになります。すると苦しくなって様々な問題行動を起こす子が出てきます。からだの方も色々な不調が出てきます。簡単で便利な機械に依存していると「意識とからだとの対話」「からだの各部同士の対話」が消えます、すると、からだの中に緊張が生まれ苦しくなってしまいます。
2025.05.11
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昨日は「子どもと大人の断絶が起きている」と書きましたが、消えてしまったのは「人と人のつながり」だけではありません。「人と自然のつながり」も、「心とからだのつながり」も、「見える世界と見えない世界のつながり」も消えてしまいました。ただし、消えたのは人間の意識の中だけの話で、実際の「つながり」はそのままです。「実際にはつながっているのに人々がそのつながりを忘れ、大切にしなくなった」ということです。だから「自然」が荒れ、「心とからだ」も不調になり、「どう生きたらいいのか分からない人たち」が増えてきたのです。子ども達の「知性と、心と、からだの育ち」にも歪みが出てきています。そんな現代人が忘れてしまったのが「耳を傾ける」とか「耳を澄ます」という心の働きです。それは「心の目で観て、心の耳で聴く」ということでもあります。それをしなくなってしまったので、「つながり」を感じることが出来なくなってしまったのです。「つながり」とは「関係性」のことであって「物理的な存在」ではないので、心の目で観ようとしなければその存在に気付かないのです。現代人は自己表現はしないのに、自己主張はします。「何を言ったか」は大切にしますが、「何を言いたかったのか」は大切にしません。そもそも、「心の耳」を閉ざしているに人は「何を言いたいのか」という「心の声」を聴くことは出来ません。子どもが「ママ遊んで」と言うとき、子どもが伝えたいことも分かりません。そのため、平気で「もの言わぬ子どもの声」を無視します。赤ちゃんや幼い子どもは、「想っていること」や「感じていること」を相手に伝わるように言語化することが出来ません。でも、「想い」はいっぱいあるのです。松井和さんが書いた「ママがいい」という本がありますが、この「ママがいい」も、どの幼い子どもの心の中にもある「言葉化されない声」です。大人が、子どものその「想い」に耳を澄まし、耳を傾けることで、子どもはその「想い」を言葉化する能力を育てることが出来るのです。聴こうとしてくれる人がいるから、話そうとし始めるのです。それは皆さんだって同じではありませんか。でも、今、その「子どもたちの声にならない声」に耳を傾けようとする人はどんどん減ってきています。そして、「何も言わないんだから何を押し付けてもいいんだ」などと勝手に判断しています。自然に対しても同じことをしています。草や木や虫や動物たちは何も言いません。「だから何をしてもいいんだ」と思い込んで、自然に対して勝手なことをしています。でも、草や木や虫や動物たちに対して、彼らがが望んでいないことを押し付けたら、草や木や虫や動物たちは滅びてしまうのです。そのことに気付いて何とかしなければ、それは人間の滅びにもつながってしまうのです。だからこそ、草や木や虫や動物たちの「声なき声」に耳を澄ます必要があるのです。問題は、政治家が「声をあげる者の声」しか聞こうとしないことです。親や先生も、「声を上げる子ども」の声しか聞こうとしません。だから自己表現はしないのに自己主張ばかりする子どもが増えているのかも知れません。
2025.05.10
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今、大人と子どもとの間のつながりが消え、両者の間に断絶が起きています。大人の間でも、壮年世代と老人世代のつながりが消えています。何十万年にわたって、人類の文化や、文明や、知性や、人間らしさを伝えてきた「三世代にわたるつながり」が、簡単で便利な機械の登場と共にあっという間に消え始めたのです。そして、「縦のつながり」が消えると同時に「横のつながり」も消え始めました。縦糸が消えれば「共有するもの」を失った横糸も消えてしまうからです。今、人々をつないでいるのは「お金のつながり」だけです。「心のつながり」とか「体験や、感覚や、文化や、価値観や、言葉や、生活を共有することで生まれるつながり」は消えました。「お金のつながり」がかろうじて社会や、家族や、人と人をつないでいるのです。でもその「つながり」はもろいです。伝承も出来ません。