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私が子どもの頃(昭和30年、40年)は、今で言うところの「学級崩壊」などというものは存在しませんでした。一クラスの生徒は50人ぐらいでした。先生は一人でした。子どもを平気で殴るような怖い先生もいましたが、子どもに優しい先生もいました。そして優しい先生のクラスでも崩壊は起きませんでした。授業中ふらついている子もいましたが、それはその子だけであって、他の子はその子に巻き込まれませんでした。でも今では、一クラス30人くらいで補助の先生まで入っていても、学級が崩壊して授業が成り立っていないクラスがいっぱいあります。子どもたちに聞くと、「ひどいクラス」「まあまあ、ましなクラス」などその状態は色々とあるようですが、程度の差はあっても、それが「普通」になってしまっているようです。どうしてそういうことになってしまったのか、という原因は様々ありますが、まず、教師の実力が低下していることがあげられます。教師ですから、もちろん「教科の教え方」は知っているでしょう。でも、「教え方」を知っているだけでは子どもたちにそれを伝えることが出来ません。子どもたちの前で、いくら「正しい教え方の授業」をやって見せても、「目の前にいる子どもたちの気持ち」を掴むことが出来なければ、誰もその授業に見向きもしないでしょう。それは、テレビで勝手に流れている映像や音声と同じものです。以前、学級が崩壊しているクラスを見学させてもらったことがありますが、まさにそんな感じでした。先生はちゃんと授業をしているのです。でも、子どもたちは勝手に遊んでいます。先生と生徒がまったくつながっていないのです。授業も、ただ知識を並び立てるだけの退屈きわまりないものでした。当然のことですが、先生は全員「教科の教え方」や「授業の仕方」は学んでいるはずです。でも、「生徒との人間関係の作り方」や「生徒の気持ちのつかみ方」までは学んでいません。だから、生徒の気持ちを授業に向かわせることが出来ないのです。問題は、その「生徒との人間関係の作り方」や「生徒の気持ちのつかみ方」は言葉では教えることが出来ないということです。知識をいっぱい学んだからといって出来るようになることでもありません。教員資格を取るための授業で教えることも出来ないし、資格を得るための試験でも検査できません。「生徒との人間関係の作り方」や「生徒の気持ちのつかみ方」といったような能力は、子どもの頃からの遊びや、他の子や大人たちと一緒に生活する中で、体験を通して学び育つものだからです。「人間関係の作り方」は「人と人のつながり」を通してしか学びようがないのです。動画や本で「泳ぎ方」を学んでも、実際に水の中に入ってそれを試したことがない子を、いきなり水の中に入れたらおぼれてしまうでしょう。それと同じです。でも、先生たちの多くは「今時の普通の子」だったでしょうから、群れて遊ぶ体験も、アナログの世界でからだを使って遊ぶ体験も、色々な大人と関わり、色々なものを見、実際にやった体験もあまりない状態で大人になり、教師になったのでしょう。そうやって大人になり、教師になった人が「生徒との人間関係の作り方」や「生徒の気持ちのつかみ方」が分かるわけないのです。またこれは「子育て」にも影響しています。今、「子どもとの関わり方が分からない大人」が非常に多いのです。そういう人は「方法」だけで子育てをしようとします。すると、学級崩壊のような子育て状態になります。「子育て崩壊」です。で、自分で子育てをすることをあきらめたお母さんは、幼稚園や学校に親の代わりに子育てやしつけをしてくれるように期待しますが、先生の能力もお母さん達と同じレベルなのでそんなこと出来ません。でも、そういう人ほど、先生や学校に責任をなすりつけます。そして先生はさらに疲弊します。「夫婦関係」にも影響しています。愛し合っていた頃には「愛」が二人をつないでいてくれました。でも、結婚して、子どもが生まれ、子育てが始まると、別の「二人をつなぐもの」が必要になります。それは「信頼」と呼ばれるものですが、「信頼」を育てるためには、話し合い、助け合う必要があります。でも、「人と人とのつながり方」を学ぶことが出来ないまま大人になった人にはそれが出来ないのです。それが出来なければ「夫婦崩壊」という状態になります。また、子どもの側にも大きな問題が起きています。今、「セルフコントロール」が出来ない子どもたちが非常に増えているのです。そのような子は、欲求が満たされていれば落ち着くのですが、欲求が満たされていないと、それがどんな場所で、どんな時間で、どんな状況であっても、欲求を満たすために勝手に動き回ってしまうのです。そのような子に「今はおとなしくしていてね」と言っても、「自分が否定されている」ということは分かっても、何を言われているのか分かりません。言葉の辞書的な意味は分かっても、なんでそれが大切なことなのかが分からないのです。それは以前書いた「文字は読めるけど文章が読めない子」と同じです。<続きます>
2025.09.30
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「権利」と「義務」、「自由」と「不自由」はセットで考えないと、おかしなことになってしまうように思うのですが、どうも、マスコミやネットなどを見ていると、「権利を求める声」「自由を求める声」ばかりが大きくて、「義務の必要性」「不自由の必要性」はあまり語られていないように感じるのです。「カスハラ」なるものがありますが、これは、お客が「おれは客なんだから言うことを聞け」などと過度の権利をお店に要求することですよね。でも本来、お客とお店は対等なんです。そこに上下関係はないのです。お店はお金をもらえないと困ります。でも、お客も物が買えないと困ります。だから買い物をするというのはお互いに「ありがとう」という関係のはずなんです。ですからお客に「お客としての権利」があるように、お店にも「お店としての権利」があります。それは「お金を払わない人」や、「お店や、他のお客に迷惑になるような人」を排除する権利です。お店には「安心できるもの」を売る義務がありますが、お客には「お金を払うこと」と「お店や他のお客の迷惑にならないようにする」という義務があるのです。その義務を果たさない人には「お客としての権利」はないのです。「自由」についても同じです。「自由」を「大切なもの」として考え「自由」を求めるのなら、「他の人の自由」も大切にすべきなんです。確かに、「他の人の自由」を大切にしようとしたら、当然自分は「不自由」になります。でもそれは「お互い様」なんです。それに、それは一時的なことです、助け合うことは「個としての不自由」をもたらします。一緒に考え、対話し、話し合い、一緒に活動する必要が生まれるからです。でも、その「不自由」を引き受け、お互いに助け合うことで、一人では得ることが出来なかった「より大きな自由」を得ることが出来るのです。実際、子どもたちは不自由を引き受けることで成長していきます。成長しないと不自由を乗り越えることが出来ないからです。不自由を引き受け合わないと「群れ遊び」は出来ないのです。民主主義の原点とはその様なものなのではないかと思います。どうして私がこういうことを考え始めたのかというと、最近、「ヤングケアラー」の話の中に「兄弟の面倒を見させるのも虐待だ」というような意見を目にしたからです。ちなみに「ヤングケアラー」とは以下のようなものです。ヤングケアラーとは、本来大人や他の家族が担うべき家事や介護、家族の世話などを日常的に行っている子供や若者のことです。本来必要であるはずの「子どもとしての時間」を犠牲にして、過度な負担を負うことで心身の健康が損なわれるなどのリスクを抱えています。 AI Overview確かに、貧しさ故にそのような状態を押しつけられている子には周囲や社会的な手助けが必要だと思います。だからといって、家事や介護、家族の世話などを行うこと自体が子どもの成長に悪い影響を与えるわけではありません。また、そのようなことをしていない子どもたちは、本来必要であるはずの「子どもとしての時間」を十分に体験することが出来ているのでしょうか。そもそも、「子どもの成長に必要な子どもの時間」とはどのようなものなのでしょうか。また、貧しくて親の手伝いをしながら生きている子どもたちは心身の健康が損なわれ、親のお金に依存して消費するばかりの生活をしている子ども達は心身共に健康に育つのでしょうか。実際、子どもの頃に貧乏で苦労した偉人や聖人、社会的に成功した人の話はいっぱいあります。その一方で、子どもの頃からお金に恵まれ、生産能力を得ることが出来ず、消費することしか学べない状態で育った人の成功話はあまり聞いたことがありません。(宮沢賢治やアッシジのフランチェスコはかえってそのことで悩みました。)このままの流れで行ったら「子育てをお母さんに任せるのはお母さんに対する虐待だ」という意見すら出てきてしまうかも知れません。SF的な流れでは「お母さんに自由を与えるために、赤ちゃんが生まれたらすぐに引き離して、国がそれなりの施設で育てるようにしよう」という展開すら将来起きるかも知れません。(過去にはあったようですけど・・・)だからといって私は、特別に必要もないのに「子どもにも家事をさせなさい、仕事をさせなさい、家族の面倒を見させなさい」ということを言っているわけではありません。「義務」も「不自由」も自分の意思で引き受けないことには、学びと成長につながらないからです。でも、自分の意思で「義務」や「不自由」を引き受けることが出来る子は、多くの「自身の成長につながる体験値」を得ることが出来ます。そのために必要なのは「親子のつながり」と「家族のつながり」です。これがないと強制になってしまいます。ちなみに、最近の若者達は会社に入って、命令されるだけの下っ端のうちは調子がいいのですが、部下を与えられ部下の面倒を見るように言われると、急に悩み始めるそうです。そんなことしたことがないからです。コミュニケーションの仕方も、人間関係の作り方も、助け合って活動することも知らないまま自由に育ってしまったからです。
2025.09.29
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最初に告知です。群馬県の富岡市で、10月23日(木)に、「親の土台をはぐくむワーク」(season3)というものをやります。「どんぐり算数」を教えていらっしゃる泉聡子先生と一緒のワークになります。対談もあります。ご興味のある方は、FBのページから主催者に連絡を取ってみて下さい。*****************昨日は、私が考える「セルフケア」の目的は「〝忘れていた自分〟を想い出すこと」「〝本来の自分〟を取り戻すこと」です。と書きました。一般的には、「自分メンテナンス」をすることを「セルフケア」と呼んでいるのではないかと思っていますが、私は「何のために自分メンテナンスをするのか」という視点を大切にしたいと思っています。それは「生きる意味」「生まれてきた意味」を問うことにもつながるでしょう。でも、現代人はあまりそういうことを考えません。毎日毎日、自分の心とからだを「仕事をこなすための道具」として使い、「与えられた仕事」をミスなくやることだけに一生懸命です。仕事の世界は「100点とって当たり前」という世界ですからストレスも溜まります。そんな生活を繰り返していたら心もからだもボロボロになって当然です。だからボロボロになった心とからだを癒やすために、栄養ドリンクを飲んだし、ゲームをしてストレスを発散したり、サウナやマッサージに行ったり、休日は家の中に閉じ籠もって好きなことだけをしているのでしょう。お母さんたちから「休日は自分の部屋にこもってゲームばかりしているお父さん」の話を時々聞きます。それもまた、そのお父さんにとっては「セルフケア」なんでしょう。ヨガや整体に行っている人もいます。中国ではその進化形で「ネズミ人間」なるものが増えているようです。それは、頑張ることすら放棄して、一日中、家の中(ベッドの上)でゴロゴロしている若者達のことです。それもまた、彼らにとっては「セルフケア」なのでしょう。でもこのような方法で取れるのは「日々の生活の中での小さな疲れ」だけです。そして、そのような「小手先のセルフケア」ばかりに依存していると、より大きな「生きることから来る疲れ」の方はドンドン溜まっていきます。マッサージという方法では、表面的な「小さなコリ」は取れても、その奥にある「大きなコリ」は取れないのです。だからまたすぐに元に戻ってしまうのです。その、奥の方にある「大きなコリ」を取るためには、自分の意識の働きを使って、内側から「自分の力」でなんとかする必要があるのです。外側からでは取りようがないのです。ですから、「コリをとる方法」を探すのではなく、「コリが溜まらない方法」を探すのです。そのためには、様々な表現活動や、芸術的な活動を通して「自分を表現する」という方法が有効です。「対話」も自己表現です。コリが溜まったり、心やからだが苦しくなるのは「本当の自分」を心とからだの奥に閉じ込めているからなんです。
2025.09.28
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昨日は「セルフケア」の大切さを書きましたが、では実際にはどうしたらいいのかということを示すのは難しいです。方法論は色々とあります。食の改善、生活の改善、姿勢の改善、意識の改善、心とからだの使い方の改善、感覚の改善などがその方法になります。一般的にはこれらに関する方法が「セルフケアの方法」として理解されています。でもそれらは「方法」であって「目的」ではありません。本当の目的は「たった一つ」なんです。その「たった一つ」にたどり着くために、これらの多様な方法が存在していると言うことです。これらの方法は、「目的に至るための方法」であって、「目的そのもの」ではありません。それは、「目的」は「頂上」というたった一つなのに、「登り口」はいっぱいある富士登山のようなものです。そのため、「目的」を忘れてしまっていたら、どんなにいっぱいセルフケアの方法を実行しても、いっぱいある登山道の中で迷子になるばかりです。じゃあ、その「目的とは何なのか」ということです。私が考える「セルフケア」の目的は「〝忘れていた自分〟を想い出すこと」「〝本来の自分〟を取り戻すこと」です。だから薬や手術で治療して治しても、宗教やセラピストに依存して治しても、それは「セルフケア」ではないのです。セルフケアには「自分で自分を抱く」という方法もあります。それもまた「自分」を想い出すための方法です。
2025.09.27
