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前回の祖霊社を後にして、岡本1丁目交差点から外宮域の森沿いを右に向かいます。今回は、こちらの森の中に鎮座する山田産土神八社のひとつである茜社、豊川茜稲荷神社、茜天神社を掲載します。上の写真は岡本1丁目交差点、茜社へは交差点に立ち右に進みます。歩道を少し進み、観光バス駐車場の手前に茜社の入口が現れます。上は入口の茜社(あこねやしろ)由緒、一部読み取れず割愛していますが内容は以下。「茜社(あこねやしろ)所在 伊勢市豊川町274番地主祭神 天牟羅雲命御玉・宇迦之御魂神、他に蛭子命・菅原道真公など合祀山田産土神八社のひとつ例祭 7月15日特殊神事 1月15日御頭神事宝物 獅子頭1個、永保2年(1559)在銘、(県文化財)、太刀二口 外宮神苑・勾玉池のほとりのこの地は、上古「赤畝」と呼ばれた土地。古くこの地に鎮座した本社は「赤畝の社」と呼ばれ、外宮の摂社にあったものと推定されます。 創祀は不詳ですが、十四世紀ごろの記録(豊受大神宮你 宜補任次第)がそれを語っています。 しかし、やがて本社は、歴史の流れの中で荒廃、室町時代に至って土地の人々の産土神としてよみがえります。かつての赤畝の社は訛って「あこね」となります。 「西」の字があてられたのは明治初期です。以来、「あこねさん」は、域内の茜稲荷大神とともに土地の人々(産子)の願いをきいてきました。 豊饒·商売繁昌·家内安全・学業成就など。本社は、山田産土神のひとつであり、また神宮御遷宮のたびにその残材の払いさげを受け、神宮にならって遷宮をしてきたのは、右のような歴史によるものです。」三重県神社庁の解説は以下。 「茜社(あこねやしろ)地元の人々には「あこねさん」と呼ばれ親しまれている。 神社参道には崇敬者奉納の鳥居が数多く立ち並び、その鳥居をくぐり抜け参拝者を社殿へと導く。境内中央に仲良く厳かに聳える樟と杉の御神木は、注連縄で結ばれ、夫婦和合・縁結びにご利益あり。 当社は、伊勢神宮(外宮)神苑勾玉池池畔に鎮座し、創立は一条天皇の御世以前(986年以前)とされている。上古、此の辺りを赤畝と称し、赤畝の社・赤うね明神とも称し茜社となったのは江戸期か明治初年であろうと言われている。 古代より豊受大神宮の摂社として祭事を斎行されたと推察され、その後赤畝は世の移り変わりにより産土神となる。山田七産土神の一つとして御神宝に獅子頭を有し、お頭神事の祭儀が今に至っている。 茜社神域内に稲荷と称する岩窟があり、其の所に宇迦之御魂を御祭神として祀られたのを豊川明神・豊受稲荷と崇め称え多数の崇敬者参拝の音絶える事なし。蛭子命は元豊川町字下馬所の祀られていたが明治42年2月に菅原神と共に茜社に合祀される。 当社の菅原神は古来より牛天神として親しまれ学業成就に霊験あり。御祭神 天牟羅雲命・蛭子命。 祭祀 例祭7月15日。お頭神事1月成人の日。」以上のように紹介されています。茜社参道は緑濃い杜の中に続き、境内から勾玉池に繋がっています。参道の先の社頭。常夜灯は昼でも灯りが灯され、木造神明鳥居の先には多くの奉納鳥居が連なり崇敬の篤さが伝わってきます。左に豊川茜稲荷神社、右に茜社の社標が建てられています。社標右に立てかけられていた茜社由緒。境内まで連なる素木の奉納鳥居。朱塗りの鳥居が連なる光景にはない厳粛な趣がある。境内に入ったすぐ右側の茜牛天神。学業成就、諸道芸能、慈悲救済に御利益があります。 「茜牛天神この神様は学問の神諸道芸能慈悲救済の守護神として信仰の高い菅原道真公の御霊を牛像に入魂してお祀りしております。 元外宮下馬所に在った外宮師職 山田大路家の鎮守神でありましたが、後に周辺一般の崇敬社となり明治四十二年茜社に合祀されました。特に学業芸能に志す人々に慈悲 救済の霊験あらたかであります。 什宝の牛像土製黑色 身長 四尺四寸、胴廻 四尺六寸 天保十四年(一八四三年)、製作は山田一本木瓦工 中西甚兵衛彫刻による。」 杉と楠の御神木。右の楠と左の杉が寄り添うように聳え立ち、根元部分はお互いの根が交わるように絡み合っており、共存共栄のシンボルとして家庭や職場などの円満や縁結びの御利益があるという。豊川茜稲荷神社全景。入母屋造の平入で大きな千鳥破風と唐破風向拝を持つもの。稲荷社というと朱の印象が強いですが、奉納鳥居同様に印象は随分と違います。置き場に困るほど置かれた白狐の数には驚かされます。豊川茜稲荷神社の拝殿額。拝殿内から本殿の眺め。社殿全景。天牟羅雲の井戸(左)、外部は屋根と板塀で覗くことは出来ません神社解説は以下。「 当社の主祭神、天牟羅雲命の力によって大地に注ぎ込まれた清水は、まだ混沌としていた日本の大地に生命を吹き込みました。その清水は山を削り、岩を砕き、尾根を流れて川を作り、大海へと続く中で大地を潤し、森を育み、豊かな緑の大地を造り上げました。 この清らかな水はやがて稲作を育み、水に育まれた緑豊かな国が形作られていきました。戦後、水道水の普及により一時閉鎖されたこの井戸を、天牟羅雲命の偉業を称え感謝を込めて皆様に共感していただくために神輿事業として発足し、現在の形になりました。「受け」という言葉は「食」と同義であり、当社境内社である豊川茜稲荷神社の御祭神、宇迦御魂大神は五穀豊穣や所願成就に大きな力を与えています。 また、当社には東を守る青龍がおり、井戸の水が動くことでそのご神威を一層発揮します。かつては外宮の摂社として、外宮宮司度会家の御祖神として祀られていましたが、この地域の氏神様として百五十年以上にわたり、氏子・崇敬者の皆様に支えられ、敬神の心と感謝をもってその役割を果たしています。 この先も、はじまりの水を守り続けます。」茜社。鳥居前で狛犬が守護し、社殿は伊勢の社に共通する造りとなっています。丸々とした狛犬は口の部分に彩色が施されています。拝殿から板垣に囲まれた本殿域は伊勢神宮別宮の流れを感じさせます。茜社の左にも二本の古木が聳えています。勾玉池に続く参道と手水舎。その途中から見られる茜の社本殿。豊川茜稲荷神社社殿側面。鳥居を抜けた先の社頭。インバウンド客も少なく厳粛な雰囲気が漂う歴史のある神社です。鳥居を抜けるとは勾玉池が広がり、右手に式年遷宮記念せんぐう館を望むことがてきます。遷宮館の前を進めば外宮に至ります。山田産土神八社 茜社創建 / 創祀不詳主祭神 / 天牟羅雲命御玉・宇迦之御魂神境内社 / 茜牛天神、豊川茜稲荷神社祭礼 / 7月15日特殊神事 / 御頭神事 1月15日所在地 / 三重県伊勢市豊川町274参拝日 / 2024/09/28祖霊社から徒歩 / 岡本1丁目交差点を右へ徒歩5分関連記事・ほろよい列車つどいで伊勢神宮外宮参拝・伊勢豊受稲荷神社 (箕曲中松原神社境内社)・山田産土神八社『箕曲中松原神社』・祖霊社(伊勢市岡本)
2024.10.31
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前回の箕曲中松原神社から外宮に向かう道筋で見かけた祖霊社、今回はこちらを掲載します。箕曲中松原神社から南西に10分程歩いていくと岡本1丁目交差点が見えてきます、正面の杜は外宮域になります。この交差点手前で写真の社標と手水舎が見えてきたので立ち寄ってみました。傍らの由緒から一部抜粋。「所在 伊勢市岡本1丁目17番9号祭神 天照大御神、宇布須根神例祭 春季例大祭 三月春分の日、秋季例大祭 九月秋分の日碑 松尾芭蕉の阿木塚、寛居翁碑、出口直庵碑明治二年、神式での葬儀・先祖祭祀を執り行ったのが当社のはじまり。神道の教化活動のため、明治六年に常明寺跡(伊勢市倭町)に建設した説教所は、後に「第一番神風講社」と呼ばれ、同九年には豊宮崎文庫に場所を移します。以来、伊勢固有の神葬祭を行い、各家の神霊をおまつりし、今日に至っています」境内には祖霊社講堂はじめ、手水舎、斎殿、祖霊殿があります。斎殿。祖霊殿。伊勢神宮が鎮座する神都伊勢、自ずと神道比率が高いであろう地域において、祖霊社は身近な存在なんだろう。我家は代々臨済宗妙心寺派の檀家。読経のなか妙鉢や太鼓の鳴る葬儀を経験してきましたが、歳を重ね人生の終焉も見えてくると、シンプルな神式の方があっているように思う。いずれにしても考えておく年代になってきた。祖霊殿脇から境内を出ると県道の向かいが以前の鎮座地「旧豊宮崎文庫」国指定史跡で、内宮の旧林崎文庫とともにわが国における図書館史上に異彩を放つ施設。慶安元年、外宮権禰宜の首唱により創説され、寛文元年には幕府から永代修繕料の寄進を受けています。以来、外宮祀官子弟の修学道場として発達しましたが、明治元年に廃止され、明治11年の火災で講堂を焼失しましたが、火災を免れた書籍類二万余冊はその後神宮に献納されたそうです。現在敷地跡地には何もなく、冒頭の交差点を直進すると白壁と築地門があるのみです。門は普段閉ざされていますが、敷地内の市の天然記念物「お屋根桜」が咲く時期には解放されるようです。祖霊社創建 / 明治二年祭神 / 天照大御神、宇布須根神、檀家神霊境内社 / ・・・祭礼 / ・・・特殊神事 / ・・・所在地 / 三重県伊勢市岡本1-17-9参拝日 / 2024/09/28箕曲中松原神社から徒歩 / 南西へ徒歩10分関連記事・ほろよい列車つどいで伊勢神宮外宮参拝・伊勢豊受稲荷神社 (箕曲中松原神社境内社)・山田産土神八社『箕曲中松原神社』
2024.10.30
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前回の伊勢豊受稲荷神社に続き、今回は箕曲中松原神社を掲載します。鎮座地は前回の伊勢豊受稲荷神社と変わりありません。写真は社地南側から箕曲中松原神社の社頭の眺めです。社頭から境内の眺め。右手に「縣社箕曲中松原神社」の社号標、正面の木造神明鳥居の先に二ノ鳥居と社殿が見えています。昭和6年(1931)に寄進された狛犬が境内を守護します。境内から社殿と社務所の眺め。境内の【箕曲中松原神社】由緒。「箕曲中松原神社所在地 伊勢市岩淵1丁目14番地25主祭神 大歳神他に若雷神・蛭子の神・菅原道真公はじめ十八座を合祀山田産土神八社の一つ例祭 八月二十一日特殊神事 一月十六日御頭神事宝物 獅子頭二個(但一個は天文二十一(1552)年在銘 伊勢市文化財)、太刀一口 「みの」は、この土地の古名「美乃」「美野」、あるいは勢田川の流れが曲がるところを意味する「水曲」「箕曲」に由来していると言われます。中松原も地名で「美乃社」「箕曲社」「中松原社」「大歳社」などさまざまに呼ばれてきたものが、後代現社名に定着しました。 創祀は古く、長徳三年(997)の古記にこの社名があり、千余年前から水辺の美しい野にあって土地の人々に敬拝されてきたことがわかります。主祭神大歳神は土地の豊饒と平安の神ですが、早く明治八年には「県社」に指定され、その後多くの神々が合祀されました。 この社は、日々の生活や商いや勉学のすべてをつかさどり、この土地に住む人々「産子」の幸せを守る神の社です。なお、宝物の獅子頭二個は文化十二(1815)年、太刀は寛保二(1742)年、それぞれ敬神家から寄進せられたものです。」 【三重県神社庁 箕曲中松原神社】解説は以下。「通称:箕曲社 当社は豊受大神宮(外宮)参拝玄関口に在り、正月には初詣の参拝客で賑わう。境内には樹齢千年の老楠樹があり、古来より神霊として崇敬され、特に疱瘡の守護神として現在も崇敬されている。当社は古来、大歳社・中松原社・美野社などと称していたが、後世にいたって箕曲中松原神社と改めたものである。 創祀年代は不詳であるが、長徳3年(997)の柏木社の註に「柏木社在大歳社中松原」とあり、また元応2年(1320)豊受大神宮所管神社の條に「中松原神社」とあって、大歳社を祀る千年以上の旧祠である。明治4年12月には郷社に列せされ、同8年12月には県社に昇格した。 明治42年3月、倭町の神落萱神社、他4社、尾上町の菅神社、岩淵町の柏木社、他5社、勢田町の山神社、他3社を、同年4月、岡本町の五日蛭子社、他7社を、同43年6月、桜木町の櫻木社、中之町の御岩社、他5社、古市町の長峯社、他2社、久世戸町の菅原社を、同年8月、境内社5社、箕曲社を合祀している。尚古市町の長峯社、倭町の神落萱神社、金刀比羅社を分祀している。」箕曲中松原神社と長い社名だなぁと思いましたが二つの地名が合わさったもののようです。