子どもを育てる力もありません。むしろ、子どもの育ちを阻害します。今、多くの親が子どもの食費や教育費を稼ぐために、「日々の子どもとのつながり」を捨て仕事に出ています。「親とのつながり」を失った子どもの相手をしてくれるのは、ゲームや、おもちゃや、仕事として子どもの面倒を見てくれる人たちだけです。国もまた、「大人と子どものつながり」や「人と人のつながり」よりも「お金とのつながり」の方を大切にしています。政治家たちも理念や哲学でつながっているのではなくお金でつながっているみたいです。でも、それらの「お金に支えられたつながり」は、ただ面倒を見てくれるだけで、子どもに人間らしさも、文化も、知性も、言葉も伝えてくれないのです。これは人類誕生以来最大の大問題です。ネットでは、2025年7月に大災害が起きて日本が滅亡するとか、世界が滅亡するとか騒いでいますが、そんな派手な出来事が起きなくても、大人と子どもの間のつながりが途絶えてしまえば、あっという間に人類は、その文化や、文明や、知性や、人間らしさを失い、静かに滅亡して行くのです。その予兆として、人間らしくないことを考え、人間らしくないことを行う若者たちが増加します。その若者たちに、日本語は通じません。なぜなら、大人とのつながりがない状態で育った子どもたちは日本語を学べないからです。常識や簡単な論理もつうじません。善悪も分かりません。それらは「言葉を学ぶ過程で学ぶこと」だからです。老人とのつながりを失った大人は、精神性を育てることが出来なくなります。そのような大人は年を取るに従い円熟するのではなく、ただ孤独と虚無に囚われるようになります。今、そういう状態の老人が増えてきました。暴走老人と言われる人たちの増加はそれと関係しているのかも知れません。何十万年とかけてそれらすべてを伝えることが出来たのは「子どもと大人、そして老人も含めた三世代のつながり」があったからなのです。でも今、それが急激な勢いで消え始めているのです。でも、その「人類が始まって以来の危機」に気づいている人は多くありません。実際、多くの親が「子どものために」と子どもをほっぽらかしてお金を稼いでいます。「いっぱいお金を稼げるように」と子どもを勉強に追い立てています。
2025.05.09
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多くの場面で、「子ども」は「子ども扱い」されています。それは多くの場合「未熟なもの」「無知なもの」「無力なもの」「半人前」としての扱いです。そして、そのように考える大人は、当然のことながら「子どもの声」には耳を傾けません。それは大人にとっては「当然なこと」ですが、子どもにとっては非常にプライドを傷つけられる「嫌なこと」です。なぜなら、子ども自身は自分を「未熟なもの」「無知なもの」「無力なもの」「半人前」などとは思っていないからです。子どもが出て来る映画などを見ていても、子どもを「子ども扱いする大人」に対して、子どもが「おれ(わたし)を子ども扱いするな!」と食って掛かる場面がよく出てきますよね。皆さんだって子どもの頃は、自分を「子ども扱い」する大人に対して、同じように感じたのではありませんか。覚えていませんか?でも、大人としては子どもをバカにしているつもりはないのですよね。「大人」を基準にして見たら、確かに、子どもは「未熟なもの」「無知なもの」「無力なもの」「半人前」なのですから。ただし、「大人を基準としてみたら」ということですけどね。それでも、多くの大人たちは子どもを「大切な存在」と考えています。ですから、「未熟で、無知で、無力で、半人前な子ども」を守るために「大人の保護が必要」、「大人の指導が必要」、「大人の監視や管理が必要」だと考え、子どもの言葉や考えを無視し、否定し、正解を押しつけるのでしょう。その際使われるのが「あんたのためなんだから」という言葉です。「遊びたい」という子どもに勉強を押しつけるのも、それが「子どものため」だと考えているからです。そして、そのような判断をするのが大人の役割であり、責任だと考えられています。子どもが木登りしていて木から落ちてケガをしたら、責められるのは「木登りが未熟な子ども」ではなく、「木を管理している大人」の方です。大人には「未熟なもの、無知なもの、無力なもの、半人前としての子ども」を守る義務があると考えられているからです。でも、大人たちが子ども達を「未熟なもの」「無知なもの」「無力なもの」「半人前」として扱ってばかりいると、実際にそのような状態に育ってしまうのです。