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昨日書いたように、「不安」は、「見えないもの」を観て、「聞こえない音」を聴き、「まだ存在していないもの」を想像することで生まれます。統合失調症の人はその状態が強くなってしまっています。それは「不安」とは正反対の「希望」においても同じです。その能力が肯定的に働けば「希望」が生まれ、否定的に働けば「不安」が生まれるのです。その違いを生み出しているのが「意識の働き」です。そして、その「意識の働き」はその人の「心とからだの状態」の影響を強く受けています。「心とからだの状態」が悪くなれば、意識の状態は否定的に働くようになり「不安」が生まれやすくなります。逆に、良くなれば「希望」が生まれやすくなります。だから人は、病気をすると不安を感じやすくなり、病気が治ってくると「希望」を感じやすくなるのです。病気ではなくても、「心とからだの状態」が不安定な人は「不安」を感じやすいです。そして、現代社会にはそういう状態の人がいっぱいいます。不自然な環境の中で暮らし、不自然な生活をして、不自然なものを食べ、不自然な遊びばかりをしている子どもたちも、「心とからだの状態」が不安定になってしまっています。そして、そのような子どもたちは「不安」を感じやすくなってしまっています。心も傷つきやすいです。最近の子は、一昔前の子どもだったら気にしないようなことでも気にして不安を感じたり、心が傷ついてしまう子がいっぱいいます。でも、心とからだの状態が不安定な子は自分を守ることだけで精一杯なので、他の子のことなど考える余裕がありません。そのため、自分でも他の子が傷つくようなことを言ったり、やったりしてしまいます。「自分がやられて嫌だったことは他の人にはやらないようにしよう」という発想がないのです。というか、そもそも「相手の立場に立って感じ、考え、判断する」という能力が育っていない子が多いのです。そういう子は、イジメのような行為を繰り返していても悪意はないのです。悪意がないままにイジメをするのです。子どもたちを見ていると「いじめられている」と訴えて来る子も「他の子が嫌がるようなこと」をやっていることが多いのです。でも、本人にはその自覚がありません。そのため「ぼくは何もしていないのに」と先生や親に訴えます。先生はその現場を見ていますが、親はその現場を見ていません。だから「イジメはやめよう」とか「イジメは悪だ」などというような標語を作って、子どもに押しつけてもなんの効果もないのです。それよりも、子どもたちの「心とからだの状態」が安定し、満たされるようにしてあげた方がよっぽど効果があるのです。人は自分の心とからだが満たされているから、他の人の気持ちまで考えることが出来るようになるからです。心とからだの状態が安定しているから「希望」を感じやすいのです。人は「不安の原因」があるから「不安」を感じるのではなく、「不安」があるから、その「不安の原因」を探そうとするのです。これは子育てにおいても同じです。「心とからだの状態」が安定していない人は、我が子の「欠点」ばかり探そうとします。「欠点」が存在しているから「欠点」に気付くのではなく、「お母さんの不安」が、「自分には理解できない子どもの行動や特性」を「欠点」にしてしまうのです。逆に、心とからだの状態が安定しているお母さんは「自分には理解できない子どもの行動や特性」を「希望」として感じます。その結果、子どもとの関係も良くなり、子どもはのびのびと育つことが出来ます。お母さんと心とからだの状態が安定してくれば、欠点よりも長所が見えるようになるのです。だから、子育てに問題を感じたり、子どもの育ちに問題を感じたようなときには、「子どもをどうしよう」と考えるよりも先に、お母さんが「自分の心とからだの状態」をチェックして、セルフケアに取り組んだ方が効果があったりするのです。お母さんが自分を肯定できるようになれば、子どものことも肯定できるようになるのです。
2025.09.26
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人間以外の生き物たちは「見えるもの」しか見ないし、「聞こえる音」しか聞かないし、「触れることが出来るもの」しか触れません。でも人間は、「見えないもの」を観て、「聞こえない音」を聴き、「触れることが出来ないもの」にも触れることが出来ます。などと聞くと、何か怪しい話、スピリチュアル系の話かと思われるかも知れませんが、これは皆さんが普通にやっていることです。全然怪しい話ではありません。例えば、「不安」は「見えないもの」を観て、「聞こえない音」を聴き、「触れることが出来ないもの」に触れることで生まれます。自己肯定感が低い人も、「見えないもの」を観て、「聞こえない音」を聴き、「触れることが出来ないもの」に触れています。そうでなければ「自分で自分を否定する」などというような芸当は出来ないからです。それが、「長さ」や「重さ」といったようなものを調べる「絶対的判断」であろうと、「美しさ」や「賢さ」といったようなものを調べる「相対的な判断」であろうと、何かを判断するためには必ず「判断する基準」が必要になります。でも、自己肯定感が低い人は、「自分の価値」を「自分の価値観」を基準にして判断しているのです。「実際には存在しない理想的な自分」を基準にして、「思い込みが作り出した自分」を評価しているのです。そんなことしたって「本当の自分の価値」が分かるわけないのですが、自己肯定感が低い人はみんなそれをやっているのです。そして、この「見えないものを観、聞こえない音を聴き、触れることが出来ないものに触れることが出来る能力」こそが、人間の「人間らしさ」を特徴付けている、人間最大の能力でもあるのです。夢や、希望や、勇気といったものも全て、この能力が創り出したものです。恐怖や、不安や、絶望といったものも全て、この能力が創り出したものです。実は「ありのままに観て、ありのままに聴き、ありのままに感じる」というのは、非常に難しいことなんです。それが出来るようになるためには厳しい修行が必要になります。ほとんどの人は、「自分の心の状態」に合わせて、「見えるもの」、「聞こえるもの」、「触れるもの」を歪めてしまっているのです。「好きなもの」は美しく見え、「嫌いなもの」は醜く見えます。この場合、美しいから好きになるのではなく、好きになったから美しく見えるのです。嫌いになったから醜く見えるのです。自分の意識や無意識の状態が、自分が見ているもの、聞いているもの、感じているものにフィルターをかけて、「見たいもの」が見えるように、「聞きたい音」が聞こえるように、「感じたいこと」を感じることが出来るようにしているのです。だからこの世界は「自分の意識次第」なんです。「美しいもの」を見ようとすれば「美しいもの」が見えます。でも、「醜いもの」を見ようとすれば「醜いもの」が見えます。「希望」を見ようとすれば「希望」が見えますが、「絶望」を見ようとすれば「絶望」が見えます。「色」を見ようとすれば「色」が見え、「音」を聞こうとすれば「音」が聞こえます。空を見上げ「宇宙の音」を聞こうと耳を澄ませて下さい。素直な気持ちで耳を澄ませば「宇宙の音」が聞こえてくるかも知れませんよ。お花を見て「お花の歌」を聞こうとしてみて下さい。聞こえてくるかも知れませんよ。これらの音は、「物理的に存在している音」ではなく「心が作り出した音」(心が宇宙やお花と共鳴して創り出した音)です。でも確かに聞こえる音です。なぜなら「音」を認識しているのは「耳」ではなく「心」だからです。このようなことを「遊び」として子どもと一緒にやってみて下さい。子どもは素直に反応してくれますよ。というか、子どもたちはこのようなことをいつもやっています。だから「訳の分からないこと」をよく言うのです。「親ガチャ」などというものは存在していないのですが、自分のことを否定的に見ている人には見えてしまうのです。
2025.09.25
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皆さんは「バカ」と言われたら怒りますよね。でも、「バカ」と言った人がスペイン人で、それがスペイン語だったらどうですか?ちなみに「バカ」(Vaca)はスペイン語では「雌牛」のことです。ちなみに雄牛は「トロ」(Toro)です。スペイン語だと分かれば「バカ」とか「トロ」とか言われても怒りませんよね。普通、「とまんなよ」と言われたら、「止まるな、早く行け」という意味だと解釈してしまいますよね。でも、その言葉を言った人が韓国の人ならそれは別の意味になります。韓国語で「トマンナヨ」は「また会いましょう」という意味ですから。このように、「相手の言葉」を「自分の言葉」で解釈してしまうとおかしなことになってしまうのです。当然、誤解が生じたり、意思の疎通も困難になります。子どもの「死ね」「殺すぞ」という言葉も同じです。このような言葉を大人が聞くとぞっとしますよね。それは「子どもの言葉」を「大人の言葉」で解釈してしまうからです。この「死ね」「殺すぞ」という言葉は「子ども語」であると同時に、「ゲーム語」でもあります。ですから、子ども同士でも、ゲームをあまりやっていない子や、そのような言葉が使われないようなゲームしかやっていない子は、「死ね」「殺すぞ」と言われると深く傷つきます。でも、その言葉を言った子どもたちは、相手がその言葉をどのような意味で解釈したのか分かりません。だから、そう言われた子が怒り出しても、なんで怒っているのか分かりません。「言葉」は自分が所属するグループ内で意思を疎通するために存在しているので、そのグループ内で通用すれば、自分とは関わりがない他のグループとは言葉が違っていても問題はありません。そのため、昔から身分や職業が違えば言葉も違いました。堅気には「堅気の言葉」があり、やくざには「やくざの言葉」がありました。庶民には「庶民の言葉」があり、上流階級には「上流階級の言葉」がありました。それでも、同じグループ内でなら、「大人と子どもの言葉」、「子どもと子どもの言葉」は共通していました。なぜなら、昔の子ども達は、大人と生活を共有していたし、「遊び」を通して仲間とつながっていたからです。また、昔の子どもたちは「大人たちが子どもだった頃」と同じような環境で、同じような遊びをしていたので、大人達は「子どもがやっていること」や「言っていること」の意味を知ることが出来ました。だから、大人と子どもが「同じ言葉を話す同じグループ」に属することが出来ていたのです。でも最近の子どもたちのつながりを支えているのは、「遊び」でも「生活」でもなく、「お金」や「物」になってしまいました。問題は、「遊び」や「生活」を共有するためには「言葉」が必要ですが、「お金」や「物」を共有するだけなら「言葉」は必要がないということです。昔は、子どもの側にいて、色々なことを教えてくれたり、話し相手になってくれたり、安心を与えてくれるのが「親」だったのですが、最近では、食事を作り、色々な物を買い与え、あれこれ指示や命令を出すのが「親」になってしまっています。そのような生活では言葉を共有する必要がありません。また、最近の子どもたちは、「ゲーム」や、「ゲームやアニメなどに関する情報」を共有することでつながっています。ですから、同じゲームをする仲間同士では言葉が通じますが、異なったゲームをする子とは言葉が通じません。ゲームをしない子とも言葉が通じません。それはうちの教室で日常的に見ることが出来る風景でもあります。大人と子どものつながりも消えましたが、子どもと子どものつながりも消えてしまったのです。その結果、子どもたちは、「趣味を共有できる小さなグループ内だけで通用する言葉」だけで自分の世界を作り出し、仲間とつながり、その言葉だけを使って感じ、考え、行動するようになりました。でも、その言葉は「趣味を共有できる小さなグループ」の中だけでしか通用しないので、そのような言葉しか知らない子は、その「小さな世界」から出ることが出来なくなってしまいます。他のグループの人と話してもすぐに誤解されたり、予想しない反応が返ってきたりしてしまいます。そのため、自立しなければならない年齢になっても自立できなくなります。
2025.09.24
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3才ぐらいまでの子どもは「動物としての基礎能力」を育てている時代です。だから大きな声を出して走り回ったり、高いところに登ったり、棒を振り回したり、色々なからだの使い方を試したり、水があれば入ろうとします。「怖い」という感情はまだそれほどありません。気が合えば一緒に遊びますが、まだ「仲間」という意識はあまりありません。常に自分中心に感じ、考え、行動します。そのため「恥ずかしい」という感覚も感情もありません。気に入ったオモチャがあれば、誰かと一緒に遊ぼうとするのではなく一人で独占しようとします。うちの子どもたちの育ちを見ていて感じたのは、3才くらいぐらいまでには「からだの基礎能力」は大まかに整うのではないかということです。トンカチも、ノコギリも、ナイフも、3才ぐらいにはなんとか使いこなしていましたから。先日4才になった孫も、ズーッとイスに乗っては飛び降りる遊びを繰り返しています。2才の孫は勝手にはしごを登ってロフトに上がってしまうので困っています。この時期の子どもたちは、本能的にからだを使って遊びたがるのでしょう。そしてそれが「動物としての本能」なのでしょう。だから、この時期にいっぱい感覚やからだを使った遊びを体験させてあげると、からだの能力の裾野が広がります。芸事なども、昔は「感覚やからだの使い方」の基礎能力が育つ3才ぐらいから教え始めたようです。ただし、その能力は体験によって育つものなので、この時期に「危ない」「うるさい」「汚い」などという理由で、「感覚やからだを使う体験」を阻害してしまうと、その能力も育たなくなります。「3才になれば、4才になれば自動的に出来るようになる」ということではないのです。また、3才頃から子どもの成長は次の段階に入ってしまうので、それまでに「感覚やからだの基礎能力」が育っていない子は「感覚やからだを使う活動」に興味を感じなくなります。そして、4才頃から「人間としての基礎能力」が育ち始めます。この頃から群れて遊びたがるようになります。「人間としての基礎能力」は、「他の人との関わり合い」を通して育つようになっているからです。3才くらいまでの子でも、みんなで一緒に遊ぶのは好きですが、「みんなで一緒に遊ぶ」というのと「群れて遊ぶ」というのは同じではありません。3才くらいまでの子どもの遊びは、一人が走れば他の子も走る。一人が大きな声で叫べば他の子も叫ぶ。一人が机の上に登れば他の子も登るというように「感覚や感情や行動の共有」によって成り立っています。でも、「群れ遊び」に必要なのは「ルールの共有」です。群れ遊びでは、「遊びに参加するみんなが守るべきルール」が必要になるのです。「大人によって押しつけられたルール」ではなく、「子どもたちが自分の意思で守るルール」です。鬼ごっこ、かくれんぼ、わらべ歌、そのような「みんなで遊ぶ遊び」には「みんなが守るべきルール」があります。ルールがないと群れて遊ぶことは出来ないからです。「言葉の使い方」も、「仲間との関わり合い」などを通してこの頃に大きく成長します。「言葉の使い方」も「人と人をつなぐルール」の一つだからです。お母さんや周囲の大人との会話の幅も広がります。過去の話や、遠い世界の話なども出来るようになります。でもこのような「人間としての基礎能力」が育つ時期に、物や機械を相手に一人で遊んでいると「人間としての基礎能力」が育たないまま、次の成長段階に移行してしまいます。7才から9才、10才頃までの子どもは「社会」というものと出会います。まだ社会の仕組みは分かりませんが、「仲間」という枠組みを超えた「社会」というさらに大きな枠組みがあることに気づきます。そして、色々なことを理解しようとし始めます。ですから、この頃から「社会」という視点から見た教育が可能になります。この時期に「競争に勝つためのお勉強」ばかりしていたり、一人でゲームばかりして遊んでいると、「社会」という視点を持つことが出来なくなります。9才、10才頃から「自分」に目覚めます。「自分にとっての自分」はそれ以前から目覚めていますが、「社会の中の自分」という視点はこの頃に目覚め始めるのです。その時、急に目の前に広い世界が広がり始めます。自分の未来のことも考え始めます。また、「他者の視点」で自分のことを見ることが出来るようになるので「自分の実像」も見えるようになります。「アンパンマンにはなれないんだ」ということもはっきりと分かるようになれます。その時、「突然目の前に広がった広い世界」に夢と希望を感じる子もいますが、逆に、自分が「ちっぽけな存在」のように感じられ、孤独や不安を感じるようになってしまう子もいます。その違いを生み出しているのが、それまでの体験と学びなのではないかと思っています。その時までに「動物としての基礎能力」や「人間としての基礎能力」が十分に育っている子は、不安と同時に希望も感じるでしょう。でも、それらの能力が育っていない子は不安しか感じないかも知れません。