因みに「山田産土神八社」とは以下の七社(藤社は坂社に合祀)を指します。・須原大社(伊勢市一之木)・茜社(伊勢市豊川町)・世木神社(伊勢市吹上)・今社(伊勢市宮町)・坂社(八日市場町) 藤社(坂社に合祀)・須原大社(伊勢市一之木)★箕曲中松原神社ニノ鳥居から拝殿の眺め。切妻の四方吹き抜けの拝殿の先に板垣に囲まれた神明造の本殿、印象は伊勢神宮の別宮に見られる社殿の流れを感じさせます。右手には結界のはられた更地があり、恰も遷宮御用地のようにも見えます。拝殿から神門と板壁で囲われた本殿域の眺め。社名が長いと扁額も長くなる。主祭神の大歳神は農耕、穀物、方位神で、諸産業興昌、家内安全、開運、除災招福、夫婦和合、縁結び、厄除け、子宝などの御利益があります。由緒にあったように多くの神社が合祀されているので、拝んでおけば何にでも御利益がありそうです。まさに、この土地に住む人々の幸せを守る神社です。境内左の祓所。少し離れて楠神社から社殿の全景。神明造の本殿は鰹木が6本と内削ぎの千木が付く。拝殿から東側の楠神社と伊勢豊受稲荷神社方向の眺め。その先の鳥居を出れば宇治山田駅のロータリーも目の前です。拝殿から南側の社頭の眺め。歴史のある古い神社は見事な巨木も育みます。箕曲中松原神社(みのなかまつばらじんじゃ)創建 / 不明(長徳三年(997)の古記に名が見える) 祭神 / 大歳神、若雷神、大山祗神、宇迦之御魂神、蛭子神、建日丹方神、建御名方神、春日大神、山神、伊都岐島神、倭姫命、菅原道真公、地護社、箕曲社、相社、柏木社、小田社、鏡宮境内社 / 楠神社、伊勢豊受稲荷神社祭礼 / 8月21日特殊神事 / 御頭神事 1月16日所在地 / 三重県伊勢市岩渕1-14-25参拝日 / 2024/09/28近鉄宇治山田駅から徒歩 / 宇治山田駅から徒歩2分関連記事・ほろよい列車つどいで伊勢神宮外宮参拝・伊勢豊受稲荷神社 (箕曲中松原神社境内社)
2024.10.29
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伊勢豊受稲荷神社。三重県伊勢市岩渕1の箕曲中松原神社社地に鎮座する稲荷神社。9月28日、イベント列車「つどい」で鳥羽を訪れた際の帰り道、伊勢神宮外宮参拝のため宇治山田駅に降りたちました。今回掲載する伊勢豊受稲荷神社は駅のロータリーの向かいに鳥居を構えています。 当初は大きな杜を持つ稲荷だなと感じていましたが、伊勢豊受稲荷神社は箕曲中松原神社の杜に鎮座する境内社です。伊勢豊受稲荷神社の朱の明神鳥居。 右に「伊勢豊受稲荷神社」の社標が立っており、すぐ先に朱の社殿が見えています。手前の歩道を少し進むと箕曲中松原神社の脇参道に続いています。鳥居をくぐった参道から社殿の眺め。 鳥居の先が拝殿ではなく、本殿脇から左に進み、箕曲中松原神社脇参道に出た右側が拝殿正面となります。参道脇の【箕曲中松原神社】由緒。 「箕曲中松原神社所在地 伊勢市岩淵1丁目14番地25 主祭神 大歳神他に若雷神・蛭子の神・菅原道真公はじめ十八座を合祀 山田産土神八社の一つ……創祀は古く、長徳三年(997)の古記に社名があり……その後多くの神々が合祀されました」と詳しく書かれていたが伊勢豊受稲荷神社には触れられていなかった。箕曲中松原神社脇参道の右側に立つニノ鳥居。参道脇の手水鉢。伊勢豊受稲荷神社の拝殿前の鳥居は三ノ鳥居になるのだろうか、一ノ鳥居以外は朱の神明鳥居。 切妻妻入りの拝殿は唐破風向拝を持つもので、白狐の破風飾りが施されています。緑の杜のなかに白壁と朱のコントラストが鮮やかです。 鳥居手前の常夜灯の竿には「奉献 白子圓稲荷」と刻まれており、稲荷が二社祀られているのか??拝殿額には「伊勢豊受稲荷神社」とあり、間違いないようです。 となるとあの常夜灯の白子圓稲荷とはなんだろう?白子? 鈴鹿市の白子しか思い当たらない、過去の社名なんだろうか。 由緒がなく、三重県神社庁に当社名の登録はありません。箕曲中松原神社に当社の写真が貼られていましたが詳細は記されておらず、なにひとつ分かりませんでした。 社名に豊受と入り、伊勢神宮外宮に近いことから、祭神は恐らく食物・穀物を司る豊受大神かと思われます。拝殿内から本殿方向の眺め。 本殿前には陶製の狐が幾つも安置され、本殿を守護しています。古くから鎮座する箕曲中松原神社にあり、多くの周辺神社を合祀しているため、当社の創建や合祀時期の推測はできません。 ヒントはあの常夜灯にあるのかもしれません。伊勢豊受稲荷神社から箕曲中松原神社方向の境内の眺め。 社地中央には一際枝振りが見事な楠が聳えているのが印象的です。注連縄が巻かれた大楠は、箕曲中松原神社の境内社「楠神社」 樹齢は定かではないですが、力強い根回りと幾つもの樹洞を持ち、大楠の前には鳥居も作られ、神の宿る雰囲気を漂わせており、御神木としての風格を感じさせる。こうした古木には蛇や龍が宿るとも言われるが、何者かは住み着いていそうな雰囲気だ。次回は箕曲中松原神社を掲載します。伊勢豊受稲荷神社創建 / 不明 祭神 / 豊受大神境内社 / ・・・所在地 / 三重県伊勢市岩渕1-14参拝日 / 2024/09/28近鉄宇治山田駅から徒歩 / 宇治山田駅から徒歩2分関連記事・ほろよい列車つどいで伊勢神宮外宮参拝
2024.10.28
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今日は衆院選投票日政権与党のこれまでの実績・失態・政権運用・現状・今後の政策の進め方。有権者の其々の思いを投じよう。
2024.10.27
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10月19日、名古屋タワーズに出向く機会があり、混みあう地下鉄に乗るのを見送り、歩いて円頓寺商店街に向かいました。目的もなく歩いて来ましたが、円頓寺本町商店街に来るとついつい立ち飲み屋に立ち寄ってしまう。無意識のうちにここを目的にしているのだろうか。平日午後の商店街は行き交う人も少なく、お酒の神さまも先客ふたりと寂しい限り。こちらで一杯ひっかけ、商店街を堀川方向の最寄りバス停まで歩いて行きました。写真は円頓寺商店街の中ほどに鎮座する圓頓寺。円頓寺商店街は、この圓頓寺山門前の門前町が始まりです。過去に何度かイベントで訪れていますが、今回はこの山門前の題目塔を取り上げます。山門右の寺号標。日蓮宗 長久山 圓頓寺山門全景。承応3年(1654)に、普敬院日言上人によって開創されたお寺。開創当初の寺号は普敬院と称しましたが、明暦2年(1656)に圓頓寺に改名されています。当初は、中橋の西の浅間神社あたりに鎮座していました。しかし享保9年の大火(1724)で伽藍を焼失、翌年に今の場所に再興されました。太平洋戦争で山門を残して灰燼に帰したが再建され、平成16年(2004)に現在のコンクリート造りの伽藍に生まれ変わった。山門横の解説は以下の内容です。「長久山 圓頓寺日蓮宗 承応3年(1654) 普敬院日言上人により創建。当初は普敬院と称したが圓頓寺に改められた。 本堂脇の堂には、子供の守護神にと藩祖義直公の側室より寄進された鬼子母神像を安置している。名古屋城天守閣棟木の余材で刻んだこの像は、毎月18日に公開される。」鬼子母神の由来についてHPでは以下のように記載しています。「奉安されている鬼子母神様は「子安の鬼子母神様」。 子安とは「子育て安産」のこと。現在は、子供は生まれて育つのが当たり前と思われがちです。 しかし江戸時代は違います。当山が尾張徳川家より鬼子母神様御尊像を拝受いたしました江戸時代初期は、徳川御三家筆頭の尾張家であっても母子共に健康に出産できるとは限らない時代だったのです。 無事出産を感謝して贈られた御尊像です。当山第2世 玄収院日道上人は加持祈祷に優れ、尾張初代藩主、義直公の側室のご信奉あって、安産祈願・子育て祈願。 後に尾張徳川家2代 光友公を出産し、名古屋城築城時の棟木の余材で作られた鬼子母神像を寄進されたと伝わります。」上は国立国会図書館デジタルライブラリー「尾張年中行事絵抄(文政13年)」に、鬼子母神参詣で賑わう円頓寺山門前の様子が描かれており、左手の丸部分に石の燈籠と宝塔の姿が描かれています。これは当時描かれたものと同一の常夜灯。寄進年は「文化十年癸酉九月吉日」と刻まれており、外観から今から211年前に造られたものには見えません。当時は堀川も整備され、火災により拡幅された四間道は多くの蔵が立ち並び人で賑わっていたはずです。後の空襲で焼かれても、古い町並みや屋根神さまが残った背景にはこの四間道の存在もあるのでしょう。常夜灯の先に立つ題目塔。光明点書法で書かれた独特の文字は日蓮の書体を模したものとされ、髭題目とも呼ばれています。名駅の西で見かけますがこのあたりで、この塔を見かけた記憶はありません。全周が撮れず申し訳ないですが、後方には「文化十年癸酉十一月」と刻まれていました。空襲により伽藍を焼失しながらも、塔の中央に走る大きな罅や黒ずみは空襲により傷ついたものなんだろうか?何度も訪れながら、改めてその存在に気付かされました。長久山 圓頓寺 題目塔所在地 / 名古屋市西区那古野1-11-7訪問日 / 2024/10/19関連記事(髭題目)・髭題目塔(中村区塩池町)
2024.10.25
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まだまた暑かった9月19日、笈瀬村米野、牧野、下中村周辺の神社巡りもここ石神社で一旦終わりとなります。石神社社頭から東の名駅ビル群の眺め。前回の下中八幡宮から東へ5分程、住宅地の中の二本の御神木の聳える場所が石神社になります。上は明治31年の地図とほぼ現在の地図の比較、赤枠が石神社の鎮座地で、左下の下中八幡宮とは僅か5分程の距離にあります。明治東島地図から見ると、鎮座地は柳街道から分かれて下中集落に繋がる道筋の入口側に位置しています。社頭には提灯櫓、明神鳥居を構え、社殿と社務所が主な建物。境内の二本の御神木のうち、大きな松の樹が印象に残ります。社頭の解説と石神社社標。解説の内容は以下です。「石神社 倉稲魂命昔より子供の熱病神、通称石仏で村内の崇敬高き神社で、創祀300年位前と言われ。 当時より子供の熱病(オコリ病)の折祈願するとその平癒は速であることが有名である。」因みに愛知県神社庁には記載されておらず詳細は不明でした。国立国会図書館デジタルライブラリーから「中村区の歴史(名古屋区史シリーズ5)」に目を通すと以下の記述があったので掲載します。1983年に出版された同史の石神社解説。「中村本町3丁目44番地。 祭神倉稲魂。当社は八幡社の末社である。 むかし農夫が大八車で名古屋から帰る途中、路傍の石仏をバランスをとるため乗せてここまで来たところ、動けなくなり捨てていった。それを祀ったという。 「愛知郡村邑全図」によると現在地の東方、惣兵衛川西の杁の北側にあったことがわかる。そこは郷の入口でもあり、地割の伝承も伝えられている。よって「オシャグシ」と推測される。 「オコリ」(熱病)の神とされており、現在地に祀られるまでに2.3ケ所場所を変えている。」とあった。オコリ(瘧)病とはなんぞや、ググってみると腹痛、高熱をともなう病気とある。三日熱とするサイトもあればマラリアに似た熱病と書くものもある。親の立場からすると子どもの成長期に高熱が続くのは不安でしかない、医療の発達していない当時になんとかしてやりたい、その思いの拠り所が石神社なのだろう。我が家の息子達の幼少期もそうした時期があり、熱が出るのはイベント前日の夜と決まっていた。夜間診療所やキャンセルの電話に追われた時期はありました、そこまで御利益のある石神社の存在を知っていたらひょっとして祈願に訪れていたかもしれない。上は寛政期(1789-1801)に編纂された愛知郡村邑全図の下中村の石仏である。現在の八幡宮の位置から見ると少し北側に位置していたようで、何度か遷座しているとあるので当時はこの辺りに祀られていたのだろう。文中に八幡社の末社とありますが、ここでいう八幡社とは恐らくすぐ西側の下中八幡宮を言っているのではないだろうか。今昔マップの年代別地図には神社を示す記載は見られなかったが、中村区の歴史・愛知郡村邑全図・解説から創祀300年は間違いないのだろう。捨てられたとされる石仏については、どの記述にも見られず、その後が気になるところでもあります。石神社社標。戦前の昭和16年に立てられたもので、寄進年を確認した唯一のもの。境内右寄進年未確認の手水鉢。切妻平入の拝殿に長く延びる向拝が付く。拝殿前の狛犬。年代は未確認ですが、社標の寄進年より後のものと思われます。向拝から御神木の眺め。社頭から下中集落に向かうこの道筋も以前は松並木が続いていたのかもしれない。大きな松は害虫の影響から数が減っているとも聞きます、古い街道から松並木が消えてしまう日も訪れるのかもしれない。拝殿から脇障子が付く流造?の本殿の眺め。境内右から社殿の眺め。本殿後方から社頭の眺め。壁の先の本殿域には石仏の姿は見られなかった。往古は田んぼの広がるこの辺り、祭神からして五穀豊穣の守護として祀られたのが始まりだったのかな。捨てられていた石仏を村人が祀り、子の熱病を案じ祈願し平癒した事から認知されたのだろう。医療が発達した現在とはいえ、家族が病に伏せれば誰しも医療技術以外の何かに救いを求める衝動があるのは事実だろう。石神社創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命境内社 / ・・・参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区中村本町3下中八幡宮から徒歩 / 下中八幡宮から東へ5分程関連記事 / ・白山神社(中村区太閤2)・村社 金山神社・天王社(中村区太閤4)・日之宮神社(中村区日ノ宮町)・下中八幡宮(中村区押木田町)