子どもは「扱われているように」育ってしまうからです。そのような心理学的な実験もあります。子どもを任意の二つのグループに分けて、一方のグループの子に対しては「あなたたちは優秀な子ども達だ」と言い、そのように扱います。別のグループの子に対しては「あなたたちは劣った子ども達だ」と言い、そのように扱います。(こちらにの実験のことが書かれています。「青い目、茶色い目」50年前の差別実験、“目の色が起こした嵐”が再び話題にhttps://www.huffingtonpost.jp/entry/news_jp_5ee2b60bc5b6329484df5406)すると、「あなたたちは優秀だ」と言われたグループの子ども達は実際に成績が伸び、「劣っている」と言われた子どもたちは成績が下がってしまったそうです。そして、「優秀だ」と言われた子どもたちが「劣っている」という子ども達を差別し始めたそうです。大人を対象にした似たような実験もあります。(スタンフォード監獄実験)また実際に、ナチスの収容所では「善良なドイツ市民」が簡単に「残虐な看守」になってしまいました。人の性格や能力は、実際の状態に関わらず「他の人からどのように扱われているか」ということで大きく変わってしまうのです。子どもであればその影響は大人よりも大きいのです。それはつまり「お前はバカだ」と言われ続けていると、実際に「バカな子」(自分はバカなんだと思い込んでしまう子)に育ってしまうということです。以前、「お前はブスだ」と言われ続けて、自分が肯定できなくなってしまい苦しんでいるお母さんの相談を受けたこともあります。実際には、そのお母さんは全然ブスじゃないしむしろ美人でした。色々と話を聞いていると、そのお母さんのお母さんが、自分の夫が娘に溺愛しているのでやきもちを焼いて子どもにそのように言っていたようでした。大人になるとそういう大人の事情も分かってくるのですが、「心に受けた傷」はそのまま残ってしまうのです。ですから、子どもを「未熟なもの」「無知なもの」「無力なもの」「半人前」として扱っていると、大人になったときに、「未熟で、無知で、無力で、半人前の大人」に育ってしまう可能性が高いのです。大人は子どもを子ども扱いせず、もっと「子どもの言葉」に耳を傾けるべきなんです。子どもの意思を尊重すべきなんです。ただし、ダメなものはちゃんと「ダメ」と言う必要はあります。それは大人の義務です。そして、これは上司と部下という大人同士でも同じです。大人でも子どもでも、自分の言葉に耳を傾けてもらうことで「自分という存在」が肯定された」と感じるのです。自分の意見や考えが肯定されなくても、ちゃんと話を聞いてもらえるだけで、子どもは自尊心を育てることが出来るのです。一番まずいのは、大人が勝手に「正論」(だと思い込んでいること)を一方的に押し付け、子どもの言葉には耳を傾けないことです。そのような子育てをしていると、子どもの自己肯定感は下がるばっかりです。そして、やがて平気で親の言葉を無視するようになります。皆さんだって、こちらの言葉には耳を傾けないのに、自分の言葉ばかり押し付けて来る人の言葉になんか耳を傾けませんよね。子どもでも大人でも、「自分の言葉に耳を傾けてくれる相手」の言葉に耳を傾けようとするのです。子どもに「子どものためになる仕付け」「子どものためになる教育」をしようとするのなら、大人は、子どもの言葉にちゃんと耳を傾ける必要あるのです。いくら善意からでも、子どもを「子ども扱い」するようなしつけや教育をしていたら、子どもは精神的に自立できなくなってしまうのです。
2025.05.08
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人間のDNAに書き込まれた能力はサルや犬やカラスにも劣ります。彼らは何の教育を受けていなくてもちゃんと猿は猿らしく、犬は犬らしく、カラスはカラスらしく生きることが出来ます。でも人間は、「人間らしさを身に着けた人間」から「人間らしい教育」を受けない限り、「人間らしく生きる能力」を身に着けることが出来ません。人間が生まれた時にすでに持っている能力は「命を維持するために必要な能力」と「高い学習能力(模倣能力)」だけです。でもその「高い学習能力」こそが、他の動物にはない人間だけが持っている最大の能力なんです。だから、英語を話す人に育てられれば英語を話せるようになるのです。