2025.09.23
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昨日は気質の勉強会で「木」の絵を描きました。「木」には正解がないので「心とからだの状態」が表れやすいのです。「木の絵を描く」という心理学の方法もあります。ただし、普通とは異なった描き方をします。普通は画用紙の中に、全体がちょうど収まるように描きますが、このワークでは「描きたいところ」を「描きたい大きさ」で描きます。「根っこ」だけ、「葉っぱ」だけを描いてもOKです。画用紙からはみ出してもOKです。そういう場合は、はみ出したところに画用紙をつなげて「その先」を描いて行きます。つまり「器に合わせて中身を変える」のではなく「中身に合わせて器の方を変える」ということをするのです。ですから、描く前に「構図」を考えたり、「どういう絵にするのか」「どういう色を使うのか」などを考えるのは禁止です。簡単に言うと、行き当たりばったり、気分任せに描いていくということです。それはつまり、描いている本人にも「どんな絵になるか」「どんな大きさになるか」分からないということです。でもそれ故に、そこにはその人の感覚と、心とからだの状態が素直に表れるのです。そして、出来上がった絵に本人も驚きます。昨日も「こんな絵になるとは思わなかった」というようなことを言う人が何人かいました。絵が上手でない、絵が得意でないという人でも、すごい絵になったりします。絵が得意じゃない人は、描く前から結果を決めて描こうとするから描けないのです。むしろ、このワークでは絵が得意な人や、絵の勉強をしたことのある人の方が戸惑います。結果を予想して描くことに慣れてしまっているからです。ピカソは、毎朝「さあ、今日はどんな絵が出来るかな」と言って描き始めたそうですから、これは「ピカソ流」なのかも知れません。棟方志功も同じような描き方(彫り方)をしていたような気がします。それは、「予め頭で考えたもの」を描いたり作ったりするのではなく、「心やからだの中にあるもの」に思いつくままに形と色を与えて、「手を通して産み出す」という感覚なんでしょう。もっとも、幼い子どもたちはみんなこの描き方をしています。だから自由自在に描けるのですが、でもだから「何が描いてあるのか」よく分からない場合が多いのです。そのような状態の子に「分かりやすい絵」の描き方を教えると、「自分の心とからだとの対話」を通してではなく、「頭」で絵を描くようになります。そして絵が嫌いになります。部分から描き始めて、画用紙をつなげて描く描き方は、名前を忘れてしまいましたが、そういう描き方で絵の指導をしている人の本を読んで取り入れさせていただきました。このような方法は、みんなで物語を作るときにも使います。例えば私が昔々あるところに、走るのが得意な子と、歌うのが得意な子がいました。走るのが得意な子は風のように走ることが出来ます。歌うのが得意な子が歌を歌うとみんな嬉しくなったり、悲しくなったり、自信がついたりしました。鳥や虫たちとも話をすることが出来ました。この二人は仲良しでいつも二人で遊んでいました。でもある時、村に飢饉が訪れて二人は村を出なければならなくなったのです。と最初の状況設定だけして、次の人に「この続きをお願い」と振ってしまいます。振られた人は出だしを聞いて思いついたことを言います。その先のことなど考えなくてOKです。振られた人も「言いたいこと」「思いついたこと」だけを言ってまた次の人に話を回します。当然、誰も、結果どころか次の展開すらも知りません。それはまるで人生や子育てのようです。最初から「物語の全体」を考えるのは苦手な人でも、その場に対応するだけなら出来るので、こんな行き当たりばったりのやり方でも、ちゃんとお話はつながって行くのです。そして最初の予想を超えた展開になったりします。そしてこれは日常生活でも普通に起きていることです。皆さん、台本に従って生きているわけではないですよね。私はこういう遊びをお母さんたちとよくやります。面白いですよ。この「お話を作る遊び」は子どもたちも大好きです。予想外のことが起きたときに身動きが取れなくなってしまうのは、「正解」を固定してしまうからなんです。「人生一寸先は闇」だから怖いのですが、でもだから面白いのです。その「闇」の中にあるものとの出会いを楽しんでしまえば、「闇」の先には明るい未来があるのです。見ないようにしたり、逃げたりするから、いつまでも「怖い闇」のままになってしまうのです。
2025.09.22
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最近、「子どもが嫌いな大人」が増えて来たような気がします。そのため、電車の中でも、色々な場所でも、子どもたちや、子連れのお母さん達に対する視線が厳しいです。子どもがちょっと大きな声を出したり、ちょっと自由に動き回っただけで、白い目や、冷たい目や、厳しい目で見られたり、文句を言われたりします。時には「もっとちゃんと仕付けて下さい」と言われたりもします。その「ちゃんと」とは、「大人に迷惑をかけない状態にしつけて下さい」ということです。でもそのような「しつけ」は「ペットのしつけ」であって、「人間の子どもを育てるためのしつけ」ではありません。子どもたちが公園で、普通の子どもらしい遊びを、子どもらしく遊んでいるだけで、近所から「うるさい」と苦情が来ます。うちの子が幼稚園に通っていた頃(30年近く前)も、幼稚園の隣の公園で子どもたちを遊ばせていると「子どもたちの声がうるさい。特に笑い声がうるさい。子どもを笑わせるな。」と近所の人から文句が来たそうです。幼稚園の隣の人から文句を言われることもあります。(実際に知っている二つの幼稚園でそういうことが起きています。)電車の中でも、子連れのお母さん達は子どもが騒がないかビクビクしています。また、子育てのワークをしていても「私は子どもが嫌いです」とか「子どもが苦手です」と、普通に言うお母さんも多いです。でも当然、そういう状態では「子どもと一緒の生活」を楽しめるわけがありません。子育てがつらく、苦しいくなるばかりです。その結果、子どもを監視、コントロールすることで、自分に被害が及ばないように仕付けようとし始めます。将来子どもが困らないように仕付けるのではなく、お母さん自身が困らないように仕付けるのです。でも、そんな大人の状態を反映してか、最近、「大人が嫌いな子ども」も増えて来ています。そのような状態の子は、大人にあこがれないし、大人を尊敬しないし、大人の言葉に耳を傾けません。学級崩壊の中心になっているような子も、「親ガチャ」を言う子もそういう状態です。そのような子は、成長する喜びも知りません。成長しても自分が嫌いな「大人」になるだけなんですから。ですから、「大きくなったら何をしたい、どういうことをやりたい?」と聞いても「普通の大人」とか「普通の会社員」などと答えます。そこには「夢や希望」ではなく、ただ「あきらめ」があります。テレビに出ている芸能人や、スポーツ選手のような「特別な大人」にあこがれている子は多いですが、裏を返せば、それは「普通の大人」には魅力を感じなくなってしまっているからなのでしょう。特に、男の子にその傾向を強く感じます。それは、男の子にとっての成長モデルとなるような大人と出会えないからなのでしょう。女の子にとっては「お母さん」が身近な成長モデルとして存在しています。でも、お金を稼いでくるだけのお父さんは、人格を持たない透明人間です。そのような透明人間は子どもの成長モデルにはなりません。有名人ではなくても「素敵な生き方をしている素敵な大人」はいっぱいいます。でも、そういう大人と出会う場も機会もありません。最近の子は画面を通してしか親や先生以外の大人と出会うことが出来ないのです。スポーツクラブを指導しているような大人とは出会うかも知れませんが、そのような場で出会う大人が「素敵な大人」だとは限りません。自分では手本を示さずに指示や命令で子どもをコントロールしようとしている指導者も多いのではないでしょうか。私はスポーツの世界には疎いのですが、子どもたちが人間としてあこがれるような指導者に指導されているチームは強いのではないかと思います。強くなくて子ども同士のつながりは強いでしょう。そのようなチームの子どもたちは人間としても成長するでしょう。それがスポーツであろうと、演劇や書道のようなスポーツ以外の活動であろうと、その活動自体が子どもを育てるのではなく、子どもを指導している指導者のあり方が子どもを育てるのです。そこは勘違いしない方がいいです。私はシュタイナー教育が好きですが、「シュタイナー教育の方法」が子どもを育てるのではなく、シュタイナー教育の価値観や考え方を大切にした指導者のあり方や生き方が子どもを育てるのです。少なくとも、私が理解しているシュタイナー教育とはそのようなものです。これは子育てでも同じです。「仕付けの方法」や、「子育ての方法」や、「教育の方法」が子どもを育てるのではなく、子どもと一緒に生活しているお母さんやお父さんのあり方や生き方そのものが、子どもの成長モデルとして子どもの成長の方向性を決めているのです。もっと簡単に言うと、お母さんやお父さんが「家族」を大切にし、助け合って一緒に楽しく生活しているのなら、子どもはお母さんやお父さんに「素敵な大人」を感じ、自分の成長モデルを得ることが出来るのです。「指示や命令ばかりしているお母さん」、「お金を運んで来るばかりのお父さん」に、あこがれを感じる子どもはいないのです。それでも子どもは、そのようなお母さんやお父さんを自分の成長モデルとして成長してしまいます。子どもの成長プログラムがそのようにセットされているからです。でもそれは、「自分が嫌いな大人」に自分もなっていくということでもあります。「大人になりたくない子ども」の状態をピーターパン・シンドローム(ピーターパン症候群)と呼んだりします。どうでしょう、皆さんのお子さんは大人になりたがっていますか?ピーターパン・シンドローム(ピーターパン症候群)とは(以下はAI による概要です)年齢的には大人なのに、精神的に子どものままでいる「おとな・こども」の状態を指す心理的概念です。アメリカの心理学者ダン・カイリー氏が提唱し、大人になることを拒否し、責任や困難から逃れる傾向が見られます。正式な病名ではありませんが、社会的な自立の拒否、依存性、感情的な成熟の欠如、未来への不安などが特徴として挙げられます。特徴責任逃れ:社会的、職業的、家庭的な責任を避ける傾向があります。依存性:他者に経済的、感情的に依存し、問題解決で他者の助けを常に必要とします。感情的な成熟の欠如:感情的に過敏で、感情のコントロールが難しい場合があります。未来への不安:自立や新しい挑戦、変化に対して極度に不安を感じることがあります。関係の問題:深いコミットメントを避け、表面的な関係を好むことがあります。背景理想と現実のギャップ:自身の理想と現実の間に生じるギャップに不満を抱き、常に「もっと良い環境」を求め続ける心理状態と関連しています。社会構造・家庭環境:社会的な支援体制の不足や、家庭での過保護が、自立を阻害する要因となることがあります。
2025.09.20
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世の中には幼いうちから子どもを「お勉強」などに追い立てている人がいっぱいいます。昔の子は小学校に入ってから「文字」を学びましたが、今では小学校入学の時点で、ある程度の読み書きが出来るのは当たり前になっています。幼稚園ぐらいの子に絵本を読んであげようとしたら、「ぼく自分で読めるから大丈夫」と言われたこともあります。それは「教育を早く始めれば、勉強や人生の競争で有利になる」と思い込んでいる人が多いからなのでしょう。では、そのような「早くから文字を学んだ子」はいっぱい本を読むようになるのでしょうか、本を読んでその内容を、作者の意図通りにちゃんと理解できるようになるのでしょうか?「幼いときから文字が読めるのだから本もいっぱい読むようになる」「読んでちゃんと理解できる」と思っている人も多いみたいですが、実際にはそれとは逆の現象が起きています。今、多くの子どもたちが、文字だらけの本をあまり読みません。読めません。楽しめません。そしてこれは親の世代も同じ状態です。それは「文字を読む能力」と「文章を読み、理解し、楽しむ能力」は同じではないからです。そこのところが分かっていないから、「子どもたちにとって必要な学び」を奪って、無駄どころか「子どもの成長を阻害するようなお勉強」を子どもたちに押しつけてしまっているのです。以前、FBで以下の記事を紹介しました。(元記事はもう消えています)「死体を煮て溶かしている」『ごんぎつね』の読めない小学生たち…石井光太が明かす“いま学校で起こっている”国語力崩壊の惨状『 ルポ 誰が国語力を殺すのか 』(文春文庫)でも、ここで本当に問題になっているのは「国語力の低下」ではなく、文章を解釈する上で必要になる「生活体験」や「人間としての当たり前の感覚」の欠如なんです。「言葉の問題」「国語力の問題」は、「国語の問題」ではなく「生活や生き方の問題」なんです。海を見たことがない子、海で遊んだことがない子でも、「海について書かれた本」を読んで、自分なりに解釈することは出来ます。砂漠しか知らない子は自身の砂漠体験を基に、本に書かれている「海」を理解しようとするでしょう。森しか知らない子も、自身の森体験を基に「海」を理解しようとするでしょう。ゲームの世界しか知らない子も、ゲームの中での体験を基に「海」を理解しようとするでしょう。でもそれらのいずれも、「本当の海」とは全く別のものです。それと同じように、今時の子どもたちは、「ごんぎつね」に描かれているおばあさんの葬儀の場面を読んで、自分たちの体験に即して解釈しただけなんです。これは「子どもたちの国語力の問題」ではなく、「子どもたちの生活の問題」なんです。そこを取り違えてしまうと、トンチンカンな対応をすることになってしまいます。最近の子どもたちは知識はいっぱい持っています。でも、人類誕生以来受け継がれてきた、「人間として当たり前の生活体験」、「子どもとして当たり前の遊び体験」があまりにも不足しているのです。「生活」という「人間としての共通体験」がなければ、コミュニケーションの土台となる共通感覚が育ちません。「遊び」という「子どもとしての共通体験」がなければ、「遊び」を共有してみんなで遊ぶことが出来ません。それは大人になっても「仕事や役割や目的を共有出来ない」という形で残っていきます。夫婦生活にも影響してきます。また、そういう状態だから「文字」は読めても「文」が読めないのです。「自分なりの解釈」はできても、「作者の意図に合わせた解釈」ができないのです。まただから、人の話を聞いても理解することが出来ないのです。でも、本を読んで本の中に描いてある知識の処理をすることは出来ます。「要約をまとめなさい」と言われればそういうことも出来ます。そして学校ではそれが出来れば、それ以上は求められません。「本の中に書かれた情報」を適切に処理することが出来ていれば、正しく理解できていなくても、学校では何の問題もないのです。そのため、学校の成績ばかり気にしていると、子どもの成長を支えることが出来なくなってしまうのです。