2024.10.24
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下中八幡宮。前回掲載した日之宮町の日之宮神社から北へ10分ほど先の押木田公園に向かいます。今回はこの公園の東側に鎮座する下中八幡宮を取り上げます。押木田公園と下中八幡宮社頭全景。昭和24年に整備された広々とした明るい印象の公園ですが、過去にはあまり良くない出来事があり、個人的に記憶に残っている公園です。下中八幡宮は押木田公園の南東角に社頭を構えています。上は明治31年当時と現在の地図の比較です。明治時代の地図では、下中村集落を取り囲むように広がる水田が見られ、鎮座地は集落の中央の西側に位置しています。日乃宮神社でも触れたように、中村区は豊臣秀吉の生誕地とされ、当時は上中村、中中村、下中村に分かれており、太閤素生記(寛永2年)によれば、秀吉は中中村で生まれたと記されています。押木田公園南東角に銅巻の明神鳥を構える社頭全景。右手に下中八幡宮の社標、左手に由緒が掲げられています。下中八幡宮由緒記「祭神 應神天皇(譽田別命)、神功皇后(息長帯比賣命)例祭 2月21日龍神楠大神祭、8月8日夏大祭、10月9・10両日秋大祭下中八幡宮は後白河天皇の保元元年(1156)に鎮西八郎為朝が創祀に係るこの地域の古社です。当時、この地は東海・東山両道の要衝であり、為朝が平清盛の専横を憤り、崇徳上皇を讃岐に遷したことを慨し、配所の伊豆大島を脱出して尾張国尾頭に来ました。ここで、東海・東山の諸源氏を糾合し、平家追討の機を窺っていた頃に創建されました。豊臣秀吉の氏神でもあったと伝えられ、寛永13年(1636)の検地帳によると、神田と公田が定められていたといいます。昔、この地域で疫病が流行した時、村民全員が当宮にその平癒を祈願し、神威により忽ち全快したと伝えられています。それ以来、毎年大祭を行い、その御神徳を仰いでいます。現在では、家内安全、商売繁盛、厄除け開運、交通安全などの御神徳は広大です。社殿は創建以来、歳月の経過とともに修復が重ねられ、現在の本殿祝詞殿は昭和5年、拝殿は昭和46年に氏子と崇敬者の力を合わせて荘厳に改築されました。当宮は古くは八幡宮と呼ばれていましたが、明治初期に八幡社と改称されました。しかし、その後氏子の総意の念願が叶い、昭和58年9月に神社本庁の認証を得て下中八幡宮と改められました。」【由緒の疑問】「保元の乱(1156)に源為朝が創建」とされていますが、為朝はその年に伊豆大島へ配流され、後に自害した、あるいは琉球に渡ったという説もあります。「尾張国尾頭に来て平家討伐・・・」は疑問も残ります。【佐屋路と下中村散策コース解説】「加藤清正が勧請した中村の三つの八幡社の一つ。下中八幡宮の栞には、『当八幡宮は鎮西八郎為朝の創立に係る古社で、創立保元元年(1156)』と記されています。明治初期までお鍬祭が行われていました。隣に押木田公園があります。」とあります。加藤清正(1562-1611)が建てた三つの八幡社とは以下を指します。・中村区東宿町2の中村公園内に鎮座する八幡社・中村区元中村町2に鎮座する春日社(八幡社と合殿)・ここ押木田町の下中八幡宮【愛知県神社庁解説】下中八幡宮祭神 / 應神天皇 神功皇后例祭 / 10月第2月曜日氏子域 / 中村区乾出町、大宮町、沖田町、押木田町、上石川町、京田町、下中村町、白子町、城主町、砂田町、千成通、豊国通、中村中町、中村本町、鈍池町、日ノ宮町【wiki下中八幡宮】「下中八幡宮社伝によれば創建は保元元年(1156)で源為朝が関わるものであるという。加藤清正が中村に勧請した3つの八幡社の1つとされるが、後に衰退。寛永20年(1643)に再興された。古い棟札が複数枚残されており、延宝3年(1675)のものが最古とされる。なお、明治時代初期まで61年毎に「お鍬祭り」が行われていたという。」とあります。地史まで確認していませんが、創建は保元元年(1156)、呼称は八幡宮、八幡社、下中八幡宮と改称され、祭神は應神天皇、神功皇后のようです。銅巻の明神鳥居。扁額はなく、島木に橘の神紋が施されています。参道から拝殿の眺め。境内の全景。楠やイチョウを主とする杜は適度に間引かれ、程よい木陰もあり、風の通りのいい境内でした。拝殿左の楠木の根元に龍神大神が祀られています。左の龍神大神社標は昭和初期に寄進されたものでした。龍神社。「龍神楠木大神。願い事、絵馬掛けをして心願成就の諸祈願を行っている。」境内右の手水舎と社務所。切妻造に唐破風向拝が付く拝殿は、渡廊で祝詞殿に繋がっています。拝殿前を守護する平成13年に寄進された巻髪の狛犬。拝殿脇に折り紙手芸の犬の置物があった、犬…でよかったかな。拝殿額は「八幡宮」。拝殿内の眺め。社殿はコンクリート造りで、由緒では拝殿が昭和46年、祝詞殿・本殿は昭和5年に建てかえられたもの。拝殿と龍神社。拝殿右から祝詞殿・本殿と境内社塩竃神社。ここにも狛犬が。こちらの狛犬は明治43年寄進のもの、時代によって髪型やメイクも変わってくる。塩竃神社と境内右の東鳥居と社標、鳥居は昭和3年に寄進されたもの。塩竈社。創建は不明。祭神や神徳は以下。「塩土老翁神・武甕槌神・経津主神。安産の神として昔から崇敬されている。延命長寿、交通安全、産業開発の守護神としても崇敬されています。」社殿後方からの眺め。本殿は5本の鰹木と外削ぎの置き千木が付き、海老虹梁も見られたので恐らく流造と思われます。鬼板や破風飾りには橘の神紋が飾られています。北側から龍神社(龍神楠木大神)の眺め。御神木の楠の幹を囲むように覆屋が作られ、社は東向きに祀られている。ひと昔前は田圃が広がっていたこの辺りも、その姿はなくなり一面住宅街に変貌、押木田公園の緑地帯と下中八幡宮の杜の緑は貴重な存在となっています。秋の大祭、この記事がアップされる頃は既に終わっていますが、抹茶の提供や子供獅子など催されるようです。また、町内の美化活動など地域のコミュニケーションは今も良好のようです。我が町からこうした活動が消えて10年以上は経つだろう。お洒落な自宅は綺麗にしても、一歩外に出た歩道は草ぼうぼう、大切な御犬様の糞すら取ってもいかない。毎週車は洗っても、自宅周辺や地域清掃・地元の祭りを受け継ぐ意識は風化し、自分中心の地域になってしまったようだ。拝殿から社頭の眺め。住民により綺麗に手入れされた参道は、訪れても気持ちのいいもので、町の美観は住民同士の繋がりを現しているようでもあり、我が町が恥ずかしいと感じる場面でもある。下中八幡宮創建 / 保元元年(1156)祭神 / 應神天皇・神功皇后境内社 / 塩竃神社、龍神社参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区押木田町1-1日之宮神社から徒歩 / 日之宮神社から押木田公園の下中八幡宮まで北へ10分程関連記事 / ・白山神社(中村区太閤2)・村社 金山神社・天王社(中村区太閤4)・日之宮神社(中村区日ノ宮町)
2024.10.23
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中村区日ノ宮町「日之宮神社」前回の太閤4の天王社から次の目的地日之宮神社までは、20分程西の日吉公園に向かいます。鎮座地の所在地は日ノ宮町、明治22年以前は愛知郡下中に属し、後の昭和14年(1939)誕生した日ノ宮町に編入された地域。日ノ宮とはどことなくありがたい地名ですが、由来はここ日之宮神社からきていると思われます。日吉公園南側から日之宮神社社叢の眺め。公園の東側が社地で、公園南側に社頭を構えています。社頭全景。石の神明鳥居の脇に「日之宮」の社標があり、右に解説板が掲げられています。名古屋市教育委員会「日吉丸生母祈願の跡」解説。「日の宮神社は、もと日吉権現といわれ、豊臣秀吉の母大政所が、男子を授かるよう日参した社で、秀吉は天文5年(1536)元日、日出づるころ、力強く産声を発したといわれる。 幼名日吉丸といったのは、この日吉権現の霊験によるところから名付けられたと伝えられる。」境内には由緒はなく、創建などは分からないことが多い。明治から現在までの地図を見てみると、ここに鳥居が記されるのは昭和43年になってから現れます。現在は日吉公園の一角に神社が鎮座しますが、過去の地図を見る限り、公園そのものが社地であったように見られます。愛知県神社庁から中村区日ノ宮町、日の宮神社として記載は見られなかった。佐屋路と下中村散策コースによれば、「豊臣秀吉の母、大政所が男子を授かろうと日参し、日輪が懐に入る夢を見て秀吉を産んだという由緒あるお宮、それが日之宮です。かつては「日吉権現」とよばれ、秀吉の幼名「日吉丸」もこのゆかりによるものといわれています。」として記載されており、秀吉の生誕地についての記述にとどまっていました。尾張徇行記(1822)に日吉社として以下の記述が見られました。「村の南に日吉社の旧跡があり、今は田中に楠の木が一本残っている。 これは太閤(豊臣秀吉)の母がこの神に祈願し、太陽が懐に入る夢を見て秀吉を生んだため、小字を日吉と称するようになった」…と記されています。現在は日之宮神社と呼ばれますが、古くは「日吉権現」・「日吉社」として呼ばれていたことが伺われます。日吉社と言えば、滋賀県の日吉大社が全国の日吉・日枝・山王神社の総本山として知られます。当社の創建時期は定かではありませんが、日吉大社から勧請されたものであることに間違いないと思われます。当神社は日ノ宮町1の下中八幡宮の境外社で、境内には由緒がなく、日吉社と呼ばれたことから祭神は大山咋神と思われます。鳥居から境内の眺め。楠の樹を主とする社叢の先に二対の常夜灯とその先に玉垣で囲われた本殿域があり、右手にも玉垣が見えます。公園と社地を隔てるものはないので、暑い日に公園で遊んでいる時などは社叢は絶好の木陰を提供してくれます。竿のくびれが印象的な二対目の常夜灯。寄進年は昭和8年(1933)。参道右の手水鉢。本殿域全景。狛犬の寄進年も常夜灯と同じ時期に寄進されたもの。大きな岩で組まれた本殿域に神明造の本殿が鎮座しています。本殿は6本の鰹木と内削ぎの千木が付く。俗説に従えば、祀られるのは女神ということになりますが…実際の祭神はどうなんでしょうね。本殿右に見えていた玉垣には二つの石碑が立てられていました。右が「日吉丸 生母 祈願乃趾」左は名古屋市教育委員会の碑文が彫られた石碑。「日の宮神社は口碑によると、もと日吉権現と称し、豊臣秀吉の母大政所が一子を授かるよう日参した神社で、秀吉は天文5年丙申正月元旦に出産、幼名を日吉丸といったのは、この日吉権現の霊験により授かったところから名付けられたと伝えられる。」中村区は秀吉の生誕地とされます。当時は上中村、中中村、下中村に分かれており、秀吉の生涯を記した太閤素生記(寛永2年)によれば、秀吉は当時の中中村で生まれたと記されています。現在の豊国神社東隣の常泉寺が生誕地とされ、境内には産湯の井戸や碑もありますが、この付近は上中村にあたり、秀吉の出生地は特定されていないようです。明治の地図から日ノ宮神社の鎮座地は下中村にあたりますが、「なか」が上中村、或いは中中村から下中村の日ノ宮神社まで日参したとしても何らおかしくない距離にあります。秀吉の生誕が天文5年(1536)とあるので、日ノ宮神社の前進である日吉権現の創建はかなり遡るものと思われます。本殿前から社頭の眺め。分からないことの多い日之宮神社ですが、「なか」が日参したと伝わる日之宮神社の今は、参拝者の姿はなく、公園の一部に鎮座する小さな神社として今も受け継がれています。日之宮神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区日ノ宮町1-30-28天王社から徒歩 / 天王社から西の日吉公園まで20分程関連記事 / ・白山神社(中村区太閤2)・村社 金山神社・天王社(中村区太閤4)