自分の頭で考える大人に育てられれば、自分の頭で考える能力が育ち、コミュニケーション能力に優れた人に育てられればコミュニケーション能力が育つのです。でもそれ故に、犬に育てられれば犬らしく育ちます。サルに育てられればサルらしく育ちます。自分の頭で考えない人に育てられれば自分の頭で考えない人に育ちます。自分勝手な人に育てられれば自分勝手な人間に育ちます。コミュニケーション能力が低い人に育てられれば、コミュニケーション能力が低い人に育ちます。「正の模倣」も出来ますが、「負の模倣」も出来てしまうのです。でも、「教育」という方法を使うと、「親が持っていない能力」や「生活の場では学ぶことが出来ない能力」を子どもに与えることが出来るのです。そのため、そのような「負の模倣」をある程度避けることが出来るのです。親が日本語しか話せなくても、教育の場で英語に触れさせることで子どもは英語を学ぶことが可能になるのです。生活の場ではノコギリなど見たことがなくても、教育の場でノコギリに触れさせることで、子どもは「のこぎりを使う能力」を育てることが出来るのです。「教育」という方法を使うことで、意図的に、子どもの能力を拡大し可能性を広げることが出来るのです。そしてそれはまた、子どもの「自由に生きることが出来る能力」を育てることにもつながるのです。人は、学ぶことでさらに自由になることが出来るのです。そのことを喜びと共に実感できた子は、さらに自分の能力と自由を広げるために、自分の意思で学び始めるでしょう。本来「教育」は、意図的に子どもの能力を高め、より多様な自由を得させるためにあるのです。でも、その教育の場が「子どもの能力を育てること」よりも「先生や学校の指示命令に従うこと」の方を大切にしているのなら、子どもの能力は育ちません。育つのは「指示や命令に従う能力」だけです。また、自分の頭で考えるのではなく、「知識を覚えることだけを求める教育」をしていると、子どもは知識を覚えるだけで自分の頭で考えない人に育ちます。子ども同士を比較し、競争させてばかりいると、子どもは他の子と自分を比較し、競争することを学びます。そして、能力の拡大も、自由に生きる能力も育たなくなります。でも、そんな教育ばかりしていると、やがて人類は退化し始めます。というか、もうすでにその兆しが表れ始めています。家ではテレビを見てゲームでばかり遊び、学校では先生の指示に従い、言うことを覚えるだけのような環境の中で育っている子は、人類が、何百年、何千年と受け継いできた能力や技術や知的財産を受け継ぐ能力を育てることが出来なくなってしまうのです。最近は、学びの基礎である母国語ですらちゃんと学べていない子が増えてきています。それは、便利な機械や道具の使用と社会環境の変化で、子どもの生活の場から「子どもの成長に必要な体験」が消えてしまったからです。日常的な対話や会話すら体験出来ない環境で育っている子います。そうなると、母国語ですら学ぶことが出来なくなってしまうのです。そして、母国語がちゃんと学べていない子は「学びの入り口」にも立つことが出来ません。最近は、早くから「文字」は読むことが出来ても、母国語を理解する能力が育っていないため「本」を読むことが出来ない子が多いのです。そのような子は、テストでも「問い」の文字を読むことは出来ても、その「問い」で何を問われているのかを理解することが出来ないのです。当然、解けるわけがありません。学校での教育が成り立つためには、それ以前の条件として、家庭という生活の場での教育が成り立っている必要があるのです。ただし、それは「早期教育が必要」ということではありません。「親と子が感覚や言葉や体験を共有することで、親が受け継いだものを子どもに伝える」という意味での教育です。それが、昔の人にとっての「しつけ」という言葉の意味だったのでしょう。でも今では、「しつけは親の責任ではなく、幼稚園(保育園)や学校の責任だ」などと考えている人も増えてきているみたいです。でも、幼稚園(保育園)や学校では「生活の場でしか伝えることが出来ないこと」を教えることは出来ないのです。母国語だって教えることが出来ません。「母国語の使い方」は学校で教えることが出来ますが、「母国語」そのものは家庭の中でしか伝えようがないのです。教育は、子ども達を束縛し、大人が敷いたレールの上で競争させるためにあるのではないのです。子どもの可能性を拓き、高め、子どもたちがより自由に生きることが出来るように支えるためにあるのです。自由になるために学ぶのです。と私は考えているということです。皆さんはどう思いますか?