2025.09.19
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私の気質のワークではよく「絵」を描きますが、その時いつも「輪郭線を描かないで下さいと注意しています。「木の絵を描いて下さい」と言うと、多くの人がまず「輪郭線」から描き始めます。そしてそこから「塗り絵」を始めます。でもその様な描き方をしてしまうと「頭の中の木」は描けるのですが、「心やからだの中の木」は描けなくなってしまうのです。そのため、「自分が知らない自分」や「自分の可能性」とは出会えなくなってしまいます。(今度の日曜日、21日にこのワークをします。)【2025第7回 気質講座】 日時 9/21 日曜日 13:00-15:00 場所 北千住駅から徒歩15分のところ参加費 お一人2500円 テーマ:クレヨンを使って、木を描く 持ち物:クレヨン、筆記用具 ご興味のある方はkodomotachihe@yahoo.co.jpまでメールを下さい。主催者の連絡先をお 知らせします。現実の世界には輪郭線など存在していません。「輪郭線」は、「そのもの」を「それ以外のもの」と区別して認識するために、脳が勝手に創り出した幻想に過ぎないからです。ちなみに、幼い子どもには輪郭線は見えません。輪郭線は脳の中にしか存在していないものだからです。その輪郭線が見えるようになるためには「木というものは」「リンゴというものは」というような、客観的な概念が固定される必要があります。そしてそれは7歳前後になって生まれる能力です。だから、その概念がまだ創られていない幼い子どもには「リンゴ」は見えても、「リンゴの輪郭線」は見えないのです。そしてだから写生が出来ないのです。まただから、幼い子どもに写生をさせてはいけないのです。世界を「実体」ではなく「概念」で見るようになってしまうからです。幼い子どもの絵が何が描いてあるのか分からない状態なのは、子どもたちが「頭で創り出した輪郭線」ではなく、「実際に自分の感覚で捉えた中身」を描こうとしているからなんです。それに対して大人は、まず頭の中にある「リンゴとはこういうものだ」という概念に基づいて輪郭線から描き始めます。それから中身を塗り始めます。その時も、「リンゴとはこういう色だ」というように「色の輪郭線」を決めてから塗り始めます。まただから分かりやすいのですが、だから「それっぽい」のは描けても「それ」は描けないのです。子育てをするときも、大人は頭の中に「子どもとはこういうものだ」「うちの子はこういう子なんだ」という輪郭線を創って、その輪郭線に合わせて子育てをしようとしています。だから、子どもの中身や可能性が見えなくなってしまうのです。多くのお母さんや先生たちが、「子どもの人生の輪郭線」を勝手に決め、まるで塗り絵をするように「今子どもにやらせるべきこと」を決め、子どもに押しつけています。でも、子どもにはお母さんや先生の頭の中の輪郭線は見えません。また見えたとしても、それは「お母さんが勝手に考えた人生」であって、「私自身の人生ではない」と思うでしょう。でも、毎日のようにお母さんの頭の中にしか存在していない「私の人生の輪郭線」を聞かされているうちに、次第にそれが「自分の人生の輪郭線」(正解)だと思い込んでしまう子も多いのです。そして、その時点で子どもは自分の可能性や、夢や希望を失い、「お母さんの期待に合わせていかに上手に塗り絵をするのか」ということばかり気にするようになります。そして、「自分らしく」生きることなど求めなくなります。また、「輪郭線から外れること」に強い不安を感じるようになったり、輪郭線がないと、何をどうしたらいいのか分からなくなってしまったりします。そのような「輪郭線に依存している子」は必然的に、自己肯定感は低くなります。そして今、そういう子がいっぱいいます。「親ガチャ」を言う人も同じです。そういう状態から抜け出すためには「表現活動」や「芸術的な活動」が非常に有効です。なぜならそのような活動には「正解」(輪郭線)がないからです。でもそれ故に、輪郭線にこだわる人ほど、その様な「正解がない活動」を避けようとします。「正解」(輪郭線)がないと「素の自分」が出てしまうからです。また、「我が子が学校に行けなくなった」などというような「頭の中に描いていた輪郭線」から外れるようなことが起きると、まだ人生が始まったばかりなのに、子どもの人生の失敗が確定してしまいます。そのため、必死になって子どもを学校に戻そうとします。「輪郭線から外れた生き方」を模索し始めるのは、それが無理だと分かってからです。その場合でも「新しい輪郭線」を探そうとするばかりで、「自分らしく生きればいいんだ」と開き直れる人は少ないのではないでしょうか。でも、輪郭線を創っていなければ、輪郭線にこだわらなければ、「目の前の子ども」そのものと向き合っているのなら、学校に行けなくなってもそれはそれだけの話で、失敗ではないのです。そして、目の前の現実を土台にして次の展開を考えることも出来ます。ちなみに自己肯定感が低い人は、常に「実際の自分」と頭の中の「輪郭線としての自分」(正解)を比べて失敗探しばかりをしています。自分らしく生きることよりも、「どう、頭の中の理想の輪郭線からはみ出さないように生きるのか」ということばかりを考えています。でも、輪郭線を作らない生き方には「失敗」はありません。それは「旅」と「旅行」に違いとも似ているような気がします。「旅」では「決められた予定表」(輪郭線)がないので、「電車が動かなくなった」「宿が見つからない」「詐欺に遭った」などというようなことも「旅の一部」として受け入れることが出来ます。でも、予定(輪郭線)が決まっている旅行では、旅行自体が台無しになってしまいますよね。
2025.09.18
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「旅の醍醐味」は「出会い」にあります。「計画された出会い」ではなく「予期せぬ出会い」です。ツアーなどでは「次にどこに行くのか」「次に何を見るのか」ということはあらかじめ知らされています。その内容を知った上でツアーを選んでいるのですからそれは当然のことです。ツアーではなく個人の旅行でも、綿密な計画を立てて、その通りに動こうとする人もいますが、それは「旅」ではなく「旅行」です。ちなみに「旅」と「旅行」の違いをAIに聞いたら、以下のように答えてくれました。AI による概要「旅」と「旅行」には明確な違いはありませんが、「旅」は住んでいる場所を離れてよその土地に行くこと全般を指し、自己成長や冒険といった精神的な側面を持つことが多い一方、「旅行」は観光や娯楽を主目的とした計画的な活動を指すことが多いです。語源やニュアンスが異なり、「旅」は過程を楽しむ側面が強く、「旅行」は目的地や快適さが重視される傾向があります。 by Google私もこのような意味合いで「旅」と「旅行」という言葉を使い分けています。人は「未知との遭遇」を求めて旅に出るのです。「スナフキン」の「旅」もそのようなものだと思います。またそれ故に「旅」は「冒険」でもあります。ですから、「未知との遭遇」や「冒険」を楽しめない人、「自由」が苦手な人は、「目的地」や「見るもの」や「やること」がすでに決まっている「旅行」を選ぶでしょう。そして、そういう人の方が圧倒的に多い様な気がします。ちなみに、「行くところ」や「やること」が決まっていない「旅」では、予算や状況に合わせて自由に行動することが出来るので、それほど多くのお金を必要としていません。でも、最初からそういうものが決まっている「旅行」ではそれなりのお金が必要になります。また家の近くを自由に歩くだけでも「小さな旅」を楽しむことは出来ます。もう少し涼しくなってきたら、お子さんと一緒にご近所を歩いて「小さな旅」を楽しんでみませんか。その自由さが「旅」のいいところです。このような違いは創作活動や表現活動の場にもあります。「旅」のような感覚で創作する人は、自分の発想と、感覚を使って自由に作ろうとします。「作りたいもののイメージ」は決まっているのですが、過程やゴールは決まっていません。創りながら感じ、考え、判断し、そのイメージを実現するために色々と工夫するだけです。その様な人には「失敗」がありません。「正解」を決めなければ「失敗」も生まれないのです。ただ、「思ったように出来なかった」ということはあります。でもそれは「失敗」ではなく「次の課題」になるだけです。全てが「過程」なんですから。でも、旅行感覚で作ろうとする人は「マニュアル」や「簡単便利」や「素敵な結果」を求めます。そして、思い通りに出来ないと「失敗した」と言います。ここで大きな問題があります。それは、望む、望まないとに関わらず、「人生」と呼ばれるものは全て「旅」に似ているということです。「どこに行って、何をするのか」決められて産まれてくる人などいないのです。実際、昔から「人生」は「旅」に例えられて来ました。それは、何が起きるか分からない、過程と冒険を楽しむしかない「旅」です。「親ガチャ」とか「○○ガチャ」などと言うような人は、「旅」ではなく「旅行」的な感覚で生きているのでしょう。だから旅行代理店に文句を言うように、親や運命に対して文句を言うのでしょう。そして、「旅を楽しむ感性」や「人生を楽しむ感性」は、子ども時代のアナログ的な遊びの中で育っていくような気がするのですが、皆さんはどう思いますか?
2025.09.17
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今年のGWには、世界自然遺産にもなっている屋久島に行ってきました。屋久島にはなぜか知り合いが多く移住しているので、「GWに屋久島に行くよ」と伝えたら「じゃあみんなで集まろう」という話になって、楽しい場を設けてくれました。(肝心の発起人の人は、私が行く数日前に大けがをして入院してしまったので参加できませんでしたけど・・・)その知り合いは、私の直接の知り合いだけでなく、私に会わせたい色々な人にも声をかけてくれました。みなさん素敵な人だったのですが、中でも異色だったのは、キャンピングカーを使い、家族四人で、50カ国、12万KMを5年かけて回って来た雲野和幸さんという方でした。その時は「へーすごい人だな」程度の感想でしたが、その方の奥さんが書かれた「ぼくの学校は世界中」(雲野秀美著)を読んで、その旅の濃さにさらに驚きました。この本は、「旅の記録」であると同時に、子どもの、そして家族の「成長の記録」でもあります。この本です。ぼくの学校は世界中 家族4人で地球一周!キャンピングカーで旅した1800日/雲野秀美【1000円以上送料無料】「旅」には人を成長させる力があるのです。子どもの精神的な自立を望むのなら、子どもを安全、安心、便利な家や環境の中に閉じ込めるのではなく、何があるのか、何が起きるのか分からない「旅」に出すのが一番効果的なのではないかと思います。ちなみに、電車や飛行機に乗って遠くに出かけるのだけが「旅」ではありません。知らない町、知らない野山を、自分の意思と判断で自由に歩くのも立派な「旅」です。知らない人たちの所に行くのも「旅」です。もっといえば、自分が住んでいる町の、まだ歩いたことがない道を探して歩くのも、道ばたの草花や昆虫を探して歩くのも「旅」です。そのような旅には「デジタルの世界」では出会えない驚きと、感動と、学びがあります。かくいう私も、1980年、30才の時にリュック一つで世界を回る旅に出ました。44年も前の話ですから、世界の状態は今とは全く異なっていました。もちろん、ネットもスマホもありません。ヨーロッパが欧州連合(EU)で統合されるズーッと前ですから貨幣もバラバラです。欧州連合(EU)が出来たのは1993年ですから。スペインはフランコ政権が倒れてまだ間もない頃だったので、町中に自動小銃を抱えた軍人(おまわりさん?)がいっぱいいました。路上には物乞いもいっぱいいました。家族の写真を抱えていたり、実際に家族総出で物乞いをしている人もいました。アジアの国も今とは全く違う状態でした。インド(カルカッタ、今のコルコタ)では、インドで初めてとなる地下鉄を作っている最中でした。私が見たときには、女の人が頭の上にかごを載せてのんびりと土を運んでいました。「こんなんで終わるのだろうか・・・」と思いました。ボンベイ(今のムンバイ)の町は路上生活者と、手足が不具状態の物乞いと、生ゴミと糞尿であふれていました。タイのバンコクは、今では高層ビルが乱立していますが、当時はそんなもの建っていませんでした。交通渋滞は今も変わっていないみたいですけど・・・。一人旅ですから、どこに行くのか、いつ行くのか、そこで何をするのかということも全部自分で決めなければなりません。また、詐欺師も山のように群がってきます。インドでは物乞いも山のように群がってきます。旅の途中で、何人もの「身ぐるみはがされた」という若者と出会いました。ですから「自分の安全」は自分で守るしかありません。そんな状態の中一年弱、色々な所を歩きましたが、その一年間の体験があったから、今の自分があるのだと思っています。シャイな私でも、堂々と値段交渉が出来るようになりました。「旅」には人を育てる力があるのです。それは子どもでも大人でも同じです。だからこそ、昔の人は「かわいい子には旅をさせよ」と言ったのでしょう。
2025.09.16