2024.10.22
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10月16日、「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 日帰りバスツアー」に参加してきましたので当日の様子を掲載します。そもそも「ONSEN・ガストロノミーウォーキング」とはなんぞや。「ガストロノミーツーリズムとは、その土地の気候風土が生んだ食材・習慣・伝統・歴史などによって育まれた食を楽しみ、その土地の食文化に触れることを目的としたツーリズムで、欧米を中心に世界各国で取り組まれています。ここに日本が世界に誇る「温泉」をプラスした新しい体験がONSEN・ガストロノミーツーリズム」の趣旨らしい。高山祭も終わり、少しは紅葉も始まったかもしれない高山の町を歩いてみようという乗りでかみさんが申し込んでくれた。旅行社の支払いは1名7500円。これにイベント参加費4000円が含まれており、実質3500円で高山往復ができるので以外にお得な価格だと思います。約6kmの食べ歩きコースの各チェックポイントでは以下が提供されました。・オリジナルポーチ・甘酒1杯・みたらし団子・高山ラーメン小サイズ・フランス・アルザスの厳選ワイン・トマトジュース1本・飛騨牛串焼き1本・ちょっぴり漬物ステーキ・プリン1個・地酒おちょこ1杯・飛騨高山天然温泉陽だまりの湯入浴券・屋台会館入場券・高山陣屋入場券名古屋駅集合は7:00。5:00には起きて地下鉄に乗る必要があり、久し振りの早起きとなる。上は名駅に展示されていたWRCイベントカー。11月21日〜24日フォーラムエイト・ラリージャパン2024が開催されることから、展示されていた。こちらのチケットも取ってあるので今から楽しみです。受付を終え、バスに乗車しひと眠りで高山へ。現地の天候は曇り一時雨、この時期の高山は上着が必要になるものですが、半袖でも問題ない気温でした。駐車場からスタート地点に向かい、受付の際に飲食チケットや入場券が入ったポシェットが配布され、地図を頼りに市内を巡る。散策ルートは宮川右岸の市内散策。観光地であり、食べ歩きの町でもある高山市内はどこも海外の観光客で溢れかえっていました。コースはそうした混む場所を避け、名所・旧跡を巡るルートになっているように思えました。このバスツアーゴールの時間が決められており、1:30には戻らなければならず、6㌔とはいえ結構時間に追われました。平瀬酒造に寄りたかったので、陣屋と中橋をスルーしてなんとか時間に戻る事ができました。スタート地点でまずは甘酒の提供を受け、いよいよスタート。宮川下流の弥生橋の東にある「福太郎」でみたらし団子を頂く。醤油味の素朴なもので美味しかった。こうしていく先々で地元の名物が提供されるので、程よくお腹は満たされます。次の目的地は更に下流の宮前橋から桜山八幡宮を目指します。写真は桜山八幡宮の大鳥居、目指すは正面の杜。参道中ほどの社標と右に秋葉社。市内の各町内には秋葉社が祀られており、全てコンプリートを目指していますが未だ回り切れていません。今回3社ほど写真に収めることができたので日を改めて掲載します。桜山八幡宮。この手前の高山屋台会館は入場チケットがついているので久し振りに拝観してきました。桜山八幡宮境内がチェックポイントCで高山ラーメンが提供されていました。高山ラーメンの印象は醤油辛い印象が強いけれど、提供されたものは出汁の旨味もあり美味しいと感じるものでした。店の名前が分からないのが残念。雲龍院。高山市内東の丘陵地は東山と呼ばれ、その一帯には多くの社寺が鎮座しており、坂さえ気にしなければ周り応えのあるところです。あわよくば最寄りの神社に参拝、なんて考えていたが時間に余裕はなかった。大雄寺。雲龍院の南隣に鎮座し、平湯街道沿いに山門を構えています。ここまでくるとインバウンド客の混雑は緩和されてきます、何せ食べ物屋や土産物屋がないので、歴史や文化に興味のある観光客しか訪れないだろう。大雄寺西側の江名子川に架かる葵橋、コースはここを左ですが、ここまで何社も秋葉社をスルーして来たので正面の大門の秋葉社に立ち寄ってみました。チェックポイントDの高山市図書館煥章館。こちらではアルザス地方のワインとタルトフランベ(ピザ)にパン・デビス(柔らかいクッキー)が提供されていた。本場フランスのシェフがフランスの郷土料理として振舞われていました。かみさんの赤ワインは若く、スパークリングワインはさっぱりとしてのど越しが良かった。これも銘柄を撮り忘れてしまった。次のチェックポイントはここから南下した城山公園にあります。コース最大の急登が待っていました。長い上り坂の途中の城山公園案内図。城山の名が示す様にここはかつての高山城があった場所で、かつての二の丸がチェックポイント。金森長近銅像。金森長近は初代高山藩主で高山城や城下町を整備し高山の礎を築いた武将。この像の前がチェックポイントE。長い上り坂を登ったご褒美としてトマトジュースが提供されました。次の目的地は坂を下り照蓮寺方向へ向かいました。その傍らに鎮座する豊川城山稲荷。かすれた由来書によると本尊豊川叱枳尼真天で創建は1879年、豊川稲荷を勧請してここに創建したそうです。照蓮寺を過ぎ、高山市文化伝承館がチェックポイントFとG。こちらの座敷で飛騨牛串焼きと漬物ステーキ、お酒も振舞われました。ここから、宮川に架かる中橋と高山陣屋が本来のコースですがこの二つをスルーしてチェックポイントFとHの舩坂酒造店でワンコイン分の日本酒の試飲を済ませ、ここから我が家はコースアウトして平瀬酒造に向かう。(写真は2023年のもの)久寿玉の銘柄で知られる平瀬酒造での滞在時間は10分程しか残っていない。大急ぎで500円の試飲をして、土産を買い求める。この平瀬酒造の試飲はいつ来てもリーズナブルで、クーラー内の商品は全て飲むことができます。ただし同じものは飲めないルールになっています。コインサーバーと違い、好きなだけ注げるのでありがたい。軽かったリュックは酒の重みでズッシリ肩にくる、酒も程よく回り後はゴールしてバスに乗って温泉に浸かればイベントは終了。帰りによったひだまりの湯は、安価に宿泊可能な天然温泉なのですが、露天風呂は稼働しておらず、洗い場の設備は湯垢で白くなっていたりして今一つの施設だった。汗を流し、冷たい缶ビールが販売されていただけ良しとしよう。山からの帰りや予定外に一晩泊るには有難い存在なのかもしれない。高速に乗る前に立ち寄った「道の駅ななもり清見」こちらで飛騨牛コロッケと自宅の在庫が切れていた荘川名物「いちまのけーちゃん」を買い求め、渋滞もなく19:30頃には名古屋に到着できた。「いちまのけーちゃん」が名古屋でも手に入ればいいのですが、近い所でも郡上まで行かないと入手できない。6月19日に白山のいとしろ大杉を訪れた際に買ってきたが、これでしばらく食いつなぐことができる。おいそれと買い物にいけないだけに、ツアーに参加できて良かったかもしれない。こうしたツアーが各所で行われているようです、再び参加してみたいイベントでした。※温泉ガストロノミーツーリズム 公式サイトはこちら鶏ちゃん合衆国 加盟店 高山市 飛騨荘川いちまの けーちゃん 260g 2〜3人前 冷凍便 / ケイチャン けいちゃん 鶏チャン K /
2024.10.19
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金山神社から北へ10分程の中村区太閤4に鎮座する天王社。今回はこちらを掲載します。最初に、当社について地史を調べた結果由来・創建時期について情報が得られず、現地で見た事しか記載できない事を了承願います。この地図は明治31年当時(左)とほぼ現在の地図の比較になります。茶色の線は柳街道、水色の線が笈瀬川を示しています。鎮座地は当時の笈瀬村米野集落のひとつで、柳街道の一本南の通りに鎮座しています。この天王社Gマップには天王社として表記されます、現地に行くと天照皇御大神、熱田皇御大神、須佐之男大神、加具土大神、水大神の石標。それとは別に「白玉龍神」単独で二つの石標が立てられており、天王社としての表記はどこにも見られなかった。「天王社」として現れるのは、賽銭箱の「天王社」と社地西側の掲示板に「天王社再建寄付者」と「平成26年天王社新築」の2枚の木札に表記があるだけで石標としてはありません。これらから以降は「天王社」と表記していきます。天王社鎮座地周辺の眺め。太閤5丁目の交差点角地に鎮座し、西側には法泉寺と智興寺が隣接して鎮座しています。天王社正面全景。外削ぎの千木と5本の鰹木が載り、横長の社から何社かの合殿と見えます。玉垣の左にふたつの石標が立てられています。愛知県神社庁を調べて見るがこの住所に天王社として登録はみられなかった。神社幕の神紋は織田木瓜だろうか、その先の扉が何枚あるのかまでは分からなかった。ふたつの石標。右手の石標は昭和6年(1931)の寄進で、上段に天照皇御大神、熱田皇御大神、下段に須佐之男大神、加具土大神、水大神とあります。左手の白玉龍神の石標は大正14年(1925)に寄進されたものでした。その左の石標には「米野町有志一同」と刻まれていました。街道沿いの古い町なので、創建が大正時期と一概に推測する事は無理があるかもしれません。西側から天王社の眺め。明治当時の地図からも鎮座地は集落の中心に祀られています。周辺は古い町並みが残りますが、新しい住宅や駐車場もみられ、天王社の横長の社と天照皇御大神、熱田皇御大神、須佐之男大神などの祭神から、以前は屋根神さまとして祀られていたのかなと思わせるものがあります。そして水大神は白玉龍神として、稲の生育に不可欠な水をもたらす神として祀られたものだろうか。天王社創建 / 不明祭神 / 天照皇御大神、熱田皇御大神、須佐之男大神、加具土大神、水大神境内社 / ・・・参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区太閤4-17金山神社から天王社徒歩 / 北へ10分程関連記事 / ・白山神社(中村区太閤2)・村社 金山神社天王社の西側の法泉寺の角に地蔵堂が祀られていました。堂内には二体の御地蔵さまが安置されており、年号を探しましたが、いつ頃のものかは分かりませんでした。法泉寺 地蔵堂所在地 / 名古屋市中村区上米野町5-5地蔵堂から天王社と住宅街の眺め。住宅街に聳える大きな公孫樹の樹が天王社の御神木のようです。公孫樹は昔から燃えにくい樹として知られ、集落の防火を司る天王社と火伏の樹はそうした願いが込められているのだろう。法泉寺の西隣に隣接して鎮座する智興寺。寺号標の左の石碑に目が止まり立ち止まって見ました。福田兼助の碑。明治34年(1901)に建てられた碑で、中村区史跡散策路「笈瀬川筋散策コース」の中に含まれています。「名古屋西地区近代教育の祖といわれた兼助は、1830年米野村の農家で生まれましたが学問を好み、徳川時代末期に村の子弟の教育に尽くし、明治になり学制が敷かれたとき望まれて村校の教師になった人物。この碑は門人・知友達が敬愛の念を表すため、明治34年に建てたものです」と紹介されていました。現在の米野小学校は、福田兼助が開いた「上米野義校」が源流の様です。福田兼助の碑。所在地 / 名古屋市中村区上米野町5-6
2024.10.18