2025.05.07
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google検索で「Libertyとfreedomの違いは何ですか?」と聞いたら、以下のような答えが返ってきました。AI による概要「liberty」と「freedom」はどちらも「自由」を意味する言葉ですが、ニュアンスに違いがあります。freedom:漠然とした自由、制約がない状態、先天的・受動的な自由を表します。liberty:特定の自由、権利として認められた自由、自ら勝ち取った自由、能動的な自由を表します。例えば、「freedom of speech」は「言論の自由」、つまり言葉を発信できる状態を表します。一方、「liberty of worship」は「信仰の自由」、つまり宗教を信仰できる権利を表します。つまり、freedomは「何でも自由」という漠然とした状態、libertyは「何かを自由にできる権利」という明確な自由を表していると考えられます。お母さんたちの勉強会などで「自由って何だと思います?」と問いかけても、ほとんどの人が、この二つのような答えを返してきます。この二つはいずれも、社会と個人の関係における「他者からの自由」についての概念です。そしてこれは、欧米の人が考えた「自由」の概念であって、明治維新まで日本人が考えていた「自由」と同じものではありません。それまでの日本には「欧米的な社会」も「欧米的な個人」も存在していなかったのですから、「社会」とか「個人」というものを前提にした概念も存在していなかったのです。それで、「liberty」とか「freedom」という言葉が入ってきた時に、日本語にそれに対応する言葉が存在していなくて翻訳に困った人が、仏教用語の中の「自由」という言葉を当ててしまったのです。その仏教用語の中の「自由」という言葉が意味するのは「自分からの自由」です。仏教の教えは「他者からの自由」や「社会からの自由」を与えてくれるものではなく「自分からの自由」を与えてくれるものです。だから「修行」が必要になるのです。ただしそれは「押し付けられた修行」ではなく、「自分の意思で引き受ける修行」です。それに対して「他者からの自由」や「社会からの自由」を得る時に必要になるのは「修行」ではなく「政治的な発言や活動」です。明治維新の時にこういういい加減な翻訳をしたために、日本人は「他者に対する権利としての自由」ばかりを求めるようになり、「自分からの自由」という概念を忘れてしまったのです。そして、「自由」が「自分で努力して得るもの」から、「他人や社会から与えてもらうもの」、もしくは「勝ち取るもの」になったのです。もちろん、子ども達が生き生きと自由に生きるためには、周囲の大人や社会が「子どもの自由」を権利として守ってあげる必要があります。それは大人の義務です。そして今、「子どもの自由」が大きく阻害されています。それは大きな問題です。でも、子どもたち自身は、「ゲーム」や「欲しいもの」さえ十分に与えてもらえるのなら「不自由」を感じません。「自分の自由」が阻害されていることにも気付きません。そのような状態の中で生活している現代の子ども達が「不自由」を感じるのは、皮肉なことに「自由」を与えられた時です。工作でも、キットと、マニュアルと、自分の代わりに作業をしてくれる便利な機械を与えれば不自由を感じないのですが、自由な素材で、自分のアイデアと自分の手で自由に作るような状況を与えられると、どうしていいのか分からなくて不自由になってしまうのです。本来、「キット」とか「マニュアル」とか「便利な機械」というもの自体が、子どもの「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する自由」を阻害するものなんですが、小さい時からそういうものしか与えられていない子ども達は、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が育っていないため、「その能力を必要とするような自由」を与えられると、逆に「不自由」を感じるようになってしまったのです。そして、「もっと簡単に出来るような自由」を「権利」として要求します。そのような状態の子は、「自分の内側に存在する不自由」とは向き合おうとはしません。というか、そもそもそんな不自由が自分の内側に存在していること自体を知りません。ゲームや、おもちゃや、簡単で便利な機械に満たされた生活ばかりしている子には「リアルな自分」と向き合うような機会がないからです。そして、「リアルな自分」と向き合うことが出来ない子ほど、不自由を感じたときには「その不自由の原因だと思われる他者」を非難するばかりで、その原因を自分の中に探し、自分自身を成長させることで不自由を乗り越えようとはしません。また、「自由」を他者に求めるだけの人たちは共存できません。「自由」と「自由」がぶつかり合って不自由が生まれてしまうからです。幸せな夫婦生活を送ることも、幸せな子育てを行うことも出来ません。子どもに対して自由を求めるお母さんすら存在しています。奥さんに自分の自由を求める男性も多いです。子どものうちは、自分の義務は果たさなくても親に自由を求めることが出来ます。