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人間の「人間らしさ」や「人間らしい心」は「人間らしい言葉」によって支えられてきました。人と人がつながり合い、支え合うことが出来たのは、その「人間らしい言葉」を共有していたからです。日本人の「日本人らしさ」は「日本語」を共有し、伝承することで伝えられてきました。でも今、その「人と人をつないできた言葉」、「人間らしさ」や「日本人らしさ」を支えて来た「言葉」が消え始めています。それは、お金さえあれば手に入れることが出来る「簡単で便利な機械」の登場で、「人と人がつながる意味と必要性」が消えてきたからです。その流れの中で「バラバラになること」「自分勝手に行動すること」を「自由になること」だと勘違いする人たちも増えてきました。「人と人がつながり合う」ことを「束縛」と感じる人も増えてきました。また、みんながバラバラに生活するようになったので、子どもたちは「つながり合うために必要な言葉」を学ぶことが出来なくなりました。「本」には「つながり合うために必要な言葉」が書いてありますが、最近の子は「本」を読みません。というか、「文字」は読めても「言葉」を知らないので、読んでも意味が分からないのです。また、「自分の言葉」で、自分勝手に解釈してしまう子も多いです。「つながり合うために必要な言葉」は知りませんが、自分が大好きな「アニメやゲームに関する言葉」は詳しいので、それを「自分の言葉」として解釈してしまうのです。ですから、同じ本を読んでも、大人の理解とは全く異なった理解をしている可能性があるのです。アニメやゲームを共有している子どもたちは、「アニメやゲームに関する言葉」だけでコミュニケーションしています。そして、それで困っていません。いつも機械を相手に一人で遊んでいる今時の子どもたちにとって、「自然や、生活に関する言葉」や、「他の人と価値観や、考えや、感覚や、目的を共有してつながるための言葉」は必要がないからです。そんな子どもたちと話をしていると、悲しいくらい「言葉」を知りません。ゲームやアニメが好きな子同士では会話が成り立っているみたいなのですが、ゲームやアニメを知らない子(うちの教室にはそういう子も数人います)や、大人とは会話が成り立たないのです。双子は「自分たちだけで通じ合う言葉」(双子語)を創り出してしまうそうですが、ゲームやアニメが好きな子もまた「自分たちだけで通じ合う言葉」(アニメゲーム語)を創り出してしまっているのです。そして、困ったことにそれ以外の言葉を学ぶ場がないのです。その「アニメゲーム語」は「命がない世界」「実体がない世界」「非現実世界」を語るための言葉なので、その様な言葉しか知らない子は、「命がない世界」「実体がない世界」「非現実世界」のことしか考えることが出来ません。「海」に関する言葉を知らない人は「海」について考えることが出来ません。「木」に関する言葉を知らない人は「木」について考えることが出来ません。「命」に関する言葉を知らない人は「命」について考えることが出来ません。さらに、「海に関する言葉」を知っていても、「リアルな海の体験」がない人は、「リアルな海」について考えることも語ることも出来ません。「木に関する言葉」を知っていても、「リアルな木の体験」がない人は、「リアルな木」について考えることも語ることも出来ません。「命に関する言葉」を知っていても「リアルな命の体験」がない人は、「リアルな命」について考えることも語ることも出来ません。youtubeや図鑑や教科書などを見るだけで「何でも知っている」と錯覚してしまっている現代の子どもたちはそんな状態です。旧約聖書の中に書かれている「バベルの塔」の話は、もしかしたら、過去に実際にあった話なのかも知れません。そしてまた同じことが起きているのかも知れません。
2025.09.15
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「心を育てる」などというと怪しい感じがしますが、でも、「心」が育つことなく、幼いときの「自己中心的で自分勝手な心」のまま、体だけ大人になってしまったら、本人も周囲も苦しむことになります。でも今、そのような状態の大人たちが増えてきています。そのような人は「自分のこと」しか考えません。常に、自分中心に感じ、考え、行動します。他者の視点で物事を考えたり、感じたりすることも苦手です。それでいて、自分と同じように考え、感じる人がいると簡単に共鳴します。共感するのは苦手なんですが、共鳴は簡単に起きてしまうのです。学級崩壊はその共鳴で起きています。精神的な自立が出来ていないので依存心がつよいのですが、同時に、プライドも強いです。精神的に弱く自分に自信がない人ほど強いプライドを創り出し、それを盾にして自分の心を守ろうとするのです。ですから、自分が間違っていても謝りません。そもそも、物事を「他者の視点」で考えることが出来ないので、「他の人がなぜ怒っているのか」ということ自体が理解できません。幼い子どもは、お母さんが怒っていても「何で怒っているの」か分かっていません。でも、「ごめんなさい」と言えば許してもらえます。ですから「ごめんなさい」と言います。でも、「なんで叱られたのか」ということが分かっていないので、また同じことをします。その繰り返しです。そのまま大人になるとプライドも強くなるので、その「ごめんなさい」も言わなくなります。そして責任転嫁を始めます。また、プライドが邪魔をして、素直に「人の言葉」に耳を傾けることが出来ません。当然「対話」も出来ません。何か言われたら、すぐに反論し言い争いになってしまいます。他の子をいじめていても、プライドがあるので、それを「イジメ」とは認めません。「謝ったら負けだ」と考えます。ちなみにこれは学校の成績とは関係がありません。では、子どもの「人間としての、人間らしい心」はどのようにして育てたらいいのか、ということです。「心」は子どもの内側にあるので観ることも、触れることも出来ません。顔はニコニコしていても、心の中では泣いているかも知れません。ですから「心」を直接育てることは出来ないのです。「心を鍛える」などと言って、厳しいことをやらせようとする人もいますが、それは心のバリヤーを強くしているだけです。度を超せばバリヤーと一緒に心も壊れます。そこで必要になるのが「言葉育て」なんです。人は「感覚」と、「行動」と、「言葉」を通して、自分が生きている世界と直接つながっています。「木」という言葉を知らなければ「木」を認識できないし、「水」という言葉を知らなければ「水」も認識できないのです。認識できないということは「心の中に存在していない」ということです。「愛」とか「希望」という言葉と、その意味を知らない子の心の中には「愛」も「希望」も存在していません。「感じ」、「考え」、「学んだこと」が、その子の言葉の中に入ることで、心の中が豊かになり、その子の「心」が成長していくのです。いくら色々なことをやらせても、それが「子どもの言葉」の中に取り込まれていないのなら、心の糧になっていないのです。「人間らしい言葉の使い方」を学ぶことで、子どもは「人間らしい考え方」を学ぶことが出来るのです。そしてそれが「人間らしい心」の育ちにつながるのです。「美しい」という言葉を学ぶことで「美しいもの」に目覚めるのです。そんな「子どもの言葉」が育つためには、「体験」と「言葉の使い方を知っている人」との出会いが必要になります。機械は「知識としての言葉」は教えてくれますが、「身体感覚とつながった言葉」は教えてくれません。
2025.09.14
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ネットで色々な記事を読んでいると、「子どもの認知機能を育てる」とか、「非認知能力を育てる」とか、「右脳を育てる」とか、「思考力を育てる」とか、「創造性を育てる」とかいったような、「子どもの機能的な能力の成長」ばかりに目を向けた記事が目立ちます。そして、「人間らしい心とからだ」を育てることに目を向けさせるような記事はあまり目にしません。まるで機械の性能を向上させるような感覚で「子育て」や「教育」が語られているのです。「心育て」を目的としている道徳の授業でも、ビデオを見せたり話を聞かせたりはしているのでしょうが、「からだ育て」とつながっていない「心育て」では、何を教えても頭の中だけに留まり、心とからだの中にまで落ちていきません。現代人は、科学では扱うことが出来ない「人間性」のような曖昧なものには興味がないのでしょうか、「心を育てる」ということに思想的な束縛や押しつけを感じるのでしょうか。これは「からだ」に対しても同じで、現代人は、「子どもの筋肉」や、「運動能力」や、「体力」といった「体の機能的な側面」を育てることには熱心ですが、「意識や、感覚や、心や、命の働きとつながったからだ」の育ちにはあまり興味がありません。病院も胃腸科、呼吸器科、眼科など、体のパーツを見てくれる科はありますが、心の働きも含めた「からだ丸ごと」を見てくれる科はありません。コロナ騒動の時も、「コロナにかからないために」という議論ばかりで、「子どもの心とからだの育ちに対する影響」については、政治家も、医者も、テレビも、マスコミも完全に沈黙していました。(卑怯です)この傾向は「オーム真理教」の事件以降急激に強まりました。あの事件をきっかけとして、社会全体が「心を扱うような活動」に否定的になってしまったのです。講演会のタイトルでも「心を育てる」的なタイトルだと、公民館側からクレームが入りました。これは実際に私が体験したことです。でも、このような流れは逆効果なんです。実際、オームの活動の中心にいたのは科学を学んだ高学歴の若者たちだったのですから。彼らは「脳の機能」は充分に育っていたのです。でも「人間らしさ」や「心」が育っていなかったのです。だから、精神的な自立が出来ず、心が満たされないままにオーム真理教に救いを求めたのです。それなのに「心を育てる」ということが「宗教を連想させる」というだけの理由で否定されるようになってしまったのです。また現代人は「心」というものについて考えなくなってしまったため、どうやって心を育てたらいいのかも分からなくなりました。運動を通して心を鍛えようとする人はいますが、心は「育てるもの」であって、「鍛えもの」ではありません。またそんなこと出来ません。でも、「心が育っていない若者」を洗脳するのは簡単なんです。オーム真理教事件はそれを証明したのです。それなのに、多くの人が正反対のことを感じ、正反対の選択をしてしまったのです。その結果、子どもたちはさらに心が育つ機会を失い「自己肯定感が低く、傷つきやすく、不自由や苦しみから逃れようとする若者」が増えてきたのです。「心のエネルギー」が弱く「心をコントロールする能力」も低いため、そういうものと向き合うことが出来ないのです。そして今、AIに救いを求め、AIに洗脳される若者まで出てきました。以下はNHKのニュースです。オープンAI 10代のChatGPT利用を親が管理 悪影響防止の対策へ心が育っていなければ「オーム真理教」は消えても、別のものに救いを求めるようになってしまうのです。「心」を扱うことから逃げてしまったら、状態はさらに悪化してしまうのです。子育てや教育の場で、子どもの知能や能力を育てることばかりに夢中になって「心」を育てることを忘れてしまったら、どんなに高い知能や能力を育てても、意味がないのです。なぜなら、その知能や能力の主人は「心」だからです。自分の知能や能力をどう使うのかを決めているのは「心の働き」なんです。だから、心が歪めば、犯罪などを実行するためにその知能や能力が使われてしまうのです。心が歪めば認知機能も、思考能力も歪んでしまうのです。それがオームの事件が意味することだったのです。問題は、現代社会では大人達もまた自分の心と向き合えなくなってしまっていることです。今、自己肯定感が低く、自分を否定してばかりいる大人がいっぱいいます。でも、「自分を否定している」ということは、「自分から逃げている」ということでもあります。否定することで「本当の私はそうじゃないんです」と自己弁護しているのです。
2025.09.13
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先日、横浜にある「Umiのいえ」が主催するお茶会に招待されました。お茶会なんて35年ぶりくらいです。昔、子どもたちがまだ小さくて鎌倉に住んでいた頃、お散歩の途中で素敵なお茶の先生と出会い、「免状はいらないのでお茶を教えて下さい」と無茶なお願いしたら快く受け入れてくれて、夫婦で、しかも子連れでお茶を学んでいました。家元が鎌倉に住んでいる宋偏流という流派です。先生は「免状がいらないのなら」と自由に色々なことを教えてくれました。「お茶」(茶道)は「型」(作法)と呼ばれるもので出来ています。「お茶を学ぶ」ということは、その「型」(作法)を学び、身につけるということです。「自由」が大好きな現代人的に考えたら、お茶を飲むだけなのに、なんでそんな面倒くさい「型」を学ばなければならないのか理解できないでしょう。また、その「型」は流派によっても違うのですから、「流派の中の正解」はあっても、「茶道としての正解」はありません。実際、茶道の創始者の千利休は、「ただ湯を沸かして茶を点てて飲むだけ」と言っています。だったら「自分流でもいいんじゃないか」と考えてしまうところですが、実はそういうことではないのです。この「ただ」は、儒教の創始者の孔子が「七十にして従心所欲、不踰矩」(心の欲するままにしても、規矩(のり)を越えることがなかった)という境地での「自由」のことであって、自分勝手という意味での「自由」のことではないからです。それが「身になる」「身につける」ということです。「型」が身について、身になっていれば、型のことなど気にしなくて自由にやっても「型」から外れないのです。ですから、「ただ湯を沸かして茶を点てて飲むだけ」という言葉は、「そうなるまで修行しなさい」ということかも知れません。言葉を自由に話すことが出来る人は、自分勝手に言葉を作って話しているわけではありませんよね。「言葉のルール」に則りながら、自由にその「言葉のルール」を操って話すことが出来るということですよね。その「言葉のルール」が、言葉というものを支える「型」になっているのです。ですから、その「言葉の型」を身につけないことには自由に言葉を使うことが出来ません。「型」それ自体は不自由ですが、その不自由を組み合わせ、自由に使いこなすことで自由を得るのです。「型」を身につけていないと、他の人と対話することも出来ません。「型」を共有しているから対話が成り立つのですから。バレーでも、日本舞踊でも、ヒップホップでも、自由に踊ることが出来る人は、自分勝手に動きを創り出して踊っているわけではないですよね。バレーには「バレーの型」があり、日本舞踊には「日本舞踊の型」があり、ヒップホップには「ヒップホップの型」があって、それを自由自在に使いこなせるから、自由に踊ることが出来るのですよね。これは遊びでも、スポーツでも、仕事でも同じです。武道にも太極拳にも「型」があります。「型」を学んだからといって強くなれるわけではないですが、「型」を学ばずに自己流でやっても強くなれません。自己流のケンカがいくら強くても、ボクシングやプロレスなどの「しっかりと型を学んだプロの世界」では通用しないのです。自己流には「自分視点」しかありませんが、「型」には色々な時代の、色々な人の「多様な視点」が組み込まれているからです。数学や科学などの勉強の世界にも型があります。「定理」や「公式」と呼ばれるものも型です。「1+1=2」も「型」です。「1+1=2」という型を学ぶから、その応用として「2+2=4」という「型」の意味が理解できるようになるのです。モンテッソーリ教育にも、シュタイナー教育にも「型」があります。そして「型」があるから、その型を自由に組み合わせることで、より大きな世界を表現し、楽しむことが出来るのです。自分勝手な自由には「自分視点」しかありませんが、「型」には過去の様々な人の多様な視点が組み込まれているのです。だから「型」を学ぶことで「自分」を超えることが出来るのです。でもそれ故に、その「型」を学ぶときには「自分勝手な自由」は制限されます。また、「自分以外の視点」が組み込まれているので「型の意味」が理解出来ません。そのため、幼い頃から思い通りになるオモチャや機械を相手に、一人で自由に遊んでいた子は、「型」を学ぶことを嫌います。そして「マイルール」(自分視点に基づく自分だけの型)に従って、話したり、行動しようとします。でも、みんなが「私は自由にやりたい」と、「マイルール」で話し「マイルール」で行動していたら、他の人と対話できないし、一緒に活動することも出来ません。
2025.09.12