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前回の中村区太閤2に鎮座する白山神社から、近鉄名古屋本線沿いを南東に進んだ先に鎮座する金山神社へと向かいます。写真は近鉄米野駅から平池町方向の眺め。長く分断されていた当地と平池町も椿町線の整備で解消されましたが、歩いていても易々と向こうには行けないようです。黄色のトラス橋が象徴的な向野橋、近鉄・JR・あおなみ線の長い線路を渡るための陸橋で、以前は車も通れたが現在は自転車や歩行者専用橋になっています。鉄道を入れた夕景写真を撮るのには絶好の場所で、この先にあった転車台はそのうち行こうと思いながら機を逸してしまい、昨年撤去・埋め立てされてしまいました。金山神社へは正面の道を進んでいくと、右側の住宅街に金山神社の杜が見えてきます。上は明治と現在の地図の比較ですが、当時の地図には鎮座地に鳥居の姿は見られません。当時の金山神社は赤丸部分にあたり、昭和2年に名古屋駅整備に伴い現在地に遷されています。位置的には向野橋下、少し名古屋駅よりの位置にあり、当時の関西鉄道の南側にポツンと鎮座していたようで、現在は線路の下ということです。金山神社社頭。玉垣で囲われた社地南側に社頭を構え、右側に「村社 金山神社」の社号標があり、正面に石の神明鳥居と二基の常夜灯を構えています。鳥居左の由緒。「祭神 金山毘古神由緒 当神社は美濃国一宮南宮神社より分霊を勧請申し上げたと伝え、寺社志(寛政年間1661-1673)に尾張国則武庄米野村に社三ヶ所ありと記され、張州府志(宝暦2年 1752)米野村に金山祠在りと記されて居る。 祭神金山毘古神は三種の神器を造られた神とされて居り、文献尾張徇行記(文政5年 1822)、尾張志(天保14年 1843)にも金山社ありと明記されて居る。大正2年10月 無格社西宮社(祭神 多岐理比賣命、狭依比賣命、多岐津比賣命)、無格社宗像社(祭神 天照大神荒御魂)の二社を村社金山社に合祀し金山神社と改称した。昭和2年2月本社敷地(現向野橋南坂中程)が名古屋駅拡張用地に該当、鉄道用地となった為現在地に移転を余儀なくされた。 神徳 当地域住民の生活の守護神として崇敬され、特に鉄工・鉄筋・鋳造の御神徳あらたかで金属関係者の信仰の的となっている。例祭日 10月18日」ここに記載の地史に目を通すと、確かに記載の通りで、地史に基づいて良く書かれており、これだけで十分事足りる内容でした。 その際、中村区笈瀬川散策コース金山神社解説に目を通すと以下のように解説されていました。「鎮火・農耕の神としてあがめられている金山毘古神(カナヤマヒコカミ)を祀った神社。 鍛冶業の守護神であり、昔、露橋附近で名古屋城築城時(1610)の石垣用の石を切ったとき、石工達に信仰されたといわれます。」と新たな情報が得られました。この内容について、拝殿左の玉垣の傍らに「名古屋城の石垣用の石」として今も保存されていました。このことから神社は江戸時代初期には既に存在していたことまでは分かりましたが、結局創建は不明のままです。境内左の手水舎と社務所。参道から社殿の眺め。中央に狛犬が守護する拝殿と左に神馬像、その奥に境内社があり拝殿右にも鳥居が見られます。拝殿正面全景。瓦葺の入母屋妻入りで妻側に大きな向拝が付けられています。昭和3年に寄進年された狛犬は一部彩色されたもの。鬼飾りには金の文字が入り、破風飾りに輪宝紋のような神紋が入れられています。拝殿には龍の透彫りが施され、目は赤く彩色されていました。拝殿左の御霊社。後方の建物は幣殿と繋がっており、社務所兼神饌所と思われます。御霊社本殿。拝殿と幣殿は渡廊で結ばれています。名古屋城の石垣用の石。「名古屋城築城の際、このあたりを流れていた笈瀬川を使って石材を運んだ際に、現在の露橋付近に石切場を置いていたと伝わっており、ここで働く石工たちの信仰を集めたとされる。笈瀬川から出土した名古屋城築城の際の残石とされる石が、社務所前に置かれている。」境内右から社殿全景。幣殿から本殿も渡廊で結ばれています。本殿は神明造のようで、内削ぎの千木が載るが、鰹木は数えていません。境内右の境内社。由緒には西宮社、宗像社は合祀とあるので、それではないようです。左から不明社本殿の眺め。神明造の鰹木6本、内削ぎの千木が施されています。本殿域燈籠の竿を見ましたが明治42年(1909)寄進年は分かりましたが、社名に繋がるものは見られませんでした。鳥居は大正7年(1918)に寄進されたものでした。境内右の一角に戦没者記念碑。鳥居は明治45年(1912)、手前の常夜灯は昭和2年(1927)に遷座した年に寄進されたようです。この地の神社を巡って見ると、地域の文化や歴史に触れることができ、訪れるたびに新たな視点で楽しむことができます。村社 金山神社創建 / 不明(昭和2年(1927)向野橋付近から遷座) 祭神 / 金山毘古神、多紀理比売命、多岐津比売命、狭依比命、天照大御之荒魂境内社 / 不明社、御霊社祭礼 / 10月18日氏子地域 / 中村区熊野町、黄金通、下米野町、大正町、長戸井町、深川町参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区長戸井町1-2白山神社から徒歩 / 白山神社から南西の近鉄名古屋本線沿いに10分前後関連記事・白山神社(中村区太閤2)
2024.10.17
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どうにもならない暑さも過ぎ去り、朝夕は秋らしい風が吹くようになってきました。この時期になると冷たいビールからお酒の方に切り替わっていくものです。今回は直近で行われる酒フェスから三つ紹介します。1. 秋酒祭 岐阜 〜岐阜の地酒に酔う2024こちらは岐阜の金公園で開かれ、昨年も訪れましたが、岐阜県の32の酒蔵のお酒が味わえます。詳細はこちらで確認を2. 第19回AJUワインフェスタin多治見修道院 2024年11月4日(月・振休)開催こちらは岐阜県多治見市の多治見修道院で行われるワインフェス。何度か訪れましたが、多治見駅から無料シャトルバスも出ておりアクセスが楽。なによりぶどう棚の下で好きなワインを味わえるのが嬉しい。参加チケットは割高のように思えますが、フルボトルのワインが付く。なにより、収益はここで働く障害者を持つ方々に収入として還元されます。ボランティアの募集もあるようなので只今考え中。詳細は公式サイトで確認を過去の様子・「AJUワインフェスタin多治見修道院」に行ってきました3. 始禄・小左衛門 蔵開きこちらは岐阜県瑞浪市の土岐川左岸にある中島醸造で開かれるもので、春の宴と秋の宴の年二回開催されています。小左衛門で知られ、我が家お気に入りの酒蔵のひとつ。詳細は公式HPで確認を過去の様子・2024「小左衛門 春のお披露目会」行ってきました10月、11月は我が家のイベントも幾つか入っていますが、全てとまではいかないまでも、都合が合えばひとつは行きたいと考えています。行楽の秋、食欲の秋、名古屋から離れて見るのもいいかもしれませんよ。
2024.10.16
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9月19日、久し振りに駅西エリアを訪れる機会があり、前回8月2日に回り切れなかった中村区南部の神社を巡拝してきました。今回は、近鉄名古屋駅から近鉄名古屋本線沿いに1㌔程南下した中村区太閤2に鎮座する白山神社を取り上げます。名古屋駅から徒歩15分の距離にありますが、近鉄に乗り米野駅で降車すれば北に5分程と近い。待つくらいなら歩いたほうがいい、そんな事だから敬老パスの更新費も回収した試しがない。上の地図は明治31年とほぼ現在の地図の比較。鎮座地の中村区太閤2周辺は、明治22年周辺の日置村、牧野村、平野村、米野村、露橋村、北一色村が合併した笈瀬村の一部で、合併以前は米野村平池集落の一部でした。関西鉄道の北に位置し、後の関西鉄道の愛知駅(現在の平池町)の西にあたります。現在は関西線を隔てた平池町は急速に再開発が進み、高層ビルが立ち並ぶ洗練された街に生まれ変わりましたが、線路を隔てた鎮座地周辺は住宅が連なる静かな街並みが広がっています。中村区太閤2「村社 白山神社」社頭全景。西側の椿町線の整備に伴い、少しずつ町の雰囲気も変わりつつあるようです。まず最初に白山神社については由緒や創建時期につて詳細は不明です。地図の履歴から見ていくと、明治当時は現在地に鳥居の記はみられず、昭和43年頃に鳥居の記が現れます。これをもって創建時期は新しいとは言い切れず、事実境内には明治まで遡る寄進物もあります。社頭正面から神社の眺め。境内左が社務所で正面の拝殿は鞘殿と繋がっています。社頭の常夜灯、竿には大正2年(1913)と刻まれています。写真左は社号標で常夜灯と同じ時期の寄進年、左が神明鳥居の寄進年で明治41年(1908)とあります。拝殿正面全景。拝殿右の赤い社は境内社の大白龍大神。参道右の手水鉢から大白龍大神の眺め。龍とつくだけに、三匹の蜷局を巻く蛇の姿があります。三匹の蛇。重軽石かどうか定かではないが、座布団の上でこちらを見つめています。その先の大白龍大神本殿。手水鉢から本殿は長い覆屋に覆われています。拝殿前の個性的な顔つきの狛犬、こちらも大正2年の寄進。大正2年になにがあったのだろう。上は明治・大正・昭和・ほぼ現在の鎮座地の鳥居の記、寄進物の年代から以下は勝手な推測になります。明治の地図にはなかった鳥居の記は、大正(上段右)になり現在地のすぐ西に現れ、この神社はその後の地図から姿を消しています。そして昭和(下段左)になると現在地の南に現れ、その後再び姿を消し、現在に至っているように見えます。地図の正確性に疑問があるとしても、一つの神社が動いているように見えます。明治31年の地図以降の明治時代に創建され、椿町線周辺の整備に伴い白山神社は二度ほど動いているような気がします。駄目もとで愛知県神社庁を検索すると、写真付きで以下内容で紹介されていました。「社名 白山神社、祭神 白山比賣神、氏子域 太閤、例祭 10月18日」・・・やはり創建や由緒までは記されていなかった。これ以上考えていても進展しないので先に進みます。拝殿から本殿方向の眺め。祭神の白山比売神(菊理媛神)は、良く縁結び、夫婦円満、家内安全の神様として知られます。明治頃の当地は集落を取り囲むように田んぼが広がる一帯、五穀豊穣を願って祀られたものだろうか。神紋は亀甲紋に花は撫子?…良く分からない。拝殿から社頭の眺め。右の狛犬の脇に立つ幟立ての寄進年は明治40年(1907)、自分が見たなかでは一番古い寄進年でした。昭和以前は田んぼが広がっていた一帯も、住宅地となり名残も見られない。社頭西側から白山神社の全景。椿町線の整備によって、あおなみ線、JR関西本線、近鉄名古屋線の鉄道で長く分断されていた太閤と南側の平池町とはアンダーパスで繋がるようになりこの辺りも変貌していくのだろうか。白山神社創建 / 不明 祭神 / 白山比売神境内社 / 大白龍大神祭礼 / 10月18日参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区太閤2-2-10近鉄名古屋駅から徒歩 / 南西に15分程過去記事・熊野社
2024.10.13
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白花彼岸花2024/10/04 西区洗堰緑地にて
2024.10.12