でも、社会に出たら「自分では努力しないのに、他者に自由や権利ばかりを求めるだけの人」は相手にされないのです。そのため、そのような状態の子は、社会に出たとたんに急に「不自由の壁」に阻まれて身動きが取れなくなってしまうのです。そして自分の未来が見えなくなります。でもそういう子はその状態を「自分のせい」ではなく「相手のせい」だと考えます。今増えている「クレーマー」と呼ばれるような人たちは、そのような考え方をしているのでしょう。そして困ったことに、そのような発想をする人たちが増えてきています。本来、「学校での学び」は、子ども達に「不自由を体験させ、我慢することを学ばせるためのもの」ではなく、自分の意思でその不自由を引き受けることで、「自分自身の自由と可能性を自分の手で創り出すことが出来る能力」を育てるためのものなのではないかと思うのですが、実際には「先生と子どもが〝自分の自由〟を要求し、権利の奪い合いをする場」になってしまっています。
2025.05.06
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最近の子は、トンカチやノコギリやナイフなどのアナログ的な道具が苦手です。そのような道具だけでなく、全般的に、最近の子ども達は自分の手を使って何かをするのが苦手です。そしてそれが何かを作ったり、手を使った活動をする時の障害になっています。また、作りたいものを自由に作ることも出来ないので不自由でもあります。また手を使えない子はイメージ能力も低いです。物事を具体的にイメージすることが苦手なんです。それは「手の働き」が「意識の働き」と直結しているからなのでしょう。そしてそのことが「創作の自由」だけでなく「色々なことを想像する自由」も束縛しているのです。最近の子は「手」だけではなく「からだ」の使い方も下手です。「からだ」を一つのものとして統合して使えないのです。簡単で便利な機械があれば、わざわざからだを使う必要もないからです。現代人の生活では、使うのは指先だけで十分なんです。そして使っていなければ能力が育たないのが「からだの成長のルール」でもあります。「頭を使わない生活」をしていれば「頭を使う能力」は育たないし、「からだを使わない生活」をしていれば「からだを使う能力」は育たないのです。「感覚の働き」も同じです。そしてそれが子どもたちの自由を束縛する原因になってしまうのです。目を閉じて歩いたら不自由きわまりないですよ。そんな状態になってしまうのです。ちなみに、「からだの使い方」を導いているのも「手」です。サッカーは手を使わず足を使って行うスポーツです。だからといって、サッカー選手の両腕を縛って使えなくしたら、足は縛られていなくても自由に使えなくなってしまうのです。なぜなら手を縛られることで「からだの自由」を失うからです。意外かもしれませんが、足が自由に動くためには「手の自由」も必要なんです。「からだ」は足の先から手の指先、そして頭のてっぺんまで密接につながっているのです。実際、指先をちょっと動かすだけでもからだ全体の動きに影響が出るのです。お疑いならご自身で実験してみて下さい。手を縛ったら「方向の転換」や「重心の移動」が困難になりますから。からだだけではありません。思考も困難になります。日常的な束縛や不自由の大部分は、「外からやってきたもの」ではなく、その「外からやってきたもの」をうまく処理できない内側が引き起こしているのです。まただから同じことを「束縛」と感じる子と感じない子がいるのです。同じ状態を不自由と感じる子と感じない子がいるのです。筋力や骨格がしっかり育っている子なら、授業中、長い時間椅子に座っていても(退屈はするでしょうが)からだはそれほど苦しくなりません。でも、筋力や骨格が育っていなくて、背骨をしっかりと立てることが出来ないような状態の子にとっては、長い時間椅子に座っているのは苦痛そのものだと思います。また、そのような子は何かに集中するのも、我慢することも苦手です。「集中」や「我慢」を支えているのは「意思の働き」ですが、「からだの育ち」は「意思の育ち」と直結しているからです。そこで苦しくなって自由に歩き始める子もいるでしょう。でも、それが許されるのは子どものうちだけです。学校を出たらそれが不自由や束縛の原因になります。歩き回らずに、からだを固めて椅子に座り続ける子もいるでしょう。でも、からだを固めたら心も固まります。それがまた別の束縛や不自由の原因になります。心を固めると、感覚や意識の働きも閉ざされてしまうからです。私はいつも「子どもにもっと自由を」と書いていますが、手やからだが使えないような子は、自由を与えられても不自由を感じてしまうのです。そして簡単で便利な機械を求め、それに依存します。
2025.05.05