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現代人は「自由」が大好きです。私もいつも「自由の大切さ」を書いています。でも、「自由」は「不自由」とセットになることで、初めて「自由」としての意味と効果を持つのです。「自由」しかなければ、「自由」の意味も、価値も、使い方も分からなくなってしまい、かえって人を不自由にしてしまうのです。現代人は「情報選択の自由」を持っています。ネットを使えば自分が求める情報だけを集め、自分が見たい動画だけを見て「自分が大好きな世界」だけに浸ることが出来ます。それに対して、紙の新聞の場合は、新聞社による偏りはありますが、でも、政治から芸能から国際情勢まで、一応一通りのことが書いてあります。ちゃんと読むか読まないかは別にして、ざっと見ただけでも「いろんなことが書いてあるな」とか「世の中全体の動き」ぐらいは気づくでしょう。でも、自分が「自分の価値観に従って集めた情報」を見ているだけでは「世の中全体の動き」に気づくことはありません。他者の価値観や意見とも出会えません。そのため、「自分の考え」を強化することはできても「自分の考え」を検証することも広げることも出来ません。そうして「自分という檻」に閉じ込められてしまうのです。それは、自分にとっては「自由な状態」かも知れませんが、でも、いつまでも同じ価値観や、同じ考えの中をぐるぐる回っているだけなので、実際には不自由な状態なんです。でもそのような状態の人は自分が不自由であることに気づきません。それは、小さなボールの上を歩いているアリのような状態です。ボールは丸いので、それがどんなに小さくてもどこまでも歩くことが出来ます。アリはいつまでも歩き続けることが出来るので「自分はこんなにも広い世界にいる」「自分は自由だ」と思い込んでしまうのです。でもそのような状態の人は、他の人と助け合って活動することが出来ません。他のボールの上を歩いているアリとは大地を共有していないので一緒に活動することが出来ないのです。子どもたちも同じ状況です。最近の子どもたちは、基本的に一人だけで遊びます。ですから自分が好きなことだけやって遊ぶことが出来ます。オモチャを使った遊びでも、一人遊びなら「自分が好きなこと」だけをやって遊ぶことが出来ます。ゲームはその象徴です。でも、群れて遊ぶときには他の子と協力し合ったり、妥協したり、時にはケンカをすることもあります。ですから「自分がやりたいこと」だけをすることが出来ません。そういう点では非常に不自由です。また、便利な機械を使わない「アナログ的な遊び」で自由に遊ぶためにはそれなりの努力が必要になります。ゲーム機は初心者でも簡単に遊ぶことが出来るように出来ていますが(実際、サルにゲーム機を渡すと遊び始めるようです)、コマや、凧や、竹馬といったような昔のオモチャは子どもに合わせてくれません。コマで遊ぶときには「コマの論理」に従う必要があります。凧で遊ぶときには「凧の論理」に従う必要があります。竹馬で遊ぶときには「竹馬の論理」に従う必要があります。でも、大きなお兄ちゃんやお姉ちゃんが楽しそうに遊んでいるのを見てその姿にあこがれ、「自分も出来るようになりたい」と努力するのです。「便利な機械や道具に依存しない遊び」で楽しく遊ぶためには、それなりの努力が必要になるのです。そしてその過程で「コマの論理」「凧の論理」「竹馬の論理」を学ぶことが出来たのです。そうやって「自分の世界」を広げることが出来たのです。また、この学びは子どもが物理学を学ぶときの手助けにもなります。「努力」が必要な活動は不自由をもたらしますが、昔の子どもたちにとっては、その「不自由」を克服するのが楽しかったし、それ自体が「遊び」の一部だったのです。不自由を克服することで「自分の成長」を実感することも出来ました。その過程で自己肯定感も育ちました。まただから、「まだ出来ない子」の面倒も見ることが出来たのです。でも、幼い頃から「便利なオモチャで一人で遊ぶ自由」に慣れてしまった現代の子は、「他の子と一緒に遊ぶ時に生まれる不自由」や「不便なおもちゃで遊ぶ不自由」を嫌います。また、その不自由を乗り越えたいとも思いません。お手本となるような「あこがれるお兄ちゃんやお姉ちゃん」がいないからです。造形などの場でも、最近の子は「自分の自由にやりたい」と言います。ナイフやノコギリが使えないから教えようとすると「自由にやりたい」と言って、教えてもらうことを拒否します。でも、使い方を学べばナイフやノコギリは「便利な道具」ですが、使い方を知らない子にとっては「危険で、不便で、不自由な道具」に過ぎません。そのため、そのような子は、ちょっとやってみて「頑張らないと出来ない」という現実に突き当たるとすぐにやめてしまいます。「頑張る」という発想がないのです。そして、改めて取りかかることはないのですが、「後でやるから」と体裁を取り繕うのです。うちにはそんな子の未完成品が山のようにあります。また、「自由にやりたい」と言うのですが、自分でも「自分が何をやりたいのか」がよく分からないのです。ですから、手助けしようとして「何がやりたいの」と聞いても答えることが出来ません。何かやりたいのですが、それが何なのか自分でも分からないのです。今そういう「自分のことを知らない子」がいっぱいいます。ちなみに「群れて遊べる子」は造形などでも積極的に取り組むことが出来ます。
2025.09.11
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子どもたちは「ダメ」とか「あれをやりなさい」「これをやりなさい」という言葉には従わないのに、人の真似をすることは大好きです。特に、年齢が近い子や、大好きなお兄ちゃんやお姉ちゃん、大好きな大人の真似は「しなさい」などと言わなくても、「やっちゃダメ」と言っても真似をしようとします。大好きなキャラクターやアイドルの真似をしたがります。野球が好きな子は、好きな選手の真似をしようとします。うちの長男も、子どもの頃「クレヨンしんちゃん言葉」にはまっていました。そんな時、「何を」「誰を」真似したがるのか、ということの中に、その子の能力や才能が表れているのでしょう。野球選手の真似が得意な子は、野球に対する才能があるのかも知れません。大好きなキャラクターやアイドルのファッションを真似したがる子は、ファッション関係の方に才能があるのかも知れません。また、「好きな人」が好きなことも好きになります。最初は絵などに興味がなくても、好きになった人が絵が好きなら、その影響で絵が好きになることもあります。お母さんが大好きな子は、「お母さんが好きなこと」にも興味を持ち、好きになろうとします。お母さんが「お料理」が好きでいつも楽しそうに「お料理」を作っていれば、子どもも「お料理」に興味を持つようになります。大好きなお母さんが「お話」が好きで、いつも子どもに「お話」を語って聞かせていれば、子どももお話が好きになります。それがどんなことであろうと、「学びの入り口」は、まず「好きになること」なんです。好きにならないことには「学び」は始まらないのです。でもこれがなかなかやっかいなんです。「好きになれ」と言っても無理だからです。子どもは、「自分で選んだもの」しか好きにならないのです。これは大人でも同じですよね。そして実は、この「自分で選ぶ」ということが大切なんです。大人は手本を見せることが出来ます。でも、それ以上のことは出来ません。それ以上のことをやろうとすると、子どもは拒否し、逃げようとします。子どもは常に「自分のことは自分で決めたい」のです。その時子どもは、「大人が楽しそうにやっていること」に興味を持ちます。そしてそれを真似したがります。それは当然ですよね。でも、嫌々やっていることは真似しようとしません。子どもは、嫌々お料理を作り、嫌々子どもの相手をし、嫌々お掃除をし、嫌々生きているような人の真似をしたいとは思わないのです。そして、そのような人の言葉には従いません。私が書いているのは「子どもとはそういう生き物ですよ」ということです。それを踏まえて「じゃあどうしたらいいのか」は、ご自身で考えて見て下さい。ネコを育てるときにはネコの特性に合わせるしかありません。これは犬でも、牛でも、馬でも、そして人間でも同じです。人間に合わせてくれるのは機械だけです。
2025.09.10
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自然の中で自然を相手に生きている動物たちは、当然のことながら、「自然」に対応した感覚や感性を持っていて、自然と調和するような生き方をしています。人間も、自然を相手にしながら生きていた頃は、「野生動物と同じ」とまではいきませんが、それなりに「自然」に対応した感覚や感性を持っていて、自然と調和するような生き方をしていました。そしてまた、そのような感覚や感性や生き方を大切にしていました。そうしなければ生き延びることが出来なかったからです。でも、人間は次第に「自然から切り離された人間のためだけの環境」を創り出し、その「自然から切り離された人間のためだけの環境」の中で生まれ、育ち、生活するようになりました。そして、人間は適応能力が高い動物ですから、生まれたときからそのような環境の中で暮らすことで、必然的に、「自然に対応した感覚や感性」は失われ、「社会に対応した感覚や感性」のみで生きるようになり、「人間が、人間のためだけに創り出した価値観、感性、考え方、生き方、意識や心やからだの使い方」に囚われて生きるようになりました。人間は野生動物たちを捕まえてきて、人間が創り出した環境の中で、人間の都合に合わせて育てることで、自分たちに都合の良いように家畜化してきましたが、それと同じことを自分たち人間にもしてきたのです。これを「自己家畜化」と呼びます。ちなみに、これは私が考えたことではなく、人類学の中では昔からある考え方です。そして「自然」の代わりに与えられたのが「社会」という環境です。昔の人間は「自然」を相手にして、「自然」の中で生き延びていましたが、現代人は「社会」を相手にして「社会」の中で生き延びなければならなくなったのです。その結果、感覚や、感性や、意識や、心やからだの状態も「社会」にうまく対応できるように変化してきました。でもここで問題が起きてしまいました。人間は「人間が作った社会」の中で生まれ、生活することで、「人間の社会」に合わせて、感覚や、感性や、意識や、心やからだの状態を変えることが出来たのですが、その「人間」という存在を支えている「命の働き」の方は、何十億年前から変化していないからです。「命の働き」の原則は、何十億年と固定されたままなので、「人間が作った社会の変化に対応して変化してくれる」などということはないのです。ですから、「社会の変化」が「命の働き」に反するような状態になってしまうと、「命の働き」が狂い、その「命の働き」に支えられている、人間の感覚や、感性や、意識や、心やからだの状態も狂ってしまうのです。その結果、生命力が低下し、薬漬けになり、医学や科学の力でかろうじて命を支え、子孫を残すことも困難になり、欲望に振り回されるようになり、「人と人とのつながり」も消えてしまうのです。自然界は搾取されることで崩壊してしまうので、人間は「自分たちの命を支えるもの」も得ることが出来なくなります。その変化は、「洞窟のカナリア」と同じで、心とからだの状態が一番デリケートな子どもたちの中にまず表れます。「子どもの問題」として言われていることは全て「大人の問題」なんです。そのことに気付かなければ、人類はこのまま消えていくことになるでしょう。でも、自然と共に生きている生き物たちは、自然を破壊し、自然と共に生きることが出来なかった人類の消滅を喜ぶでしょう。「地球が静止する日」という映画があります。ある日、宇宙から「地球」を救うために宇宙人がやってきます。「地球を救うために来た」と聞いた人は「人類を救いに来た」と思い込んでしまうのですが、実際には、「人類を滅ぼして、人類によって破壊されている地球の方を救いに来た」というのです。そんな宇宙人がやってこないことを祈ります。また、人類が、そんな宇宙人が来なくてもいいような生き方が出来ることを望みます。
2025.09.09
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なんで、子どもは大人の言うことを聞かないのか?それは簡単です。大人が子どもの成長にとって有害なことを求めているからです。「勉強しなさい」とか「片付けなさい」と言っても言うことを聞かない子に、「一緒に遊ぼう」と言ってみて下さい。素直に言うことを聞きますから。なぜなら、その要求は子どもの成長に必要なことだからです。以前、うちの教室に言葉も話せない重度の自閉症の子が来ていました。お母さんは「子どもとコミュニケーションが取れない」と言って悩んでいました。でも、私が一緒に遊んで、子どもの気持ちに合わせて言葉かけをしたり、行動したりしているとちゃんと言葉が通じるのです。ただし、「ダメ」は一切通用しませんでした。「こうしてみようか?」という誘いかけは通用するのですが、子どもがやりたいことを否定するような言葉は拒否されました。でもこれは普通の子でも同じです。「こうしてみようか?」という提案に対しては子どもは肯定的に受け入れてくれますが、大人のやり方を押しつけるようなやり方は拒否されます。だから、なんべん「ダメ」と言っても、子どもは同じことを繰り返すのです。そんな時、ただ「ダメ」と禁止するのではなく、「こうしてみない?」と新しい方法を提案して見て下さい。反応が違ってくると思いますよ。お母さんの「ダメ」を素直に聞いていたら子どもは自分の世界がどんどん閉ざされてしまいます。そして自分の成長に必要なものを得ることが出来なくなります。だから抵抗するのです。それに対して、「こうしてみない?」という提案は世界を広げてくれます。だから抵抗する理由がないのです。ただし、子どもの気持ちにより添った「こうしてみない?」という提案をするためには、大人自身が自分の頭で考え、自分の感覚で感じている必要があります。また、お母さんも子どもの側にいて一緒に勉強したり、お母さんも子どもと一緒に片付けようとするのなら、子どもは独りぼっちでやらされるときよりは言うことを聞くようになります。なぜなら、子どもが一番嫌いなのは「独りぼっち」だからです。「独りぼっち」は子どもの成長にとって有害なんです。なんで、子どもは子どもたちが遊んでいるところに近寄っていくのか?それは、他の子と関わり、遊ぶことが子どもの成長にとって必要なことだからです。なんで子どもは、他の子が裸足で遊んでいると自分も裸足になりたがるのか?それは裸足で遊ぶことが、子どもの心とからだの育ち(身体感覚の育ち)にとって大切なことだからです。なんで赤ちゃんは、色々なものに触れ、色々なものを口に入れようとするのか?それは、子どもが自分が産まれてきた世界に適応しようとするためです。なんで子どもは高いところに登りたがるのか?なんで子どもは高いところから飛び降りたがるのか?(うちの3才の孫は、しょっちゅうイスに登っては飛び降りて遊んでいます。なんで子どもは、押し入れや段ボールのような狭いところが好きなのか?なんで子どもは水たまりがあれば入ろうとするのか?なんで子どもは、手が汚れても、洋服が汚れても気にしないのか?なんで子どもは「はだか」が好きなのか?何で子どもは怒っている人よりも、ニコニコしている人の方に寄っていくのか?なんで子どもは走り回るのか?なんで子どもは大きな声を出すのか?それは簡単な理由によります。そういうことは全て、子どもの心とからだ成長にとって必要な活動だからです。じゃあなんで、大人たちは子どもたちのそのような本能的な活動を嫌うのか、肯定できないのか?それは大人たちが、自分たちの心とからだを肯定していないからです。心とからだを大切に生きていないからです。その傾向は社会の機械化と共にますます強くなってきています。大人たちは「社会のリズム」、「機械のリズム」に合わせて生きています。そして、「自分の心とからだのリズム」、「命のリズム」を無視して生きています。そのため自分では気付いていないのでしょうが、心とからだの中に強い緊張が溜まってしまっているのです。だから、「自分の心とからだのリズム」、「命のリズム」に素直に従って遊び回っている子どもを見ると腹が立つのです。自由を奪われている人は、自由に遊んでいる子どもを見ると腹が立ちます。ガマンばかりしている人は、ガマンしようとしない子どもを見ると腹が立ちます。それだけのことです。