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9月6日に訪れた猿投山南麗神社巡りも鈴ヶ滝不動明王社で終わりとなります。この日10社目の鈴ヶ滝不動明王社の所在地は豊田市加納町馬道通、というより猿投温泉といった方が分かりやすいかも。亀首熊野神社から猿投神社方向に北上し加納川に架かる加納橋の手前を左折、ひたすら直進し猿投温泉に向かいます。移動時間は10分程で到着できると思います。鎮座地は猿投温泉の前を流れる加納川を堰き止めた灌漑用の溜池鈴ヶ滝湖の下流に位置します。駐車場は猿投温泉駐車場に駐車し、帰りは温泉でひと汗流して帰ることができる。写真は駐車場脇のマップ、不動明王社はマップの一番奥に架かる橋の袂に鎮座します。癒しのパワースポット 不動明王社(創建1554年)と鈴ヶ滝。「山容が秀麗で深山の趣にことかかない猿投山は「神霊が鎮ります山」として古くから崇められ、猿投山に詣ずる修験者や信者たちは加納の澤 (現、猿投温泉内の加納川)を通り、滝(現、岩風呂棟に隣接)で身を清めて 頂上に向った。 鐸杖の音が絶えなかったことからこの滝(落差10米)は「鈴ヶ滝」と呼ばれ、滝前の「不動明王社」にお参りすることを常とした。北の明王である「鈴ヶ滝不動明王」は、不動明王の中でも一番力をもっており、あらゆる災難を除き参拝者を強いパワーで守ります。 「不動明王社」と「鈴ヶ滝」周辺は中部有数のパワースポットで温泉内で一番美しい場所です。御神体 不動明王尊(三体)、御嶽山大神、白龍霊神、猿投大神、天戸御中大神、 白蛇霊神、観音菩薩、弘法大師、道祖神、南無大師遍照金剛」とある。駐車場から大和橋を渡り、右手奥の鈴ヶ滝橋に進みます、ここから先は車は通行不可。すぐ正面に不動明王社、傍らの鈴ヶ滝橋から鈴ヶ滝を正面から眺められます。橋を渡ると左手に鈴ヶ滝湖への散策路、直進すれば金泉の湯を通り駐車場に至ります。ここから先は森の木陰に包まれ、昼でも薄暗く、滝から噴き出す涼やかな風が心地いい。しかし蚊がいるので、虫除けは持って行った方がいいと思います。下を流れる加納川。名古屋からも近く、地下鉄東山線藤ヶ丘駅から無料巡回バスも運転されており手軽に温泉を楽しめます。その昔、事故に遭った際、後遺症の療養や、猿投山散策後の汗を流すのに足繁く通った馴染みのある存在です。長らくご無沙汰していましたが、今日の目的は不動明王社なので温泉はあとまわし。鈴ヶ滝橋下流から不動明王社(左)と鈴ヶ滝。道の正面に石の明神鳥居を構える不動明王社が見えてきます。社頭全景。左手に南無大師遍照金剛や道祖神が安置され、鳥居の先の朱塗りの堂が不動明王社になります。鳥居の束には「鈴ヶ瀧大神」と彫られているようで、鳥居は昭和39年寄進のものでした。岩と真砂土の印象が強い猿投山ですが、ここも後方の大きな岩や川底など通じるものがあります。鳥居左の経塔と道祖神。光背に「右??」「左 山??」…ピントが甘く読み取れない。鈴ヶ瀧を正面に眺める堂内、昼でも灯りが灯されています。正面右奥が猿投大神、左の祠は文字が刻まれていませんが恐らく鈴ヶ瀧不動明王と思われます。後方の大岩の上に石の祠が見られますが詳細は不明です。鈴ヶ滝橋から大蛇の体を祀ったとされる堂と猿投大神の眺め。自然の中に包まれて佇む社は全て石です。大蛇が傷を洗い清めたとされる滝壺。鈴ヶ瀧の由来と伝説「昔から山は信仰の場になっており、猿投山(標高629㍍)もその一つ。 猿投山に詣ずる修験者たちがこの沢を通り、この瀧で身を清めて頂上に向かった、錫杖の音が絶えなかったことから、この瀧を鈴ヶ瀧と称した。戦国時代は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、北条早雲など割拠し、この地方は三河北部の重要拠点をなしていた。 当時、松平清康がこの地を治め、現在の豊田を中心に広瀬城、上野城、寺部城、衣城、福谷城、八草城が在り、この城主たちは共謀して松平清康に反抗したが敗退。天文18年、この地を中古広見城主中条将監秀正が代って治めていた。 文和4年(1554)秀正の育てていた鷹が沢の大樹に巣をかけた、これを猿投山を徘徊する大蛇が見つけ窺っていたので、秀正は村人に命じて監視させていたが、ある日大蛇が現れ巣を襲わんとしていた。村人は弓矢で18本の矢を放った。 この時空は一天俄かにかき曇り大雨が降り出し、その凄さに村人は恐れ震え逃げ帰った。大蛇は矢に耐え切れず猿投山の山中に姿を消し、猿投山の西北の鈴ヶ瀧の滝壺に逃げ込み傷を洗い清めた。 村人は鈴ヶ瀧で喘ぐ大蛇を切り、体を鈴ヶ瀧の傍らの祠に祀り、頭は村へ持ち帰り弁財天として祀った。その時大雨が降ったことから、旱魃の時はここで難を祈れば効果があるとされ、鈴ヶ瀧のすぐ下流の釜石に供え物をして雨乞いをするようになった。 猿投山麗は5世紀末から窯業がはじまり、平安・鎌倉・室町時代にかけて発展し、日本の6古窯のひとつに数えられ、数千基の古窯が発見されています。陶工は定住せず、燃料を求め次々に窯を作っていき、瀬戸や常滑に流れ受け継がれていった。 鈴ヶ瀧のある加納村から、赤津村三軒屋へ至る道は、後に瀬戸と交流する道路となり、加納川の水を利用した水車小屋で陶土を作り、瀬戸へ供給する交通の要道となり、この道を通る人は鈴ヶ瀧で休憩し鈴ヶ瀧不動尊でお参りするのが常となった。現在も猿投神社や鈴ヶ瀧不動尊に厄除け参拝する人々は多い。 釜石は鈴ヶ瀧下流20㍍に今も現在する。鈴ヶ瀧不動尊は瀧の洞から、現在の場所に移されたが、その年代は定かではない。 猿投神社創建は西暦313年の創建で、主祭神に大碓命、両側に景行天皇、垂仁天皇が祀られており、猿投山周遊道の入口である。」解説から鈴ヶ滝不動明王社の創建は文和4年(1554)、当初の鎮座地とされる鈴ヶ洞は特定できなかったが、解説からすると、さほど離れてはいないだろう。下流の村に祀られた弁財天についても所在は分からなかった。いずれにせよ、猿投山周辺では蛇の姿を見かけることが多かった、山中には大碓命が猿投山で蛇にかまれたさいに血を洗い流したとされる血洗いの瀧などがあり、蛇やら龍は縁がありそうです。不動明王社から200㍍奥に進むと鈴ヶ滝湖がありますが、そこに至る道もそんな道です。猿投山はせめてトレッキングシューズで足固めして行くべきところで、今は蛇よりも世代が代った熊や猪の方が怖い存在かもしれない。役に立たないかもしれないが念のため熊鈴も必要な所です。鈴ヶ滝不動明王社創建 / 天平元年(729) 祭神 / 不動明王尊(三体)、御嶽山大神、白龍霊神、猿投大神、天戸御中大神、 白蛇霊神、観音菩薩、弘法大師、道祖神、南無大師遍照金剛境内社 / …祭礼 / …所在地 / 豊田市加納町馬道通21-21参拝日 / 2024/09/06亀首 熊野神社から車移動 / 亀首熊野神社から猿投神社方向に北上し加納川に架かる加納橋の手前を左折、猿投温泉に向かいます。 移動時間10分程。関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社・開豊神社・八幡社・大鳥居 白山神社・亀首 熊野神社猿投山周辺の巡拝した神社仏閣のマップはこちら
2024.10.11
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大鳥居の白山神社から5分程北上し、青木橋西交差点で左折すると、正面に森が見えてきます。所在地は亀首町下向イ田、今回の目的地「熊野神社」の鎮座地です。参拝者駐車場は見当たらず、周辺の生活道路も幅員が狭く駐車余地はありません。自分は亀首町森腰集会所に停め、森の南側の社頭に向かいました。熊野神社は猿投山南麓の亀首集落の籠川右岸丘陵地の亀甲山に鎮座します。亀首の由来は社地南を流れる本徳川と籠川が合流する、籠川盆地の形が亀の首に似ているから付けられたという事です。中世頃、高橋庄と呼ばれており、明治頃の大字はその頃の一村で、明治22年廣瀬村大字亀首、明治39年猿投村大字亀首・・・と編入の結果、現在の豊田市亀首町となりました。明治頃は丘陵地に雑木林の広がる一帯でしたが、現在は大手企業の工場が建てられ、物流トラックが行き交うようになりました。熊野神社社頭。一旦社頭を通り過ぎて、南側に鳥居がないか先に進んで見ました。その先の角に霊神碑と龍王大権現が祀られており、ここから南の本徳川には鳥居は見られなかった。社頭に戻るため振り返ると森の中に複数の社が祀られていました。蜘蛛の巣の先に4社祀られており、右手の山神は分かりますが、他の3社の社名は分からなかった。もう少し踏み込むべきだったか…村社 熊野神社社頭全景。石の神明鳥居の先から石段が続き境内と結んでいます。社頭の狛犬。寄進年は見忘れましたが、後方の石灯籠は昭和13年に寄進されたものでした。鳥居から一直線に続く石段。石段の先の社殿。左側に陽に照らされた石像があるようです。熊野神社社殿全景。石段の左に手水舎があり、手前に久しく見ることは無くなった、二之宮尊徳の像があります。少し前までは金次郎の像が校庭に立てられていたいたものですが、最近はめっきり姿を見かけなくなった。今の時代に子どもが仕事をしながら勉強する姿は、そぐわないのだろう、今は本の代わりに手に持つのはスマホなんだろうなぁ。熊野神社の龍口。社殿右からの眺め。社殿全体はコンクリート造りの尾張造り。立て替えからそれ程経っていないように見受けられます。拝殿脇の由緒。「熊野神社亀首村磯谷氏の祖である佐竹権之進維高が、熊野三所権現へ七度参拝して七度目の満願で霊亀を得て、現在の丸山に創建しました。 維高は姓を磯谷と改め、代々にわたり、熊野神社の神官を務めました。熊野神社の鎮座する地は丸山といわれ、又、山の南側に亀の首に似た松が聳えていたことから亀甲山と呼ばれる様になりました。 亀首の地名は本徳川と籠川が合流する形 、松、霊亀に由緒があると云われています。(出典 豊田市教育委員会発行「猿投村に関する口碑伝説集」) なお、神社の敷地面積は20118㎡であり、そのうち境内地は3908㎡となっています。猿投地域会議 」愛知県神社庁の熊野神社記載内容は祭神の記載に留まり、創建など記されておらず、愛知縣神社名鑑を買えという姿勢の様で、もう少し他県の情報と比較し創建程度は掲載してもらいたいと感じる。大正15年(1926)に出版された【西加茂郡誌】には以下のように記されています。「祭神 速玉之男命、他2柱創建 天平元年(729)9月 祭日 10月18日所在地 亀首 氏子 102戸」【猿投町誌(1968)】の記載内容は西加茂郡誌と同様で創建年は「不詳」となっていた。熊野神社拝殿額、神紋は左三つ巴の様です。拝殿内から幣殿、本殿方向の眺めです。右翼殿から本殿の眺め、5本の鰹木と外削ぎの置き千木が載る。境内に左の社務所後方には東郷元帥と乃木大将の像と大東亜戦争殉国碑が建てられています。(写真は乃木大将像)そこから更に亀甲山の頂に向け石段が伸び、その先に境内社の姿があります。境内社全景。正面に板宮造りの4社と右に石の社、左に少し離れて1社が祀られています。左の社は御嶽神社。左から天道神社、秋葉神社、金比羅大神と続きますが、4社目と石の社の社名は読むことができませんでした。社務所から見る社殿の全景。地史を見ているなかで、この辺りの神社は「古くから続く神社が多いが古来の面影を残すものは少ない」とありました。熊野神社も天平元年(729)創建とされる長い歴史を持つ神社です。近代工法の綺麗な社から昔の姿は描けませんが、こうした流れは今時の金次郎像と同じなんだろう。創建以来、亀甲山の頂から、氏子が住む亀首集落の五穀豊穣と無病息災を見守ってきたのが熊野神社です。社頭の先の稲の出来具合はどうなんだろう。亀首 熊野神社創建 / 天平元年(729) 祭神 / 速玉之男命、伊弉冉命、事解男命境内社 / 御嶽神社、天道神社、秋葉神社、金比羅大神他祭礼 / 10月18日所在地 / 豊田市亀首町下向イ田参拝日 / 2024/09/06白山神社から車移動 / 豊田市消防団伊保詰所から北上、青木橋西交差点で左折、直進移動時間5分程。関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社・開豊神社・八幡社・大鳥居 白山神社
2024.10.10
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先日横断歩道を通行中、人を縫うように駆け抜けていった電動ママチャリに引っ掛けられた。すぐに呼びかけたが、止まる事もなく無視して走り去っていった。自転車で人と接触した場合、それは事故です。立ち去れば当て逃げです。チャリは車両であり、人が歩行している横断歩道を乗って通行する、歩行者の通行を阻害する運転、人と接触することが違反であり事故である意識は全くないようだ。交差点でも一旦停止せず曲がってくる、歩道を人波を縫うようにスマホ片手に右に左に無秩序に走り抜ける。便利なはずの自転車や電動キックボードも交通法規は全く順守されていない。こうしたことは日常茶飯事だ。法令順守意識が低くなり、人身事故が増えれば厳罰化、軽車両の運転免許制も視野に入る。自動車運転も厳罰化されるのも当然だろう。これも我々利用者が招いた当然の結果だろう。自分自身、チャリにヘルメット着用の努力義務化されて以降乗らなくなった。理由は簡潔、ヘルメットを被りたくないそれだけのことです。思い起こせば、原付のヘルメット着用義務化以降、原付に乗らなくなったのと同じ行動をとっている。来月11月から自転車の罰則が強化されます。当然キャンペーン期間なので集中取り締まりも予想されます。子供を乗せてスマホ片手に駆け抜ける方、歩道を並んで走るその習慣は改める時が来ています。自分も含めて、一ヶ月の間に初心に戻った行動をとるように習慣化した方がいいようだ。チャリとて人にぶつけたら、立ち止まって怪我の有無を確認するのは当前の行為です。今年は、車をぶつけられた事もあり、先方の口実(見ていなかった)や被害者の怪我の状況を気遣う初動の無さから、車も自転車感覚なんだなと痛感した。加害者側にはなりたくないものだ。