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ようやく戻ってきました。ということで普通に戻ります。この世界には様々な束縛があります。自然界にも、人間界にも、また自分自身の中にも様々な「束縛」があります。そしてこの「束縛」が自然界、人間界、自分自身の秩序を守っています。この「束縛」をルールと言い換えることも出来るかも知れません。ルールを守っているものはルールに守られますが、ルールを無視しようとするものにはルールは「束縛」として立ちはだかります。物質界のルールを扱っているのが「物理学」という学問です。この宇宙にあるものは全て、この「物理学のルール」に従っています。というか、宇宙の始まりから存在しているそのルールを探求して分かったものが「物理学」としてまとめられているわけです。ですから、何人といえどもそのルールを無視するような行為をすることは出来ません。「夢の中のように空が飛びたい」と思って、ビルの屋上から飛んだら、落ちて死にます。固いものを思いっきり殴ったら痛いし、手が壊れます。だから不自由です。「現実の世界」では「ゲームの世界」の中のように、何でもできるわけではないのです。でも、その「不自由」(束縛)の特性をよく理解することで、その「不自由」を逆利用して、「自由」を得ることも出来るのです。ここ数日間、屋久島と鹿児島に行ってきましたが、当然その往復には飛行機を使いました。改めて「飛行機ってすごいな」と思いました。あんな重い鉄の塊が空を飛ぶのですから。どうしてそんなことが出来るのかと言うと空気が重くて固いからです。日常生活の場で「空気が重くて固い」などということはあまり考えたことも感じたこともないかもしれませんが、実は空気は固くて重いのです。団扇を扇いだ時に手に感じる抵抗感が、空気の固さと重さです。飛行機はあれを利用しているのです。でも、電車や自動車の場合は、その固さと重さが「スピードを阻害する束縛」になっているのです。だから、「真空チューブを作ってその中を走らせたらいいんじゃないか」なとどいうアイデアもあります。ただし、真空チューブの中を普通に走らせたら、電車も自動車も動きが安定しなくなります。実は空気は電車や自動車のスピードに対しては「束縛」として働いていますが、その固さや重さをうまく利用することで、電車や自動車の動きを安定させる働きもしているのです。人間社会にも様々な束縛がありますが、それはまたルールでもあります。人が大勢いるところで自分勝手なことをすると叱られたり止められたりします。それは「自分勝手なことをしたい人」には束縛ですが、そのルール(束縛)をちゃんと理解することで、逆にそのルールを使って自分がやりたいことを実現することも出来るのです。そして、そのルールを知り、そのルールを「束縛」としてではなく「自由を得るための足場」として使えるようになるためには、「束縛の体験」(不自由の体験)が必要になるのです。ただし、子ども自身が感じ、考え、工夫し、努力することで乗り越えることが出来るような性質の「束縛」です。人工的に管理された環境の中で、オモチャでもゲームでも何でも与えられて一人で遊んでいる子は一見自由ですが、その「自由」は、大人が「子どもの周囲に普通に存在している束縛」を排除していることによって人工的に作られた「不自然な自由」です。でも、そこに他の子がいると一気に不自由が生まれます。他の子が自分の行動を束縛してくるかもしれないし、他の子が傍にいるだけで不自由を感じるかも知れません。そして今、そういう状態の子ども達が増えてきています。「子どもが苦手な子ども」です。大人は、危険がない限り子どもの遊びに干渉はしてきませんが、子どもは普通に「他の子の遊び」に干渉してきます。大人は「子どものワガママ」に比較的寛大ですが、子どもは他の子のワガママに対してシビアです。ですから、一人で遊ぶことに慣れてしまっている子にとっては、「周囲に他の子がいる状況」自体が「束縛」になってしまうのです。でも、小さい時から他の子と関わりながら育ってきた子にとっては、それが普通です。そして「仲間づくり」も得意になっているでしょう。そのような子は「他の子」を「束縛」ではなく、「自分の自由を広げる仲間」に変えることも出来ます。「束縛」に囚われるのではなく、その「束縛」をうまく使うことで、逆に「自分一人ではできない自由」を得ることが出来るようになるのです。飛行機が飛ぶのと同じです。人間にとって重力は「束縛」です。この重力があるから地球上のすべての物体は地球に束縛されているのです。でも、この束縛があるから私たちは自由に歩き、動くことが出来るのです。重力がなくなったらみんな宇宙に飛んで行ってしまうのです。その「束縛」の特性をよく知り、その束縛との関わり方を学ぶことが出来た人はその束縛に囚われて不自由になるのではなく、逆にその「束縛」をうまく使って、自分がやりたいことを実現できるようになります。そのような学びをするためには、「何でも自由になる仮想空間」の中で遊ぶのではなく、「不自由と束縛がいっぱいの現実世界」の中で遊ぶ必要があるのです。公園にある遊具でも、昔の遊具は子どもに優しく作られていませんでした。ですから、子どもの方が自分でその遊具の特性(ルール)を学んで、それをうまく利用して遊ぶしかなかったのです。でも、それゆえに一つの遊具で多様な遊びをすることが出来ました。でも今では決められた遊び方以外の遊び方をすると叱られます。昔は、木登りをしていて落ちたら「下手だから」と言われただけですが、今では、落ちた子どもが責められるのではなく、その木を管理している人が責められます。そして木が切られてしまうこともあります。子ども達は様々な不便や束縛や不自由と出会いながら、「不自由な世界を自由に生きる能力」を育てていく必要があるのです。そしてそれが「自然の中での群れ遊びの場」でもあったのです。でも、便利で安全に管理された空間の中で、いつも一人で遊んでいる子は、その学びをすることが出来ないのです。