2025.09.08
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昨日は「子どもはみんなチャレンジャーだ」ということを書きました。実際、子どもたちはみんな「大人のルール」を無視して自由奔放に色々なことに挑戦しようとします。そして大人たちは、そんな子どもたちに手を焼いて、叱ったり、叩いたり、説得したりして「大人のルール」に従わせようとします。じゃあここで聞きます、「なんで子どもは大人の言うことを聞かないの?」(チコちゃん風に)その問いに対して、多くの人が「子どもはワガママだから」と答えるかも知れません。ではなんで、子どもはみんなそんなワガママを言うのですか?叱られても、叩かれても、しつこく説得されても、おやつをもらえなくても、なんで子どもは「ワガママ」を通そうとするのですか?さあ、答えられますか。ほとんどの子どもがそういう状態だということは、そこには「子どもの成長につながるちゃんとした意味と理由」があるはずなんです。でも、多くがその「なんで?」を考えようとしていません。多くのお母さんが「なんべん言ったら分かるの!」と怒鳴っていますが、なんで、なんべんも言っているのに分からないのだと思いますか?お母さんの方も、「なんべん言っても勉強しない」「なんべん言っても片付けない」「なんべん言ってもゲームをやめない」「なんべん言っても分からない」ということは経験的に知っているはずなのに、なんで、なんべんも同じことを言い続け、同じことを繰り返すのですか?なんで?お母さんが「言い方」や「やり方」を変えたら、子どもの反応も変わるかも知れませんよ。
2025.09.07
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幼い子どもたちはみんなチャレンジャーです。あらゆるものを口に入れ、あらゆるものに触り、どんな所も登ろうとし、猫のように狭いところに入り込み、「危ないからやめなさい」と言ってもやめません。言葉が話せるようになると、全然大丈夫じゃない時にも、「大丈夫、大丈夫」などと言い返してきます。そして、やめません。全くの怖いもの知らずです。それは「痛い思い」をしたことがないからなのでしょうが、大人は「そんなことをしたら痛い思いをする」ということを知っているので、子どものそのようなチャレンジ、冒険、無鉄砲を、一方的に止めようとします。また、子どもがケガをしり、問題を起こしたりしたら、「親は何をしていたんだ!」などと、周囲から責められます。泣かれたら面倒くさいです。でも、「どっかに行かないように」と手をつないでいても、子どもは達人のように自在にお母さんの手をふりほどいて、突然走り出したりします。何べん、「ビー玉は口に入れないように」と言っていても、ちょっと目を離したすきに、子どもはビー玉を口に入れていたりします。「親は何をしていたんだ!」などと言うような人は、「子育て」をしたことがない人です。そのため、危険なことや、困った行為が予想される場所には最初から連れて行かないようにしている人も多いです。そのような人は、清潔で、安心で、安全な場所に子どもを閉じ込めようとします。またそれが「子どものため」だとも思っています。でも、「清潔で、安心で、安全な場所」では子どもが退屈するので、様々なオモチャや、タブレットや、ゲーム機を与えます。ゲームの中でならどんな危険なことをしても、どんなチャレンジをしてもケガをしませんからね。そのようにして「子どもの安全」を守ろうとするのです。そしてそれが、「子どものため」、「親としての責任」だとも思っています。でもその結果、子どもたちは「自分が生まれた世界」「自分がこれから生きていく世界」と出会えなくなります。そのため「自分が生まれた世界との関わり方」「自分が生まれた世界での生き方」を学ぶことが出来なくなります。ハサミの使い方も、木の登り方も、野原の走り方も、仲間との関わり方も、自分のからだの使い方も、対話の仕方やコミュニケーションの仕方も、感覚や意識の使い方も学べなくなります。「何が危険で何が安全なのか」ということや、「危険なことと出会った時の対処の仕方」も学べなくなります。さらには、「からだ」も「自分が生まれた世界」の菌と出会えないので、それに対する免疫力も獲得できなくなります。その結果、身近にいる菌で、病気になってしまうこともあります。小さいときからからだを使って遊んでいた子が簡単にやっていることを、自分も出来ると勘違いしてケガをしてしまうこともあります。確かに子どもを「清潔で、安心で、安全な場所」に閉じ込めておけば、(少なくとも幼いときの間だけなら)ケガをしたり、ケンカをしたり、病気をする可能性を低く抑えることが出来ます。また、幼児期は親が見守ることで「子どもの安全」を守ることも出来ます。でも、子どもはやがて親から離れていきます。その時に、「守られて育っただけの子」は危険で困った状態になってしまうのです。ゲームの中でやっていたようなことを現実の世界の中でもやろうとする子もいます。「ゲームの中の世界」と「現実の世界」の違いが分からないからです。そして、ゲームの世界の中には「真・善・美」は存在していません。人を殺しても、人のものを盗んでも、ゲームの中でならなんでもOKです。「現実の世界でそういうことをすることは悪いことだ」ということを知っている子がゲームをしているのならいいのですが、そういうことを知る前の子、そういうことを学ぶ時期の子どもがゲームにはまってしまうと、「真・善・美」の感覚が狂い、困ったことになってしまうのです。友達とうまくつきあえないため、「ゲームの世界」から出てこなくなってしまう子もいます。だから、安易な気持ちで子どもを危険やチャレンジから遠ざけてはいけないのです。ケンカも安易に止めてはいけないのです。もちろん、取り返しの付かないようなケガや事故は避けなければなりませんが、痛くて泣くだけだったり、バンドエイドで済む程度のケガなら先回りして止めない方がいいんです。それと子どもが泣いているときには思いっきり泣かせてあげて下さい。子どもは泣くことで自分の感情を落ち着かせようとしているのですから。子どもは、思いっきり泣くことで「自分の感情との向き合い方」を学んでいるのです。そしてこれは大人でも同じです。泣きたいときには泣いた方が、心とからだの健康には良いのです。
2025.09.06
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人間は「からだ」という形で、この世界に存在しています。ですから「からだ」がその機能を失えば、必然的に人は死にます。人間だけではありません。これはこの世界に生きている「生きとし生けるもの」全てにとっての宿命です。ですから、その人の「からだ」の状態は、そのままその人の「命の状態」でもあります。そしてそれは、その「命の働きに支えられている人間の能力」の状態でもあります。老化や病気などで、「からだ」が萎えてくれば、体力や気力だけでなく、感覚や思考力も低下してくるのです。音を感じる能力、光を感じる能力、動きを感じる能力も低下します。人目が気にならなくなったり、感情のコントロールが出来なくなる人もいます。ただし、歳を取ったり、病気で「からだ」が萎えても、誰もがみんな一様にこれらの能力が低くなり、このような状態になるわけではありません。能動的な意思の働きが強い人は、そうでない人よりもその低下が少ないです。この「能動的な意思の働きが強い人」とは、「常に前向きに生きている人」のことです。周囲に流されて生きてきただけの人、人の目を気にして生きて来た人などは「能動的な意思の働き」が弱いので、歳を取ったり、病気で「からだ」が萎えてくると、それらの能力の低下も早いです。また、「能動的な意思の働き」が弱い人は自分の能力を充分に使いこなすことが出来ません。生まれつき「感覚の働き」に優れていても、「能動的な意思の働き」が育っていなければ、その「感覚の働き」を使いこなすことが出来ないだけでなく、自分の感覚の働きに振り回されてしまいます。また、前向きに生きることが出来ずに「自分を守ること」ばかり考えてしまうので、自分の世界や可能性を広げることも出来ません。だから、子育てにおいても「能動的な意思の働き」を育ててあげることが非常に大切になるのです。我が子を「お母さんや大人の言うことをよく聞くよい子」に育てようとしたら、「能動的な意思の働き」は育たなくなってしまうのです。ただし、「お母さんや大人の言うことを素直に聞くのが悪い」と言っているわけではありません。自分の意思でそれが出来ているのならそれは素敵なことです。私が言っているのは、「よい子に育てることを子育ての目的にしない方がいいですよ」ということです。「ワガママでも、言うことを聞かなくても、そういう状態を否定しないであげて下さい」ということです。「ワガママ」は、「子どもの意思」の表れでもあるからです。それは「素敵なこと」なんです。だからといって「好き勝手にさせて下さい」と言いたいわけではありません。「子どもの意思」は尊重した上で、子どもとの対話を通して「子どもを納得させる方法」を探してみて下さいということです。子どもが言ったとおりにしなくても、ちゃんと話を聞いてもらうだけで子どもは「自分の意思が肯定された」と感じるものなんです。そして、その「能動的な意思の働き」が一番大きく育っているのが「からだ」の基礎が育つ幼児期なんです。なぜならば、「感覚の働き」や「頭の働き」や「心の働き」を支えているのは「からだの働き」だからです。幼い子どもたちは、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動するような活動を通して、「自分のからだ」だけでなく「感覚」や「心」や「思考力」を育てているのです。ここで重要なことは、「これらの能力が育つためには子ども自身が自分の意思で能動的に活動する必要がある」ということです。これらの能力は、大人が外側から育てることは出来ないからです。どんなに脅かしても、強制しても、繰り返しやらせても、それが、「子ども自身の意思に基づく能動的な活動」でない限り、子どもの「からだ」も、「感覚」も、「思考力」も育たないのです。ですから、子どもを「体操教室」や「スポーツ教室」に入れても、子ども自身が能動的にその活動に取り組んでいないのなら「運動不足の解消」にはなっても「からだ育て」にはならないのです。そして、自分の意思で行った活動に「喜び」とか、「嬉しい」、「楽しい」、「面白い」というような感情が伴うと、もっと感覚を働かせ、もっと頭を使って考え、もっとからだを使って活動しようとし始めます。それが、子どもたちにとって「機械や道具に依存しないアナログ的な遊び」が必要な理由です。不便だから感じようとするのです。不便だから考えようとするのです。不便だから自分の意思で行動し、自分のからだを使って問題を解決しようとするのです。そして、自分の感覚を使い、自分の頭で考え、自分の意思とからだを使ってやったことだから、成功しても失敗しても色々な学びがあるし、成功したら嬉しくなるのです。でも、便利な機械や道具は、子どもたちにその不便を感じさせないように作られています。そしてその便利な機械や道具に囲まれ、そのようなものでばかり遊んでいる現代の子どもたちのからだは悲惨な状態になってしまっています。能動的に感じ、考え、行動する能力も育っていません。そのような子は「反射」で考え、反射で行動します。
2025.09.05
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世の中には「自分」を肯定できずに、「自分探し」なるものを一生懸命にやっている人がいっぱいいます。でも、見ていると、そのほとんどの人が同じ所をグルグルと回っているだけです。「新しい考え方」や「新しいやり方」に挑戦しようとせずに、「それまでの考え方」「それまでのやり方」を繰り返しているのです。そのような人に「新しい考え方」や「新しいやり方」を提案しても、「そうですよね、でも・・・」と、それが出来ない理由ばかり出してきます。「新しい自分」を求めているのに、「古い自分」にしがみついているのです。こんなことを繰り返していても「本当の自分」に出会えるわけがないですよね。そもそも「今の自分」の他に「本当の自分」など存在していないのです。「でも・・・」と言ってばかりで動こうとしないのが、今の「本当の自分」なんです。どうして、そういう状態になってしまったのかというと、多分ですが、そのような人は、幼い頃から、お母さんや周囲の大人の期待に応えるために、一生懸命に頑張ってきたのでしょう。「自分が何を感じているのか」ではなく「お母さんが何を感じているのか」、「自分が何を考えているのか」ではなく「お母さんが何を考えているのか」、「自分が何をやりたいのか」ではなく、「お母さんが何をやりたいのか」という事ばかりを、感じ、考え、お母さんに合わせるために頑張って生きてきたのでしょう。お母さんに合わせないと、お母さんが悲しそうな顔をしたり、お母さんに叱られるからかも知れません。そのため、心が優しい子、心が弱い子ほど、「自分」を封印してお母さんに合わせようとしてしまうのです。これでは「自分」が分からなくなって当然ですよね。そして、そのようなお母さんは「子育て」でも同じことをしています。「子どもが何を感じているのか」「子どもが何を考えているのか」「子どもが何をやりたいのか」を推測して、先回りして対応することでトラブルを回避しようとしているのです。またそのため「待つ」ということが出来ません。でも、お母さんが何でもかんでも先回りしてやってしまうため、子どもは自由を奪われ、自分で感じることも、自分で考えることも、自分の意思で行動することも出来なくなります。そうして「自分」と出会うことが出来ないまま、成長することになります。そのようなお母さんは、「うちの子は追い立てないと、勉強も、片付けも、何もやろうとしない」「これは子どものためなんです」などと言いますが、実際には、ただ「黙って見ていること」が出来ないだけです。「自分」と向き合えない人は、「見守る」ということが出来ないのです。実際、そのような人が言う「あんたのためなんだから」の内容は、「子どもが望んでいること」ではなく「お母さんが望んでいること」ばかりです。このようなお母さんが「本当の自分」について考え始めたり、「自分は空っぽだ」と気付くのは、子どもがお母さんから離れる頃になってからです。感じたり、考えたり、行動する基準にしていた子どもが、お母さんから離れてしまうと、何を感じたらいいのか、何を考えたらいいのか、何をしたらいいのかが分からなくなってしまうのです。そのような状態のお母さんがいっぱいいます。そのような人は、子どもの頃に「自由」を与えられていなかったのではないかと思うのです。それは、「感じる自由」、「考える自由」、「自分の意思で判断して行動する自由」です。「本当の自分」を知るためには「自分が知らない自分」と出会う必要があります。そのためには「自由」が必要なんです。「自由」があるから「可能性」が生まれるのです。「自由」がない世界には「可能性」もないのです。そして、子どもたちに、その「自由」を与えてくれるのが「機械や物や道具に依存しない遊び」なんです。仲間と一緒に森や野原の中で自由に遊び回ることで、子どもたちは「自分は何がしたいのか」、「何に興味があって」、「何に喜び」、「何に怒り」、「何に悲しむのか」ということを知ることが出来るのです。色々な野菜を食べてみないことには、「好きな野菜」も「嫌いな野菜」も分かりませんよね。色々な野菜を食べてみることで「私はこの野菜が好きです。この野菜が嫌いです」ということが分かるようになるのですよね。そしてそれが「自分を知る」ということにもつながっているのです。でも、最近の子どもたちにはその自由を謳歌できる遊びの場がありません。お母さんや大人が傍に居る場でしか遊べません。そして、多くの大人が、子どもが自由に遊ぼうとするといやな顔をします。