2024.10.09
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豊田市伊保町大鳥居「白山神社」。八幡神社から東へ4分程の伊保町下川原交差点北角、豊田市消防団伊保詰所の西隣に鎮座しています。車でとても近い距離にありますが、県道沿いや鎮座地周辺に駐車余地はなく、結局最寄りのコンビニに引き返し、買い物を済ませ駐車の了解を得て歩いて向かうことにしました。明治24年当時の地図で見ると、飯田街道を保見から下伊保集落を過ぎ、籠川を渡る手前から猿投神社に通じる道筋の入口に白山神社が鎮座します。明治24年と現在の地図上(右)ではここに神社の記は見られません。社頭から伊保町下川原交差点のある南側の眺め。街道から白山神社社頭は自動車展示場の奥に参道がありますが、分かりにくいかもしれません。伊保詰所の左から境内につながる裏参道があるのでそちらを目指した方が分かりやすいです。街道からかなり奥まった位置に白山神社の鳥居があります。地名の伊保町大鳥居の由来は定かではありませんが、白山神社のこの鳥居から付いたものか、街道から猿投神社に通じる入口でもあり、過去に大鳥居でもあったのかもしれませんね。鳥居から先の境内。大きな杉が聳え立つ境内には、左手に社務所があり、高木の樹々に包まれた杜の中に白山神社の覆屋あります。白山神社由緒。「祭神 白縫姫之命創祀 仁寿元年十月 (西暦851年)由緒 当社は一般には安産の神として尊神されてきました。町内では別名「大鳥居神社」、「大鳥居さん」の名で知られ、婦人の方々の信仰を集めた神。 これは古より村人たちが大鳥居の神に妊婦と子どもの安全を祈願してきた風俗に由来すると考えられます。例祭 四月第一日曜日 昭和58年」猿投神社が現在地に創建されたのが仲哀天皇元年(192)とされますが、小さな白山神社ですが見た目から測り知れない歴史を持っているようです。白山神社といえば祭神は菊理媛尊や伊邪那美命となりますが、由緒にある白縫姫之命は馴染みがなく、個人的に源為朝の妻のイメージしかない。西加茂郡誌から白山神社を調べて見たが、記載はなく詳細は不明です。境内右側から見る白山神社の全景。中央の根元から二つに分かれて聳える杉は、注連縄こそ巻かれていないものの、御神木の雰囲気が漂います。こんもりと盛られた頂の上に覆屋があり、その右側に結界が張られた石の社が祀られています。このあたりは、6世紀中頃から後期に造られた古墳が複数確認されている土地柄なので、この雰囲気は古墳を想像してしまう。結界が張られた石の社。由緒にはこの社について記されておらず、新たに近隣から移されてきたものでしょうか、基壇だけが新しい。社をひと回りしましたが、詳細は分かりませんでした。覆屋へ続く参道の全景。左手に手水鉢があり、石段の手前には昭和48年に寄進された一対の常夜灯が建てられています。大きな屋根の覆屋の下、石の基壇の上に白山神社の社が祀られています。社は外削ぎの載せ千木に4本の鰹木が載るもので、社名札は架けられていません。覆屋は昭和48年に寄進されたものなので、社もその際に建て替えられたかも知れません。昔は出産そのものが穢れとされ、今のように医療がなかった時代、出産は妊婦にとっては命がけでした、幸運に恵まれ、この世に生まれた子も無事に成長する事は少なかったでしょう。仁寿元年(851)の創祀以来、この集落の女性の安産と子の成長を祈願する拠りどころを白山神社が担ってきました。街道から少し高くなった境内から南の眺め。境内は遊具もあり、子供たちの遊び場になっていました。白山神社創建 / 仁寿元年(851) 祭神 / 白縫姫之命境内社 / 不明社1社所在地 / 豊田市伊保町大鳥居参拝日 / 2024/09/06八幡神社から車移動 / 伊保町的場交差点を右折、県道58号線伊保町下川原交差点を左折、80㍍直進した左側。移動時間4分程。関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社・開豊神社・八幡社
2024.10.07
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豊田市伊保町宮本鎮座「八幡社」前回掲載した豊開神社から北進し、県道58号線(飯田街道)を右折し東に進み伊保町的場交差点で右折、1本目の道を右折直進すると今回の八幡社に至ります。上は明治24年(1891)当時と現在の比較地図。神社は街道沿いに出来た下伊保集落の南側に位置し、南に伊保川が流れ、すぐ東に籠川が合流する田園地帯に鎮座します。古くから要衝として開け、天正19年(1591)に原長頼により検地が行われ、延宝8年(1680)、当時の殿貝津陣屋の支配に置かれていた。八幡社の創建も古い様で当時の地図に既に描かれています。社地全景。細い道を西に進むと伊保町区民会館に至り、その脇に南北に長い社地を持つ「八幡神社」の社頭に出ます。右に昭和12年寄進の「村社 八幡神社」の社号標が立ち、その先に社殿が広がります。社頭全景。西から南にかけて田んぼが広がり、周囲に高い建物もなく開放感のある社地。昭和62年健之の石造明神鳥居と八幡神社の額。鳥居から先の境内。左に手水舎、中央の拝殿・本殿、右手の境内社が主な建物。手水舎から田んぼの先のお助け地蔵や開豊神社が鎮座する浄水町方向の眺め。周囲の田んぼは概ね稲の収穫を終えるころでした。八幡神社の龍口。手水舎右手の社記。「社記社名 八幡神社所在地 豊田市伊保町宮本20番地祭神 誉田別命(応神天皇)由緒 創設は応安2年(1369)8月15日、京都府石清水八幡宮の分社として勧請 旧下伊保の氏神として奉斎し村民の尊崇極めて厚く今日に至っている 明治5年10月村社に列せられる 昭和14年10月18日神饌幣帛料供進神社に指定される例大祭 10月10日境内末社 【神明社】 祭神 天照皇大御神、【津島社】 祭神 素戔嗚尊、【秋葉社】 祭神 加具土命、 【天神社】 祭神 天満天神、【金毘羅社】 祭神 大物主命、【風神社】 祭神 不詳、 【御嶽神社】 祭神 伊佐波登美命境内 1991㎡氏子 134戸崇敬者 76戸昭和62年5月吉日」西加茂郡誌に目を通しましたが、内容は社記に及ばぬものでした。舞殿。入母屋妻入りで四方吹き抜けのもので、昭和62年の寄進物が多いのでこの時期に改修されたのだろうか、全体に社殿は綺麗に保たれていました。舞殿右から社殿全景の眺め。舞殿から拝殿方向の眺め。拝殿全景。昭和62年寄進の狛犬。拝殿額。拝殿内。拝殿左から流造の本殿。外削ぎの置き千木で鰹木は3本、鬼板の紋は左三つ巴の紋が入る。境内右の境内社。社記によれば神明社、津島社、秋葉社、天神社、金毘羅社、風神社、御嶽神社があるとあったが、境内で他の社が祀られている様子もなく、この社に全て合祀されていると思われます。社前の狛犬。狛犬、常夜灯共に寄進年を見忘れましたが、昭和初期に寄進されたもののようです。蟇股の龍。この社、彫には相当拘って作られています。向拝柱木鼻の獏。海老虹梁の波と肘木の牡丹の彫。脇障子にも手の込んだ彫が施されていますが、この部分は後付けか?小さな社ですが、よく見れば随所に拘りが詰め込まれています。拝殿から社頭方向の眺め、綺麗に手入れされた居心地のいい神社です。車を停めさせて頂いた伊保町区民会館から南の眺め。あの頂からかつては多くの若い世代が飛び立っていった、その空にアキアカネが飛び交っていた。八幡神社創建 / 応安2年(1369) 祭神 / 誉田別命(応神天皇)境内社 / 神明社、津島社、秋葉社、天神社、金毘羅社、風神社、御嶽神社所在地 / 豊田市伊保町宮本20参拝日 / 2024/09/06開豊神社から車移動 / 開豊神社から浄水町原山東交差点左折・直進、貝津町蓑輪交差点を右折し県道58号線へ、500㍍直進し右折、伊保町区民会館方向へ。移動時間7分程。関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社・開豊神社
2024.10.06
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豊田市浄水町原山『開豊神社・神風特別攻撃隊 草薙隊之碑・十三塚』長いタイトルで恐縮です。この神社は先に掲載した日守神社から、南に続く上り坂を上り切った右側の浄水町区民会館の東隣に鎮座する神社。すぐ北側には愛知少年院があり、昭和37年のお助け地蔵復興を支援した。神社は南を向いて鎮座し、石の明神鳥居と拝殿・覆屋が一続きとなったもので、境内右側には開拓碑や神風特別攻撃隊 草薙隊之碑と十三塚が立てられています。近年境内整備・社殿改修されたものと見え、境内・社殿は至って綺麗な状態です。明治頃の鎮座地は伊保川右岸の丘陵地で樹林や荒れ地ばかりの一帯で、民家や神社の記は見られません。この地が開かれたのは昭和に入ってからのこと、そのきっかけになったのが、旧海軍名古屋航空隊伊保原飛行場建設により変貌がはじまり、終戦後飛行場用地は払下げ、戦後の食糧難を補うため開墾し農地に開拓されて来た町で、神社も飛行場の跡地に鎮座します。神社の南側に東西に真っすぐに伸びる道路が滑走路の名残を留め、境内には巨大な砲弾や錨が置かれ、訪れる者に戦争の愚かさを伝えています。社地に兵器が安置されているため、神社は戦争と関りがあるように見えますがそうではないようです。愛知県神社庁、西加茂郡誌、猿投町史など目を通すが社名はなく、開豊神社の創建時期、祭神について定かにならなかった。戦争というより、「開豊」の名からこの地の開墾事業に伴い祀られた神社かと思われます。社頭正面全景。昭和44年寄進の鳥居に架かる額は「開豊神社」。境内から見る社殿の全景。参道左に手水鉢と一対の白い狛犬があり、入母屋妻入りの拝殿と切妻平入の覆屋が連なっています。手水鉢と龍口。拝殿前の狛犬は昭和44年に寄進されたもの。平成29年(2017)の拝殿額。戦後の昭和21年(1946)、この地に入植した人々により、伊勢神宮から分霊し伊保原神社を造営した事にはじまり、昭和44年(1949)に「開豊神社」に改称した神社のようです。昭和44年の寄進物が多いのは改称時に合わせ寄進されたからでしょう。額の平成29年は現社殿の改修年度かもしれない。本殿は神明造で鰹木が6本、内削ぎ千木が付くもの。祭神は天照大神と思われます。かつて特攻機が飛び立っていった滑走路のあった社頭の眺め。社頭右手の開拓碑。碑文は以下。「沿革 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和21年7月多くの人達によって開拓事業が始められた。 県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。 この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。 屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し26年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。 30年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先、伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお、33年和田ヶ池、36年愛知用水の完成により水田17ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。 漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積170ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 昭和46年12月吉日建立之 伊保原開拓農業協同組合」神風特別攻撃隊 草薙隊之碑。碑の前には日進日露戦争で活躍した巡洋艦三景の32㌢砲弾が置かれている。砲弾の解説。碑の傍らに名古屋海軍航空隊を語る碑が立っています。「此の地は昭和17年4月1日開隊、昭和20年9月2日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 昭和20年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 4月5日・12日の両日各20機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出、菊水一号二号四号作戦に参加 同月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還28機、戦死56 彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり 志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也 昭和47年4月吉日 豊田海友会」草薙隊之碑後方に置かれている錨と消火栓。「特攻花 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。 みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。 今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 慰霊50年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。 和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 平成七年四月 草薙隊之碑保存会」因みにオオキンケイ菊とはこの花です。堤防などで良く見られる花で、群落を作り綺麗いなものです、人の都合から法面緑化で植えられらながら、繁殖力が強いから特定外来生物だそうです、都合のいい話です。右の五省の碑と十三塚の石碑。「十三塚のいわれ 室町時代末期のものと推定される径4㍍程と1㍍程の大小13個の塚より ある先年其の内の一つから永正の頃と思われる経筒を発掘した(郡誌)大正8年に銅経筒と仏光背一つが出土したという。」発見された経筒はその後行方不明となったようですが、「猿投町史」か「豊田市史」に目を通していた際に白黒写真で紹介されていました。開豊神社創建 / 昭和21年(1946) 祭神 / 天照大神(推定)境内社 / ・・・所在地 / 豊田市浄水町原山参拝日 / 2024/09/06日守神社から車移動 / 日守神社から車で南進・1.2分関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社
2024.10.05
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豊田市貝津町西向畑「日守神社」嘗て伊保郷と呼ばれた地域で伊保川左岸の平地は豊かな稲作地帯で、右岸は丘陵地が迫る地域。江戸時代は三河国加茂郡殿貝津村の一部で明治に入り伊保村の一部となり、その後も猿投町に編入を繰り返し、現在の豊田市貝津町となった。地域には室町時代と思われる十三塚があり、経筒や光背が出土されるなど古くからの土地柄です。鎮座地は右岸の丘陵地の北麓の森の中にあり、近くのお助け地蔵から歩いても1.2分で社頭に辿り着けます。日守神社西参道入口。後から分かった事ですが、社殿東に石の明神鳥居を構える正参道があります。しかし、現在はあまり利用されないのか、鳥居から先の参道は雑草が生い茂り、社頭まで行く気にはなれなかった。西参道入口右側には「日守神社」社標があり、舗装された参道の左側に社殿が建てられています。駐車場はないので最初に書いておきます。平成5年健之の「日守神社」社標と、真新しい舗装された参道。社殿全景。周囲を白壁で囲い、コンクリート造の本殿と右に拝殿が主な建物になります。本殿域を囲む白壁は神門と繋がっています。本殿は流造。この辺りにくると、右に正参道が見えてくるのでそちらに向かいます。杉に包まれた正参道から拝殿、神門方向の眺め。参道の先の鳥居、その先は蛇嫌いな自分にとって好んで立ち入りたくない雰囲気。鳥居前から境内を眺める。この鳥居が寄進されたのは平成5年の事、草むらの先にはひょっとして一ノ鳥居があるのかもしれません。鳥居扁額。では、改めて社殿に向かいます。切妻瓦葺の建物で拝殿と社務所が一体となったもので、斬新な造りかもしれない。拝殿から神門の眺め。神門前の狛犬の寄進年は見忘れました。当神社について、愛知県神社庁、西加茂郡誌(大正15)、猿投町史など目を通すが、日守神社としては情報が得られず、創建時期、祭神についても定かにならなかった。今昔マップを遡ると昭和52年には鳥居が見られ、昭和43年には鳥居もなく建物らしき印が付き、昭和34年に遡ると何も表記されていなかった。また、寄進物の寄進年も大正時代のものが見られず、創建時期は昭和に入ってからなのかもしれません。しかし、地図に現れないだけで、何らかの形でそれ以前から祭祀されていた可能性もあります。本殿には木札もない、祭神・・・分かりません。社名の日守を夷守(ヒナモリ)と読み替え妄想を膨らませると、祭神は神功皇后(応神天皇の母)なのかな?だとすると安産・子育てのご利益が得られるのか?本殿の全景。本殿は流造で棟に鰹木・千木はなく、男神・女神の推測すらできません。境内の手水鉢。上は拝殿左側のもので、下は本殿右に置かれているもの。ここも寄進年を見忘れていました。上はともかく、下の手水鉢は外周を見ておくべきだった。拝殿から正参道の鳥居の眺め。帰り際、車で伊保川の下流から社地東側をひと回りしましたが、鳥居の先がどこに通じているのか見つけられなかった。日守神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・所在地 / 豊田市貝津町西向畑参拝日 / 2024/09/06お助け地蔵から徒歩移動 / お助け地蔵から徒歩1.2分関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵
2024.10.04
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観光列車「つどい」で行く「三重の地酒 ほろよい列車」の続きとなる今回は、当日の様子を掲載します。当日は曇天。折り畳み傘と缶ビール・つまみをリュックに入れ近鉄名古屋駅に集合。10:06発のつどいを待つ。近鉄のイメージカラーに近い車体色のメタリックレッドの「ひのとり」ホームに入ってくると、写真に収める人の多い車両。ポップなカラーリングの「つどい」がホームに入ってくる。なにやら風変わりな車両が入ってきて、車内を覗き込む人も多い。いろいろなイベントで使われる「つどい」、自分自身初めての乗車なので興味は尽きない。今回は三重の日本酒を堪能する「ほろ酔い列車」として鳥羽までの約2時間、三重県産食材を詰め込んだお弁当をつまみながら、県内七蔵のお酒を堪能し蔵元の説明が聞けるもの。当日の七蔵のお酒。どれも三重のイベントでは良く目にしますが、後藤酒造と早川酒造部のお酒とは縁がなかったので楽しみにしていました。各席に用意されたのが、地元駄菓子ベビースターラーメンと地元の食材を使用した「あて」、お猪口と樹脂カップが用意され、みえの水まで用意されていました。事前に飲み放題ではないとあったので、色々と持ってきましたが、結論は全く不要。酒は何度もお代わりができ、二時間では十分すぎる「あて」もあり、とても満足できお値打ちなイベントでした。各蔵、持ち時間の中で酒蔵のPRと酒造りの拘り、そして代表銘柄の試飲が行われます。どの蔵元も甲乙付け難いお酒ばかりでした。上。最初はガラスのお猪口で後藤酒造の颯で乾杯。我家の好みに合っていたお酒。下。伊藤酒造の鈿女。天鈿女が描かれたラベルが印象に残る。上。清水清三郎商店「柞」と大田酒造の「半蔵」これはもう知名度が高く、比較的容易に手に入るようなり、有難味は薄れたが味わいは流石。上。天一の銘柄で知られる早川酒造部の「magic hour」。田光の銘柄で知られる早川酒造があり、同じ蔵元と誤解していましたが、どちらも別物で血縁関係にあるようです。其々味わいに特徴を持つお酒を生み出しています。下。丸彦酒造の「三重の寒梅」。四日市のお酒は美味しいと教えてくれた酒蔵。飲む機会もあり、どの銘柄でも安心して飲めるお酒。上。河武醸造。代表銘柄は鉾杉で名は以前から知っていたが、「式 mellow」初めて飲むお酒。ラベルの色違いで4種類あり、今回試飲できたのが青ラベルのmellow。これも今回試飲した中で、我家の好みに合っていたお酒。七蔵ともに社内で即売すれば買っていきたいお酒ばかり、残念ながら即売はない。捜すというのも楽しみですが、次回その点をなんとかしてもらえると有難いなぁ。2時間30分のほろ酔い列車も海が見えてくれば終着駅の鳥羽も近い。終わりが見えてくると、各蔵元の在庫一掃と云わんばかりに注ぎに来てくれ、カップはフル稼働。一杯だけかと想定していただけに、嬉しい誤算、これでお楽しみ抽選会で当たれば最高なんだが、くじ運のない我が家は想定通り二人とも外れたが、それでもお得感満載のほろ酔い列車でした。予定時刻通りに12:37に鳥羽駅到着。当所は駅近くの鳥羽さざえストリートで海産物を食べて帰る予定でしたが、宇治山田駅にとんぼ返りし、伊勢神宮外宮近くのお店に寄る事となった。鳥羽の振興と趣旨が外れるが三重県の振興には逸れてはいないはず。13:20宇治山田駅到着。酔い覚ましに最寄りの神社を経由しながら、外宮を参拝し目的地に向かう。上。駅ターミナルのすぐ前の赤い鳥居の伊勢豊受稲荷神社へ参拝。下。伊勢豊受稲荷神社社頭右の明倫商店街、アーケドが付く昭和レトロな趣が残る商店街で、右手奥に続いています。シャッターを下ろした店舗が多く寂しい限りだが、今の若い世代なら再び活気のある通りになるやもしれない。上。伊勢豊受稲荷神社から西に10分程の豊川茜神社、ここから勾玉池沿いに火除橋方向の伊勢神宮外宮へ。伊勢神宮外宮、豊受大神宮。主祭神の豊受大御神は、内宮の天照大御神の食事を司る神で、衣食住、産業の守り神として崇敬されており、今回は豊受大神宮を参拝し、外宮参道を伊勢市駅方向に向かう。伊勢角屋麦酒 外宮前店。今回、ここのビールと隣の若松屋 外宮前店の伊勢ひりょうずが食べたいとの事で宇治山田に戻って来た。写真は4種飲み比べセット(@1200)。ベルギービールに通じるフルーティーで女性好みのビール、飲みたかったかみさんにして「少しやりすぎ」という感想。どっしりとしたビールが好きな自分にはあまり合わなかった。所在地 / 伊勢市本町13番6号若松屋 外宮前店。ひりょうずと練り物にチーズが入った揚げ物、いずれも揚げたてで、つまみには最高ですね。豚捨 外宮前店。テイクアウト専用受付があり、そちらで豚捨コロッケ(@120)を購入。こちらも出来立てで、先ほどまで散々飲み食いしていながら、こうしたものは別腹のようで、どうしても吸い寄せられる。どちらも素朴の味でビールともよく合う。所在地 / 伊勢市岩渕1-1伊勢角屋麦酒から徒歩5分程歩けば伊勢市駅。16時過ぎの電車に乗り名古屋に戻る。今日一日、電車に揺られ、美味しいお酒や食事を味わい、それなりにウオーキングも出来て満足のイベントでした。後は電車に揺られひと眠りして帰ろう、乗り越す事はない。初めてのつどい乗車の感想。走行中あまり動き回れず良く見ていないが、景色を楽しむため窓際に設けられたテーブル席、椅子も良かったが、車窓の景色が・・・・長良川鉄道の「ながら」と比較すると内装の造りは若干負けてるかな。2024/09/28、伊勢市徘徊ルート関連記事 / 観光列車「つどい」で行く「三重の地酒 ほろよい列車」
2024.10.01
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