2025.05.04
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今日も短くさせて頂きます。(今日、帰ります)私は色々な活動をしていますが、自宅では30年くらい前から造形教室をやっています。その30年の変化として、自分の感覚で感じようとせず、自分の頭で考えようとせず、自分の意思で判断したり行動することが苦手な子どもたちが増えてきました。そういう子は「自由」を与えられると「自分勝手なこと」を始めます。「自由」と「自分勝手」の違いが分からないのです。みんないい子です。みんな大好きです。でもそれ故に心配になってしまうのです。「このまま大人になったらどうするんだろう」と。子どもの時は守ってくれる親も大人もいます。何をしたらいいのか指示を与えてくれる大人も、必要なものを買ってくれ、お小遣いをくれる親もいます。「多少のマガママや問題行動」も「子どもだから」と温かい目で見てもらえます。ですから、学校ではただ椅子に座って先生の話を聞き、家ではゲームでばかり遊んでばかりしても生きていくことが出来ます。でも、いつまでもそんな楽園に生き続けることは出来ません。大人になったら追い出されてしまうのです。「楽園追放」です。そして「自分の力で生きる能力」を育ててくれなかった大人たちから、「ここから先は自分の力で生きろ」と言われます。そんなこと言われたら途方に暮れて当たり前ですよね。そして、子どもの時のように行動しようとすると「もう子どもじゃないんだから、甘えるな」と叱られます。子どもの時は「やりたくないこと」は拒否することが出来ました。でも、大人になると「やりたくないこと」を押し付けられても拒否できません。拒否したらお金を貰えないのですから。そして、お金を貰えなければ生きていくことが出来ません。これでは「お先真っ暗」になって当然です。今、そういう状態の子どもたちが増えています。この問題を大人たちは、社会は、政治家はもっと真剣になって考えるべきなんです。でも、そんな動き全然見当たりません。それなのに、子ども(もう大人ですけど)が事件を起こすと、大人たちは「自分たちが何をしたのか」、「何をしなかったのか」を忘れて、その結果としての子どもを否定・非難します。
2025.05.03
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まだ旅の途中なので今日も短くさせて頂きます。昨日、「全てが嫌になった」と、自動車で子どもの列に突っ込んで多数の子どもを大怪我させた28才の男のニュースを何回も見ました。まだ若いのに、自分の人生に夢も希望も持てなくなり、どう生きていいのかが分からなくなってしまったのでしょうね。これから先の長い自分の未来を見たときに、真っ暗で何も見えなくなってしまったのでしょうね。自主性、能動性を失った子どもは指示がないと動けなくなります。そういう状態の子は「自由」が一番苦手です。そしてそういう状態の子がものすごく増えてきています。でも、仲間がいたり、指示を与えてくれる人がいたり、お金があったり、刺激を与えてくれるものがあれば、そのような「自分の現実」に向き合わなくても済みます。でも、学校を出て親から離れると指示を与えてくれる人が消えます。それでもお金があれば刺激を買い求めて「自分」と向き合わなくても済みます。でも、お金を手に入れるためには仕事をしなければなりません。そして、仕事をすれば指示をもらえます。でも、ここで困った問題があるのです。最近の子供たちは指示がないと動けないのに、その指示を選びたがるのです。「作りたいものがない、先生、何を作ったらいいの?」と聞いてくる子どもに「これを作ったら」と提案しても、ほとんどの場合「他のはないの?」と別の選択肢を求めてくるのです。で、色々な提案をするのですが、「これは大変そうだから嫌」「これは僕の趣味じゃないから嫌」などと色々と難癖を付けてくるのです。ゲームの感覚なのでしょうね。色々と聞いてみるとどうも、「簡単にできて、かっこよくて、お店で売っているようなもの」が作りたいようなのです。欲しいだけで作りたいわけではないのです。そもそも最近の子は「作るとはどういうことなのか?」とか「作る楽しさ」ということ自体が分からないようなのです。<明日に続きます>
2025.05.02
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今、屋久島に来ていて、隣に家内が寝ているので、超簡単にさせて頂きます。正解を教える教育、良い子を求める子育て、努力しなくても簡単にしかも上手に色々なことができてしまう簡単で便利な機械は、子どもの自主性を潰し、能動性の育ちを阻害します。 それでもいいんですか?ということです。
2025.05.01
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