2025.09.04
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(以前お知らせした「天の川を見るキャンプ」については昨日のブログに書きました。)経済性、合理性、効率、結果を重視する現代人は、経済につながらない活動、目的を持たない活動、効率が悪い活動、結果を評価できない活動を「価値のない活動」として嫌います。「スポーツ」はこれらの条件を満たしているので肯定されていますが、「遊び」や「様々な芸術的な活動」はこれらの条件を満たしていないので、大人や社会に「時間と心の余裕」があるときには受け入れられていますが、大人や社会に「時間と心の余裕」がなくなると「不要不急の活動」と断定され、簡単に否定、排除されてしまいます。そして「いつまで遊んでいるの、さっさと勉強しなさい!」などと追い立てられます。コロナ騒動の時にはそれが徹底されました。(先日中学校の教員をやっている息子が「コロナ騒動の時に9才、10才ぐらいだった子はどこの学校でも問題になっている」と言っていました。中学生なのに幼稚園児のように「うんこ」「ちんちん」と言ってはしゃいでいるとも言っていました。)一般的に、子どもたちの「遊び」は、「子どもだからしょうがない」と消極的に肯定されているだけで、「子ども時代は、大人の価値観を押しつけずにいっぱい遊んだ方がいい」と積極的に肯定されているわけではありません。歌ったり、踊ったり、描いたり、創作したりというような様々な芸術的な活動も、「遊びの仲間」程度にしか理解していない人がいっぱいいます。そして実際、子どもたちは遊びの中でこれらの活動を積極的に行っています。ゲームやオモチャといった「機械や物に依存した遊び」にはこのような芸術的な要素はありませんが、昔ながらの「心やからだを使って遊ぶ遊び」はこれらの芸術的な要素に満たされてます。ではなぜ子どもたちは「遊び」や「芸術的な活動」が大好きなのか。お母さんに叱られても、隠れてまで遊ぼうとするのか。大人の指示や命令に逆らってまで、自由に遊ぼうとするのか。大人たちが「勉強しないと大人になって困るよ」と一生懸命に説得しても、全く無駄なのか・・・。そういうことを考えたことがありますか?「遊びの大切さ」「芸術的な活動の大切さ」を知っている人もいますが、社会全体では全くの少数派です。実際、「遊びの大切さ」「芸術的な活動の大切さ」を知ってる人たちは、なんとか周囲を説得して「自由にそのような活動を行える場」を確保しようとしていますが、社会全体としては、そのような動きはほとんどありません。公園で子どもたちが遊んでいるだけで、役所に「子どもがうるさいからなんとかしてくれ」と文句を言う人がいますが、役所はそのような人に「子どもにとって遊びがいかに大切なのか」ということを説得することはなく、すぐに「○○禁止」の張り紙を出して、自由な遊びを禁止してしまいます。子どもたちがお母さんに叱られても、大人たちに文句を言われても、先生に脅かされても、大人の目を盗んでまで遊ぼうとするのは、「遊び」や様々な芸術的な活動」が「子どもの心や、からだや、知性の育ちにとって必要なこと」だからなんです。これは、子どもの「自分の成長を守ろうとする本能」の表れなんです。幼い子どもの能力には汎用性があります。大人になると能力の使い方が決まってしまい、能力の特殊化が起きてしまいますが、幼い子どもたちの能力には地球上のどんな環境、どんな文化にも対応できる汎用性があるのです。幼い子どもたちは、日本語だけでなく、英語、フランス語、ドイツ語、アフリカのクリック音を使った言葉など、どんな言葉にも対応できる言語能力を持っています。心やからだの動きや使い方でも、大人たちが出来ないような動きをしたり、大人たちが考えないようなことを考えています。そんな子どもたちを見て、大人たちは「子どもたちを早く大人化させなければ」と考え、「大人のからだの使い方」や、「大人の考え方」を教え込もうとしています。でも、本来子どもたちは、大人が厳しく教えなくても、大人たちと一緒に生活しているだけで、大人がやっていることを見て、試行錯誤しながら「大人の考え方」、「大人の感じ方」、「大人のやり方」を学習していくものなんです。子どもたちは遊びの場でそのシミュレーションをしているのです。それは「ごっこ遊び」と呼ばれるものを見ているとよく分かります。子どもたちは「遊び」や「様々な芸術的な活動」を通して、「自分の能力や可能性」、そして「自分がどういう世界に生まれてきたのか」ということに対する確認作業をしているのです。その確認をしっかりとすることで、自分の人生を能動的に、自分の意思で、自分らしく生き生きと生きることが出来るようになるのです。また、喜びの体験と共に「自分の人生を能動的に生きる力」も育てています。「子どもの遊び」は大人にとっては「役に立たないもの」ですが、子どもにとってはものすごく大切なことなんです。「役に立つもの」ばかり押しつけられ、求められているから、子どもたちは、自分の人生を自分らしく生きることが出来なくなってしまうのです。
2025.09.03
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最初にちょっと告知を書かせて頂きます。以前も少しお知らせしましたが、11月1日(土)、2日(日)に「天の川を見よう」というキャンプを、山梨県の塩山にある知り合いがやっているキャンプ場を借り切って行います。昼間は大菩薩峠に登ります。夜は、焚き火を囲んで「命とは」「死とは」「美とは」「神様とは」「宇宙とは」「自然とは」「人生とは」というような中二病的なテーマで語り合いたいと思っています。民族楽器もいっぱい持って行きますので、歌ったり踊ったりもしましょう。参加費は大人5000円、子ども(小学生以上)3000円でお願いします。食事はみんなで作ります。ただし、夜はかなり冷えます。テントは余分に持っているのでお貸しすることは出来ますが(人数にもよります)、寝袋は「冬用」を持参して下さい。ご興味のある方は「篠」までお問い合わせ下さい。「kodomotachihe@yahoo.co.jp」メールはこちらにお願いします。リンクは貼っていないのでコピペして下さい。******************「美」というものには普遍性があるのにも関わらず、「欧米の人の美意識」と、(昔の)「日本の人の美意識」は大きく違いますよね。それは歴史の中で生み出されてきた「美術や芸術につながる作品や活動」を比べてみればすぐに分かります。でも、両者の美意識はそんなにも違うのに、なぜか日本人がヨーロッパの絵画、建築、音楽を見たり聞いたりしても感動するんです。そして、欧米の人も幕末に日本の美術に出会い感動し、日本人が作り出してきた様々な美術品を買いあさりました。どうしてなんでしょうか。もしかしたら私達の美は紙の「裏」と「表」の関係なのではないでしょうか。「欧米の美」と、「日本(東洋)の美」は表裏一体なのかもしれません。そのため、お互いの美に“自分たちに欠けているもの”を感じ、感動したのかも知れません。なぜそう思うのかというと、人間という存在、生命という存在そのものがすでに、その「両面の美」を持っているからです。欧米の美は「現象としてこの世界に存在しているもの」の中にあります。欧米の人にとっては、実際に見ることが出来る、実際に聞くことが出来る、実際に触れることの中に「美」は存在しているのです。そして「神様」も「存在しているもの」と考えます。「神様」が存在しているから、神様は「人間という存在」を作り出すことが出来たのです。欧米の合理的な思考においては、無から有は生まれないのです。でも、日本人はその「見える世界」を生み出す働きの精妙さに「美」を感じました。一輪の花に美を感じるだけでなく、「一輪の花という現象を発現させている働き」の中に「美」を感じ、それを「神」と呼んだのでしょう。ですから、日本人の感覚としては「美」と「神様」は切り離せないのです。またそれ故に、日本人は「枯れた花」や「醜い花や生き物」にも「美」を感じることが出来ました。昔の人は、そういう「美」を「あわれ」という言葉で言い表しました。「あはれ(あわれ)」は、もともと「ああ、あれ」という感動詞から来ており、喜びや悲しみ、感動、情愛など、心の底から湧き上がる感情の総称を指す言葉です。特に、源氏物語に代表される平安貴族の文化では、自然や人生に対するしみじみとした情趣や、悲哀、感動などを表す美的理念としても用いられました。AI による概要ですから、日本人にとって「妖怪」は、「恐ろしくてあわれな存在」ではあっても「悪」ではなかったのです。欧米の神様は「花」の外側にいるのですが、日本の神様は花の内側に居て、花と一体となって花を咲かせるのです。だから日本人は、全ての存在の背景に神様を感じることが出来るのです。ただ、キリスト教の中にも神様を「外側に居るもの」ではなく「内側に居るもの」と考える人もいたようです。欧米の人たちのことはよく知りませんが、遠藤周作の周辺にはそのように考える神父がいました。日本の神道の影響なのでしょうか。日本人は、「春になって咲いている花」だけではなく、「春になって花が咲くことの不思議」の中に美を感じてきたのです。だから一年中咲いている花(そんなのはないでしょうけど)にはあんまり美意識をくすぐられないのです。これは、四季の移ろいを“美”と感じる日本人の特性かも知れません。日本人はそのような精妙な働きは神様の働きだと思っていました。だから、その働きを自分たちで模倣しようとは考えていませんでした。そしてただ、その精妙な働きと感応することを目指していました。でも、欧米の人たちは、その神様の働きを模倣しようとしました。模倣することで欧米の人たちは神様に近付きたかったのです。(古くは「バベルの塔」から、新しいところでは「遺伝子操作」も同じです。)でも、神様の気持ちは分かりませんから、神様が作った(と思われる)ものを模倣しようとしたのです。そしてこの物質的世界の中に、それらの創造主としての「神の姿」を探そうと自然観察を始めました。その流れの中で科学が生まれ、そして、皮肉なことに「実在する神」は否定されてしまいました。
2025.09.02
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(私が書いていることは全て私の推測に過ぎません。ですから、「一つの考え(物語)」として、軽い気持ちでお読み下さい。)昨日書いたような、幼い子どもたちが持っている「真・善・美」の感覚は、人類が、厳しい自然の中で、みんなで助け合いながら生き延びて来た中で育って来たものなのではないかと思います。昨日、テレビで「群れで生きている野生動物」たちの番組を見ましたが、「群れ」を維持しながら生き延びるためには、「群れ」を維持するためのルールが必要になります。象の群れでも、傷ついたり、弱ったりしているものや幼い子どもは、みんなで助けようとしています。家族や、仲間を大切にします。子どもや、家族や、仲間を助けないことには群れが弱体化してしまい、群れ全体が危険にさらされてしまうからなのでしょう。また同じ理由で、群れの中に、「意地悪な個体」がいたら、すぐに排除されてしまうでしょう。意地悪な個体は群れの秩序を乱し、群れ全体を危険にさらすことになってしまうからです。馬や犬など人に飼われている動物たちだけでなく野生の動物でも、「優しい人」にはすぐなつきます。でも、「意地悪な人」にはなつきません。人間の子どもも同じですよね。「善」の感覚は「頭の中」にではなく「からだの中」に組み込まれているのでしょう。また、「真・善・美」の中の「美へ意識」は自然との関わり合いの中で育ってきたのではないかと思います。「花」は、命を維持するために必要な「実り」や「豊かな自然」の象徴でもあります。「虹」の後には青空が広がります。電気がなかった時代の「光」は、安心と、安全と、希望の象徴でした。自然界における調和は、自然界の安定を暗示しています。人間が本能的に「美しい」と感じるものの多くは、私たちの安心や、安全や、希望を暗示するようなものが多いような気がするのです。実際、「不健康な人」よりも「健康な人」の方が美しく見えますよね。「希望を持っていない人」よりも「希望を持っている人」の方が美しく見えますよね。では、「真・善・美」の中の「真を感じる感覚はどこから来たのか」ということですが、私は「真を感じる感覚」は、人類が「言葉」を使うようになって生まれた感覚なのではないかと思っています。「真理」とは「時空を超えた普遍的なもの」です。そして、「時空を超えたもの」をイメージするためには「言葉」が必要になるのです。「言葉」を持っていない生き物は「真理」をイメージすることが出来ないのです。というか「言葉」というものがそのまま「真理を表すもの」なのです。「空」という言葉は、誰が使っても基本的には「同じもの」を指しています。「木」や「水」という言葉でも同じです。というか、「同じもの」を指しているから会話が成り立つわけです。実際にはそこに存在していないものであっても、言葉を使えば、そのイメージを他者と共有することが出来るのです。言葉を使えば、「愛」や「勇気」といった物理的には存在していないものまで仲間と共有することが出来ます。そしてそこに「真」が生まれるのです。ですから、「言葉の発明」は「真理の発明」でもあるのです。そして人類はその言葉を使って、さらにもっと複雑な真理についても考えるようになりました。でも、「真理」は「言葉」に依存していますから、「異なった言葉」を使っている人たちは「異なった真理」を持っています。「真理」は、その言葉のイメージとは異なって世界共通ではないのです。「緑」という言葉を持っていない人たちは「緑」が真理として価値を持たない世界に生きているのです。「真実」は一つでも「真理」は多種多様なんです。だからトラブルが起きるのです。また、日本語しか知らない人たちでも、「異なった真理」を持っている人たちは「異なった言葉」を使っています。使う語彙も違うし、同じ語彙を使っても使い方が違うのです。ですから、「その人がどのような言葉をどのように使っているのか」ということを知れば、「その人にとっての真理」を推測することが出来るのです。
2025.09.01
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